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{{政党
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|下院議員定数 = 630
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'''北部同盟'''(ほくぶどうめい、'''Lega Nord'''、'''"LN"''')は、[[イタリア]]の[[政党]]。[[党首]]は[[ウンベルト・ボッシ]]。工業地帯が密集し経済的に優越しているイタリア北部の自治拡大を主張する[[地域政党]]。
[[Image:Umberto Bossi.JPG|thumb|党首:ウンベルト・ボッシ]]


過激な言動や文化的保守性、[[反共主義]]、反移民運動などから[[極右]]と認識されることが多いが、政治的目標は労働者の保護と地方分権(かつては「究極の分権」として[[独立]]も視野に入れたが、パダーニャ事件の不発から現在は[[連邦制]]を最終目標に掲げている)にあることから、左翼政党という見方も一般的である<ref>[http://archiviostorico.corriere.it/2009/giugno/10/Fabbriche_Gazebo_Lega_modello_Pci_co_8_090610031.shtml Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci". Corriere della Sera. 2009-06-10.]</ref>。近年はイタリア人労働者の職を奪っている[[移民|外国人移民]]の排斥に軸を移している。
'''北部同盟'''(ほくぶどうめい、'''Lega Nord'''、'''"LN"''')は、[[イタリア]]の[[政党]]。[[党首]]は[[ウンベルト・ボッシ]]。


イタリア政界の保守勢力で最大規模を誇る[[フォルツァ・イタリア|フォルツァイタリア党]](中道右派)や、[[ネオ・ファシズム]]を源流とする[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]](国粋右翼)とは対立することも多い。
== 概要 ==
工業地帯が密集し経済的に優越しているイタリア北部の自治拡大を主張する[[地域政党]]。近年はイタリア人労働者の職を奪っている[[移民|外国人移民]]の排斥に軸を移している。過激な言動や文化的保守性、[[反共主義]]、反移民運動などから[[極右]]と認識されることが多いが、政治的目標は労働者の保護と地方分権(かつては「究極の分権」として[[独立]]も視野に入れたが、パダーニャ事件の不発から現在は[[連邦制]]を最終目標に掲げている)にあることから、左翼政党という見方も一般的である<ref>[http://archiviostorico.corriere.it/2009/giugno/10/Fabbriche_Gazebo_Lega_modello_Pci_co_8_090610031.shtml Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci". Corriere della Sera. 2009-06-10.]</ref>。


==年表==
事実、イタリア政界の保守勢力で最大規模を誇る[[フォルツァ・イタリア|フォルツァイタリア党]](中道右派)や、[[ネオ・ファシズム]]を源流とする[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]](国粋右翼)とは対立することも多い。
*[[1989年]]
**[[6月15日]] - [[1989年欧州議会議員選挙]]で複数の地方政党が選挙連合「北部の国民」を結成。
*[[1991年]]
**[[2月15日]] - 「北部の国民」を基盤にした国内政党「北部同盟」が成立。
*[[1992年]]
**[[4月5日]] - 第11回総選挙で下院55議席・上院25議席を獲得して躍進する。
*[[1994年]]
**[[3月27日]] - 第12回総選挙で右派連合「自由の極」に参加。下院55議席・上院5議席を獲得、下院議席は維持するも上院議席は後退。
**[[5月10日]] - 第一次ベルルスコーニ内閣成立。
*[[1995年]]
**[[1月17日]] - 政府の分権政策に不満を表明して連立離脱、第一次ベルルスコーニ内閣総辞職。
*[[1996年]]
**[[4月21日]] - 第13回総選挙で下院59議席・上院27議席を獲得。党勢を回復させる。
**? - イタリア共和国内の反連邦主義に対し、[[パダーニア連邦]]を宣言。国内外の支持を得られず。
*[[1998年]]
**? - [[ヴェネツィア共和国運動]]が北部同盟を離脱。
*[[1999年]]
**? - [[パダーニア連邦]]構想を事実上、撤回する。
**[[6月13日]] - 欧州議会選挙(イタリア選挙区)で敗退、議席が後退する。
*[[2001年]]
**5月13日 - 第14回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院30議席・上院17議席に留まり、全体議席の5%程度に大幅後退。
**6月11日 - 第二次ベルルスコーニ内閣成立。
*[[2006年]]
**[[4月9日]]・[[4月10日]] - 第15回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院26議席・上院14議席に後退。
**[[5月17日]] - 「自由の家」が議席過半数を喪失、第二次ベルルスコーニ内閣総辞職。
*[[2008年]]
**[[4月13日]]・[[4月14日]] - 第15回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院60議席・上院26議席に再び躍進。
**[[5月8日]] - 第三次ベルルスコーニ内閣成立。
==党史==
===背景===
イタリアの[[経済]]は二度の[[世界大戦]]以来、復興期に[[工業]]化が進められたイタリア北部・中部の経済と、依然として[[自作農]]中心であるイタリア南部の経済とが著しく乖離(かいり)した状態が続いており、財政上、北部と中部の経済が南部の経済を支える形になっている。こうした状況を打開するべく、イタリア[[政府]]は南部も北部同様の[[工業地帯]]にしようと開発計画([[バノーニ計画]])を進め、多くの[[国営企業]]を誘致した。こうした行為は南部の工業化に一定の成果はもたらしたが、機械化された国営企業の誘致はインテリ層の職域を増やしただけで、肝心の大多数を占める農民達に職を与える効果はなく、経済的にも税金に頼る非効率な国営企業は南部経済の政府資金への従属を一層に深めてしまった。また[[第二次世界大戦]]中の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍への協力や、[[戦後]]の混乱期を利用して勢力を伸ばした[[マフィア]]は南部に強大な勢力を構築しており、企業誘致や[[インフラ]]整備に捻出(ねんしゅつ)された資金はこれらマフィアに吸い上げられ、南部経済の発展には寄与しないケースも散見された。


それでも国家機能の分担や、北部への公共投資(南部開発には北イタリアの民間企業が多数加わっていた)としての効果から、[[バノーニ計画]]を手本にした政策はその後も続けられた。だがイタリアの経済全体が悪化し始めると、南部は無論、北部でも[[失業]]や[[賃金]]低下が広がり、次第に「北部住民は南部住民をこれ以上養うことはできない」という反感が募っていった。実際にはイタリア経済の失墜は[[北欧]]に匹敵するとも言われた福祉政策の偏りによるもので必ずしも南部開発が原因ではなかったが<ref>http://www.lcv.ne.jp/~saland/qanda200211.htm</ref>、同時期に発生した大規模なマフィアと政界の癒着事件([[タンジェントポリ]])の影響で南部は悪感情で見られがちであった。
==歴史==


===南北済格差===
===結党===
[[Image:Umberto Bossi.JPG|thumb|党首:ウンベルト・ボッシ]]
北部同盟の最も主要な前身政党は[[ヴェネツィア同盟]]で、同党は1983年の総選挙で初めて地方政党として国会議席を獲得した政党であった。それに続くのが1987年に書記長ウンベルト・ボッシを国政に送り出したロンバルディア同盟であり、両党は欧州議会選挙で選挙連合「北部の国民」を結み、1991年に発展的に解消させる形で北部同盟が結党された<ref>Piero Ignazi, ''Partiti politici in Italia'', Il Mulino, [[Bologna]] 2008, p. 88</ref><ref name="Ginsborg">Paul Ginsborg, ''L'Italia del tempo presente'', Einaudi, [[Turin]] 1996, pp. 336-337, 534-535</ref><ref name="Galli 1">Giorgio Galli, ''I partiti politici italiani'', BUR, [[Milan]] 2001, pp. 379-380, 384</ref>。


北部同盟は税金を中央政府に集めてから地方経済に見合わせて再分配する財源制度を「ローマ・ルンファルド」(''Roma ladrona''、'''ローマの政府は大泥棒だ'''の意)と呼び、戦後イタリアの集権制の象徴として厳しく批判した<ref>Palo Rumiz, ''La secessione leggera. Dove nasce la rabbia del profondo Nord'', Feltrinelli, [[Milan]] 2001, pp. 10-13</ref>。また貧しい南部からの国内移民(出稼ぎ労働者)、国外からの外国人移民が北部の富を奪っているとも主張された。従来の地方主義者の票だけでなく、[[タンジェントポリ]]で既存の右翼・左翼の大政党に失望していた労働者層の一部は北部同盟を支持して、同盟結成は成功を収めた<ref name="Ginsborg"/><ref name="Galli 1"/> 。1992年の総選挙で北部同盟はほぼ無名の状態から一挙に56名の下院議員と17名の上院議員を獲得して、政界再編の中心となった<ref>David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, pp. 263-266</ref>。地方政界でも1993年のミラノ市長選挙で党内左派に属するマルコ・フォルメンティーニが当選を果たした<ref>Piero Ignazi, ''Partiti politici in Italia'', Il Mulino, [[Bologna]] 2008, p. 90</ref>。
同党は[[イタリア]]の一角を占める[[ロンバルディア州]]の[[地域主義]](地方主義)[[政党]]に端を発する。元より北イタリアは都市国家の伝統から自治拡大に熱心で、元共産党員の地方政治家[[ウンベルト・ボッシ]]はロンバルディアでの運動を組織化することに成功する。[[1989年]]にはピエモンテやヴェネトで行われていた同様の運動団体と連合し、イタリア北部全体の[[自治権]]拡大を主張する政党として結党された。


===パダーニア事件===
イタリアの[[経済]]は二度の[[世界大戦]]以来、復興期に[[工業]]化が進められたイタリア北部・中部の経済と、依然として[[自作農]]中心であるイタリア南部の経済とが著しく乖離(かいり)した状態が続いており、財政上、北部と中部の経済が南部の経済を支える形になっている。こうした状況を打開するべく、イタリア[[政府]]は南部も北部同様の[[工業地帯]]にしようと開発計画([[バノーニ計画]])を進め、多くの[[国営企業]]を誘致した。こうした行為は南部の工業化に一定の成果はもたらしたが、機械化された国営企業の誘致はインテリ層の職域を増やしただけで、肝心の大多数を占める農民達に職を与える効果はなく、経済的にも税金に頼る非効率な国営企業は南部経済の政府資金への従属を一層に深めてしまった。また[[第二次世界大戦]]中の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍への協力や、[[戦後]]の混乱期を利用して勢力を伸ばした[[マフィア]]は南部に強大な勢力を構築しており、企業誘致や[[インフラ]]整備に捻出(ねんしゅつ)された資金はこれらマフィアに吸い上げられ、南部経済の発展には寄与しないケースも散見された。
1994年の総選挙で北部同盟は同じく同じく既存政党の票をさらって躍進した[[ベルルスコーニ]]の[[フォルツァ・イタリア]]が主導する右派連合「自由の極」に加わって選挙を戦い、[[ジャンフランコ・フィーニ]]の[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]]([[旧ネオ・ファシスト党]])や [[キリスト教中道民主連合]]らと共に第一次ベルルスコーニ内閣を樹立した。しかしその背後で選挙戦そのものは苦戦を強いられており、労働者層の多くが[[キリスト教民主主義]]を主張した[[フォルツァ・イタリア]]党に投票したことで、得票率は以前より後退してしまっていた。しかし選挙区の幾つかの投票区構造などから、得票率から見れば過大な議席数を得て存在感を発揮することができた<ref>David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, pp. 267-273</ref>。政権でも下院議長や、5つの大臣職(副首相・工業大臣・経済大臣・欧州議会担当大臣・行政改革担当大臣)を与える厚遇だったが、友好関係は長く続かなかった。


1995年1月、ボッシは連立政権の分権政策が不十分であると表明、野党第一党である左翼民主主義者党(旧・イタリア共産党、現・イタリア民主党の前身)による内閣不信任案に賛成票を投じて造反した。しかし党内では予想以上にボッシの路線に反発があり、多くの穏健派分権主義者が北部同盟を離脱してイタリア連邦党を樹立、後に[[フォルツァ・イタリア]]へ合流した。党内には左派グループのみが残る形となり党勢衰退を危惧する声が起こったが、ボッシは分権主義に理解を示す左派連合「オリーブの木」と結びついて幾つかの地方選挙を戦っている。右派連合離脱後、命運を決める事となる1996年の総選挙で北部同盟は議席数を下院議員59名・上院議員27名と躍進を遂げ、ボッシら強硬な自治を説く党内左派が一定の力を維持する形になった<ref>David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, pp. 273-276</ref>。従って党内意見は過激な言説が通るようになっていき、最終的に北部同盟は「中央政府が即時連邦制に移行しないなら、北部のみで連邦制の新国家を樹立する」と宣言した([[パダーニア構想]])。そして政府がこれを黙殺すると「パダーニア連邦政府」の樹立を宣言して対決姿勢を強めたが、国連や国連加盟国にこれを承認する国は一切現れず、国際法上は無効行為と見なされた。
それでも国家機能の分担や、北部への公共投資(南部開発には北イタリアの民間企業が多数加わっていた)としての効果から、[[バノーニ計画]]を手本にした政策はその後も続けられた。だがイタリアの経済全体が悪化し始めると、南部は無論、北部でも[[失業]]や[[賃金]]低下が広がり、次第に「北部住民は南部住民をこれ以上養うことはできない」という反感が募っていった。実際には、{{要出典範囲|イタリア経済の失墜は[[北欧]]に匹敵するとも言われた福祉政策の偏りによるもので|date=2009年7月}}、必ずしも南部開発が原因ではなかったが、同時期に発生した大規模なマフィアと政界の癒着事件([[タンジェントポリ]])の影響で南部は悪感情で見られがちであり、北部同盟は既存政党の崩壊にも助けられて党勢を飛躍的に伸ばした。また最初期の時点で南部でも議席や党員を獲得しているが、これは前述の通り、北部同盟は北部各州の自治運動を取りまとめた存在であることを考えれば別に不思議なことではない。分離運動などに対するイメージから北部人の[[民族主義]]的な運動だと思われがちだが、ボッシはあくまで[[地方分権]]の観点から、それに逆行する南部政策と中央政府を批判しているのであり、[[中央集権]]に繋がる大規模な[[民族主義]]には否定的である。また最終的には、南部や中部でも地方分権運動が加熱することを望んでおり、事実、ボッシは何度か南部や中部の自治運動とさらなる合同を行って、イタリア全土の連邦主義運動を統括する団体の設立を試みている。


1996年から1998年はこうした過激な行動も相まって北部同盟が最も注目を集めた時代となったが、元から複数の地方主義の寄り合いである北部同盟内では対立が絶えなかった。1998年には主要前身政党であった[[ヴェネツィア共和国運動]]が北部同盟からの離脱を宣言し、それ以外にも多数の幹部党員がボッシの強硬路線を拒絶して離党していった。1999年、党内外の批判からボッシは事実上、[[パダーニア構想]]を無期限で凍結して、連邦制によるイタリアという枠組みでの地方分権へと再び回帰する道をとった。だがこうした一貫性のない行動はますます党内の混乱に拍車をかけ、更に北部同盟の議員・党員の離脱を生み出した。同年に行われた欧州議会選挙で北部同盟は敗北して議席を減らし、勢いに陰りが見えていることを印象付けた。
===パダーニア事件の失敗と党勢の衰退===
政界再編が進む[[1994年]]、ボッシは同じく既存政党の票をさらって躍進した[[ベルルスコーニ]]の[[フォルツァ・イタリア]]や[[ジャンフランコ・フィーニ]]の[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]]([[旧ネオ・ファシスト党]])と手を結んで選挙を戦い、初の政権入りを果たした。だが、[[連邦主義]]に否定的な両名と対立したボッシはほどなく政権を離脱し、[[ベルルスコーニ]]政権は崩壊する(このとき、ボッシはベルルスコーニを「[[マフィア]]」と罵倒して問題になった)。次の[[1996年]]には北部同盟は単独で戦い、政権自体は中道左派連合([[オリーブの木]])が勝利したが北部同盟党は史上最多の全体得票10.4%を獲得する。しかし政権そのものはベルルスコーニ以上に[[連邦主義]]に批判的である左派政党へと移ったことから、ボッシは勢いに乗じて「[[ポー川]]以北をイタリア共和国から[[独立]]させ、[[パダーニア連邦共和国]]を樹立した」と宣言するという事件が起こる。しかし同政党はあくまで北部を中心とした一政党に過ぎず、政界全体にはさしたる影響は与えられなかった。さらに、この過激な行為は他の政党はもちろん、国家分裂を容認してまでの分権に否定的な穏健派が多数を占める北部同盟内でも支持されず(「北部同盟ブーム」の吹き荒れていた北部ですら反対意見が8割を越え、他地域では賛成意見はほぼ皆無だった)、あえなく失敗に終わった。


===党内改革===
支持を失うことを恐れたボッシは党の[[公約]]から正式に独立の可能性を匂わせる文言を削除し、[[連邦|連邦制]]を最終目標とするイタリアという枠組みの中での[[地方分権]]のみを主張するなど党の穏健化を進め、[[過激派]]を切り捨てた。この行動が功を奏して政党としての立場を失う危機を回避したが、強硬路線に不信感を抱いた穏健派の北部住民の支持を失ったのは手痛いものがあり、次の総選挙では得票率が3.9%に急落し、議席の半数を喪失して大敗した。ベルルスコーニとの復縁によって[[大臣]]職にはありついたが、持病の[[心臓病]]も手伝ってボッシはほどなく政界を引退、[[2006年]]の選挙でも右派左派双方の大政党の影に隠れて振るわない結果に終わる。
ボッシは焦りから右派連合に対する和解すら模索し、かつて党機関紙で「ベルルスコーニはマフィア」と罵倒して政治問題となった<ref>{{cite web|author=Permalink | &nbsp;Stampa |url=http://www.terzoocchio.org/controinformazione/cosa-penso-del-nuovo-presidente-del-consiglio/2008/04 |title=Cosa penso del nuovo Presidente del Consiglio &#124; Terzo occhio.org - fonte di domanda per informare se stessi |publisher=Terzo occhio.org |date= |accessdate=2010-05-10}}</ref>にも関わらず、かつて裏切ったベルルスコーニの政党連合「自由の家」に再び加わって総選挙を戦う選択をした。2001年の総選挙で北部同盟は穏健派・強硬派の双方から愛想を尽かされ、上院得票率に至っては3.9%にまで急落して大幅に議席を減らした。同年のフォルツァ・イタリア党が29.4%、国民同盟が12.0%を獲得した事を考えれば、右派連合で大きく存在感を失ってしまった。ボッシが脳卒中により危篤状態に陥ると、ボッシの指導力に依存していた同盟の崩壊を噂する声は決して少なくなかった。だが結果的に同盟はボッシ不在中も分裂することなく、政権の一角に加わり続けた。連立内では極右である国民同盟と対抗して、フォルツァ・イタリアと連合する姿勢を見せ<ref>{{cite web | title=L' ultima trincea dell' Udc contro l' asse del Nord| url=http://archiviostorico.corriere.it/2004/gennaio/27/ultima_trincea_dell_Udc_contro_co_9_040127035.shtml| publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2004-01-27}}</ref>、ベルルスコーニも与党第二党である国民同盟への牽制としてこれを活用した。


===新たな路線、移民排斥===
元より北部同盟は北部経済を北部住民だけで分配し、北部の[[労働者]]の職を守ることを行動[[原理]]としてきた。ゆえに、北部経済の負担となる南部(あるいはその経済)への攻撃を主張していたのだが、近年では南部への補助金よりも外国人[[移民]]が安価な[[労働力]]として雇用されることの方が北部の人間にとって深刻な労働問題となりつつある。この流れから、北部同盟党もその批判の矛先を次第に南部経済から移民へと変え始めている。党首ボッシのサッカー・[[フランス]]代表に対する暴言(「[[黒人]]、[[イスラーム]]教徒、[[共産主義]]者のチームに勝った」)を初めとして、移民排斥に関する発言が取りざたされることも増加し、[[2002年]][[7月]]には[[欧州連合|EU]]圏外からの移民に指紋押捺を課す「移民対策法」を成立させている。
元より北部同盟は北部経済を北部住民だけで分配し、北部の[[労働者]]の職を守ることを行動[[原理]]としてきた。ゆえに、北部経済の負担となる南部(あるいはその経済)への攻撃を主張していたのだが、近年では南部への補助金よりも外国人[[移民]]が安価な[[労働力]]として雇用されることの方が北部の人間にとって深刻な労働問題となりつつある。この流れから、北部同盟党もその批判の矛先を次第に南部経済から移民へと変え始めている。党首ボッシのサッカー・[[フランス]]代表に対する暴言(「[[黒人]]、[[イスラーム]]教徒、[[共産主義]]者のチームに勝った」)を初めとして、移民排斥に関する発言が取りざたされることも増加し、[[2002年]][[7月]]には[[欧州連合|EU]]圏外からの移民に指紋押捺を課す「移民対策法」を成立させている。


===イタリア南部での躍進===
上述した「南部経済への批判」から「外国人移民への排斥」へと軸を移し始めた北部同盟は、ボッシの復帰も相まって、[[2008年]]の[[総選挙]]において大幅に議席数を増やす大躍進を見せ、パダーニア事件以来低迷が続いていた党勢を立て直した。これまでの低迷の原因は(その成立の経緯からすれば当然ではあるが)支持が北部の、それも一部の保守派にのみに限られていた点にあった。独立を明確に放棄した上での確実な分権政策や、相変わらず続く経済不安・政情不安によって一定の支持者は確保していたものの、頭打ちになっている感は否めなかった。
上述した「南部経済への批判」から「外国人移民への排斥」へと軸を移し始めた北部同盟は、ボッシの復帰も相まって、[[2008年]]の[[総選挙]]において大幅に議席数を増やす大躍進を見せ、パダーニア事件以来低迷が続いていた党勢を立て直した。これまでの低迷の原因は(その成立の経緯からすれば当然ではあるが)支持が北部の、それも一部の保守派にのみに限られていた点にあった。独立を明確に放棄した上での確実な分権政策や、相変わらず続く経済不安・政情不安によって一定の支持者は確保していたものの、頭打ちになっている感は否めなかった。


だがこの選挙では、労働問題に熱心ながらも人権問題から移民対策には弱腰の左派政党を見限った北部在住の南部出身者の支持を集め、ボッシも「レガ・ノルドは全イタリア人労働者の党である」と演説するなど、南部出身者への結束を促す主張を行っていた。これまで北部同盟にとって完全な[[アウェー]]であった南部出身の[[党員]]も増加しており、従来の地域政党から脱皮し、かつてボッシが進めていた「イタリア全土の連邦主義者を統括する政党」に変貌しつつある。父が南部出身者である北部同盟の[[エマヌエーラ・ムネラート]]議員は、南部での躍進について「(我々は)昔の北部同盟ではない」と語っている。北部同盟という名から受けるイメージと実際の政治活動に差異が生じ始めており、「イタリア人民党」という表現が相応しくなりつつある。ボッシ自身、同郷でもあるリソルジメント期の政治家[[カルロ・カッターネオ]]の後継者を自負する行動をしばしば行っている。
===連邦主義者の党へ===

だがこの選挙では、労働問題に熱心ながらも人権問題から移民対策には弱腰の左派政党を見限った南部出身の労働者層の支持を集め、またボッシも「レガ・ノルドは全イタリア人労働者の党である」と演説するなど、南部出身者への結束を促す主張を行っていた。これまで北部同盟にとって完全な[[アウェー]]であった南部出身の[[党員]]も増加しており、従来の地域政党から脱皮し、かつてボッシが進めていた「イタリア全土の連邦主義者を統括する政党」に変貌しつつある。父が南部出身者である北部同盟の[[エマヌエーラ・ムネラート]]議員は、南部での躍進について「(我々は)昔の北部同盟ではない」と語っている。北部同盟という名から受けるイメージと実際の政治活動に差異が生じ始めており、「イタリア人民党」という表現が相応しくなりつつある。
==思想==
===連邦主義===
北部同盟のイデオロギーにおける最大の目標は[[地方分権]]であり、具体的には各自治体の伝統文化の保護や税収の直接管理を主張している。そしてそれを最大限に実現するために[[連邦主義]]が必要だと説いており、集権的なイタリア共和国を[[ドイツ連邦]]や[[ロシア連邦]]のような連邦制国家へと移行させたいと考えている。冷戦後のイタリアにおける連邦主義・地方分権主義の代弁者として、北部同盟はこうした問題を国家に強く訴えかける事に成功した。冷戦後の欧州で盛んになりつつある地方運動の中、北部同盟は最大の成功例として注目を集めた。党勢を拡大した理由として複数の立場の異なる地方運動を糾合した点があり<ref name="Bossi-Vimercati">[[Umberto Bossi]]; Daniele Vimercati, ''Vento dal Nord. La mia Lega, la mia vita'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 1992, pp. 25-35, 194-205</ref><ref name="Miglio">[[Gianfranco Miglio]], ''Come cambiare. Le mie riforme'', Mondadori, [[Milan]] 1992, pp. 31-40</ref><ref name="Bonifazi-Pellegrino">Elio Bonifazi; Alberto Pellegrino, ''Educazione civica e cultura costituzionale'', Bulgarini, [[Florence]] 1996, pp. 79, 128-129</ref> 、他の地域政党の多くが地域別に個別活動を行い(例えばスペインにおける[[アラゴン民族党]]と[[カタルーニャ同盟]]など)、故に国家規模の大政党による国家運営に影響を与えられないという弱点を克服した。このような「内側の自治と外部への団結」はまさに連邦主義の理想とするところである。

北部同盟は「北部の同盟」から中部や南部の分権主義者との同盟への拡大をしばしば構想しているが、上手くは進んでいないのが現状である。[[南チロル人民党]]、[[トレント人民党]]、[[アオスタ自治運動]]、[[サルデーニャ行動党]]、[[自治という選択]](南イタリア一帯)などと友党関係を構築している。また海外の地方運動とも欧州議会などで連帯を図っているが、地方主義による欧州議会政党「[[欧州自由同盟]]」には加盟していない<ref>{{cite web | title=Bossi, show su Padania e Cavaliere: lo controlliamo, senza Lega va a casa | url=http://archiviostorico.corriere.it/2009/dicembre/02/Bossi_show_Padania_Cavaliere_controlliamo_co_9_091202003.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2009-12-02}}</ref>。

文化面では「北部の同盟」に留まっていることもあり、概ね古代から現代にかけてイタリア大陸部の歩んできた特有の歴史と伝統を重んじる事を掲げている。党シンボル「生命の花」と並んで象徴とされている騎士[[アルベルト・ダ・ジュッサーノ]]は、中世時代に他の文化圏に跨る[[神聖ローマ帝国]]によるイタリア大陸部支配に立ち向かった事で知られている<ref>David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, pp. 23-24</ref>。また古代には帝政期に本土編入を受けるまで「属州ガリア・キサルピーナ」としての歴史があり、その点から「自身の源流」としてケルト文化の保護にも熱心である。反対に中部・南部で父祖として尊敬されているローマ文化([[ラテン人]])はその征服者として否定的に捉える向きがある。

===方向性===
[[連邦主義]]を目標として掲げ、党憲章で「[[連邦制]]が果たされたなら同盟の役割は終わり、元の複数政党へと戻る」と述べられているが、逆に他の政策に関しては一貫性に欠けており、いわゆる左派・右派のどちらにも分類し難い。

例えば彼らは財政政策については自由主義経済を擁護して、自由競争と市場原理を強く支持している。しかしその一方で企業の人員削減や国家の年金減額に反対するなど、手厚い労働者保護政策を支持しており、幾分に支持勢力の相反する主張を行っている。これは北部の様々な政治主張の寄り合いだからであるが、ある論者は労働者保護が連邦主義に次ぐ主張として掲げられていることから、彼らを「イタリア労働党」と通称し<ref>{{cite web | title=Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci | url=http://archiviostorico.corriere.it/2009/giugno/10/Fabbriche_Gazebo_Lega_modello_Pci_co_8_090610031.shtml| publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2009-06-10}}</ref>、同盟内の一部派閥もこれを使用している<ref>[[Francesco Jori]], ''Dalla ?iga alla Lega. Storia, movimenti, protagonisti'', Marsilio, [[Venice]] 2009, p. 18</ref><ref>{{cite web|url=http://rassegna.governo.it/testo.asp?d=38010215 |title=Governo Italiano - Rassegna stampa |publisher=Rassegna.governo.it |date= |accessdate=2010-05-10}}</ref>。

同盟の創設者である[[ウンベルト・ボッシ]]自身は、北部同盟について「[[自由主義者]]であるが、[[社会主義者]]でもある」とインタビューで解説している。そして自分自身は「反[[国家主義者]]」で、「民衆の負担にならない政府を望ましく考えている」と述べた。更にボッシは尊敬する政治家を尋ねられて[[ジャコモ・マッテオッティ]](イタリア統一社会党書記。[[1925年]]に[[ファシスト党]]によって暗殺された)を挙げ、更には[[ベルルスコーニ]]と対立するイタリア民主党の[[ワルテル・ヴェルトローニ]]書記長を「勇敢な人物」と賞賛している<ref>{{cite web | title=Ecco l'intervista integrale della Iena Enrico Lucci a Umberto Bossi. | url=http://www.affaritaliani.it/politica/iene-bossi-intervista300908.html | publisher=[[Affari Italiani]] | date=2008-09-30}}</ref>。しかし右派勢力との連帯も維持されており、一部報道では2013年までに北部同盟が[[自由の人民]]に合流して同盟幹部が党役員に迎えられるだろうと推測、仮にそうなった場合、北部同盟出身の首相が誕生する可能性もあるとしている<ref>{{cite web | title=Berlusconi vuole annettere la Lega nel Pdl. Bossi non lo esclude. Il progetto segreto del Cavaliere | url=http://www.affaritaliani.it/politica/berlusconibossiretroscena011009.html | publisher=[[Affari Italiani]] | date=2008-10-01}}</ref>。

結局の所、北部同盟は何より大多数の国民(大衆)が望む気持ちを敏感に察知して、その代弁者となる(=状況によって簡単に変節する)という点で[[人民主義]](大衆主義)的である。こうした要素から反大企業・反富裕層でもあり、いわゆる既得権益や特権を持つ人々(ボッシはこれを「[[ジャンニ・アニェッリ|アニェッリ]]、[[教皇]]、[[マフィア]]」と要約した)を敵視している。<!-- The party is also libertarian-populist in its promotion of small ownership, small and medium-sized enterprise, small government as opposed to governmental bureaucracy, waste of public funds, pork barrel spending and corruption<ref>Piero Ignazi, ''Partiti politici in Italia'', Il Mulino, [[Bologna]] 2008, pp. 86-87, 96</ref> -->こうした大衆の率直な反感を代弁するという立場こそが、北部同盟の政治的立場の中でもっとも支持に繋がっているとすらいえる<ref>Aldo Bonomi, ''Prefazione'' in David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, p. X</ref>。

北部同盟の執行委員会はこうした問題について、新たに同盟全体の方針として「連邦主義者の自由主義」を新たに掲げた<ref>[[Francesco Jori]], ''Dalla ?iga alla Lega. Storia, movimenti, protagonisti'', Marsilio, [[Venice]] 2009, p. 77</ref>。事実、北部同盟は「連邦主義」以外の政治的主張を何度も変更し続け、例えば[[社会自由主義]]をより保守的な自由主義と入れ替えている。他にも[[政教分離]]や[[欧州連合]]などに対するスタンスも変更したり<ref>David Parenzo; Davide Romano, ''Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 2009, pp. 49-52</ref><ref>Piero Ignazi, ''Partiti politici in Italia'', Il Mulino, [[Bologna]] 2008, p. 87</ref>、最初期に唱えられていた[[平和主義]]・[[環境主義]]も後に主な目標ではなくなった<ref>[http://politicaesocieta.blogosfere.it/2008/09/romanzo-padano-la-lega-di-bossi-berlusconi-seduttore-e-maroni-ex-venduto-parla-davide-romano.html Interview with Davide Romano, author of ''Romanzo Padano'']</ref>。

===「連邦主義者」か、「分離主義者」か===
[[File:Europe location PAN.png|thumb|300px|The ''Sun of the Alps'', the proposed flag for [[Padania]] by Lega Nord]]

北部同盟の政治目標は創立当初、それほど明確に決定された物ではなかった。当初、同盟の構成政党は、地方運動が団結することで[[地方自治]]を前進させるという程度の発想で動いていた。彼らの[[地方分権]]運動、[[連邦主義]]運動が「[[イタリア]]からの[[分離独立]]」を策動するものであるという主張は、むしろ北部同盟を批判する[[保守派]]によって喧伝された部分が大きい。後に策定された政治目標でも北部同盟は連邦主義を掲げるのに留まっていたが、急速に彼らの運動は冷戦後の政界再編で注目を集める事となる<ref>[[Ilvo Diamanti]], ''Bianco, rosso, verde... e azzurro'', Il Mulino, [[Bologna]] 2003, pp. 68-71</ref><ref>Maurizio Ridolfi, ''Storia dei partiti politici. L'Italia dal Risorgimento alla Repubblica'', Bruno Mondadori, [[Milan]] 2008, pp. 219-220</ref>。急速に政治的権力を与えられた事で過度の自信を得た同盟内では、長期的な政治運動ではなく過激な強硬論が罷り通るようになっていった。

1996年、ベルルスコーニ政権内で主流派であるフォルツァイタリア党と北部同盟が対立する事件が起きると、分権政策を不服とした北部同盟は政権を離脱する。先鋭化した同盟では[[分離主義]]すらも交渉手段に用い始め、北部独立論に関する一種の[[理論武装]]を行った。その中で党のイデオローグ(理論家)として著名であった政治学者[[:en:Gianfranco Miglio|ジャンフランコ・ミグリオ]]はイタリアを「[[北イタリア|パダーニア]]、[[中部イタリア|エトルリア]]、[[南イタリア|スッド]]」という三つの国家に分離すべきと主張した<ref name="Miglio"/><ref name="Bonifazi-Pellegrino"/>。

1996年9月15日にボッシはパダーニアの語源であるポー川で独立闘争の開始を宣言し、北部同盟のシンボルカラーである緑になぞらえて「緑シャツ隊」([[黒シャツ隊]]の模倣)を組織した。

しかし党勢が衰退し、ベルルスコーニ政権と復縁した2001年頃から再び強硬論は鳴りを潜める。先の三国論も「連邦制移行後の行政区画として希望する」というものへと戻っていった<ref>Piero Ignazi, ''Partiti politici in Italia'', Il Mulino, [[Bologna]] 2008, pp. 97-98</ref>。党の度重なる方針転換は少なくない離脱者を党内で生む事となった。同時に単純な特定地域の優遇ではなく地方分権主義そのものの前進を望むという立場は、北部同盟が単なる地方運動から脱却する結果も生み出した<ref name=Bossi-Vimercati/><ref name="Miglio"/><ref name="Bonifazi-Pellegrino"/><ref name="Rumiz-SVP"/>。

===欧州議会===
北部同盟は地方運動を掲げる欧州規模政党「[[欧州自由同盟]]」に加わっていたが、一部は後に解散された[[:en:Rainbow Group (1989–1994)|虹の同盟]]にも関わっていた。1994年に欧州自由同盟・虹の同盟から離脱すると[[欧州自由民主改革党]]に移るが、1999年に離脱して他の[[:en:Non-Inscrits|無所属勢力]]([[イタリア急進主義者|イタリア急進党]]など)と一時的な暫定会派「[[:en:Technical Group of Independents (1999–2001)|技術上の独立同盟]]」を結成した後、無所属となった<ref>[http://www.europarl.europa.eu/members/archive/alphaOrder/view.do?language=EN&id=1101 Your MEPs : Archives : Luigi MORETTI<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.europarl.europa.eu/members/archive/alphaOrder/view.do?language=EN&id=997 Your MEPs : Archives : Francesco Enrico SPERONI<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.europarl.europa.eu/members/archive/alphaOrder/view.do?language=EN&id=2036 Your MEPs : Archives : Umberto BOSSI<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.europarl.europa.eu/members/archive/alphaOrder/view.do?language=EN&id=1954 Your MEPs : Archives : Raimondo FASSA<!-- Bot generated title -->]</ref>。


2004年の欧州議会選挙後に「[[:en:Independence/Democracy|独立と民主主義]]」、「[[:en:Union for Europe of the Nations|欧州連邦主義連合]]」など複数の政党に働きかけて、会派「欧州の地方主義」を組織しようとしたがこれは失敗し、2006年まで[[欧州自由民主同盟]]に席を置く事となった。またこの時に[[:en:European Democrat Group|欧州民主主義協会]]に加盟している<ref>[http://assembly.coe.int/ASP/AssemblyList/ALMemberDetails.asp?MemberID=5791 M. Roberto MARONI<!-- Bot generated title -->]</ref>。2009年の欧州議会選挙後、北部同盟は欧州懐疑派の新会派「[[自由と民主主義のヨーロッパ]]」への参加を表明した。
ボッシ自身、同郷でもあるリソルジメント期の政治家[[カルロ・カッターネオ]]の後継者を自負する行動をしばしば行っている。


==議席==
==政治主張==
[[Image:Leganord.jpg|thumb|250px|北部同盟の宣伝車両]]
[[File:Northern League - Venice meeting.jpg|thumb|250px|ヴェネトで行われた同盟大会]]
*[[中絶]]・幹細胞研究・[[同性愛]]・[[安楽死]]などキリスト教文化に反する社会倫理への反対
**ただし、前述の通り支持基盤の関係から反教会主義を放棄するまではこれらの問題には穏健であった。
**現在でも「ロスパダニア協会」という性の自由を容認するグループが同盟内の派閥として存在する<ref>{{cite web | title= Il Carroccio: matrimoni gay nella Repubblica Padana | url= http://archiviostorico.corriere.it/1998/aprile/05/Carroccio_matrimoni_gay_nella_Repubblica_co_0_9804052417.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=1998-04-05}}</ref>。
*同様に社会倫理の観点からのマリファナ完全非合法化
**これも党内でかつて合法化を党の目標に掲げており、現在でも現方針に反対する議員団が組織されている<ref>{{cite web | title= Fecondazione un fronte del si tra le donne della Cdl| url= http://archiviostorico.corriere.it/2005/maggio/01/Fecondazione_fronte_del_tra_donne_co_8_050501066.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2005-05-01}}</ref>。
*反国家主義・反中央集権([[小さな政府]])<ref name=Bonifazi-Pellegrino/><ref>{{cite web | title= I confini della Lega | url= http://archiviostorico.corriere.it/1993/giugno/15/confini_della_LEGA_co_0_93061516126.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=1993-06-15}}</ref>。
*反公共投資・反公的援助
**国家有数の大企業[[フィアット]]・[[アリタリア]]に対する国の援助政策を厳しく批判したこともある<ref name="Cota"/>。
*異文化圏の移民、特にイスラム圏からの移民者排除
**北部同盟は「ヨーロッパ圏はキリスト教とユダヤ教で構成されるべき」と述べている<ref name=Cota/><ref name="Programma 2008"/>。
*緑化保全運動<ref name="Programma 2008">{{cite web|url=http://www.leganord.org/elezioni/2008/lega/default.asp |title=Movimento politico Lega Nord per l'indipendenza della Padania: programmi ed iniziative del partito |publisher=Leganord.org |date= |accessdate=2010-05-10}}</ref><ref>{{cite web | title= ≪Basta capannoni, sono inutili≫ Il Veneto e i 200 km di cemento | url= http://archiviostorico.corriere.it/2004/settembre/18/Basta_capannoni_sono_inutili_Veneto_co_9_040918030.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2004-09-18}}</ref>
*農業の保護<ref name="Cota">{{cite web|url=http://banchedati.camera.it/sindacatoispettivo_16/showXhtml.asp?highLight=0&idAtto=3250&stile=6 |title=9/01519/013 : CAMERA - ITER ATTO |publisher=Banchedati.camera.it |date=2008-07-31 |accessdate=2010-05-10}}</ref><ref name="Programma 2008"/>
*[[欧州懐疑主義|欧州連合懐疑主義]]<ref>{{cite web | title= Passa all'unanimita il Trattato europeo | url= http://archiviostorico.corriere.it/2008/luglio/24/Passa_all_unanimita_Trattato_europeo_co_9_080724090.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2008-07-24}}</ref><ref>[[Umberto Bossi]]; Daniele Vimercati, ''Vento dal Nord. La mia Lega, la mia vita'', Sperling & Kupfer, [[Milan]] 1992, pp. 194-205</ref><ref>{{cite web|url=http://www.padaniaoffice.org/pdf/affari_istituz/doc_politici/Punti_LN_Europa.pdf |title=Punti_LN_Europa.doc |format=PDF |date= |accessdate=2010-05-10}}</ref><ref>{{cite web|author=Alessandro Cretti e Angelo Veronesi |url=http://www.giovanipadani.leganord.org/articoli.asp?ID=2846 |title=Movimento Giovani Padani |publisher=Giovanipadani.leganord.org |date=2000-07-18 |accessdate=2010-05-10}}</ref>
*反NATO<ref>{{cite web | title= Bossi: La Serbia invitera Annan | url= http://archiviostorico.corriere.it/1999/aprile/24/Bossi_Serbia_invitera_Annan__co_0_9904241451.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=1999-04-24}}</ref><ref>{{cite web | title= L'Europa profonda che odia l'America | url= http://www.repubblica.it/online/dossier/rumi/rumi/rumi.html | publisher=[[La Repubblica]] | date=1999-04-11}}</ref>
*親米主義
**当初は存在しなかったが、後に「連邦主義にとって最大の成功例」と賞賛している。
**また9月11日の同時多発テロ移行はイスラム原理主義に対する脅威論から親米主義を唱えている<ref>{{cite web | title= Lega, il partito filo Milosevic ora da il via libera all'America | url= http://archiviostorico.corriere.it/2001/ottobre/10/Lega_partito_filo_Milosevic_ora_co_0_0110104176.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2001-10-10}}</ref><ref>{{cite web | title= I Poli trovano l'intesa, si all'intervento militare | url= http://archiviostorico.corriere.it/2001/novembre/08/Poli_trovano_intesa_all_intervento_co_0_0111087026.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2001-11-08}}</ref><ref>{{cite web | title= Si a maggioranza, via alla ≪missione Afghanistan≫ | url= http://archiviostorico.corriere.it/2002/ottobre/04/maggioranza_via_alla_missione_Afghanistan_co_0_0210043126.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2002-10-04}}</ref><ref>{{cite web | title= Calderoli: Bush regali l'atomica ad Ahmadinejad | url= http://archiviostorico.corriere.it/2006/settembre/07/Calderoli_Bush_regali_atomica_Ahmadinejad_co_9_060907127.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2006-09-07}}</ref>。
***ただしイラク戦争に関しては疑問を呈している<ref>{{cite web | title= Lo strappo della Lega sulla missione italiana | url= http://archiviostorico.corriere.it/2004/aprile/22/strappo_della_Lega_sulla_missione_co_9_040422002.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2004-04-22}}</ref><ref>{{cite web | title= La Lega tende a smarcarsi. Inviti alla cautela sugli ostaggi | url= http://archiviostorico.corriere.it/2004/aprile/22/Lega_tende_smarcarsi_Inviti_alla_co_9_040422006.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2004-04-22}}</ref><ref>{{cite web | title= Calderoli: andiamocene. Il Polo lo frena Rifinanziamento, il centrosinistra diviso | url= http://archiviostorico.corriere.it/2005/luglio/09/Calderoli_andiamocene_Polo_frena_Rifinanziamento_co_8_050709028.shtml | publisher=[[Corriere della Sera]] | date=2005-07-09}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2010年12月11日 (土) 11:07時点における版

イタリアの旗 イタリア政党
北部同盟党
Lega Nord(LN)
党のシンボルである「アルプスの太陽」
書記長 ウンベルト・ボッシ
副書記長 アンジェロ・アレッサンドリ
成立年月日 1991年2月15日
本部所在地 ロンバルディア州ミラノ
代議院議席数
60 / 630   (10%)
(2010年1月10日)
元老院議席数
26 / 322   (8%)
(2010年1月10日)
党員・党友数
150,000
2008年
政治的思想・立場 連邦主義
機関紙 ラ・パダニア
シンボル グリーン
国際組織 自由と民主主義のヨーロッパ(欧州議会)
公式サイト www.leganord.org/
テンプレートを表示

北部同盟(ほくぶどうめい、Lega Nord"LN")は、イタリア政党党首ウンベルト・ボッシ。工業地帯が密集し経済的に優越しているイタリア北部の自治拡大を主張する地域政党

過激な言動や文化的保守性、反共主義、反移民運動などから極右と認識されることが多いが、政治的目標は労働者の保護と地方分権(かつては「究極の分権」として独立も視野に入れたが、パダーニャ事件の不発から現在は連邦制を最終目標に掲げている)にあることから、左翼政党という見方も一般的である[1]。近年はイタリア人労働者の職を奪っている外国人移民の排斥に軸を移している。

イタリア政界の保守勢力で最大規模を誇るフォルツァイタリア党(中道右派)や、ネオ・ファシズムを源流とする国民同盟(国粋右翼)とは対立することも多い。

年表

  • 1989年
  • 1991年
    • 2月15日 - 「北部の国民」を基盤にした国内政党「北部同盟」が成立。
  • 1992年
    • 4月5日 - 第11回総選挙で下院55議席・上院25議席を獲得して躍進する。
  • 1994年
    • 3月27日 - 第12回総選挙で右派連合「自由の極」に参加。下院55議席・上院5議席を獲得、下院議席は維持するも上院議席は後退。
    • 5月10日 - 第一次ベルルスコーニ内閣成立。
  • 1995年
    • 1月17日 - 政府の分権政策に不満を表明して連立離脱、第一次ベルルスコーニ内閣総辞職。
  • 1996年
    • 4月21日 - 第13回総選挙で下院59議席・上院27議席を獲得。党勢を回復させる。
    • ? - イタリア共和国内の反連邦主義に対し、パダーニア連邦を宣言。国内外の支持を得られず。
  • 1998年
  • 1999年
    • ? - パダーニア連邦構想を事実上、撤回する。
    • 6月13日 - 欧州議会選挙(イタリア選挙区)で敗退、議席が後退する。
  • 2001年
    • 5月13日 - 第14回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院30議席・上院17議席に留まり、全体議席の5%程度に大幅後退。
    • 6月11日 - 第二次ベルルスコーニ内閣成立。
  • 2006年
    • 4月9日4月10日 - 第15回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院26議席・上院14議席に後退。
    • 5月17日 - 「自由の家」が議席過半数を喪失、第二次ベルルスコーニ内閣総辞職。
  • 2008年
    • 4月13日4月14日 - 第15回総選挙で右派連合「自由の家」に参加。下院60議席・上院26議席に再び躍進。
    • 5月8日 - 第三次ベルルスコーニ内閣成立。

党史

背景

イタリアの経済は二度の世界大戦以来、復興期に工業化が進められたイタリア北部・中部の経済と、依然として自作農中心であるイタリア南部の経済とが著しく乖離(かいり)した状態が続いており、財政上、北部と中部の経済が南部の経済を支える形になっている。こうした状況を打開するべく、イタリア政府は南部も北部同様の工業地帯にしようと開発計画(バノーニ計画)を進め、多くの国営企業を誘致した。こうした行為は南部の工業化に一定の成果はもたらしたが、機械化された国営企業の誘致はインテリ層の職域を増やしただけで、肝心の大多数を占める農民達に職を与える効果はなく、経済的にも税金に頼る非効率な国営企業は南部経済の政府資金への従属を一層に深めてしまった。また第二次世界大戦中の連合国軍への協力や、戦後の混乱期を利用して勢力を伸ばしたマフィアは南部に強大な勢力を構築しており、企業誘致やインフラ整備に捻出(ねんしゅつ)された資金はこれらマフィアに吸い上げられ、南部経済の発展には寄与しないケースも散見された。

それでも国家機能の分担や、北部への公共投資(南部開発には北イタリアの民間企業が多数加わっていた)としての効果から、バノーニ計画を手本にした政策はその後も続けられた。だがイタリアの経済全体が悪化し始めると、南部は無論、北部でも失業賃金低下が広がり、次第に「北部住民は南部住民をこれ以上養うことはできない」という反感が募っていった。実際にはイタリア経済の失墜は北欧に匹敵するとも言われた福祉政策の偏りによるもので必ずしも南部開発が原因ではなかったが[2]、同時期に発生した大規模なマフィアと政界の癒着事件(タンジェントポリ)の影響で南部は悪感情で見られがちであった。

結党経緯

党首:ウンベルト・ボッシ

北部同盟の最も主要な前身政党はヴェネツィア同盟で、同党は1983年の総選挙で初めて地方政党として国会議席を獲得した政党であった。それに続くのが1987年に書記長ウンベルト・ボッシを国政に送り出したロンバルディア同盟であり、両党は欧州議会選挙で選挙連合「北部の国民」を結み、1991年に発展的に解消させる形で北部同盟が結党された[3][4][5]

北部同盟は税金を中央政府に集めてから地方経済に見合わせて再分配する財源制度を「ローマ・ルンファルド」(Roma ladronaローマの政府は大泥棒だの意)と呼び、戦後イタリアの集権制の象徴として厳しく批判した[6]。また貧しい南部からの国内移民(出稼ぎ労働者)、国外からの外国人移民が北部の富を奪っているとも主張された。従来の地方主義者の票だけでなく、タンジェントポリで既存の右翼・左翼の大政党に失望していた労働者層の一部は北部同盟を支持して、同盟結成は成功を収めた[4][5] 。1992年の総選挙で北部同盟はほぼ無名の状態から一挙に56名の下院議員と17名の上院議員を獲得して、政界再編の中心となった[7]。地方政界でも1993年のミラノ市長選挙で党内左派に属するマルコ・フォルメンティーニが当選を果たした[8]

パダーニア事件

1994年の総選挙で北部同盟は同じく同じく既存政党の票をさらって躍進したベルルスコーニフォルツァ・イタリアが主導する右派連合「自由の極」に加わって選挙を戦い、ジャンフランコ・フィーニ国民同盟旧ネオ・ファシスト党)や キリスト教中道民主連合らと共に第一次ベルルスコーニ内閣を樹立した。しかしその背後で選挙戦そのものは苦戦を強いられており、労働者層の多くがキリスト教民主主義を主張したフォルツァ・イタリア党に投票したことで、得票率は以前より後退してしまっていた。しかし選挙区の幾つかの投票区構造などから、得票率から見れば過大な議席数を得て存在感を発揮することができた[9]。政権でも下院議長や、5つの大臣職(副首相・工業大臣・経済大臣・欧州議会担当大臣・行政改革担当大臣)を与える厚遇だったが、友好関係は長く続かなかった。

1995年1月、ボッシは連立政権の分権政策が不十分であると表明、野党第一党である左翼民主主義者党(旧・イタリア共産党、現・イタリア民主党の前身)による内閣不信任案に賛成票を投じて造反した。しかし党内では予想以上にボッシの路線に反発があり、多くの穏健派分権主義者が北部同盟を離脱してイタリア連邦党を樹立、後にフォルツァ・イタリアへ合流した。党内には左派グループのみが残る形となり党勢衰退を危惧する声が起こったが、ボッシは分権主義に理解を示す左派連合「オリーブの木」と結びついて幾つかの地方選挙を戦っている。右派連合離脱後、命運を決める事となる1996年の総選挙で北部同盟は議席数を下院議員59名・上院議員27名と躍進を遂げ、ボッシら強硬な自治を説く党内左派が一定の力を維持する形になった[10]。従って党内意見は過激な言説が通るようになっていき、最終的に北部同盟は「中央政府が即時連邦制に移行しないなら、北部のみで連邦制の新国家を樹立する」と宣言した(パダーニア構想)。そして政府がこれを黙殺すると「パダーニア連邦政府」の樹立を宣言して対決姿勢を強めたが、国連や国連加盟国にこれを承認する国は一切現れず、国際法上は無効行為と見なされた。

1996年から1998年はこうした過激な行動も相まって北部同盟が最も注目を集めた時代となったが、元から複数の地方主義の寄り合いである北部同盟内では対立が絶えなかった。1998年には主要前身政党であったヴェネツィア共和国運動が北部同盟からの離脱を宣言し、それ以外にも多数の幹部党員がボッシの強硬路線を拒絶して離党していった。1999年、党内外の批判からボッシは事実上、パダーニア構想を無期限で凍結して、連邦制によるイタリアという枠組みでの地方分権へと再び回帰する道をとった。だがこうした一貫性のない行動はますます党内の混乱に拍車をかけ、更に北部同盟の議員・党員の離脱を生み出した。同年に行われた欧州議会選挙で北部同盟は敗北して議席を減らし、勢いに陰りが見えていることを印象付けた。

党内改革

ボッシは焦りから右派連合に対する和解すら模索し、かつて党機関紙で「ベルルスコーニはマフィア」と罵倒して政治問題となった[11]にも関わらず、かつて裏切ったベルルスコーニの政党連合「自由の家」に再び加わって総選挙を戦う選択をした。2001年の総選挙で北部同盟は穏健派・強硬派の双方から愛想を尽かされ、上院得票率に至っては3.9%にまで急落して大幅に議席を減らした。同年のフォルツァ・イタリア党が29.4%、国民同盟が12.0%を獲得した事を考えれば、右派連合で大きく存在感を失ってしまった。ボッシが脳卒中により危篤状態に陥ると、ボッシの指導力に依存していた同盟の崩壊を噂する声は決して少なくなかった。だが結果的に同盟はボッシ不在中も分裂することなく、政権の一角に加わり続けた。連立内では極右である国民同盟と対抗して、フォルツァ・イタリアと連合する姿勢を見せ[12]、ベルルスコーニも与党第二党である国民同盟への牽制としてこれを活用した。

元より北部同盟は北部経済を北部住民だけで分配し、北部の労働者の職を守ることを行動原理としてきた。ゆえに、北部経済の負担となる南部(あるいはその経済)への攻撃を主張していたのだが、近年では南部への補助金よりも外国人移民が安価な労働力として雇用されることの方が北部の人間にとって深刻な労働問題となりつつある。この流れから、北部同盟党もその批判の矛先を次第に南部経済から移民へと変え始めている。党首ボッシのサッカー・フランス代表に対する暴言(「黒人イスラーム教徒、共産主義者のチームに勝った」)を初めとして、移民排斥に関する発言が取りざたされることも増加し、2002年7月にはEU圏外からの移民に指紋押捺を課す「移民対策法」を成立させている。

上述した「南部経済への批判」から「外国人移民への排斥」へと軸を移し始めた北部同盟は、ボッシの復帰も相まって、2008年総選挙において大幅に議席数を増やす大躍進を見せ、パダーニア事件以来低迷が続いていた党勢を立て直した。これまでの低迷の原因は(その成立の経緯からすれば当然ではあるが)支持が北部の、それも一部の保守派にのみに限られていた点にあった。独立を明確に放棄した上での確実な分権政策や、相変わらず続く経済不安・政情不安によって一定の支持者は確保していたものの、頭打ちになっている感は否めなかった。

だがこの選挙では、労働問題に熱心ながらも人権問題から移民対策には弱腰の左派政党を見限った北部在住の南部出身者の支持を集め、ボッシも「レガ・ノルドは全イタリア人労働者の党である」と演説するなど、南部出身者への結束を促す主張を行っていた。これまで北部同盟にとって完全なアウェーであった南部出身の党員も増加しており、従来の地域政党から脱皮し、かつてボッシが進めていた「イタリア全土の連邦主義者を統括する政党」に変貌しつつある。父が南部出身者である北部同盟のエマヌエーラ・ムネラート議員は、南部での躍進について「(我々は)昔の北部同盟ではない」と語っている。北部同盟という名から受けるイメージと実際の政治活動に差異が生じ始めており、「イタリア人民党」という表現が相応しくなりつつある。ボッシ自身、同郷でもあるリソルジメント期の政治家カルロ・カッターネオの後継者を自負する行動をしばしば行っている。

思想

連邦主義

北部同盟のイデオロギーにおける最大の目標は地方分権であり、具体的には各自治体の伝統文化の保護や税収の直接管理を主張している。そしてそれを最大限に実現するために連邦主義が必要だと説いており、集権的なイタリア共和国をドイツ連邦ロシア連邦のような連邦制国家へと移行させたいと考えている。冷戦後のイタリアにおける連邦主義・地方分権主義の代弁者として、北部同盟はこうした問題を国家に強く訴えかける事に成功した。冷戦後の欧州で盛んになりつつある地方運動の中、北部同盟は最大の成功例として注目を集めた。党勢を拡大した理由として複数の立場の異なる地方運動を糾合した点があり[13][14][15] 、他の地域政党の多くが地域別に個別活動を行い(例えばスペインにおけるアラゴン民族党カタルーニャ同盟など)、故に国家規模の大政党による国家運営に影響を与えられないという弱点を克服した。このような「内側の自治と外部への団結」はまさに連邦主義の理想とするところである。

北部同盟は「北部の同盟」から中部や南部の分権主義者との同盟への拡大をしばしば構想しているが、上手くは進んでいないのが現状である。南チロル人民党トレント人民党アオスタ自治運動サルデーニャ行動党自治という選択(南イタリア一帯)などと友党関係を構築している。また海外の地方運動とも欧州議会などで連帯を図っているが、地方主義による欧州議会政党「欧州自由同盟」には加盟していない[16]

文化面では「北部の同盟」に留まっていることもあり、概ね古代から現代にかけてイタリア大陸部の歩んできた特有の歴史と伝統を重んじる事を掲げている。党シンボル「生命の花」と並んで象徴とされている騎士アルベルト・ダ・ジュッサーノは、中世時代に他の文化圏に跨る神聖ローマ帝国によるイタリア大陸部支配に立ち向かった事で知られている[17]。また古代には帝政期に本土編入を受けるまで「属州ガリア・キサルピーナ」としての歴史があり、その点から「自身の源流」としてケルト文化の保護にも熱心である。反対に中部・南部で父祖として尊敬されているローマ文化(ラテン人)はその征服者として否定的に捉える向きがある。

方向性

連邦主義を目標として掲げ、党憲章で「連邦制が果たされたなら同盟の役割は終わり、元の複数政党へと戻る」と述べられているが、逆に他の政策に関しては一貫性に欠けており、いわゆる左派・右派のどちらにも分類し難い。

例えば彼らは財政政策については自由主義経済を擁護して、自由競争と市場原理を強く支持している。しかしその一方で企業の人員削減や国家の年金減額に反対するなど、手厚い労働者保護政策を支持しており、幾分に支持勢力の相反する主張を行っている。これは北部の様々な政治主張の寄り合いだからであるが、ある論者は労働者保護が連邦主義に次ぐ主張として掲げられていることから、彼らを「イタリア労働党」と通称し[18]、同盟内の一部派閥もこれを使用している[19][20]

同盟の創設者であるウンベルト・ボッシ自身は、北部同盟について「自由主義者であるが、社会主義者でもある」とインタビューで解説している。そして自分自身は「反国家主義者」で、「民衆の負担にならない政府を望ましく考えている」と述べた。更にボッシは尊敬する政治家を尋ねられてジャコモ・マッテオッティ(イタリア統一社会党書記。1925年ファシスト党によって暗殺された)を挙げ、更にはベルルスコーニと対立するイタリア民主党のワルテル・ヴェルトローニ書記長を「勇敢な人物」と賞賛している[21]。しかし右派勢力との連帯も維持されており、一部報道では2013年までに北部同盟が自由の人民に合流して同盟幹部が党役員に迎えられるだろうと推測、仮にそうなった場合、北部同盟出身の首相が誕生する可能性もあるとしている[22]

結局の所、北部同盟は何より大多数の国民(大衆)が望む気持ちを敏感に察知して、その代弁者となる(=状況によって簡単に変節する)という点で人民主義(大衆主義)的である。こうした要素から反大企業・反富裕層でもあり、いわゆる既得権益や特権を持つ人々(ボッシはこれを「アニェッリ教皇マフィア」と要約した)を敵視している。こうした大衆の率直な反感を代弁するという立場こそが、北部同盟の政治的立場の中でもっとも支持に繋がっているとすらいえる[23]

北部同盟の執行委員会はこうした問題について、新たに同盟全体の方針として「連邦主義者の自由主義」を新たに掲げた[24]。事実、北部同盟は「連邦主義」以外の政治的主張を何度も変更し続け、例えば社会自由主義をより保守的な自由主義と入れ替えている。他にも政教分離欧州連合などに対するスタンスも変更したり[25][26]、最初期に唱えられていた平和主義環境主義も後に主な目標ではなくなった[27]

「連邦主義者」か、「分離主義者」か

The Sun of the Alps, the proposed flag for Padania by Lega Nord

北部同盟の政治目標は創立当初、それほど明確に決定された物ではなかった。当初、同盟の構成政党は、地方運動が団結することで地方自治を前進させるという程度の発想で動いていた。彼らの地方分権運動、連邦主義運動が「イタリアからの分離独立」を策動するものであるという主張は、むしろ北部同盟を批判する保守派によって喧伝された部分が大きい。後に策定された政治目標でも北部同盟は連邦主義を掲げるのに留まっていたが、急速に彼らの運動は冷戦後の政界再編で注目を集める事となる[28][29]。急速に政治的権力を与えられた事で過度の自信を得た同盟内では、長期的な政治運動ではなく過激な強硬論が罷り通るようになっていった。

1996年、ベルルスコーニ政権内で主流派であるフォルツァイタリア党と北部同盟が対立する事件が起きると、分権政策を不服とした北部同盟は政権を離脱する。先鋭化した同盟では分離主義すらも交渉手段に用い始め、北部独立論に関する一種の理論武装を行った。その中で党のイデオローグ(理論家)として著名であった政治学者ジャンフランコ・ミグリオはイタリアを「パダーニアエトルリアスッド」という三つの国家に分離すべきと主張した[14][15]

1996年9月15日にボッシはパダーニアの語源であるポー川で独立闘争の開始を宣言し、北部同盟のシンボルカラーである緑になぞらえて「緑シャツ隊」(黒シャツ隊の模倣)を組織した。

しかし党勢が衰退し、ベルルスコーニ政権と復縁した2001年頃から再び強硬論は鳴りを潜める。先の三国論も「連邦制移行後の行政区画として希望する」というものへと戻っていった[30]。党の度重なる方針転換は少なくない離脱者を党内で生む事となった。同時に単純な特定地域の優遇ではなく地方分権主義そのものの前進を望むという立場は、北部同盟が単なる地方運動から脱却する結果も生み出した[13][14][15][31]

欧州議会

北部同盟は地方運動を掲げる欧州規模政党「欧州自由同盟」に加わっていたが、一部は後に解散された虹の同盟にも関わっていた。1994年に欧州自由同盟・虹の同盟から離脱すると欧州自由民主改革党に移るが、1999年に離脱して他の無所属勢力イタリア急進党など)と一時的な暫定会派「技術上の独立同盟」を結成した後、無所属となった[32][33][34][35]

2004年の欧州議会選挙後に「独立と民主主義」、「欧州連邦主義連合」など複数の政党に働きかけて、会派「欧州の地方主義」を組織しようとしたがこれは失敗し、2006年まで欧州自由民主同盟に席を置く事となった。またこの時に欧州民主主義協会に加盟している[36]。2009年の欧州議会選挙後、北部同盟は欧州懐疑派の新会派「自由と民主主義のヨーロッパ」への参加を表明した。

政治主張

北部同盟の宣伝車両
ヴェネトで行われた同盟大会
  • 中絶・幹細胞研究・同性愛安楽死などキリスト教文化に反する社会倫理への反対
    • ただし、前述の通り支持基盤の関係から反教会主義を放棄するまではこれらの問題には穏健であった。
    • 現在でも「ロスパダニア協会」という性の自由を容認するグループが同盟内の派閥として存在する[37]
  • 同様に社会倫理の観点からのマリファナ完全非合法化
    • これも党内でかつて合法化を党の目標に掲げており、現在でも現方針に反対する議員団が組織されている[38]
  • 反国家主義・反中央集権(小さな政府[15][39]
  • 反公共投資・反公的援助
  • 異文化圏の移民、特にイスラム圏からの移民者排除
    • 北部同盟は「ヨーロッパ圏はキリスト教とユダヤ教で構成されるべき」と述べている[40][41]
  • 緑化保全運動[41][42]
  • 農業の保護[40][41]
  • 欧州連合懐疑主義[43][44][45][46]
  • 反NATO[47][48]
  • 親米主義
    • 当初は存在しなかったが、後に「連邦主義にとって最大の成功例」と賞賛している。
    • また9月11日の同時多発テロ移行はイスラム原理主義に対する脅威論から親米主義を唱えている[49][50][51][52]
      • ただしイラク戦争に関しては疑問を呈している[53][54][55]

脚注

  1. ^ Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci". Corriere della Sera. 2009-06-10.
  2. ^ http://www.lcv.ne.jp/~saland/qanda200211.htm
  3. ^ Piero Ignazi, Partiti politici in Italia, Il Mulino, Bologna 2008, p. 88
  4. ^ a b Paul Ginsborg, L'Italia del tempo presente, Einaudi, Turin 1996, pp. 336-337, 534-535
  5. ^ a b Giorgio Galli, I partiti politici italiani, BUR, Milan 2001, pp. 379-380, 384
  6. ^ Palo Rumiz, La secessione leggera. Dove nasce la rabbia del profondo Nord, Feltrinelli, Milan 2001, pp. 10-13
  7. ^ David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, pp. 263-266
  8. ^ Piero Ignazi, Partiti politici in Italia, Il Mulino, Bologna 2008, p. 90
  9. ^ David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, pp. 267-273
  10. ^ David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, pp. 273-276
  11. ^ Permalink. “Cosa penso del nuovo Presidente del Consiglio | Terzo occhio.org - fonte di domanda per informare se stessi”. Terzo occhio.org. 2010年5月10日閲覧。
  12. ^ L' ultima trincea dell' Udc contro l' asse del Nord”. Corriere della Sera (2004年1月27日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  13. ^ a b Umberto Bossi; Daniele Vimercati, Vento dal Nord. La mia Lega, la mia vita, Sperling & Kupfer, Milan 1992, pp. 25-35, 194-205
  14. ^ a b c Gianfranco Miglio, Come cambiare. Le mie riforme, Mondadori, Milan 1992, pp. 31-40
  15. ^ a b c d Elio Bonifazi; Alberto Pellegrino, Educazione civica e cultura costituzionale, Bulgarini, Florence 1996, pp. 79, 128-129
  16. ^ Bossi, show su Padania e Cavaliere: lo controlliamo, senza Lega va a casa”. Corriere della Sera (2009年12月2日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  17. ^ David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, pp. 23-24
  18. ^ Fabbriche e Gazebo: la Lega modello Pci”. Corriere della Sera (2009年6月10日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  19. ^ Francesco Jori, Dalla ?iga alla Lega. Storia, movimenti, protagonisti, Marsilio, Venice 2009, p. 18
  20. ^ Governo Italiano - Rassegna stampa”. Rassegna.governo.it. 2010年5月10日閲覧。
  21. ^ Ecco l'intervista integrale della Iena Enrico Lucci a Umberto Bossi.”. Affari Italiani (2008年9月30日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  22. ^ Berlusconi vuole annettere la Lega nel Pdl. Bossi non lo esclude. Il progetto segreto del Cavaliere”. Affari Italiani (2008年10月1日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  23. ^ Aldo Bonomi, Prefazione in David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, p. X
  24. ^ Francesco Jori, Dalla ?iga alla Lega. Storia, movimenti, protagonisti, Marsilio, Venice 2009, p. 77
  25. ^ David Parenzo; Davide Romano, Romanzo padano. Da Bossi a Bossi. Storia della Lega, Sperling & Kupfer, Milan 2009, pp. 49-52
  26. ^ Piero Ignazi, Partiti politici in Italia, Il Mulino, Bologna 2008, p. 87
  27. ^ Interview with Davide Romano, author of Romanzo Padano
  28. ^ Ilvo Diamanti, Bianco, rosso, verde... e azzurro, Il Mulino, Bologna 2003, pp. 68-71
  29. ^ Maurizio Ridolfi, Storia dei partiti politici. L'Italia dal Risorgimento alla Repubblica, Bruno Mondadori, Milan 2008, pp. 219-220
  30. ^ Piero Ignazi, Partiti politici in Italia, Il Mulino, Bologna 2008, pp. 97-98
  31. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Rumiz-SVP」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  32. ^ Your MEPs : Archives : Luigi MORETTI
  33. ^ Your MEPs : Archives : Francesco Enrico SPERONI
  34. ^ Your MEPs : Archives : Umberto BOSSI
  35. ^ Your MEPs : Archives : Raimondo FASSA
  36. ^ M. Roberto MARONI
  37. ^ Il Carroccio: matrimoni gay nella Repubblica Padana”. Corriere della Sera (1998年4月5日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  38. ^ Fecondazione un fronte del si tra le donne della Cdl”. Corriere della Sera (2005年5月1日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  39. ^ I confini della Lega”. Corriere della Sera (1993年6月15日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  40. ^ a b c 9/01519/013 : CAMERA - ITER ATTO”. Banchedati.camera.it (2008年7月31日). 2010年5月10日閲覧。
  41. ^ a b c Movimento politico Lega Nord per l'indipendenza della Padania: programmi ed iniziative del partito”. Leganord.org. 2010年5月10日閲覧。
  42. ^ ≪Basta capannoni, sono inutili≫ Il Veneto e i 200 km di cemento”. Corriere della Sera (2004年9月18日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  43. ^ Passa all'unanimita il Trattato europeo”. Corriere della Sera (2008年7月24日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  44. ^ Umberto Bossi; Daniele Vimercati, Vento dal Nord. La mia Lega, la mia vita, Sperling & Kupfer, Milan 1992, pp. 194-205
  45. ^ Punti_LN_Europa.doc” (PDF). 2010年5月10日閲覧。
  46. ^ Alessandro Cretti e Angelo Veronesi (2000年7月18日). “Movimento Giovani Padani”. Giovanipadani.leganord.org. 2010年5月10日閲覧。
  47. ^ Bossi: La Serbia invitera Annan”. Corriere della Sera (1999年4月24日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  48. ^ L'Europa profonda che odia l'America”. La Repubblica (1999年4月11日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  49. ^ Lega, il partito filo Milosevic ora da il via libera all'America”. Corriere della Sera (2001年10月10日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  50. ^ I Poli trovano l'intesa, si all'intervento militare”. Corriere della Sera (2001年11月8日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  51. ^ Si a maggioranza, via alla ≪missione Afghanistan≫”. Corriere della Sera (2002年10月4日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  52. ^ Calderoli: Bush regali l'atomica ad Ahmadinejad”. Corriere della Sera (2006年9月7日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  53. ^ Lo strappo della Lega sulla missione italiana”. Corriere della Sera (2004年4月22日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  54. ^ La Lega tende a smarcarsi. Inviti alla cautela sugli ostaggi”. Corriere della Sera (2004年4月22日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  55. ^ Calderoli: andiamocene. Il Polo lo frena Rifinanziamento, il centrosinistra diviso”. Corriere della Sera (2005年7月9日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。

外部リンク