カイソウ
カイソウ | |
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品種 | サラブレッド系種 |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1941年 |
死没 | 不明(1945年5月14日?) |
父 | 月友 |
母 | 第二ベバウ |
生国 | 日本(北海道苫小牧市) |
生産者 | 錦多峯牧場 |
馬主 | 有松鉄三 |
調教師 | 久保田金造(京都) |
競走成績 | |
生涯成績 | 13戦8勝 |
獲得賞金 | 33000円(一部のみ[1]) |
カイソウとは日本の競走馬である。第二次世界大戦の最中、日本ダービー(東京能力検定競走)に優勝した。長距離特殊競走(現:菊花賞)も1位で入線したが全出走馬がコースを間違えていたため競走不成立、幻の二冠馬になった。のちに軍馬として徴用され行方不明となる。
現在「東京優駿(日本ダービー)」として行われている競走は、カイソウが優勝した1944年(昭和19年)は馬券発行も一般観客もない東京能力検定競走として行われた。この記事では便宜上日本ダービーと呼称する。また、馬齢はすべて現在の表記に統一する。
生涯
カイソウは1941年(昭和16年)、北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で生まれた。2歳時に札幌のセリに出され、建築業を営む有松鉄三に9000円で落札された。母・第二ベバウ(競走名ロンプ)は軽半種ながら帝室御賞典(小倉)優勝馬(全12勝)だった。
久保田金造のもとに預けられたカイソウは3歳になった1944年(昭和19年)4月23日、京都競馬場の芝1600メートルの競走でデビューした。ここはヤマトマスラヲのハナ差2着に敗れたが、5日後のレースで勝利を挙げる。その後ほぼ休むことなく走り続け、9戦6勝の成績を残して日本ダービーに挑んだ。東上に伴い橋本輝雄が騎乗し、東京競馬場での前哨戦に勝利する。2400メートルのレースで、評判馬であったクリアヅマに大差を付けてのレコードタイムでの勝利であった。
この年は太平洋戦争の戦況が悪化していたこともあり、日本各地では続々と競馬の開催が中止となった。横浜をはじめ阪神、札幌、函館、新潟、福島と閉鎖され、東京と京都でのみ「能力検定競走」として存在していた。そのような状況であるから、この年の日本ダービーは観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人あまりが見守るなかで行われた(日本ダービー史上もっとも観戦者が少ないレースといわれている)。騎手の橋本は当時を振り返り「スタンドは無人同然でいかにも寂しかった」と語っている。馬券の発売もなく、人気もまったくわからなかった。
カイソウは重馬場のなか、第3 - 第4コーナーで先頭に立つとそのまま逃げ切り、2着のシゲハヤに5馬身差をつけて圧勝し、初の北海道産日本ダービー馬の誕生となった。なおこのレースには農商省賞典(現・皐月賞)を制したクリヤマトも出走していたが、カイソウから10馬身離された4着に終わっている。騎乗していた橋本は「ダービー自体初騎乗だったけど、前走でカイソウで古馬に勝っていたから自信が有った」「ダービー初騎乗で初優勝だからうれしかった」と当時を回想している。
その後カイソウは半年ほど休養し、一戦を経て12月8日の長距離特殊競走で二冠に挑む。カイソウはこの競走で1位に入線したが、カイソウを始めすべての馬が2周目第3コーナーで競走コースを間違えたためレース不成立というアクシデントが起こった。これは、この年の菊花賞が前年の外回り2周から外回り → 内回りと周回するように変更されたものの、変更内容が騎手に伝えられておらず、前年同様のコースを走行したために発生したが、結果として、その後のカイソウの運命を大きく変える出来事となった。
長距離特殊競走後、カイソウは一戦走るが6着に終わり、現役最後のレースとなった1級種牡馬選定では12着と惨敗した。母方の血統にトロッター(スタンダードブレッド)の血が混じっていることもあって種牡馬に選出されず、乗馬となった。陸軍により一軍馬として徴用され、名古屋の第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資の乗馬になったのち、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲に巻き込まれて行方不明となったとされ、その最期は定かではない。
競走成績
年月日 | 競馬場 | 競走名 | 頭 数 |
着順 | 距離 | タイム | 騎手 | 斤量 | 着差 | 勝ち馬 / (2着馬) | ||
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1944. | 4. | 23 | 京都 | 呼4歳 | 9 | 2着 | 芝1600m | - | 杉村繁盛 | 57 | ハナ | ヤマトマスラヲ |
4. | 28 | 京都 | 呼4歳 | 6 | 1着 | 芝1600m | 1.41.4/5 | 杉村繁盛 | 57 | 6馬身 | (ヒサタケ) | |
4. | 30 | 京都 | 呼4歳 | 5 | 1着 | 芝2000m | 2.09.4/5 | 杉村繁盛 | 57 | 1 1/4馬身 | (コクリヨウ) | |
5. | 6 | 京都 | 呼4歳 | 9 | 1着 | 芝2000m | 2.10.0/5 | 杉村繁盛 | 57 | 3馬身 | (ダイゴシウスイ) | |
5. | 14 | 京都 | 呼4歳 | 8 | 3着 | 芝2000m | - | 杉村繁盛 | 59 | - | サツマゴロー | |
5. | 27 | 京都 | 呼4歳 | 7 | 4着 | 芝2000m | - | 杉村繁盛 | 57 | - | エシツバメ | |
5. | 28 | 京都 | 呼4歳 | 19 | 1着 | 芝2000m | 2.09.0/5 | 杉村繁盛 | 59 | 3馬身 | (ナカカチ) | |
6. | 2 | 京都 | 呼4歳特別 | 13 | 1着 | 芝2000m | 2.08.3/5 | 杉村繁盛 | 65 | 6馬身 | (ハイマサル) | |
6. | 11 | 東京 | 呼4歳 | 10 | 1着 | 芝2400m | 2.34.3/5 | 橋本輝雄 | 57 | 大差 | (クリアヅマ) | |
6. | 18 | 東京 | 東京優駿競走 | 18 | 1着 | 芝2400m | 2.39.1/5 | 橋本輝雄 | 57 | 5馬身 | (シゲハヤ) | |
12. | 1 | 京都 | 1級特殊整量 | 7 | 1着 | 芝2000m | 2.16.4/5 | 吉田三郎 | 65 | 8馬身 | (エシツバメ) | |
12. | 8 | 京都 | 長距離特殊競走 | 6 | 失格 | 芝3000m | 3:30.4/5[注 1] | 吉田三郎 | 57 | (1位入線) | 競走不成立[注 2] | |
12. | 17 | 京都 | 農賞 | 8 | 6着 | 芝2000m | - | 吉田三郎 | 65 | - | クリアヅマ | |
12. | 23 | 京都 | 1級種牡馬選定 | 15 | 12着 | 芝2400m | - | 吉田三郎 | 57 | - | マツメイ |
1944年(昭和19年)(13戦8勝)
血統表
カイソウの血統(マンノウォー系 / アウトブリード) | (血統表の出典) | |||
父 月友 1932 栗毛 |
父の父 Man o'War1917 栗毛 |
Fair Play | Hastings | |
Fairy Gold | ||||
Mahubah | Rock Sand | |||
Merry Token | ||||
父の母 *星友Alzada 1923 栗毛 |
Sir Martin | Ogden | ||
Lady Sterling | ||||
Colna | Collar | |||
Nausicaa | ||||
母 (軽半) 第二ベバウ 1927 鹿毛 |
*ペリオン Perion 1916 鹿毛 |
Amadis | Love Wisely | |
Galeta | ||||
Panacea | Cyllene | |||
Quintessence | ||||
母の母 (軽半)ベバウ 1918 鹿毛 |
*イボア Ebor |
Hackler | ||
Lady Gough | ||||
(中半) 豊橋 |
(スタンダードブレッド)豊平 | |||
(サラ系)上帯(ntb上帯牝系) |
カイソウを題材とした作品
- 日本中央競馬会の雑誌『優駿』1963年(昭和38年)1月号から5月号にかけて、丘雅男による小説「カイソウは何処にいる」が連載された。当時の関係者が実名で登場する。
- 1984年にはNHKによりラジオドラマが制作され、「ダービー馬 カイソウ号」の題で放送された[2]。