「ウッドロウ・ウィルソン」の版間の差分
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{{Expand English|Woodrow Wilson|date=2021年3月|fa=yes}} |
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{{大統領 | 人名=ウッドロウ・ウィルソン |
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| 各国語表記=Thomas Woodrow Wilson |
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{{大統領 |
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| 画像=Thomas Woodrow Wilson, Harris & Ewing bw photo portrait, 1919.jpg |
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| 人名 = ウッドロー・ウィルソン |
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| 代数=第28 |
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| 各国語表記 = {{en|Woodrow Wilson}} |
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| 職名=大統領 |
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| 画像 = Thomas Woodrow Wilson, Harris & Ewing bw photo portrait, 1919.jpg |
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| 国名={{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]] |
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| 画像サイズ = 230px |
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| 副大統領職=あり |
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1856|12|28|no}} |
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| 副大統領=[[トーマス・R・マーシャル|トーマス・マーシャル]] |
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| 生地 = {{USA1851}} [[バージニア州]][[スタントン (バージニア州)|スタントン]] |
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| 就任日=[[1913年]][[3月4日]] |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1856|12|28|1924|2|3}} |
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| 没地 = {{USA1912}} [[ワシントンD.C.]] |
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| 出生日=[[1856年]][[12月28日]] |
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| 出身校 = [[プリンストン大学]]<br>[[ジョンズ・ホプキンス大学]] |
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| 生地={{Flagicon|USA}} [[バージニア州|ヴァージニア州]][[スタントン]] |
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| profession = 研究者([[歴史学]]と[[政治学]]) |
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| 生死=死去 |
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| 配偶者 = エレン・ウィルソン<br/>{{仮リンク|イーディス・ウィルソン|en|Edith Wilson}} |
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| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1856|12|28|1924|2|3}} |
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| 子女 = [[マーガレット・ウッドロウ・ウィルソン]]<br>[[ジェシー・ウッドロウ・ウィルソン・セイアー]]<br>[[エレノア・ウィルソン・マカドゥー]] |
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| 没地={{Flagicon|USA}} [[ワシントンD.C.]] |
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| 政党 = [[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]] |
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| 配偶者=[[エレン・ルィーズ・ウィルソン]]<br /><span style="white-space:nowrap">[[イーディス・ボーリング・ウィルソン]]</span> |
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| 受賞 = [[ノーベル平和賞]]<br>[[:en:Bachelor of Arts|文学士]](プリンストン大学)<br>政治学博士(ジョンズ・ホプキンス大学) |
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| 政党=[[民主党 (アメリカ)|民主党]] |
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| サイン=Woodrow |
| サイン = Woodrow Wilson Signature 2.svg |
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| 国名 = {{USA1912}} |
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| 代数 = 第28 |
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| 職名 = [[アメリカ合衆国大統領|大統領]] |
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| 就任日 = [[1913年]][[3月4日]] |
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| 退任日 = [[1921年]][[3月4日]] |
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| 副大統領 = [[トーマス・R・マーシャル]] |
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| 国名2 = {{Flag|New Jersey}} |
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| 代数2 = 第34 |
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| 職名2 = [[ニュージャージー州知事一覧|知事]] |
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| 就任日2 = [[1911年]][[1月17日]] |
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| 退任日2 = [[1913年]][[3月1日]] |
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'''トーマス・ウッドロ |
'''トーマス・ウッドロー・ウィルソン'''(英語:{{lang|en|'''Thomas Woodrow Wilson'''}}、[[1856年]][[12月28日]] - [[1924年]][[2月3日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Woodrow-Wilson Woodrow Wilson president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[政治学者]]。第28代[[アメリカ合衆国大統領]]を務めた。[[アンドリュー・ジャクソン]]の次に[[ホワイトハウス]]で連続2期を務めた2人目の[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]の大統領である。「[[行政学]]の父」とも呼ばれる。 |
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== 概要 == |
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[[進歩主義]]運動の指導者として1902年から1910年まで[[プリンストン大学]]の総長を務め、1911年から1913年まで[[ニュージャージー州知事一覧|ニュージャージー州知事]]を務めた。[[1912年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]は[[セオドア・ルーズベルト]]と[[ウィリアム・ハワード・タフト]]の支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した[[博士]]号を持つ唯一の大統領である。 |
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=== 生い立ち === |
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[[バージニア州|ヴァージニア州]][[スタントン (バージニア州)|スタントン]]でジョゼフ・ウィルソンとジャネット・ウッドロウの長男として生まれる。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は[[合衆国長老教会]]の創設者の一人である。祖先は[[北アイルランド]]のストラベーンの出で、トーマス本人は[[ジョージア州]][[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ]]で成長した。 |
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1885年に[[ブリンマー大学]]で[[歴史学]]及び[[政治学]]を教えた後、1886年には[[ジョンズ・ホプキンス大学]]から政治学の博士号を受ける。1888年に[[コネチカット州]]の[[ウェズリアン大学]]に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任し、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年まで[[アメリカ政治学会]]の会長であった。 |
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父はトーマスに牧師の後を継がせようとしたが、[[ウィリアム・グラッドストン]]に私淑して政治家を志した。 |
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1887年に執筆した論文『行政の研究』('''ザ・スタディ・オブ・アドミニストレイション''')において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、[[猟官制]]の抑制と近代的[[官僚制]]の再導入を提唱するとともに、研究領域的に[[政治学]]から[[行政学]]を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、{{仮リンク|フランク・グッドナウ|en|Frank Johnson Goodnow}}と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている<ref>真渕勝、『行政学』、有斐閣、2009年、p.532</ref><ref>西尾勝、『行政学〔新版〕』、有斐閣、2001年、p.28</ref>。 |
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トーマスは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後に[[ジークムント・フロイト]]の精神分析対象となった |
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<ref>Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」[[岸田秀]]訳([[紀伊国屋書店]]、1969年)</ref>。 |
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===大統領=== |
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デイヴィッドソン大学に入学し、1年後に[[プリンストン大学]]へ編入し1879年に卒業した。[[ファイ・カッパ・サイ]]のメンバーだった。後に、[[バージニア大学|ヴァージニア大学]]で1年間法律を学んだ。1886年には[[ジョンズ・ホプキンス大学]]から政治学の博士号 ([[Ph.D.]]) を受ける。ウィルソンは研究実績に基づく博士号を得た唯一の大統領である。 |
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当初の中立姿勢を放棄して[[戦争を終わらせるための戦争]]として[[第一次世界大戦]]への参戦を決断し、大戦末期には[[ウラジーミル・レーニン]]の「[[平和に関する布告]]」に対抗して「'''[[十四か条の平和原則]]'''」を発表、[[新世界秩序]]を掲げて[[パリ講和会議]]を主宰し、[[国際連盟]]の創設に尽力した。その功績により、[[ノーベル平和賞]]を受賞している。敬虔な[[長老派教会]]の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚を[[インターナショナリズム]]に取り入れた。それは現在「'''[[ウィルソン主義]]'''」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が[[民主主義]]を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家の{{仮リンク|クリーブランド・ドッジ|en|Cleveland Hoadley Dodge}}の協力無しには得られなかった。 |
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== 生い立ち == |
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1856年12月28日に[[バージニア州]][[スタントン (バージニア州)|スタントン]]にて、[[長老派]]の[[牧師]]であった[[ジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン]](1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の[[牧師の子供|子供]]の3番目に誕生する<ref> John Milton Cooper, ''Woodrow Wilson: A Biography'' (2009) pp 13-19</ref>。祖先は[[スコットランド人]]及び[[アイルランド系アメリカ人|スコッチ=アイリッシュ]]であった。父方の祖父母は1807年に[[北アイルランド]]の[[ティロン県]][[ストラベーン]]から移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は[[合衆国長老教会]]の創設者の1人である。 |
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1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1888年に[[コネチカット州]]の[[ウェスリアン大学]]に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年まで[[アメリカ政治学会]]の会長だった。 |
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母親は[[ペイズリー (スコットランド)|ペイズリー]]出身のトーマス・ウッドロウ博士と、[[グラスゴー]]出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、[[カーライル (イングランド)|カーライル]]で生まれた<ref>{{cite web|url=http://wc.rootsweb.ancestry.com/cgi-bin/igm.cgi?op=AHN&db=woodrow_wilson&id=I0001 |title=Genealogy of President Woodrow Wilson |publisher=Wc.rootsweb.ancestry.com |date= |accessdate=2010-09-11}}</ref>。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった<ref name=GeographiaTyrone>{{cite web |accessdate=2011-02-11 |
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1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、[[猟官制]]の抑制と近代的[[官僚制]]の再導入を提唱するとともに、研究領域的に[[政治学]]から[[行政学]]を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、[[フランク・グッドナウ]]と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている<ref>『行政学』、間渕勝、有斐閣、2009年、p.532</ref><ref>『行政学』、西尾勝、有斐閣、2001年、p.28</ref>。 |
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|url=http://www.geographia.com/northern-ireland/ukiher01.htm#Tyrone |
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|title= President Wilson House, Dergalt |
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|work=Northern Ireland - Ancestral Heritage |
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|publisher=Northern Ireland Tourist Board}}</ref>。 |
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ウィルソンの父親は[[オハイオ州]][[スチューベンビル (オハイオ州)|スチューベンビル]]出身で、そこでは祖父が『ウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット』紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった<ref>{{harvnb|Walworth|1958}} p. 4</ref>。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、[[アメリカ連合国|連合国]]を支持した。父親は奴隷制を擁護して奴隷を所有し、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した<ref name=PresidentialAvenue>{{cite web |accessdate=2011-02-11 |
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=== 政治家として === |
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|url=http://www.presidentialavenue.com/ww.cfm |
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ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党の[[ニュージャージー州]]知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。<!--知事としてウィルソンは、国内の政治経済学に関して進歩的自由主義の綱領を展開した。--><!--この箇所翻訳要確認、日本語が意味をなしていない--> [[1912年アメリカ合衆国大統領選挙|1912年の大統領選]]で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「[[ニュー・フリーダム]]」をスローガンに掲げた。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウィリアム・タフト]]と[[セオドア・ルーズベルト]]はお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。 |
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|title=Woodrow Wilson - 28th President, 1913-1921 |
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|publisher=PresidentialAvenue.com}}</ref>。ウィルソンの最も初期の記憶は、[[エイブラハム・リンカーン]]が大統領に選ばれ、[[南北戦争|戦争]]が始まったことであった。ウィルソンは[[ロバート・E・リー]]の横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった<ref name=PresidentialAvenue/>。 |
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ウィルソンの父は、1861年に[[アメリカ合衆国長老教会]]から分裂した[[合衆国長老教会|南長老教会]]の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めた[[ジョージア州]][[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ]]で成長した<ref name=White_Ch2>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=pXYqVxLyRrwC&printsec=frontcover&dq=Woodrow+Wilson:+The+Man,+His+Times+and+His+Task&redir_esc=y&hl=ja#PPA28,M1 |
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=== 大統領職 === |
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|title=Woodrow Wilson - The Man, His Times and His Task |
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ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では[[共和党]]政権時代の「棍棒外交」や「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下で[[ハイチ]]が保護国となり[[ドミニカ]]も軍政下に置かれた。また、[[メキシコ革命]]の際はアメリカ軍を派遣して[[ベラクルス]]を武力占領し、革命に干渉した。 |
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|last=White|first=William Allen |
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|chapter=Chapter II: The Influence of Environment|isbn=9781406776850|date=2007-03-15 |
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}}</ref>。父は彼に牧師を継がせようとしたが、[[ウィリアム・グラッドストン]]に私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後に[[ジークムント・フロイト]]の精神分析対象となった<ref>Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」[[岸田秀]]訳([[紀伊国屋書店]]、1969年)</ref>。 |
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ウィルソンは[[ディスレクシア]]の為に9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった<ref>{{cite web |title=Wilson: A Portrait |publisher=American Experience, PBS Television |year=2001 |accessdate=2009-01-19 |url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/wilson/portrait/wp_wilson.html}}</ref>。しかしそれを克服するため、速記を独学で覚えた<ref>{{cite web |title=Woodrow Wilson, Episode One: He Was a Quiet Man (transcript) |url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/wilson/filmmore/fm_trans1.html |publisher=American Experience, PBS Television |year=2001 |accessdate=2009-01-19}}</ref>。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った<ref>Link ''Road to the White House'' pp. 3-4.</ref>。[[レコンストラクション]]の間はサウスカロライナ州の州都[[コロンビア (サウスカロライナ州)|コロンビア]]で暮らし、父は同地で{{仮リンク|コロンビア神学校|en|Columbia Theological Seminary}}の教授を務めた<ref>Walworth ch 1</ref>。 |
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[[第一次世界大戦]]に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは [[1916年アメリカ合衆国大統領選挙|1916年の再選]]に寄与した。しかしながら[[ルシタニア号事件|ルシタニア号沈没事件]]による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、「[[ツィンメルマン電報]]」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日に[[ドイツ]]への宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。 |
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1873年にノースカロライナの[[デイビッドソン大学]]で学び、1年後に[[プリンストン大学]]へ編入して1879年に卒業した。彼は[[ファイ・カッパ・サイ]]のメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、[[ヘンリー・ルーシー]]であった。彼は{{仮リンク|アメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティ|en|American Whig-Cliosophic Society}}の活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した<ref>Link, ''Wilson'' I:5-6; Wilson Papers I: 130, 245, 314</ref>。 |
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1879年に[[バージニア大学]]で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、{{仮リンク|バージニア・グリー・クラブ|en|Virginia Glee Club}}および{{仮リンク|ジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティ|en|Jefferson Literary and Debating Society}}の活動に深く関わり、会長を務めた<ref name="worldswork">{{cite book|title=The World's Work: A History of our Time, Volume IV: November 1911-April 1912|location=|publisher=[[:en:Doubleday (publisher)|Doubleday]]|year=1912|pages=74-75}}</ref>。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、[[ウィルミントン (ノースカロライナ州)|ウィルミントン]]の自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた<ref>{{harvnb|Cranston|1945}}</ref>。 |
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== ニュージャージー州知事から大統領へ == |
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ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党の[[ニュージャージー州知事]]候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。<!--知事としてウィルソンは、国内の政治経済学に関して進歩的自由主義の綱領を展開した。--><!--この箇所翻訳要確認、日本語が意味をなしていない--> [[1912年アメリカ合衆国大統領選挙]]で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「[[ニュー・フリーダム]]」をスローガンに掲げた。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウィリアム・タフト]]と[[セオドア・ルーズベルト]]は互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果、ウィルソンは大統領選に勝利した。 |
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== 大統領として == |
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[[File:President Wilson reading the Armistice terms to Congress., 11-11-1918 - NARA - 530764.tif|thumb|right|250px|連邦議会でドイツとの休戦協定を読み上げるウィルソン(1918年11月11日)。]] |
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ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下で[[ハイチ]]が保護国となり[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]も軍政下に置かれた。また、[[メキシコ革命]]の際はアメリカ軍を派遣して[[ベラクルス]]を武力占領し、革命に干渉した。 |
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任期1期目でウィルソン[[連邦準備法]]、{{仮リンク|連邦取引法|en|Federal Trade Commission Act}}、[[クレイトン法]]、{{仮リンク|農業信用法|en|Federal Farm Loan Act}}および{{仮リンク|1913年歳入法|en|Revenue Act of 1913}}に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した<ref name=JNH_Wolgemuth>{{cite journal |title=Woodrow Wilson and Federal Segregation |first=Kathleen L. |url=http://jstor.org/stable/2716036 |last=Wolgemuth |journal=The Journal of Negro History |volume=44 |issue=2 |year=1959 |pages=158-173 |doi=10.2307/2716036 |issn=00222992 |ref=harv}}</ref>。 |
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[[第一次世界大戦]]に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは [[1916年アメリカ合衆国大統領選挙]]での再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」であった)。しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。これに対抗したドイツの[[無制限潜水艦作戦]]によって発生した[[ルシタニア号事件|ルシタニア号沈没事件]]による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「[[ツィンメルマン電報]]」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日に[[ドイツ帝国|ドイツ]]への[[アメリカ合衆国の対独宣戦布告 (1917年)|宣戦を布告した]]。開戦に際してウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽って労働運動・反戦運動などを弾圧した。 |
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1917年にウィルソンは[[南北戦争]]以来初の[[徴兵制度|徴兵]]を実施し、{{仮リンク|自由公債|en|Liberty bond}}を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。{{仮リンク|戦時産業局|en|War Industries Board}}を設置し、[[労働組合]]の成長を促進した他、[[食糧・燃料管理法|リーバー法]](戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの[[ハリソン麻薬取締法|麻薬取締法]]を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。 |
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第一次世界大戦末期の[[1918年]]1月8日に、ウィルソンは「[[十四か条の平和原則]]」を発表した。疲弊した[[ドイツ帝国]]は降伏し[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]の締結へと至った。ウィルソンはイギリスとフランスに「平和原則」を講和の前提とするように求めた。 |
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===パリ講和会議=== |
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{{see also|パリ講和会議}} |
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[[ファイル:President Wilson with Advisors and Staff at Paris Peace Conference.jpg|thumb|280px|right|パリ講和会議におけるアメリカ全権団とそのスタッフ]] |
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1919年|ノーベル平和賞|国際連盟創設への貢献<ref>[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1919/index.html "The Nobel Peace Prize 1919"]. Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.</ref><ref>Lundestad, Geir (2001-03-15). [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/articles/lundestad-review/index.html "The Nobel Peace Prize, 1901–2000"]. Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.</ref>}} |
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1919年|ノーベル平和賞|}} |
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{{thumbnail:end}} |
{{thumbnail:end}} |
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第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日にフランスの[[パリ]]へ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンの側近である[[エドワード・M・ハウス|エドワード・ハウス]]が第一次世界大戦後の世界秩序構築のために設立した調査組織[[インクワイアリー]]も代表団に加わり、ウィルソンに同行した。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧[[中央同盟国]]国民からの期待も集めていた<ref>吉川宏、1、346-347p</ref>。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p=69}}。ウィルソンはフランスの[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相、イギリスの[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相と共に講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招いた。特にドイツに苛烈とも言える賠償を求めたフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している<ref>{{Cite journal|和書|author=山越裕太 |title=国際保健衛生分野の制度形成と感染症:国際連盟規約起草過程の事例から |journal=コスモポリス |ISSN=18822967 |publisher=上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科国際関係論専攻『コスモポリス』編集委員会 |year=2011 |issue=5 |pages=61-81 |naid=120005885567 |url=http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000031335 |ref=harv}}</ref>。 |
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第一次世界大戦末期の[[1918年]]1月8日に、ウィルソンは有名な「[[十四か条の平和原則]]」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、[[国際連盟]]として実現したが、アメリカ自身は議会([[上院]])の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日[[ヴェルサイユ]]へ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表として[[ヴェルサイユ条約]]に調印した。4月11日に日本代表の[[牧野伸顕]]らが出した[[人種的差別撤廃提案]]に対し、[[イギリス]]と[[オーストラリア]]が反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。 |
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この委員会で日本全権の[[牧野伸顕]]らは、[[国際連盟規約]]に[[人種差別]]の禁止を盛り込むという[[人種的差別撤廃提案]]を提案した。ウィルソンに同行していたエドワード・ハウスは日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している{{sfn|永田幸久|2003|pp=204}}。しかしイギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発した{{sfn|永田幸久|2003|pp=207}}。採決においては11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」として議長権限により否決とした{{sfn|永田幸久|2003|pp=212}}。一方で、日本が要求したドイツが持っていた[[山東半島]]の権益を日本に引き渡すという[[山東問題]]においては、日本が連盟不参加をほのめかす強硬措置を執ったため、親中華民国派が多いアメリカ全権団内部からの反発を押して、不本意ながら日本に山東半島の権益を引き渡すことに合意している<ref>中谷直司、2004、286-287p</ref>。 |
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このことから、彼の唱える進歩的自由主義は[[白人]]のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会(上院)の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が[[人種差別]]撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。いずれにせよ、彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。 |
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ウィルソンはこの件にもあるように、国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失った<ref>中谷直司、2004、299-300p</ref>。それでも[[ヴェルサイユ条約]]をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなった。しかしアメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約第10条が、[[モンロー主義]]を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じなかった{{sfn|牧野雅彦|2009|p=251-252}}。結果、上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。1919年のノーベル平和賞受賞は、連盟創設の功績によるものである。 |
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===政権末期=== |
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[[Image:Woodrow and Edith Wilson2.jpg|thumb|200px|イーディス・ウィルソン夫人(右)と]] |
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[[1919年]]10月2日、[[コロラド州]]で[[脳梗塞]]を発症、一命を取りとめたが左半身不随、左側視野欠損、言語障害と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期ごろになってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。 |
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こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の[[アメリカ合衆国大統領の継承順位|大統領権限継承順位]]を明文化した[[アメリカ合衆国憲法修正第25条|憲法修正第25条]]制定の伏線となった。 |
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<!--[[エドガー・ケイシー]]を重用し、その予言を政治に活用した。--> |
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=== 大統領顧問団 === |
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<!--ミドルネーム |
<!--ミドルネーム/ミドルイニシャルは、入れるか入れないかのどちらかに統一 --> |
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[[ファイル:Wwilson.jpg|right|thumb|280px|ホワイトハウスのポートレイト]] |
[[ファイル:Wwilson.jpg|right|thumb|280px|ホワイトハウスのポートレイト]] |
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{|class="wikitable" |
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{| cellpadding="1" cellspacing="4" style="margin:3px; border:3px solid #000000;" align="left" |
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!職名!!氏名!!任期 |
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!bgcolor="#000000" colspan="3"| |
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|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||ウッドロウ・ウィルソン||1913年 - 1921年 |
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|align "right"|'''職名'''||align="left"|'''氏名'''||align="left"|'''任期''' |
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|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||[[トーマス・R・マーシャル|トーマス・マーシャル]]||1913年 - 1921年 |
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!bgcolor="#000000" colspan="3"| |
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|rowspan="3"|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||[[ウィリアム・ブライアン]]||1913年 - 1915年 |
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|[[ロバート・ランシング]]||1915年 - 1920年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||align="left"|'''[[トーマス・R・マーシャル|トーマス・マーシャル]]'''||align="left"|1913 - 1921 |
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|[[ベインブリッジ・コルビー]]||1920年 - 1921年 |
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!bgcolor="#000000" colspan="3"| |
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|rowspan="3"|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||[[ウィリアム・マカドゥー]]||1913年 - 1918年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||align="left"|'''[[ウィリアム・ブライアン]]'''||align="left"|1913 - 1915 |
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|[[カーター・グラス]]||1918年 - 1920年 |
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|[[デイヴィッド・ヒューストン]]||1920年 - 1921年 |
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|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]||[[リンドリー・ガリソン]]||1913年 - 1916年 |
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|[[ニュートン・ベイカー]]||1916年 - 1921年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[カーター・グラス]]'''||align="left"|1918 - 1920 |
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|rowspan="3"|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||[[ジェームズ・マクレイノルズ]]||1913年 - 1914年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[デイヴィッド・ヒューストン]]'''||align="left"|1920 - 1921 |
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|[[トーマス・グレゴリー]]||1914年 - 1919年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]||align="left"|'''[[リンドリー・ガリソン]]'''||align="left"|1913 - 1916 |
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|[[パーマー・レイド|ミッチェル・パーマー]]||1919年 - 1921年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[ニュートン・ベイカー]]'''||align="left"|1916 - 1921 |
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|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||[[アルバート・バーレソン]]||1913年 - 1921年 |
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|[[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]||[[ジョセファス・ダニエルズ]]||1913年 - 1921年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[トーマス・グレゴリー]]'''||align="left"|1914 - 1919 |
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|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||[[フランクリン・レーン]]||1913年 - 1920年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[ミッチェル・パルマー]]'''||align="left"|1919 - 1921 |
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|ジョン・パイン||1920年 - 1921年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||align="left"|'''[[アルバート・バーレソン]]'''||align="left"|1913 - 1921 |
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|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||[[デイヴィッド・ヒューストン]]||1913年 - 1920年 |
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|[[エドウィン・メレディス]]||1920年 - 1921年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||align="left"|'''[[フランクリン・レーン]]'''||align="left"|1913 - 1920 |
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|rowspan="2"|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||ウィリアム・レッドフィールド||1913年 - 1919年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[ジョン・パイン]]'''||align="left"|1920 - 1921 |
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|[[ジョシュア・アレグザンダー]]||1919年 - 1921年 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||align="left"|'''[[デイヴィッド・ヒューストン]]'''||align="left"|1913 - 1920 |
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|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||ウィリアム・ウィルソン||1913年 - 1921年 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[エドウィン・メリディス]]'''||align="left"|1920 - 1921 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||align="left"|'''[[ウィリアム・レッドフィールド]]'''||align="left"|1913 - 1919 |
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|align="left"| ||align="left"|'''[[ジョシュア・アレグザンダー]]'''||align="left"|1919 - 1921 |
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|align="left"|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||align="left"|'''[[ウィリアム・ウィルソン]]'''||align="left"|1913 - 1921 |
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=== 政権末期 === |
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[[Image:Woodrow and Edith Wilson2.jpg|thumb|200px|イーディス・ウィルソン夫人(右)と]] |
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もともと偏頭痛の持病があったが、[[1919年]]10月2日に[[コロラド州]]で[[脳梗塞]]を発症した。一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、[[言語障害]]といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人の{{仮リンク|イーディス・ウィルソン|en|Edith Wilson}}はこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間の[[リハビリテーション|リハビリ]]を経た後、政権末期になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであった[[トーマス・R・マーシャル|トーマス・マーシャル]]副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加した他は職務権限の代行は一切しなかった。 |
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こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の[[アメリカ合衆国大統領の継承順位|大統領権限継承順位]]を明文化した[[アメリカ合衆国憲法修正第25条|憲法修正第25条]]制定の伏線となった。 |
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<!--[[エドガー・ケイシー]]を重用し、その予言を政治に活用した。--> |
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== 結婚 == |
== 結婚 == |
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[[画像:ELWilson.jpg|180px|thumb|エレン・ルイーズ夫人]] |
[[画像:ELWilson.jpg|180px|thumb|エレン・ルイーズ夫人]] |
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1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソン<!--(Ellen Louise Axson)-->と結婚し、マーガレット<!--・ウッドロウ・ウィルソン(Margaret Woodrow Wilson、1886年 - 1944年)-->、ジェシー<!--・ウィルソン(Jessie Wilson、1887年 - 1933年)-->、エレノア<!--・ランドルフ・ウィルソン(Eleanor Randolph Wilson、1889年 - 1967年)-->の三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年<!--にブライト病(現在の-->腎臓炎<!--)-->で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。 |
1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソン<!--(Ellen Louise Axson)-->と結婚し、[[マーガレット・ウッドロウ・ウィルソン|マーガレット]]<!--・ウッドロウ・ウィルソン(Margaret Woodrow Wilson、1886年 - 1944年)-->、[[ジェシー・ウッドロウ・ウィルソン・セイアー|ジェシー]]<!--・ウィルソン(Jessie Wilson、1887年 - 1933年)-->、[[エレノア・ウィルソン・マカドゥー|エレノア]]<!--・ランドルフ・ウィルソン(Eleanor Randolph Wilson、1889年 - 1967年)-->の三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年<!--にブライト病(現在の-->腎臓炎<!--)-->で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。エレンがなくなってから、再婚するまでの間は、長女のマーガレットが事実上のファーストレディとなった。 |
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1915年 |
1915年に58歳のウィルソンは、ボーリング家([[ポカホンタス]]の子孫<!--でもある名家-->)出身であり<!--前の夫が没して-->未亡人となっていた43歳の{{仮リンク|イーディス・ウィルソン|en|Edith Wilson|label=イーディス・ボリング・ガルト}}(1872年 - 1961年)を紹介されて再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみ<!--る「事実上の大統領」「アメリカ史上初の国政を担った女性」となっ(要出典)-->た。 |
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== 死去 == |
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1921年3月4日にウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.の[[エンバシー・ロウ]]にある自宅に移った。ウィルソンは毎日のドライブを続け、土曜の夜はキースの[[ヴォードヴィル|ボードビル]]劇場に通った。ウィルソンは{{仮リンク|アメリカ歴史協会|en|American Historical Association}}の会長を務めた2人の大統領の一人であった(もう一人は[[セオドア・ルーズベルト]])<ref>David Henry Burton. ''Theodore Roosevelt, American Politician'', p.146. Fairleigh Dickinson University Press, 1997, ISBN 0-8386-3727-2</ref>。 |
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* ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 [[プリンストン大学]]の[[公共政策大学院]]であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。 |
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[[画像:US100000dollarsbillobverse.jpg|300px|thumb|ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル紙幣]] |
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1924年2月3日に自宅で死去し、[[ワシントン大聖堂]]に埋葬された。ウィルソンはワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領である<ref>John Whitcomb, Claire Whitcomb. ''Real Life at the White House'', p.262. Routledge, 2002, ISBN 0-415-93951-8</ref>。なお妻のイーディスは夫の死後37年間を自宅で過ごし、1961年12月28日に死去した。その日はワシントンD.C.近くの[[ウッドロウ・ウィルソン記念橋]]開通式典開催日で、彼女は式典の主賓であった。彼女は愛犬のルーターを枕元において死去した。イーディスは{{仮リンク|アメリカ合衆国ナショナル・トラスト|en|National Trust for Historic Preservation}}に自宅を、夫の記念博物館にするよう託した。{{仮リンク|ウッドロウ・ウィルソン・ハウス|en|Woodrow Wilson House (Washington, D.C.)}}は博物館として公開される。1964年には[[アメリカ合衆国国定歴史建造物]]に指定され、1966年には[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に登録された<ref>[http://www.cr.nps.gov/history/online_books/Presidents/site16.htm "Woodrow Wilson House"], National Park Service Website, accessed 12 Jan 2009</ref>。 |
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* ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで[[アメリカ合衆国ドル|10万ドル紙幣]] ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また[[ウッドロウ・ウィルソン (原子力潜水艦)|原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン<!-- (USS Woodrow Wilson, SSBN-624)-->]] も彼にちなんで命名されたもの。 |
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ウィルソンは1917年5月31日に遺書を執筆し、妻のイーディスを執行者に指名した。彼は娘のマーガレットに独身でいる限り毎年2,500ドルの年金を残し、前妻の動産も娘に託した。残りの財産と不動産はイーディスに相続させ、イーディスの死後に娘達が等分に相続するようにとした。イーディスに子供がいた場合、彼女の子供はウィルソンの娘と同等に遺産を相続したであろう。イーディスには子供がいなかったので、ウィルソンは彼女が3度目の結婚で子供を作った場合に備えていた<ref>''Wills of the U.S. Presidents'', edited by Herbert R Collins and David B Weaver (New York: Communication Channels Inc., 1976) 176-177, ISBN 0-916164-01-2.</ref>。 |
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[[画像:US100000dollarsbillobverse.jpg|300px|thumb|ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル{{仮リンク|金貨証券|en|Gold certificate}}]] |
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* ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 |
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* [[プリンストン大学]]の[[公共政策大学院]]であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名された。しかし2020年6月27日、同大学はウィルソンが人種差別的な政策を進めたとして、彼の名を冠した学部・建物から名前を外すと発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20200628-OYT1T50115/|work=[[讀賣新聞]]オンライン|title=ウィルソン元米大統領の名前冠した学部・建物の名称変更…米大「人種差別的政策進めた」|date=2020-06-28|accessdate=2023-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|title=President Eisgruber's message to community on removal しWoodrow Wilson name from public policy school and Wilson College|url=https://www.princeton.edu/news/2020/06/27/president-eisgrubers-message-community-removal-woodrow-wilson-name-public-policy|website=Princeton University|accessdate=2020-11-25|language=en}}</ref>。 |
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* ウィルソンの肖像は1934年から1946年まで10万ドルの{{仮リンク|金貨証券|en|Gold certificate}}に用いられた。この額面10万ドルの金貨証券は金貨証券史上最高額面(及び[[アメリカ合衆国ドル|アメリカドル]]紙幣の最高額面1万ドルを上回るもの)であるが、{{仮リンク|大統領令6102号|en|Executive Order 6102}}により一般市民が金貨証券(および流通用金貨と金地金)の所持を禁じられた後に発行されたものであり、[[連邦準備制度|連邦準備銀行]]や[[アメリカ合衆国財務省|財務省]]の財務処理のためにのみ使用された。 |
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* [[ウッドロウ・ウィルソン (原子力潜水艦)|原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン (''USS Woodrow Wilson, SSBN-624'') ]]は彼にちなんで命名された。 |
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* 現在の[[スロバキア]]の首都である[[ブラチスラヴァ]]市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領が[[チェコスロバキア]]の建国を支援したことを記念したものであった。 |
* 現在の[[スロバキア]]の首都である[[ブラチスラヴァ]]市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領が[[チェコスロバキア]]の建国を支援したことを記念したものであった。 |
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* [[ディスレクシア]]の為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。 |
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*伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』([[南窓社]]、1980年)がある。 |
*伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』([[南窓社]]、1980年)がある。 |
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* 議会での口頭による[[一般教書演説]]を、ワシントン以来124年ぶりに行っている。 |
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* 身長5フィート11インチ(約180センチメートル)<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。 |
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== 出典 == |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=牧野雅彦|date=2009|title = ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和|publisher = 中央公論新社|isbn= 978-4121019806|ref=harv}} |
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<div class="references-small"><references /></div> |
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* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(一) |journal=北大法学論集 |ISSN=03855953 |publisher=北海道大学法学部 |year=1963 |month=jan |volume=13 |issue=2 |pages=282-359 |naid=120000973657 |url=https://hdl.handle.net/2115/27812 |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(2) |journal=北大法学論集 |ISSN=03855953 |publisher=北海道大学法学部 |year=1963 |month=mar |volume=13 |issue=3・4 |pages=459-551 |naid=120000953565 |url=https://hdl.handle.net/2115/16020 |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(3) |journal=北大法学論集 |ISSN=03855953 |publisher=北海道大学法学部 |year=1963 |month=aug |volume=14 |issue=1 |pages=66-157 |naid=120000963326 |url=https://hdl.handle.net/2115/16025 |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉川宏 |title=ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(4・完) |journal=北大法学論集 |ISSN=03855953 |publisher=北海道大学法学部 |year=1963 |month=dec |volume=14 |issue=2 |pages=203-234 |naid=120000964210 |url=https://hdl.handle.net/2115/16029 |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=細谷千博 |title=ヴェルサイユ平和会議とロシア問題 |journal=法学研究 |ISSN=04393260 |publisher=一橋大學 |year=1959 |issue=2 |pages=59-121 |naid=110007623673 |doi=10.15057/10123 |url=https://hdl.handle.net/10086/10123 |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=永田幸久 |title=第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として |journal=中京大学大学院生法学研究論集 |ISSN=0389-7958 |year=2003 |month=mar |issue=23 |pages=157-256 |naid=110006201180 |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00015393/ |ref=harv}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=中谷直司 |title=ウィルソンと日本 : パリ講和会議における山東問題 |journal=同志社法学 |ISSN=03877612 |publisher=同志社法學會 |year=2004 |month=jul |volume=56 |issue=2 |pages=245-332 |naid=110001045060 |doi=10.14988/pa.2017.0000007523 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007523 |ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[1913年ウッドロウ・ウィルソン大統領就任式]] |
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* [[政治学]] |
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* [[ウィルソン (1944年の映画)]] |
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* [[第一次世界大戦]] |
|||
* [[戦争を終わらせるための戦争]] |
|||
* [[ヴェルサイユ条約]] |
|||
* [[バーナード・バルーク]] |
|||
* [[十四か条の平和原則]] |
|||
* [[国際連盟]] |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{commons|Woodrow Wilson}} |
{{commons|Woodrow Wilson}} |
||
* [http://www.heritageandhistory.com/contents1a/2008/10/the-president-visits-carlisle/ Woodrow Wilson visits Carlisle - UK] |
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* [http://www.utwatch.org/funfacts/woodrowwilson.html Ode to Woodrow Wilson] |
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* [http://www.whitehouse.gov/history/presidents/ww28.html ホワイトハウス発表の経歴(英語)] |
* [http://www.whitehouse.gov/history/presidents/ww28.html ホワイトハウス発表の経歴(英語)] |
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* [http://www.loc.gov/rr/program/bib/presidents/wilson/index.html Woodrow Wilson: A Resource Guide] from the Library of Congress |
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*[http://woodrowwilson.net/ Presidential Biography by Stanley L. Klos] |
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* [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=WilsonW 演説のオーディオクリップ] |
* [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=WilsonW 演説のオーディオクリップ] |
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* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/wilson1.htm 1期目就任演説(英語)] |
* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/wilson1.htm 1期目就任演説(英語)] |
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* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/wilson2.htm 2期目の就任演説(英語)] |
* [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/wilson2.htm 2期目の就任演説(英語)] |
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* 生地、バージニア州スタントンにある[http://www.woodrowwilson.org Woodrow Wilson Presidential Library] |
<!--*[[s:President Wilson's War Address|President Wilson's War Address]] |
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* 生地、バージニア州スタントンにある[http://www.woodrowwilson.org/ Woodrow Wilson Presidential Library] |
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* ジョージア州、オーガスタの[http://www.wilsonboyhoodhome.org/ 幼年時代を過ごした家] |
* ジョージア州、オーガスタの[http://www.wilsonboyhoodhome.org/ 幼年時代を過ごした家] |
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* ワシントン |
* ワシントンD.C.の[http://www.woodrowwilsonhouse.org/ Woodrow Wilson House] |
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* [http://www.wilsoncenter.org/ Woodrow Wilson International Center for Scholars](ワシントン |
* [http://www.wilsoncenter.org/ Woodrow Wilson International Center for Scholars](ワシントンD.C.) |
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* [http://www.davidpietrusza.com/wilson-links.html ウィルソンに関するリンク集] |
* [http://www.davidpietrusza.com/wilson-links.html ウィルソンに関するリンク集] |
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*{{gutenberg author|id=Woodrow+Wilson | name=Woodrow Wilson}} |
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*[http://memory.loc.gov/ammem/today/dec28.html Library of Congress: "Today in History: December 28"] |
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*[http://memory.loc.gov/ammem/today/jun09.html Library of Congress: "Today in History: June 9"] |
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*[http://www.discovernorthernireland.com/product.aspx?ProductID=2941 Woodrow Wilson Ancestral Home] |
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*[http://www.nps.gov/history/nr/twhp/wwwlps/lessons/14wilson/14wilson.htm ''Woodrow Wilson: Prophet of Peace,'' a National Park Service Teaching with Historic Places (TwHP) lesson plan] |
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*[http://boomp3.com/mp3/kmeii36szug-woodrow-wilson-address-to-the-american-indians President Woodrow Wilson: Address To The American Indians] |
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*[http://www.nga.org/portal/site/nga/menuitem.29fab9fb4add37305ddcbeeb501010a0/?vgnextoid=534c3058be3f9010VgnVCM1000001a01010aRCRD&vgnextchannel=e449a0ca9e3f1010VgnVCM1000001a01010aRCRD New Jersey Governor Thomas Woodrow Wilson], [[:en:National Governors Association|National Governors Association]] (listen online) |
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* [http://www.njstatelib.org/NJ_Information/Digital_Collections/Governors_of_New_Jersey/GWILS.pdf Biography of Woodrow Wilson], [[:en:New Jersey State Library|New Jersey State Library]] |
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*[http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/0402.html#article NY Times main headline, April 2, 1917, ''President Calls for War Declaration, Stronger Navy, New Army of 500,000 Men, Full Cooperation With Germany's Foes''] |
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* [http://www.millercenter.virginia.edu/index.php/academic/americanpresident/wilson Extensive essay on Woodrow Wilson and shorter essays on each member of his cabinet and First Lady from the Miller Center of Public Affairs]--> |
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|
ウッドロー・ウィルソン Woodrow Wilson | |
任期 | 1913年3月4日 – 1921年3月4日 |
---|---|
副大統領 | トーマス・R・マーシャル |
任期 | 1911年1月17日 – 1913年3月1日 |
出生 | 1856年12月28日 アメリカ合衆国 バージニア州スタントン |
死去 | 1924年2月3日(67歳没) アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
政党 | 民主党 |
受賞 | ノーベル平和賞 文学士(プリンストン大学) 政治学博士(ジョンズ・ホプキンス大学) |
出身校 | プリンストン大学 ジョンズ・ホプキンス大学 |
現職 | 研究者(歴史学と政治学) |
配偶者 | エレン・ウィルソン イーディス・ウィルソン |
子女 | マーガレット・ウッドロウ・ウィルソン ジェシー・ウッドロウ・ウィルソン・セイアー エレノア・ウィルソン・マカドゥー |
署名 |
トーマス・ウッドロー・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson、1856年12月28日 - 1924年2月3日[1])は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者。第28代アメリカ合衆国大統領を務めた。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党の大統領である。「行政学の父」とも呼ばれる。
概要
[編集]進歩主義運動の指導者として1902年から1910年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事を務めた。1912年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。
1885年にブリンマー大学で歴史学及び政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任し、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。
1887年に執筆した論文『行政の研究』(ザ・スタディ・オブ・アドミニストレイション)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。
大統領
[編集]当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジの協力無しには得られなかった。
生い立ち
[編集]1856年12月28日にバージニア州スタントンにて、長老派の牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目に誕生する[4]。祖先はスコットランド人及びスコッチ=アイリッシュであった。父方の祖父母は1807年に北アイルランドのティロン県ストラベーンから移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の1人である。
母親はペイズリー出身のトーマス・ウッドロウ博士と、グラスゴー出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、カーライルで生まれた[5]。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった[6]。
ウィルソンの父親はオハイオ州スチューベンビル出身で、そこでは祖父が『ウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット』紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった[7]。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、連合国を支持した。父親は奴隷制を擁護して奴隷を所有し、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した[8]。ウィルソンの最も初期の記憶は、エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、戦争が始まったことであった。ウィルソンはロバート・E・リーの横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった[8]。
ウィルソンの父は、1861年にアメリカ合衆国長老教会から分裂した南長老教会の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めたジョージア州オーガスタで成長した[9]。父は彼に牧師を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった[10]。
ウィルソンはディスレクシアの為に9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった[11]。しかしそれを克服するため、速記を独学で覚えた[12]。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った[13]。レコンストラクションの間はサウスカロライナ州の州都コロンビアで暮らし、父は同地でコロンビア神学校の教授を務めた[14]。
1873年にノースカロライナのデイビッドソン大学で学び、1年後にプリンストン大学へ編入して1879年に卒業した。彼はファイ・カッパ・サイのメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、ヘンリー・ルーシーであった。彼はアメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティの活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した[15]。
1879年にバージニア大学で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、バージニア・グリー・クラブおよびジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティの活動に深く関わり、会長を務めた[16]。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、ウィルミントンの自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた[17]。
この節の加筆が望まれています。 |
ニュージャージー州知事から大統領へ
[編集]ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトは互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果、ウィルソンは大統領選に勝利した。
大統領として
[編集]ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
任期1期目でウィルソン連邦準備法、連邦取引法、クレイトン法、農業信用法および1913年歳入法に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した[18]。
第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」であった)。しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。これに対抗したドイツの無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦に際してウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽って労働運動・反戦運動などを弾圧した。
1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。
第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表した。疲弊したドイツ帝国は降伏し休戦協定の締結へと至った。ウィルソンはイギリスとフランスに「平和原則」を講和の前提とするように求めた。
パリ講和会議
[編集]
|
第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日にフランスのパリへ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンの側近であるエドワード・ハウスが第一次世界大戦後の世界秩序構築のために設立した調査組織インクワイアリーも代表団に加わり、ウィルソンに同行した。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧中央同盟国国民からの期待も集めていた[21]。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた[22]。ウィルソンはフランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招いた。特にドイツに苛烈とも言える賠償を求めたフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している[23]。
この委員会で日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟規約に人種差別の禁止を盛り込むという人種的差別撤廃提案を提案した。ウィルソンに同行していたエドワード・ハウスは日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している[24]。しかしイギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発した[25]。採決においては11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」として議長権限により否決とした[26]。一方で、日本が要求したドイツが持っていた山東半島の権益を日本に引き渡すという山東問題においては、日本が連盟不参加をほのめかす強硬措置を執ったため、親中華民国派が多いアメリカ全権団内部からの反発を押して、不本意ながら日本に山東半島の権益を引き渡すことに合意している[27]。
ウィルソンはこの件にもあるように、国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失った[28]。それでもヴェルサイユ条約をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなった。しかしアメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約第10条が、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じなかった[29]。結果、上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。1919年のノーベル平和賞受賞は、連盟創設の功績によるものである。
大統領顧問団
[編集]職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | ウッドロウ・ウィルソン | 1913年 - 1921年 |
副大統領 | トーマス・マーシャル | 1913年 - 1921年 |
国務長官 | ウィリアム・ブライアン | 1913年 - 1915年 |
ロバート・ランシング | 1915年 - 1920年 | |
ベインブリッジ・コルビー | 1920年 - 1921年 | |
財務長官 | ウィリアム・マカドゥー | 1913年 - 1918年 |
カーター・グラス | 1918年 - 1920年 | |
デイヴィッド・ヒューストン | 1920年 - 1921年 | |
陸軍長官 | リンドリー・ガリソン | 1913年 - 1916年 |
ニュートン・ベイカー | 1916年 - 1921年 | |
司法長官 | ジェームズ・マクレイノルズ | 1913年 - 1914年 |
トーマス・グレゴリー | 1914年 - 1919年 | |
ミッチェル・パーマー | 1919年 - 1921年 | |
郵政長官 | アルバート・バーレソン | 1913年 - 1921年 |
海軍長官 | ジョセファス・ダニエルズ | 1913年 - 1921年 |
内務長官 | フランクリン・レーン | 1913年 - 1920年 |
ジョン・パイン | 1920年 - 1921年 | |
農務長官 | デイヴィッド・ヒューストン | 1913年 - 1920年 |
エドウィン・メレディス | 1920年 - 1921年 | |
商務長官 | ウィリアム・レッドフィールド | 1913年 - 1919年 |
ジョシュア・アレグザンダー | 1919年 - 1921年 | |
労働長官 | ウィリアム・ウィルソン | 1913年 - 1921年 |
政権末期
[編集]もともと偏頭痛の持病があったが、1919年10月2日にコロラド州で脳梗塞を発症した。一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディス・ウィルソンはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加した他は職務権限の代行は一切しなかった。
こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
結婚
[編集]1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。エレンがなくなってから、再婚するまでの間は、長女のマーガレットが事実上のファーストレディとなった。
1915年に58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(1872年 - 1961年)を紹介されて再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。
死去
[編集]1921年3月4日にウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.のエンバシー・ロウにある自宅に移った。ウィルソンは毎日のドライブを続け、土曜の夜はキースのボードビル劇場に通った。ウィルソンはアメリカ歴史協会の会長を務めた2人の大統領の一人であった(もう一人はセオドア・ルーズベルト)[30]。
1924年2月3日に自宅で死去し、ワシントン大聖堂に埋葬された。ウィルソンはワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領である[31]。なお妻のイーディスは夫の死後37年間を自宅で過ごし、1961年12月28日に死去した。その日はワシントンD.C.近くのウッドロウ・ウィルソン記念橋開通式典開催日で、彼女は式典の主賓であった。彼女は愛犬のルーターを枕元において死去した。イーディスはアメリカ合衆国ナショナル・トラストに自宅を、夫の記念博物館にするよう託した。ウッドロウ・ウィルソン・ハウスは博物館として公開される。1964年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、1966年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された[32]。
ウィルソンは1917年5月31日に遺書を執筆し、妻のイーディスを執行者に指名した。彼は娘のマーガレットに独身でいる限り毎年2,500ドルの年金を残し、前妻の動産も娘に託した。残りの財産と不動産はイーディスに相続させ、イーディスの死後に娘達が等分に相続するようにとした。イーディスに子供がいた場合、彼女の子供はウィルソンの娘と同等に遺産を相続したであろう。イーディスには子供がいなかったので、ウィルソンは彼女が3度目の結婚で子供を作った場合に備えていた[33]。
- ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。
- プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名された。しかし2020年6月27日、同大学はウィルソンが人種差別的な政策を進めたとして、彼の名を冠した学部・建物から名前を外すと発表した[34][35]。
- ウィルソンの肖像は1934年から1946年まで10万ドルの金貨証券に用いられた。この額面10万ドルの金貨証券は金貨証券史上最高額面(及びアメリカドル紙幣の最高額面1万ドルを上回るもの)であるが、大統領令6102号により一般市民が金貨証券(および流通用金貨と金地金)の所持を禁じられた後に発行されたものであり、連邦準備銀行や財務省の財務処理のためにのみ使用された。
- 原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン (USS Woodrow Wilson, SSBN-624) は彼にちなんで命名された。
- 現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
- 伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
- 議会での口頭による一般教書演説を、ワシントン以来124年ぶりに行っている。
- 身長5フィート11インチ(約180センチメートル)[36]。
出典
[編集]- ^ Woodrow Wilson president of United States Encyclopædia Britannica
- ^ 真渕勝、『行政学』、有斐閣、2009年、p.532
- ^ 西尾勝、『行政学〔新版〕』、有斐閣、2001年、p.28
- ^ John Milton Cooper, Woodrow Wilson: A Biography (2009) pp 13-19
- ^ “Genealogy of President Woodrow Wilson”. Wc.rootsweb.ancestry.com. 2010年9月11日閲覧。
- ^ “President Wilson House, Dergalt”. Northern Ireland - Ancestral Heritage. Northern Ireland Tourist Board. 2011年2月11日閲覧。
- ^ Walworth 1958 p. 4
- ^ a b “Woodrow Wilson - 28th President, 1913-1921”. PresidentialAvenue.com. 2011年2月11日閲覧。
- ^ White, William Allen (2007-03-15). “Chapter II: The Influence of Environment”. Woodrow Wilson - The Man, His Times and His Task. ISBN 9781406776850
- ^ Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」岸田秀訳(紀伊国屋書店、1969年)
- ^ “Wilson: A Portrait”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
- ^ “Woodrow Wilson, Episode One: He Was a Quiet Man (transcript)”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
- ^ Link Road to the White House pp. 3-4.
- ^ Walworth ch 1
- ^ Link, Wilson I:5-6; Wilson Papers I: 130, 245, 314
- ^ The World's Work: A History of our Time, Volume IV: November 1911-April 1912. Doubleday. (1912). pp. 74-75
- ^ Cranston 1945
- ^ Wolgemuth, Kathleen L. (1959). “Woodrow Wilson and Federal Segregation”. The Journal of Negro History 44 (2): 158-173. doi:10.2307/2716036. ISSN 00222992 .
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- ^ Wills of the U.S. Presidents, edited by Herbert R Collins and David B Weaver (New York: Communication Channels Inc., 1976) 176-177, ISBN 0-916164-01-2.
- ^ “ウィルソン元米大統領の名前冠した学部・建物の名称変更…米大「人種差別的政策進めた」”. 讀賣新聞オンライン. (2020年6月28日) 2023年12月12日閲覧。
- ^ “President Eisgruber's message to community on removal しWoodrow Wilson name from public policy school and Wilson College” (英語). Princeton University. 2020年11月25日閲覧。
- ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
参考文献
[編集]- 牧野雅彦『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4121019806。
- 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(一)」『北大法学論集』第13巻第2号、北海道大学法学部、1963年1月、282-359頁、ISSN 03855953、NAID 120000973657。
- 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(2)」『北大法学論集』第13巻3・4、北海道大学法学部、1963年3月、459-551頁、ISSN 03855953、NAID 120000953565。
- 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(3)」『北大法学論集』第14巻第1号、北海道大学法学部、1963年8月、66-157頁、ISSN 03855953、NAID 120000963326。
- 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(4・完)」『北大法学論集』第14巻第2号、北海道大学法学部、1963年12月、203-234頁、ISSN 03855953、NAID 120000964210。
- 細谷千博「ヴェルサイユ平和会議とロシア問題」『法学研究』第2号、一橋大學、1959年、59-121頁、doi:10.15057/10123、ISSN 04393260、NAID 110007623673。
- 永田幸久「第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として」『中京大学大学院生法学研究論集』第23号、2003年3月、157-256頁、ISSN 0389-7958、NAID 110006201180。
- 中谷直司「ウィルソンと日本 : パリ講和会議における山東問題」『同志社法学』第56巻第2号、同志社法學會、2004年7月、245-332頁、doi:10.14988/pa.2017.0000007523、ISSN 03877612、NAID 110001045060。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Woodrow Wilson visits Carlisle - UK
- Ode to Woodrow Wilson
- ホワイトハウス発表の経歴(英語)
- Woodrow Wilson: A Resource Guide from the Library of Congress
- Presidential Biography by Stanley L. Klos
- 演説のオーディオクリップ
- 1期目就任演説(英語)
- 2期目の就任演説(英語)
公職 | ||
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先代 ウィリアム・タフト |
アメリカ合衆国大統領 第28代:1913年3月4日 - 1921年3月4日 |
次代 ウォレン・ハーディング |
先代 ジョン・フランクリン・フォート |
ニュージャージー州知事 第34代:1911年1月17日 - 1913年3月1日 |
次代 ジェームズ・フェアマン・フィールダー (代行) |
党職 | ||
先代 ウィリアム・ジェニングス・ブライアン |
民主党大統領候補 1912年, 1916年 |
次代 ジェイムズ・コックス |
先代 フランク・S・カッツェンバック |
民主党ニュージャージー州知事候補 1910年 |
次代 ジェームズ・フェアマン・フィールダー |
学職 | ||
先代 フランシス・L・パットン |
プリンストン大学総長 第13代:1902年10月25日 - 1910年10月21日 |
次代 ジョン・A・スチュワート(代行) ジョン・グリアー・ヒベン |
受賞や功績 | ||
先代 ジュリオ・ガッティ=カザッツァ |
タイム誌の表紙となった人物 1923年11月12日 |
次代 エーリヒ・ルーデンドルフ |
- 行政学者
- ウッドロウ・ウィルソン
- アメリカ合衆国の大統領
- ニュージャージー州知事
- 進歩主義
- 国際連盟の人物
- パリ講和会議
- ノーベル平和賞受賞者
- 第一次世界大戦期の政治家
- アメリカ合衆国ドル紙幣の人物
- アメリカ合衆国の政治学者
- プリンストン大学学長
- プリンストン大学の教員
- ウェズリアン大学の教員
- ブリンマー大学の教員
- アメリカ哲学協会会員
- ワシントン大聖堂に埋葬された人物
- アメリカ芸術文学アカデミー会員
- アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員
- アメリカ合衆国のカルヴァン派信者
- イングランド系アメリカ人
- スコットランド系アメリカ人
- アイルランド系アメリカ人
- バージニア州スタントン出身の人物
- ジョージア州オーガスタ出身の人物
- 1856年生
- 1924年没