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タケホープ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タケホープ
欧字表記 Take Hope[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1970年3月24日[1]
死没 1994年7月16日[2]
インディアナ[1]
ハヤフブキ[1]
母の父 タリヤートス[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 谷川牧場[1]
馬主 近藤たけ[1]
調教師 稲葉幸夫東京[1]
厩務員 萩原武夫[3]
競走成績
タイトル 優駿賞年度代表馬[1](1973年)
優駿賞最優秀4歳牡馬[1](1973年)
生涯成績 19戦7勝[1]
獲得賞金 1億6665万2400円[1]
勝ち鞍
八大競走 東京優駿 1973年
八大競走 菊花賞 1973年
八大競走 天皇賞(春) 1974年
オープン AJCC 1974年
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タケホープ(欧字名:Take Hope1970年3月24日 - 1994年7月16日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1973年の優駿賞年度代表馬優駿賞最優秀4歳牡馬東京優駿(日本ダービー)では、10連勝中と注目を集めたハイセイコーを3着に退け優勝、さらに菊花賞でも同様にハイセイコーを下して二冠馬となった。他の勝鞍に1974年の天皇賞(春)アメリカジョッキークラブカップ

半姉に1972年の優駿牝馬(オークス)を優勝したタケフブキ(父パーソロン)がいる。

生涯

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デビューまで

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ハヤフブキは、ビューチフルドリーマー系に属する牝馬で、祖母のマーヴェラスは全姉弟には1955年の皐月賞優勝馬ケゴン、半弟妹にマツカゼオー[注釈 1]オーハヤブサがいた。競走馬として31戦4勝という成績を残し、引退後は北海道浦河町谷川牧場繁殖牝馬となった[5][6]。初年度はパーソロンと交配して、鹿毛の牝馬を産んだ。この牝馬は後にタケフブキと命名され、1972年の優駿牝馬(オークス)を制することとなる[7]

続く2年目には、1964年セントレジャーステークス優勝馬インディアナと交配[8]。そして1970年3月24日、谷川牧場にて鹿毛の牡馬(後のタケホープ)が誕生した[8]。誕生直後の仔は、皮膚が薄く、従順であった。また心臓が発達しており、追い運動をしても疲れを見せなかった[8]。谷川牧場の場長は「先頭を切るわけでもなく、いつもマイペースを保っている感じだったが、今思うとタフで天性のステイヤーの資質があったのでしょうね[8]」と幼駒時代を述懐している。

競走馬時代

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競走馬デビュー

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1972年、3歳となり東京競馬場稲葉幸夫厩舎に入厩。馬インフルエンザ拡大の影響で夏開催となった東京競馬場にて、7月15日の新馬戦(芝1100メートル)に嶋田功が騎乗してデビューした[8]。姉のタケフブキが優駿牝馬を制した直後だったことから人気を集め、単勝1番人気での出走となり、逃げ馬を捕らえて1馬身差の勝利を挙げた[8]。その後、年末までに6戦に出走したが、いずれも勝利を挙げるには至らなかった[8]

1973年、4歳となり初戦の若竹賞(200万円以下)で2勝目を挙げた[9]。その後、皐月賞出走を目指して東京4歳ステークス弥生賞と出走するも、どちらも勝利には至らず[10]。皐月賞を回避して休養に入った。4月15日に行われた皐月賞では、ハイセイコーが制し、9戦9勝とした。

4月28日、東京競馬場で行われた4歳中距離特別(芝2000メートル)に出走。陣営は東京優駿を目指していたが、結果次第では東京優駿への出走が危ぶまれる状況であった[9]。レースでは直線で追い上げ逃げたサクラチェスをハナ差差し切って勝利、この結果から東京優駿出走が決定した[9]。騎乗した嶋田は東京優駿に向けて「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」と発言。周囲やマスコミには皮肉としか受け取られなかったが、稲葉は東京優駿について、それなりの勝算を持っていたという[11][12][13][14][15]。その後、嶋田は東京優駿1週間前の優駿牝馬でナスノチグサで勝利し、優駿牝馬連覇[注釈 2]を果たしていた[9]。その直後には「ナスノチグサよりも(東京優駿の)タケホープの方が自信あるくらいだよ[9]」と宣言、直前には稲葉もタケホープの馬主近藤たけに入着[注釈 3]を約束するほどの自信を見せていた[9]

東京優駿(日本ダービー)

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5月27日、東京優駿(日本ダービー)に出走。皐月賞後、NHK杯を優勝して10連勝としたハイセイコーが単勝支持率66.6パーセントを占め[18][19]、当時の東京優駿史上最高支持率を更新した一方、タケホープはその50分の1の支持率に留まる9番人気であった[9]。ハイセイコーが2枠5番からの発走で有利とされる内側から、またタケホープは不利とされる外側、7枠21番からの発走となった[9]

序盤からボージェストホワイトフォンテンなど先頭が頻繁に変わり、ハイペースとなった[20]。ハイセイコーは中団馬群の内側、タケホープはそれより後方に位置した[20]。ハイセイコーは進路を求めて外側に転進、第3コーナー付近で早くも先頭直後まで進出していた[20]。一方タケホープは、大外に移り最終コーナーを迎えた。後方有利のペースのせいで伸びあぐねるハイセイコーを、残り200メートルでイチフジイサミがかわし、それを合図にタケホープも加速、イチフジイサミをかわし1馬身4分の3差をつけ、先頭で入線し優勝した[20]。直後に嶋田は観客席の方向に右手を上げて、声援に応えようとしていたが、人気を集めたハイセイコー敗退に観客の反応はタケホープ一様では決してなかった[20]。走破タイムは2分27秒8は、東京優駿レコードタイムを更新。2着のイチフジイサミ、それからさらに3馬身半遅れた3着はハイセイコーとなり[21]枠番連勝「5 - 7(イチフジイサミ - タケホープ)」は9560円と東京優駿史上最高配当を更新した[20]。稲葉と嶋田のコンビでは、前週の優駿牝馬をナスノチグサで制していたため、2週連続でクラシック競走優勝を果たした[22]。嶋田は、人気のハイセイコーの返し馬[注釈 4]を「猫のようにおとなしい[20]」と認識し、この時点でハイセイコーの敗退を断定していたという[20]。また勝因についてこう振り返っている。

21番枠も不利とは思いませんでした。1,2コーナーはみんな行きたがるので思い切って下げて内を進む。3コーナーから外に持ち出すというオークス[注釈 5]同様の作戦を立てたが、思い通りに競馬ができました。 — 嶋田功[20]

菊花賞

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東京競馬場の厩舎で夏休みとなり、クラシック三冠の三冠目である菊花賞に向けて、9月24日に関西に渡った[20][24]。秋初戦は10月21日の京都新聞杯で始動し、ハイセイコーと再び顔を合わせたが、8着に敗退。一方のハイセイコーは2着となった[24]

11月11日の菊花賞に参戦。京都新聞杯直後の10月24日に嶋田が調教中に落馬して右足を骨折したため、武邦彦に乗り替わった[24]。ハイセイコーが1番人気に支持される中、タケホープは、前走の敗戦と乗り替わりにより人気を落とし6番人気という評価であった。スタートからサチモシローが先手を主張し、前半の1000メートルを65.2秒で通過する「超スローペース」(横尾一彦[24])の逃げを見せた。出走15頭中、ハイセイコーは3番手、対してタケホープは6番手につけていた[24]。最終周回の第3コーナーでは、ハイセイコーが早めに動いてコーナー過ぎの下り坂で先頭に立ち、直線コースでは馬場の最も内側を選択した。対してタケホープも、早めに進出して好位まで位置を上げて直線に差し掛かり、馬場の中央からハイセイコーを追った[24]。やがて内外2頭は並び立ち、同時に決勝線を通過した[24]。写真判定の結果、外のタケホープがハナ差先着していることが認められ、東京優駿、菊花賞優勝の二冠馬となった[25][注釈 6]。3着にはイチフジイサミが入り、上位3頭は東京優駿と全く同じ3頭であった。武はこう振り返っている。

レコードでダービー勝ちした馬なのに不思議と人気がなかったね。ゴール前ハイセイコーが差し返しに来たのは驚いたが、3コーナーからハイセイコー1頭を目標に進めたので楽な競馬でした。 — 武邦彦[24]

年末にはこの年の優駿賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選出され、稲葉は東京競馬記者クラブ賞を受賞した[24]

5歳(1974年)

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1974年、5歳始動戦は1月20日のアメリカジョッキークラブカップであった。小島太に乗り替わり、菊花賞時より20キログラム増加という自身最高体重で臨んだ[24]。直線に入るまで最後方で待機し、ハイセイコーなど諸々かわして優勝[27][注釈 7]。続く中山記念では、鞍上が嶋田に戻って参戦したが小回りコースの中山競馬場と不良馬場に苦戦、ハイセイコーが大差勝ちを果たす一方で2.2秒離された3着に敗退した[24][29]

4月29日の天皇賞(春)に参戦予定であったが、厩務員ストライキが発生したため1週間延期し、5月5日の開催となった[24]。2番人気での出走した。サチモシローが逃げ、ハイセイコー、ストロングエイトがそれを追いかける位置におり、タケホープは中団に位置した。最終コーナーにてハイセイコーとストロングエイトが先頭となり、タケホープは5番手から追い上げ態勢となった。直線ではまずハイセイコーが失速し、ストロングエイトが単独先頭となった[24]。それからタケホープが外から追い上げ、残り50メートルでストロングエイトに並び、クビ差差し切り先頭で入線した[30]。天皇賞(春)優勝を果たし、5歳春にして天皇賞勝ち抜きとなった。馬場から退場しようとするタケホープの脇腹には拍車の跡ができており、血が浮き出るほどであった[24]。稲葉は1954年のオパールオーキット、1964年のヤマトキョウダイに続く天皇賞3勝目となり、10年ごとに3勝を達成した[31]。嶋田は「直線半ばで3着かな、と思ったが、負けられないと思い、必死で馬を促したら伸びてくれた。この馬の精神力の強さには頭が下がります[24]」と振り返っている。

疲れが取れないために、宝塚記念参戦を断念し栗東トレーニングセンターで笹針治療を施されたのち、福島県いわき市の馬用の温泉施設がある競走馬総合研究所常磐支所で夏を過ごした[31]。秋は、オープン競走で復帰し5着敗退。続く有馬記念では、ハイセイコーとともに引退レースとなり、タケホープが1番人気に推された[31]。ハイセイコーと9回目の対戦となったがタニノチカラの逃げ切りに遭い、5馬身遅れた2着にハイセイコー、それにクビ差遅れた3着がタケホープであった[31]

引退後

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1975年から種牡馬となり、種付け料は50万円に設定された[8]。初年度は44頭、2年目は60頭、3年目は40頭の繁殖牝馬を集めたが、成績不振から交配を希望する繁殖牝馬が減り、1987年には種付け頭数はゼロになった[8]。産駒にアルゼンチン共和国杯2着のミナガワローレル、東京4歳ステークス3着のカシマボーイの名が挙がる程度で、これといって活躍馬を出せずに終わった[32]1994年に死亡、墓は生まれ故郷の谷川牧場にある[2][33]

死後、2004年にJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として、「タケホープメモリアル」というレースが中山競馬場で施行された[34][35]。また、2013年には「東京優駿第80回記念」として、「1970'sダービーメモリーズ・タケホープカップ」というレースが東京競馬場で施行されている[36][37]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[38]およびJBISサーチ[39]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1972.07.15 東京 3歳新馬 芝1100m(不) 7 7 7 001.7(1人) 01着 1:08.4 0嶋田功 52 (マスノボル)
0000.07.30 東京 すいれん賞 OP 芝1200m(良) 5 1 1 003.9(2人) 05着 1:12.8 0嶋田功 53 シカゴ
0000.09.30 中山 3歳200万下 芝1000m(稍) 14 6 9 017.0(8人) 11着 -059.6 0嶋田功 52 クリノナミ
0000.10.21 東京 りんどう賞 2下 芝1400m(良) 14 4 6 022.2(6人) 04着 1:25.5 0中島啓之 52 キクカギョクリュウ
0000.11.05 東京 白菊賞 2下 芝1400m(良) 9 5 5 005.9(3人) 06着 1:25.2 0中島啓之 52 カミノテシオ
0000.12.03 東京 3歳200万下 芝1400m(良) 16 2 4 007.3(2人) 04着 1:26.1 0小島太 53 トウコウアコ
0000.12.29 中山 3歳200万下 芝1600m(不) 15 7 12 006.1(2人) 05着 1:44.2 0小島太 53 リンネルンド
1973.01.20 東京 若竹賞 2下 芝1600m(重) 11 7 9 013.7(4人) 01着 1:38.6 0小島太 54 (スピードリッチ)
0000.02.11 東京 東京4歳S 芝1800m(良) 9 6 6 011.9(3人) 03着 1:49.8 0小島太 54 スピードリッチ
0000.03.04 中山 弥生賞 芝1800m(良) 10 3 3 021.9(4人) 07着 1:52.1 0嶋田功 55 ハイセイコー
0000.04.28 東京 4歳中距離S 5下 芝2000m(稍) 12 2 2 004.2(1人) 01着 2:03.9 0嶋田功 54 (サクラチェス)
0000.05.27 東京 東京優駿 芝2400m(良) 28 7 21 069.2(9人) 01着 2:27.8 0嶋田功 57 (イチフジイサミ)
0000.10.21 京都 京都新聞杯 芝2000m(不) 13 7 11 031.7(6人) 08着 2:09.1 0嶋田功 57 トーヨーチカラ
0000.11.11 京都 菊花賞 芝3000m(稍) 15 6 11 012.1(6人) 01着 3:14.2 0武邦彦 57 (ハイセイコー)
1974.01.20 東京 AJCC 芝2400m(良) 10 1 1 009.3(3人) 01着 2:27.5 0小島太 57 (ブルスイショー)
0000.03.10 中山 中山記念 芝1800m(不) 9 1 1 003.6(2人) 03着 1:54.3 0嶋田功 58 ハイセイコー
0000.05.05 京都 天皇賞 芝3200m(良) 16 1 1 004.8(2人) 01着 3:22.6 0嶋田功 58 (ストロングエイト)
0000.11.09 東京 4歳上オープン 芝1800m(良) 8 4 4 006.3(2人) 05着 1:50.0 0嶋田功 59 ヤマブキオー
0000.12.15 中山 有馬記念 芝2500m(稍) 9 5 5 004.2(1人) 03着 2:36.7 0嶋田功 56 タニノチカラ

血統表

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タケホープ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ネアルコ系
[§ 2]

*インディアナ
Indiana
1961 鹿毛
父の父
Sayajirao
1944 黒鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Rosy Legend Dark Legend
Rosy Cheeks
父の母
Willow Ann
1942
Solario Gainsborough
Sun Worship
Court of Appeal Apelle
Brown Princess

ハヤフブキ
1963 黒鹿毛
*タリヤートス
Tulyartos
1957 黒鹿毛
Tulyar Tehran
Neocracy
Certosa Prince Chevalier
Arctic Sun
母の母
ラインランド
1957 鹿毛
*ライジングフレーム The Phoenix
Admirable
マーヴェラス *プリメロ
オーマツカゼ
母系(F-No.) ビユーチフルドリーマー系(FN:12) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco3×5.5.5=21.88% [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ[40]
  2. ^ 『蹄跡』昭和48年度[41]
  3. ^ 『蹄跡』昭和48年度[41]
  4. ^ JBISサーチ[40]、netkeiba.com[42]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1959年朝日杯3歳ステークス優勝馬[4]
  2. ^ 1972年はタケフブキで勝利。翌1974年もトウコウエルザで制して3連覇を果たしている[16]
  3. ^ 5着以内に入ること[17]
  4. ^ 発走前のウォーミングアップのこと[23]
  5. ^ 前週ナスノチグサで制した優駿牝馬を指す。
  6. ^ 2024年時点で、東京優駿・菊花賞の二冠馬はタケホープ以後出ていない(三冠馬を除く)[26]
  7. ^ 一方のハイセイコーは9着に沈んだ[28]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q タケホープ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月26日閲覧。
  2. ^ a b タケホープ”. 競走馬のふるさと案内所. 日本軽種馬協会. 2024年11月30日閲覧。
  3. ^ 『心に残る名馬たち』 92頁。
  4. ^ 競走成績 マツカゼオー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月30日閲覧。
  5. ^ 牝系情報 ハヤフブキ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月26日閲覧。
  6. ^ ハヤフブキ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月26日閲覧。
  7. ^ タケフブキ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月26日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1988年6月号 39頁。
  9. ^ a b c d e f g h 『優駿』1988年6月号 40頁。
  10. ^ 『最強サラブレッド列伝 歴史に名を残す"レジェンドサラブレッド"たち』 30-31頁。
  11. ^ 『三冠へ向かって視界よし―杉本清・競馬名実況100選』 15頁。
  12. ^ 『「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負』 168頁。
  13. ^ 『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の証言』 68頁。
  14. ^ 『日本ダービー80年史』 130頁。
  15. ^ 『激動の昭和名馬列伝』 95頁。
  16. ^ 伝説のジョッキー第9回 不屈のオークス男 嶋田 功”. 日本中央競馬会. 2018年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月30日閲覧。
  17. ^ 入着(競馬用語辞典)”. 日本中央競馬会. 2024年11月30日閲覧。
  18. ^ 優駿』1986年4月号 23頁。
  19. ^ 『優駿』2000年7月号 37頁。
  20. ^ a b c d e f g h i j 『優駿』1988年6月号 41頁。
  21. ^ 『実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬』 71-77頁。
  22. ^ 『日本ダービー80年史』 129頁。
  23. ^ 返し馬(競馬用語辞典)”. 日本中央競馬会. 2024年11月30日閲覧。
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『優駿』1988年6月号 42頁。
  25. ^ 『実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬』105-108頁、110-114頁。
  26. ^ 【菊花賞】1番人気ダノンデサイルは6着 51年ぶりダービーとの2冠ならず ― スポニチ競馬Web”. スポニチ競馬Web. スポーツニッポン新聞社 (2024年10月20日). 2024年11月30日閲覧。
  27. ^ 『さらばハイセイコー』 49頁。
  28. ^ 『心に残る名馬たち』 86-87頁。
  29. ^ 『さらばハイセイコー』 50頁。
  30. ^ 『鉄人ジョッキーと呼ばれて わが愛しの馬上人生』 119頁。
  31. ^ a b c d 『優駿』1988年6月号 43頁。
  32. ^ 『心に残る名馬たち』 89頁。
  33. ^ 馬文化ひだか:日高路の馬:名馬の記念碑・墓碑:谷川牧場:ホクトボーイ墓碑・タケホープ墓碑”. 北海道日高振興局. 2022年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月30日閲覧。
  34. ^ JRA50周年記念サイト イベントスケジュール”. 日本中央競馬会. 2004年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月30日閲覧。
  35. ^ 中山10R タケホープメモリアル”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2024年11月30日閲覧。
  36. ^ 「ダービーメモリーズ」のレース名が決まる”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ (2013年4月1日). 2024年11月30日閲覧。
  37. ^ 東京7R タケホープカップ(500万下)”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2024年3月24日閲覧。
  38. ^ タケホープの競走成績”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2021年6月26日閲覧。
  39. ^ 競走成績 タケホープ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年6月26日閲覧。
  40. ^ a b 5代血統表 タケホープ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月30日閲覧。
  41. ^ a b 『蹄跡』 昭和48年度、日本中央競馬会、1974年、77頁。 
  42. ^ タケホープの血統表”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2024年11月30日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 『蹄跡』昭和48年度、日本中央競馬会優駿編集部、1974年。doi:10.11501/12441174
  • 赤木駿介『実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬』勁文社、1975年。
  • 増沢末夫『鉄人ジョッキーと呼ばれて わが愛しの馬上人生』学研マーケティング、1992年。ISBN 4051064212
  • 杉本清『三冠へ向かって視界よし―杉本清・競馬名実況100選』日本文芸社、1995年。ISBN 4537024836
  • 原良馬『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年。ISBN 4569554571
  • 寺山修司古井由吉他『「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負』小学館〈小学館文庫〉、1998年。ISBN 4094024816
  • 渡辺敬一郎『最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の証言』講談社、1999年。ISBN 4062097125
  • 『最強サラブレッド列伝 歴史に名を残す"レジェンドサラブレッド"たち』オークラ出版〈OAK MOOK 304〉2009年。ISBN 4775514210
  • 中川秀一『激動の昭和名馬列伝』KADOKAWA〈サラブレBOOK〉、2020年。ISBN 4047361437
  • 『週刊Gallop 臨時増刊』産業経済新聞社
    • 『日本ダービー80年史』、2013年。
    • 『【週刊100名馬EX】さらばハイセイコー』、2000年。
  • 『優駿』日本中央競馬会、中央競馬ピーアール・センター
    • 1986年4月号 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 2】不滅のアイドル ハイセイコー」
    • 1988年6月号 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 28】アイドル殺しのステイヤー タケホープ」
    • 2000年7月号 横尾一彦「【追悼】ハイセイコー さらば"昭和の怪物"よ 次代が生んだヒーロー」

外部リンク

[編集]