ミツハタ
ミツハタ | |
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第2回東京杯(1952年5月18日) | |
欧字表記 | Mitsuhata[1] |
品種 | サラブレッド[1] |
性別 | 牡[1] |
毛色 | 栗毛[1] |
生誕 | 1948年4月20日[1] |
死没 | (不明) |
父 | クモハタ[1] |
母 | ニュージランド[1] |
母の父 | ダイオライト[1] |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 近藤俊明 |
馬主 |
河野信一 河野徳 |
調教師 |
東原玉造(中山) →矢野幸夫(中山) |
競走成績 | |
生涯成績 | 36戦16勝[1] |
獲得賞金 | 6,550,360円 |
ミツハタは日本のサラブレッド競走馬[1]。1952年の天皇賞(春)優勝馬である。
来歴
[編集]なお、36戦すべて、芝コースでの出走である。
1950年
[編集]10月22日、未出未受(東京競馬場、以下 東京)でデビューし1着。2戦目の11月5日の10万円下(東京)も勝った。12月10日に行われた朝日杯3歳ステークス(中山競馬場、以下 中山)では4番人気に推されたが、勝ったトキノミノルに8馬身の差をつけられ4着に終わった。
1951年
[編集]4月7日のオープン(中山)を勝ち3勝目。矢野幸夫の鞍上では2戦目となった4月29日の4歳特別(東京)では、2分05秒0のレコード勝ちを収めた。この一戦以後しばらく、矢野が鞍上を務めることになる。
5月13日の皐月賞では3番人気に支持されたが、トキノミノルが勝ち、当馬はイツセイにハナ差およばず3着となった。
続く6月3日の東京優駿では5番人気となったが、皐月賞同様に、トキノミノル、イツセイに次いで3着。しかしイツセイには5馬身差をつけられた。したがってこの時点では、当馬はトキノミノルの脇役にすぎなかった。
ところが6月20日、トキノミノルが破傷風で急死したことで、その後の同世代の勢力図は変わっていく。
秋シーズンは西下せず、関東でのレースに専念した当馬は、9月16日の特ハン(東京)を勝ち、連闘となった9月23日、菊花賞を目指すイツセイと毎日王冠(東京、当時2500m)で対戦。イツセイに1馬身3/4をつけ、2分36秒2のレコードをマークし、初の重賞勝ちを収めた。続く10月6日のオープン(中山)も勝って3連勝。
だが10月14日のカブトヤマ記念(中山)では、西下直前のイツセイと対戦したが、5馬身差の2着に終わった。
その後、11月4日の特ハン(東京)を勝利。11月25日のセントライト記念(東京、当時2400m)ではイツセイに続き2番人気となったが、今度はイツセイに3馬身の差をつけて勝った。
その後、12月9日の中山特別(中山、2400m)において、2分31秒3のレコード勝ちを収めた。
1952年
[編集]同年に矢野が調教師へと転身したため、主戦は渡辺正人に替わった。また、管理調教師も東原玉造から矢野へと替わった。
3月15日のオープン(東京)から始動。67キロの負担重量を背負いながらも勝った。続く3月21日の東京特別(東京)も勝利した。
その後、天皇賞(春)を目指し西下。5月3日の天皇賞(京都競馬場、3200m)では1番人気に支持された。天皇賞では、前年の菊花賞でイツセイを3着に沈めて勝った2番人気のトラツクオーの粘りにてこずり、最後は頭差となったが、3分23秒1のレコードタイムで制した。
その後、5月18日の東京杯(現在の東京新聞杯、東京。当時2400m)では2分29秒2のレコードタイムをマークしてイツセイを下し、5月31日のオープン(中山)では、69キロを背負いながらも勝った。
続く6月8日の中山ステークス(中山)ではイツセイの2着に終わったが、6月22日の春の目黒記念(東京、2500m)では、73キロの斤量を背負いながらも、2分35秒0のレコードタイムをマークし、2着のトキツオーに3馬身半の差をつけて勝利。一方、イツセイは3着に終わった。しかし、このレースが当馬にとって最後の勝利となった。
その後、秋は5戦するも、70キロの斤量を背負うレースが3つもあったこともあり精彩を欠き、2着2回が最高の着順だった。結局、11月22日のオープン(東京)の2着が最後のレースとなった。
エピソード
[編集]- 『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ発行)によると、大川慶次郎が競馬評論家への道へと進むきっかけとなった馬は、このミツハタである。トキノミノルの急死後、同世代のナンバーワンは朝日杯、皐月賞、東京優駿でいずれも2着となったイツセイであるとの、多くの競馬評論家の論評に対し「イツセイの血統では基本的に、2000mを超える距離はもたない。対してミツハタは2400m以上の距離だと真価を発揮する。」という自負があったのがその理由だが、大川の見立て通り、イツセイは生涯21勝を挙げたものの、2000mを超える距離では一度も勝てず、ついにクラシックレースおよび天皇賞制覇を果たせぬまま引退した。対してミツハタは、2400m以上の距離では実に7勝を挙げ、内5回がレコード勝ちであった。
- 主戦騎手を務めた渡辺正人も、ミツハタが生粋のステイヤーであったことを証言している[2]。
- 天皇賞を制した時は上述の通りトラツクオーとのデッドヒートになったが、叩き合いに自信のあった渡辺は最後の直線で先行するトラツクオーにピタッと馬体を寄せて叩き合いに持ち込んだ。その寄せ幅は、トラツクオー鞍上の小林稔が振るったムチが渡辺に当たるほどであった。レース後、渡辺が勝負服を脱いで確認したところ、ムチで叩かれた痕が4本くっきりと残っていたという[3]。
- 上記のように菊花賞には出走していない。菊花賞優勝馬トラツクオー鞍上の小林稔は、「なんで出てこなかったのか分からない。出走していたらミツハタが菊花賞を勝っていただろう。」という趣旨の発言をしている。
競走成績
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主な産駒
[編集]血統表
[編集]ミツハタの血統 (タッチストン系 / アウトクロス) | (血統表の出典) | |||
父 クモハタ 1936 栗毛 |
父の父 *トウルヌソルTournesol 1922 鹿毛 |
Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Soliste | Prince William | |||
Sees | ||||
父の母 *星旗Fairy Maiden 1924 栗毛 |
Gnome | Whisk Broom | ||
Faiery Sprite | ||||
Tuscan Maiden | Maiden Erlegh | |||
Tuscan Red | ||||
母 ニュージランド 1940 黒鹿毛 |
*ダイオライト 1927 黒鹿毛 |
Diophon | Grand Parade | |
Donnetta | ||||
Needle Rock | Rock Sand | |||
Needlepoint | ||||
母の母 *レディライモンドLady Limond 1922 鹿毛 |
Limond | Desmond | ||
Lindal | ||||
Cintra | Eton | |||
Cyrense F-No.4-d |