「ヨハネス22世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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{{infobox 教皇 |
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| 日本語名 = ヨハネス22世 |
| 日本語名 = ヨハネス22世 |
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| タイトル = 第196代 ローマ教皇 |
| タイトル = 第196代 ローマ教皇 |
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| 画像 |
| 画像 = [[ファイル:Papa Ioannes Vicesimus Secundus.jpg|220px|ヨハネス22世]] |
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| 画像説明 = |
| 画像説明 = |
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| 就任 |
| 就任 = [[1316年]][[8月7日]] |
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| 離任 |
| 離任 = [[1334年]][[12月4日]] |
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| 先代 |
| 先代 = [[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]] |
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| 次代 |
| 次代 = [[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]] |
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| 司祭 |
| 司祭 = |
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| 司教 |
| 司教 = |
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| その他 |
| その他 = |
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| 本名 |
| 本名 = ジャック・ドゥーズ<br />Jacques Duèze |
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| 生年月日 = 1244年 |
| 生年月日 = 1244年頃 |
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| 生地 |
| 生地 = [[file:Flag of medieval France.svg|30px]] [[フランス王国]] [[カオール]] |
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| 没年月日 = 1334年12月4日 |
| 没年月日 = 1334年12月4日 |
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| 没地 |
| 没地 = [[ファイル:Armoiries Anjou Jérusalem.svg|30px]] [[プロヴァンス伯]]領 [[アヴィニョン]] |
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| 埋葬地 |
| 埋葬地 = |
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| 原国籍 |
| 原国籍 = |
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| 宗派 |
| 宗派 = |
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| 居住地 |
| 居住地 = |
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| 親 |
| 親 = |
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| 妻 |
| 妻 = |
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| 子 |
| 子 = |
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| 母校 |
| 母校 = |
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| 署名 |
| 署名 = |
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| 曖昧 |
| 曖昧 = ヨハネス |
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'''ヨハネス22世'''(Ioannes XXII、[[1244年]]? - [[1334年]][[12月4日]])は、[[アヴィニョン捕囚]]の時期の[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1316年]] - 1334年)。教会慣用名は'''ヨハネ'''<ref name=koba>小林 |
'''ヨハネス22世'''(Ioannes XXII、[[1244年]]? - [[1334年]][[12月4日]])は、[[アヴィニョン捕囚]]の時期の[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1316年]] - 1334年)。教会慣用名は'''ヨハネ'''<ref name=koba>[[#小林|小林(1966)巻末「歴代法王票」p.9]]</ref>。 |
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== 教皇登位まで == |
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[[フランス王国|フランス]]南西部の商業都市[[カオール]]の裕福な[[中産階級]]の出身であり、本名は '''ジャック・ドゥーズ'''(Jacques Duèze)であった<ref name=pgms166>[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)pp.166-169]]</ref>。[[教皇派と皇帝派|グエルフィ]](ゲルフ、教皇派)のリーダーと見なされていた[[ナポリ王国|ナポリ王]][[ロベルト1世 (ナポリ王)|ロベルト1世]](ロベール)の秘書を務めたのち、南仏[[プロヴァンス]]の[[フレジュス]]の[[司教]]、[[1310年]]からは[[アヴィニョン]]の司教を経て[[1312年]]に[[枢機卿]]に任命された<ref name=pgms166/><ref group="注釈">政治家でもあった[[フィレンツェ]]出身の文人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、グエルフィの指導者と目されていた[[ナポリ・アンジュー朝]]のロベルト1世について、「口先だけの王」と断じている。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.167]]</ref>。 |
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[[カオール]]([[フランス]]の南西部)出身、本名は '''ジャック・デュエーズ'''(Jacques Duèze)。[[フレジュ]][[司教]]、[[アヴィニョン]]司教を経て[[1312年]][[枢機卿]]になる。[[1314年]]に前教皇[[クレメンス5世_(ローマ教皇)|クレメンス5世]]が死去してから2年間教皇は空位であったが、[[1316年]]教皇に選出される。登位は1316年[[8月7日]]である<ref name=koba/>。 |
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これに先立つ[[1303年]]、[[アナーニ事件]]の直後に教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]が[[ローマ]]にて死去し、枢機卿団が分裂して教皇選挙([[コンクラーヴェ]])の実施に困難が生じ、また、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](端麗王)の干渉により、[[1309年]]に教皇庁が南仏アヴィニョンに移るという事態が生じた([[アヴィニョン捕囚]])。[[アヴィニョン教皇庁]]での初めての教皇となった[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]は、[[修道会]]の会則を厳格に遵守するかどうか(清貧論争)をめぐって分裂傾向にあった[[フランシスコ会]](フランチェスコ会)の問題を調査する委員会を教皇庁内に設けた<ref name=odauchi209>[[#小田内|小田内(2010)pp.209-213]]</ref>。 |
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三位一体の祝日を制定したという。また、教会財政の確立に努め、ヨハネス22世が死去したとき、教皇庁の金庫には大量の金貨が納められていたといわれる。 |
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在位中の[[1328年]]、[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の後押しにより[[ローマ]]で[[フランシスコ会]]修道士のピエトロ・ライナルドゥッキが教皇[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]]を名乗る([[対立教皇]])が、やがて支持を失い[[1330年]]に退位、捕らえられてアヴィニョンに送られた。 |
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クレメンス5世が[[1314年]]に死去してからは、約2年間にわたって[[使徒座空位|教皇位は空位]]であったが、1316年、コンクラーヴェは新しい教皇として当時72歳頃であったドゥーズ枢機卿を選出した<ref name=pgms166/>。ドゥーズ枢機卿が新教皇ヨハネス22世として登位したのは1316年[[8月7日]]のことであった<ref name=koba/>。 |
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== 事跡 == |
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*[[魔女]]を異端として扱うことを決める。([[魔女狩り]]の項を参照) |
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*[[オッカムのウィリアム]]や[[マイスター・エックハルト]]に異端審問を行う(オッカムは逃亡、エックハルトは投獄中に死去)。 |
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*[[パドヴァのマルシリウス]]を[[破門]](ルートヴィヒ4世の側につき、皇帝の擁護を行ったため)。 |
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== 治世 == |
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{{see also|魔女狩り}} |
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14世紀前半はローマ教会の堕落が批判された時代であった反面、教皇庁は組織面では顕著な発展をみせ、官僚制の先駆的な形態が出現して後世の世俗諸国の集権化においてそのモデルとなった<ref name=satoh>佐藤・池上(1997)p.259</ref>。[[ロタ法廷]]もそのひとつで、10ないし13名の審決官が教会法学の伝統および合理性を守護しつつ、カトリック世界全体の紛争に最終的な決着をつける最高法院としての役割を担った<ref name=satoh/>。20世紀に[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]によって大審院が最高裁判所として改組されたのち、大審院は、ロタ法院の判決から控訴をうける役目をもつようになっている<ref>小林(1966)pp.144-145</ref>。 |
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[[ファイル:Cahors Pont Valentré.jpg|right|thumb|250px|カオールのヴァラントレ橋]] |
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ヨハネス22世は、教皇庁をアヴィニョンからローマに戻す気はまったくなく、また登位時すでに高齢であったにもかかわらず周囲から優れた教皇として期待された<ref name=pgms166/>。ヨハネス22世はその在任中、驚異的な根気強さで教皇庁の財政再建に努めたため、彼が死去したとき、教皇庁の金庫には大量の金貨が収められていたといわれている<ref name=pgms166/>。また、財政管理のため[[行政改革]]をおこない、「[[三位一体]]の[[祝日]]」を制定し、さらにクレメンス5世と自身が発した[[教令]](教皇本人の決定が記された、教皇の発した書簡)の中で教義や[[教会法]]に関するものについて編纂し、『[[教皇教令集]]』として発刊した<ref name=pgms166/>。これは、後世の教皇や教会法学者のよりどころとなる定義や先例となって教会法の発展に寄与した<ref name=pgms166/>。 |
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ヨハネス22世はまた、[[アジア]]への[[伝道]]を奨励し、アヴィニョンに[[図書館]]を設置する事業に着手したほか、[[1331年]]には故郷のカオールに大学(カオール大学)を創設した<ref name=pgms166/><ref group="注釈">カオール大学出身者としては、[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけての聖職者・[[法律家]]で[[天文学者]]の[[ジャン・タルド]]がいるが、大学そのものは[[18世紀]]になくなっている。</ref>。なお、[[1318年]]に[[イングランド王国|イングランド]]に所在する[[ケンブリッジ大学]]に対し、全キリスト教国に通用する学位の認定を承認し、これにより同大学の発展の基礎が築かれた。 |
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宗教政策の面では、ヨハネス22世は[[魔女]]を[[異端]]として扱うことを決めている。また、[[神学者]]として知られた[[オッカムのウィリアム]]や[[マイスター・エックハルト]]に対し、[[異端審問]]をおこなった(オッカムは逃亡し、エックハルトは投獄中に死去している)。[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]とは対立し、ルートヴィヒの側について彼を擁護した[[パドヴァのマルシリウス]]を[[破門]]に処した。 |
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ヨハネス在位中の[[1328年]]、ローマでフランシスコ会修道士のピエトロ・ライナルドゥッキが教皇[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]]を名乗って[[対立教皇]]となったが、[[1330年]]に退位した。 |
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=== 聖職禄授与権の立法化 === |
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1316年[[9月15日]]、ヨハネス22世によって教皇教令『エクス・デビトー(''Ex debito'' )』が発せられた<ref name=shimegi>{{Cite journal|和書|author=標珠実 |date=2006-02 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1220 |title=教皇権による聖職禄授与権の立法化とその適用 -ヨハネス22世の聖職禄政策にみる知と権力- |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊日本史東洋史西洋史考古学 |ISSN=1341-7541 |volume=51 |pages=65-74 |hdl=2065/27667 |CRID=1050282677456635008}}</ref>。これは、聖職者に授与される禄に関するものであり、教皇がその至高性のもとに授与権を立法化しようとするものであったが、登位よりわずか1か月後の発布であることを考えると、彼がこの件を教皇職にとって最優先課題と考えていたことがうかがわれる<ref name=shimegi/>。この教令は、教皇権による「全般的留保」の対象となる禄を精細に定義していることを一大特徴としており、ヨハネス22世以降のアヴィニョン教皇による聖職禄政策の根幹をなすものとなった<ref name=shimegi/>。また、アヴィニョン時代の聖職禄政策はフランスを中心に広範な地域におよび、教会政治のうえでも、財政的な面からも教皇庁行政の根幹をなしており、ヨハネス22世自身、教令を実際の政策におおいに適用していたことが確認されている<ref name=shimegi/>。 |
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=== フランシスコ会「清貧論争」への介入 === |
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{{see also|フランシスコ会}} |
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前任のクレメンス5世は1309年、教皇庁内にフランシスコ会の会則問題について調査委員会を設け、会則の厳格な遵守を主張するスピリトゥアル派(聖霊派)と緩和を主張する穏健な主流派の双方の代表を招き「清貧」について論じさせた<ref name=odauchi209/>。このように歴代の教皇は、フランシスコ会の内部対立の仲裁を求められ、それに対し応じてきたのであった<ref name=pgms166/>。 |
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[[ファイル:Avignon, Palais des Papes by JM Rosier.jpg|left|thumb|350px|[[アヴィニョン教皇庁]]]] |
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ヨハネス22世は[[1317年]]、[[ナルボンヌ]](南仏・[[オード県]])と[[ベジエ]](同[[エロー県]])の聖霊派[[修道士]]に対し、「短い僧衣」を捨て、主流派のフランシスコ会総長に服従すべしと命じ、修道会対立の解消をはかった<ref name=odauchi213>[[#小田内|小田内(2010)pp.213-217]]</ref>。「短い僧衣」とは、聖霊派の「貧しき使用」実践の象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身の[[アイデンティティ]]を放棄するよう命じたものにほかならなかった<ref name=odauchi213/>。そして、ルボンヌとベジエの聖霊派修道士61名を名指しで召喚し、10日以内にアヴィニョンに出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、[[査問]]を拒否する者は破門に処することを申し伝えた<ref name=odauchi213/>。両地の修道士たちは[[5月22日]]深夜、アヴィニョンの教皇宮殿の門前にたどりつき、翌日より査問が始まった<ref name=odauchi213/>。査問の光景は、聖霊派の指導者の一人{{仮リンク|アンジェロ・クラレーノ|it|Angelo Clareno}}の筆を通じて知ることができる。教皇は多数の顧問団に囲まれ、立派な椅子に腰掛けており、一方の側には豪華な盛装の主流派が、一方の側にはつぎはぎだらけの「短い僧衣」の聖霊派が控えた<ref name=odauchi213/>。クラレーノによれば、査問とは名ばかりで、実際には逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下、正義を」という叫びのなか、聖霊派の会士はひとりひとり連れ去られ、アヴィニョン教皇庁内の牢獄に収監された<ref name=odauchi213/>。 |
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1317年10月、ヨハネス22世は教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト(''Quorumdam exigit'' )』を発し、フランシスコ会の修道士は、修道会総長が粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置を認可する権限を持つことを認めよと命じた<ref name=odauchi213/>。教皇は、教勅を「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」の言葉で結んだ<ref name=odauchi213/>。結局、ヨハネス22世が求めたことは、全会員に対して修道会総長の権威に、そして最終的には教皇の権威に服従させることであった<ref name=odauchi213/>。 |
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[[ファイル:Simone Saltarelli admonestant Michel de Césène et Guillaume d'Occam.jpg|right|thumb|185px|チェゼーナのミケーレ(左)、[[オッカムのウィリアム]](中央)、ピサ大司教のシモーネ・サルタレッリ([[:fr:Simone Saltarelli|fr]]、右) |
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{{仮リンク|アンドレア・ディ・ボナイウート|fr|Andrea di Bonaiuto}}画、14世紀 |
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この教勅を受けて、フランシスコ会16代総長の{{仮リンク|チェゼーナのミケーレ|en|Michael of Cesena}}は、60余名の収監中の聖霊派修道士に教皇への服従を求めた。多数の修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した<ref name=odauchi213/>。そこで教皇ヨハネスは、抵抗する聖霊派についての判断を13人の[[神学者]]からなる委員会に[[諮問]]した。神学者たちの答えは、あくまでも服従を拒み続けるのであれば、異端として断罪されるべきであるという見解で一致していた<ref name=odauchi213/>。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士をフランシスコ会の異端審問官ミシェル・ル・モワーヌに委ねた<ref name=odauchi213/>。最終的には5名を除いて異端的立場を捨て、教皇と総長に恭順を誓った。最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前に悔悛した1名のみ[[終身刑]]に処せられ、他の4名は世俗の手に渡され、[[1318年]][[5月7日]]、[[マルセイユ]]において[[火刑]]に処せられた<ref name=odauchi213/><ref group="注釈">教会の異端審問では、[[拷問]]の適用にはきびしい規制が課せられており、死刑を科すことはできなかった。死刑判決は世俗の裁判所の管轄となっていたので、強情な異端者はそこに引き渡され、刑の宣告や執行がなされた。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.197]]</ref>。 |
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ローマ教会が公認した会則にあくまでも忠実であろうとした人びとが生きながら火あぶりに処せられた光景には多くの人びとが衝撃を受けた<ref name=odauchi213/>。こののち、[[1328年]]までの10年間、異端審問による異端狩りがおこなわれた。マルセイユや[[モンペリエ]]、[[トゥルーズ]]などから多くの男女が、地方の司牧権力や世俗権力からの協力を得て、逮捕され、異端審問官たちによって尋問された。異端狩りの対象となったのは、聖霊派の信念を曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多くの在俗信徒(第三会)の支持者たちであった<ref name=odauchi213/>。[[1322年]]、フランシスコ会総会はキリストと[[12使徒]]が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明したが、この見解は聖霊派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端と非難、フランシスコ会は教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した<ref name=pgms166/>。 |
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一方、こうした厳しい弾圧に対し、聖霊派はフランシスコ会主流派のみならずヨハネス22世を首長とする[[カトリック教会]]に対しても公然と反抗、修道士たちは教皇制度の批判を展開した<ref name=jmr162>[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)pp.162-164]]</ref>。教会は[[イエス・キリスト]]自身も富を尊重していたと主張し、聖霊派に対する異端審問を強化して監禁や火刑に処し、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加えた<ref name=jmr162/>。ヨハネス22世はさらに、次々と教勅を発布して、それまでフランシスコ会に与えていた特権を撤回し、「キリストの清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧の立場からのあらゆる批判を封じようとした。具体的には、[[1322年]]3月に教勅『クィア・ノンヌンクァム (''Quia nonnunquam'' )』を発布し、かつて教皇が発布した教勅でも有害な結果をもたらすものならば撤回できるとし、[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]がかつて教勅で認めたフランシスコ会の清貧教義を撤回し、同年12月には教勅『アド・コンディトレム (''Ad conditorem'' )』を発布して、現実にフランシスコ会は財を保持している以上、清貧は虚偽であるとした<ref name=odauchi246>[[#小田内|小田内(2010)pp.246-249]]</ref>。さらに、[[1323年]]11月の教勅『クム・インテル・ノンヌッロス (''Qum inter nonnullos'' )』では何らかの財を使用しておきながら無所有であると主張することは罪悪であるとした<ref name=odauchi246/>。 |
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しかし、こうした一連のフランシスコ会成立の根幹部分にふれる強硬な介入に対しては、フランシスコ会の主流派も動揺し、総長チェゼーナのミケーレや{{仮リンク|ベルガモのボナグラフィア|en|Bonagratia of Bergamo}}、オッカムのウィリアムらは教皇を「異端」と非難し、[[1328年]]、ヨハネス22世と対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとへと逃亡し、ヨハネス22世の廃位を要求した<ref name=odauchi249>[[#小田内|小田内(2010)pp.249-250]]</ref>。 |
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=== 皇帝ルートヴィヒとの対立 === |
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ヨハネス22世が皇帝ルートヴィヒ4世に帝冠を授けようとしなかったため、両者の関係はきわめて悪化した<ref name=pgms166/>。ルートヴィヒは教皇を廃位させるための[[教会会議]]の開催を求めた<ref name=pgms166/>。弾圧され、雌伏を余儀なくされたフランシスコ会聖霊派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世との連携に救いを見いだし<ref name=pgms166/>、1328年、上述のようにフランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇のニコラウス5世としてローマに擁立した。 |
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同年、ルートヴィヒは、アナーニ事件の首謀者のひとりで[[コロンナ家]]のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して神聖ローマ皇帝の帝冠を受け、ヨハネス22世の教皇廃位を宣言した<ref name=pgms166/>。しかし、ルートヴィヒがローマを離れると対立教皇ニコラウス5世は捕らえられ、ニコラウスは[[1330年]]、ヨハネス22世に対し降伏した<ref group="注釈">チェザーレのミケーレの流れを汲む人々は、のちに南イタリアのナポリ王国や[[シチリア王国]]に逃亡し、「[[フラティチェッリ]]」と呼ばれる聖霊派の残党と合流した。[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)#小田内|小田内(2010)pp.249-250]]</ref>。ヨハネス22世は執念深い性格ではなかったため、ニコラウス5世はアヴィニョンで教皇庁内に部屋を与えられ、穏やかな晩年をすごすことができた<ref name=pgms166/>。なお、ヨハネス22世の没後、ルートヴィヒ4世は[[1338年]]のレンゼ帝国会議において、ドイツ諸侯の多数決によって選出されたローマ王は教皇による戴冠がなくても神聖ローマ皇帝であるという原則を打ち立てた。 |
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=== ロタ法廷 === |
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[[ファイル:PopeJohnXXIICameo.jpg|right|thumb|150px|ヨハネス22世の[[カメオ]]]] |
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[[14世紀]]前半は[[ローマ教会]]の堕落が批判された時代であった反面、教皇庁は組織面では顕著な発展をみせ、[[官僚制]]の先駆的な形態が出現して後世の世俗諸国の集権化においてそのモデルとなった<ref name=satoh>[[#池上|佐藤&池上(1997)p.259]]</ref>。クレメンス5世とヨハネス22世によって確立された[[ロタ法廷]]もそのひとつで、当初、主に聖職禄関係を扱うための裁判所として整備された<ref name=shimegi/>。1331年のヨハネス22世の教令『ラティオー・ユリス (''Ratio juris'' )』によって訴訟の進行やその諸規則、審決官の役割などが規定され、教皇庁の最終的決定機関および中心審査機関としての確立をみた<ref name=shimegi/>。ロタ法院は、10ないし13名の審決官が教会法学の[[伝統]]および合理性を守護しつつ、カトリック世界全体の紛争に最終的な決着をつける最高法院としての役割を担ったのである<ref name=satoh/>。 |
|||
なお、[[20世紀]]に[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]によって大審院が[[最高裁判所]]として改組されたのち、大審院は、ロタ法院の判決から[[控訴]]をうける役目をもつようになっている<ref>[[#小林|小林(1966)pp.144-145]]</ref>。 |
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=== 錬金術の禁止 === |
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{{see also|錬金術}} |
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カトリック教会は従来より[[錬金術]]に対し反対の立場をとっていたが、特にヨハネス22世は錬金術を禁止する教令を発し、錬金術師やその煽動者を処罰の対象とする旨を宣言した<ref>[[#平田|平田(2004)]]</ref><ref group="注釈">フランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]は、[[1380年]]、錬金術の操作に必要な[[器具]]類の所有を禁止した。[[#平田|平田(2004)]]</ref>。 |
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=== 最後の論争 === |
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1331年の冬、ヨハネス22世は説教のなかで、[[天国]]で至福を得る条件について、人は死後ただちに神を目の当たりにみて最高の幸福にいたるという従来の教説([[至福直観]])とは異なり、至福は[[最後の審判]]のときまで得られないという独自の見解を表明した<ref name=pgms166/>。この見解は物議をかもし、[[パリ大学]]や多くの在野の神学者から異端的教説との非難を浴びた<ref name=pgms166/>。このことより、教皇の晩年は非常に寂しいものとなった<ref name=pgms166/>。教皇と反目するすべての人間がヨハネス22世の見解を批判したが、教皇がそうした重大な危機からかろうじて救われたのは、臨終の悔悛によってであった<ref name=pgms166/>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist}} |
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{{Reflist|group=注釈}} |
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=== 参照 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* |
* {{cite book|和書|author=小林珍雄|authorlink=小林珍雄|translator=|chapter=|editor=|year=1966|month=8|title=法王庁|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|ref=小林}} |
||
* |
* {{cite book|和書|author1=佐藤彰一|authorlink1=佐藤彰一|author2=池上俊一|authorlink2=池上俊一|chapter=|editor=|year=1997|month=5|title=世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成|publisher=[[中央公論社]]|series=|isbn=4-12-403410-5|ref=池上}} |
||
* {{cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃(訳)|chapter=|editor=高橋正男(監修)|editor-link=高橋正男|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=[[創元社]]|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}} |
|||
* {{cite book|和書|author=J.M.ロバーツ|authorlink=:en:John Roberts (historian)|translator=月森左知・高橋宏|chapter=|editor=池上俊一(日本語版監修)|editor-link=池上俊一|year=2003|month=5|title=世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ|publisher=創元社|series=図説世界の歴史|isbn=4-422-20245-6|ref=ロバーツ}} |
|||
* {{cite book|和書|author=平田寛|authorlink=平田寛|chapter=錬金術|editor=小学館|editor-link=小学館|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=4099067459|ref=平田}} |
|||
* {{cite book|和書|author=小田内隆|authorlink=小田内隆|chapter=|editor=|year=2010|month=9|title=異端者たちの中世ヨーロッパ|publisher=[[日本放送出版協会]]|series=[[NHKブックス]]|isbn=978-4-14-091165-5|ref=小田内}} |
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== 外部リンク == |
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ヨハネス22世 | |
---|---|
第196代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1316年8月7日 |
教皇離任 | 1334年12月4日 |
先代 | クレメンス5世 |
次代 | ベネディクトゥス12世 |
個人情報 | |
出生 |
1244年頃 フランス王国 カオール |
死去 |
1334年12月4日 プロヴァンス伯領 アヴィニョン |
その他のヨハネス |
ヨハネス22世(Ioannes XXII、1244年? - 1334年12月4日)は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位1316年 - 1334年)。教会慣用名はヨハネ[1]。
教皇登位まで
[編集]フランス南西部の商業都市カオールの裕福な中産階級の出身であり、本名は ジャック・ドゥーズ(Jacques Duèze)であった[2]。グエルフィ(ゲルフ、教皇派)のリーダーと見なされていたナポリ王ロベルト1世(ロベール)の秘書を務めたのち、南仏プロヴァンスのフレジュスの司教、1310年からはアヴィニョンの司教を経て1312年に枢機卿に任命された[2][注釈 1]。
これに先立つ1303年、アナーニ事件の直後に教皇ボニファティウス8世がローマにて死去し、枢機卿団が分裂して教皇選挙(コンクラーヴェ)の実施に困難が生じ、また、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王フィリップ4世(端麗王)の干渉により、1309年に教皇庁が南仏アヴィニョンに移るという事態が生じた(アヴィニョン捕囚)。アヴィニョン教皇庁での初めての教皇となったクレメンス5世は、修道会の会則を厳格に遵守するかどうか(清貧論争)をめぐって分裂傾向にあったフランシスコ会(フランチェスコ会)の問題を調査する委員会を教皇庁内に設けた[3]。
クレメンス5世が1314年に死去してからは、約2年間にわたって教皇位は空位であったが、1316年、コンクラーヴェは新しい教皇として当時72歳頃であったドゥーズ枢機卿を選出した[2]。ドゥーズ枢機卿が新教皇ヨハネス22世として登位したのは1316年8月7日のことであった[1]。
治世
[編集]ヨハネス22世は、教皇庁をアヴィニョンからローマに戻す気はまったくなく、また登位時すでに高齢であったにもかかわらず周囲から優れた教皇として期待された[2]。ヨハネス22世はその在任中、驚異的な根気強さで教皇庁の財政再建に努めたため、彼が死去したとき、教皇庁の金庫には大量の金貨が収められていたといわれている[2]。また、財政管理のため行政改革をおこない、「三位一体の祝日」を制定し、さらにクレメンス5世と自身が発した教令(教皇本人の決定が記された、教皇の発した書簡)の中で教義や教会法に関するものについて編纂し、『教皇教令集』として発刊した[2]。これは、後世の教皇や教会法学者のよりどころとなる定義や先例となって教会法の発展に寄与した[2]。
ヨハネス22世はまた、アジアへの伝道を奨励し、アヴィニョンに図書館を設置する事業に着手したほか、1331年には故郷のカオールに大学(カオール大学)を創設した[2][注釈 2]。なお、1318年にイングランドに所在するケンブリッジ大学に対し、全キリスト教国に通用する学位の認定を承認し、これにより同大学の発展の基礎が築かれた。
宗教政策の面では、ヨハネス22世は魔女を異端として扱うことを決めている。また、神学者として知られたオッカムのウィリアムやマイスター・エックハルトに対し、異端審問をおこなった(オッカムは逃亡し、エックハルトは投獄中に死去している)。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世とは対立し、ルートヴィヒの側について彼を擁護したパドヴァのマルシリウスを破門に処した。
ヨハネス在位中の1328年、ローマでフランシスコ会修道士のピエトロ・ライナルドゥッキが教皇ニコラウス5世を名乗って対立教皇となったが、1330年に退位した。
聖職禄授与権の立法化
[編集]1316年9月15日、ヨハネス22世によって教皇教令『エクス・デビトー(Ex debito )』が発せられた[4]。これは、聖職者に授与される禄に関するものであり、教皇がその至高性のもとに授与権を立法化しようとするものであったが、登位よりわずか1か月後の発布であることを考えると、彼がこの件を教皇職にとって最優先課題と考えていたことがうかがわれる[4]。この教令は、教皇権による「全般的留保」の対象となる禄を精細に定義していることを一大特徴としており、ヨハネス22世以降のアヴィニョン教皇による聖職禄政策の根幹をなすものとなった[4]。また、アヴィニョン時代の聖職禄政策はフランスを中心に広範な地域におよび、教会政治のうえでも、財政的な面からも教皇庁行政の根幹をなしており、ヨハネス22世自身、教令を実際の政策におおいに適用していたことが確認されている[4]。
フランシスコ会「清貧論争」への介入
[編集]前任のクレメンス5世は1309年、教皇庁内にフランシスコ会の会則問題について調査委員会を設け、会則の厳格な遵守を主張するスピリトゥアル派(聖霊派)と緩和を主張する穏健な主流派の双方の代表を招き「清貧」について論じさせた[3]。このように歴代の教皇は、フランシスコ会の内部対立の仲裁を求められ、それに対し応じてきたのであった[2]。
ヨハネス22世は1317年、ナルボンヌ(南仏・オード県)とベジエ(同エロー県)の聖霊派修道士に対し、「短い僧衣」を捨て、主流派のフランシスコ会総長に服従すべしと命じ、修道会対立の解消をはかった[5]。「短い僧衣」とは、聖霊派の「貧しき使用」実践の象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身のアイデンティティを放棄するよう命じたものにほかならなかった[5]。そして、ルボンヌとベジエの聖霊派修道士61名を名指しで召喚し、10日以内にアヴィニョンに出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、査問を拒否する者は破門に処することを申し伝えた[5]。両地の修道士たちは5月22日深夜、アヴィニョンの教皇宮殿の門前にたどりつき、翌日より査問が始まった[5]。査問の光景は、聖霊派の指導者の一人アンジェロ・クラレーノの筆を通じて知ることができる。教皇は多数の顧問団に囲まれ、立派な椅子に腰掛けており、一方の側には豪華な盛装の主流派が、一方の側にはつぎはぎだらけの「短い僧衣」の聖霊派が控えた[5]。クラレーノによれば、査問とは名ばかりで、実際には逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下、正義を」という叫びのなか、聖霊派の会士はひとりひとり連れ去られ、アヴィニョン教皇庁内の牢獄に収監された[5]。
1317年10月、ヨハネス22世は教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト(Quorumdam exigit )』を発し、フランシスコ会の修道士は、修道会総長が粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置を認可する権限を持つことを認めよと命じた[5]。教皇は、教勅を「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」の言葉で結んだ[5]。結局、ヨハネス22世が求めたことは、全会員に対して修道会総長の権威に、そして最終的には教皇の権威に服従させることであった[5]。
この教勅を受けて、フランシスコ会16代総長のチェゼーナのミケーレは、60余名の収監中の聖霊派修道士に教皇への服従を求めた。多数の修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した[5]。そこで教皇ヨハネスは、抵抗する聖霊派についての判断を13人の神学者からなる委員会に諮問した。神学者たちの答えは、あくまでも服従を拒み続けるのであれば、異端として断罪されるべきであるという見解で一致していた[5]。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士をフランシスコ会の異端審問官ミシェル・ル・モワーヌに委ねた[5]。最終的には5名を除いて異端的立場を捨て、教皇と総長に恭順を誓った。最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前に悔悛した1名のみ終身刑に処せられ、他の4名は世俗の手に渡され、1318年5月7日、マルセイユにおいて火刑に処せられた[5][注釈 3]。
ローマ教会が公認した会則にあくまでも忠実であろうとした人びとが生きながら火あぶりに処せられた光景には多くの人びとが衝撃を受けた[5]。こののち、1328年までの10年間、異端審問による異端狩りがおこなわれた。マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどから多くの男女が、地方の司牧権力や世俗権力からの協力を得て、逮捕され、異端審問官たちによって尋問された。異端狩りの対象となったのは、聖霊派の信念を曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多くの在俗信徒(第三会)の支持者たちであった[5]。1322年、フランシスコ会総会はキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明したが、この見解は聖霊派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端と非難、フランシスコ会は教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した[2]。
一方、こうした厳しい弾圧に対し、聖霊派はフランシスコ会主流派のみならずヨハネス22世を首長とするカトリック教会に対しても公然と反抗、修道士たちは教皇制度の批判を展開した[6]。教会はイエス・キリスト自身も富を尊重していたと主張し、聖霊派に対する異端審問を強化して監禁や火刑に処し、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加えた[6]。ヨハネス22世はさらに、次々と教勅を発布して、それまでフランシスコ会に与えていた特権を撤回し、「キリストの清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧の立場からのあらゆる批判を封じようとした。具体的には、1322年3月に教勅『クィア・ノンヌンクァム (Quia nonnunquam )』を発布し、かつて教皇が発布した教勅でも有害な結果をもたらすものならば撤回できるとし、ニコラウス3世がかつて教勅で認めたフランシスコ会の清貧教義を撤回し、同年12月には教勅『アド・コンディトレム (Ad conditorem )』を発布して、現実にフランシスコ会は財を保持している以上、清貧は虚偽であるとした[7]。さらに、1323年11月の教勅『クム・インテル・ノンヌッロス (Qum inter nonnullos )』では何らかの財を使用しておきながら無所有であると主張することは罪悪であるとした[7]。
しかし、こうした一連のフランシスコ会成立の根幹部分にふれる強硬な介入に対しては、フランシスコ会の主流派も動揺し、総長チェゼーナのミケーレやベルガモのボナグラフィア、オッカムのウィリアムらは教皇を「異端」と非難し、1328年、ヨハネス22世と対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとへと逃亡し、ヨハネス22世の廃位を要求した[8]。
皇帝ルートヴィヒとの対立
[編集]ヨハネス22世が皇帝ルートヴィヒ4世に帝冠を授けようとしなかったため、両者の関係はきわめて悪化した[2]。ルートヴィヒは教皇を廃位させるための教会会議の開催を求めた[2]。弾圧され、雌伏を余儀なくされたフランシスコ会聖霊派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世との連携に救いを見いだし[2]、1328年、上述のようにフランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇のニコラウス5世としてローマに擁立した。
同年、ルートヴィヒは、アナーニ事件の首謀者のひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して神聖ローマ皇帝の帝冠を受け、ヨハネス22世の教皇廃位を宣言した[2]。しかし、ルートヴィヒがローマを離れると対立教皇ニコラウス5世は捕らえられ、ニコラウスは1330年、ヨハネス22世に対し降伏した[注釈 4]。ヨハネス22世は執念深い性格ではなかったため、ニコラウス5世はアヴィニョンで教皇庁内に部屋を与えられ、穏やかな晩年をすごすことができた[2]。なお、ヨハネス22世の没後、ルートヴィヒ4世は1338年のレンゼ帝国会議において、ドイツ諸侯の多数決によって選出されたローマ王は教皇による戴冠がなくても神聖ローマ皇帝であるという原則を打ち立てた。
ロタ法廷
[編集]14世紀前半はローマ教会の堕落が批判された時代であった反面、教皇庁は組織面では顕著な発展をみせ、官僚制の先駆的な形態が出現して後世の世俗諸国の集権化においてそのモデルとなった[9]。クレメンス5世とヨハネス22世によって確立されたロタ法廷もそのひとつで、当初、主に聖職禄関係を扱うための裁判所として整備された[4]。1331年のヨハネス22世の教令『ラティオー・ユリス (Ratio juris )』によって訴訟の進行やその諸規則、審決官の役割などが規定され、教皇庁の最終的決定機関および中心審査機関としての確立をみた[4]。ロタ法院は、10ないし13名の審決官が教会法学の伝統および合理性を守護しつつ、カトリック世界全体の紛争に最終的な決着をつける最高法院としての役割を担ったのである[9]。
なお、20世紀にピウス10世によって大審院が最高裁判所として改組されたのち、大審院は、ロタ法院の判決から控訴をうける役目をもつようになっている[10]。
錬金術の禁止
[編集]カトリック教会は従来より錬金術に対し反対の立場をとっていたが、特にヨハネス22世は錬金術を禁止する教令を発し、錬金術師やその煽動者を処罰の対象とする旨を宣言した[11][注釈 5]。
最後の論争
[編集]1331年の冬、ヨハネス22世は説教のなかで、天国で至福を得る条件について、人は死後ただちに神を目の当たりにみて最高の幸福にいたるという従来の教説(至福直観)とは異なり、至福は最後の審判のときまで得られないという独自の見解を表明した[2]。この見解は物議をかもし、パリ大学や多くの在野の神学者から異端的教説との非難を浴びた[2]。このことより、教皇の晩年は非常に寂しいものとなった[2]。教皇と反目するすべての人間がヨハネス22世の見解を批判したが、教皇がそうした重大な危機からかろうじて救われたのは、臨終の悔悛によってであった[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 政治家でもあったフィレンツェ出身の文人ダンテ・アリギエーリは、グエルフィの指導者と目されていたナポリ・アンジュー朝のロベルト1世について、「口先だけの王」と断じている。マックスウェル・スチュアート(1999)p.167
- ^ カオール大学出身者としては、16世紀から17世紀にかけての聖職者・法律家で天文学者のジャン・タルドがいるが、大学そのものは18世紀になくなっている。
- ^ 教会の異端審問では、拷問の適用にはきびしい規制が課せられており、死刑を科すことはできなかった。死刑判決は世俗の裁判所の管轄となっていたので、強情な異端者はそこに引き渡され、刑の宣告や執行がなされた。マックスウェル・スチュアート(1999)p.197
- ^ チェザーレのミケーレの流れを汲む人々は、のちに南イタリアのナポリ王国やシチリア王国に逃亡し、「フラティチェッリ」と呼ばれる聖霊派の残党と合流した。小田内(2010)pp.249-250
- ^ フランス王シャルル5世は、1380年、錬金術の操作に必要な器具類の所有を禁止した。平田(2004)
参照
[編集]- ^ a b 小林(1966)巻末「歴代法王票」p.9
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s マックスウェル・スチュアート(1999)pp.166-169
- ^ a b 小田内(2010)pp.209-213
- ^ a b c d e f 標珠実「教皇権による聖職禄授与権の立法化とその適用 -ヨハネス22世の聖職禄政策にみる知と権力-」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊日本史東洋史西洋史考古学』第51巻、2006年2月、65-74頁、CRID 1050282677456635008、hdl:2065/27667、ISSN 1341-7541。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小田内(2010)pp.213-217
- ^ a b ロバーツ(2003)pp.162-164
- ^ a b 小田内(2010)pp.246-249
- ^ 小田内(2010)pp.249-250
- ^ a b 佐藤&池上(1997)p.259
- ^ 小林(1966)pp.144-145
- ^ 平田(2004)
参考文献
[編集]- 小林珍雄『法王庁』岩波書店〈岩波新書〉、1966年8月。
- 佐藤彰一、池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5。
- P.G.マックスウェル・スチュアート 著、月森左知・菅沼裕乃(訳) 訳、高橋正男(監修) 編『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年12月。ISBN 4-422-21513-2。
- J.M.ロバーツ 著、月森左知・高橋宏 訳、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6。
- 平田寛 著「錬金術」、小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2010年9月。ISBN 978-4-14-091165-5。