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カシュウチカラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カシュウチカラ
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1973年5月11日
死没 2003年8月5日(30歳没)
カバーラップ二世
カシュウミドリ
母の父 トサミドリ
生国 日本の旗 日本北海道早来町
生産者 吉田権三郎
馬主 吉田権三郎
調教師 矢倉玉男(美浦
競走成績
生涯成績 47戦9勝
獲得賞金 2億6465万5000円
勝ち鞍
八大競走 天皇賞(春) 1979年
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カシュウチカラ日本競走馬テンポイントトウショウボーイグリーングラスらが主軸のTTG世代の一頭で、1979年天皇賞(春)優勝馬である。

戦績

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4歳

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カシュウチカラがデビューしたのは1976年2月1日、東京のダート戦だったが、ブービーの15着と惨敗した。2戦目に勝ち上がったものの、その後は勝ち上がるのに時間が掛かり、皐月賞日本ダービーに出走できなかった。 重賞初挑戦は6月の日本短波賞だったが9着に終わった。秋には菊花賞を目指して、セントライト記念に出走したが6着に終わり、結局菊花賞にも出ることができなかった。クラシックに出られなかったカシュウチカラはこの年16戦3勝に終わった。

5歳

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カシュウチカラが本格化したのは5歳になってからだった。準オープン馬の身で格上挑戦した目黒記念(春)で、グリーングラスやクライムカイザーを相手に優勝し、人気薄ながらも重賞初制覇を果たしたカシュウチカラは遅ればせながらオープン馬になった。

重賞初制覇を果たしたカシュウチカラだったが、中山記念7着、日本経済賞は落馬競走中止となり、春はいまいちな成績に終わった。秋は京王杯オータムハンデキャップこそ勝ったものの、毎日王冠4着、目黒記念(秋)3着と勝ち切れず、初めてのGI級レースの出走となった第76回天皇賞ホクトボーイの4着に終わった。

6歳

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6歳になったカシュウチカラはアメリカジョッキークラブカップと目黒記念(春)を連勝し、絶好調の状態で第77回天皇賞に挑んだがグリーングラスの3着に終わった。秋も毎日王冠6着、オープン2着を経て天皇賞(秋)に出走したがテンメイの3着と勝ち切れず、有馬記念カネミノブの9着に終わった。

7~9歳

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7歳になったカシュウチカラは中山記念6着、ダイヤモンドステークス2着を経て天皇賞(春)に挑んだ。このレースで初めて郷原洋行を鞍上に迎えたカシュウチカラはダービー馬サクラショウリシービークロスに競り勝って優勝、悲願のGI級レース制覇を果たした。

天皇賞制覇を果たしたカシュウチカラだったが、秋になると突然不振に陥り、毎日王冠9着、オープン6着、有馬記念14着と掲示板すら載れない惨敗を喫した。

その後、カシュウチカラは9歳まで走ったが6戦して1度も勝つことができず、1981年の目黒記念(春)で最下位の14着になったのを最後に競走馬を引退した。

引退後

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引退後は種牡馬になったものの、同期のトウショウボーイの様な成功を収めることはできなかった。だが、めぼしい産駒こそ出せなかったものの長く種牡馬生活を続け、最後の産駒であるパンパスグラス(1998年生まれ、新潟県競馬で25戦未勝利)は2001年末まで現役競走馬として走っていた。種牡馬引退後も好待遇を得ており2003年に30歳の長寿を全うするまで吉田牧場で功労馬として余生を送っていた。

主な勝鞍

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天皇賞(春)、目黒記念(春)2回、アメリカジョッキークラブカップ、京王杯オータムハンデキャップ

血統表

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カシュウチカラ血統ハイペリオン系 / Tourbillon 5×5×5=9.38%、Tracery 5×5=6.25%、Pharos 5×5=6.25% (血統表の出典)

*カバーラップ二世
1952 黒鹿毛
父の父
Cover Up
1943 黒鹿毛
Alibhai Hyperion
Teresina
Bel Amour Beau Pere
Love Set
父の母
Betty Martin
1948 鹿毛
Hollyrood High Cloud
Mandy Hamilton
Rhoda F. Rhodes Scholar
Notebook

カシュウミドリ
1967 鹿毛
トサミドリ
1946 鹿毛
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
*フリッパンシー
Flippancy
Flamboyant
Slip
母の母
* Dhysta
デイスタ
1958 鹿毛
Auriban Pharis
Arriba
Druda Djebel
Cinderella F-No.4-n


外部リンク

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