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「佐久間象山」の版間の差分

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'''佐久間 象山'''(さくま しょうざん(ぞうざん))は、日本の[[武士]]([[松代藩]]士)、兵学者・思想家。[[松代三山]]の一人。通称は修理、[[諱]]は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、[[字]]は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈[[正四位]]。象山神社の[[祭神]]。
'''佐久間 象山'''(さくま しょうざん(ぞうざん))は、日本の[[武士]]([[松代藩]]士)、兵学者・思想家。[[松代三山]]の一人。通称は修理、[[諱]]は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、[[字]]は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈[[正四位]]。象山神社の[[祭神]]。

象山の号は近隣の[[黄檗宗]][[象山恵明禅寺]]に因んだとされる。その呼称については、一般に”しょうざん”、地元では”ぞうざん”と呼ばれており、[[弘化]]2年([[1845年]])に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、[[反切]]法を用いて”しょうざん”と呼ぶように書き残している。象山は[[松代藩]]の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。

== 家系 ==
『[[真武内伝]]』を著した[[竹内軌定]]によると佐久間家の祖は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の北[[信濃国|信濃]][[葛尾城]]主で[[武田信玄]]を2度にわたって破った名将として名高い[[村上義清]]に8000石で仕えた佐久間大学という。大学の孫である[[佐久間国政|与左衛門国政]]の時に松代藩の連枝(分家)である[[上野国|上野]][[沼田藩]]3万石の藩主である[[真田信政]]の下で馬役を務めて250石を食んだ。その後、信政が[[真田信之]]の世継として松代藩を継いだため、国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。しかし[[岩間清村|岩間二郎左衛門清村]]の次男である[[佐久間国品|岩間三左衛門国品]]が名跡を継いで佐久間と称して[[真田信弘]]に仕えて100石を食んだ<ref>『松代藩監察日記』[[享保]]13年8月9日の条に佐久間と改めて継いだと記している。『佐久間象山』人物叢書。5頁・6頁。</ref>。この国品が佐久間家中興の祖とされている。

佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は[[平氏]]であり、[[桓武天皇]]の皇子である[[葛原親王]]の孫である[[高望王]]の末裔に[[佐久間家村]]という者がいた([[安房国|安房]]佐久間荘に居住したことから佐久間を姓にしたという)。家村から14代目の孫が[[佐久間盛次]]であり、その盛次の長男が[[尾張国|尾張]]の[[戦国大名]]として有名な[[織田信長]]に仕えた[[佐久間盛政|盛政]]である。盛次の4男で盛政の実弟である[[佐久間勝之|勝之]]は信濃[[長沼藩]]で1万3000石を領したが罪を得て改易された。この勝之の家臣に[[岩間清重|岩間又兵衛清重]]という400石取りがいて勇気も才能もあったので勝之の兄である[[佐久間安政|安政]]の娘婿になった。しかし清重には男子が無かったため、[[鶴田清右衛門]]の子の与作を養子に迎え、その孫が前述した佐久間国品にあたるという<ref>『佐久間象山』人物叢書。6頁・7頁。</ref>。だが国品に男子が無かったため、[[林覚左衛門]]の子の幾弥を[[婿養子]]に迎えた。だがその子の岩之進が夭折したため佐久間家は改易された。しかし松代藩は国品の長年の功績を評価して国品の甥である村上彦九郎の息子である[[佐久間国正|彦兵衛国正]]を養子にして家名を再興させ5人扶持とした(のちに5両5人扶持)。しかし国正にも子が無く、松代藩士であった[[長谷川善員|長谷川千助善員]]の次男である[[佐久間国善|佐久間一学国善]]を養子にして家督を継がせた。この国善が佐久間象山の実父である<ref>『佐久間象山』人物叢書。7頁。</ref>。

このように『真武内伝』と『佐久間氏略譜』では家系やその経歴が大いに異なりどちらを信ずべきかは不明であると大平は断じている。佐久間家の菩提所を調査した大平は国品以前の墓所が一基もないことから国品以前の家系には多くの疑問があり信を置くに足らないとしている<ref>『佐久間象山』人物叢書。8頁。</ref>。

象山の父・国善の父である長谷川善員は斎藤仁左衛門の次男であり、この斎藤家は[[越後国|越後]]の[[上杉謙信]]に仕えて「越後の鍾馗」と謳われた重臣である[[斎藤朝信]]を祖としており、象山の書状によると国善は朝信から数えて6代の孫であり、象山は7代目の孫であると称している<ref>象山は安政6年4月28日に柳左衛門という者に宛てた書状で自分が朝信の血縁に繋がる事を大変自慢している。『佐久間象山』人物叢書。8頁・9頁。</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃[[埴科郡]]松代字浦町で生まれる<ref>象山は2月11日生まれとされていたが、発見された位牌により2月28日と確認されたという。『佐久間象山』人物叢書。11頁・12頁。</ref>。前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を勤め、ト伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たる。象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで[[詩経]]の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという<ref>『佐久間象山』人物叢書。13頁。</ref>。


大平は佐久間の門下生だった久保茂から聞いたところによると、象山は5尺7寸から8寸くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯と輝き恰も梟の眼のようであったという<ref>『佐久間象山』人物叢書。14頁。</ref>。このため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。象山の烏帽子親は[[窪田恒久|窪田岩右衛門馬陵恒久]]という郷里の大先輩で藩儒を勤め、象山の才能を高く評価した人物である(ただし、象山の性格に驕慢な所があったのを憂い死ぬまで象山の行く末を心配したという)<ref>『佐久間象山』人物叢書。15頁・19頁。</ref>。14歳で藩儒の[[竹内錫命]]に入門して詩文を学び、16歳の時に佐藤一斎の門下生であった[[鎌原桐山]]に入門して経書を学んだ。また同じ16歳の時に藩士の[[町田正喜|町田源左衛門正喜]]に会田流の和算を学び、象山は数学を詳証術と称したという。また水練を[[河野左盛]]から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという。<ref>『佐久間象山』人物叢書。37頁 - 39頁。</ref>。
象山の号は近隣の[[黄檗宗]][[象山恵明禅寺]]に因んだとされる。その呼称については、一般に”しょうざん”、地元では”ぞうざん”と呼ばれており、[[弘化]]2年([[1845年]])に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、[[反切]]法を用いて”しょうざん”と呼ぶように書き残している。象山は[[松代藩]]の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。

=== 真田幸貫に仕える ===
[[文政]]11年([[1828年]])、家督を継いだ<ref>『佐久間象山』人物叢書。39頁・205頁。</ref>。[[天保]]2年([[1831年]])3月に藩主の真田幸貫の世子である[[真田幸良]]の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している<ref>『佐久間象山』人物叢書。18頁・40頁・205頁。</ref>。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山は漢文100篇を作って桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。

天保3年([[1832年]])4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から[[閉門]]を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである。<ref>『佐久間象山』人物叢書。40頁。</ref>。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。


[[天保]]4年([[1833年]]に[[江戸]]に出て、当時の儒学の第一人者・[[佐藤一斎]]に[[朱子学]]を学び、[[山田方谷]]と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年([[1839年]])には江戸で私塾「[[象山書院]]」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
[[天保]]4年([[1833年]])11月に[[江戸]]に出て、当時の儒学の第一人者・[[佐藤一斎]]に詩文・[[朱子学]]を学び<ref>『佐久間象山』人物叢書。205頁。</ref>、[[山田方谷]]と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年([[1839年]])には江戸で私塾「[[象山書院]]」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。


ところが天保13年([[1842年]])、象山が仕える松代藩主[[真田幸貫]]が[[老中]]兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は[[江川英龍]]の下で、兵学を学ぶことになる。
ところが天保13年([[1842年]])、象山が仕える松代藩主[[真田幸貫]]が[[老中]]兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は[[江川英龍]]の下で、兵学を学ぶことになる。
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* [[和歌]]や[[漢詩]]、[[書画]]に巧みだった。[[岸辺成雄]]著『江戸時代の琴士物語』によれば、[[古琴|七絃琴]]や[[琴|一絃琴]]も好んで奏でていたという。
* [[和歌]]や[[漢詩]]、[[書画]]に巧みだった。[[岸辺成雄]]著『江戸時代の琴士物語』によれば、[[古琴|七絃琴]]や[[琴|一絃琴]]も好んで奏でていたという。
* 嘉永4年([[1851年]])に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。この事件を笑った[[落首]]に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。
* 嘉永4年([[1851年]])に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。この事件を笑った[[落首]]に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。

== 名の読み方に関して ==
かつて象山は「しょうざん」とも「ぞうざん」とも呼ばれていた。このため[[信濃教育会]]が読み方を統一したいとして[[昭和]]9年([[1934年]])に『増訂象山全集』(5巻)を出版するにあたって「ぞうざん」と決定し、当時の文部省にもこのまま届け出てしまった<ref>『佐久間象山』人物叢書。1頁。</ref>。だがこれは俗説を重視した誤りであり識者を納得せしめるものではなかったという。

[[南宋]]の時代、[[朱子]]と同時代を生きた儒学者に[[陸象山]]という人物がいた。字を子静といい、[[江西省]]の象山で私塾を開いたことから象山先生と言われた人物で象山がそのまま号となり、名として通ってしまった人物である。あるとき佐久間象山に、この陸象山を欽慕して名乗っているのかと聞くものがあったが、佐久間は陸を傑出した人物と認めつつもその学問には自らが納得できない点があるので真似ているのではない。自分の家の西南に巨陵が奮起しており、その山容が恰も臥象に彷彿たるものがあるので、土地の人々はこれを象山と呼んでおり、自分もこれを号として用いた、としている。その山の名は「ぞうざん」と呼ばれていたから「ぞうざん」説が正しいというのが「ぞうざん」の読みの根拠となっている<ref>『佐久間象山』人物叢書。2頁。</ref>。

象山晩年の門弟である[[久保茂]](平甫)は90歳前後の高齢で没したが、生前に大平と会って「あなたは郷土史家であるから真実を後世に伝えてほしい。実は、今どきの松代人の殆どが象山先生の雅号を「ぞうざん」などという間違った呼び方をしておって誠に困ったものである。先生自身は常に「しょうざん」と申しておられ、決して「ぞうざん」などとは言われなかった。従って我々門弟は皆「しょうざん」先生、または象翁(しょうおう)と呼んでいた。この点をはっきり後世に伝えて貰いたい」と「ぞうざん」説の誤りを指摘したという<ref>『佐久間象山』人物叢書。3頁・4頁。</ref>。

また大平の友人で[[宮下幹]]という[[真田氏]]の家従をした人物は、佐久間象山がローマ字で「SSS」と署名したと述べている(ぞうざんならZSSのはずである)。このため、「しょうざん」の読みが正しいとしている<ref>『佐久間象山』人物叢書。4頁。</ref>。

== 脚注 ==
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== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
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*『[[お〜い!竜馬]]』 [[小山ゆう]] 作
*『[[お〜い!竜馬]]』 [[小山ゆう]] 作
*『[[JIN-仁-]]』 [[村上もとか]] 作
*『[[JIN-仁-]]』 [[村上もとか]] 作

== 参考文献 ==
* [[大平喜間多]]「佐久間象山」(人物叢書。吉川弘文館。[[1987年]])


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2011年12月23日 (金) 15:49時点における版

 
佐久間象山
時代 江戸時代後期
生誕 文化8年2月28日1811年3月22日
死没 元治元年7月11日1864年8月12日
改名 国忠→啓
別名 受領名:修理
号:象山、子迪、子明
墓所 蓮乗寺
官位正四位
主君 真田幸貫
信濃国松代藩
氏族 佐久間氏
父母 父:佐久間一学、母:まん(農民出身)
正室:勝順子
三浦啓之助
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佐久間 象山(さくま しょうざん(ぞうざん))は、日本の武士松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈正四位。象山神社の祭神

象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に”しょうざん”、地元では”ぞうざん”と呼ばれており、弘化2年(1845年)に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、反切法を用いて”しょうざん”と呼ぶように書き残している。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。

家系

真武内伝』を著した竹内軌定によると佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を2度にわたって破った名将として名高い村上義清に8000石で仕えた佐久間大学という。大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩3万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて250石を食んだ。その後、信政が真田信之の世継として松代藩を継いだため、国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて100石を食んだ[1]。この国品が佐久間家中興の祖とされている。

佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は平氏であり、桓武天皇の皇子である葛原親王の孫である高望王の末裔に佐久間家村という者がいた(安房佐久間荘に居住したことから佐久間を姓にしたという)。家村から14代目の孫が佐久間盛次であり、その盛次の長男が尾張戦国大名として有名な織田信長に仕えた盛政である。盛次の4男で盛政の実弟である勝之は信濃長沼藩で1万3000石を領したが罪を得て改易された。この勝之の家臣に岩間又兵衛清重という400石取りがいて勇気も才能もあったので勝之の兄である安政の娘婿になった。しかし清重には男子が無かったため、鶴田清右衛門の子の与作を養子に迎え、その孫が前述した佐久間国品にあたるという[2]。だが国品に男子が無かったため、林覚左衛門の子の幾弥を婿養子に迎えた。だがその子の岩之進が夭折したため佐久間家は改易された。しかし松代藩は国品の長年の功績を評価して国品の甥である村上彦九郎の息子である彦兵衛国正を養子にして家名を再興させ5人扶持とした(のちに5両5人扶持)。しかし国正にも子が無く、松代藩士であった長谷川千助善員の次男である佐久間一学国善を養子にして家督を継がせた。この国善が佐久間象山の実父である[3]

このように『真武内伝』と『佐久間氏略譜』では家系やその経歴が大いに異なりどちらを信ずべきかは不明であると大平は断じている。佐久間家の菩提所を調査した大平は国品以前の墓所が一基もないことから国品以前の家系には多くの疑問があり信を置くに足らないとしている[4]

象山の父・国善の父である長谷川善員は斎藤仁左衛門の次男であり、この斎藤家は越後上杉謙信に仕えて「越後の鍾馗」と謳われた重臣である斎藤朝信を祖としており、象山の書状によると国善は朝信から数えて6代の孫であり、象山は7代目の孫であると称している[5]

生涯

幼少期

文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる[6]。前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を勤め、ト伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たる。象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという[7]

大平は佐久間の門下生だった久保茂から聞いたところによると、象山は5尺7寸から8寸くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯と輝き恰も梟の眼のようであったという[8]。このため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。象山の烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久という郷里の大先輩で藩儒を勤め、象山の才能を高く評価した人物である(ただし、象山の性格に驕慢な所があったのを憂い死ぬまで象山の行く末を心配したという)[9]。14歳で藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、16歳の時に佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同じ16歳の時に藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を詳証術と称したという。また水練を河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという。[10]

真田幸貫に仕える

文政11年(1828年)、家督を継いだ[11]天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している[12]。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山は漢文100篇を作って桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。

天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである。[13]。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。

天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び[14]山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。

温厚で思慮深いという評判の江川は象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法では支障があり、象山の意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書をかり学習を進めた。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、必要のないことを説明し断っている。

学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。

宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。
鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。
近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、
まさに以って我が聖学を資くる足る。

しかし真理に忠実であろうとする象山の態度は当時の体制及び規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。

象山は西洋兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。

これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリー浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)
佐久間象山寓居跡(京都市中京区木屋町御池下ル)

しかし嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。

現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

人物・逸話

  • 象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのも、性格に由来するところが大きいとも言われる。しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。更に彼の門弟には前述の吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟河井継之助橋本左内岡見清熙加藤弘之坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。
  • 自らを「国家の財産」と自認しており、坂本に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし、象山の子三浦啓之助は父同様、素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。
  • 勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。だが、象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。」とその死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を「殿」「氏」と付けていたのを、象山だけに「先生」と敬称をつけていた。
  • 和歌漢詩書画に巧みだった。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴一絃琴も好んで奏でていたという。
  • 嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。この事件を笑った落首に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。

名の読み方に関して

かつて象山は「しょうざん」とも「ぞうざん」とも呼ばれていた。このため信濃教育会が読み方を統一したいとして昭和9年(1934年)に『増訂象山全集』(5巻)を出版するにあたって「ぞうざん」と決定し、当時の文部省にもこのまま届け出てしまった[15]。だがこれは俗説を重視した誤りであり識者を納得せしめるものではなかったという。

南宋の時代、朱子と同時代を生きた儒学者に陸象山という人物がいた。字を子静といい、江西省の象山で私塾を開いたことから象山先生と言われた人物で象山がそのまま号となり、名として通ってしまった人物である。あるとき佐久間象山に、この陸象山を欽慕して名乗っているのかと聞くものがあったが、佐久間は陸を傑出した人物と認めつつもその学問には自らが納得できない点があるので真似ているのではない。自分の家の西南に巨陵が奮起しており、その山容が恰も臥象に彷彿たるものがあるので、土地の人々はこれを象山と呼んでおり、自分もこれを号として用いた、としている。その山の名は「ぞうざん」と呼ばれていたから「ぞうざん」説が正しいというのが「ぞうざん」の読みの根拠となっている[16]

象山晩年の門弟である久保茂(平甫)は90歳前後の高齢で没したが、生前に大平と会って「あなたは郷土史家であるから真実を後世に伝えてほしい。実は、今どきの松代人の殆どが象山先生の雅号を「ぞうざん」などという間違った呼び方をしておって誠に困ったものである。先生自身は常に「しょうざん」と申しておられ、決して「ぞうざん」などとは言われなかった。従って我々門弟は皆「しょうざん」先生、または象翁(しょうおう)と呼んでいた。この点をはっきり後世に伝えて貰いたい」と「ぞうざん」説の誤りを指摘したという[17]

また大平の友人で宮下幹という真田氏の家従をした人物は、佐久間象山がローマ字で「SSS」と署名したと述べている(ぞうざんならZSSのはずである)。このため、「しょうざん」の読みが正しいとしている[18]

脚注

  1. ^ 『松代藩監察日記』享保13年8月9日の条に佐久間と改めて継いだと記している。『佐久間象山』人物叢書。5頁・6頁。
  2. ^ 『佐久間象山』人物叢書。6頁・7頁。
  3. ^ 『佐久間象山』人物叢書。7頁。
  4. ^ 『佐久間象山』人物叢書。8頁。
  5. ^ 象山は安政6年4月28日に柳左衛門という者に宛てた書状で自分が朝信の血縁に繋がる事を大変自慢している。『佐久間象山』人物叢書。8頁・9頁。
  6. ^ 象山は2月11日生まれとされていたが、発見された位牌により2月28日と確認されたという。『佐久間象山』人物叢書。11頁・12頁。
  7. ^ 『佐久間象山』人物叢書。13頁。
  8. ^ 『佐久間象山』人物叢書。14頁。
  9. ^ 『佐久間象山』人物叢書。15頁・19頁。
  10. ^ 『佐久間象山』人物叢書。37頁 - 39頁。
  11. ^ 『佐久間象山』人物叢書。39頁・205頁。
  12. ^ 『佐久間象山』人物叢書。18頁・40頁・205頁。
  13. ^ 『佐久間象山』人物叢書。40頁。
  14. ^ 『佐久間象山』人物叢書。205頁。
  15. ^ 『佐久間象山』人物叢書。1頁。
  16. ^ 『佐久間象山』人物叢書。2頁。
  17. ^ 『佐久間象山』人物叢書。3頁・4頁。
  18. ^ 『佐久間象山』人物叢書。4頁。

関連作品

ファイル:Sakuma Shozan statue.jpg
佐久間象山像(長野)
佐久間象山遭難の碑 京都 三条木屋町(実際の地はこの碑より北に一丁)
映画
テレビドラマ
小説
漫画

参考文献

外部リンク

関連項目