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ユナイテッド航空232便不時着事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ユナイテッド航空 232便
着陸直前に撮影されていた事故機の写真
(赤色で示された部分が損傷個所)
出来事の概要
日付 1989年7月19日
概要 アンコンテインドフェイラーによる油圧全損
現場 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アイオワ州スーシティ スーゲートウェイ空港
乗客数 285
乗員数 11
負傷者数 172
死者数 111
生存者数 185
機種 DC-10
運用者 アメリカ合衆国の旗 ユナイテッド航空
機体記号 N1819U
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ユナイテッド航空232便 緊急着陸事故(ユナイテッドこうくう232びん きんきゅうちゃくりくじこ)は、1989年7月19日ユナイテッド航空の定期232便が油圧操縦不能のままアイオワ州スーシティに設置されているスーゲートウェイ空港に緊急着陸し、大破した事故である。乗員乗客296人中111人が死亡した。

なお、ユナイテッド航空の定期232便は、「UA232」「UAL232」とも表記する。

事故当日のユナイテッド航空232便

事故機の飛行経路。図の右上の▲印の辺りで、機体が破損した。

運航乗務員の略歴

事故当時の運航乗務員の略歴は次の通り。年齢は共に事故当時。

  • 機長:アルフレッド・C・ヘインズ (英語: Alfred C. Haynes)57歳。
    ユナイテッド航空に1956年2月入社。総飛行時間29,967時間、そのうちDC-10での飛行時間は7,190時間で、DC-10とボーイング727の操縦資格を持つ。
  • ファーストオフィサー:ウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) 48歳。
    1969年8月にナショナル航空入社。その後パンアメリカン航空を経てユナイテッド航空勤務。ファーストオフィサー(≒副操縦士)としての総飛行時間はおよそ20,000時間で、DC-10のファーストオフィサーとしては665時間を有する。全日本空輸 (ANA) の機長で「事故のモンタージュ」の編者である前根明(ペンネームは岡野正治)によれば、この総飛行時間から考えれば「パンアメリカン航空で機長として飛んでいたのでは?」という。
  • セカンドオフィサー:ダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) 51歳。
    ユナイテッド航空に1986年5月入社。セカンドオフィサー(≒航空機関士)としての総飛行時間はおよそ15,000時間。そのうち727での飛行時間は1,903時間、DC-10での飛行時間は33時間。
  • 機長(DC-10教官兼任):デニス・E・フィッチ(英語: Dennis E. Fitch) 46歳。
    空軍州兵として約1,500時間程飛行した後、ユナイテッド航空に1968年2月入社。ユナイテッド航空におけるDC-10の飛行時間は総計2,987時間、内訳はセカンドオフィサーとして1,943時間、ファーストオフィサーとして965時間、機長として79時間。当時デンバーのユナイテッド航空訓練センターで教官(訓練チェッカー)として勤務していた。事故機には非番で便乗しており、事故発生後は不時着の瞬間まで彼が事故機のスラストレバー(エンジン推力制御レバー。自動車のアクセルペダルに相当)を握った。彼はJAL123便事故の教訓から油圧が抜けて操舵不能になった場合の操縦法を研究していた。2012年5月7日、脳腫瘍のため死去[1]

事故の概要

UA232便の油圧系統の破損状況の図。

中部夏時間の14時9分に離陸した当該機はアイオワ州上空11,000m(37,000フィート)付近を巡航飛行していた15時16分、機体尾部の第2エンジンのチタン合金製ファンブレードが、内在していた製造時の微少な金属構造欠陥から、疲労破壊を起して3つの部分に破断し飛散した。

飛散したファンブレードの破片はエンジンカウルを突き破り機体を貫通(アンコンテインドフェイラー)し、エンジン下に配置されていた3系統の油圧操縦系統がすべて破断された。そのためUA232便はエンジン出力の制御以外の操縦(方向舵や昇降舵の操舵など)が全くできない状態に陥った。

なお、事故の発端となったファンブレードの構造欠陥は、製造元のゼネラル・エレクトリックやユナイテッド航空整備部門の探傷検査で見落とされ、事故の発生を防ぐ事ができなかった。

運航乗員の対応

機長のアルフレッド・C・ヘインズを始めとする3名の運航乗務員と、非番で便乗しておりヘインズに支援を要請された機長(兼任DC-10教官)デニス・E・フィッチは、目視点検により機体は油圧系統・3系統全てが切断され全滅してしまった(=操舵不能になった)ことを知る。

この緊急事態にも、フィッチが日本航空123便墜落事故を教訓に、JAL123便で運航乗務員たちが行っていた油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究しシミュレータにより訓練していたことと、ヘインズ達232便運航乗務員は極めて豊富な経験を有していたことが幸いした。また、JAL123便の垂直尾翼脱落のような、機体形状へのダメージが無かったことも幸いであった(JAL123便は、油圧喪失による操縦不能に加え、尾翼喪失によって航空機として安定した飛行をする為の機体形状も失われていた)。 彼らは残る1番(左翼)および3番(右翼)エンジンの推力操作だけで、機体の姿勢を立て直した。そして、アイオワ州スーシティスーゲートウェイ空港(IATA: SUX/ICAO: KSUX)までたどり着き、冷静沈着に不時着を試みた。

後に彼らの行動はクルーリソースマネージメント (CRM; en:Crew (or Cockpit) Resource Management) の成功例として全世界に知られることになった。

結果

トラフィックコントロールセンターに状況を報告した所、デモイン国際空港への着陸を指示されるも、機体は右旋回を続けており、現在地との関係からスーシティー・ゲートウェイ空港が指示された。不時着までの間に、ランディング・ギアを出したり、また機体の重量削減のためと、不時着時に火災が発生した場合に備えて過剰の燃料を投棄するなどの対応を取った。

運航乗務員達の卓越した技能と努力により不可能と考えられた不時着は敢行された。管制官や運航乗務員は、当初は使用中の滑走路31(滑走路延長2,744m)に着陸させようとした。しかし、滑走路31へ向かうには左旋回を行って空港東側を南下し、さらに右旋回を行わなければならなかった。航空機は、事故で飛行特性が変化して(エンジンの推力を操作しなければ)右旋回する傾向にあり、左旋回が困難な状況であったため、フィッチは前方にある閉鎖されていた滑走路22(滑走路延長2,012m)に正対し着陸することを決断し、要求した。管制官は閉鎖されていた滑走路に待機していた消防隊、救急隊などを移動させた上で232便に着陸を許可した。

232便は接地寸前までかなり良い精度で滑走路に正対することができたが、地上30m付近から機体のバランスが崩れ機首が下がり、また舵面が効かないため通常の着陸時より120km/h以上も速い速度で滑走路に進入し、右主翼翼端から滑走路に接触して発火。機体は文字通り火の車のように回転しながら分解しつつ大破炎上した。しかし、地上の消防救急隊 (CFR) の懸命な救出活動により、乗員乗客296名中185名が生還した。また、空港は数日前に火災訓練が行なわれており、その経験も多分に生かされていた。111名の死者の中には、スティルカップリング反応に名を残す有機化学者ジョン・K・スティル英語版教授が含まれる。

本件事故は、1992年アメリカでテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』に描かれることとなった。また、「メーデー!:航空機事故の真実と真相」(第9シーズン第14話「SIOUX CITY FIREBALL」)、「ザ・ベストハウス123」、「奇跡体験!アンビリバボー」及び「トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン3時間スペシャル」、「世界衝撃映像100連発[2] でも本件事故が紹介された。

また、本件事故を調査した国家運輸安全委員会 (NTSB) はクルーの行動を「期待以上」と賞賛するとともに、油圧操舵不能状態の機体を無事着陸させる訓練を運航乗務員に施すことは事実上不可能であると表明した。後にこの着陸劇は「奇跡の着陸」と呼ばれるようになり、ヘインズ機長以下4名はアメリカ航空界において最も栄誉ある「ポラリス賞」を受賞するに至った。

アメリカ航空宇宙局 (NASA) は本件事故およびJAL123便事故の発生に鑑み、対応策として、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している[3]。また、三菱重工でも同様の研究が行われている[4]

今日、高品質が要求される航空宇宙材料では、本事故の原因となったチタン合金材の不純物除去のため、真空中で溶解して不純物除去することを3度繰り返す三重溶解が実施されている。これにより、チタン合金の機械強度を低下させ金属疲労発生の原因となる酸素・窒素などの反応性ガスを合金内から徹底して除去している[5]

脚注

  1. ^ St. Charles pilot who helped save 184 dies DailyHerald.com 2012年5月8日閲覧
  2. ^ トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン・2014年11月26日放送分の番組内容 - テレビ朝日ホームページ
  3. ^ NASA Dryden Past Projects: Propulsion Controlled Aircraft (PCA)”. NASA/Dryden Flight Research Center. 2014年12月5日閲覧。
  4. ^ 全舵面不作動時に推力増減のみで航空機を制御する技術” (PDF). 三菱重工技報. 2014年12月5日閲覧。
  5. ^ チタン溶解技術の進歩 チタン開発 50 周年特集 KOBE STEEL ENGINEERING REPORTS/Vol. 49 No. 3 (Dec. 1999)

関連項目

油圧操縦システムに問題が発生した事故

外部リンク

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