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「蒲原鉄道線」の版間の差分

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m 車両: 阿南キハ101は両運転台車
加茂延長
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[[ファイル:Gosen kantetsu 20040905.jpg|220px|thumb|none|[[五泉駅]]3番線脇に残る蒲原鉄道線の跡。駅から右手に延びる築堤が廃線跡]]
[[ファイル:Kambara-cMc71-Tc10.jpg|220px|thumb|none|五泉市内で保管の[[武蔵野鉄道デハ1320形電車#蒲原鉄道|モハ71]]と[[国鉄キハ04形気動車#キハ41000形・キハ04・05形が譲渡された鉄道|クハ10]]。木造の雨除けは[[村松駅 (新潟県)|村松駅]]のホーム上屋を移築したものである]]
[[ファイル:Muramatsu Bus Terminal.jpg|220px|thumb|none|村松駅(廃線後バスターミナルとしての姿)]]
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'''蒲原鉄道線'''(かんばらてつどうせん)は、かつて[[蒲原鉄道]]が運営していた、[[新潟県]][[加茂市]]の[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]]から[[中蒲原郡]][[村松町]](現・[[五泉市]])を経由して五泉市の[[五泉駅]]までを結んでいた[[鉄道路線]]である。
'''蒲原鉄道線'''(かんばらてつどうせん)は、かつて[[蒲原鉄道]]が運営していた、[[新潟県]][[加茂市]]の[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]]から[[中蒲原郡]][[村松町]](現・[[五泉市]])を経由して五泉市の[[五泉駅]]までを結んでいた[[鉄道路線]]である。'''蒲鉄線'''(かんてつせん)とも称された<ref name="saitoh1998_1">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) pp.161 - 162</ref><ref group="注釈">後述の通り、路線縮小以前の蒲原鉄道線においては村松を境に運行系統が分断されていたことから、加茂 - 村松間が「加茂線」、村松 - 五泉間が「村松線」ともそれぞれ通称された。</ref>

[[1985年]]春を以って加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間を結ぶ、僅か4.2kmのミニ路線として知られていたが、[[1999年]]秋に全線が[[廃線|廃止]]された。
[[1985年]](昭和60年)4月に加茂 - [[村松駅 (新潟県)|村松]]間が廃止となり、村松 - 五泉間を結ぶ延長4.2kmの短距離路線<ref group="注釈">[[1998年]](平成10年)当時において、単独の鉄道路線における延長4.2kmは、[[紀州鉄道線]]の延長2.7kmに次ぐ短距離路線であった。</ref>として知られていたが、[[1999年]](平成11年)10月に全線が[[廃線|廃止]]された。


== 路線データ ==
== 路線データ ==
(加茂 - 村松間廃止直前のデータを示す)
(加茂 - 村松間廃止直前のデータを示す)
*路線距離([[営業キロ]]):21.9km
*路線距離([[営業キロ]]):21.9km
*[[軌間]]:1067mm
*[[軌間]]:1,067mm
*駅数(起終点駅を含む):15駅
*駅数(起終点駅を含む):15駅
*複線区間:なし(全線[[単線]])
*複線区間:なし(全線[[単線]])
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 計画立案から開業まで ===
*[[1922年]](大正11年)[[9月22日]] '''蒲原鉄道'''設立
[[村松藩]]3万石の藩庁・[[村松城]]の城下町で、また[[大日本帝国陸軍]][[歩兵第30連隊]]の駐屯地を擁する軍都でもあった中蒲原郡村松町は、蒲原地方における政治・物流の中心地として古くより繁栄した地域であった<ref name="terada1990_1">『日本のローカル私鉄』 (1990) pp.100 - 101</ref>。しかし、村松町は近隣に敷設された[[北越鉄道]](現・[[信越本線]]の一部)および岩越鉄道(現・[[磐越西線]])のルート選定に際して、いずれの敷設ルートからも外れたことから、同町内にも鉄道路線を敷設したいとする地元有志の要請が高まり<ref name="saitoh1998_1" />、また陸軍側からも物資輸送に供する目的で鉄道敷設を要望された<ref name="seko1962_1">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) pp.31 - 32</ref>。それらを受ける形で、中蒲原郡[[川内村 (新潟県)|川内村]]において白滝鉱山を保有する日本電気製鉄の社長職にあった元[[鉄道省]]運輸局長の朝比奈林之助を中心とした発起人40名で<ref name="saitoh1998_1" /><ref name="terada1990_1" />、磐越西線五泉駅より村松町を経由して川内村に至る路線を第一期開業区間、ならびに村松町より分岐して信越本線加茂に至る路線<ref group="注釈">従来は[[新津駅]]を経由しての大回りを強いられた五泉 - 加茂間を短絡・直結する路線として計画されたルートであった。</ref>を第二期開業区間として、[[1919年]]([[大正]]8年)7月に第一期開業区間について敷設免許を申請し<ref name="saitoh1998_1" />、翌[[1920年]](大正9年)1月29日付で免許された<ref name="saitoh1998_1" />。
*[[1923年]](大正12年)[[10月20日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 開業
*[[1930年]](昭和5年)[[7月22日]] 東加茂 - 村松間 (15.2km) 延伸開業
*1930年(昭和5年)[[10月20日]] 加茂 - 東加茂間 (2.5km) 全線開通
*[[1984年]](昭和59年)[[2月1日]] 全線の貨物営業廃止
*[[1985年]](昭和60年)[[4月1日]] 加茂 - 村松間 (17.7km) 廃止
*[[1999年]](平成11年)[[10月4日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 廃止により全線廃止、同社の路線バスに転換
<!---営業運転の最終日の次の日が廃止日です!--->


しかし、敷設免許が下りた同時期には、[[第一次世界大戦]]終戦に伴う[[戦後恐慌]]によって鉄価格が暴落したことから<ref name="seko1962_1" />、[[鉄鉱石]]を産出する白滝鉱山も事業縮小を余儀なくされた<ref name="saitoh1998_1" />。その結果、第一期開業予定区間のうち、白滝鉱山から産出される鉄鉱石輸送を主眼として計画された村松町 - 川内村間については建設計画を白紙化し<ref name="seko1962_1" />、五泉 - 村松間を第一期開業区間とするよう計画を変更した<ref name="saitoh1998_1" />。その後、村松駅の設置箇所を巡って発起人間で対立が生じ、会社設立に伴う株式募集に際して証拠金払込を拒否する発起人も現れる事態を招いたが<ref name="saitoh1998_1" />、最終的に証拠金払込を拒否した発起人を除名することで事態の収拾を図り、[[1922年]](大正11年)9月22日に蒲原鉄道株式会社が設立された<ref name="saitoh1998_1" />。
村松 - 五泉間は磐越西線の経路から外れた村松の町と同線を結ぶ目的で開業した。なお、村松 - 五泉間は新潟県内の鉄道路線で初めての電化区間である。


翌[[1923年]](大正12年)3月18日より建設が開始され、同年10月20日に五泉 - 村松間 (4.2km) が開業した<ref name="saitoh1998_1" /><ref group="注釈">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) においては同区間の開業日を10月10日としている。</ref>。軌間1,067mmの電化路線(直流600V・[[架空電車線方式]])として開業した蒲原鉄道線は、新潟県下における初の電化路線であった<ref name="terada1990_1" />。村松町 - 川内村間の建設はその後断念され、[[1927年]](昭和2年)3月31日に村松 - 加茂間の第二期開業区間の敷設免許を取得<ref name="saitoh1998_1" />、しかし[[昭和金融恐慌]]の時期でもあり資金調達に苦労したが金津村の石油王中野忠太郎の助力により解決できた<ref name=sigaku>「新潟県鉄道のあゆみ」 2005年、63頁</ref><ref group="注釈">蒲原鉄道の社長にもなった中野忠太郎については[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025635/195 『越・佐傑人譜. 昭和14年度版』](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。[[1930年]](昭和5年)7月22日<ref name="seko1962_1" />に村松 - [[東加茂駅|東加茂]]間 (15.2km) が、同年10月20日<ref name="seko1962_1" />には東加茂 - 加茂間 (2.5km) がそれぞれ開通し、五泉 - 加茂間 (21.9km) の全線が開通した。
== 車両 ==
{{Main|蒲原鉄道の車両形式}}
1999年の全線廃止時まで使用されていたのはモハ31・モハ41・モハ61・モハ71・クハ10・ED1の6両である。


=== 電車 ===
=== 開業後 ===
開業当初の[[停車場]]は五泉・村松・[[西村松駅|西村松]]・[[大蒲原駅|大蒲原]]・[[七谷駅|七谷]]・東加茂の6箇所で、西村松を除く5駅はいずれも列車交換設備を有した<ref name="seko1962_1" />。また、加茂駅は[[鉄道省]]の管理駅(停車場)であった<ref name="seko1962_1" />。その他停留所が[[今泉駅 (新潟県)|今泉]]・[[寺田駅 (新潟県)|寺田]]・[[高松駅 (新潟県)|高松]]・[[土倉駅|土倉]]・[[冬鳥越駅|冬鳥越]]・[[狭口駅|狭口]]・[[駒岡駅|駒岡]]・[[陣ヶ峰駅|陣ヶ峰]]の8箇所開設され<ref name="seko1962_1" />、駅(停車場・停留所)の改廃は路線廃止時以外においては行われなかった<ref name="saitoh1998_1" /><ref name="terada1990_1" />。貨物列車の省線への受け渡しは五泉駅を介して行われ<ref name="seko1962_1" />、蒲原鉄道線内を発着する貨物・小荷物類は、蒲原鉄道線(会社線)を表す「社」の文字を付した「(社)五泉」発着扱いで運行された<ref name="seko1962_1" />。
;デ1形 (1・2)
:開業時の新造車。東急([[目黒蒲田電鉄]])モハ1のスケッチと考えられる11m車。デ1は1952年にモハ31に改造名義で廃車、車体は村松で詰所に、台車はデ101→モハ21に転用。デ2は[[1952年]]の一斉改番でモハ1と改番、1959年に廃車、車体は同じく村松で詰所に、台車はモハ13→モハ51に転用。廃線時まで村松に残っていた木造廃車体はこの形式のもの。
;モハ11形 (11 - 13)
:加茂延伸時の増備車。13は後にモハ51形に改造されている。12はワンマン運転対応改造がされていた。1985年の部分廃止時に廃車。
;モハ21形
:戦後の車両不足の時期に大手私鉄が供出した車両で、[[1947年]]に[[各務原鉄道KB1形電車|名古屋鉄道モ450形]]455を譲受しデ101とした。1952年にモハ21に改番、翌年にはデ1の[[ブリル]]製台車に交換した。[[1979年]]の廃車まで木造車体をとおした。
;モハ31形
:手持ち機器を流用した新造車。正面2枚窓。ワンマン運転対応改造車。
;モハ41形
:側扉がモハ31形の2扉に対し3扉となっている以外はモハ31形と同様の新造車。ワンマン運転対応改造車。
;モハ51形
:モハ10形13の車体にモハ1形の機器を組み合わせたもの。1985年の部分廃止時に廃車。
;モハ61形
:元[[西武鉄道|西武]][[武蔵野鉄道クハ5855形電車|クハ1231形]]。1958年譲受。ワンマン運転対応改造車。
;モハ71形
:元西武[[武蔵野鉄道デハ1320形電車|クハ1211形]]。1965年譲受。ワンマン運転対応改造車。
;モハ81形
:元[[越後交通長岡線]]3000形。1985年の部分廃止時に廃車。
;モハ91形
:元[[山形交通三山線]]モハ106。1985年の部分廃止時に廃車。
;クハ10形
:元[[日本国有鉄道|国鉄]][[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]。1950年譲受。全線廃止まで朝のラッシュ時に使用。


第一期開業区間である五泉 - 村松間は通勤・通学需要が高く、輸送密度も高水準で推移したものの<ref name="seko1962_1" />、第二期開業区間である村松 - 加茂間については沿線人口が希薄であったことから開業当初より苦しい運営を強いられた<ref name="seko1962_1" />。また、路線敷設目的の一つであった五泉 - 加茂間の連絡用途については期待されたほどの需要がなかったことから<ref name="terada1990_1" />、運行系統は村松を境に事実上分断された<ref name="saitoh1998_1" />。五泉 - 加茂間直通列車の設定はあったものの、村松において時間調整のため30分以上の停車を強いられるなど<ref name="seko1962_1" />、直通列車として機能しているとは言い難い状態であった<ref name="seko1962_1" />。また貨物輸送については、主な出荷物が[[米|米穀]]であったことから、米穀の出荷時期である秋季を除いて需要は低迷した<ref name="seko1962_1" />。年間輸送量は最盛期においても10万[[トン|t]]程度に留まり<ref name="terada1990_2">『日本のローカル私鉄』 (1990) p.102</ref>、[[1957年]](昭和32年)以降定期貨物列車の運用は消滅した<ref name="terada1990_2" />。
=== 客車 ===
;ハ1形
:[[1927年]][[京浜電気工業]]でハニ1として製造された木造ダブルルーフ単車。[[1948年]]荷物室撤去でハフ1、1952年の改番でサハ1、1957年の再改番でハ1となった。
;ハ2形
:元[[阿南鉄道]]キハ101([[1930年]][[雨宮製作所]]製)で本来は両運転台・半鋼製車体の4輪ガソリンカー。国鉄買収によりキハ4530となった後、[[1944年]]に譲受しクハ1とした。1957年に運転台を撤去しハ2とした。


[[1961年]](昭和36年)8月<ref name="seko1962_2">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) p.38</ref>当時における[[ダイヤグラム|運行ダイヤ]]は、五泉 - 村松間28往復、村松 - 加茂間14往復で、加えて東加茂発村松行の不定期列車が1本設定されていた<ref name="seko1962_1" />。所要時分は五泉 - 村松間が8分(表定速度31.5km/h)、村松 - 加茂間17.7kmが42分30秒(表定速度25km/h)であった<ref name="seko1962_1" />。その他、不定期の貨物列車が設定されていた。
=== 電気機関車 ===

;ED1形 (ED1)
また蒲原鉄道線は[[自然災害]]とも無縁ではなく、[[1963年]](昭和38年)1月の「[[昭和38年1月豪雪|三八豪雪]]」においては全線が約1ヶ月間にわたって不通となり<ref name="saitoh1998_1" />、また[[1967年]](昭和42年)8月の「[[羽越豪雨]]」<ref name="terada1990_1" />と[[1969年]](昭和44年)8月の「加茂市水害<ref name="kamo-suigai">[http://www.jma-net.go.jp/niigata/menu/bousai/heavyrain.shtml 新潟県の大雨災害] - [[新潟地方気象台]]公式 2012-04-04閲覧</ref>」<ref name="saitoh1998_1" />の二度にわたって[[水害]]に見舞われ、道床流出など全線で甚大な被害を蒙った<ref name="saitoh1998_1" />ものの、その都度復旧工事が行われた。
:加茂延伸時に[[日本車輌製造|日本車輌]]で新造された[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]風の凸形機関車。貨物営業廃止後は除雪に使用。

=== 路線縮小 ===
1960年代後半以降の日本国内において、[[自家用自動車|自家用車]]の普及に伴う車社会化([[モータリゼーション]])の進展から利用客が急激に減少し、経営が困難となる地方私鉄路線が数多く現れたが、蒲原鉄道線もまたその例外ではなく、1967年(昭和42年)度をピークに利用客数が減少に転じた<ref name="saitoh1998_1" />。特に元より沿線人口が希薄であった村松 - 加茂間のいわゆる「加茂線<ref name="saitoh1998_1" />」区間においてそれが顕著に現れ<ref name="saitoh1998_1" />、経営的に負担となりつつあったことから、蒲原鉄道線においては一部停車場における交換設備の撤去や、駅員の常駐廃止・[[無人駅]]化など、人員ならびにコスト削減を実施した<ref name="saitoh1998_1" />。さらに[[1978年]](昭和53年)10月より、朝夕[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]に運行される列車を除く全列車について、新潟県下の鉄道路線においては初となる[[ワンマン運転]]方式を導入するなど経営合理化に努めた<ref name="terada1990_1" />。

しかし、利用客の減少は止まらず、[[1981年]](昭和56年)度における利用者数はピーク時の約3割にまで激減した<ref name="saitoh1998_1" /><ref group="注釈">[[1965年]](昭和40年)度における蒲原鉄道線の運輸成績は[[輸送密度]]1,993人/日・[[営業係数]]96であったが、「加茂線」区間廃止前年の1984年(昭和59年)度の段階においては輸送密度564人/日・営業係数136と大幅に悪化していた。</ref>。前述「加茂線」区間については、路線延長は蒲原鉄道線全体の約8割を占めるにも関わらず、利用者数は全体の約3割程度であったことから<ref name="saitoh1998_1" />、同区間については鉄道線としての存続を断念し、[[路線バス|バス]]への転換が決定された<ref name="saitoh1998_1" />。同区間と併行する[[国道290号]]の拡幅改良工事完了を機に、[[1985年]](昭和60年)4月1日付で村松 - 加茂間 (17.7km) が廃止され<ref name="terada1990_1" />、蒲原鉄道線は第一期開業区間に相当する五泉 - 村松間 (4.2km) のみに縮小された。

なお、末期においては五泉 - 村松間に1往復の不定期運用が設定されているに過ぎなかった貨物輸送<ref name="saitoh1998_2">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.166</ref>については、[[1984年]](昭和59年)2月1日に実施された[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]に際して五泉駅の貨物取り扱いが廃止されたことに伴って、同日付で廃止となった<ref name="saitoh1998_2" />。

=== 全線廃止 ===
路線縮小後の蒲原鉄道線は、五泉 - 村松間に1日26往復(平日)の列車が設定され<ref name="saitoh1998_3">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) pp.163 - 164</ref>、朝の通勤・通学時間帯に1往復運行される2両編成の[[車掌]]乗務列車を除いて、全列車とも[[列車#日本における列車|単行列車]]によるワンマン運転が行われた<ref name="saitoh1998_3" />。

閑散区間であった村松 - 加茂間を廃止したことで、一時的に輸送密度・営業係数とも改善した蒲原鉄道線であったが<ref name="terada1990_1" />、利用客の自家用車ならびに[[原動機付自転車|ミニバイク]]へのシフトは止まらず<ref name="saitoh1998_4">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.167</ref>、年間輸送人員は[[1990年]](平成元年)度・[[1991年]](平成2年)度の2年間のみわずかに微増傾向を示したものの<ref name="saitoh1998_3" />、以降年々減少の一途を辿った<ref name="saitoh1998_3" />。[[1996年]](平成7年)度の輸送密度は860人/日で<ref name="saitoh1998_3" />、路線縮小初年度の1985年(昭和60年)度の1,554人/日<ref name="terada1990_1" />と比較して4割以上減少した。加えて同時期には軌道・施設や運行車両の老朽化が深刻な状況となった<ref name="saitoh1998_4" />。特に全車とも主要機器の経年が70年を超過した運行車両については物理的な寿命を迎えつつあり<ref name="saitoh1998_4" />、各種施設の改修ならびに運行車両の早急な代替を実施する必要に迫られた<ref name="terada2000_1">『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.26 - 27</ref>。

以上の状況を鑑み、蒲原鉄道は蒲原鉄道線の存続断念ならびにバス転換を決定し<ref name="terada2000_1" />、1999年(平成11年)3月31日限りでの路線廃止を沿線自治体である五泉市側に通告した<ref name="terada2000_1" />。しかし五泉市は廃止に反対の立場を表明し、合意に至らなかったことから存廃は一旦宙に浮いた状態となった<ref name="terada2000_1" />。その後五泉市が廃止を了承、1999年(平成11年)6月に代行バスの概要が決定し、同年9月には[[運輸省]](現・[[国土交通省]])の運輸審議会において蒲原鉄道線の廃止が許可され、同年10月4日付で全線廃止となった<ref name="terada2000_1" /><ref name="miyawaki9_1">『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) p.78</ref>。

なお、区間縮小ならびに全線廃止に際しての代替交通機関については「[[蒲原鉄道#路線]]」を参照されたい。

=== 年表 ===
* 1920年(大正9年)[[1月29日]] 朝比奈林之助を中心とした発起人40名により申請された、五泉駅 - 村松町 - 川内村間の敷設免許
* 1922年(大正11年)[[9月22日]] '''蒲原鉄道'''設立
* 1923年(大正12年)[[10月20日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 開業
* 1927年(昭和2年)[[3月31日]] 村松 - 加茂間敷設免許
* 1930年(昭和5年)[[7月22日]] 東加茂 - 村松間 (15.2km) 延伸開業
* 1930年(昭和5年)10月20日 加茂 - 東加茂間 (2.5km) 延伸開業により全線開通
* 1978年(昭和53年)[[10月1日]] ワンマン運転開始
* 1984年(昭和59年)[[2月1日]] 貨物営業廃止
* 1985年(昭和60年)[[4月1日]] 加茂 - 村松間 (17.7km) 廃止
* 1999年(平成11年)[[10月4日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 廃止により全線廃止


== 駅一覧 ==
== 駅一覧 ==
* 全駅[[新潟県]]内に存在した。所在地の市町村名接続路線の事業者名は当該区間廃止当時のの。
* 全駅[[新潟県]]内に存在した。所在地の市町村名ならびに接続路線の事業者名は当該区間廃止当時の名称で記す<ref group="注釈">1987年(昭和62年)4月1日[[国鉄分割民営化]]に際して、信越本線は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が承継した。村松町は2006年(平成17年)1月1日に五泉市と新設合併し、五泉市となる。</ref>
*: 日本国有鉄道は1987年4月1日に[[JR]]各社に分割され、信越本線は東日本旅客鉄道(JR東日本)が承継した。村松町は2006年1月1日に五泉市と新設合併し、五泉市となる。
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!style="width:12em; border-bottom:3px solid #600;"|駅名(読み)<!--全駅の項目が作成されたら読みは除去しても構いません-->
!style="width:12em; border-bottom:3px solid #600;"|駅名(読み)
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<!--|∧-->
<!--|∧-->
|}
|}
蒲原鉄道線においては、開業当時に村松を起点に設定した経緯から<ref name="saitoh1998_1" />、五泉から村松・加茂方面へ向かう列車を「上り」、加茂から村松・五泉方面へ向かう列車を「下り」とした。この設定は加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間に縮小されてからも踏襲され、行き止り駅の村松を起点とし、磐越西線に接続する五泉を終点とした点が特徴であった<ref name="saitoh1998_1" />。
<!-- (県名)が付いている駅は他の県に同名の駅があります。区別のために必要ですので削除しないで下さい。 -->
歴史上の経緯から、列車は加茂から村松・五泉方面に向かうのが「下り」、五泉から村松・加茂方面へ向かうのが「上り」となっていた。これは加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間に縮小されてからも踏襲されていた。そのため、磐越西線に接続する五泉が終点で、行き止り駅の村松が起点、という珍しい設定の路線だった。


== 廃線後の状況 ==
== 輸送実績 ==
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center;"
=== 廃線後の代替交通機関 ===
|- style="background: #ddd;"
1985年の加茂 - 村松間廃線後、蒲原鉄道は[[国道290号]]などを経由して加茂駅と村松駅を結ぶ路線バス「加茂線」を開設した。また1999年の村松 - 五泉間廃線後、同社は村松駅と五泉駅を結ぶ路線バス「五泉線」を増便した。廃線前から路線自体は運行されており、鉄道線廃止時のダイヤに基づいて増発を行った。
|-
! 年度
! 1950年
! 1960年
! 1965年
! 1970年
! 1975年
! 1980年
! 1984年
! 1985年
! 1990年
! 1995年
! 1999年
|-
! 旅客輸送密度(人/日)
|align="right"| 1,430
|align="right"| 1,511
|align="right"| 1,993
|align="right"| 1,685
|align="right"| 1,282
|align="right"| 828
|align="right"| 564
|align="right"| 1,554
|align="right"| 1,249
|align="right"| 1,157
|align="right"| 926
|}
*地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報、民鉄統計年報、鉄道統計年報各年度版


== 車両 ==
五泉線はその後、村松駅と村松地区東部を結ぶ「川内線」と運行系統を統合して「五泉・川内線」に改称。加茂線を含む路線バスの運行主体は[[2002年]][[11月1日]]から、蒲原鉄道本体から子会社の蒲鉄小型バスに移管された。その後運行区間の縮小や減便などを経て、加茂線は[[2009年]][[10月1日]]から「加茂市営市民バス」に移管して運行区間を縮小。そして残った五泉・川内線、加茂線の残存区間だった高松線の2路線も[[2010年]][[9月30日]]を以って廃止された。翌10月1日からは五泉市が策定した「地域公共交通総合連携計画」に基づき、五泉線は五泉・村松両市街地を循環しながら結ぶ[[コミュニティバス]]「五泉市ふれあいバス」に転換され、転換後の運行業務は蒲原鉄道・[[新潟交通観光バス]]五泉営業所・[[泉観光バス (新潟県)|泉観光バス]]の3社が共同で受託している。また五泉線以外の路線は事前登録・予約制の「デマンド乗合タクシー」に転換され、これにより蒲原鉄道の一般路線バスは全て廃止された。
[[ファイル:Gosennkounai.jpg|thumb|360px|right|五泉駅構内の入換作業中(1980年)]]
{{Main|蒲原鉄道の車両形式|蒲原鉄道モハ31形電車|蒲原鉄道ED1形電気機関車}}
最盛期は[[電動車]]10両、[[制御車]]・[[付随車]]3両、[[電気機関車]]1両の計14両(貨車を除く)が在籍したが、その後老朽車から淘汰が開始され<ref name="terada1990_1" />、部分廃止に際してはモハ11・12・モハ51・モハ81・モハ91の5両が一挙に廃車となった<ref name="saitoh1998_3" />。残存したモハ31・モハ41・モハ61・モハ71・クハ10・ED1の計6両は全線廃止まで在籍した<ref name="terada2000_2">『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.28 - 29</ref>。


* '''デ1形''' (1・2) - 開業に際して新製された木造四軸ボギー電動車。1952年(昭和27年)にデ1が、1954年(昭和29年)にモハ1(旧デ2)が他車への更新名義で事実上廃車され、全廃<ref name="seko1962_2" />。
その他詳細は「[[蒲原鉄道#路線]]」を参照。
* '''デ11形''' (11 - 13) - 全線開通に際して増備された半鋼製電動車。後年'''モハ11形'''と改称、さらにモハ13は後述モハ41新製に際して主要機器を供出し、モハ51形51と改称・改番。モハ11・12とも部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''デ101形''' (101) - [[名古屋鉄道]]より譲り受けた元[[各務原鉄道KB1形電車|モ450形]]455。後年'''モハ21形'''と改称・改番。1979年(昭和54年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''モハ31形''' (31) - デ1形1の改造名義で新製された半鋼製電動車。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ41形''' (41) - モハ11形13の改造名義で新製された半鋼製電動車。竣功当初はモハ31と同一車体であったが、後年車体延長工事を施工。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ51形''' (51) - モハ11形13の車体とモハ1形1(旧デ1形2)の主要機器を組み合わせ、モハ1の改造名義で竣功。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''モハ61形''' (61) - [[西武鉄道]]より譲り受けた元[[武蔵野鉄道クハ5855形電車|クハ1231形]]1232。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ71形''' (71) - 西武鉄道より譲り受けた元[[武蔵野鉄道デハ320形電車|クハ1211形]]1211。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ81形''' (81) - [[越後交通]]より譲り受けた元モハ3000形3002。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''モハ91形''' (91) - 山形交通(現・[[ヤマコー]])より譲り受けた元モハ106形106。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''ハニ3形''' (3) - [[1927年]](昭和2年)に新製された合造木造二軸単車。後年荷物室を撤去し'''ハフ1形'''1と改称・改番、その後'''サハ1'''、次いで'''ハ1'''と改番された。1978年(昭和53年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''クハ1形''' (1) - 国鉄より払い下げを受けた半鋼製二軸単車ガソリンカー元キハ4530形4530。旧阿南鉄道(現・[[牟岐線]]の一部)キハ101。後述クハ10の竣功に伴い付随車化、'''ハ2形'''2と改称・改番。1978年(昭和53年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''クハ10形''' (10) - 国鉄より払い下げを受けた元[[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]41120。導入に際して電車の制御車化、全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''EL形''' (1) - 全線開通に際して[[日本車輌製造]]で新製された、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]社製電気機関車を模した凸形電機。後年'''ED1形'''1と改称、全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。


=== 廃線跡 ===
== 廃線跡 ==
部分廃止区間については、高松 - 村松間の廃線跡が農地改良によって喪われた<ref name="miyawaki2_1">『鉄道廃線跡を歩く II』 (1996) pp.72 - 73</ref>他は、概ね農道に転用もしくは軌条・架線・架線柱を撤去した状態でそのまま存置されている<ref name="miyawaki2_1" />。加茂 - 東加茂間の加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、廃止後も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。また、JR信越本線加茂 - [[羽生田駅|羽生田]]間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には陣ヶ峰駅のホーム・階段が残存する<ref name="miyawaki2_1" />。その他、七谷駅は駅舎・ホームとも残存し<ref name="miyawaki2_1" />、土倉・高松両駅はホーム跡が残る<ref name="miyawaki2_1" />ほか、冬鳥越 - 土倉間に存在した土倉隧道が廃線当時そのままの状態で放置されている<ref name="miyawaki2_1" />。
加茂駅近くの加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、現在も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。


残存区間の廃止後については、村松・今泉・五泉の各駅ともホームなどの撤去が廃止後間もなく実施され<ref name="miyawaki9_2">『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) pp.78 - 79</ref>、一部区間に路盤跡が残るのみである<ref name="miyawaki9_2" />。
また、JR信越本線の加茂駅と羽生田駅の間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には旧陣ヶ峰駅のホームが残されている。


{{multiple image
== 参考文献 ==
| align = left
<!-- 著者の五十音順 -->
| image1 = Gosen kantetsu 20040905.jpg
*{{cite book | 和書 | title = 私鉄車両めぐり特輯 | volume = 1 | author = [[青木栄一]] | chapter = 昭和52年5月1日現在における補遺 | pages = 補遺3頁 | year = 1977 | editor = 鉄道ピクトリアル編集部 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }}
| width1 = 220
*{{cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | author = 瀬古龍雄 | title = 蒲原鉄道 | year = 1962 | volume = | issue = 1962年3月号臨時増刊:私鉄車両めぐり2 | pages = pp. 6, 34-38 }}(再録:{{cite book | 和書 | title = 私鉄車両めぐり特輯 | volume = 1 | year = 1977 | editor = 鉄道ピクトリアル編集部 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }})
| caption1 = 五泉駅跡。駅から右手に延びる築堤が廃線跡。画像左側は磐越西線五泉駅。<br />(2004年9月)
*{{cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | author = 瀬古龍雄 | title = 蒲原鉄道(私鉄車両めぐり第2分冊補遺) | year = 1963 | volume = No. 145 | issue = 1963年5月号臨時増刊:私鉄車両めぐり4 | pages = p. 86 }}(再録:{{cite book | 和書 | title = 私鉄車両めぐり特輯 | volume = 1 | year = 1977 | editor = 鉄道ピクトリアル編集部 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }})
* {{cite book | 和書 | pages = p. 268 | title = 昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧 | author = [[鉄道省]] | publisher = 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会) | year = 1937年(1986年覆刻) | location = 東京(覆刻:大阪) | id = ISBN 4-88540-048-1 }}


| image2 = Muramatsu Bus Terminal.jpg
== 関連項目 ==
| width2 = 220
*[[廃線]]
| caption2 = 旧村松駅駅舎。廃線後はバスターミナルとして使用。(2007年10月)


| image3 = Kambara-cMc71-Tc10.jpg
{{rail-stub|かんはらてつとうせん}}
| width3 = 220
| caption3 = 五泉市内にて静態保存されるモハ71・クハ10。木造の雨除けは村松駅のホーム上屋を移築したもの。(2007年5月)
}}
<br style="clear:both"/>

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}

== 参考資料 ==
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]
** 瀬古竜雄 「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 1962年3月(通巻128)号 pp.34 - 38
** 斎藤幹雄 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 1998年4月(通巻652)号 pp.161 - 167
* 寺田裕一 『日本のローカル私鉄』 [[ネコ・パブリッシング]] 1990年7月 ISBN 4873660645
* [[宮脇俊三]] 編著 『鉄道廃線跡を歩く II』 [[日本交通公社 (財団法人)|日本交通公社]] 1996年9月 ISBN 4533025331
* 宮脇俊三 編著 『鉄道廃線跡を歩く IX』 [[JTBパブリッシング]] 2003年9月 ISBN 4533043747
* 寺田裕一 編著 『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 [[新人物往来社]] 2000年12月 ISBN 4404027613
*瀬古龍雄「新潟県鉄道のあゆみ」『鉄道史学』No.23 2005年、63頁

== 関連項目 ==
* [[廃線]]
* [[蒲原鉄道の車両形式]]


[[Category:中部地方の鉄道路線 (廃止)|かんはらてつとうせん]]
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[[Category:中部地方の鉄道路線 (廃止)]]
[[Category:新潟県の交通|廃かんはらてつとうせん]]
[[Category:新潟県の交通|廃かんはらてつとうせん]]
[[Category:蒲原鉄道|]]
[[Category:蒲原鉄道|*]]

2012年9月22日 (土) 04:49時点における版

蒲原鉄道線
五泉駅に停車するモハ61形電車 (1998年3月)
五泉駅に停車するモハ61形電車
(1998年3月)
五泉駅に停車するモハ61形電車
(1998年3月)
路線総延長21.9 km
軌間1067 mm
電圧600 V 架空電車線方式直流
最大勾配 25 パーミル
最小半径120 m
最高速度55 km/h
停車場・施設・接続路線
STR
国鉄信越本線
0.0 加茂駅
eABZlf exABZlg
WBRÜCKE exWBRÜCKE
加茂川
STRlf xKRZo
exBHF
1.1 陣ヶ峰駅
exTUNNEL1
exBHF
2.5 東加茂駅
exBHF
3.4 駒岡駅
exBHF
5.0 狭口駅
exBHF
6.7 七谷駅
exBHF
8.9 冬鳥越駅
exTUNNEL1
exBHF
9.4 土倉駅
exBHF
11.0 高松駅
exWBRÜCKE
exBHF
12.2 大蒲原駅
exWBRÜCKE
exBHF
13.8 寺田駅
exWBRÜCKE
exBHF
16.1 西村松駅
exWBRÜCKE
exSTR
↑1985年廃止
exBHF
17.7 村松駅
exSTRrg exABZrf
exKDSTe exSTR
村松車庫
exBHF
20.9 今泉駅
STRlg exSTR
JR東磐越西線
eABZlf exABZlg
21.9 五泉駅

蒲原鉄道線(かんばらてつどうせん)は、かつて蒲原鉄道が運営していた、新潟県加茂市加茂駅から中蒲原郡村松町(現・五泉市)を経由して五泉市の五泉駅までを結んでいた鉄道路線である。蒲鉄線(かんてつせん)とも称された[1][注釈 1]

1985年(昭和60年)4月に加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間を結ぶ延長4.2kmの短距離路線[注釈 2]として知られていたが、1999年(平成11年)10月に全線が廃止された。

路線データ

(加茂 - 村松間廃止直前のデータを示す)

  • 路線距離(営業キロ):21.9km
  • 軌間:1,067mm
  • 駅数(起終点駅を含む):15駅
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流600V)
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式(東加茂 - 村松間)、スタフ閉塞式(加茂 - 東加茂間、村松 - 五泉間)
  • 最高速度:55km/h

歴史

計画立案から開業まで

村松藩3万石の藩庁・村松城の城下町で、また大日本帝国陸軍歩兵第30連隊の駐屯地を擁する軍都でもあった中蒲原郡村松町は、蒲原地方における政治・物流の中心地として古くより繁栄した地域であった[2]。しかし、村松町は近隣に敷設された北越鉄道(現・信越本線の一部)および岩越鉄道(現・磐越西線)のルート選定に際して、いずれの敷設ルートからも外れたことから、同町内にも鉄道路線を敷設したいとする地元有志の要請が高まり[1]、また陸軍側からも物資輸送に供する目的で鉄道敷設を要望された[3]。それらを受ける形で、中蒲原郡川内村において白滝鉱山を保有する日本電気製鉄の社長職にあった元鉄道省運輸局長の朝比奈林之助を中心とした発起人40名で[1][2]、磐越西線五泉駅より村松町を経由して川内村に至る路線を第一期開業区間、ならびに村松町より分岐して信越本線加茂に至る路線[注釈 3]を第二期開業区間として、1919年大正8年)7月に第一期開業区間について敷設免許を申請し[1]、翌1920年(大正9年)1月29日付で免許された[1]

しかし、敷設免許が下りた同時期には、第一次世界大戦終戦に伴う戦後恐慌によって鉄価格が暴落したことから[3]鉄鉱石を産出する白滝鉱山も事業縮小を余儀なくされた[1]。その結果、第一期開業予定区間のうち、白滝鉱山から産出される鉄鉱石輸送を主眼として計画された村松町 - 川内村間については建設計画を白紙化し[3]、五泉 - 村松間を第一期開業区間とするよう計画を変更した[1]。その後、村松駅の設置箇所を巡って発起人間で対立が生じ、会社設立に伴う株式募集に際して証拠金払込を拒否する発起人も現れる事態を招いたが[1]、最終的に証拠金払込を拒否した発起人を除名することで事態の収拾を図り、1922年(大正11年)9月22日に蒲原鉄道株式会社が設立された[1]

1923年(大正12年)3月18日より建設が開始され、同年10月20日に五泉 - 村松間 (4.2km) が開業した[1][注釈 4]。軌間1,067mmの電化路線(直流600V・架空電車線方式)として開業した蒲原鉄道線は、新潟県下における初の電化路線であった[2]。村松町 - 川内村間の建設はその後断念され、1927年(昭和2年)3月31日に村松 - 加茂間の第二期開業区間の敷設免許を取得[1]、しかし昭和金融恐慌の時期でもあり資金調達に苦労したが金津村の石油王中野忠太郎の助力により解決できた[4][注釈 5]1930年(昭和5年)7月22日[3]に村松 - 東加茂間 (15.2km) が、同年10月20日[3]には東加茂 - 加茂間 (2.5km) がそれぞれ開通し、五泉 - 加茂間 (21.9km) の全線が開通した。

開業後

開業当初の停車場は五泉・村松・西村松大蒲原七谷・東加茂の6箇所で、西村松を除く5駅はいずれも列車交換設備を有した[3]。また、加茂駅は鉄道省の管理駅(停車場)であった[3]。その他停留所が今泉寺田高松土倉冬鳥越狭口駒岡陣ヶ峰の8箇所開設され[3]、駅(停車場・停留所)の改廃は路線廃止時以外においては行われなかった[1][2]。貨物列車の省線への受け渡しは五泉駅を介して行われ[3]、蒲原鉄道線内を発着する貨物・小荷物類は、蒲原鉄道線(会社線)を表す「社」の文字を付した「(社)五泉」発着扱いで運行された[3]

第一期開業区間である五泉 - 村松間は通勤・通学需要が高く、輸送密度も高水準で推移したものの[3]、第二期開業区間である村松 - 加茂間については沿線人口が希薄であったことから開業当初より苦しい運営を強いられた[3]。また、路線敷設目的の一つであった五泉 - 加茂間の連絡用途については期待されたほどの需要がなかったことから[2]、運行系統は村松を境に事実上分断された[1]。五泉 - 加茂間直通列車の設定はあったものの、村松において時間調整のため30分以上の停車を強いられるなど[3]、直通列車として機能しているとは言い難い状態であった[3]。また貨物輸送については、主な出荷物が米穀であったことから、米穀の出荷時期である秋季を除いて需要は低迷した[3]。年間輸送量は最盛期においても10万t程度に留まり[5]1957年(昭和32年)以降定期貨物列車の運用は消滅した[5]

1961年(昭和36年)8月[6]当時における運行ダイヤは、五泉 - 村松間28往復、村松 - 加茂間14往復で、加えて東加茂発村松行の不定期列車が1本設定されていた[3]。所要時分は五泉 - 村松間が8分(表定速度31.5km/h)、村松 - 加茂間17.7kmが42分30秒(表定速度25km/h)であった[3]。その他、不定期の貨物列車が設定されていた。

また蒲原鉄道線は自然災害とも無縁ではなく、1963年(昭和38年)1月の「三八豪雪」においては全線が約1ヶ月間にわたって不通となり[1]、また1967年(昭和42年)8月の「羽越豪雨[2]1969年(昭和44年)8月の「加茂市水害[7][1]の二度にわたって水害に見舞われ、道床流出など全線で甚大な被害を蒙った[1]ものの、その都度復旧工事が行われた。

路線縮小

1960年代後半以降の日本国内において、自家用車の普及に伴う車社会化(モータリゼーション)の進展から利用客が急激に減少し、経営が困難となる地方私鉄路線が数多く現れたが、蒲原鉄道線もまたその例外ではなく、1967年(昭和42年)度をピークに利用客数が減少に転じた[1]。特に元より沿線人口が希薄であった村松 - 加茂間のいわゆる「加茂線[1]」区間においてそれが顕著に現れ[1]、経営的に負担となりつつあったことから、蒲原鉄道線においては一部停車場における交換設備の撤去や、駅員の常駐廃止・無人駅化など、人員ならびにコスト削減を実施した[1]。さらに1978年(昭和53年)10月より、朝夕ラッシュ時間帯に運行される列車を除く全列車について、新潟県下の鉄道路線においては初となるワンマン運転方式を導入するなど経営合理化に努めた[2]

しかし、利用客の減少は止まらず、1981年(昭和56年)度における利用者数はピーク時の約3割にまで激減した[1][注釈 6]。前述「加茂線」区間については、路線延長は蒲原鉄道線全体の約8割を占めるにも関わらず、利用者数は全体の約3割程度であったことから[1]、同区間については鉄道線としての存続を断念し、バスへの転換が決定された[1]。同区間と併行する国道290号の拡幅改良工事完了を機に、1985年(昭和60年)4月1日付で村松 - 加茂間 (17.7km) が廃止され[2]、蒲原鉄道線は第一期開業区間に相当する五泉 - 村松間 (4.2km) のみに縮小された。

なお、末期においては五泉 - 村松間に1往復の不定期運用が設定されているに過ぎなかった貨物輸送[8]については、1984年(昭和59年)2月1日に実施された日本国有鉄道(国鉄)のダイヤ改正に際して五泉駅の貨物取り扱いが廃止されたことに伴って、同日付で廃止となった[8]

全線廃止

路線縮小後の蒲原鉄道線は、五泉 - 村松間に1日26往復(平日)の列車が設定され[9]、朝の通勤・通学時間帯に1往復運行される2両編成の車掌乗務列車を除いて、全列車とも単行列車によるワンマン運転が行われた[9]

閑散区間であった村松 - 加茂間を廃止したことで、一時的に輸送密度・営業係数とも改善した蒲原鉄道線であったが[2]、利用客の自家用車ならびにミニバイクへのシフトは止まらず[10]、年間輸送人員は1990年(平成元年)度・1991年(平成2年)度の2年間のみわずかに微増傾向を示したものの[9]、以降年々減少の一途を辿った[9]1996年(平成7年)度の輸送密度は860人/日で[9]、路線縮小初年度の1985年(昭和60年)度の1,554人/日[2]と比較して4割以上減少した。加えて同時期には軌道・施設や運行車両の老朽化が深刻な状況となった[10]。特に全車とも主要機器の経年が70年を超過した運行車両については物理的な寿命を迎えつつあり[10]、各種施設の改修ならびに運行車両の早急な代替を実施する必要に迫られた[11]

以上の状況を鑑み、蒲原鉄道は蒲原鉄道線の存続断念ならびにバス転換を決定し[11]、1999年(平成11年)3月31日限りでの路線廃止を沿線自治体である五泉市側に通告した[11]。しかし五泉市は廃止に反対の立場を表明し、合意に至らなかったことから存廃は一旦宙に浮いた状態となった[11]。その後五泉市が廃止を了承、1999年(平成11年)6月に代行バスの概要が決定し、同年9月には運輸省(現・国土交通省)の運輸審議会において蒲原鉄道線の廃止が許可され、同年10月4日付で全線廃止となった[11][12]

なお、区間縮小ならびに全線廃止に際しての代替交通機関については「蒲原鉄道#路線」を参照されたい。

年表

  • 1920年(大正9年)1月29日 朝比奈林之助を中心とした発起人40名により申請された、五泉駅 - 村松町 - 川内村間の敷設免許
  • 1922年(大正11年)9月22日 蒲原鉄道設立
  • 1923年(大正12年)10月20日 村松 - 五泉間 (4.2km) 開業
  • 1927年(昭和2年)3月31日 村松 - 加茂間敷設免許
  • 1930年(昭和5年)7月22日 東加茂 - 村松間 (15.2km) 延伸開業
  • 1930年(昭和5年)10月20日 加茂 - 東加茂間 (2.5km) 延伸開業により全線開通
  • 1978年(昭和53年)10月1日 ワンマン運転開始
  • 1984年(昭和59年)2月1日 貨物営業廃止
  • 1985年(昭和60年)4月1日 加茂 - 村松間 (17.7km) 廃止
  • 1999年(平成11年)10月4日 村松 - 五泉間 (4.2km) 廃止により全線廃止

駅一覧

  • 全駅新潟県内に存在した。所在地の市町村名ならびに接続路線の事業者名は当該区間廃止当時の名称で記す[注釈 7]
駅名(読み) 駅間営業キロ 累計営業キロ 接続路線 所在地
加茂駅(かも) - 0.0 日本国有鉄道信越本線 加茂市
陣ヶ峰駅(じんがみね) 1.1 1.1  
東加茂駅(ひがしかも) 1.4 2.5  
駒岡駅(こまおか) 0.9 3.4  
狭口駅(せばぐち) 1.6 5.0  
七谷駅(ななたに) 1.7 6.7  
冬鳥越駅(ふゆどりごえ) 2.2 8.9  
土倉駅(つちくら) 0.5 9.4  
高松駅(たかまつ) 1.6 11.0   中蒲原郡
村松町
大蒲原駅(おおかんばら) 1.2 12.2  
寺田駅(てらだ) 1.6 13.8  
西村松駅(にしむらまつ) 2.3 16.1  
村松駅(むらまつ) 1.6 17.7  
今泉駅(いまいずみ) 3.2 20.9   五泉市
五泉駅(ごせん) 1.0 21.9 東日本旅客鉄道磐越西線

蒲原鉄道線においては、開業当時に村松を起点に設定した経緯から[1]、五泉から村松・加茂方面へ向かう列車を「上り」、加茂から村松・五泉方面へ向かう列車を「下り」とした。この設定は加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間に縮小されてからも踏襲され、行き止り駅の村松を起点とし、磐越西線に接続する五泉を終点とした点が特徴であった[1]

輸送実績

年度 1950年 1960年 1965年 1970年 1975年 1980年 1984年 1985年 1990年 1995年 1999年
旅客輸送密度(人/日) 1,430 1,511 1,993 1,685 1,282 828 564 1,554 1,249 1,157 926
  • 地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報、民鉄統計年報、鉄道統計年報各年度版

車両

五泉駅構内の入換作業中(1980年)

最盛期は電動車10両、制御車付随車3両、電気機関車1両の計14両(貨車を除く)が在籍したが、その後老朽車から淘汰が開始され[2]、部分廃止に際してはモハ11・12・モハ51・モハ81・モハ91の5両が一挙に廃車となった[9]。残存したモハ31・モハ41・モハ61・モハ71・クハ10・ED1の計6両は全線廃止まで在籍した[13]

  • デ1形 (1・2) - 開業に際して新製された木造四軸ボギー電動車。1952年(昭和27年)にデ1が、1954年(昭和29年)にモハ1(旧デ2)が他車への更新名義で事実上廃車され、全廃[6]
  • デ11形 (11 - 13) - 全線開通に際して増備された半鋼製電動車。後年モハ11形と改称、さらにモハ13は後述モハ41新製に際して主要機器を供出し、モハ51形51と改称・改番。モハ11・12とも部分廃止時に廃車[9]
  • デ101形 (101) - 名古屋鉄道より譲り受けた元モ450形455。後年モハ21形と改称・改番。1979年(昭和54年)廃車[2]
  • モハ31形 (31) - デ1形1の改造名義で新製された半鋼製電動車。全線廃止まで在籍[13]
  • モハ41形 (41) - モハ11形13の改造名義で新製された半鋼製電動車。竣功当初はモハ31と同一車体であったが、後年車体延長工事を施工。全線廃止まで在籍[13]
  • モハ51形 (51) - モハ11形13の車体とモハ1形1(旧デ1形2)の主要機器を組み合わせ、モハ1の改造名義で竣功。部分廃止時に廃車[9]
  • モハ61形 (61) - 西武鉄道より譲り受けた元クハ1231形1232。全線廃止まで在籍[13]
  • モハ71形 (71) - 西武鉄道より譲り受けた元クハ1211形1211。全線廃止まで在籍[13]
  • モハ81形 (81) - 越後交通より譲り受けた元モハ3000形3002。部分廃止時に廃車[9]
  • モハ91形 (91) - 山形交通(現・ヤマコー)より譲り受けた元モハ106形106。部分廃止時に廃車[9]
  • ハニ3形 (3) - 1927年(昭和2年)に新製された合造木造二軸単車。後年荷物室を撤去しハフ1形1と改称・改番、その後サハ1、次いでハ1と改番された。1978年(昭和53年)廃車[2]
  • クハ1形 (1) - 国鉄より払い下げを受けた半鋼製二軸単車ガソリンカー元キハ4530形4530。旧阿南鉄道(現・牟岐線の一部)キハ101。後述クハ10の竣功に伴い付随車化、ハ2形2と改称・改番。1978年(昭和53年)廃車[2]
  • クハ10形 (10) - 国鉄より払い下げを受けた元キハ41000形41120。導入に際して電車の制御車化、全線廃止まで在籍[13]
  • EL形 (1) - 全線開通に際して日本車輌製造で新製された、ウェスティングハウス・エレクトリック社製電気機関車を模した凸形電機。後年ED1形1と改称、全線廃止まで在籍[13]

廃線跡

部分廃止区間については、高松 - 村松間の廃線跡が農地改良によって喪われた[14]他は、概ね農道に転用もしくは軌条・架線・架線柱を撤去した状態でそのまま存置されている[14]。加茂 - 東加茂間の加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、廃止後も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。また、JR信越本線加茂 - 羽生田間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には陣ヶ峰駅のホーム・階段が残存する[14]。その他、七谷駅は駅舎・ホームとも残存し[14]、土倉・高松両駅はホーム跡が残る[14]ほか、冬鳥越 - 土倉間に存在した土倉隧道が廃線当時そのままの状態で放置されている[14]

残存区間の廃止後については、村松・今泉・五泉の各駅ともホームなどの撤去が廃止後間もなく実施され[15]、一部区間に路盤跡が残るのみである[15]

五泉駅跡。駅から右手に延びる築堤が廃線跡。画像左側は磐越西線五泉駅。
(2004年9月)
旧村松駅駅舎。廃線後はバスターミナルとして使用。(2007年10月)
五泉市内にて静態保存されるモハ71・クハ10。木造の雨除けは村松駅のホーム上屋を移築したもの。(2007年5月)


脚注

注釈

  1. ^ 後述の通り、路線縮小以前の蒲原鉄道線においては村松を境に運行系統が分断されていたことから、加茂 - 村松間が「加茂線」、村松 - 五泉間が「村松線」ともそれぞれ通称された。
  2. ^ 1998年(平成10年)当時において、単独の鉄道路線における延長4.2kmは、紀州鉄道線の延長2.7kmに次ぐ短距離路線であった。
  3. ^ 従来は新津駅を経由しての大回りを強いられた五泉 - 加茂間を短絡・直結する路線として計画されたルートであった。
  4. ^ 「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) においては同区間の開業日を10月10日としている。
  5. ^ 蒲原鉄道の社長にもなった中野忠太郎については『越・佐傑人譜. 昭和14年度版』(国立国会図書館デジタル化資料)
  6. ^ 1965年(昭和40年)度における蒲原鉄道線の運輸成績は輸送密度1,993人/日・営業係数96であったが、「加茂線」区間廃止前年の1984年(昭和59年)度の段階においては輸送密度564人/日・営業係数136と大幅に悪化していた。
  7. ^ 1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に際して、信越本線は東日本旅客鉄道(JR東日本)が承継した。村松町は2006年(平成17年)1月1日に五泉市と新設合併し、五泉市となる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) pp.161 - 162
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本のローカル私鉄』 (1990) pp.100 - 101
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) pp.31 - 32
  4. ^ 「新潟県鉄道のあゆみ」 2005年、63頁
  5. ^ a b 『日本のローカル私鉄』 (1990) p.102
  6. ^ a b 「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) p.38
  7. ^ 新潟県の大雨災害 - 新潟地方気象台公式 2012-04-04閲覧
  8. ^ a b 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.166
  9. ^ a b c d e f g h i j 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) pp.163 - 164
  10. ^ a b c 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.167
  11. ^ a b c d e 『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.26 - 27
  12. ^ 『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) p.78
  13. ^ a b c d e f g 『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.28 - 29
  14. ^ a b c d e f 『鉄道廃線跡を歩く II』 (1996) pp.72 - 73
  15. ^ a b 『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) pp.78 - 79

参考資料

関連項目