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'''二式飛行艇'''(にしきひこうてい)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[第二次世界大戦]]中に実用化した4発大型[[飛行艇]]。初飛行は[[1941年]](昭和16年)。機番は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇 |
'''二式飛行艇'''(にしきひこうてい)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[第二次世界大戦]]中に[[九七式飛行艇]]の後継機として実用化した4発大型[[飛行艇]]。初飛行は[[1941年]](昭和16年)。機番は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる<ref>[[#巨人機列伝]]67頁、[[#炎の翼]]341頁</ref>。通称は'''二式大艇'''(にしきたいてい、にしきだいてい)。'''二式大型飛行艇'''とも言う。なお、輸送型は「'''晴空'''」と呼ばれていた。[[九七式飛行艇]]の後継機として、同じく[[川西航空機]]で生産された。 連合軍における[[コードネーム]]は「'''Emily'''」<ref>[[#最後の二式大艇]]260頁</ref>。 |
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== 要求性能 == |
== 要求性能 == |
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[[1930年代]]の日本海軍は、[[ワシントン海軍軍縮条約]]・[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン条約]]によって対米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)として陸上攻撃機や大型飛行艇の開発に力を注ぎ、その一環として制式化された[[九七式飛行艇]]は当時の列強の飛行艇の水準を越えた優秀機だった。長い翼を持った4発飛行艇で、最大速度は385km/時・魚雷2発を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5000kmに達した。「十三試大型飛行艇」として開発が始められた二式飛行艇は、九七式飛行艇や当時諸外国が有した飛行艇の水準をはるかに上回る性能が要求された。海軍の要求性能の一部を列記する。 |
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* 最高速度 |
* 最高速度…240ノット(444km/h)以上 |
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*: 当時の主力戦闘機[[九六式艦上戦闘機]]と同等。同時期の英国4発飛行艇[[ショート サンダーランド|サンダーランド]]の最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。 |
*: 当時の主力戦闘機[[九六式艦上戦闘機]]と同等。同時期の英国4発飛行艇[[ショート サンダーランド|サンダーランド]]の最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。 |
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* 航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上 |
* 航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上 |
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*: いずれも[[一式陸上攻撃機]]や[[B-17_(航空機)|B-17爆撃機]]の5割増。[[B-29_(航空機)|B-29爆撃機]]と比べても、30%近く長い。 |
*: いずれも[[一式陸上攻撃機]]や[[B-17_(航空機)|B-17爆撃機]]の5割増。[[B-29_(航空機)|B-29爆撃機]]と比べても、30%近く長い。 |
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* 20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。 |
* 20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。 |
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* 良好な操縦性 |
* 雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。 |
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* 1t爆弾または800kg魚雷2発搭載可能。 |
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== 開発経緯 == |
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[[第一次世界大戦]]が終わると列強各国は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する[[海軍休日]]に入った。日本海軍は米海軍に対する数的劣勢を航空戦力で補うことを企図し、[[海軍航空本部]]は[[1937年]](昭和12年)7月に「航空軍備に関する研究」をまとめる<ref name="最後の二式大艇103">[[#最後の二式大艇]]103頁</ref>。航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が委任統治領とした南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇による[[アウトレンジ戦法]]を模索するようになる<ref name="最後の二式大艇103"/>。川西航空機が開発した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした<ref name="最後の二式大艇104">[[#最後の二式大艇]]104頁</ref>。一方で大型陸上機を推す意見も強く、[[1938年]](昭和13年)4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『'''十三試大型飛行艇'''』(川西)・[[深山 (航空機)|中島十三試大型陸上攻撃機(深山)]]([[中島飛行機]])の計画要求案をまとめた<ref>[[#巨人機列伝]]67頁</ref>。中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった<ref>[[#最後の二式大艇]]109頁</ref>。十三試大艇の正式試作発令は同年8月21日である<ref>[[#巨人機列伝]]70頁</ref>。 |
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飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために、「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、速度において陸上機より不利であった。海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。製作担当の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した[[菊原静男]]技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。二式飛行艇の技術的特徴を列記する。 |
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飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった<ref name="最後の二式大艇104"/>。海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。製作担当の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した[[菊原静男]]技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという<ref name="最後の二式大艇105">[[#最後の二式大艇]]105頁</ref>。最重点目標は航続距離であった<ref>[[#最後の二式大艇]]281頁</ref>。 |
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[[1939年]](昭和14年)9月に[[第二次世界大戦]]が勃発、日米の緊張も高まる中、[[和田操]]航技廠長は[[1940年]](昭和15年)中に本機を完成させるよう厳命する<ref name="最後の二式大艇117">[[#最後の二式大艇]]117頁</ref>。同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成、翌日試験飛行を行う<ref name="最後の二式大艇117"/>。方向舵の不安定さはすぐに解消されたが<ref>[[#最後の二式大艇]]120頁、[[#巨人機列伝]]75頁</ref>、過荷重重量28tで離水テストを実施したところ飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる<ref>[[#最後の二式大艇]]122頁、[[#巨人機列伝]]76頁</ref>。度重なる水槽実験の結果、艇体の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備することで飛沫を押さえることに成功<ref>[[#最後の二式大艇]]124-125頁、[[#巨人機列伝]]78頁</ref>。[[1941年]](昭和16年)3月26日に試作1号機が領収され、[[1942年]](昭和17年)2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した<ref>[[#巨人機列伝]]79頁</ref>。先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四発大型飛行艇として完成した<ref>[[#最後の二式大艇]]126頁</ref>。菊原は、「深山」の不運は米国[[ダグラス]][[DC-4E]]をベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している<ref>[[#最後の二式大艇]]132-133.292頁</ref>。 |
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== 技術的特徴 == |
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二式飛行艇の技術的特徴を列記する。 |
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*エンジンは当時最強だった三菱の[[火星 (エンジン)|火星]]シリーズと適切なプロペラ設計 |
*エンジンは当時最強だった三菱の[[火星 (エンジン)|火星]]シリーズと適切なプロペラ設計 |
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*細長い主翼と狭い胴体。主翼のアスペクト比('''主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)'''を'''平均翼弦長'''で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになった。 |
*細長い主翼と狭い胴体。主翼のアスペクト比('''主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)'''を'''平均翼弦長'''で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。 |
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*零式艦上戦闘機と同じ[[超々ジュラルミン]]の採用 |
*軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戦闘機と同じ[[超々ジュラルミン]]の採用 |
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*操縦性を良くする親子フラップの採用 |
*操縦性を良くする親子フラップの採用 |
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*胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用 |
*胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用 |
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*: 試作機が水上滑走中に高く[[波飛沫]]を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。 |
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[[Image:Kawanishi H8K Emily take off.png|center]] |
[[Image:Kawanishi H8K Emily take off.png|center]] |
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このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴体や主翼の燃料タンク(全14個、合計17080ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴体前部と後部の2ヶ所備えた。 |
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なお、本機は胴体を細長く設計したことから水上滑走中に機体が跳ね上がる[[ポーポイズ現象]]が起こりやすく、対策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機体角度を保ったまま操縦することで解決した<ref>[[#最後の二式大艇]]291頁</ref>。ただし川西で製作した[[マニュアル]]が前線部隊では全く読まれず、事故の多発が続いた。[[1944年]](昭和19年)2月-5月の実験で機体を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した<ref>[[#最後の二式大艇]]213-214頁、[[#巨人機列伝]]81頁</ref>。防水塗料の粗悪さから水密は不完全で、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった<ref>[[#最後の二式大艇]]205-206頁</ref>。戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている<ref>[[#炎の翼]]276頁</ref>。 |
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== 派生機 == |
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=== H8K3 === |
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二式大型22型。二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機体。[[1943年]](昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く変わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった<ref name="最後の二式大艇215">[[#最後の二式大艇]]215頁</ref>。2機は第八〇一航空隊で実戦任務につき、たびたび[[B-24 (航空機)|B-24リベレーター爆撃機]]と誤認されたという<ref name="最後の二式大艇215"/>。1945年3月に2機とも夜間索敵任務にて未帰還となった<ref>[[#日本の飛行艇]]112頁</ref>。 |
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=== 輸送型 === |
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海軍は十三試大艇の開発中から輸送型の改造を計画していた<ref>[[#巨人機列伝]]91頁</ref>。[[1942年]](昭和17年)はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1号機を輸送型H8K1-Lに改造、[[1943年]](昭和18年)11月30日に納入した<ref>[[#最後の二式大艇]]229頁、[[#巨人機列伝]]91頁</ref>。仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年に11機、1944年に24機が完成した。1945年に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった<ref>[[#最後の二式大艇]]230頁</ref>。二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。 |
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== 活躍 == |
== 活躍 == |
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[[Image:Kawanishi H8k down.gif|thumb|250px|ガブツ島で破壊された二式飛行艇]] |
[[Image:Kawanishi H8k down.gif|thumb|250px|ガブツ島で破壊された二式飛行艇]] |
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大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「'''フォーミダブル'''(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。 |
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「'''フォーミダブル'''(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。制式採用直後の[[1942年]](昭和17年)[[3月4日]]には、大航続力を生かして3機で真珠湾を再空襲した([[K作戦]])。だが3月7日の[[ミッドウェー島]]長距離偵察で、K作戦大艇隊指揮官[[橋爪寿雄]]大尉機が米軍戦闘機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戦闘喪失機となった<ref>[[#最後の二式大艇]]169頁</ref>。[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった<ref>[[#最後の二式大艇]]176頁</ref>。その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。[[ソロモン諸島]]方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、[[水上機母艦]]「[[秋津洲 (水上機母艦)|秋津洲]]」の支援を受けて活動している<ref>[[#日本の飛行艇]]104-105頁</ref>。 |
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1944年以降は、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。[[B-25 (航空機)|B-25]]や[[B-17_(航空機)|B-17]]を積極的に追撃して撃墜したという逸話も残っている。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。し |
1944年以降は、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。[[B-25 (航空機)|B-25ミッチェル]]や[[B-17_(航空機)|B-17]]といった米軍大型爆撃機を積極的に追撃して撃墜したという逸話も残っている。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。1943年11月には[[P-38 (航空機)|P-38ライトニング双発戦闘機]]3機と40分交戦した玉利義男大尉機が米軍機1機を撃退・エンジン2基停止・230箇所被弾・1名負傷という状態で帰還、その後日本本土に戻された<ref>[[#最後の二式大艇]]249-250頁</ref>。このように頑丈な本機であったが、戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった<ref>[[#最後の二式大艇]]251頁</ref>。機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま空襲で破壊されたものもあった。さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機[[紫電改]]に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった<ref>[[#最後の二式大艇]]252頁</ref>。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる<ref>[[#最後の飛行艇]]184-185頁</ref>。 |
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また[[1945年]](昭和20年)3月の[[丹作戦|第二次丹作戦]]([[銀河 (航空機)|銀河]]による長距離特攻作戦)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。補充も望めない中、[[第五航空艦隊]]([[宇垣纏]]司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、米軍夜間戦闘機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している<ref>[[#最後の二式大艇]]253-254頁</ref>。例えば前述の丹作戦・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機は[[PB4Y-2 (航空機)|PB4Y-2]](B-24の哨戒機型)に撃墜され<ref>[[#二式大艇空戦記]]361頁</ref>、長峯飛行兵曹長機は[[メレヨン島]]に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で帰投した<ref>[[#二式大艇空戦記]]295頁</ref>。五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戦まで27機・約250名を失った<ref>[[#最後の飛行艇]]186頁</ref>。終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、米軍から機体の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。 |
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また、[[山本五十六]]のあとを継いで[[連合艦隊司令長官]]となった[[古賀峯一]]が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型晴空に乗っていた([[海軍乙事件]])。 |
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また、[[海軍甲事件]]で戦死した[[山本五十六]]のあとを継いで[[連合艦隊司令長官]]となった[[古賀峯一]]海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた([[海軍乙事件]])。古賀長官の1番機は燃料7割、[[福留繁]]連合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低気圧に遭遇して墜落したのである<ref>[[#最後の二式大艇]]196頁</ref>。なお、空襲警報は誤報であった。通信科・暗号・気象関係員が搭乗した3番機は無事に到着した<ref>[[#最後の二式大艇]]197頁</ref>。 |
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== 現在の二式飛行艇 == |
== 現在の二式飛行艇 == |
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[[画像:Kawanishi H8K2 (Emily) flying boat.jpg|thumb|250px|展示される二式飛行艇:鹿屋航空基地資料館]] |
[[画像:Kawanishi H8K2 (Emily) flying boat.jpg|thumb|250px|展示される二式飛行艇:鹿屋航空基地資料館]] |
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[[画像:Nishiki-taitei.jpg|thumb|250px|展示される二式飛行艇:船の科学館(当時)]] |
[[画像:Nishiki-taitei.jpg|thumb|250px|展示される二式飛行艇:船の科学館(当時)]] |
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全タイプ合計167機以上生産されたうち、 |
全タイプ合計167機以上生産されたうち、作戦可能機体は七尾基地の3機のみだったが、1機は詫間基地への移動中に不時着して[[島根県]][[中海]]に海没処理された<ref>[[#帰ってきた二式大艇]]8頁、[[#最後の飛行艇]]235頁</ref>。8月22日の時点で詫間基地に残されていたのは3機<ref>[[#最後の二式大艇]]12頁</ref>。その中の第426号機(表記、[[1943年]](昭和18年)3月製造第26号機/推察)「[[詫間海軍航空隊|詫間31号機]]」がアメリカに引き取られて性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側を驚かせている<ref>[[#帰ってきた二式大艇]]18頁、[[#巨人機列伝]]90頁</ref>。指揮官兼操縦者の日辻常雄(海軍少佐)は本機受け取りにきた米軍クルーのPBYカタリナを操縦し、二式大艇に比べ離水は簡単だが飛行性能は圧倒的に劣り、米指揮官も「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と賞賛した<ref>[[#最後の二式大艇]]16-17頁、[[#炎の翼]]142頁</ref>。その一方で着水した二式大艇に新聞記者が殺到した際、日辻は気化ガソリンのため艇内禁煙であることを説明しなければならず、性能が劣るとはいえガソリン漏れの心配がないPBYとの差を実感している<ref>[[#最後の二式大艇]]18頁</ref>。米軍も[[PB2Y (航空機)|PB2Y コロナド飛行艇]](二式大艇と同規模)と比較して二式大艇の方が遥かに優秀としつつ、ポーポイズ現象と機体強度に問題があると指摘したが、これは両国・両機の設計思想の違いであった<ref>[[#最後の飛行艇]]244-245頁</ref>。 |
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また、サイパンには近場の海中に残骸が残っている場所があり、その場所はダイビングスポットになっている。(近くで見ることも可能、但しポイント名をB29と言っている店もある) |
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[[1947年]](昭和22年)の試験終了後、詫間31号機は長らく[[:en:Naval Station Norfolk|ノーフォーク海軍基地]]で[[モスボール (軍事)|厳重に保管]]されていた<ref>[[#最後の二式大艇]]265頁</ref>。[[1959年]](昭和34年)、菊原技師は海軍基地の二式大艇を見学して返還交渉を行ったが、日本への輸送手段が見つからず、3年後に米海軍は合衆国内で永久保存の方針を伝えた<ref>[[#最後の二式大艇]]266頁</ref>。その後、[[斉藤茂太]]らが中心となって返還運動を起こす中、[[1978年]](昭和53年)6月に[[アメリカ海軍]]の経費削減で保管終了が決定、「日本で引き取る」もしくは「[[スクラップ]]」を日本側で選択することになった<ref>[[#帰ってきた二式大艇]]19頁</ref>。その結果[[船の科学館]]にて引き取りを表明、[[1979年]](昭和54年)11月13日に日本に到着する<ref>[[#帰ってきた二式大艇]]20頁</ref>。整備を経て[[1980年]](昭和55年)7月から東京の「船の科学館」に長らく野外展示されていた。[[2004年]](平成16年)4月末からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊[[鹿屋航空基地]]資料館に保管(野外展示)されている。 |
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また、サイパンには近場の海中に残骸が残っている場所があり、その場所はダイビングスポットになっている(近くで見ることも可能、但しポイント名をB29と言っている店もある)。 |
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== 諸元 == |
== 諸元 == |
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<table border="1" cellpadding="2" cellspacing="0"> |
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| 正式名称 |
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<tr><td>正式名称</td><td> '''二式飛行艇一二型'''</td></tr> |
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| '''二式飛行艇一二型''' |
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<tr><td>略符号</td><td> H8K2</td></tr> |
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|- |
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<tr><td>全幅</td><td> 38.00m</td></tr> |
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| 略符号 |
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<tr><td>全長</td><td> 28.13m</td></tr> |
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| H8K2 |
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<tr><td>全高</td><td> 9.15m</td></tr> |
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|- |
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<tr><td>翼面積</th><td> 160m²</td></tr> |
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| 全幅 |
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<tr><td>[[空虚重量|自重]]</td><td> 18,400kg</td></tr> |
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| 38.00m |
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<tr><td>正規全備重量</td><td> 24,500kg</td></tr> |
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|- |
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<tr><td>最大重量</td><td> 32,500kg</td></tr> |
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| 全長 |
|||
<tr><td>発動機</td><td> 三菱[[火星 (エンジン)|火星]]22型(離昇1,850馬力)</td></tr> |
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| 28.13m |
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<tr><td>最高速度</td><td> 465km/h(高度5,000m)<br>一一型433km/h<br>二二型470km</td></tr> |
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|- |
|||
<tr><td>航続距離</td><td> 7,153km(偵察過荷)<br>二二型8223km(同) </td></tr> |
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| 全高 |
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<tr><td>武装</td><td> 20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門</td></tr> |
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| 9.15m |
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<tr><td>爆装</td><td> [[爆弾]]最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)<br>または航空魚雷×2</td></tr> |
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|- |
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</table> |
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| 翼面積 |
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| 160m² |
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| [[空虚重量|自重]] |
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| 18,400kg |
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| 正規全備重量 |
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| 24,500kg |
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| 最大重量 |
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| 32,500kg |
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| 発動機 |
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| 三菱[[火星 (エンジン)|火星]]22型(離昇1,850馬力) |
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| 最高速度 |
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| 465km/h(高度5,000m)<br/>一一型433km/h<br/>二二型470km |
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|- |
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| 航続距離 |
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| 7,153km(偵察過荷)<br/>二二型8223km(同) |
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| 武装 |
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| 20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門 |
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|- |
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| 爆装 |
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| [[爆弾]]最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)<br/>または航空魚雷×2 |
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|- |
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| 乗員 |
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| 10~13名 |
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|} |
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== 設計主務者について == |
== 設計主務者について == |
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設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戦闘機「[[紫電改|紫電]]」「[[紫電改]]」の設計を担当。終戦後、川西航空機の後身である[[新明和工業]]で、再度国産飛行艇[[PS-1]]の制作に携わった。 |
設計主務者である[[菊原静男]]技師は、その後海軍局地戦闘機「[[紫電改|紫電]]」「[[紫電改]]」の設計を担当。終戦後、川西航空機の後身である[[新明和工業]]で、再度国産飛行艇[[PS-1]]の制作に携わった。 |
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== 二式飛行艇に関する本 == |
== 二式飛行艇に関する本 == |
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* 木下悦郎ほか 『炎の翼「二式大艇」に生きる』 |
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* 城山三郎 『零からの栄光』 |
* 城山三郎 『零からの栄光』 |
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* 丸メカニック |
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**No.19『二式飛行艇』 |
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**No.24『二式大艇426』 |
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**別冊『決定版 二式大艇』 |
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* 世界の傑作機No.49 『2式飛行艇』 |
* 世界の傑作機No.49 『2式飛行艇』 |
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* 歴史群像シリーズ 『2式大艇と飛行艇』 |
* 歴史群像シリーズ 『2式大艇と飛行艇』 |
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* 南堀 英二『テストパイロット―一等飛行機操縦士森川勲の生涯』 |
* 南堀 英二『テストパイロット―一等飛行機操縦士森川勲の生涯』 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author=[[日辻常雄]]|coauthors=|year=1988|month=9|title=最後の飛行艇 {{small|海軍飛行艇栄光の記録}}|publisher=光人社|isbn=4-87565-133-3|ref=最後の飛行艇}} |
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*{{Cite book|和書|author=木下悦郎ほか|year=1990|month=10|title={{small|リバイバル戦記コレクション9}} 炎の翼「二式大艇」に生きる|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0532-2|ref=炎の翼}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[長嶺五郎]]|coauthors=|year=1998|month=11|title=二式大艇空戦記 {{small|海軍八〇一空搭乗員の死闘}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2215-4|ref=二式大艇空戦記}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[碇義朗]]|year=2001|month=3|title=最後の二式大艇 {{small|海軍飛行艇の記録}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0997-2|ref=最後の二式大艇}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[秋本実]]|coauthors=|year=2002|month=10|title=巨人機列伝 {{small|知られざる日本の空中要塞}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2359-2|ref=巨人機列伝}} |
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==関連項目== |
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2011年12月24日 (土) 12:24時点における版
二式飛行艇(Kawanishi H8K)
二式飛行艇(にしきひこうてい)は、旧日本海軍が第二次世界大戦中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4発大型飛行艇。初飛行は1941年(昭和16年)。機番は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる[1]。通称は二式大艇(にしきたいてい、にしきだいてい)。二式大型飛行艇とも言う。なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily」[2]。
要求性能
1930年代の日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約によって対米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)として陸上攻撃機や大型飛行艇の開発に力を注ぎ、その一環として制式化された九七式飛行艇は当時の列強の飛行艇の水準を越えた優秀機だった。長い翼を持った4発飛行艇で、最大速度は385km/時・魚雷2発を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5000kmに達した。「十三試大型飛行艇」として開発が始められた二式飛行艇は、九七式飛行艇や当時諸外国が有した飛行艇の水準をはるかに上回る性能が要求された。海軍の要求性能の一部を列記する。
- 最高速度…240ノット(444km/h)以上
- 航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上
- 20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。
- 雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。
- 1t爆弾または800kg魚雷2発搭載可能。
開発経緯
第一次世界大戦が終わると列強各国は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。日本海軍は米海軍に対する数的劣勢を航空戦力で補うことを企図し、海軍航空本部は1937年(昭和12年)7月に「航空軍備に関する研究」をまとめる[3]。航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が委任統治領とした南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戦法を模索するようになる[3]。川西航空機が開発した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした[4]。一方で大型陸上機を推す意見も強く、1938年(昭和13年)4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた[5]。中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった[6]。十三試大艇の正式試作発令は同年8月21日である[7]。
飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった[4]。海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。製作担当の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという[8]。最重点目標は航続距離であった[9]。
1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発、日米の緊張も高まる中、和田操航技廠長は1940年(昭和15年)中に本機を完成させるよう厳命する[10]。同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成、翌日試験飛行を行う[10]。方向舵の不安定さはすぐに解消されたが[11]、過荷重重量28tで離水テストを実施したところ飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる[12]。度重なる水槽実験の結果、艇体の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備することで飛沫を押さえることに成功[13]。1941年(昭和16年)3月26日に試作1号機が領収され、1942年(昭和17年)2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した[14]。先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四発大型飛行艇として完成した[15]。菊原は、「深山」の不運は米国ダグラスDC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している[16]。
技術的特徴
二式飛行艇の技術的特徴を列記する。
- エンジンは当時最強だった三菱の火星シリーズと適切なプロペラ設計
- 細長い主翼と狭い胴体。主翼のアスペクト比(主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)を平均翼弦長で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。
- 軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戦闘機と同じ超々ジュラルミンの採用
- 操縦性を良くする親子フラップの採用
- 胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用
- 試作機が水上滑走中に高く波飛沫を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。
このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴体や主翼の燃料タンク(全14個、合計17080ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴体前部と後部の2ヶ所備えた。
なお、本機は胴体を細長く設計したことから水上滑走中に機体が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、対策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機体角度を保ったまま操縦することで解決した[17]。ただし川西で製作したマニュアルが前線部隊では全く読まれず、事故の多発が続いた。1944年(昭和19年)2月-5月の実験で機体を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した[18]。防水塗料の粗悪さから水密は不完全で、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった[19]。戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている[20]。
派生機
H8K3
二式大型22型。二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機体。1943年(昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く変わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった[21]。2機は第八〇一航空隊で実戦任務につき、たびたびB-24リベレーター爆撃機と誤認されたという[21]。1945年3月に2機とも夜間索敵任務にて未帰還となった[22]。
輸送型
海軍は十三試大艇の開発中から輸送型の改造を計画していた[23]。1942年(昭和17年)はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1号機を輸送型H8K1-Lに改造、1943年(昭和18年)11月30日に納入した[24]。仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年に11機、1944年に24機が完成した。1945年に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった[25]。二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。
活躍
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠湾を再空襲した(K作戦)。だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戦大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戦闘機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戦闘喪失機となった[26]。ミッドウェー作戦では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった[27]。その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している[28]。
1944年以降は、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。B-25ミッチェルやB-17といった米軍大型爆撃機を積極的に追撃して撃墜したという逸話も残っている。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。1943年11月にはP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が米軍機1機を撃退・エンジン2基停止・230箇所被弾・1名負傷という状態で帰還、その後日本本土に戻された[29]。このように頑丈な本機であったが、戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった[30]。機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま空襲で破壊されたものもあった。さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった[31]。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる[32]。
また1945年(昭和20年)3月の第二次丹作戦(銀河による長距離特攻作戦)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、米軍夜間戦闘機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している[33]。例えば前述の丹作戦・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2(B-24の哨戒機型)に撃墜され[34]、長峯飛行兵曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で帰投した[35]。五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戦まで27機・約250名を失った[36]。終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、米軍から機体の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。
また、海軍甲事件で戦死した山本五十六のあとを継いで連合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁連合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低気圧に遭遇して墜落したのである[37]。なお、空襲警報は誤報であった。通信科・暗号・気象関係員が搭乗した3番機は無事に到着した[38]。
現在の二式飛行艇
全タイプ合計167機以上生産されたうち、作戦可能機体は七尾基地の3機のみだったが、1機は詫間基地への移動中に不時着して島根県中海に海没処理された[39]。8月22日の時点で詫間基地に残されていたのは3機[40]。その中の第426号機(表記、1943年(昭和18年)3月製造第26号機/推察)「詫間31号機」がアメリカに引き取られて性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側を驚かせている[41]。指揮官兼操縦者の日辻常雄(海軍少佐)は本機受け取りにきた米軍クルーのPBYカタリナを操縦し、二式大艇に比べ離水は簡単だが飛行性能は圧倒的に劣り、米指揮官も「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と賞賛した[42]。その一方で着水した二式大艇に新聞記者が殺到した際、日辻は気化ガソリンのため艇内禁煙であることを説明しなければならず、性能が劣るとはいえガソリン漏れの心配がないPBYとの差を実感している[43]。米軍もPB2Y コロナド飛行艇(二式大艇と同規模)と比較して二式大艇の方が遥かに優秀としつつ、ポーポイズ現象と機体強度に問題があると指摘したが、これは両国・両機の設計思想の違いであった[44]。
1947年(昭和22年)の試験終了後、詫間31号機は長らくノーフォーク海軍基地で厳重に保管されていた[45]。1959年(昭和34年)、菊原技師は海軍基地の二式大艇を見学して返還交渉を行ったが、日本への輸送手段が見つからず、3年後に米海軍は合衆国内で永久保存の方針を伝えた[46]。その後、斉藤茂太らが中心となって返還運動を起こす中、1978年(昭和53年)6月にアメリカ海軍の経費削減で保管終了が決定、「日本で引き取る」もしくは「スクラップ」を日本側で選択することになった[47]。その結果船の科学館にて引き取りを表明、1979年(昭和54年)11月13日に日本に到着する[48]。整備を経て1980年(昭和55年)7月から東京の「船の科学館」に長らく野外展示されていた。2004年(平成16年)4月末からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に保管(野外展示)されている。 また、サイパンには近場の海中に残骸が残っている場所があり、その場所はダイビングスポットになっている(近くで見ることも可能、但しポイント名をB29と言っている店もある)。
諸元
正式名称 | 二式飛行艇一二型 |
略符号 | H8K2 |
全幅 | 38.00m |
全長 | 28.13m |
全高 | 9.15m |
翼面積 | 160m² |
自重 | 18,400kg |
正規全備重量 | 24,500kg |
最大重量 | 32,500kg |
発動機 | 三菱火星22型(離昇1,850馬力) |
最高速度 | 465km/h(高度5,000m) 一一型433km/h 二二型470km |
航続距離 | 7,153km(偵察過荷) 二二型8223km(同) |
武装 | 20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門 |
爆装 | 爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2) または航空魚雷×2 |
乗員 | 10~13名 |
設計主務者について
設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戦闘機「紫電」「紫電改」の設計を担当。終戦後、川西航空機の後身である新明和工業で、再度国産飛行艇PS-1の制作に携わった。
二式飛行艇に関する本
- 長峯五郎 『二式大艇空戦記—海軍八〇一空搭乗員の死闘』
- 碇義朗 『最後の二式大艇』
- 日辻常雄 『最後の飛行艇』
- 木下悦郎ほか 『炎の翼「二式大艇」に生きる』
- 城山三郎 『零からの栄光』
- 丸メカニック
- No.19『二式飛行艇』
- No.24『二式大艇426』
- 別冊『決定版 二式大艇』
- 世界の傑作機No.49 『2式飛行艇』
- 歴史群像シリーズ 『2式大艇と飛行艇』
- 北出大太『奇蹟の飛行艇―大空に生きた勇者の記録 』
- 南堀 英二『テストパイロット―一等飛行機操縦士森川勲の生涯』
脚注
- ^ #巨人機列伝67頁、#炎の翼341頁
- ^ #最後の二式大艇260頁
- ^ a b #最後の二式大艇103頁
- ^ a b #最後の二式大艇104頁
- ^ #巨人機列伝67頁
- ^ #最後の二式大艇109頁
- ^ #巨人機列伝70頁
- ^ #最後の二式大艇105頁
- ^ #最後の二式大艇281頁
- ^ a b #最後の二式大艇117頁
- ^ #最後の二式大艇120頁、#巨人機列伝75頁
- ^ #最後の二式大艇122頁、#巨人機列伝76頁
- ^ #最後の二式大艇124-125頁、#巨人機列伝78頁
- ^ #巨人機列伝79頁
- ^ #最後の二式大艇126頁
- ^ #最後の二式大艇132-133.292頁
- ^ #最後の二式大艇291頁
- ^ #最後の二式大艇213-214頁、#巨人機列伝81頁
- ^ #最後の二式大艇205-206頁
- ^ #炎の翼276頁
- ^ a b #最後の二式大艇215頁
- ^ #日本の飛行艇112頁
- ^ #巨人機列伝91頁
- ^ #最後の二式大艇229頁、#巨人機列伝91頁
- ^ #最後の二式大艇230頁
- ^ #最後の二式大艇169頁
- ^ #最後の二式大艇176頁
- ^ #日本の飛行艇104-105頁
- ^ #最後の二式大艇249-250頁
- ^ #最後の二式大艇251頁
- ^ #最後の二式大艇252頁
- ^ #最後の飛行艇184-185頁
- ^ #最後の二式大艇253-254頁
- ^ #二式大艇空戦記361頁
- ^ #二式大艇空戦記295頁
- ^ #最後の飛行艇186頁
- ^ #最後の二式大艇196頁
- ^ #最後の二式大艇197頁
- ^ #帰ってきた二式大艇8頁、#最後の飛行艇235頁
- ^ #最後の二式大艇12頁
- ^ #帰ってきた二式大艇18頁、#巨人機列伝90頁
- ^ #最後の二式大艇16-17頁、#炎の翼142頁
- ^ #最後の二式大艇18頁
- ^ #最後の飛行艇244-245頁
- ^ #最後の二式大艇265頁
- ^ #最後の二式大艇266頁
- ^ #帰ってきた二式大艇19頁
- ^ #帰ってきた二式大艇20頁
参考文献
- 日辻常雄『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』光人社、1988年9月。ISBN 4-87565-133-3。
- 木下悦郎ほか『リバイバル戦記コレクション9 炎の翼「二式大艇」に生きる』光人社、1990年10月。ISBN 4-7698-0532-2。
- 長嶺五郎『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』光人社NF文庫、1998年11月。ISBN 978-4-7698-2215-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 碇義朗『最後の二式大艇 海軍飛行艇の記録』光人社、2001年3月。ISBN 4-7698-0997-2。
- 秋本実『巨人機列伝 知られざる日本の空中要塞』光人社NF文庫、2002年10月。ISBN 4-7698-2359-2。
- 碇義朗『帰ってきた二式大艇 海上自衛隊飛行艇開発物語』光人社、2004年1月。ISBN 4-7698-1170-5。
- 野原茂『日本の飛行艇』光人社、2007年9月。ISBN 978-4-7698-1363-7。
関連項目
外部リンク
- 船の科学館の二式大型飛行艇が鹿屋基地史料館へ
- 二式大艇 - 海上自衛隊鹿屋航空基地公式サイト
- 「空飛ぶ戦艦」二式大艇…現存する唯一の機体を激写 - 産経ニュース 2008年9月27日
- 画像リンク [1]