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ノート:シュレーディンガーの猫

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これはこのページの過去の版です。Wiki ryon (会話 | 投稿記録) による 2007年6月24日 (日) 10:10個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (発言趣旨: 異議なし)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

過去ログ

過去ログに議論の経緯を明確にするための重大な事実関係が欠落しているので補足します。利用者‐会話:Wiki_ryon#シュレーディンガーの猫についての2007年2月16日 (金) 07:45 (UTC)にて、「今回の修正で、物理的に間違っている記述はなくなりました」と発言されています。(何故、このノートページではなく、利用者ページに投稿したのかは疑問です。)そのことから、Kakannkann氏が「私の独自の主張」と認識していたことが誤読の産物であることが裏付けられている(書き方が悪いのか読み方が悪いのかは問わない)と考えられます。 --以上の署名のないコメントは、Wikiryon会話投稿記録)さんが 2007年5月21日 (月) 11:46(UTC) に投稿したものです(Kwansaiによる付記)。[返信]

利用者ページを見ましたが、引用として不十分ではないかと思います。Kakannkann氏はその直後に「もろもろの問題点が残っている」と表明されておりますので、上の補足に書かれた結論はちょっと、強引かなという気がします。
わたしはkakannkann氏ではないので以下は推測も含まれるのですが、Kakannkann氏が初めに指摘した点[1]は『シュレディンガーの猫とは何であるか』という認識が間違っているのではないかという点であったと思います。Kakannkann氏はそれについて「束過程や観測問題ではなく、重ねあわせ状態の奇妙さであり」と書かれています。このことは、本文の外部リンクにあるシュレディンガーの元論文(英訳版) 5章の最後のパラグラフにあります、翻訳して引用します
これ(シュレ猫実験)はまさに原子においてのみ限定されていた不確定さをマクロな状態の(つまり目に見える物の)不確定さに写し取ったものである。こうすることにより、現実と照らし合わせて「(重ね合わせという)ぼやけた状態のモデル」が妥当だと単純に受け入れることをふせぐことができる。
これに対してwikiryon氏は「重ね合わせがなんであるかという問題は解決済みだからすでに奇妙ではなく、観測問題の方が大事だ」というような主張をしますが、Kakannkann氏は重ね合わせが解決済みであること、観測問題が未解決であることは同意しながら、やはり重ね合わせ問題に主眼に置きましょうという主張は変えておられません(*1)つまり対立点が存在しているのですがそれは解消されないままとなっています。さて、この編集時[2]あたりから論点が移ったことにとまどわれており、また、「重ね合わせ状態」や「観測」に対するwikiryon様の理解に疑問を呈しておられます。この時点から、まずは「物理的にまずいところから直そう」という方針に変わられたのではないかと推測されます。しかしながら、その過程において、お互いの誤解やにより疲れられたためか、またはWas a bee様や私が別のテーマで議論に加わったのでそれに任せるとおもわれたのか、結局「次のステップ」に向かわれなかったようです。
(*1)おそらくは、百科辞典的にもともとの問題点をまず書くべきであるという主張だと思われます。また、執筆者であるwikiryon様が「シュレ猫」の問題点をうまく把握していないことを問題視されているようです。--Kwansai 2007年5月28日 (月) 10:13 (UTC)[返信]
恣意的な結論の誘導はご遠慮願いたい。Kakannkann氏が「執筆者であるwikiryon様が『シュレ猫』の問題点をうまく把握していない」と認識していることは、過去ログを読めば自明です。そして、その認識が正しいかどうかも過去ログで議論されていることであり、根拠もなく一方の主張が正しいという前提で恣意的なまとめをするのは中立的ではありません。過去ログに書かれていることなら、恣意的なまとめをしなくても、過去ログを読めば済むことです。
私が追記したのは、このノートに書かれるべき訂正事項なのに、何故か、個人の会話ページに投稿されているので、その旨を示しただけです。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月8日 (金) 12:34 (UTC)[返信]
まず、僕とWiki_ryonさんの議論が決定的に食い違っていたのは、僕が観測といったことが、「波動関数が実験装置によって収束し、収束した固有状態の確率を得ること」またはそれに付随するもののことを指しているのに対して、Wiki_ryonさんは極めてニュートン的な意味での観測(つまり、そのものを観測する)という点であったと認識しています。そして、その意味でWiki_ryonさんが、物理的な観測ということを理解して、そのことを踏まえてシュレ猫本文の修正がなされたと僕は思っていました。実際、言葉上は問題がなかったからです。
Wiki_ryonさんのノートに投稿したのは、議論が交錯するとのことで、Wiki_ryonさんのノートで議論するよう誘導され、そこで、ずっと議論を続けていたから、そこで投稿をしたのです。--:Kakannkann 2007年6月20日 (水) 15:18 (UTC)[返信]


私は量子力学のおける「観測」を「ニュートン的な意味での観測」であると定義したことは一度もありません。むしろ、量子力学のおける「観測」が何であるのか明確に定義されているのかと疑問をぶつけて、仮説はあっても結論は出ていないのではないかと指摘しているくらいですから。
私が「議論が交錯するとのことで、Wiki_ryonさんのノートで議論するよう誘導」したことはありません。私個人の資質の主たる論点として言及したいなら個人のノートに書くべきだと言ったのであって、本文の内容に関する議論まで個人のノートで議論しろと言ったことは一度たりともありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月21日 (木) 10:26 (UTC)[返信]

序文について

[3] この編集で序文に加筆されました、「尚、良く誤解されることだが、この思考実験は、人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことを証明するものではない。」という記述について、提案があります

この記述の後半部分は「意識を物理的に説明する理論は現在の所無い」という、いわゆる常識に照らし合わせれば理解できるのですが、そうすると、前半部部の「良く誤解されることだが」がなぜ誤解されるのかがわかりません(常識に反する)。一方で、この文章は「意識を物理的に説明する理論は現在の所無い」という前提無しに読むと「意識が量子力学的作用を及ぼすこと」が完全に否定されたような誤解を与えます。(Was a beeさまとWikiryonさまの議論はここからしょうじているのではないかと推察します)

以上のような誤解を回避するためにうえに挙げました文章を

「『○○』といった、あたかもこの思考実験をして、意識が量子力学的作用を及ぼすことを証明するものであるという誤解もあるが、意識を物理的に説明する理論は現在の所無く、意識が量子力学的作用を及ぼすかどうかは、哲学的な研究も含めて現在多用な議論がある。(参照文献は『デイヴィッド・チャーマーズ著, 林 一訳 「意識する心」2001 ISBN 4-8269-0106-2』の407-435頁。「量子力学の解釈」、等その他このノートで挙げられている参考文献)」

と変えることを提案します。そのときに、Wikiryon様には冒頭部分の「誤解のある例」の出典を挙げて頂きたいのですが、よろしいでしょうか。宜しくお願いします。--Kwansai 2007年2月16日 (金) 04:32 (UTC)[返信]

冒頭の記述は一般人の誤解を指しています。百科事典という前提においては、読者は専門家に限定しない(むしろ、「誰でも容易に概要を理解できるよう簡潔にまとめたもの」は素人を読者と想定している)ため、一般人の誤解について誤りを訂正することは、その前提に合致した記述であると思います。そうした一般人の誤解で良ければ、検索すればいくらでも出て来るものであり(既にこのノート内でも挙げられているようです)、出典を示す必要性に乏しいでしょう。(専門家の見解について言及するなら、該当する専門家の見解を出典として示す必要がある。また、多数派か少数派か等の数の比較をするならば、統計データを出す必要がある。しかし、本件はどちらにも該当しない。)どうしても気になるなら、「良く誤解されることだが」を「誤解する人がいるが」に修正すれば良いでしょう。
証拠がないことと、科学的に否定されることは全く別です。よって、「意識が量子力学的作用を及ぼすこと」が完全に否定されると読むのは完全な誤読です。そして、それは科学等の項目で科学全般の問題として包括的に説明すべきことであり、本項目で説明するのは完全な蛇足でしょう。(ちなみに、Was a bee氏は修正前の記述にしか言及しておらず、修正された後の記述には目を通していないようです。)
科学的方法では「意識が量子力学的作用を及ぼす」とする説が間違いであるとは断言出来ない一方、量子力学にその説を導入しなければならない合理的理由があるわけでもありません。今回の提案では、「意識が量子力学的作用を及ぼす」とする説が、量子力学的観点からの要請であるかのような誤解を与えます。それでは「良く誤解されることだが〜」が打ち消されてキャンセルされてしまいます。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月16日 (金) 11:14 (UTC)[返信]
肯定的誤解も否定的誤解も生じないように修正してみました。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月16日 (金) 11:40 (UTC)[返信]
修正の件、確認しました。私としては、一般人の誤解に対して、何か例があった方がよりよいと思います。(○○というのは誤解というほうが、もし誤解をしている一般の方がいたときにより気づきやすいからです。)このページのなかにも挙げられているという事ですので、よろしければ、具体的な指摘をしていただけないでしょうか。または「意識を物理的に説明する理論は現在の所無く、」というあらわな記述をするというのもご検討頂けないでしょうか。--Kwansai 2007年2月16日 (金) 13:21 (UTC)[返信]
私の方でもいくらか誤解があったようですね。「意識が量子力学的作用を及ぼす」とする説が、量子力学的観点からの要請であるのではなく、上の高林武彦 著であげられた状況は、このシュレディンガーの猫問題が、哲学にそういうった認識問題を喚起した(哲学問題を取り入れた)ということでよろしいでしょうか。であるならば、序文に「シュレディンガーの猫問題は、物理学的なパラドックスをあらわすだけでなく、哲学に対しても認識問題を喚起した」というような記述を加える事を提案します。--Kwansai 2007年2月17日 (土) 01:28 (UTC)[返信]
序文の記述は、同じような誤解を生じないようにするため、もしくは、既にある誤解を解くためのものであって、その目的を果たすうえで、序文は十分条件を満たしているはずであり、実際に為されている誤解の詳細を説明する必要はないはずです。それに、誤解している人の実例を出すことが百科事典の記述として必要なこととは思えません。(そもそも、個人サイトは独自の調査の類いであって出典として意味をなさない。)誤解しているサイトの殆どがトンデモサイトなので、そこへ一般人を誘導することも気乗りしません。
また、科学(量子力学)的観点からの要請ではないことを、科学(量子力学)の項目に記述するのは適切ではないでしょう。その件はそれに相応しいページに記述すべきことであると思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月17日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

インデント戻します、誤解を解くためには何が誤解であるかを具体的に示さなければ、文章を読んだとしても、それに気づく人はまれでしょう。単純に「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」というような記述を正しいと誤解している人はまれであり、実際、Wiki ryonさんが上の議論で「(既にこのノート内でも挙げられているようです)」とのべられていますが、そのような記述があるページを見つける事はできませんでした。つまり、このような誤解はわかりにくい形でWiki ryonさんがいわれる「トンデモサイト」に紛れ込んでいると推察します。よって、それを気づかせるためには、具体的な記述が必要だとおもいます。本文の記述には載せなくて良いので、とりあえず、「すでにこのノート内で挙げられている」ものについて指摘して頂けないでしょうか。

二段落目ですが、この項目は「シュレディンガーの猫」であり、「シュレディンガーの猫」が科学(量子力学)だけにかぎらず、哲学に問題喚起をしたことが事実であり、検証可能な証拠があるのなら、その内容は書かれるべきだと思います。もし分割するのなら「シュレディンガーの猫(科学)」「シュレディンガーの猫(哲学)」というようなものになると思うのですが、残念ながらこの案で哲学関連の記事が成り立つほどの分量を書く見通しはありません。よって、序文の中に一文いれるにとどめる方が合理的だと思います--Kwansai 2007年2月17日 (土) 14:37 (UTC)[返信]

「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」が誤解であると具体的に示しているので、誤解を解くための必要条件は満たしているはずです。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月18日 (日) 09:56 (UTC)[返信]
前回もかきましたがWiki ryonさんが上の議論で「(既にこのノート内でも挙げられているようです)」おっしゃいましたが、このページで挙げられたサイトで「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」と書かれている物は無いと思います。つまり、「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」は具体例ではなくて、そのように解釈しうるということだということだとおもいます。よって、より具体的な記述でなければ、気づかせる事はできないと思います。--Kwansai 2007年2月18日 (日) 15:05 (UTC)[返信]
はい、「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」は、そのように解釈しうるということです。そして、その解釈しうる内容が否定対象の具体例です。対象を明示しているのだから、これ以上の説明は必要ないはずです。誤解をした人物の具体例を示さないと、一体、何を気づかせる事ができないのかが全く分かりません。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月19日 (月) 11:28 (UTC)[返信]

インデント戻します。私は誤解をした人物の具体例を求めていません。解釈しうる内容というのは他にも言い換える事ができるということですね。それは、具体例とはいえません。誤解している人はその言い換えでごかいしているのでしょう。「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」という解釈にたどりつかないから、誤解しているのではないでしょうか。 また「(既にこのノート内でも挙げられているようです)」とWikiryonさんが、認識しているのならば、それをこのノートで指摘する事はなにかまずい事なんでしょうか?--Kwansai 2007年2月19日 (月) 12:55 (UTC)[返信]

解釈しうる内容というのは他にも言い換える事ができる?その文章が意図することが全く分かりません。それはともかく、対象を明示しているのに、これ以上何を明示すべきなのでしょうか?--量子力学のド素人ことryon 2007年2月20日 (火) 10:18 (UTC)[返信]


序文に入れると科学(量子力学)的観点からの要請であるかのような誤解を与えかねないので、別途、「科学以外の分野に与えた影響」の項目を作って、そこに移動しました。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月18日 (日) 10:05 (UTC)[返信]
確認しました。--Kwansai 2007年2月18日 (日) 15:05 (UTC)--修正--Kwansai 2007年2月18日 (日) 23:50 (UTC)[返信]

解決方法について

この編集でつけくわえられました、解決方法の章の意味をつかみかねているので、質問します。

>決定論では、何も問題は生じない。しかし、今日では、いくつかの実験結果等が決定論に不利な証拠を示しており、決定論は有力視されていない。

一文目と二文目は相反する記述です。決定論に不利な証拠が示されているのなら、一文目はおかしいです。 また、このような記述をするためには「決定論に不利な証拠が示されている」文献について出典をお願いします。

>因果関係を認めるためには認識の瞬間と確定の瞬間との間の時間的相関関係を確認する必要があるが、確定時期が実験結果から特定できないため、そうした因果関係を検証することは原理的に困難である。

「因果関係を認めるためには認識の瞬間と確定の瞬間との間の時間的相関関係を確認する必要がある」 という記述は、多くの人の常識だけからは導く事はできません。この記述をのこすためにはこのようなプロセスで因果関係が求められた例などが記述された文献が必要です。

>今日において、最も有力視されているのは量子デコヒーレンスであるが、それも、解決すべき重大な課題が残されており、支配的学説となるには至っていない。

まず、「最も有力視されているのは量子デコヒーレンスである」のは何でしょうか?また、「、解決すべき重大な課題が残されており、支配的学説となるには至っていない。」ことをしめす文献が必要です。--Kwansai 2007年2月19日 (月) 12:40 (UTC)[返信]

「何も問題は生じない」のは、シュレーディンガーの猫に限定した話です。シュレーディンガーの猫とは別のことで決定論に不利な証拠が示されているのであって、決定論はシュレーディンガーの猫に何の問題も生じさせません。
偶然や交絡[4]では説明のつかない相関関係をもって因果関係を認めるのは疫学調査ではよく使われる手法です。他の分野においても、実験で事実確認するという行為は、同様の相関関係を見つけ、そこから因果関係を推定する行為そのものであり、それは、科学的に極めてありふれた手法に過ぎません。
量子デコヒーレンスに関することは、その項目をご覧ください。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)[返信]
決定論が不利(完全に否定されるわけではない)なことは量子力学の世界でコンセンサスが得られていることだと思います。Wikipediaの記述にも言及されている部分はあります。ベルの不等式とか。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月20日 (火) 10:25 (UTC)[返信]
一段落目について、誤読が起きないように編集する必要があると思います。二段落目について、量子力学の相関関係を疫学的手法を用いて解決しようとするというのは、私には想像もつかない事なんですが・・・。まさにWikipedia:独自の調査に該当する物だと思います。Wikipediaにおいてはそのような記述はふさわしくありません。もしそのような、方法が試みられた検証可能な文献がなければ消去すべきです。三段落目について、再びですがおたずねします。「最も有力視されているのは量子デコヒーレンスである」のは何でしょうか?それがわからないので、記述を見てすでに十分説明されているか判断出来ません。(ちなみに量子デコヒーレンスの記事は記事の正確さに疑いをもたれているそうですが、その解決が先かと思います。)--Kwansai 2007年2月20日 (火) 16:05 (UTC)[返信]


「疫学的手法を用いて解決しようとする」ではないと明記してあるはずです。良く読んでください。
量子デコヒーレンスのページを読んで、その内容が理解出来ないのであれば、それは、量子デコヒーレンスのページの記述を分かり易く修正すべきであって、このページの問題ではありません。それは、シュレーディンガーの猫のページを修正すべき理由になっていません。そもそも、分かりにくいのであれば、分かり易く修正すべきなのであって、削除するのはWikipediaの基本方針に反します。
量子デコヒーレンスに「記事の正確さ」のテンプレが貼られたのは2006年4月20日 (木) 15:29の版からです。その修正は、署名の無いユーザーによる物で、Wikipedia:削除依頼/量子デコヒーレンスで削除依頼を出した人物と同一IPです。それを読むと、訳の分からない理由(「何かIPが攻撃されてる」)で削除依頼が出されています。偽署名による「評価は肯定的すぎる」等の見解も示されてはいますが、内容が間違っているとする指摘は出ていません。よって、正確さに疑いをもたれているとしても、そのことをもって、記事の内容がデタラメだとは言えないでしょう。
以上、記事を差し戻すべきとする理由が不十分です。記事を差し戻すなら、差し戻すべき明確な理由を整理してからにすべきでしょう。また、この部分は、哲学に与えた影響を説明するために必要な記述です。哲学に影響を与えたのは、シュレーディンガーの猫そのものではなく、意識が状態を確定させるとする説なのだから、その2つの関連性について説明しないと、記述が不十分です。哲学への影響の記述が必要だとするなら、その項目を削除するのは妥当ではないでしょう。よって、記事を差し戻す前の状態に戻します。記事を差し戻すなら、差し戻すべき理由がハッキリしてからにしてください。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月21日 (水) 10:20 (UTC)[返信]
実験科学の関係は中学校辺りで履修済みでないかと思います。それが独自の調査と言われても困ります。そこまで基本的なことについて文献を探すのも、かえって、難しいでしょうし。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月21日 (水) 10:33 (UTC)[返信]
文の誤りを修正。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月21日 (水) 10:39 (UTC)[返信]

コメント依頼に向けて

このページの序文について、および解決方法についてにおいて、私は現在の記述では誤読を招くおそれがあり、それを回避するため、および検証可能性を保証するために出典を求めております。一方該当する記述をされたWiki ryon様は常識で理解出来る範囲であり、また誤読の可能性もないために出典をこれ以上の出典を示す必要はないとしゅちょうされており、議論が平行線をたどっております。

記述が常識で判断出来るかどうかは、出来るだけ多くの方が理解出来るかどうかがポイントとなるために、これについて、コメント依頼を行いたいと思います。--Kwansai 2007年2月21日 (水) 10:37 (UTC)[返信]

誰かに意見を求めたいなら、ご自由にすれば良いと思いますが、強引に記述を変えてしまうのはどうかと思います。科学的な間違いや論理的なおかしさを指摘するなら分かりますが、貴方が言っていることは、単に、貴方の知識に基づく問題であり、それはWikipediaの編集の理由とはならないものです。
また、序文については、どのような誤読を招くのかが明確にされていません。誤読を回避することと検証可能性を保証することは全く別の問題であるはず。どうして、それが一緒にされているのでしょうか。誤読を回避することは、書かれた文章の示す意味が一通りにしか解釈出来なければ、十分に担保されます。もし、誤読が完全に無い文章が書けたとしても、それに対して、検証可能性を保証する必要がなくなるわけではありません。両者は全く別の問題です。そもそも、序文について言えば、対象となる記述が既に存在しないのだから、これは、本文の記述に関する議論を逸脱しています。
さらに言えば、実験と科学の関係を理解していないのであれば、量子力学について論じることは出来ないはずなのですが。理屈では信じ難い実験事実、それが、量子力学の問題の発端なのだから。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月21日 (水) 10:55 (UTC)[返信]

争点

現時点での合意事項と思われるもの。

  • 「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」という誤解をする人がいることについて、出典付きで記述を追加したい。(Kwansai氏の提案)
  • 科学の実験において事実が確認されるとは、どういうことか?
  • 量子デコヒーレンスについて、該当ページで説明すべきか、シュレーディンガーの猫のページで説明すべきか?

まとめ実施。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月28日 (水) 12:42 (UTC)(←この署名は、この一行に対してのみ効力が及ぶと意図してつけています。)[返信]

進行中の議論

初めて来た人のために、争点をまとめておきます。

  • 「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明されるわけではない」では、誤解のある例が示されていないので誤読の余地がある。
  • 科学実験において事実が確認されるとは、どういうことか?
  • 量子デコヒーレンスが、そのページの記述を見ても分からない。

以上、#序文について#解決方法についてより抜粋しました。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月21日 (水) 11:17 (UTC)[返信]

争点の時点で食い違いがあったんですね。私が求めたことは以下です。
  • 「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」という誤解に対して、「(既にこのノート内でも挙げられているようです)」とWikiryonさんが、認識しているのならば、それをこのノートで指摘する事を求めています。
  • 「因果関係を認めるためには認識の瞬間と確定の瞬間との間の時間的相関関係を確認する必要があるが、確定時期が実験結果から特定できないため、そうした因果関係を検証することは原理的に困難である。」という記述が常識を元に理解出来るかどうか
  • 「今日において、最も有力視されているのは量子デコヒーレンスであるが、」という記述の主語が不明確なために、誤読のおそれあり。記述を改良するために出典を求めております
--Kwansai 2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)[返信]
  • 「人間の意識」云々は、シュレ猫の解釈として出てくるものですから、概要に置くことが適切ではないと思います。
  • 「因果関係を認めるためには~」は常識を元に判断できないと思います。
  • 「量子デコヒーレンス」が「どこで」有力視されているかの記述は(出典を含め)必要だと思いました。

全体に、1935年当時の解釈論と、その後の解釈論を、時期と、その解釈を行う立場を含め(物理学か哲学か)、切り分ける必要があるように思いました。シュレディンガーとボーアらの間には、世代的にも思想的にも違いがあるはずですし(シュレディンガーは量子論に関わった人のなかでは、かなり独特ですよね?)、そういった背景と、論争史・解釈史を追う記述があったほうがよいように思います。日本では、たしか湯川さんがシュレ猫について1941年に何か書いてたと思います。それと、誰かE. Schrodinger: Naturwiss., 23(1935), 807, p.p.824-844 に直接当たっているのでしょうか? そうでないなら、本文中で"Naturwiss"に発表された、などとするのがよいと思います。--Ks aka 98 2007年2月22日 (木) 06:35 (UTC)[返信]

まず、ノートページは、記述内容について議論する場所であって、個人の認識について議論する場ではありません。そして、Wikipediaにおいて出典を明示すべきなのは、本文の記述内容についてであって、個人の認識についてではありません。
因果関係云々について、既にある説明を無視するのでは、議論にはなりません。その説明は、2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)にあり、争点は、それを踏まえて、2007年2月21日 (水) 10:55 (UTC)のように整理されるべきです。争点とは主張に争いがある部分を指すのであって、主張を無視した部分を指すわけではありません。通常は、無視=異論が無い、もしくは、全体的に些細な問題と見なされるのであり、いずれにせよ、大きな三つの争点とはなり得ません。
主語が不明確とは、「量子デコヒーレンスがシュレーディンガーの猫の解決作として最も有力視されている」と書けということでしょうか。シュレーディンガーの猫のページの見出し「解決方法」に書かれている時点で、それを意味することは明確であり、誤読の余地はないと思われます。しかし、日本語的に変の記述であることは確かなので修正しておきました。また、2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)にも書いたとおり、量子デコヒーレンスの詳細は、量子デコヒーレンスのページにあり、このページにそれを記述する必要は無いと思われます。
確かに、科学史と現在進行形の科学的問題とは切り分ける必要があります。現在の記述は、前者についてはわずか1〜2行で、主に、後者についての記述となっています。また、科学と思想も切り分ける必要があるでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月22日 (木) 15:28 (UTC)[返信]
科学的実験について補足しておきます。科学的実験は、相関関係を検証し、それが、偶然や交絡等の因果関係ではない原因では説明のつかない場合に、それを因果関係と認める行為です。実験の再現性が高い場合は、偶然では説明がつきません。交絡の影響を除外する方式でも相関関係が認められる場合は、交絡では説明がつきません。よって、そうした因果関係以外の原因では説明がつかない場合は、因果関係によって相関関係が生じたと推定出来ます。もちろん、この因果関係の検証は、定性的な推定だけでなく、定量的な推定も行ないます。以上は、2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)の説明を少し詳しくしたに過ぎず、中学生程度で履修することを説明した文章に過ぎません。
ちなみに、コメント依頼が為された時点での、該当部分の記述は「しかし、これが交絡[5]によるものではないと断定することができないため、因果関係まで確認されたとは言えない。確定時期が実験結果から特定できないため、そうした因果関係を検証することは原理的に困難である。」です。その時点の本文の記述でない物は、争点となるはずがありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月22日 (木) 15:49 (UTC)[返信]

インデント戻します。コメント依頼によって、コメントが寄せられるまでの期間として、私は約1週間程度は議論を差し控えます。--Kwansai 2007年2月23日 (金) 02:50 (UTC)修正--Kwansai 2007年2月23日 (金) 03:12 (UTC)[返信]

意見を差し控えるのは自由ですが、以下のことについて何らかの釈明はないのでしょうか。
  • 本文の記述内容ではないことを争点に挙げていること。
  • 既出事項を完全に無視していること。
もちろん、釈明しないのも自由ですけど。釈明する気が無いということは、異論がない=事実と認めるものと見なされます。よって、争点は次の通りと考えられます。
  • 「人間の意識が量子力学的作用を及ぼすことが証明される」云々は本文の記述ではないので争点から除外
  • 科学の実験において事実が確認されるとは、どういうことか?
  • 量子デコヒーレンスは該当ページで説明すべきか、シュレーディンガーの猫のページで説明すべきか?
以上について、皆さんの意見を問うわけですね。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月23日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
異論がないと勝手に見なされても困ります。私が求めた物は以前の私のコメントにあるとおりです。それについて、Wikiryon様がそのように解釈なさるのならば、それは一つの解釈です。私は他の人のコメントも求めております。--Kwansai 2007年2月23日 (金) 12:40 (UTC)[返信]
もし、どうしても私に釈明をお求めであれば、1週間お待ち下さい。--Kwansai 2007年2月23日 (金) 12:43 (UTC)[返信]
貴方が何を求めるかはWikipediaとは全く関係がありません。ノートページで議論する対象は本文の記述の是非であり、それは、貴方の個人的希望とは全く関係がありません。Wikipediaは貴方の個人サイトではないのですから、貴方にとっての個人的質問は、別途、貴方の個人サイト等ですべきでしょう。だから、ノートページでコメント依頼をするからには、本文の記述内容の是非について、どのような争点が生じているのかを明確にする必要があります。
そして、争点を明確にすることと、その争点に対して意見を述べることは区別すべきです。2007年2月22日 (木) 15:28 (UTC)は、主に、争点に関することであり、それに対して「議論を差し控えます」と言うからには、争点が何かに関しても異論がないということです。争点を明確にすべきである以上、異論があるなら、議論によって争点を明らかにすべきであり、それを放棄した以上、異論がないと見なされるのは当然でしょう。
「以前の私のコメントにある」は、また、同じ過ちを繰り返しています。貴方は、2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)においても、2007年2月19日 (月) 12:40 (UTC)の質問への答である2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)の記述を完全に無視して無かったことにしました。そして、今度は、2007年2月22日 (木) 15:49 (UTC)の記述を完全に無視して無かったことにしています
繰り返しますが、コメント依頼は、貴方の個人的思想や思考に対してではなく、本文の記述内容の是非について行なわれるものです。貴方の個人的思想や思考に対してコメント依頼するなら、「私が求めた物は以前の私のコメントにある」でも構わないでしょう。しかし、本文の記述内容の是非という観点に従ってコメント依頼する以上、依頼者に対して、その観点における争点を明確にする必要があります。だから、争点が何であるかについて異論が出て来たなら、貴方の一存で、それを無かったことにすることは出来ないはずです。それが出来ると言うなら、貴方は、貴方以外の全ての人の存在を軽んじていることになります。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月24日 (土) 12:31 (UTC)[返信]
争点を追加しておきます。
  • Wikipediaの記述内容から逸脱した個人的問題についてコメント依頼してないか?
  • 踏まえるべき既出事項を意図的に無視してないか?
  • 現在の本文の記述もしくは修正案のいずれでもない記述を争点としていないか?
コメントされる方は、以上も踏まえてコメントしていただきたいと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月24日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
争点一つ追加。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月24日 (土) 13:04 (UTC)[返信]

インデント戻します。上記でのWiki ryonさんの質問にお答えします。

  • 今回のコメント依頼において、私は、私の個人的な認識について問うた事は有りません。その記述が出典無しに常識と照らし合わせて理解可能かについて問うています。
  • 無視されている、すでにある説明とはWikiryon様が「常識的に理解出来る」という見解を表明したのみであり、それについては、一つの意見であるという認識を私は示しております。
  • 現在の記述がどうであれ、出典を付け加える事によって、記事が改善されるかどうかについて議論する事はWikipediaの基本方針からはずれません。

--Kwansai 2007年2月24日 (土) 15:27 (UTC)[返信]

2007年2月23日 (金) 03:12 (UTC)の時点で、「約1週間程度は議論を差し控えます」と言い、それを口実に、2007年2月23日 (金) 12:40 (UTC)では争点を明確にすることを拒んでおきながら、2007年2月24日 (土) 15:27 (UTC)で争点で争われる事柄へ特定の立場での見解を述べるのは、ダブルスタンダードではないですか?都合の悪い話についてだけ選択的に口実をつけて答えない・・・というのでは、議論する資質すら怪しいです。
現在の本文の記述もしくは修正案のいずれでもない記述について意見を求めておいて、個人的な認識ではないとは、一体、どういうことですか
私が「見解を表明した」記述は、一連の議論の中にはありません。勝手に事実関係を歪曲しないでいただきたい。「見解」とは、通常、他人に提示された物、あるいは、自然に存在する物に対して述べるものであって、自ら提示した物に対して述べる物ではありません。常識的に考えて、自分の書いた文章について、その理由を推測する人間はいません。普通の人なら、自分が言ったことの理由は、当然、言う前から大前提として踏まえていることです。分かりにくいと言うから、省略した記述を説明文として述べたに過ぎません
また、私は「常識的に理解出来る」で済ませたことは一度もありません。これについても、勝手に事実関係を歪曲しないでいただきたい。きちんと、007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)で理由を説明しているはずです。2007年2月22日 (木) 15:49 (UTC)においても、追加説明をしました。その内容を検証してもらうには、それらの理由説明部分が必須です。「AだからB」が正しいかどうかを検証してもらうには、「Aだから」の部分を省略することはできません。「Aだから」と「B」はセットであり、切り離すことができる物ではありません
貴方は、理解出来なかったから、説明を求めたのではないのですか?それならば、その要求に応じて追加説明された内容を無かったことにしてしまったら、他の人も、理解出来ないかも知れないですよね。だったら、既に挙げられた争点「AだからB」について、2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)にて、「B」に修正して「Aだから」の部分を故意に削除するのは、どういった了見なのですか?
出典は記述内容に対応する物を提示するのであって、記事に無い事柄について出典を提示しても、その出典が何に対して提示されたのか全く意味不明です。それでは、記事が改悪されることはあっても「記事が改善される」ことはあり得ません。
Wikipedia:基本方針とガイドラインを良く読むことをお勧めします。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月25日 (日) 11:55 (UTC)[返信]
微修正。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月25日 (日) 12:00 (UTC)[返信]
Wikiryon様、どうか、冷静になって下さい。私が、異論がないと見なされても困るとコメントしたところ、あなたはその対応では「異論がないと見なされれるのは当然でしょう」とおっしゃいました。その意見に同意したわけではありませんが、そのように強行に議論の意を曲げられるのも叉困りますので、回答をいたしました。私は、あなたの新たな質問に答えましたが、私の都合の悪い話とは何でしょうか?
もし、そのような事があるにしても、「・・・というのでは、議論する資質すら怪しいです。」という記述ははWikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:礼儀を忘れないという方針に反します。今後このような記述には気をつけてください。もし、さらにこのような記述がなされる場合、投稿ブロックの対象になります。
どうか、冷静になり、Wikipedia:ウィキケットを心がけるよう、よろしくお願いします。
「見解」に関してですが、私が求めた質問に対してWikiryon様がコメントをされたのですから、Wikiryon様が上に上げられた定義となんら反するところは無いと思います。
私はWikikiryon様が「常識的に理解出来る」で済ませたことがあるとは書いておりません。私の「常識で判断出来るかどうか」という質問に沿った回答として要約すれば、「常識的に理解出来る」という回答になるということです。
三点目についてでは「出典を含めた記述を付け加える事」というふうに理解してください。あなたが以前に行われました記述について、出典付きで加筆すれば、記事の改善につながるという事を述べました。--Kwansai 2007年2月25日 (日) 12:57 (UTC)[返信]
議論する資質の有無は、客観的事実であり、議論の仕方を見直すべき根拠です。議論に必要な事項を指摘したなら、その指摘があることは、それが個人攻撃や非礼な行為である証拠とはなりません。また、理由説明も付けており、「決めつけ」でも「言いがかり」でもありません。それが、個人攻撃や非礼な行為だと主張するなら、そう主張する理由を明示すべきでしょう。それを明示せずに主観でそのような物言いをするなら、貴方の方が個人攻撃や非礼な行為を行なっていることになるのではないですか?
自ら質問しておいて、その回答を読みもせずに、無かったことにするのは、礼儀に欠ける行為ではないのですか?誤読を生じる可能性を減らすために記述を修正したにもかかわらず、あたかも、修正前の文章の誤読内容が執筆者の主張であるように扱うのは、個人攻撃ではないのですか?「見解を表明した」等、勝手に事実関係を歪曲するのは個人攻撃ではないのですか?自らの行為を棚に上げ、相手のことを冷静でないかのように言うのは、個人攻撃ではないのですか?人にアレコレ言う前に自分の襟を正すべきではないですか?
「見解」に関しては、2007年2月25日 (日) 11:55 (UTC)の核心部分である、「既に挙げられた争点『AだからB』について、2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)にて、『B』に修正して『Aだから』の部分を故意に削除するのは、どういった了見なのですか?」に対する答えが全くありません。つまり、何も反論していないのと同じです。
「出典を含めた記述を付け加える事」については、その記述の必要性が全く不明確です。出典を必要とする理由も明確にはされてませんが、わざわざ、出典を引っ張り出して来てまで記述を追加すべきとする理由が明確にされていません。どうしても記述を追加すると言うなら、新規に提案すれば良いでしょう。しかし、たとえ、過去の記述内容から着想を得た物であったとしても、記述を新規に追加する提案であり、現状の記述の問題点であるかのように語られるのはおかしい。新規の別項目として提案すべきことです。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月27日 (火) 12:59 (UTC)[返信]

インデントを戻します。コメント依頼の初めに申し上げましたとおり、私のコメント依頼の「解決法に関して」に対する争点は記述が常識で理解しうるかどうかです。Wikiryon様は、その原因は私の理解が足りないからであるとおっしゃられておりますが、それを判断するためには、記述者であるWikiryon様だけではなく、他の人の合意が必要です。ですので、多くの人の意見をきくべくコメント依頼という形にしました。決して、個人的にわからないから質問したわけではございません。もし、他の人がその記述で理解出来るというコメントが為されたのであれば、私はそれに従います。

さて、私がWikiryon様の記述を無視したと、おっしゃられておりますが、なぜそうなるのか、私には理解出来ません。もし、議論のうえでなにか行き違いがございましたら、申し訳ありません。以下に、Wikiryon様がご指摘された、版のにかんする私の釈明を記述致します。

2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)の説明に対して、私が同意していないことは、2007年2月20日 (火) 16:05 (UTC)の私の記述で表明しております。決して無かった事にはしてません。2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)で記述された内容は、このコメント依頼が「私の理解が足りないから」おこったことという誤解にもとづいていると判断できますが、私の投げかけた質問に対するWikiryon様のご意見としては「常識で判断しうる」という回答ともとれます。そのことを私は2007年2月23日 (金) 12:40 (UTC)や2007年2月25日 (日) 12:57 (UTC)で表明しておりますので、無視はしておりません。

また、私は争点において何かを削除したつもりはございません。私が2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)であげました争点は「AだからB」という形の物はありません。「AがBかどうか」を問うているわけです。ですから、「AがBかどうか」という記述がページ内にあるのですから、そののちに「Bである」「Bでない」という記述になるのは何かをかくすことではなくて、単なる省略ととっていただけないでしょうか?

「出典を含めた記述を付け加える事」については、「記述の意図が不明確であり、無理に付け加える必要はないという」、ご意見であるという理解でよろしいでしょうか。これに関しては、Ksaka98様のご意見『 「人間の意識」云々は、シュレ猫の解釈として出てくるものですから、概要に置くことが適切ではない』とあわせまして。私なりにもう一度検討させて頂きます。ご意見ありがとうございました。--Kwansai 2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)[返信]

「私が2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)であげました争点は『AだからB』という形の物はありません」とは、一体、何が言いたいのですか?Kwansai氏の挙げる争点から、意図的に「Aだから」が除外されていることを問題視しているのだから、今更、無いことを説明してもらう必要は全くありません。Kwansai氏の文章には、Aに言及した部分は皆無であり、「『AがBかどうか』を問う」部分が存在するわけがありません。
2007年2月25日 (日) 12:57 (UTC)の「私はWikikiryon様が『常識的に理解出来る』で済ませたことがあるとは書いておりません」とする主張は明確に事実に反しています。私は、2007年2月21日 (水) 11:17 (UTC)で、争点として、理由説明の部分も含めた要約として「科学の実験において事実が確認されるとは、どういうことか?」を挙げました。それに対し、Kwansai氏は、2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)で「争点の時点で食い違いがあった」として、理由説明を意図的に除外して「『因果関係を認めるためには〜原理的に困難である。』という記述が常識を元に理解出来るかどうか」が争点だと言っています。つまり、理由説明を争点に含めるかどうかに「食い違いがあった」と言い張ってるのだから、「『常識的に理解出来る』で済ませた」と言ってるのと同じです。
Bの理由としてAが提示されているのだから、「常識で理解しうるか」どうかは「AだからB」であるはずです。「AだからB」が「常識で理解しうるか」が争点であるなら、それは、2007年2月21日 (水) 11:17 (UTC)の段階で十分に示せていることであり、2007年2月21日 (水) 12:07 (UTC)のような訂正は全く不要です。「記述がページ内にある」と主張するなら、Bについても「記述がページ内にある」のであり、改めて、Bだけを強調して提示する必要はありません。いずれも、ページ内にある記述から拾って読んでもらえば済むことです。よって、「AだからB」が「常識で理解しうるか」が争点だと認めているなら、2007年2月21日 (水) 11:17 (UTC)を訂正する理由は全くありません。にもかかわらず、「争点の時点で食い違いがあった」と主張して、「Aだから」を意図的に削除するのは、「単なる省略」ではなく、明確に、「Aだから」の部分を抹殺しようとする意図が見られます。「Aだから」を含めるかどうかに「食い違いがあった」と自ら言い切っているのだから。
「私の投げかけた質問に対するWikiryon様のご意見としては『常識で判断しうる』という回答」とは随分と失礼な物良いです。私は、いつも、それなりの長文で説明文を書いて答えて来たはずで、「『常識で判断しうる』という回答」で済ませたことなど一度もないはずです。もし、私が「『常識で判断しうる』という回答」で済ませたことがあると言うなら、具体的に指摘してください。もしあるなら、それが履歴として証拠が残っているはずです。仮に、ログを消したとしても、履歴には残るはずなので、証拠隠滅はできません。証拠も無しにそのようなことを言ってるなら、それは、2007年2月25日 (日) 12:57 (UTC)で、自ら言ったこと=「Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:礼儀を忘れないという方針に反します」に反しているのではないですか?
「出典を含めた記述を付け加える事」についての私の意見は、2007年2月27日 (火) 12:59 (UTC)に書いた通り、「どうしても記述を追加すると言うなら、新規に提案すれば良い」「たとえ、過去の記述内容から着想を得た物であったとしても、記述を新規に追加する提案であり、現状の記述の問題点であるかのように語られるのはおかしい」です。Wikipedia:コメント依頼に「いくつかの記述について、出典が必要であるとする側と、常識で理解出来るためにこれ以上の出典は必要ないとする側で議論が平行線をたどっている」と書いたのはKwansai氏です。その文章を読んで、その「出典が必要である」とする文章が、コメント依頼をしている張本人が追加提案をしている文章だと誰が思いますか?誰が見ても、「出典が必要である」とは、現在の記述への異論と受け止めるでしょう。そう受け止められるようにKwansai氏が意図して書いたことも明らかです。
以上に示した通り、Kwansai氏の主張は、全く、辻褄があっていません。少なくとも、2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)のKwansai氏の主張は、以前の主張とは全く違っています。それなのに、この期に及んで、多々、言い訳を並べる理由が分かりません。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月28日 (水) 12:42 (UTC)[返信]
Wikiryon様が「以上に示した通り、Kwansai氏の主張は、全く、辻褄があっていません。少なくとも、2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)のKwansai氏の主張は、以前の主張とは全く違っています。」と感じるのは、wikiryon様の誤解に基づく物です。誤解があったにして、このような発言はWikipedia:礼儀を忘れない#例にある、「誰かをウソツキ呼ばわりすること」に当たります。
何度も申し上げておりますが、Wikiryon様は私が内容を理解出来ないからこの提案をしたという誤解をされているようですが、違います。私はこのコメント依頼のはじめから「解決法について」の部分については一貫して、wikiryon様の記述された部分が常識で判断できるかどうかについて、他者のコメントを求めております。--Kwansai 2007年3月1日 (木) 01:04 (UTC)[返信]

インデント戻します。すでに、議論が本筋を離れております。これ以上の議論はお互い何もプラスにならないと思います。よって、これ以上の議論は停止します。これ以上の出典無き議論には参加しかねます。また、個人攻撃に対してはこれ以上対応しかねます。私の意見は[6] 編集は検証可能性が保証出来ないことを理由に反対であり、その後書き換えられた二段落目につきましては、上で指摘しましたとおり正確性に疑いがあり、同意できません。 --Kwansai 2007年3月1日 (木) 01:32 (UTC)修正--Kwansai 2007年3月1日 (木) 03:33 (UTC)[返信]

Kwansai氏が「コメントが寄せられるまでの期間として、私は約1週間程度は議論を差し控えます」と言ったのが2007年2月23日 (金) 03:12 (UTC)。一方で、編集内容に対して「反対」意見を表明したのが2007年3月1日 (木) 01:32 (UTC)。1週間経ってませんね。そもそも、争点が何かに異論を唱え続けているなら、意見を聞く期間は1日もなかったはずで、あと、1週間は「議論を差し控え」なければならないはずです。・・・と指摘すると、また、「誰かをウソツキ呼ばわりすること」に該当するとか言われるのでしょうか?
2007年2月25日 (日) 12:57 (UTC)で「私はWikikiryon様が『常識的に理解出来る』で済ませたことがあるとは書いておりません」と言っておきながら、2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)では「私の投げかけた質問に対するWikiryon様のご意見としては『常識で判断しうる』という回答ともとれます」と言ってます。一体、どちらが正しいのでしょうか?尚、「あのときは書いてなかった。後で書いたんだ。」等のトンチ話は無しにしてくださいね。・・・と指摘すると、また、「誰かをウソツキ呼ばわりすること」に該当するとか言われるのでしょうか?
言動の不一致を具体的に指摘されたなら、その指摘に対して反論すれば済むことです。そうした指摘を一切せずに、ウソツキ呼ばわり云々と言うのは、自分の非を誤摩化すために、話を逸らしているだけです。そのために相手を悪者に仕立て上げているだけです。それこそ、個人攻撃ではないのですか?それこそ、非礼ではないのですか?「感じる」だの「誤解」だの、想像で他人の非を捏造するのは、個人攻撃ではないのですか?非礼ではないのですか?自らの襟を正せない人には人に文句を言う資格などあるはずがありません。
「一貫して〜求めております」なら、初めから、「争点の時点で食い違いがあった」と主張して、「Aだから」の部分は争点に含まれていないと一貫して主張していたということです。つまり、Kwansai氏が2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)で言うような「単なる省略」ではなかったということです。「ページ内にある」記述を見れば済むから省略したのではなく、その「ページ内にある」記述が争点に含まれていないと主張しているということです。Kwansai氏は、一貫して、そう主張してたということです。それならば、何故、これまでの主張と食い違う2007年2月28日 (水) 05:17 (UTC)のような、取ってつけた言い訳をするのですか?
Kwansai氏の主張は、「1+1=2」に対して「検証可能性が保証出来ない」や「正確性に疑いがあり」と言ってるのと同じです。そして、何故、「1+1=2」になるのか説明しても、聞く耳を全く持たない。例えば、2007年2月20日 (火) 10:06 (UTC)では、Kwansai氏の疑問にキチンと答えているはずです。必要なリンクも示してあります。それらを理解出来ないなら、何処が理解出来ないのか質問を返せば済むはずです。しかし、読みもせず、回答を無かったことにして、「検証可能性が保証出来ない」や「正確性に疑いがあり」と言うのでは、議論にさえなりません。たとえば、ベルの不等式。自分から質問しておいて、これまでに言及が一言もありません。納得したから言及しないなら分かります。質問を返してくるなら理解出来ないと言うのも分かります。反論を返して来るのもアリでしょう。しかし、回答を無かったことにして、「検証可能性が保証出来ない」「正確性に疑いがあり」と言い切るのは、どういう了見なのでしょうか?--量子力学のド素人ことryon 2007年3月1日 (木) 13:37 (UTC)[返信]

本当に客観的意見を求めているか?

穿った見方をすれば、次のようにも取れます。

争点として「AだからB」を提示すると、「常識的に理解出来るよ」という回答が出て来る恐れがある。それでは困る。意図的に「Aだから」を削除して、結論を導いた過程を隠せば、何故「B」と言ってるのか理解しにくくなるはず。そうやって、争点を恣意的に細工して、「常識的に理解出来ない」という回答を引き出そうとしている。

既出事項を無視し、争点の恣意的な操作を行なえば、そのように、回答を恣意的に操作しようとしていると見られても当然でしょう。「違う、恣意的操作をする意図など無い」と仰るなら、きちんと既出事項を踏まえて争点を整理すべきでしょう。客観的意見を求めるなら、当然、そうすべきはずです。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月25日 (日) 12:13 (UTC)[返信]

2007年2月25日 (日) 12:57に私が投稿した文章を推敲中にWikiryon様が上の投稿をなさいましたので、上の回答では2007年2月25日 (日) 12:13 (UTC)のWikiryon様の投稿を考慮しない文章となっております。
Wikiryon様がそのように説明なさったという事は、このノートページにおいて記述が残っているわけですから、私がわざわざ繰り返す必要はないと思います。Wikiryon様の上の投稿のような意図はありません。--Kwansai 2007年2月25日 (日) 13:05 (UTC)[返信]
「上の回答では2007年2月25日 (日) 12:13 (UTC)のWikiryon様の投稿を考慮しない文章」であるのに、ここでも同様に考慮しない文章を投稿するのでは、何も書いていないのと同じです。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月27日 (火) 13:00 (UTC)[返信]

Wikipediaの基本方針を踏まえてください

Wikipedia:基本方針とガイドラインには、Wikipediaは百科事典であり、「これ以外に目的はありません」と書かれています。よって、Wikipediaの全ての記述は、百科事典として適切か、百科事典として必要か等によって妥当かどうか判断されるのであって、個人的な思想や思考で判断するのではありません。

コメント依頼を含めた各種依頼も、その基本原則から外れるものではありません。Wikipedia:依頼と提供には、「ウィキペディアで活動していると、自分の力だけではどうにもならないと感じることが時々あるでしょう。そういうときは、他の人の力を借りましょう。自分で全てする必要はありません。」と書いてあります。これは、言うまでもなく、Wikipediaの基本方針に乗っ取った活動について述べられているのであり、基本方針に外れた行動にまで他の人の力を借りろと言ってるわけではないはずです。百科事典としての目的を達成するため、記述を充実させたり正確にしたりするうえで、客観的に必要と考えられることについて、他人の助けを借りるのであって、個人的目的で助けを求めるのではありません。

もちろん、個人的な欲求に対しても、親切に答えてくれる人は居るでしょう。しかし、それをWikipediaで要求するのは、基本方針に外れた言動です。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかを良く読むべきでしょう。そこには、「個人的なウェブサイトではありません」と明記されています。--量子力学のド素人ことryon 2007年2月24日 (土) 12:59 (UTC)[返信]

Undo revision 11010557について

Wikipediaは「シュレーディンガー」で統一した表記になっており、それを変更するなら、議論して同意を得ることが必要ではないでしょうか?ページの名前も「シュレーディンガーの猫」であり、表記をを改めるなら、ページ名も変える必要があります。

あと、実際に統計を取ったわけではないけれど、「シュレディンガー」は俗説に多い表記のように思われます。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月3日 (土) 12:49 (UTC)[返信]

原論文英訳追加

文献がドイツ語だけだと心もとないので(僕は読めません)原論文の英訳をリンクしておきました。また、節のタイトル内に[1]とあるのは変な気がしたので場所を変えました。

また、原論文やまっとうな解説書を読んだ方なら当然問題は理解なさっていると思いますが、「問題」節の記述が多少勇み足で読者に誤解を招きかねないと思いましたので要出典をつけておきました。原論文英訳の5節にもありますように、猫の提示する大きな問題は、量子力学において「状態」とは何か、「確定する」とは何か、波動関数こそが状態であって確定しているのではないのか、といった諸々の点にもあるわけです。そこに触れずにあたかも古典力学的「状態」が「確定」するのはいつか、というふうに書くのでは問題のかなりの部分を取り落としていることになるかと思います。

「問題」節のように書いてある出典を示してほしいというより、より適切な表現に変えていただければと思います。そういう典拠があれば、その本の著者が量子力学をよく理解していないか、もしくは非専門家にむけてわかりやすく説明しようとして簡略化しすぎてしまったかということだと思います :)

あと、シュレーディンガーのウムラウトを付けました。正しい綴りに注意を払わないのはトンデモさんですよ! An apple zealot 2007年3月10日 (土) 03:32 (UTC)[返信]

量子力学的概念は、一見すると、日常生活的な常識=古典力学的概念に反しているようにも見えるけれど、実のところ、そうした常識には何ら反していません。常識に反しているように見えるのは、未知の世界について、既知の常識と同様の常識が成り立っていると推測するからです。しかし、既知の常識が当てはまらない未知の世界があることを認めれば、何ら、既知の常識には反していません。猫は日常生活的な常識に従う物の代表として挙げられていると理解しています。猫の状態は、日常生活的な常識とぴったり合っているわけであり、そこに「波動関数こそが状態であって確定している」というような量子力学的概念を持ち込もうとすると、常識に反してしまうわけです。だから、シュレーディンガーの猫は、古典力学的概念と量子力学的概念の折り合いを何処で付けるのかという問題を提示しているのだと認識しています。だから、「量子力学的概念を適用しても、なお、人間には猫が古典力学的概念に従っているように見える」としても辻褄の合う答えがなければ、問題は解決しないはずです。よって、このページの説明が古典力学的概念を主体とした説明になるのは止むを得ないと思います。とはいえ、「要出典」がついた現状の記述では、波動関数の収縮の概念が、波が粒子に変化するような誤解を与えかねないのは確かでしょう。「人間から直接見える部分=猫の生死は古典力学的概念に従っているように見えるが、その根底にある現象は量子力学的概念に従っている」ことを明記すれば良いのだと思います。そういう文章を考えるのは少々面倒ですが。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月10日 (土) 15:58 (UTC)[返信]
この ryon さんのコメント自体がまさに必要な説明になっていると思いますので、誤読のないよう文章を工夫して本文に統合させて下さればと思います。An apple zealot 2007年3月10日 (土) 16:35 (UTC)[返信]
その文章は百科事典的な記述となってないので、書き方はかなり変える必要がありそうです。とりあえず、「マクロの世界では量子力学的性質の影響が観測誤差よりはるかに小さくなるために、量子力学的概念は長らく発見されずに、古典力学的概念が日常生活的な常識として定着した。科学の進歩によって、ミクロの世界の観測において、量子力学的概念が発見された。だから、基本的に古典力学的概念と量子力学的概念は何ら相矛盾するものでない。」というような記述も入れようかと考えてました。一言で言うと、量子力学のページに書いてある「古典力学は量子力学の近似理論」となるわけですが、それだけでは意図することが伝わらないでしょうから。あと、量子力学一般の話は量子力学の方に記述すべきだと思うので、シュレーディンガーの猫に特化した記述と量子力学一般の記述を、それぞれのページ振り分ける必要があるでしょう。その文面を考えるのが大変です。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月10日 (土) 16:49 (UTC)[返信]

ryonさんのUndoについて

申し訳ありませんが、何を書いているのか意味不明でしたので差し戻しました。科学哲学における量子力学の解釈問題が現在どのような形でなされているのかについては、「量子力学の哲学」などで検索していただければ色々情報が出てきます。また心の哲学において現在 具体的にどのような議論がなされているかは「mental causation, quantum, philosophy of mind」などで検索すれば色々出てきます。Was a bee 2007年3月10日 (土) 17:00 (UTC)[返信]

科学哲学については、2006年11月28日 (火) 18:20 (UTC)で、「哲学が提供するのは新しい理論でも、問題の解決でもありません。単に概念を用意し、論点を整理し、状況をはっきりさせるだけです」とご自身で仰ってる通りです。心の哲学については、心の哲学側の都合で量子力学と整合性をとる必要性があるのであって、量子力学の都合で心の哲学と整合性をとる必要があるわけではありません。その2点を誤解させるような記述を修正しただけです。とりあえず、その部分は修正版に差し戻しておきます。それが、科学哲学や心の哲学の観点で記述が正確でないと仰るなら、量子力学に対する誤解を生じさせないように記述を変更してください。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月10日 (土) 17:10 (UTC)[返信]
誰がどうやってそのような誤解をするのか全くもって意味不明ですありますが、しかし書き直された文章においてはさらに意味が不明ですので、私が書き直すこととします。一応ここにも簡単に書いておきますが、なぜ物理学と哲学に議論が分かれるているのか、その理由は次のような単純な理由によります。すなわち議論の範囲が次のように分野ごとで分かれてしまったからです。
  1. 現在の量子力学で扱われる範囲(道具主義的にはこれで十分な範囲、つまり現象を予測するのためのアルゴリズムとしての量子力学、これはこれで十分閉じています。しかしここで議論されることが避けられているテーマも多数あります。こうしたタブーに接するとトンデモだの何だのといった、思考停止した感情的な物言いが聞かれることもままあります。こうした物言いの主には大きく分けて二種類あって、ひとつは「もう聞き飽きた、それは不毛な議論だ」という人、そしてもうひとつは「よく理解できん、だが人を不安にさせる」という人。何にせよこうした反応をも引き起こしてしまうような議論、それが→2です)
  2. 現在の量子力学で扱われない範囲(科哲での議論すなわち解釈問題、すなわちある計算アルゴリズム<現在の量子論>で予測できる状況の背景として、実際に何が起きていると考えられるか、またこうした問題をどう考えていけばいいか、といった話。そして隠れた変数理論と意識を結びつけるような話。ペンローズみたいな。こっちは心の哲学。こういうのをトンデモといって切り捨ててれば楽だが、議論と検証だけはしていかなければならない(真剣にね)。ここでは局所性の問題などがテーマになってくる。)Was a bee 2007年3月10日 (土) 17:53 (UTC)[返信]
元の文章では、「科学哲学においてなされる量子力学の解釈問題の議論においてである」や「心の哲学において〜量子力学の確率過程が議論される」と哲学で量子力学の問題が議論されると明記されているのだから、2007年3月10日 (土) 17:10 (UTC)の指摘は誤読に関するものではなく、書かれた文面を素直に信じることによって生じる誤解についてです。いずれにせよ、そのような誤解が生じないなら、どのような書き方でも文句は言いません。あと、検証責任を他人に押しつける理論は、科学ではないトンデモなので。科学を標榜するなら、提唱者自らが積極的に検証すべきです。もちろん、科学を標榜しないなら、トンデモには該当しないですが。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月10日 (土) 18:45 (UTC)[返信]
例として常温核融合を挙げます。常温核融合についても、新たな物理現象である可能性は捨てきれず、真剣に議論と検証をすべき現象でしょう。しかし、現時点においては、常温核融合が実現可能なことを示す証拠が全くありません。証拠も無しに科学を標榜するなら、トンデモ以外の何物でもありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年3月10日 (土) 19:10 (UTC)[返信]

2007年5月31日 (木) 20:36(UTC)のkwansaiの加筆・修正について

マックス・ヤンマー著/井上健訳「量子力学の哲学」に沿って、このパラドックスが出された背景、問題のとらえ方、現場の解決方法についてを大幅に書きなおしました。変更の要点としては「非決定論」対「決定論」というものではなく「統計的量子力学の解釈が引き起こすマクロな重ね合わせ」対「マクロスコピック観測の原理」という問題のとらえ方に変更しました。

現実的な解決方法についてはこの本の出版後、量子デコヒーレンスなどの理論が発達した事により、進展していると思いますが、現在それについての文献がないので、今のところコメントアウトにしております。どなたか、確認出来る方がいましたら、書き加えて頂ければ、幸いです。 --Kwansai 2007年5月31日 (木) 20:43 (UTC)[返信]

とりあえず誤植をいろいろ修正しました。また、ヤンマーの本にはシュレーディンガーの論文のはじめの部分でEPRを確認しているとありますが、原論文を見る限り EPR は英訳 12 章にならないと引用されていませんがどうですか?

シュレーディンガーの猫の問題は非常にややこしいです。まずなにがシュレーディンガーの猫で提起されているのか、の解釈が著名な学者によってそれぞれ違います。それが wikipedia のこの項目に何を書くかを非常に困難にしている主原因で、それはこのノートページの経緯をみても明らかです。僕としましては、そもそもこれこそが "the" 解釈だというのは言えないと思いますので、いろいろ併記するしかないんじゃないかと思います。

また、原論文にかいてあることこそが猫の問題のただしい解釈なのだ、といいたいわけではないと前置きをした上で、僕が原論文を読む限りシュレーディンガー本人はそれほどマクロかどうかということを気にしているようには思えませんが、それについてもいかがですか?寧ろ、猫を考えてマクロにひきだすことで問題を先鋭化するためにつかっているように思えますが、僕にはシュレーディンガー本人が何の問題を先鋭化したかったのかは難しくてよくわかっていません。

というわけで、記事のはじめのほうに、「ヤンマーに従えば解釈は次のようになる」と付け加えておきます。An apple zealot 2007年6月1日 (金) 06:47 (UTC)[返信]

まずは、誤植の修正についてお礼を申し上げます。
たしかに、どの解釈が"the"解釈かと決めることはできないのでしょうね。いろいろな併記については賛成致します。手始めに、観測問題への関わりのあたりを書きましたが、参照文献なしのじょうたいでは、あまり思い切ったこともかけず、ちょっとびくびくです。もしよければ、直したり、消したりしてください。
シュレーディンガー本人がマクロについてどう考えているか、というのは確かにヤンマーの解釈という部分もあると思います。ただ、7章あたりを読むと量子力学が現実と共存しないということが強調してあることから、マクロに引きずり出して、述べたかったのはそのことなのかなと思います。
EPRについては、1章のところで、二つの可能性のある状態のうち一つを観測することで、もう一方の状態も確定することについて論じているわけですが、それが正にEPRが指摘したものを確認する事であるという考えだと思います。今、手元に本が無いので、また時間のあるときに見直してみます。
ともあれ、ご指摘の点についてもう一度元論文、ヤンマー文献とも読み直して見ます。コメントおよび、修正ありがとうございました。

--Kwansai 2007年6月1日 (金) 08:28 (UTC)[返信]

丁寧に有り難うございます。もうひとつ気になりましたのは、こちらは哲学は素人なので量子力学が不完全、欠陥があるというのは哲学的にはそうなのだと思います。ただ、喩えて言えばユークリッド幾何で、いかにもあやしい平行線の公理が他の公理から導けないから「不完全」だ、とずっと皆思っていたわけですが、結局非ユークリッド幾何がみつかってそもそも完全とか言っても仕方がなかったことを今は皆知っているわけです。不確定性関係にしても、気持ち悪いですが世の中そういうものなわけですし、EPRに関しても、どうもこれは変だ、なにか不完全だと皆思っていましたが、ベルの不等式などの考察で、量子力学というのは変なものなのだ、これ以上局所的隠れた変数を追加して古典力学的完全性に近づける事はできないのだ、と今ではわかっているわけです。シュレーディンガーの猫で示唆される「不完全性」も、そのような類いの不完全さで有る可能性もあるんではと思います。ですから「完全」「欠陥」という用語を「哲学的に完全」「操作主義的に完全」というふうに限定する事なく使うことには抵抗があるのですが ... とりあえずそういう意味で何ヶ所か "..." で括らせていただきましたがお許し下さい。

また、ご存じならば失礼しますが、猫、EPR、von Neumann, Wigner など基本的な原論文は論文選集 Quantum Theory and Measurement にまとまっておりますので、是非ヤンマーの主張にあわせて随時そちらも参照なさる事をお勧めします。 An apple zealot 2007年6月2日 (土) 04:32 (UTC)[返信]

不完全に"..."をつけることは了解致しました。ヤンマーの元文献も示してあるので、その意味についても読者が元文献にあたることで検証可能性も保証されると思います。論文選集のご紹介ありがとうございました。手に入ればあたってみたいと思います。--Kwansai 2007年6月2日 (土) 07:08 (UTC)[返信]

本文の大幅な改訂をお願いしたいのですが...

私は、シュレーディンガー本人が何を言おうとしたかについては意見を述べるつもりがありません。それは、歴史的経緯の問題に過ぎないので。それより、現代物理学においてどんな意味を持つか、その点について誤解を与える記述は修正すべきと思います。現在の記述は、哲学的解釈に偏り過ぎていて、科学的な解決事項を未解決事項として扱ったり、論理的にも矛盾が見られます。私が編集する前にあった矛盾を含む記述に逆戻りしています。An apple zealot氏の補足でも必要最低限のことは書かれているとは思いますが、百科事典として分かりやすいとは言えないと思います。

論理矛盾について簡単に説明します。「シュレーディンガーの猫が指摘した物」の「観測」の定義が明示されていません。「観測」が定義されていないなら、箱で囲っても「観測されない」ことは保証されません。「観測」が箱外の現象とする定義なら、箱で囲うことにより「観測」を阻止できます。しかし、「観測」が箱外の現象とは限らないのでは、箱で囲っても「観測」を阻止できません。つまり、「観測」の定義次第で、箱で囲う行為の意味が変わってきます。

言い替えると、箱で囲うことで「観測」を阻止できる前提なら、それは、「観測」が必ず箱外の現象であるとする前提(=暗黙の前提)です。ある前提において矛盾が回避できないなら、背理法により、その前提が間違っていると結論づけられます。(量子力学の世界でその論理が通じない可能性は否定できないが、その可能性が正しいなら「量子力学的記述が完成されていない事」を示すのは不可能となり、本文の記述の意味も無くなる。)よって、「観測」=必ず箱外で矛盾を回避できないなら、「観測」が箱外の現象とは限らないことを証明したことになります。「量子力学的記述が完成されていない事を示している」とする記述も、量子力学が完全であると仮定すると矛盾が生じることを理由とした一種の背理法による証明です。しかし、矛盾しない答え(=箱外の現象とは限らない)が導けるのであれば、背理法として証明の必要条件を満たしているとは言えません。証明として成り立たないなら、「量子力学的記述が完成されていない事を示している」とする記述は論理的に破綻しています。尚、証明の必要条件や十分条件を考慮するのは論理学の基本であろうと思います。論理学の基本を踏まえていないのでは、哲学としても失格でしょう。

量子力学的現象に矛盾しない「観測」の定義を示せて、かつ、その定義に基づいたシュレーディンガーの猫の結果を「マクロスコピックな観測」に一致させることができるなら、シュレーディンガーの猫の問題は全て解決できるはずです。言い替えると、シュレーディンガーの猫が解決済みであることを示すには、そのような定義を最低でも一つ示す必要があります。逆に、シュレーディンガーの猫が量子力学の矛盾を示すというなら、そのような定義が不可能であることを示す必要があります。さて、どちらか一方を示せる人はいますか?私にはできません。(ただし、理論としての完全さに欠ける仮説の域を出ない物を除く)--量子力学のド素人ことryon 2007年6月8日 (金) 12:36 (UTC)[返信]

ryon さま、すこし上にノートに書きましたが、猫の問題は人によって解釈が大きく違います。それは ryon さんが上でヤンマーの解釈に反論なさっていることからも明らかですが、かといってどれが唯一正しい解釈か、ということは無いと思います。正しい解釈だ、と僕が思うものはあって、ryon さんが思うものはあって、Kwansei さんが思うものはあっても、それのどれが「本当に」正しい解釈かというのは、例えば我々 3 人で議論して Wikipedia 上で決めるものではそもそもないでしょう。それは大学の科学哲学科に所属して研究して議論して論文書いて長い過程を経てすりあわせていくものです。
猫の問題には歴史的な側面もあれば、現代的な側面もあり、科学的な側面もあれば哲学的な側面もあるわけです。ですから、折角出典もあるヤンマー式哲学の記述をkwanseiさんが書いて下さって、多少歴史的な話も書きましたので、「改訂」というのではなく、より現代的、科学的側面を更に出典を明記しながら「併記」というふうにお願いできたらなと思います。
あと、「要求!」と書かれますとどっきりしましたので、節の名前をすこし大人しいものにかえさせていただきました。ご理解願います。
--An apple zealot 2007年6月8日 (金) 14:13 (UTC)[返信]
改題どうもありがとうございます。見易くするために勝手に字下げを入れさせてもらいました。
ここでの異論は哲学的な解釈の内容に関する物ではありません。ヤンマーの解釈の論理的矛盾点も示していますが、それは、ヤンマーの解釈が科学的な記述とは言えないことを示したに過ぎません。よって、「大学の科学哲学科〜」は話が違うと思います。私が求めているのは、科学と哲学を混同するような記述の訂正です。本文の主たる内容として書かれるべきことは、科学的にどういう意味を持つかであって、哲学的な解釈ではないなずです。もし、哲学的な解釈を記述するなら、「科学以外の分野に与えた影響」という節を設けたのだから、そちらに記述するべきでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月8日 (金) 14:52 (UTC)[返信]
「哲学としても失格」は言い過ぎでした。撤回します。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月8日 (金) 14:59 (UTC)[返信]
僕は猫は科学哲学的な問題だと思っていたんですが、純粋に科学的に、とはどういうことですか? まず「純粋に科学的」という日本語が難しくてよくわかりませんが、操作主義的に捉えた科学の枠内で、という意味でしたら、そうですね、おっしゃるように、entanglementや隠れた変数を Bell の不等式で操作主義的に定式化できたことから議論がすっきりしたように、猫の問題を操作主義的に定式化した話があれば話がすっきりしますね。そういう話は寡聞にして存じ上げませんが、文献をおしえていただけますか?読み間違っていたらごめんなさい。--An apple zealot 2007年6月9日 (土) 00:54 (UTC)[返信]
論点を明確にするために一部An apple zealot氏の発言位置を移動しました。
「純粋に科学的に」は「操作主義的に捉えた科学の枠内」と理解していただいて結構です。もちろん、その範囲に制限するということではなく、その範囲であれば十分ということであって、その範囲を超える理論が可能であればそれを妨げません。しかし、実験で確かめることのできない理論を無理に取り入れる必要はありません。それが「純粋に科学的に」ということです。
本文を見る限り、シュレーディンガーの猫に関する哲学的解釈というよりは、波動関数の収縮に関する哲学的解釈に見えます。しかし、波動関数の収縮については、ノート:重ね合わせで、An apple zealot 氏が説明されたこと「量子力学を使う実際的な立場からは、重ね合わせはきちんと定義されて、説明もされて、答えもあり、実験にかかるもの」と同様、波動関数の収縮についても「実験にかかるもの」であり、操作主義的には収縮が答えそのものと考えるべきであろうと思います。その収縮について考察しようとすれば、必然的に科学の枠を超えて哲学の領域に入ってしまうわけです。
科学的問題が全て解決済みで、哲学的な問題しか残っていないなら、その旨を本文に明記すべきでしょう。そして、百科事典であるならば、科学的にどのように解決されたかも含めて記述すべきと思います。
余談ですが、一つ疑問に思うのは、収縮の哲学的解釈に、どうしてシュレーディンガーの猫を必要とするかです。私には、どう考えても、シュレーディンガーの猫は蛇足にしか見えません。まあ、哲学の領域にはあまり踏み込まないことにしましょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月9日 (土) 10:31 (UTC)[返信]
「猫の問題を操作主義的に定式化した話」について、私は、この思考実験が定式化できる(もしくは誰かがした)のかどうかを論じようとしているのではなく、操作主義的にそうした課題がある旨を書くべきだろうと提案しているのです。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月9日 (土) 10:38 (UTC)[返信]

操作主義的に捉えた科学の枠内での論点まとめ

純粋に科学的に見た場合、量子力学に基づいた思考実験の結果が「マクロスコピックな観測」と一致するなら、シュレーディンガーの猫には何の問題もありません。科学的な課題は「一致の有無」一点だけに集約されます。これについてはよろしいでしょうか?--量子力学のド素人ことryon 2007年6月8日 (金) 15:30 (UTC)[返信]


ちょっと調べてみましたが、2000年あたりからいろいろと実験的にブレークスルーがあったようですね。Physics World の記事 reference をまとめた blog どなたかプロが書いて下さればいいんですが、哲学だけでなくてとりあえず実験的進展の項目は付け足すべきでしょうね。--An apple zealot 2007年6月9日 (土) 01:51 (UTC)[返信]

うえで引用した記事を読んでみた感じでは、操作主義的には、猫状態(マクロスコピックに異なる状態の重ね合わせ)を直接測定することができるか、というのが科学的な課題であるように思えますが、どうですか?SQUID の例なら、電流が右回りの状態|R>と、左回りの状態|L>がありますが、cavity の RF との共鳴で測られるのは電流の固有状態でなくて、エネルギーの固有状態で、それは|R>±|L>ですよね。で、それらがちゃんと測定されている、ということのようです。この実験事実が ryon さんのおっしゃる「一致の有無」ということなんでしょうか?--An apple zealot 2007年6月9日 (土) 17:32 (UTC)[返信]

それが猫状態を直接測定したことになるかどうかは、次の論点での議論が必要かと思います。
  • ミクロスコピック、メゾスコピック、マクロスコピックの定義
  • 思考実験において生物と非生物を区別すべきか否か
--量子力学のド素人ことryon 2007年6月10日 (日) 10:07 (UTC)[返信]

前者については、Leggett先生が量化しようと議論してるとうえの Physics World にありますね。今回のは ぐらいとか。そこに引いてある文献は PTP Supplement 69, p.80 ですが、何が書いてあるかかみ砕いておしえてくださるといいのですが... 二つ目についてはどうなんでしょう?ウイルス粒子を干渉させたという話があったはずですが、ryon さんの定義ではウイルスは生物ですか非生物ですか?

あと、申し訳ありませんが、僕も素人なので、僕相手に「議論が必要」と言われてもちょっと困ってしまいます。ですから、僕は基本的には文献を探してきてそれを元に返答しているだけなので、ryon さんが直接、論文を探して、論文を読むことによって参考文献の著者と"議論"していただいて、疑義があるなら専門家に質問していただいて、その結果結論をわかりやすく文献とともにまとめていただいたほうがいいかとおもうんですが... --An apple zealot 2007年6月10日 (日) 14:29 (UTC)[返信]

私は、ここで議論しようと言っているわけではありません。そうした議論を経て、初めて答えが得られるだろうと、証明に必要な手続きを論じているだけです。もちろん、ここで詳細な議論することを否定しているわけでもありません。
ミクロスコピック、メゾスコピック、マクロスコピックの定義については、どのように定義するかではなく、何を根拠に定義するかを示す必要があろうと思います。単なる経験則では、その経験則の信憑性が疑わしいので。
生物と非生物の定義については厳密な生物の定義では微妙なようです。もし、「ウイルス粒子を干渉」させることが、恒常性が破綻しても死なない性質によってもたらされているならば、「恒常性の破綻とともに死を迎える」ことが重要な鍵となるであろうと思います。生死の重ね合わせが恒常性と相容れないように見えることからも、ここでの定義は「恒常性の破綻とともに死を迎える」を重視すべきように思えます(この定義論は哲学か?)。いずれにせよ、「ウイルス粒子を干渉」の詳細が分からないと何とも言えません。
私もAn apple zealot氏も、基本的には何の義務もありません。そして、私は、中身の詳細について、たとえば、ヤンマーの解釈を載せるべきか、それとも、他の人の解釈を載せるべきかといった意見を述べているわけではありません。構成について、哲学と「操作主義的に捉えた科学」を明確に区別して書くべきであり、そして、哲学に関する記述なら「これは哲学ですよ」と誤解の余地のないように明記すべきだと意見を述べているに過ぎません。構成について意見を述べるには、中身についての知識も必要になってくるから、仕方なく中身について論じているのが実情です。そして、私は、自分の分をわきまえず、少し踏み込み過ぎたと反省していることころです。さらに言えば、私が発した意見や疑問に対して、An apple zealot氏が答えなければならない義務もありません。答えられる人が答える。そうしたボランティアも数が集まればそれなりの成果を上げられます。それこそが、Wikipediaが目指している道だと思います。だから、申し訳ありませんが、今後、中身そのものに踏み込むかどうかは慎重に考慮して判断したい思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月11日 (月) 12:02 (UTC)[返信]

構成に関する論点まとめ

思考実験等の考察は想定外のことに対する答えを出せません。EPR論文の例を見ても分かるとおり、考察と実験が違う結果を出すこともあります。これは独自の主張などではなく、暗黙の了解となっているであろう科学の基礎に関することです。ヤンマーの解釈も同じです。ヤンマーの解釈は、仮定に基づく考察であり、その仮定が間違っている場合を想定していません。もちろん、そうした仮定に基づく考察を無意味だとは断言できません。しかし、それは、あくまで仮定に基づいた考察に過ぎず、その仮定の正しさを証明したわけではありません。ヤンマーがどれだけの大家であろうとも、それは変わりません。そのことは、大物物理学者アインシュタインの発表したEPR論文が証明しています。

現状の本文の記述の問題点は、仮定が間違っている可能性について全く言及していない点です。つまり、両論併記されていないことが問題です。専門知識のない人が本文を読めば、そこで用いられてる仮定が科学的に証明されたと思いこむでしょう。「Aかも知れないし、Bかも知れない」ときは、「可能性としてAもBもあり得る」ことを真っ先に書くべきであり、それを明記せずに「Aに基づいた考察」を延々と書くのでは、「Aが正しいと証明された」と誤解されるような記述であり、中立的な観点での編集とは言えません。ヤンマーの解釈に基づいた記述への改変は、中立的な観点の点で後退しています。改変前の記述は、特定の仮定に限定せずに克服すべき課題が残っていることを示す物でした。しかし、改変後は、特定の仮定以外の可能性が恣意的に消されてしまっています。

一般常識に反する仮定を持ち出しながら、その仮定を持ち出す理由が明記されていないことも問題でしょう。一般常識的な仮定では克服できない課題があるという事実に触れず、唐突に突拍子もない仮定を持ち出すのでは、量子力学のみならず、科学全体に対する誤解を与えます。何の説明もなく唐突に突拍子もない仮定を持ち出すのは擬似科学の専売特許です。真っ当な科学の世界では、一見すると突拍子もない仮定のように見えても、それには何らかの理由があります。全体的な概要を理解するうえで、そうした理由は不可欠ですし、また、その理由は素人が一番疑問に思うことでしょう。専門書であるなら「そうした全体概要は別途勉強してくれ」で済むことかも知れませんが、百科事典はそうした全体概要を知らない人が読む物であり、全体概要を書かずに一部分に偏った詳細を書くのでは誤解を招く元です。「現時点では何が真実かは分からない。ただ、可能性としてああだこうだと議論しているに過ぎない。」こそが最も重要な記述ではないでしょうか。

「量子力学を専門に勉強した人が見れば誤解する余地がないが、そうでない人が見れば誤解しかねない」記述であれば、百科事典として適切ではないと思います。それが解消されるなら、私は何も言うことがありません。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月12日 (火) 09:39 (UTC)[返信]

こんにちは。いくらか資料を読み進めていまして、この項目に手を入れようと思っています。ご期待に沿えるかどうかはわかりませんが、ご意見は考慮に入れたいと思うのですが、いまひとつポイントが掴めません。

  • 「哲学と物理学を切り分ける」というご意見だと受け取っているのですが、それでよいでしょうか?
  • 「科学的な課題は「(量子力学に基づいた思考実験の結果とマクロスコピックな観測との)一致の有無」一点だけに集約されます」とおっしゃっています。まず、有無とは、どのような水準のものとご理解されているかを補足して頂けると助かります。それと、Wiki ryonさんの言う科学的課題が、その一点だけであり他にはないということを示す情報源があればご教授頂けますでしょうか。--Ks aka 98 2007年6月14日 (木) 16:27 (UTC)[返信]
    • 本文中で引用されているヤンマーの主張は、シュレーディンガーの猫の歴史的経緯と極めてスタンダードなコペンハーゲン解釈でしかないと思われますが、その点についてどう思われますか?
    • Kakannkann 2007年6月14日 (木) 21:37 (UTC)[返信]

まとめ直し

趣旨が伝わっていない部分があるようなので、まとめ直します。尚、以下の意見は構成に関するものであり、科学的な正確性を保証しません。内容に間違いがあるならば、訂正してもらってかまいません。

シュレーディンガーの猫の思考実験は、次のような仮定に基づいた場合分けが可能です。

場合分け
仮定生死に反映される前に波動関数が収縮する生死に反映される前に波動関数は収縮しない
隠れた変数理論パイロット解釈など
非隠れた変数理論量子デコヒーレンス理論などヤンマーの解釈など

ここで挙げた仮定のうち、明確に証明されたものは、局所的隠れた変数理論が実験により否定されたことだけです。それ以外の仮定については、何が正しいのか、今日まで証明されていません。科学であるなら、証拠がないことについて決め付けを行なわないことが条件となるはずです(これについて出典を出せと言われても、実証主義反証主義を見てくれと言うしかありません)。よって、表のような場合分けができること、それらについての証拠等について言及するなら、それは科学的記述でしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月15日 (金) 12:16 (UTC)[返信]

「シュレーディンガーの猫の思考実験」を分類する、というのが、よくわからないので、その分類について、情報源を示して頂けると助かります。

猫のたとえは、シュレディンガーの論文では、変数の扱いについての議論の後に出てきます。波動関数があって、それを古典的な描像に落とし込もうとするボーアやノイマンらの解釈に対して、シュレディンガーは波動関数というもの自体が量子力学における固有値である、という主張をしています。論文を読める人が、少なくとも二人はいらっしゃるようなので、確認してみてください。

エヴェレット解釈やベームのパイロット解釈というのは、基本的にコペンハーゲン解釈に対する代替策として、登場したものと認識しています(これらの論文は未確認なので)。立ち読みですが、和田純夫(別冊Newton)とか佐藤勝彦(監修の文庫だったか新書だったか)のエヴェレット解釈の説明は、コペンハーゲン解釈の矛盾を示すものとして、猫のたとえ話があって、その矛盾を解消する解釈を提示する、という構造のようです。エヴェレット解釈は、ポパーとかペンロースとかも取り上げていて、そっちで話題再燃という印象なんですが…。他方パイロット解釈はスリット通過のモデルだったと思います。

その後、論文は、「観測」の問題に移ります。この論文のきっかけとなったと註でも触れられているEPR論文の思考実験の話などもでてきます。ここでは、とりたてて、猫の話題をするわけではありません。基本的には、ノイマンの観測理論への批判と検討です。シュレーディンガーは、意識について深入りしませんし、生命についても触れていません。

シュレ猫は、巨視的オブザーバブルであれば測定の説明に拘わらず一意的に決定できる、または観測者の「意識」が作用すると波束が収縮するというノイマンの主張は、マクロ系では矛盾が生じるということを示す思考実験であるというのは、一般的な認識だと思われます(湯川ほか編『日本の名著』の注、小川・上田ほか「番犬はシュレーディンガーの猫を生むか?」日本物理学会誌48(10), 1993)。論文では、第10節の最後の段落で直接的な表現があります。なお、観測時の波束の収縮の過程は、グリーンや武谷が指摘するように単純に捉えるべきではないですし、観測するということの定義の問題について、「意識」という表現はノイマンが使っていますが、それは、生体かどうかということとは、異なるように思います。

もう一つ、背景として、シュレディンガー、およびアインシュタインは、量子力学を完全には受け入れていませんでした。これは、彼らの物理観とか世界観に関わるものです。シュレディンガーがインド哲学の強い影響を受けていたことは、それなりに知られていると思います。ソルベイ会議などでの論争や、EPR論文から、シュレディンガーのこの論文あたりの頃のシュレディンガーとアインシュタインの書簡はご存じの方もいるでしょう。この論文は、時間の扱いについての議論を経て相対論と整合性がとれないことで結ばれていますし、これ以前にアインシュタインも同じような結論を提示する論文(エッセイ)を提出しています。

さて、「シュレディンガーの猫」というのは、基本的には、コペンハーゲン解釈の矛盾を指摘する思考実験で、観測問題について重要な提起をし、論文では最終的に量子力学が完全な理論ではないことを示唆するもの、です。

量子力学自体は、今のところ、われわれが到達しうる実験環境で、大きな矛盾を示しませんから、解釈に深入りせずに、使わせてもらうというのが、多くの科学者の採った道です。当時の時代状況を考えるならば、ナチの台頭や、原子核物理への関心が高まったことなど、学問以外からの影響もあるかとは思います。量子力学は、誤りであるかもしれないし、発展の余地があるかもしれませんが、それがどういうものかはよくわからない。それについての議論は、扱うならば量子力学の項目で扱うべきでしょう。

解釈については、簡単に言うと、コペンハーゲン解釈(というのも人によって微妙に違ったりする)の矛盾として、EPR論文の思考実験や、シュレ猫があって、そうした矛盾への解釈上の代替策として、エヴェレット解釈やパイロット解釈がある。ですから、主流となってきたコペンハーゲン解釈に対して、内容はさておき、挙げていらっしゃるような表を作ることは理解できますが、シュレディンガーの猫でそれをしなければいけないとは、あまり思えません。いずれにしても、科学哲学や科学史の範疇の事柄ではないかと思います。前述の佐藤本では、大学の授業では解釈問題には触れずに講義するという話も出てきますし、ランダウ=リフシッツやサクライの教科書では、猫の話は出てきません。

哲学的なことも踏まえるならば、たとえばリンクされている実証主義には「しかし生命、量子力学における観測問題など実証主義が適用できない場合もあり、新たな哲学を必要とする時代がきている」という記述があったり、反証主義を代表するポパー自身の量子力学解釈に大きな問題が指摘されていたり、上で用いられている「操作主義」にしても、提唱者であるブリッジマンと量子力学の研究者との間では見解が異なり、対立していたという話ですから、ここでの議論には適切な言葉ではないでしょう。

なお、波動方程式は、ミクロとマクロを区別しません。では、マクロな重ね合わせは存在するか、というのが、An apple zealotさんが挙げている、「シュレ猫状態」の話題で、Leggettの80年代の議論が元となって、実験可能性が高まっているという話だったかと思います。

とはいえ、ぼくも専門家ではありませんし、参考にしている書籍の内容が古かったり、不確かだったりすることもあるでしょうし、あるいは、Wiki ryonさんが実は物理の専門家であるかもしれませんから、最初に書いた通り、分類すること、あるいは、他のご意見について、信頼できる情報源があれば、それをお知らせ頂ければ、確認の上、意見を翻すかもしれません。Wikipedia:独自研究は載せないは、基本的には本文に対して及ぶ方針ですが、内容についてのノートの議論でも、従うべき方針だと思いますので、未読でしたら、一度ご確認下さい。特に理論系の物理学、まして解釈問題となると、一般向けの読み物として登場する素材ではあっても、通常「理学部/理工学部」系では、学部や修士程度では、扱わないもので、よほどの専門家か、科学哲学系の人かしか、ちゃんと論文を読んだり、研究を確認したりしていないものと思います。思考実験の類は、自分であれこれ考えたりすることもできますが、その背景となるものを踏まえていないと、容易にトンデモになってしまいます。ぼくも、シュレディンガーの論文や評伝の他、ヤンマー、湯川、ノイマン、武谷他を確認しながら、こわごわ書いているわけでして。--Ks aka 98 2007年6月17日 (日) 08:18 (UTC)[返信]

平たく言えば、それらの論文は、本当にKs aka 98氏の仰るようなことを意図して書かれているのか?という疑問から、話は出発しています。どんな文章も、暗黙の前提を読み違えば、全然違う意味になります。某所のコメント依頼が良い例かと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月18日 (月) 17:22 (UTC)[返信]
はい。では、どうしましょうか。「どんな文章も、暗黙の前提を読み違えば、全然違う意味になります」というのは確かですが、ここでの暗黙の前提は、「どんな文章も」ではなく、「シュレーディンガーの猫」という百科事典の項目の内容について参照すべき文献にある具体的な文章(群)です。暗黙の前提とは、そこに現れる物理学史上の諸理論であったり、その背景にある数式・数学的取り扱いであったり、理論の提唱者の思想的背景であったり、時代状況であったり、と言ったもの、あるいは、多少端折りましたが、この項目の執筆をする、または内容について確認する上では、これまた暗黙の前提となる基本的な書籍や論文、およびその著者の立ち位置や評価と言ったもの、でしょう。
ぼくが、より詳しく説明をしたところで、納得して頂けるとは思えません。シュレディンガーの論文の他、上記の内容を確認するための資料は、シュレディンガーの猫の記事を書くのであれば、十分探すことが出来る程度に示してありますし、研究職になければアクセスできないようなものもありません。ぼくが読み取った「意味」が、妥当なものか、妥当なものとは違うものなのかという、具体的な議論に移ることは歓迎します。
また、「シュレーディンガーの猫の思考実験は、次のような仮定に基づいた場合分けが可能です」というご意見が、前提を読み違えているのではないかという、指摘をしたつもりです。もし、その仮定や場合分けをWiki ryonさんご自身が考えたのであれば、ウィキペディアではwikipedia:独自研究は載せないに反するのではないかと思います。物理学において解釈や観測の理論は、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」ではありません。もし、情報源があるのであれば、挙げて頂けますでしょうか。--Ks aka 98 2007年6月18日 (月) 18:26 (UTC)[返信]
論点から外れた議論をするのでは、論点整理した意味がありません。見出しに「構成に関する論点まとめ」と明記してあるように、上の表は偏りを説明するために掲載したに過ぎません。「以下の意見は構成に関するものであり、科学的な正確性を保証しません。」「内容に間違いがあるならば、訂正してもらってかまいません。」と書いてあり、「理論として採用しろ」と言っているわけではありません。
また、論文を引用すれば独自研究でなくなるわけではありません。引用の仕方を恣意的に細工すれば、十分に独自研究となり得ます。また、執筆者の言葉で書くことが独自研究にあたるなら、Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:著作権と相反することになり、両立不可能となります。よって、執筆者の言葉で書くことは、独自研究と見なさないと判断できます。ここで論じていることは、その執筆者の言葉での言い替えの範囲内に留まることを意図しています。
ここでの論点は、証明されていない特定の仮定に基づいた考察だけを強調し、それが証明されていないことを書かないことが問題であるということです。Ks aka 98氏の言葉を借りて言い替えるなら、「マクロな重ね合わせは存在するか」が議論の対象となるなら、存在する仮定と存在しない仮定の両方で論じなければならないはずです。それは、あくまで、議論の対象であって、どちらが正しいか証明されていないのだから、Wikipedia:中立的な観点に基づいて、両論併記すべきではないでしょうか。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月19日 (火) 09:34 (UTC)[返信]
念のために言っておくと、デコヒーレンスはマクロな重ね合わせを否定してはいません。あくまでも、ほかの自由度の足をトレースアウト(適当な和訳を知らないので)すると、古典確率と解釈できるから、量子的な重ね合わせがなくなるというもので、根本は重ね合わせ状態を否定していません。:--Kakannkann 2007年6月19日 (火) 15:09 (UTC)[返信]
言い替えます。「マクロな重ね合わせは存在するか」の論点において、次の二つは併記すべきでしょう。
  • 存在する仮定
  • 存在しない仮定
存在する仮定で矛盾が生じるのは、Ks aka 98氏も認めるとおりです。「では、どうして、存在しない仮定について説明しないのですか?」とここで問うているのです。「存在する仮定で矛盾が生じるなら、存在しない仮定を無視するのはおかしいでしょう?」という話です。そうした偏った記述が科学に対する誤解を与えるという話です。改定前の記述には「存在しない仮定」で生じる問題点を明記してありました。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月19日 (火) 09:54 (UTC)一部修正--量子力学のド素人ことryon 2007年6月19日 (火) 09:56 (UTC)[返信]
上に可換環さんもおかきですけども、いちおう確認させてもらいますと、「マクロな重ね合わせは存在するか」というのは、「マクロな重ね合わせ状態が、古典的統計アンサンブルと測定にかかる違いを持ちうるか」ということですよね。「存在」と言う言葉を操作的に定義してみました。量子力学の定式化では、何でも(ばかでかい次元の)ヒルベルト空間のベクトルですから、|生きた猫>+|死んだ猫>というのはベクトルとしては「存在」しますんで。当たり前のことを確認して失礼しました。あと、↓のコメントにお返事有り難うございました。--An apple zealot 2007年6月19日 (火) 22:07 (UTC)[返信]

ちょっと仕事が忙しくて参加できていなくてすいません。半月ぐらいは忙殺されそうです。とりあえず、生死に反映される前に収縮が起こる/起こらない、という文章の意味が分からないんですが、ご説明頂けますか?「収縮が起こる」のあたりはよく使う物理の用語で僕にも理解できるんですが、前半の「生死に反映される」というのは猫の波動関数の言葉ではどういうことですか? 生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせが不可能か可能かということですか?それともそれ以外の話でしょうか。--An apple zealot 2007年6月17日 (日) 16:35 (UTC)[返信]

はい、端的に言えば、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせが不可能か可能かということ」です。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月18日 (月) 17:17 (UTC)[返信]

えーと、あれこれ。

「構成に関する論点まとめ」

内容についての話はさておき、

証明されていない特定の仮定に基づいた考察だけを強調し、それが証明されていないことを書かないことが問題であるということです

ということであれば、まず、物理学において、仮定を置くのは、それが証明されていないからです。確定している事柄であれば、仮定を置く必要はありません。シュレ猫については、当時広く認めら得れつつあったコペンハーゲン解釈が正しいと仮定し、その場合に論理的に導かれる状況が、コペンハーゲン解釈が示す事柄と矛盾することを示すもの(示そうとするもの)です。コペンハーゲン解釈が正しいという証明は成されていない、という記述があればよいということですか?

さて、ちょっと話を蒸し返すと、ぼくは、最初の書き込みで「いまひとつポイントが掴めません。」として、

「哲学と物理学を切り分ける」というご意見だと受け取っているのですが、それでよいでしょうか?
「科学的な課題は「(量子力学に基づいた思考実験の結果とマクロスコピックな観測との)一致の有無」一点だけに集約されます」とおっしゃっています。まず、有無とは、どのような水準のものとご理解されているかを補足して頂けると助かります。それと、Wiki ryonさんの言う科学的課題が、その一点だけであり他にはないということを示す情報源があればご教授頂けますでしょうか。

と書かせて頂きました。これらは、このノートでのWiki ryonさんのご発言、「操作主義的に捉えた科学の枠内での論点まとめ」の節にある記述を対象として書いたつもりでした。一つめは、かなり広い問いかけですし、二つめは「操作主義的に…」の節にある書き込みですので、伝わると思いましたが、節分けするべきでしたでしょうか。混乱させていたら申し訳ありません。その後、「趣旨が伝わっていない部分」があるということで、場合分けをされているのですが、ぼくの問いとの関連が、今なお見えてきません。改めて、上記問いについて、お答え頂ければ助かります。

「マクロな重ね合わせ」

「マクロな重ね合わせは存在するか」ということについては、何も言ってないと思います。

では、マクロな重ね合わせは存在するか、というのが、An apple zealotさんが挙げている、「シュレ猫状態」の話題で、Leggettの80年代の議論が元となって、実験可能性が高まっているという話だったかと思います。

とぼくは書きました。これは、実験で確認することを目的としているのですから、存在する/しないというのは、仮定ではなくて、確認すべき事柄です。どのような条件にすれば観測が可能か、その条件下で観測対象はどのような振る舞いをするか、存在する場合と存在しない場合の区別を付けうるか、という話です。「マクロな重ね合わせは存在するかどうか」という仮定は、誰も導入していないような気がします。

検証可能性と独自研究

論文であれ科学読み物であれ、情報源を明かさなければ検証可能性を満たしません。Wiki ryonさんは明かしていませんし、ぼくは明かしています。ぼくの記述に、疑問点があるのであれば、Wiki ryonさん、あるいは、An apple zealotさん、Kakannkannさんらここでの議論に参加している方々、今この記述を読んだ人、誰でもが、ぼくが挙げている情報源とぼくの記述を比べて、恣意的な細工があるか、言い換えの範囲に留めているか、を検証できます。どうぞ検証してください。Wiki ryonさんの記述が、何を情報源としていて、その表現が言い換えの範囲内なのかを、検証させてください。また、そうやって、情報源を挙げて頂ければ、たとえば原論文は読んでいるのか、読んでいないとして、ヤンマーで概要を掴んだのか、ムーアの評伝を読んでなのか、最近出てたNewtonの和田さんの説明なのか、都筑さんの『不確定性原理』(ブルーバックス)なのか、といったところが分れば、それに即して説明もやりようがあります。項目に手を付けるにあたって、あと4~5冊は、未読の基本的な文献が残っていますが、そっちを情報源としているなら、急いで確認してみますし、知らない有用な本があれば、教えて頂きたいというのもあります。--Ks aka 98 2007年6月20日 (水) 19:18 (UTC)[返信]


まず、根本的な部分で誤解されているように思います。何度も言うように、ここで述べている意見は本文の記述に関するもの(うち、この部分で述べているのは構成に関するもの)です。「では、どうして、存在しない仮定について説明しないのですか?」や「そうした偏った記述が科学に対する誤解を与える」は本文の記述に対して言っているのであって、現在の物理理論に対して言っているのではありません。「物理学において、仮定を置くのは〜」以下の記述や「情報源を明かさなければ検証可能性を満たしません」からは、その辺りの誤解が見受けられます。「物理学が仮定を置くのはけしからん」という話ではなく、「仮定なら、証明事項と混同されないように、仮定であることが分かるように書くのが百科事典として適切な記述である」という指摘です。
「コペンハーゲン解釈」は、惑星の定義のように学会で定義されているような物ではなく、コペンハーゲン学派の共通認識に過ぎず、細部については合意が形成されていないと理解しています[7](その認識が正しいなら、何が「コペンハーゲン解釈」かの出典を示すのは困難)。よって、シュレ猫が「コペンハーゲン解釈が示す事柄と矛盾する」のではなく、+αの仮定の部分が矛盾を引き起こすはずです。+αの仮定の部分を含めて「コペンハーゲン解釈」と認識する人がいるかどうかは別として、その仮定を明記しない現状の記述では、科学に対する誤解を与えかねません。
厳密に言えば、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせが不可能か可能かということ」と「マクロな重ね合わせは存在するか」はイコールではありません。また、「生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせが不可能か可能か」は、「猫の生死に反映される前に波動関数が収縮するかどうか」という仮定から導かれる帰結であって、それ自体は仮定でありません。もし、「『マクロな重ね合わせは存在するか』ということについては、何も言ってない」が、その結論を導く仮定の真偽について言及されていないという趣旨であるならば、それを本文に記述すべきでしょう。何故なら、現在の本文の記述では、その仮定の真偽について言及されているかのように読めるからです。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月21日 (木) 10:18 (UTC)[返信]

基本的論点まとめ

ここでの基本的な論点はひとつです。

  • 科学的に証明されたことと仮定を混同させるような記述は改めるべき

これは、「科学的に証明されているぞ」や「特定の仮定に限らず、あらゆる条件で成り立つぞ」といった意見に反論する意図をもって発言したものではありません。もし、証明済み等の主張をされるなら、その説明を加えれば済むことです(もちろん、出典は必要です)。本文にそうした説明がなく、記述内容が証明事項なのか仮定なのかが明確でないことを百科事典的記述の問題点として指摘しているのです。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月21日 (木) 11:56 (UTC)[返信]

はい。「いくらか資料を読み進めていまして、この項目に手を入れようと思っています。」と書いたとおり、本文に手を入れようと思っていますし、「科学的に証明されたことと仮定を混同させるような記述は改めるべき」というのは、当然のことです。それは改めようと思います。改める際に、Wiki ryonさんが「科学的に証明されたことと仮定を混同させるような記述」と捉えている記述はどの部分なのか、「科学的に証明されたこと」「仮定」が指し示す内容・事柄について、齟齬がないようにしてから、執筆をしたいと思っています。とりあえずは、2007年6月8日 (金) 12:36 (UTC)の御指摘・要求に戻ろう…としたのですが、以下の提案がありましたので、そちらがある程度落ち着くまで、一旦棚上げにしたいと思います。
なお、コペンハーゲン解釈について、厳密な定義はないにしても、コペンハーゲン解釈と呼ばれる一つの括りがあって、個別の論を対象とする場合は別にして、少なくとも量子力学の解釈問題について議論する際には、その概要については相互に了解されたものとして用いられる言葉でもあります。ご指摘のことは、既に「コペンハーゲン解釈(というのも人によって微妙に違ったりする)」と書いて示唆している通り、承知しておりますのでご安心下さい。--Ks aka 98 2007年6月21日 (木) 16:06 (UTC)[返信]
以前にも述べたとおり、「科学的に証明されたことと仮定を混同させるような記述」とは、本文の「シュレーディンガーの猫が指摘した物」の記述について、次の点についての明記がないことです。
  • 「観測」「観測者」「観測装置」の定義とは何か?
  • その定義は、証明事項に基づいているのか、それとも、仮定か?(「証明事項に基づいている」とは、実験等によって判明した事実に基づいた合理的理由によって定義内容が決定されていることを指します。)
  • 「α崩壊の状態が猫の生死に反映される過程で波動関数の収縮が起きない(又は、起きる)」(つまり「α粒子の波動関数が収縮しないまま猫の生死に反映される(又は、されない)」)ことを前提としているかいないか?
  • その前提は証明されているか否か?
--量子力学のド素人ことryon 2007年6月22日 (金) 11:14 (UTC)[返信]
補足--量子力学のド素人ことryon 2007年6月22日 (金) 11:19 (UTC)[返信]

申し訳ありませんが、「投票提案」は撤回させて戴きます(長文を書くなとかの話のようなので、削除させて戴きます)。わたしはこの問題に関わりたくないというのが本心です。なお、作業用の別アカウント「Star of Sea」で、削除等の作業をさせて戴きます。皆様には、伏してお詫び申し上げます。--Maris stella alias Star of Sea 2007年6月21日 (木) 19:34 (UTC)[返信]


発言趣旨

本文の記述問題は、「科学と哲学が分離できないという端的な事実を露呈させる思考実験」であることについての説明が皆無であることです。現状の記述では、哲学的な考察を必要とする理由の説明がないまま、唐突に、哲学的な考察が出てきているように見えます。

(この段落の文章は記述の正しさを保証しません)哲学的な考察を必要とする理由の一つは、改定前の記述に書いてありました。もう一つの理由として、「隠れた変数理論」を巡る議論が挙げられるでしょう。隠れた変数理論は一見正しいように見えます。むしろ、常識的には、隠れた変数理論を否定する方がおかしいように見えます。しかし、局所的隠れた変数理論は実験で否定されました(現在でも非局所的隠れた変数理論は生きているけれども、それは常識的に受け入れ難い内容です)。隠れた変数理論が残した教訓は、量子力学を従来の常識で判断してはいけないということです。もし、大多数の物理学者が隠れた変数理論に固執していたら、量子力学の進歩は大幅な足踏みをさせられたかもしれません。そうならないためには、現時点で判明していないことについても、あらゆる可能性を考慮して考察を進める必要があります。だから、常識に反するという理由で安易に可能性を除外してはならず、そこに、哲学的な考察を必要とする理由があるのです。常識に反することについて考察が、将来、重大な役割を果たすかもしれません。(ここまでは記述の正しさを保証しません)

というような説明が一切なく、唐突に、特定の仮定に基づいた哲学的な考察が出て来るのでは、それを真に受けた読者は「唐突に突拍子もないことを言い出しても科学として認められる」と誤解するでしょう。実際には、合理的理由に基づいて順当な思考をしていたとしても、その理由を書かなければ、唐突に突拍子もないことを言っているように聞こえるのです。たとえば、相対性理論の結論だけを書けば、唐突に突拍子もないことを言っているように聞こえます。しかし、相対性理論がどのような経緯で産まれたかを説明すれば、合理的理由に基づいた順当な思考であることが分かります。量子力学も同じです。今の記述のままでは「唐突に突拍子もないことを言い出すのが量子力学」と誤解されます。そして、量子力学が科学の一分野である以上、それは、科学全体への誤解へと波及します。

Wikipediaは百科事典であり、百科事典が「誰でも容易に概要を理解できるよう簡潔にまとめたもの」であるなら、そうした誤解を誘発するような記述は致命的であると思います。私の提案は、そうした記述を改善しようとするものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。少々、余計なことに深く言及し過ぎた部分があり、その点は素直に反省します。ただ、そうしなければ話が進まないという事情があったことも考慮していただきたいと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月22日 (金) 11:52 (UTC)[返信]


ついでに前提として確認します。項目の内容は、執筆者の個人的な主張を直接あるいは間接的に投影したものであってはなりません。仮にそれが正しくともです。「タイタンは土星の衛星である」など、すでに常識である場合は別です。基本的に、誰がこう言ったとか、誰の解釈・意見はこうである、一般的にはこうとされている、という記述にすべきです。参考文献や出典は、執筆者個人の意見でないことを示すのに有効と考えます。むしろある場合には必須といえます。

また、これは前提ではなく個人的意見ですが、よくある誤謬を訂正する意図を持たせるにしても、それを積極的に前面に押し出すべきではないとも考えます。「誤解が広まっている」という「事実」を記述すること、あるいはある説によってそれまでの誤謬が訂正されたことを記述するのは問題はないと考えます。読者がすべて一様に「誤解した知識」を有していることを前提とする必要はなく、また、誤りを訂正したいという動機を持った場合、執筆者の個人的意見が入り込みやすいと考えるからです。--Calvero 2007年6月24日 (日) 01:12 (UTC)[返信]

現在の記述の論理的飛躍が改善されるなら、その論理の穴を埋める部分の記述方法について意見を述べる意図はありません。当然、その部分の記述にも出典を要するとは思いますが。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月24日 (日) 10:10 (UTC)[返信]