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{{複数の問題
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{{Infobox scientist
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[[Image:Alan Turing Memorial Closer.jpg|thumb|マンチェスターのサックビル・パークにあるアラン・チューリングの銅像]]
[[File:Alan Turing Memorial Closer.jpg|thumb|マンチェスターのサックビル・パークにあるアラン・チューリングの銅像]]
'''アラン・チューリング'''('''Alan Mathison Turing''', [[1912年]][[6月23日]] - [[1954年]][[6月7日]])は[[イギリス]]の[[数学者]]。
'''アラン・チューリング'''('''Alan Mathison Turing''', [[1912年]][[6月23日]] - [[1954年]][[6月7日]])は[[イギリス]]の[[数学者]]、[[論理学]]者、[[暗号解読]]者、[[計算機科学]]者


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]のチューリング版として広く認識されている[[チューリングマシン]]で「[[アルゴリズム]]」と「計算」の概念を定式化し、[[計算機科学]]の発展に大きな影響を及ぼし、また[[コンピュータ]]の誕生に重要な役割を果たした<ref name="frs">{{Cite doi|10.1098/rsbm.1955.0019}}</ref><ref name=AFP>{{Cite news| title =Alan Turing&nbsp;– Time 100 People of the Century |url= http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html |work=Time Magazine |quote=The fact remains that everyone who taps at a keyboard, opening a spreadsheet or a word-processing program, is working on an incarnation of a Turing machine. |first=Paul |last=Gray |date=29 March 1999}}</ref>。計算機科学および[[人工知能]]の父と言われている<ref>{{Cite book|author=Homer, Steven and Alan L. |title=Computability and Complexity Theory|url= http://books.google.com/?id=r5kOgS1IB-8C&pg=PA35|publisher=Springer via Google Books limited view|page=35|isbn=0-3879-5055-9|accessdate=13 May 2011|year=2001}}</ref>。がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあった<ref>{{Citation| last = Garner | first = Alan | author-link = アラン・ガーナー | title = My Hero: Alan Turing | newspaper = Saturday Guardian Review | page = 5 | date = 12 November 2011 | url = http://www.guardian.co.uk/books/2011/nov/11/alan-turing-my-hero-alan-garner | accessdate = 2011-11-23 }}</ref>。[[アスペルガー症候群]]を暗示する特徴の多くを示しているとの指摘もある<ref>{{Harvnb|O'Connell|Fitzgerald|2003|pp=28-31}}</ref>。
現代[[情報工学|計算機科学]]の父と言われている。[[チューリング・テスト]]では、[[人工意識]](機械が[[意識]]を持ち[[思考]]することができるか)についての議論に挑発的かつ大きな影響を与えた。[[チャーチ=チューリングのテーゼ]]のチューリング版として広く認識されている[[チューリングマシン]]では、計算と[[アルゴリズム]]の概念の形式化手法を提供した。実用的なほとんどのコンピュータモデルはチューリングマシンと同等かサブセットの機能を持っている。


[[第二次世界大戦]]の間、ブレッチレイ・パークにあるイギリスの[[暗号解読]]センターの[[政府暗号学校]]でドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍の[[Uボート]]の暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツの暗号機[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]の設定を見つけるための機械 bombe を開発した。
[[第二次世界大戦]]の間、[[ブレッチリー・パーク]]にあるイギリスの[[暗号解読]]センターの[[政府暗号学校]]でドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍の[[Uボート]]の暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツの暗号機[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]の設定を見つけるための機械 bombe を開発した。


戦後、[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつ[[ACE (コンピュータ)|ACE]](Automatic Computing Engine)に携わったが、実際に製作されるには至らなかった。[[1947年]]、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] のソフトウェア開発に従事した。
戦後、[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつ[[ACE (コンピュータ)|ACE]](Automatic Computing Engine)に携わったが、実際に製作されるには至らなかった。[[1947年]]、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] のソフトウェア開発に従事<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=231-233}}</ref>、[[数理生物学]]に興味を持つようになる。[[形態形成]]の化学的基礎についての論文を書き<ref>{{Cite journal| last= Turing | first= A. M. | title = The Chemical Basis of Morphogenesis | journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London, series B | volume = 237 | pages = 37–72 | year = 1952 | doi=10.1098/rstb.1952.0012| issue= 641| ref= harv}}</ref>、1960年代に初めて観察された[[ベロウソフ・ジャボチンスキー反応]]のような発振する[[化学反応]]の存在を予言した。


[[1952年]]、同性愛の罪で逮捕。保護観察の身となり、[[ホルモン療法]]を受ける。
[[1952年]]、同性愛の罪で逮捕。保護観察の身となり、[[ホルモン療法]]を受ける。[[1954年]]、死去。42歳の若さであった。検死によると、[[シアン化水素|青酸中毒]]による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた


2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、[[イギリスの首相|首相]]の[[ゴードン・ブラウン]]が戦後のイギリス政府のチューリングへの仕打ちについて公式に謝罪した<ref name = "PM-apology">{{Cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8249792.stm | title = PM apology after Turing petition | date = 11 September 2009 |work=BBC News }}</ref>。
[[1954年]]、死去。42歳の若さであった。検死によると、[[シアン化水素|青酸中毒]]による自殺であった。


== 生涯 ==
=== 出生から大学進学まで ===
=== 出生から大学進学まで ===
母エセルは、[[イギリス領インド帝国]][[オリッサ州]]チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠<ref name = "Hodges1983P5">{{Harvnb|Hodges|1992|p=5}}</ref><ref> {{Cite web|url= http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/early.html |title=The Alan Turing Internet Scrapbook |publisher=Turing.org.uk |date= |accessdate=2012-01-02}} </ref>。父のジュリアス・チューリングは[[インド高等文官]]の1人で、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、[[イギリス]]本国での養育を考え[[ロンドン]]のメイダヴェールに戻り<ref name="englishheritaget">{{Cite web| url = http://www.english-heritage.org.uk/server/show/nav.001002006005/chooseLetter/T | archiveurl = http://www.webcitation.org/5jkyjSdgY | archivedate = 2009-09-13 | title = London Blue Plaques | accessdate =2007-02-10 | work=English Heritage}}</ref>、1912年6月23日にアランが誕生。生まれた病院(現在はホテル<ref name="Hodges1983P5"/>)にはそれを記念した[[ブループラーク]]がある<ref>{{Openplaque|381}}</ref><ref name="turingorguk">{{Cite web| url= http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/memorial.html | title=The Alan Turing Internet Scrapbook | accessdate=2006-09-26}} </ref>。
インドで公務員として働く父のジュリアス・チューリングは、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、[[イギリス]]本国での養育を考え[[ロンドン]]に戻り、1912年6月23日にアランが誕生。


父の任期が続いていたため、幼年期に両親はインドとイギリスを行ったり来たりする生活を送り、アランと兄のジョンはイギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚え、数字に強くパズルが非常に得意だったと、幼年期に天才の片鱗を見せ始める。
父の任期が続いていたため、幼年期に両親はインドとイギリスの[[ヘイスティングス]]<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=6}}</ref>を行ったり来たりする生活を送り、アランと兄のジョンはイギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚え、数字に強くパズルが非常に得意だったと、幼年期に天才の片鱗を見せ始める<ref name=toolbox>{{Cite web|title=Alan Turing&nbsp;– Towards a Digital Mind: Part 1 |first=G. James |last=Jones |date=11 December 2001 |url= http://www.systemtoolbox.com/article.php?history_id=3 |accessdate=2007-07-27 |work=System Toolbox}}</ref>


6歳でセント・マイケルズ学校に入学、担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。[[1926年]]、14歳でシャーボーン学校に入学。登校初日が[[ゼネスト]]予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは[[地方紙|地元紙]]に掲載された。
6歳でセント・マイケルズ学校に入学、担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。[[1926年]]、14歳でシャーボーン学校に入学。登校初日が[[ゼネスト]]予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは[[地方紙|地元紙]]に掲載された<ref name=metamagical>{{Cite book|title=Metamagical Themas: Questing for the Essence of Mind and Pattern |first=Douglas R. |last=Hofstadter |year=1985 |publisher=Basic Books |isbn=0-465-04566-9 |oclc=230812136}}</ref>


シャーボーンは有名な[[パブリックスクール]]であり、その校風は古典を重視するものだったのである。校長は両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは時間の無駄です」 (Hodges, 2000, p26)という手紙を書くなど、数学と科学への興味は、シャーボーンの教師たちとは合わなかった。
シャーボーンは有名な[[パブリックスクール]]であり、その校風は[[西洋古典学|古典]]を重視するものだったが、チューリングは主に数学と科学に才能を発揮した。校長は両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは時間の無駄です」<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=26}}</ref>という手紙を書くなど、数学と科学への興味は、シャーボーンの教師たちとは合わなかった。


このようなことがあっても、学問に対する驚くべき能力を示し、初等[[微分積分学]]も習っていない[[1927年]]にもっと難しい問題を解いていた。[[1928年]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]の書いた文章に触れた16歳でその内容を理解しただけでなく、明記されていなかった[[ニュートン力学]]についてのアインシュタインの疑問を外挿したという。
このようなことがあっても、学問に対する驚くべき能力を示し、初等[[微分積分学]]も習っていない[[1927年]]にもっと難しい問題を解いていた。[[1928年]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]の書いた文章に触れた16歳でその内容を理解しただけでなく、明記されていなかった[[ニュートン力学]]についてのアインシュタインの疑問を外挿したという<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=34}}</ref>


親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため<ref name=teuscher>{{Cite book|last=Teuscher |first=Christof (ed.) |title=Alan Turing: Life and Legacy of a Great Thinker |year=2004 |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]] |isbn=3-540-20020-7 |oclc=53434737 62339998}}</ref>牛結核症を患って、モルコムは死去(1930年2月13日)<ref>{{Cite web |url= http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Turing.html |title=Turing biography |publisher=Gap-system.org |date= |accessdate=2012-01-02}}</ref>。この出来事からチューリングは[[無神論]]者になった。脳の働きなどの[[現象]]も[[唯物論]]的に解釈するようになったが<ref>Paul Gray, [http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html Alan Turing] Time Magazine's Most Important People of the Century, p.2</ref>、心のどこかで死後の生を信じていたという<ref>[http://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/spirit.html The Inspiration of Life and Death, 1928–1932] Alan Turing Scrapbook</ref>。
親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去。


=== 大学時代と計算可能性についての研究 ===
=== 大学時代と計算可能性についての研究 ===
[[Image:KingsCollegeChapel.jpg|thumb|キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている]]
[[File:KingsCollegeChapel.jpg|thumb|キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている]]
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったため、[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]の奨学金を受けられず、第二希望のケンブリッジ大学[[キングス・カレッジ_(ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]]へ進学。[[1931年]]から[[1934年]]まで学生として学び、優秀な成績を修めて卒業、[[1935年]]に[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]][[誤差関数]]に関する論文が認められてキングス・カレッジの[[フェロー]](特別研究員)に選ばれた。
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったため、[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]の奨学金を受けられず、第二希望のケンブリッジ大学[[キングス・カレッジ_(ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]]へ進学。[[1931年]]から[[1934年]]まで学生として学び、[[数学]]で優秀な成績を修めて卒業、[[1935年]]に[[中心極限定理]]を証明した論文が認められてキングス・カレッジの[[フェロー]](特別研究員)に選ばれた<ref>See Section 3 of John Aldrich, "England and Continental Probability in the Inter-War Years", Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique, vol. 5/2 [http://www.jehps.net/decembre2009.html Decembre 2009] Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique</ref>。ただし、中心極限定理は1922年に Lindeberg が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=88,94}}</ref>


重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにその[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]の決定問題への応用」、[[1936年]]5月28日)で、[[チューリングマシン]]という概念を導入する事で[[アルゴリズム]]の概念を定式化し、[[1931年]]に[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]が発表した[[不完全性定理]]を別の形式で公式化した。
1928年、ドイツの数学者[[ダフィット・ヒルベルト]]は「決定問題」への注目を呼びかけた。重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにその[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]の決定問題への応用」、[[1936年]]5月28日提出、11月12日配布)<ref>{{Cite journal| last= Turing | first= A. M. |year=1936 | publication-date = 1936–37 | title = On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem | periodical = Proceedings of the London Mathematical Society | series = 2 | volume = 42 | pages = 230–65 | doi= 10.1112/plms/s2-42.1.230 | url = http://www.comlab.ox.ac.uk/activities/ieg/e-library/sources/tp2-ie.pdf | ref= harv}}(および {{Cite news| last = Turing | first = A.M. | publication-date = 1937 | title = On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem: A correction | periodical = Proceedings of the London Mathematical Society | series = 2 | volume = 43 | pages = 544–6 | doi = 10.1112/plms/s2-43.6.544 | year = 1938 }}</ref>で、[[チューリングマシン]]という概念を導入する事で[[アルゴリズム]]の概念を定式化し、[[1931年]]に[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]が発表した[[不完全性定理]]を別の形式で公式化した。


チューリングマシンは現在の[[コンピュータ]]を先取りした概念で、今日から見れば[[コンピュータ]]を抽象化したものであるともいえる。この論文でまず、チューリングマシンを適切に設計すれば、いかなるアルゴリズムもチューリングマシンで実行可能である事を証明した。([[万能チューリングマシン]]。今日でいう[[ノイマン型コンピュータ]]の理論的背景。)そしてこの事実を使い、「与えられたアルゴリズムが有限時間で停止するか?」という問題([[停止性問題]])を完全解決する事は不可能である事を示し、コンピュータが実現されないうちに、コンピュータの理論的限界を示した。この証明は[[アロンゾ・チャーチ]]の[[ラムダ算法]]による同等の証明の直後に発表されたが、チューリングの論文のほうがずっとわかりやすく直感的であった。チューリングのこの論文ではまた[[決定可能数]]の記述法も導かれた。成果と前後して「アルゴリズム」の概念が様々な方法で定式化されたが、それらは全て同値である事が後に示し[[チャーチの提唱]])「アルゴリズム」の概念に最初に定式化を与えた人物の一人であるといえる。
チューリングマシンは現在の[[コンピュータ]]を先取りした概念で、今日から見れば[[コンピュータ]]を抽象化したものであるともいえる。この論文でまず、チューリングマシンを適切に設計すれば、いかなるアルゴリズムもチューリングマシンで実行可能である事を証明した。([[万能チューリングマシン]]。今日でいう[[ノイマン型コンピュータ]]の理論的背景。)そしてこの事実を使い、「与えられたアルゴリズムが有限時間で停止するか?」という問題([[停止性問題]])を完全解決する事は不可能である事を示し、コンピュータが実現されないうちに、コンピュータの理論的限界を示した。この証明は[[アロンゾ・チャーチ]]の[[ラムダ算法]]による同等の証明の直後に発表されたが、チューリングはそのことを当時知らず<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=111}}</ref>、チューリングの論文のほうがずっとわかりやすく直感的であった。チューリングのこの論文ではまた[[決定可能数]]の記述法も導かれた。成果と前後して「アルゴリズム」の概念が様々な方法で定式化されたが、それらは全て同値である事が後に示し[[チャーチの提唱]])「アルゴリズム」の概念に最初に定式化を与えた人物の一人であるといえる。


チューリングマシンの停止判定不可能の証明は、コンピュータにはできないことがあることを示している。例えば、万能ウィルス発見プログラムは作れないし、プログラムが盗作かどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。同様にプログラムにバグがあるかどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。このことは、無駄なソフトウェア開発を防ぐという意味で有意義であった。
チューリングマシンの停止判定不可能の証明は、コンピュータにはできないことがあることを示している。例えば、万能ウィルス発見プログラムは作れないし、プログラムが盗作かどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。同様にプログラムにバグがあるかどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。このことは、無駄なソフトウェア開発を防ぐという意味で有意義であった。


[[1937年]]から[[1938年]]にかけて[[プリンストン大学]]においてアロンゾ・チャーチに師事し、[[1938年]]、プリンストンで[[博士号]]を得ている。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「[[順序数]]」という概念の体系を整理しようとした。またこの時期、[[ジョン・フォン・ノイマン]]も同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンはアメリカに残ることを勧めたという。
[[1936年]]9月から[[1938年]]7月にかけて[[プリンストン高等研究所]]においてアロンゾ・チャーチに師事し、[[1938年]]、プリンストンで[[博士号]]を得ている。博士論文<ref> {{Citation| last = Turing | first = A. M. | title = Systems of Logic Based on Ordinals | year = 1938 | url = https://webspace.princeton.edu/users/jedwards/Turing%20Centennial%202012/Mudd%20Archive%20files/12285_AC100_Turing_1938.pdf }} </ref>では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「[[順序数]]」という概念の体系を整理しようとした。その中で[[チューリング還元]]の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=138}}</ref>。またこの時期、[[ジョン・フォン・ノイマン]]も同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンはアメリカに残ることを勧めたという。


1939年にケンブリッジに戻ると、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の[[数学基礎論]]という講義に参加。ウィトゲンシュタインの数学批判に対して、数学を擁護する立場を取った。
1939年にケンブリッジに戻ると、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の[[数学基礎論]]という講義に参加<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=152}}</ref>。ウィトゲンシュタインの数学批判(数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している)に対して、[[数学の哲学#形式主義|形式主義]]を擁護する立場を取った<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=153–154}}</ref>


=== 暗号解読 ===
=== 暗号解読 ===
[[Image:BletchleyPark MainBuilding1.JPG|thumb|暗号解読部門があったブレッチレイ・パークの建物]]
[[File:Turing flat.jpg|thumb|[[ブレッチリー・パーク]]内のこの建物で1939年から1940年まで働き、その後 [[:en:Hut 8|Hut 8]] に移った。]]
[[Image:Bletchley Park Bombe IMG 3562.JPG|thumb|アナログ式暗号解読機 bombe の内部]]
[[第二次世界大戦]]に先立つ[[1938年]]9月から、暗号解読機関のある[[政府暗号学校|ブレッチレイ・パーク]]に勤務して大きな功績を残す。暗号解読に従事していたことは[[1970年代]]まで極秘とされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。<!-- [[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]と Lorenz SZ 40/42(英国が"Tunny"と名づけたテレタイプ用暗号機)について数学的洞察を与え、-->Uボートの跳梁により亡国に瀕したイギリスを救うためにドイツ海軍の暗号解読部門 (Hut 8) の責任者となり、1940年にその解読に成功する。{{main|エニグマ (暗号機)}}


第二次世界大戦中、チューリングは[[ブレッチリー・パーク]]でドイツの[[暗号]]を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していた{{仮リンク|エイザ・ブリッグズ|en|Asa Briggs, Baron Briggs}}は次のように述べている。
<!-- なんか専門的すぎて訳せないのでコメントアウト。
{{Quote|たぐいまれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングはまさにその天才だった。<ref>{{Citation| last = Briggs | first = Asa | work = Britain's Greatest Codebreaker | publisher = [[チャンネル4|UK Channel 4]] | format = TV programme broadcast 21 November 2011 }} </ref>}}
In December [[1940]], Turing solved the naval Enigma indicator system, which was more complex than the indicator systems used by the other services. Turing also invented a [[Bayesian]] statistical technique termed "[[Banburismus]]" to assist in breaking Naval Enigma. Banburismus could rule out certain orders of the Enigma rotors, reducing time needed to test settings on the bombes. Against the Lorenz cipher, Turing devised a technique termed ''Turingismus'' or ''Turingery'', although other methods were also used.-->
[[1941年]]春、ある女性にプロポーズしているが、後に同性愛者であることを告白して破談となっている。1942年11月にはアメリカを訪れ、英米間の盗聴されない通信手段の確立に従事した。この時、エニグマ解読法についてもアメリカ側に伝えている。1943年3月英国に帰国。この間に Hut 8 の責任者が変わっていたため、ブレッチレイ・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。その後終戦まで、盗聴されない携帯型の通話装置 Delilah の開発に従事し、電子工学への造詣を深める。ある時は役人の前で[[ウィンストン・チャーチル]]の演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、遠距離間の無線通話に難があり、結局 Delilah を終戦までに実用化することはできなかった。


[[第二次世界大戦]]に先立つ[[1938年]]9月から、イギリスにおける暗号解読組織である[[政府暗号学校]] (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで{{仮リンク|ディリー・ノックス|en|Dilly Knox}}と共に[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]の解読に集中した<ref>[[:en:Jack Copeland|Jack Copeland]], "Colossus and the Dawning of the Computer Age", p. 352 in ''Action This Day'', 2001</ref>。その少し前の1939年7月、ポーランドの暗号局 ([[:en:Biuro Szyfrów|en]]) とイギリスおよびフランスの関係者が[[ワルシャワ]]で会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスはその情報を元にして問題にアプローチしようとしていた<ref>{{Harvnb|Copeland|2004|p=217}}</ref>。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的で[[クリブ]]式暗号解読全般に使えるもので、最初の [[:en:Bombe|bombe]] の機能仕様に盛り込まれていた。
なお、[[Colossus]]は ローレンツ暗号機(Lorenz maschine)の暗号解読に使われた計算機であり、こちらの開発には大きく関わっていない。この点を間違って記述しているものが多いので注意が必要である(下記のサリー大学のWebなど)。


1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した<ref name=Copeland2006p378>{{Harvnb|Copeland|2006|p=378}}</ref>。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、''[[:en:Banburismus|Banburismus]]'' と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、''[[:en:Turingery|Turingery]]'' と名付けた [[:en:Lorenz SZ 40/42|Lorenz SZ 40/42]] (''Tunny'') のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー ''Delilah'' である。
その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえにブレッチレイ・パークから一歩外に出ればチューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に彼女は却って落胆するばかりであったという。戦後もブレッチレイ・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからはその功績を知らない世間から公然と辱めを受けることとなる(後述)。

ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、
エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた<ref>[http://cryptocellar.org/Turing/ Turing's Treatise on Enigma]</ref><ref> {{Harvnb|Hodges|1992|p=208}}</ref>。同僚の暗号解読者{{仮リンク|I・J・グッド|en|I.J. Good|label=ジャック・グッド}}はチューリングについて次のように述べている。
<blockquote>
6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。<ref>{{Harvnb|Lewin|1978|p=57}}</ref>
</blockquote>

ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは約 64km を走ったという<ref> {{Citation| last = Brown | first = Anthony Cave | title = Bodyguard of Lies: The Extraordinary True Story Behind D-Day | publisher = The Lyons Press | year = 1975 | isbn = 9781599213835}} </ref>。タイムは世界レベルのマラソン記録に匹敵していたという<ref>{{Cite news|url= http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/mar/10/alan-turing-2012-olympics|title=An Olympic honour for Alan Turing|author=John Graham-Cumming|publisher= the Guardian|date=10 March 2010}}</ref>。

1945年、戦時中の功績により[[大英帝国勲章|OBE]]を授与されたが、その後[[1970年代]]までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえにブレッチレイ・パークから一歩外に出ればチューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に彼女は却って落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからはその功績を知らない世間から公然と辱めを受けることとなる(後述)。

==== チューリングとウェルチマンの bombe ====
[[File:Bombe-rebuild.jpg|thumbnail|ブレッチリー・パークに展示されている完全動作する bombe のレプリカ]]
ブレッチリー・パークに到着して数週間後<ref name=Copeland2006p378 />、ポーランドの ''[[:en:bomba (cryptography)|bomba kryptologiczna]]'' よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者{{仮リンク|ゴードン・ウェルチマン|en|Gordon Welchman}}の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。

ジャック・グッドは次のように述べている。
<blockquote>
チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するにやや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、全てを推論できる。<ref>[http://www.imdb.com/title/tt1155383/episodes "The Men Who Cracked Enigma"], Episode 4 in the UKTV History Channel documentary series [http://www.imdb.com/title/tt1157073/ "Heroes of World War II"]</ref>
</blockquote>

bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当な[[クリブ]]([[平文]]に存在が推定される単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 10<sup>19</sup>、4ローターのUボート版では 10<sup>22</sup>)ごとに<ref>Professor Jack Good in "The Men Who Cracked Enigma", 2003: with his caveat: "if my memory is correct"</ref>、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された<ref>{{Harvnb|Oakley|2006|p=40/03B}}</ref>。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた<ref name=codebreaker>{{Cite web|title=Alan Turing, Codebreaker and Computer Pioneer |last=Copeland |first=Jack |coauthors=Diane Proudfoot |month=May | year=2004 |url= http://www.alanturing.net/turing_archive/pages/Reference%20Articles/codebreaker.html |accessdate=2007-07-27}} </ref>。

==== Hut 8 と海軍のエニグマ ====
[[File:AlanTuring-Bletchley.jpg|thumbnail|ブレッチリー・パークにあるチューリングの石像<ref>{{Cite web|title=Bletchley Park Unveils Statue Commemorating Alan Turing |url= http://www.bletchleypark.org.uk/news/docview.rhtm/454075 |accessdate=2007-06-30}}</ref>]]
チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた<ref name=MahonP14>{{Harvnb|Mahon|1945|p=14}}</ref>。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった<ref name=MahonP14 /><ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=184–186}}</ref>。そしてある夜、''[[:en:Banburismus|Banburismus]]'' のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後に[[エイブラハム・ウォールド]]は [[:en:sequential analysis|sequential analysis]] と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」<ref name=MahonP14 /> このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを ''[[:en:Ban (information)|Ban]]'' と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。

1941年、チューリングは [[:en:Hut 8|Hut 8]] の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|pp=176–178}}</ref>。

1942年11月にはアメリカを訪れ<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=242-245}}</ref>、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、[[ベル研究所]]では英米間の盗聴されない音声通信手段の確立に従事した<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=245-253}}</ref>。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレクサンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。

アレクサンダーは次のように書いている。
<blockquote>
チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。<ref>{{Harvnb|Alexander|circa 1945|p=42}}</ref>
</blockquote>

==== Turingery ====
1942年、チューリングは ''[[:en:Turingery|Turingery]]''(冗談で ''Turingismus'' とも)と名付けた技法を考案<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=380}}</ref>。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきの[[テレタイプ端末]]で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは ''Tunny'' と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=381}}</ref>。彼は Tunny のチームに{{仮リンク|トミー・フラワーズ|en|Tommy Flowers}}を紹介し、フラワーズが{{仮リンク|マックス・ニューマン|en|Max Newman}}の指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 [[Colossus]] を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=72}}</ref>。なお、チューリングが[[Colossus]]の設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが<ref>{{Harvnb|Gannon|2007|p=230}}</ref>、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|pp=382,383}}</ref>。

==== セキュアな音声通信 ====
アメリカのベル研究所での仕事を発展させ<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=245-250}}</ref>、電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにある[[イギリス情報局秘密情報部]]のラジオセキュリティサービス(後の[[:en:Her Majesty's Government Communications Centre|HMGCC]])で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘匿音声通信装置 ''Delilah'' を設計・構築<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=273}}</ref>。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前で[[ウィンストン・チャーチル]]の演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=346}}</ref>。チューリングは[[ベル研究所]]の同様の[[SIGSALY]]開発のコンサルタントもしており、こちらは終戦前に実際に使われた実績がある。


=== 初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト ===
=== 初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト ===
[[1945年]]から[[1947年]]まで、チューリングは[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) にて[[ACE (コンピュータ)|ACE]](Automatic Computing Engine)の設計を行う。1946年2月の論文では、[[ノイマン型|プログラム内蔵式コンピュータ]]の英国初の完全なデザインを発表している。ACE万能チューリングマシン実現を念頭いて設計されその上人工知能実現しようとしていたと見られる。しかしプロジェクトは遅々として進まず、1947年サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。
[[1945年]]から[[1947年]]まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み<ref>{{Openplaque|1619}}</ref>、[[イギリス国立物理学研究所]] (NPL) にて[[ACE (コンピュータ)|ACE]](Automatic Computing Engine)の設計を行う。1946年2月の論文では、[[ノイマン型|プログラム内蔵式コンピュータ]]の英国初の完全なデザインを発表している<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=108}}</ref>[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]の ''[[:en:First Draft of a Report on the EDVAC|First Draft of a Report on the EDVAC]]'' はチューリングの論文より先存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった [[:en:John R. Womersley|John R. Womersley]] は「チューリング博士の独自のアイデアがくつか含まれいた」と記している<ref> {{Citation| last = Randell | first = B | title = A History of Computing in the Twentieth Century: Colossus | year = 1980 | url = http://www.cs.ncl.ac.uk/research/pubs/books/papers/133.pdf | accessdate = 2012-01-27}} で以下を引用 {{Citation| last = Womersley | first = J. R. | title = 'ACE' Machine Project | journal = Executive Committee, National Physical Laboratory, Teddington, Middlesex | date = 13 February 1946 }}</ref>。ACEは実現可能な設計だったがブレッチリー・パーク軍事機密に関わる仕事をしていたが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した [[ACE (コンピュータ)|Pilot ACE]] が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。

1948年、[[マンチェスター大学]]数学科の助教授に招かれる。[[1949年]]、[[マンチェスター大学]]のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、「計算機構と知能」(1950年10月、「Mind」誌)という論文では[[人工知能]]の問題を提起、今日[[チューリングテスト]]として知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである<ref>[[:en:Stevan Harnad|Harnad, Stevan]] (2008) [http://eprints.ecs.soton.ac.uk/7741 The Annotation Game: On Turing (1950) on Computing, Machinery and Intelligence]. In: Epstein, Robert & Peters, Grace (Eds.) ''Parsing the Turing Test: Philosophical and Methodological Issues in the Quest for the Thinking Computer''. Springer</ref>。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。

[[1948年]]、当時まだ存在していなかった[[コンピュータチェス]]のプログラムを書き始める。[[1952年]]、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている<ref>[http://www.chessgames.com/perl/chessgame?gid=1356927 Alan Turing vs Alick Glennie (1952) "Turing Test"] Chessgames.com</ref>。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の奥さんにはプログラムが勝利している。


[[チューリングテスト]]は独特の挑発的特徴があり、[[人工知能]]に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた<ref>Saygin, A.P., Cicekli, I., & Akman, V. (2000) Turing Test: 50 years later. Minds and Machines, Vol. 10, pp&nbsp;463–518.</ref>。
[[1949年]]、[[マンチェスター大学]]のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ [[Manchester Mark I]] におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、「計算機構と知能」(1950年10月、「Mind」誌)という論文では[[人工知能]]の問題を提起、今日[[チューリングテスト]]として知られている実験を提案している。ただし軽い気持ちで書いたと言われ、同僚の前で笑いながら論文を読んだという逸話も残っている。


1948年には[[LU分解]]も考案しており、今でも方程式行列の解法として使われている<ref>{{Cite web|url= http://www.intusoft.com/nlhtm/nl71.htm |title=SPICE 1 2 3 and beyond ... Intusoft Newsletter, August 2003 |publisher=Intusoft.com |date=16 August 2001 |accessdate=2011-05-29}}</ref>。
[[1948年]]、当時まだ存在していなかった[[コンピュータチェス]]のプログラムを書き始める。[[1952年]]、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。対戦相手は同僚の奥さんであったがプログラムは勝利している。


=== 形態形成と数理生物学に関する仕事 ===
=== 形態形成と数理生物学に関する仕事 ===
1952年から、亡くなる1954年まで[[数理生物学]]、特に[[形態形成]]について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表。この分野での関心は、[[フィボナッチ]]の葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れる[[フィボナッチ数]]の存在で反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の ''Collected Works of A.M. Turing'' の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である。
1952年から、亡くなる1954年まで[[数理生物学]]、特に[[形態形成]]について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表、形態形成について仮説を提唱した<ref>"Control Mechanism For Biological Pattern Formation Decoded" ''ScienceDaily'', 30 November 2006</ref>。この分野での関心は、[[フィボナッチ]]の葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れる[[フィボナッチ数]]の存在である。これに反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の ''Collected Works of A.M. Turing'' の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である<ref>{{Wayback|url= http://www.swintons.net/deodands/archives/000087.html |title=Turing's Last, Lost work |date=20030823032620}}</ref>


=== 同性愛の告発と死 ===
=== 同性愛の告発 ===
Anthony Cave Brown の著書 ''"C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill'' には次のような記述がある。
[[同性愛]]者であったが、当時のイギリスでは違法だった。[[1952年]]、自宅を[[泥棒]]に入られた事件を[[警察]]に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなり、有罪となる。また、その前年[[1951年]]に起きた[[ケンブリッジ5人組]]事件の影響で[[スパイ]]の嫌疑がかけられ、[[イギリス情報局秘密情報部]]の監視下に置かれることになる。入獄或いは化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた[[エストロゲン|女性ホルモン]]注射の投与を受け入れた。その結果副作用として胸が膨らんだ。
{{Quote|ミンギス<ref>[[イギリス情報局秘密情報部|MI6]]長官</ref>は、チューリングをブレッチリーで雇用した直後から彼が長年の積極的な同性愛者だと知っていた。しかし、ブレッチリーの同僚にちょっかいを出すこともなく、ミンギスの部下の中では唯一「不可欠」と呼べる男だったので、そのまま雇っていた… 1944年初め、ブレッチリーに程近い大きな工業都市ルートンの公立図書館で男子生徒がいたずらされるという事件があり、チューリングが犯人ではないかと疑われた。全く記録には残っていないが、秩序と風紀を保つには彼を排除するしかないという決定がなされた。しかし、それも彼が素晴らしい仕事を完了してからのことである。<ref>{{Citation| last = Cave Brown | first = Anthony | title = C : The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies, Spymaster to Winston Churchill| place = New York | publisher = Macmillan | year = 1987 | isbn = 978-0025173903 }}</ref> }}
[[1952年]]1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=266}}</ref>。


間もなく自宅に[[泥棒]]が入り、事件を[[警察]]に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=458}}</ref>、2人とも逮捕された<ref name=LeavittP268>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=268}}</ref>。
[[1954年]]6月8日、自宅で死んでいるのを発見された。検死の結果、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったのかの分析はなされなかったが、部屋には青酸の瓶が多数あった。彼の死は自殺であるという説がある<ref>同僚によれば、映画『[[白雪姫]]』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという。</ref>。

しかし母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している<ref>食器を自身で金メッキ・銀メッキする趣味を持っており、メッキに使用する青酸が常時、家にあった。母はメッキ作業をした後は手を良く洗うようにと息子にいつもいっていたという。すなわち、作業後に手に残存していた青酸を誤って口にした事故とする。</ref>。
チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた[[エストロゲン|女性ホルモン]]注射の投与を受け入れた<ref>{{Cite web|url= http://www.glbtq.com/social-sciences/turing_a,2.html |title=Turing, Alan (1912–1954) |publisher=Glbtq.com |accessdate= 2011-05-29}}</ref>。
その他、事故に見せかけた暗殺ではないかと言う説もある<ref>戦後も政府の暗号解読などについてのコンサルタントをしており、政府の機密に多く接していたからとする。</ref>。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、[[政府通信本部|GCHQ]]で暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、[[ケンブリッジ・ファイヴ]]の最初の2名ガイ・バージェスと[[ドナルド・マクリーン]]が[[ソ連国家保安委員会|KGB]]のスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=269}}</ref>。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された<ref>{{Harvnb|Copeland|2006|p=143}}</ref>。

=== 死 ===
[[1954年]]6月8日、清掃業者がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。[[検死]]の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったのかの分析はなされなかったが<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=488}}</ref>、部屋には青酸の瓶が多数あった。[[死因審問]]で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|p=529}}</ref>。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している<ref>食器を自身で金メッキ・銀メッキする趣味を持っており、メッキに使用する青酸が常時、家にあった。母はメッキ作業をした後は手を良く洗うようにと息子にいつもいっていたという。すなわち、作業後に手に残存していた青酸を誤って口にした事故とする。</ref>。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある<ref>{{Harvnb|Hodges|1992|pp=488, 489}}</ref>。同僚によれば、映画『[[白雪姫]]』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという<ref>{{Harvnb|Leavitt|2007|p=140}}</ref>。


== 再評価 ==
== 再評価 ==
[[File:Turing Plaque.jpg|thumbnail|ウィルムズローのチューリング宅にある[[ブルー・プラーク]]]]
[[1974年]]夏、ブレッチレイ・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、[[王立協会]]が伝記を出版しており、以下のように記されている<ref name="frs"/>。

<blockquote>
3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、批判されていたころに何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、[[大英帝国勲章|OBE]]が授与された。
</blockquote>

1966年から[[Association for Computing Machinery|ACM]]は、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物に[[チューリング賞]]を授与している。これは、コンピュータ関係者の[[ノーベル賞]]と考えられている<ref>{{Cite web|url= http://www.acm.org/press-room/news-releases-2007/turingaward/|title=ACM'S Turing Award Prize Raised To $250,000|publisher=[[Association for Computing Machinery|ACM]] press release|date=27 July 2007|accessdate=2008-10-16|author=Steven Geringer}}</ref>。

[[1974年]]夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版<ref>{{ Citation | last = Winterbotham | first = F.W. | title = The Ultra secret: the inside story of Operation Ultra, Bletchley Park and Enigma | place = London | publisher = Orion Books Ltd | origyear = 1974 | year = 2000 | oclc = 222735270 | isbn = 9780752837512 }} 機密解除になる以前に関係者の記憶を元に書かれたノンフィクションで、若干正確性に欠ける。</ref>、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。

1986年、[[ヒュー・ホワイトモア]]の戯曲「[[ブレイキング・ザ・コード]]」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役は[[デレク・ジャコビ]]。ブロードウェイでの公演は[[トニー賞]]3部門にノミネートされている。

[[1998年]]6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の[[イングリッシュ・ヘリテッジ|英国遺産]]として[[ブルー・プラーク]](記念[[銘板]])をチューリングの生まれた病院であった[[ロンドン]]のウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた<ref>{{Cite web| url= http://www.turing.org.uk/bio/oration.html | title=Unveiling the official Blue Plaque on Alan Turing's Birthplace | accessdate=2006-09-26}}</ref><ref>{{Cite web| url= http://www.blueplaque.com/detail.php?plaque_id=348 | archiveurl= http://web.archive.org/web/20071013143212/http://www.blueplaque.com/detail.php?plaque_id=348 | archivedate=13 October 2007 | title=About this Plaque&nbsp;– Alan Turing | accessdate=2006-09-25}}</ref>。[[2004年]]6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された<ref>{{Openplaque|3276}}</ref>。

1999年、[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の「[[タイム100]]: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる<ref name=AFP/>。1999年の[[ニール・スティーブンスン]]の小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、[[セントビンセント・グレナディーン]]にて20世紀の偉人を集めた[[切手]]セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、[[BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第21位にランクインした<ref>{{Cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2208671.stm | title = 100 great British heroes | date = 21 August 2002 |work=BBC News }}</ref>。

晩年に働いていた[[マンチェスター]]では、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が ''"Alan Turing Way"'' と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。[[2001年]]6月23日(誕生日)には、[[マンチェスター大学]]に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。

[[File:Sackville Park Turing plaque.jpg|left|thumb|サックビル・パークの銅像に付随する銘板]]

この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、[[アイザック・ニュートン]]の万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' を[[エニグマ (暗号機)|エニグマ]]で暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。[[バートランド・ラッセル]]の言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古い[[アムストラッド]]製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている<ref name="computerburied">{{Cite news| title = Computer buried in tribute to genius | publisher=Manchester Evening News| date = 15 June 2001 | url = http://www.manchestereveningnews.co.uk/news/s/27/27595_computer_buried_in_tribute_to_genius.html | accessdate =2009-06-23 }}</ref>。

没後50年を記念して、[[2004年]]10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる<ref name="univsurrey">{{Cite web|url= http://portal.surrey.ac.uk/press/oct2004/281004a/ |title=The Earl of Wessex unveils statue of Alan Turing |accessdate= 2007-02-10 }}</ref>。

[[プリンストン大学]]の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングを[[ジェームズ・マディスン]]大統領に次ぐ偉大な卒業生だとしている。

2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。[[ウェールズ]]の[[粘板岩]]を多数使用したもので、億万長者の [[:en:Sidney Frank|Sidney Frank]] が彫刻家 [[:en:Stephen Kettle|Stephen Kettle]] に制作を依頼したものである<ref>[http://www.bletchleypark.org.uk/news/docview.rhtm/454075/article.html Bletchley Park Unveils Statue Commemorating Alan Turing], Bletchley Park press release, 20 June 2007</ref>。

2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された<ref>{{Cite news|author=Josh Halliday |url= http://www.guardian.co.uk/science/2011/feb/25/turing-papers-auction-bid-bletchley |title=Turing papers to stay in UK after 11th-hour auction bid at |work=The Guardian |location=UK |accessdate= 2011-05-29 |date=25 February 2011}}</ref>。

=== 政府による謝罪 ===
2009年8月、{{仮リンク|ジョン・グラハム=カミング|en|John Graham-Cumming}}がイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた<ref>{{Cite news|title=Thousands call for Turing apology |url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8226509.stm |publisher=BBC News |date=31&nbsp;August 2009 |accessdate= 2009-08-31}}</ref><ref>{{Cite news| title = Petition seeks apology for Enigma code-breaker Turing | url = http://www.cnn.com/2009/WORLD/europe/09/01/alan.turing.petition/index.html | publisher=CNN | date = 01&nbsp;September 2009 | accessdate =2009-09-01}}</ref>。これに対して数千の署名が集まった<ref name="PMapology"/><ref>請願活動はイギリス市民のみを対象として行われた。</ref>。
イギリス首相の[[ゴードン・ブラウン]]はこの請願を認め、[[2009年]]9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「ぞっとする (appalling)」と表現して<ref name = "PM-apology" /><ref name="PMapology">{{Cite news| title = PM's apology to codebreaker Alan Turing: we were inhumane | url = http://www.guardian.co.uk/world/2009/sep/11/pm-apology-to-alan-turing |work=The Guardian |location=UK| date = 11 September 2009 | first=Caroline | last=Davies}}</ref>、次のように声明を発表した。

<blockquote>
数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。<ref name="PMapology"/>
</blockquote>

2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい<ref name="BBBCPardon">{{Cite news| title = Petition to pardon computer pioneer Alan Turing started | url = http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-manchester-16061279 | date = 6 December 2011 | work=BBC News}}</ref>という電子請願を申請した<ref name="PardonPetition">{{Cite web| title = Grant a pardon to Alan Turing | url = https://submissions.epetitions.direct.gov.uk/petitions/23526 | date = 6 December 2011 |accessdate=2012-02-22}}</ref>。

この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した<ref name="PardonPetitionDenied">{{Cite web| title = Widespread Celebrations But No Pardon For Turing | url = http://www.i-programmer.info/news/82-heritage/3735-widespread-celebrations-but-no-pardon-for-turing.html | date = 6 February 2012 |accessdate=2012-02-22}}</ref>。


=== 各大学における顕彰 ===
[[1998年]]6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産として[[ブルー・プラーク]](記念[[銘板]])をチューリングの生家であった[[ロンドン]]のウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテル [http://www.turing.org.uk/bio/oration.html], [http://www.blueplaque.com/detail.php?plaque_id=348] に掲げた。
[[File:Alan Turing Building 1.jpg|thumbnail|マンチェスター大学のアラン・チューリング・ビルディング]]
その3年後の[[2001年]]6月23日には、[[マンチェスター]]のサックビル・パークに銅像が設置。
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で[[2004年]]6月5日にマンチェスター大学で行われた。
[[2004年]]6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家に、記念のプラークが設置された。同じく死去50年を記念して、同[[2004年]]10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大学 [http://portal.surrey.ac.uk/press/oct2004/281004a/] のキャンパス内に銅像が置かれる。


* [[エディンバラ大学]]情報学科には 'Turing Room' と呼ばれる部屋があり、[[エドゥアルド・パオロッツィ]]作の胸像がある。
[[Association for Computing Machinery|ACM]]は、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物に[[チューリング賞]]を授与している。これは、コンピュータ関係者の[[ノーベル賞]]と考えられている。
* [[サリー大学]]の主広場には銅像がある。
* [[:en:Istanbul Bilgi University|Istanbul Bilgi University]] では計算理論の会議が毎年開催されており、その期間を "Turing Days" と呼んでいる<ref name="bilgiuniv">{{Cite web| url = http://cs.bilgi.edu.tr/pages/turing_days/ | title = Turing Days @ İstanbul Bilgi University | accessdate =2011-10-29 }}</ref>。
* [[マンチェスター大学]]、[[オープン大学]]、[[オックスフォード・ブルックス大学]]、[[オーフス大学]]([[デンマーク]][[オーフス]])には、それぞれチューリングの名を冠した建物がある。
* [[オレゴン大学]]計算機科学科の建物のそばにはチューリングの胸像がある<ref name="Oregon">{{Cite web|url= http://www.mathcomp.leeds.ac.uk/turing2012/files/oregon.html|title=Turing at the University of Oregon|accessdate=2011-11-01 }}</ref>。
* [[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]]にはチューリングの名を冠した道路と広場(Chemin de Alan Turing と Place de Alan Turing)がある<ref name="epfl">{{Cite web|url= http://plan.epfl.ch/?zoom=20&recenter_y=5863918.36573&recenter_x=730628.82407&layerNodes=fonds,batiments,labels,information,parkings_publics,arrets_metro|title=Turing at the EPFL|accessdate= 2012-01-06 }}</ref>。


=== 生誕100周年 ===
2002年、[[BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第21位にランクインした。
生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を [[:en:Alan Turing Year|Alan Turing Year]] とし、一年を通して世界各地でチューリングの功績を称えるイベントを行う予定である。TCACには、[[マンチェスター大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[ブレッチリー・パーク]]などの関係者が協力しており、数学者の{{仮リンク|S・バリー・クーパー|en|S. Barry Cooper}}が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。


イベントはアメリカ、ブラジル、中国、チェコ、[[フィリピン]]、ニュージーランド、[[イスラエル]]、スペイン、スイス、[[ノルウェー]]、イタリア、[[ポルトガル]]、ドイツなど各国で予定されている。最大のイベントはマンチェスターで6月に開催予定の3日間の会議で、チューリングの数学や暗号解読における業績について議論する。[[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)]] でもチューリング100周年会議が開催される<ref>{{Cite web|url= http://m.guardian.co.uk/uk/2011/feb/23/northerner-alan-turing-centenary-celebrations?cat=uk&type=article |title=The Northerner: Alan Turing, computer pioneer, has centenary marked by a year of celebrations |publisher=M.guardian.co.uk |date=23 February 2011 |accessdate=2011-05-29}}</ref>。
2004年夏、[[:en:University of Manchester Institute of Science and Technology|マンチェスター工科大学]]と[[:en:Victoria University of Manchester|マンチェスター・ビクトリア大学]]はアラン・チューリング研究所を設立した。なお、マンチェスター工科大学とマンチェスター・ビクトリア大学は2004年10月に合併し、現在は[[マンチェスター大学]]となっている。


2012年初めにはイギリスでチューリングの切手を発行することが発表された<ref>{{Cite news|author=Caroline Davies |url= http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2012/jan/02/codebreaker-alan-turing-stamp-approval |title=Codebreaker Alan Turing gets stamp of approval &#124; Art and design |publisher=The Guardian |date= 2 January 2012|accessdate=2012-01-02}}</ref>。
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で[[2004年]]6月5日にマンチェスター大学で行われる。


== 脚注・出典 ==
[[2009年]]9月、イギリス首相の[[ゴードン・ブラウン]]は「彼の抜群の功績がなければ、第二次世界大戦の歴史は変わっていたと言っても過言ではない」「時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す」と声明を発表し、政府として正式な謝罪を表明した<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009091202000065.html 天才数学者 55年ぶり名誉回復 チューリングに英首相謝罪]</ref>。
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation| last = Alexander | first = C. Hugh O'D. | year = circa 1945 | title = Cryptographic History of Work on the German Naval Enigma | url = http://www.ellsbury.com/gne/gne-000.htm | publisher=The National Archives, Kew, Reference HW 25/1}}
# Hodges, Andrew, ''Alan Turing: The Enigma''. Simon & Schuster, 1983. ISBN 0-671-49207-1. Also: Walker Publishing Company, 2000.
* {{Citation| last = Copeland | first = B. Jack | title = Colossus: Its Origins and Originators | journal=[[:en:IEEE Annals of the History of Computing|IEEE Annals of the History of Computing]] | volume = 26 | issue = 4 | pages = 38–45 | year = 2004 |doi = 10.1109/MAHC.2004.26}}
# 『甦るチューリング -コンピュータ科学に残された夢 -』星野力(著)、NTT出版(2002年)、ISBN 4-7571-0079-5
* {{Citation| last = Copeland | first = B. Jack | title = Colossus: The secrets of Bletchley Park's code-breaking computers | year = 2006 | publisher=Oxford University Press | isbn = 978-0-19-284055-4 }}
* {{Citation| last = Gannon | first = Paul | title = Colossus: Bletchley Park's Greatest Secret | place = London | publisher = Atlantic Books | origyear = 2006 | year = 2007 | isbn = 078 1 84354 331 2 }}
* {{Citation| last = Hodges | first = Andrew | origyear = 1983 | year = 1992 | title = Alan Turing: the enigma |location = London | publisher=Burnett Books | isbn = 0-04-510060-8 | ref = harv }}
* {{Citation| last = Leavitt | first = David | year = 2007 | title = The man who knew too much: Alan Turing and the invention of the computer | publisher=Phoenix | isbn = 978-0-7538-2200-5}}
* {{Citation| last = Lewin | first = Ronald | title = Ultra Goes to War: The Secret Story | edition = Classic Penguin | series = Classic Military History | year = 1978 | publication-date = 2001 | publisher=Hutchinson & Co | location = London, England | isbn = 978-1-56649-231-7 }}
* {{Citation| last = Mahon | first = A.P. | title = The History of Hut Eight 1939–1945 | publisher=UK National Archives Reference HW 25/2 | year = 1945 | url = http://www.ellsbury.com/hut8/hut8-000.htm | accessdate =2009-12-10 | ref = harv }}
* {{Citation| editor-last = Oakley | editor-first = Brian | title = The Bletchley Park War Diaries: July 1939 — August 1945 | publisher = Wynne Press | year = 2006 | edition = 2.6 }}
* {{Citation| last = O'Connell | first = H | last2 = Fitzgerald | first2 = M | title = Did Alan Turing have Asperger's syndrome? | journal = Irish Journal of Psychological Medicine | volume = 20 | pages = 28-31 | publisher = Irish Institute of Psychological Medicine | date = 2003 | issn = 0790-9667 }}
* 『甦るチューリング -コンピュータ科学に残された夢 -』星野力(著)、NTT出版(2002年)、ISBN 4-7571-0079-5

== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
*{{Cite journal|title=The Mind and the Computing Machine: Alan Turing and others|journal=[[:en:The Rutherford Journal|The Rutherford Journal]]|url= http://www.rutherfordjournal.org/article010111.html |editor = Jack Copeland|ref=harv}}
# 『天才の栄光と挫折 数学者列伝』[[藤原正彦]](著)、[[新潮選書]]、2002年、[[文春文庫]]、2008年
*{{Cite encyclopedia|last=Hodges |first=Andrew |editor=Edward N. Zalta |encyclopedia=[[スタンフォード哲学百科事典|Stanford Encyclopedia of Philosophy]] |title=Alan Turing |url= http://plato.stanford.edu/entries/turing/ |accessdate=2011-01-10
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*{{Cite journal|last=Gray|first=Paul|date=29 March 1999|title=Computer Scientist: Alan Turing|journal=TIME|url= http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html|ref=harv}}
* Gleick, James, ''[[:en:The Information: A History, a Theory, a Flood|The Information: A History, A Theory, A Flood]]'', New York: Pantheon, 2011, ISBN 9780375423727
* Leavitt, David, ''The Man Who Knew Too Much: Alan Turing and the Invention of the Computer'', W. W. Norton, 2006
* 『天才の栄光と挫折 数学者列伝』[[藤原正彦]](著)、[[新潮選書]]、2002年、[[文春文庫]]、2008年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[チューリングマシン]]
*[[チューリングマシン]]
*[[チューリング・テスト]]
*[[チューリング・テスト]]
*[[チューリング次数]]
*[[チューリング・パターン]]
*[[チューリング・パターン]]
*[[計算機科学]]
*[[計算機科学]]
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{{refend}}
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== 外部リンク ==
==注釈==
<div class="references-small"><references /></div>

{{Commonscat|Alan Turing}}
{{Commonscat|Alan Turing}}
{{Wikiquote|en:Alan Turing|{{PAGENAME}}}}
*[http://www.turingcentenary.eu/ Alan Turing Year]
*[http://cie2012.eu/ CiE 2012: Turing Centenary Conference]
*[http://www.visualturing.org/ Visual Turing]
*[http://www.turing.org.uk/ Alan Turing] {{仮リンク|アンドリュー・ホッジス|en|Andrew Hodges}}の運営するサイト。[http://www.turing.org.uk/bio/part1.html short biography] もある。
*[http://www.alanturing.net/ AlanTuring.net&nbsp;– Turing Archive for the History of Computing] {{仮リンク|ジャック・コープランド|en|Jack Copeland}}
*[http://www.turingarchive.org/ The Turing Digital Archive] – ケンブリッジ大学キングス・カレッジ所有の出版されていない資料のスキャンなどがある。
*{{Cite journal|last=Jones|first=G. James|date=11 December 2001|title=Alan Turing – Towards a Digital Mind: Part 1|journal=System Toolbox|publisher=The Binary Freedom Project|url= http://www.systemtoolbox.com/article.php?history_id=3|ref=harv}}
*[http://www.sherborne.org/school/School_Archives/ Sherborne School Archives] – シャーボーン学校時代のチューリング関連資料がある。
*[http://openplaques.org/people/368 Alan Turing plaques] on openplaques.org
* {{SEP|turing/|Alan Turing}}

=== 論文 ===
* [http://bibnetwiki.org/wiki/Category:Alan_M._Turing_Paper チューリングの論文、報告書、講義、翻訳版など] BibNetWiki
* {{AcademicSearch|2612734}}
* {{Citation| last = Turing| first = Alan| year=1950| title = Computing Machinery and Intelligence| journal=[[:en:Mind (journal)|Mind]] | issn=0026-4423 | volume = LIX | issue = 236 | date=October 1950 | pages= 433–460 | url = http://loebner.net/Prizef/TuringArticle.html | doi=10.1093/mind/LIX.236.433 |accessdate=2008-08-18}}
* [http://conservancy.umn.edu/handle/107241 Oral history interview with Donald W. Davies], [[:en:Charles Babbage Institute|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota
* [http://conservancy.umn.edu/handle/107493 Oral history interview with Nicholas C. Metropolis], [[:en:Charles Babbage Institute|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota

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[[Category:イングランドの数学者]]
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2012年2月22日 (水) 15:09時点における版

アラン・チューリング
ファイル:Alan Turing Crop.jpg
生誕 Alan Mathison Turing
(1912-06-23) 1912年6月23日
イギリスの旗 イギリス・ロンドン・
メイダヴェール英語版
死没 1954年6月7日(1954-06-07)(41歳没)
イギリスの旗 イギリス・チェシャー・
ウィルムズロー英語版
居住 イギリスの旗 イギリス
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 数学暗号解読計算機科学
研究機関 ケンブリッジ大学
政府通信本部
国立物理研究所 (イギリス)
マンチェスター大学
出身校 キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)
プリンストン大学
博士課程
指導教員
アロンゾ・チャーチ
博士課程
指導学生
ロビン・ガンディー英語版
主な業績 停止性問題
チューリングマシーン
エニグマの暗号解読英語版
ACE (コンピュータ)
チューリング賞
チューリング・テスト
チューリング・パターン
主な受賞歴 大英帝国勲章
王立協会フェロー[1]
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
マンチェスターのサックビル・パークにあるアラン・チューリングの銅像

アラン・チューリングAlan Mathison Turing, 1912年6月23日 - 1954年6月7日)はイギリス数学者論理学者、暗号解読者、計算機科学者。

略歴

チャーチ=チューリングのテーゼのチューリング版として広く認識されているチューリングマシンで「アルゴリズム」と「計算」の概念を定式化し、計算機科学の発展に大きな影響を及ぼし、またコンピュータの誕生に重要な役割を果たした[2][3]。計算機科学および人工知能の父と言われている[4]。がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあった[5]アスペルガー症候群を暗示する特徴の多くを示しているとの指摘もある[6]

第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校でドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツの暗号機エニグマの設定を見つけるための機械 bombe を開発した。

戦後、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE(Automatic Computing Engine)に携わったが、実際に製作されるには至らなかった。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事[7]数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き[8]、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。

1952年、同性愛の罪で逮捕。保護観察の身となり、ホルモン療法を受ける。1954年、死去。42歳の若さであった。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。

2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相ゴードン・ブラウンが戦後のイギリス政府のチューリングへの仕打ちについて公式に謝罪した[9]

生涯

出生から大学進学まで

母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠[10][11]。父のジュリアス・チューリングはインド高等文官の1人で、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えロンドンのメイダヴェールに戻り[12]、1912年6月23日にアランが誕生。生まれた病院(現在はホテル[10])にはそれを記念したブループラークがある[13][14]

父の任期が続いていたため、幼年期に両親はインドとイギリスのヘイスティングス[15]を行ったり来たりする生活を送り、アランと兄のジョンはイギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚え、数字に強くパズルが非常に得意だったと、幼年期に天才の片鱗を見せ始める[16]

6歳でセント・マイケルズ学校に入学、担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。1926年、14歳でシャーボーン学校に入学。登校初日がゼネスト予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された[17]

シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは主に数学と科学に才能を発揮した。校長は両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは時間の無駄です」[18]という手紙を書くなど、数学と科学への興味は、シャーボーンの教師たちとは合わなかった。

このようなことがあっても、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年にもっと難しい問題を解いていた。1928年アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れた16歳でその内容を理解しただけでなく、明記されていなかったニュートン力学についてのアインシュタインの疑問を外挿したという[19]

親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため[20]牛結核症を患って、モルコムは死去(1930年2月13日)[21]。この出来事からチューリングは無神論者になった。脳の働きなどの現象唯物論的に解釈するようになったが[22]、心のどこかで死後の生を信じていたという[23]

大学時代と計算可能性についての研究

キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている

数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったため、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学金を受けられず、第二希望のケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業、1935年中心極限定理を証明した論文が認められてキングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた[24]。ただし、中心極限定理は1922年に Lindeberg が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった[25]

1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは「決定問題」への注目を呼びかけた。重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)[26]で、チューリングマシンという概念を導入する事でアルゴリズムの概念を定式化し、1931年ゲーデルが発表した不完全性定理を別の形式で公式化した。

チューリングマシンは現在のコンピュータを先取りした概念で、今日から見ればコンピュータを抽象化したものであるともいえる。この論文でまず、チューリングマシンを適切に設計すれば、いかなるアルゴリズムもチューリングマシンで実行可能である事を証明した。(万能チューリングマシン。今日でいうノイマン型コンピュータの理論的背景。)そしてこの事実を使い、「与えられたアルゴリズムが有限時間で停止するか?」という問題(停止性問題)を完全解決する事は不可能である事を示し、コンピュータが実現されないうちに、コンピュータの理論的限界を示した。この証明はアロンゾ・チャーチラムダ算法による同等の証明の直後に発表されたが、チューリングはそのことを当時知らず[27]、チューリングの論文のほうがずっとわかりやすく直感的であった。チューリングのこの論文ではまた決定可能数の記述法も導かれた。成果と前後して「アルゴリズム」の概念が様々な方法で定式化されたが、それらは全て同値である事が後に示しチャーチの提唱)「アルゴリズム」の概念に最初に定式化を与えた人物の一人であるといえる。

チューリングマシンの停止判定不可能の証明は、コンピュータにはできないことがあることを示している。例えば、万能ウィルス発見プログラムは作れないし、プログラムが盗作かどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。同様にプログラムにバグがあるかどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。このことは、無駄なソフトウェア開発を防ぐという意味で有意義であった。

1936年9月から1938年7月にかけてプリンストン高等研究所においてアロンゾ・チャーチに師事し、1938年、プリンストンで博士号を得ている。博士論文[28]では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中でチューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している[29]。またこの時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンはアメリカに残ることを勧めたという。

1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタイン数学基礎論という講義に参加[30]。ウィトゲンシュタインの数学批判(数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している)に対して、形式主義を擁護する立場を取った[31]

暗号解読

ブレッチリー・パーク内のこの建物で1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。

第二次世界大戦中、チューリングはブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズ英語版は次のように述べている。

たぐいまれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングはまさにその天才だった。[32]

第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこでディリー・ノックス英語版と共にエニグマの解読に集中した[33]。その少し前の1939年7月、ポーランドの暗号局 (en) とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスはその情報を元にして問題にアプローチしようとしていた[34]。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe の機能仕様に盛り込まれていた。

1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した[35]。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。

ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた[36][37]。同僚の暗号解読者ジャック・グッド英語版はチューリングについて次のように述べている。

6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。[38]

ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは約 64km を走ったという[39]。タイムは世界レベルのマラソン記録に匹敵していたという[40]

1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえにブレッチレイ・パークから一歩外に出ればチューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に彼女は却って落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからはその功績を知らない世間から公然と辱めを受けることとなる(後述)。

チューリングとウェルチマンの bombe

ブレッチリー・パークに展示されている完全動作する bombe のレプリカ

ブレッチリー・パークに到着して数週間後[35]、ポーランドの bomba kryptologiczna よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者ゴードン・ウェルチマン英語版の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。

ジャック・グッドは次のように述べている。

チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するにやや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、全てを推論できる。[41]

bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ平文に存在が推定される単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 1019、4ローターのUボート版では 1022)ごとに[42]、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された[43]。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた[44]

Hut 8 と海軍のエニグマ

ブレッチリー・パークにあるチューリングの石像[45]

チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた[46]。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった[46][47]。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドsequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」[46] このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。

1941年、チューリングは Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した[48]

1942年11月にはアメリカを訪れ[49]、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、ベル研究所では英米間の盗聴されない音声通信手段の確立に従事した[50]。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレクサンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。

アレクサンダーは次のように書いている。

チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。[51]

Turingery

1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案[52]。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである[53]。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した[54]。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが[55]、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない[56]

セキュアな音声通信

アメリカのベル研究所での仕事を発展させ[57]、電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘匿音声通信装置 Delilah を設計・構築[58]。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった[59]。チューリングはベル研究所の同様のSIGSALY開発のコンサルタントもしており、こちらは終戦前に実際に使われた実績がある。

初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト

1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み[60]イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE(Automatic Computing Engine)の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している[61]フォン・ノイマンFirst Draft of a Report on the EDVAC はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している[62]。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した Pilot ACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。

1948年、マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、「計算機構と知能」(1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである[63]。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。

1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている[64]。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の奥さんにはプログラムが勝利している。

チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた[65]

1948年にはLU分解も考案しており、今でも方程式行列の解法として使われている[66]

形態形成と数理生物学に関する仕事

1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に形態形成について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表、形態形成について仮説を提唱した[67]。この分野での関心は、フィボナッチの葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れるフィボナッチ数の存在である。これに反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である[68]

同性愛の告発

Anthony Cave Brown の著書 "C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。

ミンギス[69]は、チューリングをブレッチリーで雇用した直後から彼が長年の積極的な同性愛者だと知っていた。しかし、ブレッチリーの同僚にちょっかいを出すこともなく、ミンギスの部下の中では唯一「不可欠」と呼べる男だったので、そのまま雇っていた… 1944年初め、ブレッチリーに程近い大きな工業都市ルートンの公立図書館で男子生徒がいたずらされるという事件があり、チューリングが犯人ではないかと疑われた。全く記録には残っていないが、秩序と風紀を保つには彼を排除するしかないという決定がなされた。しかし、それも彼が素晴らしい仕事を完了してからのことである。[70]

1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている[71]

間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり[72]、2人とも逮捕された[73]

チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた[74]

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった[75]。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された[76]

1954年6月8日、清掃業者がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったのかの分析はなされなかったが[77]、部屋には青酸の瓶が多数あった。死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された[78]。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している[79]。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある[80]。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという[81]

再評価

ウィルムズローのチューリング宅にあるブルー・プラーク

チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている[2]

3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、批判されていたころに何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。

1966年からACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にチューリング賞を授与している。これは、コンピュータ関係者のノーベル賞と考えられている[82]

1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版[83]、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。

1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた[84][85]2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された[86]

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる[3]。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした[87]

晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が "Alan Turing Way" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。

サックビル・パークの銅像に付随する銘板

この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている[88]

没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる[89]

プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディスン大統領に次ぐ偉大な卒業生だとしている。

2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズ粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである[90]

2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された[91]

政府による謝罪

2009年8月、ジョン・グラハム=カミングがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた[92][93]。これに対して数千の署名が集まった[94][95]。 イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「ぞっとする (appalling)」と表現して[9][94]、次のように声明を発表した。

数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。[94]

2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい[96]という電子請願を申請した[97]

この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した[98]

各大学における顕彰

マンチェスター大学のアラン・チューリング・ビルディング

生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。

生誕100周年

生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Year とし、一年を通して世界各地でチューリングの功績を称えるイベントを行う予定である。TCACには、マンチェスター大学ケンブリッジ大学ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のS・バリー・クーパー英語版が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。

イベントはアメリカ、ブラジル、中国、チェコ、フィリピン、ニュージーランド、イスラエル、スペイン、スイス、ノルウェー、イタリア、ポルトガル、ドイツなど各国で予定されている。最大のイベントはマンチェスターで6月に開催予定の3日間の会議で、チューリングの数学や暗号解読における業績について議論する。キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学) でもチューリング100周年会議が開催される[102]

2012年初めにはイギリスでチューリングの切手を発行することが発表された[103]

脚注・出典

  1. ^ "Turing; Alan Mathison (1912 - 1954)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧
  2. ^ a b doi:10.1098/rsbm.1955.0019
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  3. ^ a b Gray, Paul (29 March 1999). “Alan Turing – Time 100 People of the Century”. Time Magazine. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,990624,00.html. "The fact remains that everyone who taps at a keyboard, opening a spreadsheet or a word-processing program, is working on an incarnation of a Turing machine." 
  4. ^ Homer, Steven and Alan L. (2001). Computability and Complexity Theory. Springer via Google Books limited view. p. 35. ISBN 0-3879-5055-9. http://books.google.com/?id=r5kOgS1IB-8C&pg=PA35 13 May 2011閲覧。 
  5. ^ Garner, Alan (12 November 2011), “My Hero: Alan Turing”, Saturday Guardian Review: p. 5, http://www.guardian.co.uk/books/2011/nov/11/alan-turing-my-hero-alan-garner 2011年11月23日閲覧。 
  6. ^ O'Connell & Fitzgerald 2003, pp. 28–31
  7. ^ Leavitt 2007, pp. 231–233
  8. ^ Turing, A. M. (1952). “The Chemical Basis of Morphogenesis”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London, series B 237 (641): 37–72. doi:10.1098/rstb.1952.0012. 
  9. ^ a b “PM apology after Turing petition”. BBC News. (11 September 2009). http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8249792.stm 
  10. ^ a b Hodges 1992, p. 5
  11. ^ The Alan Turing Internet Scrapbook”. Turing.org.uk. 2012年1月2日閲覧。
  12. ^ London Blue Plaques”. English Heritage. 2009年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月10日閲覧。
  13. ^ Plaque #381 on Open Plaques.
  14. ^ The Alan Turing Internet Scrapbook”. 2006年9月26日閲覧。
  15. ^ Hodges 1992, p. 6
  16. ^ Jones, G. James (11 December 2001). “Alan Turing – Towards a Digital Mind: Part 1”. System Toolbox. 2007年7月27日閲覧。
  17. ^ Hofstadter, Douglas R. (1985). Metamagical Themas: Questing for the Essence of Mind and Pattern. Basic Books. ISBN 0-465-04566-9. OCLC 230812136 
  18. ^ Hodges 1992, p. 26
  19. ^ Hodges 1992, p. 34
  20. ^ Teuscher, Christof (ed.) (2004). Alan Turing: Life and Legacy of a Great Thinker. Springer-Verlag. ISBN 3-540-20020-7. OCLC 53434737 62339998 
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参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

論文

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