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「五式戦闘機」の版間の差分

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| 名称=川崎 キ100 五式戦闘機
| 名称=川崎 キ100 五式戦闘機
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| キャプション=[[イギリス空軍博物館]]に展示されている五式戦一型キ100-I)
| キャプション=[[イギリス空軍博物館]]に展示されている五式戦一型(キ100-I)
| 用途=[[戦闘機]]
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| 設計者=[[土井武夫]]
| 設計者=[[土井武夫]]
| 製造者=[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]
| 製造者=[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]
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| 初飛行年月日=1945年2月
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| 生産数=393機(諸説あり)
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'''五式戦闘機'''(ごしきせんとうき)は[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国陸軍]]最後の制式[[戦闘機]]。[[キ番号]](試作名称)は'''キ100'''。略称・呼称は'''五式戦'''<ref>秋本実著『日本の戦闘機/陸軍篇』1961年出版協同社刊57ページ</ref>非公式な愛称・通称としては「飛燕改」など。本機固有の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の[[コードネーム]]存在しない。開発・製造は[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]。設計主務者は[[土井武夫]]。
'''五式戦闘機'''(ごしきせんとうき)は[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国陸軍]]最後の制式[[戦闘機]]である。[[キ番号]](試作名称)は'''キ100'''。略称・呼称は'''五式戦'''<ref>秋本実著『日本の戦闘機/陸軍篇』1961年出版協同社刊57ページ</ref>。「隼」「鍾馗」などと言った他陸軍戦闘機に用いられた日本側愛称は存在しないが、非公式な愛称・通称としては「飛燕改」など{{要出典|date=2012-12}}また本機固有の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の「Zeke」「Tony」などといった[[コードネーム]]存在しない。開発・製造は[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]が行った。設計主務者は[[土井武夫]]である


大戦末期に登場したため活躍は少ないもののエンジン機体バランスが良く同の連合軍戦闘機と比べても遜色のない機体であったとされる<ref>航空情報編集部編『戦闘機WORLD WARII』(株)酣燈社1972年136ページ</ref>
[[液冷エンジン]]の供給不足に陥り、機体のみが余っていた[[三式戦闘機]]に急遽[[空冷エンジン]]を搭載し戦力化したものであるが、時間的猶予が無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮した。五式戦闘機は大戦末期に登場し、ま生産数も少ないために実戦での活躍は少ない末期の日本陸軍にり相応戦力となった。当時の搭乗員には好評で、連合軍戦闘機と比べても遜色のない機体であったとされる<ref>航空情報編集部編『戦闘機WORLD WARII』(株)酣燈社1972年136ページ</ref>


== 開発経緯 ==
== 開発経緯 ==
=== 三式戦闘機二型の失敗 ===
[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]](キ61)は、当初から大[[馬力]][[エンジン]]への換装が考慮されていたため機体構造が頑丈で、主翼形状も高高度戦闘に向いたものであったことから、来襲が予想されていた[[B-29_(航空機)|B-29]]に対する高高度迎撃機として期待され、[[液冷エンジン|液冷]][[倒立V型エンジン|倒立V]]12[[シリンダー|気筒]]エンジン[[ハ40 (エンジン)|ハ40]]の出力向上型である[[ハ40 (エンジン)|ハ140]](離昇出力1,450[[馬力]])を搭載したキ61-IIの開発が進められていた。[[1944年]](昭和19年)8月には審査が完了し、直ちに三式戦二型(キ61-II改)として生産が開始された。
{{see also|三式戦闘機|ハ40}}
五式戦闘機は、前面投影面積が少なく空気抵抗が少ない液冷エンジンを搭載した三式戦闘機二型の機体に、本来搭載が予定されていなかった直径の大きな空冷星型エンジンを緊急に取り付けて戦力化したものである。


三式戦闘機は元々、ドイツ製液冷倒立12気筒エンジン[[DB601]]を国産化し川崎がライセンス生産していた[[ハ40]](離昇出力1175馬力)を搭載していた。初期型の三式戦一型甲/乙型は12.7mm機関砲4門、または12.7mm機関砲2門と7.7mm機関銃2門の武装を備えて最高速度590km/hを発揮した。後期型の三式戦一型丁は12.7mm機関砲2門に20mm機関砲2門と武装を強化し、また相応の防弾性能を持たせたが、改造による重量増で最高速度が560km/hに落ち、上昇力が低下するなど飛行性能は悪化した。しかしながら、三式戦闘機は登場時期においては相応に優秀な機体であり、戦局は有利に運ばなかったものの、1943年から1945年にかけ、[[ニューギニア]]と[[フィリピン]]で連合国の機体を相手にして良く戦った。
しかしながら、[[ドイツ]]の[[ダイムラー・ベンツ]]製[[DB 601]]を川崎重工業が[[ライセンス生産]]したハ40は、当時の日本の技術では製造と部品の供給が難しく、更に熟練工の不足などから製品精度が落ち始め、制式採用直後に生産が滞る事態となっていた。まして新型でより複雑なハ140の生産遅滞の状況は深刻で、エンジン未装備の「首無し」状態の三式戦二型が、ピーク時の[[1945年]](昭和20年)1月には230機ほども工場内外に並ぶという異常事態となった。
[[File:Kawasaki Ki-61 Hien front view.jpeg|thumb|right|250px|三式戦闘機の前面写真。細身の水冷エンジンを装備している]]
ただし液冷式のエンジンの生産と整備は日本の工業力と兵員にとり不慣れなものであった。ドイツ製の高品質な液冷エンジンは日本の工業力にとり手に余るものであり、また原料調達不可などで一部合金が生産不可など制限を受けながら生産したため{{sfn|渡辺|2006|p=156-157}}に不具合が生じた。また前線の整備兵も液冷エンジンの取り扱いには不慣れであり、原因としてマニュアルの不備、教育の不徹底などからくる整備技量の拙劣さが挙げられる。これらは三式戦闘機の稼働率と直結し、戦闘力はともかく、信頼性と戦力定数を揃える上でかなりの不満があるものであり{{sfn|渡辺|2006|pp=117-118}}、川崎内部でも以前より空冷化案が出ては立ち消えていたという{{sfn|碇|2006|p=225}}。


またハ40のエンジンは離昇出力で1175馬力を発揮するものであり、1943年以降の空戦において連合軍機と対峙するには出力が不足し、三式戦闘機のこれ以上の性能改善にはより強力な新型エンジンが必要な状況であった。特に過給器など高空性能を支持するエンジン技術には不足が多く、高度10,000m付近では水平飛行を維持する、もしくは浮かんでいるのがやっとの状態であり{{sfn|渡辺|2006|pp=279-280}}{{sfn|渡辺|2006|pp=299-300}}、この高度を巡航するB-29の迎撃はおぼつかなかった。従ってB-29の邀撃には待ち伏せして一撃をかけるのが精一杯であった。この高空性能の不足は最後まで改善を見ず、三式戦闘機においては機銃の一部や防弾版を外してなんとか戦闘空域まで上昇し、体当たり攻撃が行われたほどであった{{sfn|渡辺|2006|p=284, 289-290}}。
こうした事態はすでに前年からある程度予測されており、1944年4月には陸軍より川崎に対して、三式戦二型の液冷エンジンを[[空冷エンジン]]に換装する予備研究が提案された。自社製の液冷エンジンを捨てることに抵抗感を示していた川崎側だったが<ref group="注">液冷エンジンの信頼性向上に取り組む自社明石工場に遠慮して早期に換装することを言い出せなかったと土井武夫は述べている。</ref>、現実に首無し滞留機が出現し始めた1944年10月、[[軍需省]]より三式戦二型の首無し機に[[三菱重工業]]製[[金星 (エンジン)|ハ112-II]](離昇出力1,500馬力)を装着すべく換装命令が出され<ref group="注">この時、他のエンジンも候補に挙げられたが、生産に余力があること、さらにハ140と同等の出力を有することが勘案された</ref>、陸軍はこれに'''キ100'''のキ番号を付与し、<!--ノートも参照されたい。-->1945年([[神武天皇即位紀元|皇紀]]260'''5'''年)に制式採用したため'''五式戦闘機'''と呼称された。なお、大戦末期登場のために「[[飛燕]]」や「[[疾風]]」といった陸軍新鋭戦闘機につく愛称は連合軍のコードネームと共に存在しない。また、三式戦の首無し機体を流用した操縦席の[[キャノピー|天蓋]]がファストバック型を「五式戦一型''甲''」、最初から五式戦として生産された水滴型<ref group="注">三式戦二型の後方視界改善型を流用。</ref>を「五式戦一型''乙''」とする区別も存在するが、これは戦後に作られたもので公式名称ではない。


1942年春、ハ40の基本的な構造はそのままとし、1500馬力級液冷倒立V12気筒エンジン'''ハ140'''の開発が行われた。この新型エンジンは[[吸気圧]]を上げてエンジン回転数を2,500[[rpm]]から2,750rpmとし、離昇出力を1175馬力から1500馬力に高め{{sfn|渡辺|2006|p=219}}、大型化した過給器の冷却のために[[水メタノール噴射装置]]を導入した{{sfn|渡辺|2006|p=219}}ものである。しかしながらこのエンジンの生産は非常に難航した。このエンジンを搭載した最初の型式であるキ61-IIは、1943年9月から1944年1月までに8機の試作で中止され{{sfn|片渕|2007|p=94}}{{sfn|渡辺|2006|p=219}}、9機目からはキ61-II改、三式戦闘機二型として生産されたが、1944年8月までに30機の増加試作を経ても{{sfn|片渕|2007|p=94}}、未だにエンジンであるハ140の生産が安定するには至らなかった。エンジンの生産数を見るならば、44年7月に20台納入の予定が8台、8月は40台納入予定がわずかに5台、9月に至っては1台であった{{sfn|渡辺|2006|p=342}}{{refnest|group = * | なお、ハ140の生産は10月-12月には24、21、45台と一時的に復調しているが、年が明けると8台、7台、2台、0台という生産数であった{{sfn|片渕|2007|p=94}}。}}。一説にはこの時海軍のアツタを調達して装備することが検討されたとも言われるが、両エンジンの仕様の違いなどから実現しなかった{{sfn|碇|2006|p=223}}。1944年8月には三式戦二型の実戦化に見切りが付けられた。機体の生産数の削減が行われ、代わりに[[四式重爆撃機]]の生産が指示される{{sfn|土井|2002|p=36}}{{sfn|古峰|2007|p=152}}。削減後にも工場内において低調な生産が続けられ、1944年12月から1945年2月の時期には三式戦二型の首無し機体が常時200機程度、川崎の工場内に滞る異常事態が起きた{{sfn|古峰|2007|p=154}}。航空戦力として全く期待ができない状況であった。
ちなみに五式戦が開発された当時、「大東亜決戦機」として期待された[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]](キ84)も、小型軽量高出力を目指して開発された[[誉 (エンジン)|ハ45]]エンジンの不調に悩まされており、稼働率の高い陸軍戦闘機は開戦以来の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]](キ43)のみという窮地に陥っていた。


最終的に三式戦闘機二型の生産は100機程度で一旦打ちきられることとなった<ref group = *>実際にハ140を搭載し完成したのは99機とするのが定説である。</ref>{{sfn|渡辺|2006|p=342}}。しかし、アメリカ軍の爆撃により完成機の一部が破壊され、陸軍に納入されたのは60機程度であった{{sfn|土井|1999|p=102}}{{sfn|土井|2002|p=37}}。なお、1945年6月から8月の整備計画には三式戦闘機が残されていることから、ハ140の生産が安定すれば生産が再開された可能性がある{{sfn|古峰|2007|p=156}}。
=== 設計・特徴 ===
[[画像:Ki-100 in the RAF Museum 02.jpg|thumb|200px|正面から見るとエンジン[[カウル]]と胴体の間に段差があることがわかる]]
正面面積の小さい液冷エンジン装備を前提に設計されたスマートな胴体に、直径の大きな空冷エンジンを取り付けることは大きな困難が伴った。そこでドイツより輸入され[[陸軍航空審査部]]にて試験機として、[[メッサーシュミット_Bf109|Bf109]]や[[鹵獲]]連合軍機と共にテストされていた[[フォッケウルフFw190|Fw 190A-5]]の排気まわりの空力処理を参考にし、太くなった機首部分と細い胴体の段差に単排気管を並べ、段差で発生する乱流を排気ガスのジェット効果で吹き飛ばすようにした。埋めきれない段差は、最小限のフィレットを取り付けることで解決している<ref group="注">これは既に量産されていた[[大日本帝国海軍|海軍]]の彗星三三型の空力処理とまったく同様である。</ref>。こうした開発陣の努力により、開発開始から僅か3ヶ月後の1945年2月には初飛行に漕ぎ着けた。


=== 空冷化の決定 ===
武装は三式戦二型と同じく20[[ミリメートル|mm]][[航空機関砲|機関砲]](ホ5・[[二式二十粍固定機関砲]])を機首に2門、12.7mm機関砲(ホ103・[[一式十二・七粍固定機関砲]])を主翼に2門装備している。高高度性能を向上させるため、12.7mm機関砲を降ろした部隊もあったとされる<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]296頁</ref>。
三式戦闘機二型の実戦化が遅々として進まない段階において、川崎の工場内にはエンジンが装着されない三式戦闘機が並べられているのが常態化していた。この状況から、航空審査部飛行実験部長の今川一策大佐らは、1943年末頃に早くも三式戦闘機の空冷化を提案している{{sfn|渡辺|2006|p=339}}。これはキ61-II、最初の8機の試作が完成した頃から既に行われていた提案であった。


設計主務者の土井にとってもこの状況は受け容れがたいものであり、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を考慮したこともあった。1944年初期にはかなり空冷化に気持ちが傾いていたとされる{{sfn|渡辺|2006|p=339}}。しかし、同じ川崎の明石工場ではハ140の生産に心血を注いでおり、これは提案できる状況ではなかった{{sfn|土井|2002|p=37}}。
正面面積が三式戦に比べてやや増大したため、最高速度が飛燕一型(キ61-I)より10[[キロメートル毎時|km/h]]ほど低下した他、機首が短くなったため縦安定性が悪くなり、離陸直後の低速時の姿勢保持には注意する必要があった<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]295頁</ref>。一方、冷却装置などの補機類や尾部の[[重し|バラスト]]が不要になったことにより330[[キログラム|kg]]もの軽量化と重量バランスの改善を果たすことができ、上昇力、運動性能が格段に向上した。特に三式戦譲りの頑強な機体は、[[アメリカ海軍]]の[[艦上戦闘機]][[F6F_(航空機)|F6Fヘルキャット]]並みの、800km/h以上の急降下速度に耐えることができた。また、最高速度580km/hは当時の世界水準からは低いが、低高度ではさほど遜色なく、余剰馬力の大きさと良好な縦の運動性は大きな強みであった<ref group="注">日本の戦闘機は総じて[[プロペラ]]直径が欧米機に比べ小さいので、最高速度は不利になるが、加速性には有利である。</ref>。


また、海軍はハ40と同様にDB601を空冷化した[[アツタ (エンジン)|アツタ]]を[[愛知航空機]]に生産させ、[[彗星 (航空機)|彗星艦上爆撃機]]に搭載していたが、これの性能向上型であるアツタ32型(離昇出力1400馬力)もやはりハ140と同様に量産に苦労しており、彗星の空冷化が考えられていた。これを知った航空本部総務課の技術主任である岩宮満少佐は、土井に対し、三式戦闘機のエンジンをハ112-II(詳しくは後述)に換装するよう提案する。土井は既に覚悟を決めていたのか理解を示したようであるが、話はうまくは進まなかった{{sfn|渡辺|2006|pp=340-341}}。この原因に関し、渡辺 (2006)の説に拠れば、三式戦二型の空冷化を図れば、ハ140を生産している川崎航空明石工場は当面生産ラインが遊ぶこととなり、これを軍需省が問題としたらしい{{sfn|渡辺|2006|pp=340-341}}。またハ112-IIの供給も潤沢とは言えない{{sfn|渡辺|2006|pp=340-341}}状況であった。最後に土井も懸念した、川崎明石工場各位への「人情」が挙げられた{{sfn|渡辺|2006|pp=340-341}}。
当初の目的である生産性の向上に加え、思わぬ副次効果に陸軍当局は狂喜乱舞した。そのためキ100は制式採用を前提として、直ちに首無し機体の改造と新規機体の製造準備が開始された。しかしながら、ハ112-IIは新型の燃料噴射ポンプに生産上の隘路を抱えており生産立ち上がりに伸び悩み、更には[[東南海地震]]により三菱のエンジン生産工場が大打撃を受けたことにより生産は事実上ストップという事態に立ち至った。エンジン換装によるキ61系列生産の増大という目的は果たされることのないまま、キ100は終戦を迎えることになる。


だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された{{sfn|渡辺|2006|pp=341-342}}。
ただし液冷エンジンの三式戦の長所としては、高高度での性能低下が空冷エンジン搭載機よりも小さい事が挙げられる<ref group="注">高高度では大気が希薄になるため、空冷エンジンでは冷却が困難になる。</ref>。当然ながら空冷エンジンの五式戦では、軽量化というメリットはあるものの、エンジン自体の性能に起因する高高度性能の低下はやむを得なかった<ref group="注">ただし三式戦闘機より軽量化され[[翼面荷重]]が小さくなっている事から、操縦方法次第(急降下で速度を稼ぎ、再上昇する)では高空性能に有利に働く。飛行十八戦隊搭乗員の角田大尉によれば、三式戦では高度6000-800mのB-29に一撃かけるのがやっとだったが、五式戦では一度降下したあと再び上昇して二撃(下面攻撃)をかけることが可能であったと証言し、実際にB-29を撃墜した([[#陸軍戦闘機隊]]289頁。3月24日の戦闘)。もちろん「一撃」や「二撃」であり、その高度を維持できていない事は、高空性能の不足を物語るものである。</ref>。当然ながら当時切迫していたB-29の迎撃において問題となり<ref group="注">当時の日本機としては比較的高空性能に優れていた三式戦闘機すら、B-29の高高度性能との差は大きく、体当たり攻撃すら行われていた。[[震天制空隊]]の項目を参照。</ref>、[[ターボチャージャー|排気タービン過給機]]付きエンジンを搭載した'''キ100-II'''も試作された。


軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無し(発動機及びプロペラ搭載前)の三式戦に空冷発動機を搭載した'''キ100'''の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される{{sfn|古峰|2007|p=153}}。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは[[金星 (エンジン)|金星]]62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、[[栄 (エンジン)|栄]]よりやや大型で、直径は1218mmである{{sfn|渡辺|2006|pp=340-343}}。
優れた過給機の搭載の有無のほうが、液冷か空冷かの違いよりも、高高度性能には大きく影響する。キ100-IIでは高度10,000[[メートル|m]]でも590km/hの速度を発揮できることが分かり、これは三式戦よりも高高度性能は向上している事を示している。このエンジンはその当時既に[[一〇〇式司令部偵察機|一〇〇式司令部偵察機四型]](キ46-IV)で実用化されており、キ100-IIは日本では初めての実用的な高高度戦闘機となる予定であった。ただし、一〇〇式司偵で実用化されたと言っても、実際は極少数機が製作されただけであり、排気タービン自体も[[インタークーラー]]を省略した簡易型に過ぎず<ref group="注">ただし過給機は低空では重量・空気抵抗増加のため性能低下の要因にしかならない。インタークーラーを省略すれば当然ながら過給効果も低下するが、過給機自体が軽量小型化でき、低空での性能低下は緩和されるというメリットもある。また日本機は元よりインタークーラーの代用となる[[水メタノール噴射装置]]を採用している。</ref>、半ば使い捨て同然の代物である<ref group="注">ただし[[アメリカ]]が他国に先駆けていち早く排気タービン過給機の実用化に成功したのは、頻繁に交換する消耗品と割り切ったからであり、アメリカの豊かな国力ゆえの余裕と、追いつめられ手段を選べなくなった日本とでは立場が全く異なるが、「半ば使い捨て」という状況は同じであった。</ref>。キ100-IIは1945年9月から量産に入る予定だったが、同年8月の終戦により3機の試作に終わった。総生産機数は計393機であった。


なお古峰 (2007)は、[[キ99]]と[[キ101]]の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している{{sfn|古峰|2007|p=153}}。
また、ハ112-IIは永年使用されてきた金星系列の発展型として、燃料噴射機構を[[キャブレター]]式から[[インジェクション]]式に変更し出力を向上していたが、四式戦のハ45に比べると出力や回転数にはやや余裕があり、信頼性が高かった。四式戦がハ45の不調で稼働率が激減していたことから、五式戦の高評価の背景には、三式戦ゆずりの機体そのものの素性の良さはもちろんであるが、エンジンの高い信頼性にも理由があった。ただし液冷エンジンの三式戦と比較してのことであり、明野教導飛行師団では満足に飛ぶことができず、沖縄航空戦のための移動の際にも故障機が続出するなど信頼性が高いとは一概には言いがたい。ハ112-IIに関しても昭和20年においても初期不良が続き、同エンジンを装備した百式司偵三型も稼働率は芳しくなかった。


=== 開発・設計 ===
しかし、開発開始から間もない1944年末にエンジンを生産する三菱の工場が[[空襲]]と[[東南海地震]]で壊滅したため、五式戦の量産体制は敷けず、大東亜決戦機たる{{要出典範囲|四式戦の生産を優先する方針|date=2011年9月}}が終戦まで維持された。
[[画像:Ki-100 in the RAF Museum 02.jpg|thumb|250px|正面から見るとエンジン[[カウル]]と胴体の間に段差があることがわかる]]
エンジンの換装が決定したが、技術的問題は胴体幅840mmの三式戦闘機に、直径1218mmのハ112-IIをどう搭載するかであった。土井によれば、カウリングでエンジン周囲を覆うなどの処置を行うと、この部分の幅は最小でも1280mmになった{{sfn|土井|1999|p=103}}。幸いにも発動機を搭載するため機体に装備される発動機架は少々の改造で設置することができ{{sfn|渡辺|2006|p=343}}{{sfn|土井|1999|p=103}}、また三式戦闘機の主翼と胴体の接合は、少々の重心位置変更には比較的容易に対応できる構造でもあった{{sfn|碇|2006|p=230-231}}。


単純に空冷エンジンを載せると胴体の外形において左右に200mm以上の段差ができるが、この部分を放置すれば機体外形に沿って流れ込む空気の[[渦流]]を生じ、大きな空気抵抗となる{{sfn|渡辺|2006|p=343}}。胴体側面を滑らかに整形すれば空気抵抗は減少するが、それでは機体外板を大きく覆うことになり重量が増加してしまう。最終的にこの部分にはドイツから輸入していた[[Fw190|Fw190A-5]]の設計が参考とされた{{sfn|渡辺|2006|p=343}}。カウリング左右の後半部分にエンジンの排気管を集中させ、推力式単排気管とし{{sfn|和泉|1999|p=45}}、エンジンの排気で渦流を吹き消す処置が採られた{{sfn|渡辺|2006|p=344}}。このため胴体の整形は大型のフィレット(翼と胴体を滑らかに接合し、空力的特性を良くするためのつなぎの部分)を設置するなど、最小限で済んだ{{sfn|ピカレッラ|2010|p.51}}{{sfn|渡辺|2006|p=344}}<ref group= * >これは既に量産されていた[[大日本帝国海軍|海軍]]の彗星三三型の空力処理と同様である{{要出典|date=2012-12}}。</ref>。空冷化に伴い、不要になったラジエーターは胴体下方から取り外され、除去後の機体外形部分は整形された{{sfn|和泉|1999|p=29}}{{sfn|渡辺|2006|p=344}}。
== 実戦と評価 ==
[[file:The Kawasaki Ki-100 of the 111th squadron.jpg|thumb|250px|[[飛行第111戦隊]]の五式戦一型(キ100-I)]]
配備は主に[[北九州]]地区の、[[飛行第59戦隊]]、[[首都圏]]から[[九州]]、[[中京]]と転戦した[[飛行第244戦隊]]、中京地区の[[飛行第5戦隊]]などのいくつかの[[飛行戦隊]]に配備されたほか、終戦直前に[[明野教導飛行師団]]から抽出されて編成された飛行第111戦隊、同じく[[常陸教導飛行師団]]から抽出されて編成された[[飛行第112戦隊]](通称:“天誅戦隊”)などにも配備された。しかし、[[本土決戦]]に向けた「戦力温存」と、配備部隊の多くが転換訓練中であったことから大規模な活躍はない。


設計変更部分は胴体前部のみであるが、制式発注からわずか3ヵ月後の12月末には既に設計を完了し{{sfn|渡辺|2006|p=344}}、1945年2月1日または11日には初飛行に成功した{{sfn|渡辺|2006|p=344}}。短期間での開発ながら意外な高性能が認められ、2月中には五式戦闘機として制式化された。首無しで放置されていた機体は2月の時点で約200機存在したが、これの改造も含め、大増産が開始されることとなった{{sfn|渡辺|2006|p=346}}。
少ないながらも幾つかの実戦記録が残されている。1945年6月5日に飛行第111戦隊の13機が[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]を攻撃して6機撃墜・5機不確実・搭乗員脱出者23名を主張、五式戦の未帰還機は2機だった<ref>[[#つばさの血戦]]274-275頁</ref>。


五式戦闘機の武装は三式戦闘機一型丁または二型と変わらず、機首に20mm機関砲[[ホ5]]×2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲[[ホ103]]×2門(弾数各250発)である{{sfn|渡辺|2006|p=348}}。
7月25日、[[滋賀県]][[八日市市]]付近上空で、アメリカ海軍の[[軽空母]][[ベロー・ウッド (空母)|ベロー・ウッド]]所属の18機のF6Fに対して、飛行第244戦隊所属機のうち16機で挑み、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機を報じている。この戦闘は日本側の完全な奇襲成功であったが、アメリカ側の資料によればF6Fの損失は2機。空戦参加機数については諸説ある。


なお、二型を改造して生産した275機の後に新造された機体は翼内の12.7mm機関砲を廃止したという説が存在する{{sfn|秋本|1999|p=122}}。その説によればキャノピー形状ではなくこの武装変更によって五式戦闘機I型甲、乙を呼び分けたとされる。また高高度性能を向上させるため、12.7mm機関砲を降ろした部隊もあったと言う説もある<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]296頁</ref>。
また、1945年7月16日には飛行第111戦隊も、「[[義足]]の[[エース・パイロット|エース]]」[[檜與平]]少佐と、[[江藤豊喜]]少佐に率いられた24機の五式戦が、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]を出撃した[[アメリカ陸軍航空軍]]第21戦闘機群 (21st FG)、第506戦闘機群 (506th FG) 所属の[[P-51 (航空機)|P-51]]250機(アメリカ軍側記録では96機)と[[三重県]][[松阪市]]上空にて交戦し、撃墜6機、不確実5機(アメリカ軍側記録では撃墜1機)、被撃墜5機(3名戦死、2名生還)の記録が残っている<ref>[[渡辺洋二]]「液冷戦闘機『飛燕』」朝日ソノラマ、1998年5月 p.345~346</ref><ref>[[#つばさの血戦]]291頁</ref>。この戦闘で檜少佐は15機のP-51に包囲されるも、これを振り切り無事帰還、かつ1機撃墜<ref group="注">第506戦闘機群ジョン・ベンボウ大尉機、未帰還。</ref>し「(P-51が相手でも)無理をしない限り五式戦闘機は絶対に墜とされる飛行機ではない」と述べている<ref>檜與平「紅の翼-ああ、ただ一機檜戦闘機隊-」(東京ライフ社、1957年)、[[#つばさの血戦]]289頁</ref>。ただし多数の米軍機に各個撃破される苦しい戦闘であり、檜の指揮も適切ではなかったとしている<ref>[[#つばさの血戦]]288頁、[[#陸軍戦闘機隊]]298-301頁</ref>。


ほか、機首の短縮により、若干前方視界が向上した{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。
五式戦に対する[[操縦者]]の評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない。また、エンジンの交換によって機体の重量配分が良くなり、運動性能が向上し、改良(重武装化)によって徐々に飛行性能を低下させていった三式戦本来の運動性能を取り戻したと言われる。三式戦から五式戦に機種変更した搭乗員も性能向上を実感したという<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]287頁。角田政司(大尉)談。</ref>。

=== キャノピーの変更 ===
三式戦闘機は[[Bf-109]]などと同様、キャノピー後部と胴体が一体化したファストバック式風防を採用している。特に視界についての大きな苦情は一線部隊から呈されなかったとする文献もあるが{{sfn|渡辺|2006|pp=71, 348}}、苦情が有ったとする文献もある{{sfn|和泉|1999|p=29}}。いずれにせよおおよそ1944年12月以降に生産された五式戦闘機の機体は、日本機で一般的な涙滴型風防となった{{sfn|渡辺|2006|p=348}}{{sfn|片渕|2007|pp=96-97}}。なお、キャノピーの違いによる型番の違いはない。いずれも五式戦闘機I型である。ただし、便宜上ファストバッグ型を一型甲、涙滴型を一型乙と呼ぶ場合がある{{sfn|渡辺|2006|p=348}}。なお涙滴型については日本の工業力の低さなどからキャノピーの「合わせ」はあまりよくなく、隙間に大量のグリースを注入しておかねば、飛行時に搭乗員は震動から来る轟音に襲われたとする資料もある{{sfn|ピカレッラ|2010|p.22}}。また現存機を確認したところによれば、涙滴型キャノピーの固定部と可動部の合わせの部分には10mmもの隙間があり、機密性はあまり期待出来なかったようだ{{sfn|ピカレッラ|2010|p.22}}。

=== 五式戦闘機II型 ===
1945年2月から開発に着手した型で、[[ターボ過給器]](排気タービン)「ル102」搭載のハ112-IIル(離昇出力1500馬力{{sfn|秋本|1999|p=122}})を搭載した機体である。このエンジンの排気タービンは海軍の[[雷電 (航空機)]]、[[100式司偵]]などで装備試験が実施された物である{{sfn|古峰|2007|p=158}}。ただし[[インタークーラー]]は装備されていない{{sfn|渡辺|2006|p=405}}。このエンジンは高度10,000mで1,000馬力を発揮{{sfn|秋本|1999|p=122}}した。重量は従来のエンジンより150kg増加したが、高度10,000mまで18分で到達した。速度は高度8,000mで590km/h、高度10,000mで565km/hを発揮した{{sfn|古峰|2007|p=158}}{{sfn|土井|2002|p=39}}。過給器および空気取り入れ口はI型と異なり、機首下面に装備された{{sfn|ピカレッラ|2010|p.57}}。もともとあった薬莢殻入れは撤去され、機外に排出される方式に改められている{{sfn|ピカレッラ|2010|p.11}}。高々度戦闘機であるため燃料冷却系の装置は撤去された{{sfn|ピカレッラ|2010|p.11}}。

この型の機体は4月に設計が完了し、5月には実機が生産された{{sfn|渡辺|2006|pp=348-349}}。9月から量産が予定されていたが、終戦のため試作機3機の生産に終わった{{sfn|土井|2002|p=40}}。

=== 感謝状 ===
川崎航空機には1945年7月14日、[[陸軍大臣]][[阿南惟幾]]よりキ100の開発について感謝状を贈られている{{sfn|渡辺|2006|p=404}}。

== 飛行性能 ==
本機の飛行性能に関し、好意的な評価や証言が多数見られる。五式戦に対する[[操縦者]]からの評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない{{sfn|渡辺|2006|p=351}}。また『陸軍戦闘機隊』によれば、エンジンの換装によって機体の前後重量配分が良くなり、運動性能が向上し、改良(重武装化)によって徐々に飛行性能を低下させていった三式戦本来の運動性能を取り戻したと言われる。三式戦から五式戦に機種変更した搭乗員も性能向上を実感したという<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]287頁。角田政司(大尉)談。</ref>。

ただし、性能に顕著な差を感じるほどではないとする証言もある{{sfn|渡辺|2006|p=351}}。なお、当時の文書において、高速で鈍重な三式戦闘機二型を「重戦」、低速で軽快な五式戦闘機を「軽戦」とした書類も存在したとされる{{sfn|古峰|2007|p=158}}。

=== 速度・高々度性能 ===
五式戦闘機は三式戦闘機よりも前面投影面積が増えたため空気抵抗が増し、二型の610km/hと比較して580km/hと最高速度は低下している{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。ただし一般的に配備されていた一型丁の560km/hよりは最高速向上が見られた。エンジン出力が従来の1175馬力から1500馬力へと増強されており、従来から多数配備されていた一型丁と比べれば名目上で20km/h、実際には35-40km/hの速度向上が見られた{{sfn|古峰|2007|p=155}}{{refnest|group = *| なお、渡辺(2006)は一型丁と同等の速度と記している{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。}}。ただし実戦では燃料の質、整備状況、量産誤差による性能の振れ等が加味され、航空審査における完備状態で出され仕様値をそのまま一線部隊において発揮できたものではない。

一般に空冷エンジンは、液冷エンジンより高々度での性能低下が大きいとされるが<ref group= * >高高度では大気が希薄になるため、空冷エンジンでは冷却が困難になる。</ref>{{要出典|date=2012-12}}、五式戦闘機では三式戦闘機より軽量化され[[翼面荷重]]が少なくなっていることから、この点でもある程度有利であった。飛行十八戦隊搭乗員の角田大尉によれば、三式戦では高度6,000mから8,000mのB-29に上方からの一撃をかけるのがやっとだったが、五式戦では一度降下したあと再び上昇して二撃(下面攻撃)をかけることが可能であったと証言し、実際にB-29を撃墜した([[#陸軍戦闘機隊]]289頁。3月24日の戦闘)。

=== 軽量化と運動性の向上 ===
ハ112の搭載に伴い、機体からラジエーター<!-- 恐らくはラジエーターに装備されていた装甲も -->とバランス調整のため搭載されていた胴体後部バラストを撤去した。エンジンだけでハ40と比較して80kg、機体総重量でハ140と比較して160kgも軽量化されている{{sfn|碇|2006|p=232}}。これにより五式戦は、自重で三式戦二型の2,855kgから2,525kgへと、330kgの軽量化がなされた。これは一型丁の2,630kgよりもなお100kg軽いものである{{sfn|渡辺|2006|pp=345-346}}。仕様上の上昇性能は二型と同等程度である{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。また高度5,000mまでの上昇力は6分と二型とは同等であるものの、一型丁を1分上回り、四式戦闘機よりも優れたものである{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。

他の利点として、機首の短縮とバラストおよびラジエータの撤去は、重量物を重心近くに集める結果になる。この効果から機動力が向上しているとみられる{{sfn|古峰|2007|p=155}}。ただし直接の関連性は不明だが、機体の上下(ピッチ)の安定性不足を指摘する証言もある{{sfn|渡辺|2006|p=351}}。

一型丁と比較すれば高速化され、更に軽量化と大馬力化が実現されており、稼働率も向上した。実戦部隊はこれを大きく歓迎し、五式戦闘機が配備された航空隊の士気は非常に上がったとされる{{sfn|古峰|2007|p=155}}。

五式戦闘機を称える顕著な例としては、[[明野教導飛行師団]]の檮原秀見中佐が五式戦を操縦し、模擬空戦において2,000馬力級の四式戦闘機3機を相手に有利に戦い、その上航空本部に「五式戦1機は四式戦3機以上の価値があるから全力生産を行え」との進言を行ったとする説がある。しかし、この時期の四式戦闘機はエンジンが技術的な問題を充分クリアしておらず、本来の離昇出力2,000馬力を完全に発揮したとは言いがたい状況であったとされる([[誉 (エンジン)]]も参照){{sfn|渡辺|2006|pp=350-351}}。常陸教導飛行隊でも四式戦と五式戦を比較し、特に上昇力、旋回性能など、文句なく五式戦が上と結論している{{sfn|渡辺|2006|p=352}}。また五式戦を装備した[[飛行第59戦隊]]は「[[P-51]]となら対等、[[F6F]]なら問題無し、[[F4U]]ならカモ」と評した{{sfn|渡辺|2006|p=401}}<ref group = *>編注:ただしP-51は仕様で五式戦闘機より100km/h以上勝るほか、高空性能と防弾装備および長距離航続性能を兼備し、第二次大戦最優秀戦闘機とされる戦闘機である。</ref>。

=== 信頼性 ===
ハ112の信頼性と整備の難易に関し、一部兵員からは「燃料と潤滑油を入れれば、いつでも飛ぶ」といった評価があったとされる{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。さらに三式戦闘機二型(および一型)が搭載した水冷式エンジンの惨たる低稼働率の反動もあり、信頼性の高さは大歓迎された{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。ただし採用されて数年の新型エンジンであることは確かであり、ハ140とは比較にならない信頼性を持っていたにしても、絶対的な信頼性があったとまでするには至っていない{{sfn|古峰|2007|p=158}}。[[飛行第244戦隊]]では、内地での基地移動時に多数の脱落機を出したエピソードが存在する{{sfn|古峰|2007|p=158}}。

== 量産化と生産数 ==
制式化後は急ピッチで量産が進み、2月の時点で工場内に200機滞留した「首無し」機体を五式戦闘機に改造した{{sfn|渡辺|2006|p=346}}。その後は月産200機を目標に製造が続けられた{{sfn|土井|1999|p=103}}。2月に1機、3月に36機、4月に89機と、量産は急速に進んだ{{sfn|渡辺|2006|p=349}}。定説では3機の試作機を含め合計で'''393機'''が生産されたとされる{{sfn|秋本|1999|p=121}}。多くの三式戦闘機装備部隊が五式戦闘機に機種改変を行った。5、17、18、59、111、112、244の各戦隊が五式戦を受領している{{sfn|秋本|1999|p=125}}{{sfn|近現代史編纂会|2001}}。ただし生産規模は所詮400機足らずであり、全てが置き換えられた訳ではない{{sfn|古峰|2007|p=157}}。

生産数は文献により分かれる。片渕によれば岐阜工場で1945年2月に1機、3月に36機、4月に89機、5月に131機、6月に88機、7月に23機、8月に10機、合計で381機が生産{{sfn|片渕|2007|p=90}}され、それとは別に都城工場で1945年5月以降17機以上が生産されたとしている{{sfn|片渕|2007|p=90}}。従って総計を398機+αとしている。いずれにせよ、うち275機は「首無し」の三式戦闘機二型からの改造であると推測される。渡辺 (2006)では試作3機を含め総生産数を390機としている{{sfn|渡辺|2006|p=404}}。

なお6月以降の生産数が急激に減少しているのは、1945年6月から7月にかけて、川崎飛行機岐阜工場および周辺工場が空襲で被害を受けたためである{{sfn|渡辺|2006|pp=403-404}}{{sfn|土井|2002|p=39}}{{sfn|土井|1999|p=103}}。またキ112-IIの生産力にも限界があり、更に1944年12月には三菱の発動機工場が空襲の被害に遭い、生産の停滞が目立ち始めた{{sfn|古峰|2007|p=158}}。

== 実戦 ==
[[file:The Kawasaki Ki-100 of the 111th squadron.jpg|thumb|250px|[[飛行第111戦隊]]の五式戦一型(キ100-I)]]
五式戦闘機の飛行性能は三式戦闘機一型丁を超え、最高速度は低下したが運動性の観点から比較すれば三式戦闘機二型以上の性能を示した。また稼働率が向上し、予想外の高性能を発揮した{{sfn|渡辺|2006|p=408}}。また連合軍機との戦闘に良く応えた。ただし連合軍機と比較し、傑出した性能を備えた戦闘機ではない。

1945年6月5日、飛行第111戦隊の13機は[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]を攻撃し、6機撃墜・5機不確実・搭乗員脱出者23名を報告、五式戦の未帰還機は2機だった<ref>[[#つばさの血戦]]274-275頁</ref>。

7月16日、やはり飛行第111戦隊の「[[義足]]の[[エース・パイロット|エース]]」[[檜與平]]少佐と、[[江藤豊喜]]少佐に率いられた24機の五式戦が、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]を出撃した[[アメリカ陸軍航空軍]]第21戦闘機群 (21st FG)、第506戦闘機群 (506th FG) 所属の[[P-51 (航空機)|P-51]]250機(アメリカ軍側記録では96機)と[[三重県]][[松阪市]]上空にて交戦し、撃墜6機、不確実5機(アメリカ軍側記録では撃墜1機)、被撃墜5機(3名戦死、2名生還)の記録が残っている<ref>[[渡辺洋二]]「液冷戦闘機『飛燕』」朝日ソノラマ、1998年5月 p.345~346</ref><ref>[[#つばさの血戦]]291頁</ref>。この戦闘で檜少佐は15機のP-51に包囲されるも、これを振り切り無事帰還、かつ1機撃墜<ref group= * >第506戦闘機群ジョン・ベンボウ大尉機、未帰還。</ref>し「(P-51が相手でも)無理をしない限り五式戦闘機は絶対に墜とされる飛行機ではない」と述べている<ref>檜與平「紅の翼-ああ、ただ一機檜戦闘機隊-」(東京ライフ社、1957年)、[[#つばさの血戦]]289頁</ref>。ただし多数の米軍機に各個撃破される苦しい戦闘であり、檜の指揮も適切ではなかったとしている<ref>[[#つばさの血戦]]288頁、[[#陸軍戦闘機隊]]298-301頁</ref>。

7月25日、[[滋賀県]][[八日市市]]付近上空で、アメリカ海軍の[[軽空母]][[ベロー・ウッド (空母)|ベロー・ウッド]]所属の18機のF6Fに対して、飛行第244戦隊所属機のうち16機で挑み、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機を報じている。この戦闘は日本側の完全な奇襲成功であったが、アメリカ側の資料によればF6Fの損失は2機。空戦参加機数については諸説が存在する。

1945年7月28日には飛行第244戦隊が18機の五式戦闘機で24機のF6Fと交戦し、2機を失うも12機を撃墜{{sfn|古峰|2007|p=179}}するなど、質量共に厳しい航空戦を強いられていたこの時期にあって少なくない戦果を報告している。ただし7月25日の戦闘の様に、日本側はF6Fを10機撃墜3機撃破、自軍の損害2機とするも、米軍側の記録では逆に撃墜8、撃墜不確実3、撃破3、自軍の損害を2とするなど、実際は互角であったと言うケースもある{{sfn|渡辺|2006|p=393}}。なおこうした戦果の2倍から3倍の誤認・重複などは、日米共通の空戦における普遍的な判定であった。しかし連合軍機と互角に戦闘可能な新型戦闘機の出現により、前線部隊の意気は大いにあがったことは事実であった。五式戦闘機は戦局を覆せる様な新鋭高性能機でもなく、元来は三式戦闘機二型の実用化までの繋ぎの意味もある戦闘機であり、さらには戦局を覆せるだけの大量生産がなされたわけでもなかった。だが、末期の日本陸軍航空隊の士気の拠り所となったことは確実であった。

なお、戦中、アメリカ軍は五式戦闘機の存在を認識しておらず、特にコードネームは与えられていない。また戦後のレポートでは「性能や構造などで特に感銘は受けなかった」としている{{sfn|古峰|2007|p=180}}。


== 現存機 ==
== 現存機 ==
終戦時、数機の五式戦が米空母に搭載されてアメリカ本土に輸送されたが、その後の消息は不明<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]306頁</ref>。本機の世界で唯一の現存機としては、現在[[イギリス]]の[[イギリス空軍博物館]](RAF博物館)が所蔵している一型がある。機は[[陸軍航空輸送部]]第7[[飛行隊]]の手により[[シンガポール]]に向け[[回送|フェリー]]中、経由地の[[カンボジア]]にて[[日本の終戦|終戦]]を迎え現地で[[イギリス軍]]に接収され持ち帰られた機体である<ref>http://www.rafmuseum.org.uk/cosford/collections/aircraft/aircraft_histories/85-AF-68%20Kawasaki%20Ki-100.pdf</ref>。エンジン機体共に極めて良好な状態にまで[[レストア]]されており、金星エンジンの地上での運転を行ったこともある。同博物館では本機五式戦は世界の航空史に残る[[マイルストーン]]的存在の名機として位置づけられ、2003年11月から2011年9月までRAF博物館ロンドン館マイルストーン室に展示されていた。2012年1月末からは同博物館コスフォード館で公開されている。
終戦時、数機の五式戦が米空母に搭載されてアメリカ本土に輸送されたが、その後の消息は不明である<ref>[[#陸軍戦闘機隊]]306頁</ref>。
本機の世界で唯一の現存機としては、現在[[イギリス]]の[[イギリス空軍博物館]](RAF博物館)が所蔵している一型、恐らく1945年6月に完成した163365機がある。機は[[陸軍航空輸送部]][[各務原]]飛行機部の手により1945年7月末に[[小牧]]を出発し[[上海]]、[[台湾]]などを経由し[[シンガポール]]に向け[[回送]]中、経由地の[[カンボジア]]にて[[日本の終戦|終戦]]を迎え{{sfn|碇|2006|p=263}}[[サイゴン]]{{sfn|片渕|栗原|Picarella|2007|p=70}}で[[イギリス軍]]に接収され持ち帰られた機体である{{sfn|ピカレッラ|2010|p.7}}<ref>http://www.rafmuseum.org.uk/cosford/collections/aircraft/aircraft_histories/85-AF-68%20Kawasaki%20Ki-100.pdf {{リンク切れ|date=2012-12}}</ref>。全てがオリジナルパーツという訳ではないが、エンジンおよび機体共に極めて良好な状態にまで[[レストア]]されており、1986年頃にはハ112エンジンの地上運転を行ったこともある{{sfn|ピカレッラ|2010|p.11}}。同博物館では本機(五式戦)は世界の航空史に残る[[マイルストーン]]的存在の名機として位置づけられ、2003年11月から2011年9月までRAF博物館ロンドン館マイルストーン室に展示されていた。2012年1月末からは同博物館コスフォード館で公開されている。


== 性能諸元 ==
== 性能諸元 ==
71行目: 129行目:
|-
|-
| 全長
| 全長
| 8.9245m(渡辺) / 8.818m(学研)
| 8.82m
|-
|-
| 全高
| 全高
77行目: 135行目:
|-
|-
| 翼面積
| 翼面積
| 20m²
| 20m<sup>2</sup>
|-
|-
| [[翼面荷重]]
| [[翼面荷重]]
| 174.75 kg/m²
| 174.8 kg/m<sup>2</sup>(全備状態)
|-
|-
| [[空虚重量|自重]]
| [[空虚重量|自重]]
87行目: 145行目:
| 全備重量
| 全備重量
| 3,495kg
| 3,495kg
|-
| 燃料
| 595リットル(機内)、増槽として200リットル×2<br>水メタノール95リットル
|-
|-
| エンジン
| エンジン
| [[金星 (エンジン)|ハ112-II型]]離昇出力1,500馬力
| [[金星 (エンジン)|ハ112-II型]](離昇出力1,500馬力)
|-
|-
| 最大速度
| 最大速度
| 580km/h(高度6,000m)
| 580km/h(高度6,000m)
|-
| 巡航速度
| 400km/h(高度4,000m)
|-
|-
| [[航続距離]]
| [[航続距離]]
| 機内燃料で3時間30分/1400km、増槽装備時5時間30分/2200km
| 1,400~2,200km
|-
| 上昇力
| 5,000mまで6分、8,000mまで11分30秒
|-
| 実用上昇限度
| 11,000m
|-
|-
| 武装
| 武装
| 機首20mm機関砲5)2門、翼内12.7mm機関砲103)2
| 機首20mm機関砲([[5]])2門、翼内12.7mm機関砲([[103]])2
|-
|-
| 爆装
| 爆装
104行目: 174行目:
|-
|-
| 総生産機数
| 総生産機数
| 396
| 393(諸説あり)
|}
|}

''※ 諸元は特記無き限り 渡辺洋二 (2006) 巻末資料、および 学習研究社 (2007) 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 61『三式戦「飛燕」・五式戦』p.160の折り込みによる。爆装については『エアロ・ディテール』のp.48や巻末資料でも確認できる。''


== その他 ==
== その他 ==
111行目: 183行目:


== 注釈 ==
== 注釈 ==
<references group="注"/>
{{reflist | group = *}}


== 脚注 ==
== 出典 ==
{{reflist}}
{{reflist | 2}}
<references/>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation |last=秋本|first=実| year = 1999 | contribution = 各型変遷・戦歴・塗装・マーキング | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5}} - 文中での脚注のほか、各方面に進出した戦隊についても参考とした。
* {{Citation |last=碇|first=義朗| year = 2006 | title = 戦闘機「飛燕」技術開発の戦い 日本唯一の液例傑作機 | 光人社 | isbn = 4-7698-2137-9}} - 1977年 廣済堂出版より刊行された『戦闘機 飛燕』の加筆修正・文庫版。1976年に「[[東京タイムズ]]」連載。
* {{Citation |last=和泉|first=久| year = 1999 | contribution = INTRODUCTION | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5}}
* {{Citation |last1=片渕|first1=須直|last2=栗原|first2=秀夫|last3=Picarella|first3=Joe|year = 2007 | contribution = 復元「五式戦」の全貌 | series = 歴史群像 太平洋戦史シリーズ | volume = 61 | title = 三式戦「飛燕」・五式戦 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604930-5}}
* {{Citation |last=片渕|first=須直| year = 2007 | contribution = 「キ61」・「キ100」月別生産数と機体番号、「キ61」・「キ100」機体別番号リスト、「キ61」・「キ100」系列の各型製造数と機体番号 | series = 歴史群像 太平洋戦史シリーズ | volume = 61 | title = 三式戦「飛燕」・五式戦 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604930-5}}
* {{Citation |editor = 近現代史編纂会 | year = 2001 | publisher = 新人物往来社 | isbn = 4-404-02945-4}} - 配備された航空隊について参照した。pp.118-177。
* {{Citation |last=土井|first=武夫| year = 1999 | contribution = 三式戦/五式戦の設計と開発 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5}}
* {{Citation |last=土井|first=武夫| year = 2002 | contribution = 私の設計した液冷戦闘機飛燕 | series = 光人者NF文庫 | title = 軍用機開発物語 設計者が語る秘められたプロセス | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-2334-7}} - 初出は雑誌「丸」 1961年8月号に掲載された手記であるが本文中での書誌情報はより入手が容易なこの文庫のものを使用している。
* {{Citation |last=ピカレッラ|first=ジュゼッペ|year=2010|transtarot 九頭龍わたる、菊田和郎|series = エアロ・ディテール | volume = 32 | title = 川崎 キ100 五式戦闘機 | isbn = 978-4-499-23004-9}}
* {{Citation |last=古峰|first=文三| year = 2007 | contribution = 川崎航空機の戦闘機開発系譜と「三式戦」・「キ100」の誕生 第1 - 10章| series = 歴史群像 太平洋戦史シリーズ | volume = 61 | title = 三式戦「飛燕」・五式戦 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604930-5}}
* {{Citation |last=渡辺|first=洋二| year = 2006 | title = 液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼 | isbn = 4-16-724914-6}} - [[朝日ソノラマ]] 1998 『液冷戦闘機「飛燕」』 の加筆・改正・文庫版。なお、それより更に以前に、[[サンケイ出版]] 1983年『「飛燕」苦闘の三式戦闘機』としても出版されている。

* {{Cite book|和書|author=[[檜與平]]|year=1984|month=2|title=つばさの血戦 {{small|かえらざる隼戦闘隊}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0008-8|ref=つばさの血戦}}
* {{Cite book|和書|author=[[檜與平]]|year=1984|month=2|title=つばさの血戦 {{small|かえらざる隼戦闘隊}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0008-8|ref=つばさの血戦}}
* {{Cite book|和書|author=[[黒江保彦]]ほか|year=2011|month=4|title=陸軍戦闘機隊 {{small|私は愛機と共に青春を賭して戦った!}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1494-8|ref=陸軍戦闘機隊}}
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** 角田政司(大尉・飛行十八戦隊)『新鋭「五式戦」帝都上空一万メートルの戦い {{small|飛行十八戦隊B29高々度戦闘の実相}}』
** 角田政司(大尉・飛行十八戦隊)『新鋭「五式戦」帝都上空一万メートルの戦い {{small|飛行十八戦隊B29高々度戦闘の実相}}』
** 稲山英明(大尉・飛行一一一戦隊)『P51激撃「五式戦闘機」空戦始末記 {{small|強敵ムスタングを迎え撃った五式戦の栄光と最後}}』
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== 外部リンク ==
* [http://www.rafmuseum.org.uk/cosford/collections/aircraft/kawasaki-ki-1001b.cfm(RAF博物館)]


== 関連項目 ==
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2012年12月29日 (土) 18:35時点における版

川崎 キ100 五式戦闘機

イギリス空軍博物館に展示されている五式戦一型(キ100-I)

イギリス空軍博物館に展示されている五式戦一型(キ100-I)

五式戦闘機(ごしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍最後の制式戦闘機である。キ番号(試作名称)はキ100。略称・呼称は五式戦[1]。「隼」「鍾馗」などと言った他陸軍戦闘機に用いられた日本側愛称は存在しないが、非公式な愛称・通称としては「飛燕改」など[要出典]。また本機固有の連合軍の「Zeke」「Tony」などといったコードネームも存在しない。開発・製造は川崎航空機が行った。設計主務者は土井武夫である。

液冷エンジンの供給不足に陥り、機体のみが余っていた三式戦闘機に急遽空冷エンジンを搭載し戦力化したものであるが、時間的猶予が無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮した。五式戦闘機は大戦末期に登場し、また生産数も少ないために実戦での活躍は少ないが、末期の日本陸軍にとり相応の戦力となった。当時の搭乗員には好評で、連合軍戦闘機と比べても遜色のない機体であったともされる[2]

開発の経緯

三式戦闘機二型の失敗

五式戦闘機は、前面投影面積が少なく空気抵抗が少ない液冷エンジンを搭載した三式戦闘機二型の機体に、本来搭載が予定されていなかった直径の大きな空冷星型エンジンを緊急に取り付けて戦力化したものである。

三式戦闘機は元々、ドイツ製液冷倒立12気筒エンジンDB601を国産化し川崎がライセンス生産していたハ40(離昇出力1175馬力)を搭載していた。初期型の三式戦一型甲/乙型は12.7mm機関砲4門、または12.7mm機関砲2門と7.7mm機関銃2門の武装を備えて最高速度590km/hを発揮した。後期型の三式戦一型丁は12.7mm機関砲2門に20mm機関砲2門と武装を強化し、また相応の防弾性能を持たせたが、改造による重量増で最高速度が560km/hに落ち、上昇力が低下するなど飛行性能は悪化した。しかしながら、三式戦闘機は登場時期においては相応に優秀な機体であり、戦局は有利に運ばなかったものの、1943年から1945年にかけ、ニューギニアフィリピンで連合国の機体を相手にして良く戦った。

三式戦闘機の前面写真。細身の水冷エンジンを装備している

ただし液冷式のエンジンの生産と整備は日本の工業力と兵員にとり不慣れなものであった。ドイツ製の高品質な液冷エンジンは日本の工業力にとり手に余るものであり、また原料調達不可などで一部合金が生産不可など制限を受けながら生産したため[3]に不具合が生じた。また前線の整備兵も液冷エンジンの取り扱いには不慣れであり、原因としてマニュアルの不備、教育の不徹底などからくる整備技量の拙劣さが挙げられる。これらは三式戦闘機の稼働率と直結し、戦闘力はともかく、信頼性と戦力定数を揃える上でかなりの不満があるものであり[4]、川崎内部でも以前より空冷化案が出ては立ち消えていたという[5]

またハ40のエンジンは離昇出力で1175馬力を発揮するものであり、1943年以降の空戦において連合軍機と対峙するには出力が不足し、三式戦闘機のこれ以上の性能改善にはより強力な新型エンジンが必要な状況であった。特に過給器など高空性能を支持するエンジン技術には不足が多く、高度10,000m付近では水平飛行を維持する、もしくは浮かんでいるのがやっとの状態であり[6][7]、この高度を巡航するB-29の迎撃はおぼつかなかった。従ってB-29の邀撃には待ち伏せして一撃をかけるのが精一杯であった。この高空性能の不足は最後まで改善を見ず、三式戦闘機においては機銃の一部や防弾版を外してなんとか戦闘空域まで上昇し、体当たり攻撃が行われたほどであった[8]

1942年春、ハ40の基本的な構造はそのままとし、1500馬力級液冷倒立V12気筒エンジンハ140の開発が行われた。この新型エンジンは吸気圧を上げてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmとし、離昇出力を1175馬力から1500馬力に高め[9]、大型化した過給器の冷却のために水メタノール噴射装置を導入した[9]ものである。しかしながらこのエンジンの生産は非常に難航した。このエンジンを搭載した最初の型式であるキ61-IIは、1943年9月から1944年1月までに8機の試作で中止され[10][9]、9機目からはキ61-II改、三式戦闘機二型として生産されたが、1944年8月までに30機の増加試作を経ても[10]、未だにエンジンであるハ140の生産が安定するには至らなかった。エンジンの生産数を見るならば、44年7月に20台納入の予定が8台、8月は40台納入予定がわずかに5台、9月に至っては1台であった[11][* 1]。一説にはこの時海軍のアツタを調達して装備することが検討されたとも言われるが、両エンジンの仕様の違いなどから実現しなかった[12]。1944年8月には三式戦二型の実戦化に見切りが付けられた。機体の生産数の削減が行われ、代わりに四式重爆撃機の生産が指示される[13][14]。削減後にも工場内において低調な生産が続けられ、1944年12月から1945年2月の時期には三式戦二型の首無し機体が常時200機程度、川崎の工場内に滞る異常事態が起きた[15]。航空戦力として全く期待ができない状況であった。

最終的に三式戦闘機二型の生産は100機程度で一旦打ちきられることとなった[* 2][11]。しかし、アメリカ軍の爆撃により完成機の一部が破壊され、陸軍に納入されたのは60機程度であった[16][17]。なお、1945年6月から8月の整備計画には三式戦闘機が残されていることから、ハ140の生産が安定すれば生産が再開された可能性がある[18]

空冷化の決定

三式戦闘機二型の実戦化が遅々として進まない段階において、川崎の工場内にはエンジンが装着されない三式戦闘機が並べられているのが常態化していた。この状況から、航空審査部飛行実験部長の今川一策大佐らは、1943年末頃に早くも三式戦闘機の空冷化を提案している[19]。これはキ61-II、最初の8機の試作が完成した頃から既に行われていた提案であった。

設計主務者の土井にとってもこの状況は受け容れがたいものであり、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を考慮したこともあった。1944年初期にはかなり空冷化に気持ちが傾いていたとされる[19]。しかし、同じ川崎の明石工場ではハ140の生産に心血を注いでおり、これは提案できる状況ではなかった[17]

また、海軍はハ40と同様にDB601を空冷化したアツタ愛知航空機に生産させ、彗星艦上爆撃機に搭載していたが、これの性能向上型であるアツタ32型(離昇出力1400馬力)もやはりハ140と同様に量産に苦労しており、彗星の空冷化が考えられていた。これを知った航空本部総務課の技術主任である岩宮満少佐は、土井に対し、三式戦闘機のエンジンをハ112-II(詳しくは後述)に換装するよう提案する。土井は既に覚悟を決めていたのか理解を示したようであるが、話はうまくは進まなかった[20]。この原因に関し、渡辺 (2006)の説に拠れば、三式戦二型の空冷化を図れば、ハ140を生産している川崎航空明石工場は当面生産ラインが遊ぶこととなり、これを軍需省が問題としたらしい[20]。またハ112-IIの供給も潤沢とは言えない[20]状況であった。最後に土井も懸念した、川崎明石工場各位への「人情」が挙げられた[20]

だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された[21]

軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無し(発動機及びプロペラ搭載前)の三式戦に空冷発動機を搭載したキ100の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される[22]。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは金星62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、よりやや大型で、直径は1218mmである[23]

なお古峰 (2007)は、キ99キ101の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している[22]

開発・設計

正面から見るとエンジンカウルと胴体の間に段差があることがわかる

エンジンの換装が決定したが、技術的問題は胴体幅840mmの三式戦闘機に、直径1218mmのハ112-IIをどう搭載するかであった。土井によれば、カウリングでエンジン周囲を覆うなどの処置を行うと、この部分の幅は最小でも1280mmになった[24]。幸いにも発動機を搭載するため機体に装備される発動機架は少々の改造で設置することができ[25][24]、また三式戦闘機の主翼と胴体の接合は、少々の重心位置変更には比較的容易に対応できる構造でもあった[26]

単純に空冷エンジンを載せると胴体の外形において左右に200mm以上の段差ができるが、この部分を放置すれば機体外形に沿って流れ込む空気の渦流を生じ、大きな空気抵抗となる[25]。胴体側面を滑らかに整形すれば空気抵抗は減少するが、それでは機体外板を大きく覆うことになり重量が増加してしまう。最終的にこの部分にはドイツから輸入していたFw190A-5の設計が参考とされた[25]。カウリング左右の後半部分にエンジンの排気管を集中させ、推力式単排気管とし[27]、エンジンの排気で渦流を吹き消す処置が採られた[28]。このため胴体の整形は大型のフィレット(翼と胴体を滑らかに接合し、空力的特性を良くするためのつなぎの部分)を設置するなど、最小限で済んだ[29][28][* 3]。空冷化に伴い、不要になったラジエーターは胴体下方から取り外され、除去後の機体外形部分は整形された[30][28]

設計変更部分は胴体前部のみであるが、制式発注からわずか3ヵ月後の12月末には既に設計を完了し[28]、1945年2月1日または11日には初飛行に成功した[28]。短期間での開発ながら意外な高性能が認められ、2月中には五式戦闘機として制式化された。首無しで放置されていた機体は2月の時点で約200機存在したが、これの改造も含め、大増産が開始されることとなった[31]

五式戦闘機の武装は三式戦闘機一型丁または二型と変わらず、機首に20mm機関砲ホ5×2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲ホ103×2門(弾数各250発)である[32]

なお、二型を改造して生産した275機の後に新造された機体は翼内の12.7mm機関砲を廃止したという説が存在する[33]。その説によればキャノピー形状ではなくこの武装変更によって五式戦闘機I型甲、乙を呼び分けたとされる。また高高度性能を向上させるため、12.7mm機関砲を降ろした部隊もあったと言う説もある[34]

ほか、機首の短縮により、若干前方視界が向上した[35]

キャノピーの変更

三式戦闘機はBf-109などと同様、キャノピー後部と胴体が一体化したファストバック式風防を採用している。特に視界についての大きな苦情は一線部隊から呈されなかったとする文献もあるが[36]、苦情が有ったとする文献もある[30]。いずれにせよおおよそ1944年12月以降に生産された五式戦闘機の機体は、日本機で一般的な涙滴型風防となった[32][37]。なお、キャノピーの違いによる型番の違いはない。いずれも五式戦闘機I型である。ただし、便宜上ファストバッグ型を一型甲、涙滴型を一型乙と呼ぶ場合がある[32]。なお涙滴型については日本の工業力の低さなどからキャノピーの「合わせ」はあまりよくなく、隙間に大量のグリースを注入しておかねば、飛行時に搭乗員は震動から来る轟音に襲われたとする資料もある[38]。また現存機を確認したところによれば、涙滴型キャノピーの固定部と可動部の合わせの部分には10mmもの隙間があり、機密性はあまり期待出来なかったようだ[38]

五式戦闘機II型

1945年2月から開発に着手した型で、ターボ過給器(排気タービン)「ル102」搭載のハ112-IIル(離昇出力1500馬力[33])を搭載した機体である。このエンジンの排気タービンは海軍の雷電 (航空機)100式司偵などで装備試験が実施された物である[39]。ただしインタークーラーは装備されていない[40]。このエンジンは高度10,000mで1,000馬力を発揮[33]した。重量は従来のエンジンより150kg増加したが、高度10,000mまで18分で到達した。速度は高度8,000mで590km/h、高度10,000mで565km/hを発揮した[39][41]。過給器および空気取り入れ口はI型と異なり、機首下面に装備された[42]。もともとあった薬莢殻入れは撤去され、機外に排出される方式に改められている[43]。高々度戦闘機であるため燃料冷却系の装置は撤去された[43]

この型の機体は4月に設計が完了し、5月には実機が生産された[44]。9月から量産が予定されていたが、終戦のため試作機3機の生産に終わった[45]

感謝状

川崎航空機には1945年7月14日、陸軍大臣阿南惟幾よりキ100の開発について感謝状を贈られている[46]

飛行性能

本機の飛行性能に関し、好意的な評価や証言が多数見られる。五式戦に対する操縦者からの評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない[47]。また『陸軍戦闘機隊』によれば、エンジンの換装によって機体の前後重量配分が良くなり、運動性能が向上し、改良(重武装化)によって徐々に飛行性能を低下させていった三式戦本来の運動性能を取り戻したと言われる。三式戦から五式戦に機種変更した搭乗員も性能向上を実感したという[48]

ただし、性能に顕著な差を感じるほどではないとする証言もある[47]。なお、当時の文書において、高速で鈍重な三式戦闘機二型を「重戦」、低速で軽快な五式戦闘機を「軽戦」とした書類も存在したとされる[39]

速度・高々度性能

五式戦闘機は三式戦闘機よりも前面投影面積が増えたため空気抵抗が増し、二型の610km/hと比較して580km/hと最高速度は低下している[35]。ただし一般的に配備されていた一型丁の560km/hよりは最高速向上が見られた。エンジン出力が従来の1175馬力から1500馬力へと増強されており、従来から多数配備されていた一型丁と比べれば名目上で20km/h、実際には35-40km/hの速度向上が見られた[49][* 4]。ただし実戦では燃料の質、整備状況、量産誤差による性能の振れ等が加味され、航空審査における完備状態で出され仕様値をそのまま一線部隊において発揮できたものではない。

一般に空冷エンジンは、液冷エンジンより高々度での性能低下が大きいとされるが[* 5][要出典]、五式戦闘機では三式戦闘機より軽量化され翼面荷重が少なくなっていることから、この点でもある程度有利であった。飛行十八戦隊搭乗員の角田大尉によれば、三式戦では高度6,000mから8,000mのB-29に上方からの一撃をかけるのがやっとだったが、五式戦では一度降下したあと再び上昇して二撃(下面攻撃)をかけることが可能であったと証言し、実際にB-29を撃墜した(#陸軍戦闘機隊289頁。3月24日の戦闘)。

軽量化と運動性の向上

ハ112の搭載に伴い、機体からラジエーターとバランス調整のため搭載されていた胴体後部バラストを撤去した。エンジンだけでハ40と比較して80kg、機体総重量でハ140と比較して160kgも軽量化されている[50]。これにより五式戦は、自重で三式戦二型の2,855kgから2,525kgへと、330kgの軽量化がなされた。これは一型丁の2,630kgよりもなお100kg軽いものである[51]。仕様上の上昇性能は二型と同等程度である[35]。また高度5,000mまでの上昇力は6分と二型とは同等であるものの、一型丁を1分上回り、四式戦闘機よりも優れたものである[35]

他の利点として、機首の短縮とバラストおよびラジエータの撤去は、重量物を重心近くに集める結果になる。この効果から機動力が向上しているとみられる[49]。ただし直接の関連性は不明だが、機体の上下(ピッチ)の安定性不足を指摘する証言もある[47]

一型丁と比較すれば高速化され、更に軽量化と大馬力化が実現されており、稼働率も向上した。実戦部隊はこれを大きく歓迎し、五式戦闘機が配備された航空隊の士気は非常に上がったとされる[49]

五式戦闘機を称える顕著な例としては、明野教導飛行師団の檮原秀見中佐が五式戦を操縦し、模擬空戦において2,000馬力級の四式戦闘機3機を相手に有利に戦い、その上航空本部に「五式戦1機は四式戦3機以上の価値があるから全力生産を行え」との進言を行ったとする説がある。しかし、この時期の四式戦闘機はエンジンが技術的な問題を充分クリアしておらず、本来の離昇出力2,000馬力を完全に発揮したとは言いがたい状況であったとされる(誉 (エンジン)も参照)[52]。常陸教導飛行隊でも四式戦と五式戦を比較し、特に上昇力、旋回性能など、文句なく五式戦が上と結論している[53]。また五式戦を装備した飛行第59戦隊は「P-51となら対等、F6Fなら問題無し、F4Uならカモ」と評した[54][* 6]

信頼性

ハ112の信頼性と整備の難易に関し、一部兵員からは「燃料と潤滑油を入れれば、いつでも飛ぶ」といった評価があったとされる[35]。さらに三式戦闘機二型(および一型)が搭載した水冷式エンジンの惨たる低稼働率の反動もあり、信頼性の高さは大歓迎された[35]。ただし採用されて数年の新型エンジンであることは確かであり、ハ140とは比較にならない信頼性を持っていたにしても、絶対的な信頼性があったとまでするには至っていない[39]飛行第244戦隊では、内地での基地移動時に多数の脱落機を出したエピソードが存在する[39]

量産化と生産数

制式化後は急ピッチで量産が進み、2月の時点で工場内に200機滞留した「首無し」機体を五式戦闘機に改造した[31]。その後は月産200機を目標に製造が続けられた[24]。2月に1機、3月に36機、4月に89機と、量産は急速に進んだ[55]。定説では3機の試作機を含め合計で393機が生産されたとされる[56]。多くの三式戦闘機装備部隊が五式戦闘機に機種改変を行った。5、17、18、59、111、112、244の各戦隊が五式戦を受領している[57][58]。ただし生産規模は所詮400機足らずであり、全てが置き換えられた訳ではない[59]

生産数は文献により分かれる。片渕によれば岐阜工場で1945年2月に1機、3月に36機、4月に89機、5月に131機、6月に88機、7月に23機、8月に10機、合計で381機が生産[60]され、それとは別に都城工場で1945年5月以降17機以上が生産されたとしている[60]。従って総計を398機+αとしている。いずれにせよ、うち275機は「首無し」の三式戦闘機二型からの改造であると推測される。渡辺 (2006)では試作3機を含め総生産数を390機としている[46]

なお6月以降の生産数が急激に減少しているのは、1945年6月から7月にかけて、川崎飛行機岐阜工場および周辺工場が空襲で被害を受けたためである[61][41][24]。またキ112-IIの生産力にも限界があり、更に1944年12月には三菱の発動機工場が空襲の被害に遭い、生産の停滞が目立ち始めた[39]

実戦

飛行第111戦隊の五式戦一型(キ100-I)

五式戦闘機の飛行性能は三式戦闘機一型丁を超え、最高速度は低下したが運動性の観点から比較すれば三式戦闘機二型以上の性能を示した。また稼働率が向上し、予想外の高性能を発揮した[62]。また連合軍機との戦闘に良く応えた。ただし連合軍機と比較し、傑出した性能を備えた戦闘機ではない。

1945年6月5日、飛行第111戦隊の13機はB-29爆撃機を攻撃し、6機撃墜・5機不確実・搭乗員脱出者23名を報告、五式戦の未帰還機は2機だった[63]

7月16日、やはり飛行第111戦隊の「義足エース檜與平少佐と、江藤豊喜少佐に率いられた24機の五式戦が、硫黄島を出撃したアメリカ陸軍航空軍第21戦闘機群 (21st FG)、第506戦闘機群 (506th FG) 所属のP-51250機(アメリカ軍側記録では96機)と三重県松阪市上空にて交戦し、撃墜6機、不確実5機(アメリカ軍側記録では撃墜1機)、被撃墜5機(3名戦死、2名生還)の記録が残っている[64][65]。この戦闘で檜少佐は15機のP-51に包囲されるも、これを振り切り無事帰還、かつ1機撃墜[* 7]し「(P-51が相手でも)無理をしない限り五式戦闘機は絶対に墜とされる飛行機ではない」と述べている[66]。ただし多数の米軍機に各個撃破される苦しい戦闘であり、檜の指揮も適切ではなかったとしている[67]

7月25日、滋賀県八日市市付近上空で、アメリカ海軍の軽空母ベロー・ウッド所属の18機のF6Fに対して、飛行第244戦隊所属機のうち16機で挑み、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機を報じている。この戦闘は日本側の完全な奇襲成功であったが、アメリカ側の資料によればF6Fの損失は2機。空戦参加機数については諸説が存在する。

1945年7月28日には飛行第244戦隊が18機の五式戦闘機で24機のF6Fと交戦し、2機を失うも12機を撃墜[68]するなど、質量共に厳しい航空戦を強いられていたこの時期にあって少なくない戦果を報告している。ただし7月25日の戦闘の様に、日本側はF6Fを10機撃墜3機撃破、自軍の損害2機とするも、米軍側の記録では逆に撃墜8、撃墜不確実3、撃破3、自軍の損害を2とするなど、実際は互角であったと言うケースもある[69]。なおこうした戦果の2倍から3倍の誤認・重複などは、日米共通の空戦における普遍的な判定であった。しかし連合軍機と互角に戦闘可能な新型戦闘機の出現により、前線部隊の意気は大いにあがったことは事実であった。五式戦闘機は戦局を覆せる様な新鋭高性能機でもなく、元来は三式戦闘機二型の実用化までの繋ぎの意味もある戦闘機であり、さらには戦局を覆せるだけの大量生産がなされたわけでもなかった。だが、末期の日本陸軍航空隊の士気の拠り所となったことは確実であった。

なお、戦中、アメリカ軍は五式戦闘機の存在を認識しておらず、特にコードネームは与えられていない。また戦後のレポートでは「性能や構造などで特に感銘は受けなかった」としている[70]

現存機

終戦時、数機の五式戦が米空母に搭載されてアメリカ本土に輸送されたが、その後の消息は不明である[71]。 本機の世界で唯一の現存機としては、現在イギリスイギリス空軍博物館(RAF博物館)が所蔵している一型、恐らく1945年6月に完成した163365機がある。当機は陸軍航空輸送部各務原飛行機部の手により1945年7月末に小牧を出発し上海台湾などを経由しシンガポールに向け回送中、経由地のカンボジアにて終戦を迎え[72]サイゴン[73]イギリス軍に接収され持ち帰られた機体である[74][75]。全てがオリジナルパーツという訳ではないが、エンジンおよび機体共に極めて良好な状態にまでレストアされており、1986年頃にはハ112エンジンの地上運転を行ったこともある[43]。同博物館では本機(五式戦)は世界の航空史に残るマイルストーン的存在の名機として位置づけられ、2003年11月から2011年9月までRAF博物館ロンドン館マイルストーン室に展示されていた。2012年1月末からは同博物館コスフォード館で公開されている。

性能諸元

エンジン排気管周りのアレンジは同時代の日本機よりもモデルとなったFw 190に近い

※使用単位についてはWikipedia:ウィキプロジェクト 航空/物理単位を参照

全幅 12.00m
全長 8.9245m(渡辺) / 8.818m(学研)
全高 3.75m
翼面積 20m2
翼面荷重 174.8 kg/m2(全備状態)
自重 2,525kg
全備重量 3,495kg
燃料 595リットル(機内)、増槽として200リットル×2
水メタノール95リットル
エンジン ハ112-II型(離昇出力1,500馬力)
最大速度 580km/h(高度6,000m)
巡航速度 400km/h(高度4,000m)
航続距離 機内燃料で3時間30分/1400km、増槽装備時5時間30分/2200km
上昇力 5,000mまで6分、8,000mまで11分30秒
実用上昇限度 11,000m
武装 機首20mm機関砲(ホ5)2門、翼内12.7mm機関砲(ホ103)2門
爆装 250kg爆弾 2個
総生産機数 393機(諸説あり)

※ 諸元は特記無き限り 渡辺洋二 (2006) 巻末資料、および 学習研究社 (2007) 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 61『三式戦「飛燕」・五式戦』p.160の折り込みによる。爆装については『エアロ・ディテール』のp.48や巻末資料でも確認できる。

その他

五式戦よりやや早い時期に、DB 601を愛知航空機で海軍向けに国産化・改良した水冷エンジンのアツタ三二型の生産遅延のため、艦上爆撃機「彗星」でも、首なし機体が愛知航空機の工場内外に滞る状態となったことから、エンジンを空冷の金星六二型(ハ112-IIの海軍名)に換装した彗星三三型が生産されることになった。本機と同様に若干の性能低下は見られたが、故障が減り稼働率も高くなったため、第一線部隊の艦爆搭乗員と整備員からは高く評価された。

注釈

  1. ^ なお、ハ140の生産は10月-12月には24、21、45台と一時的に復調しているが、年が明けると8台、7台、2台、0台という生産数であった[10]
  2. ^ 実際にハ140を搭載し完成したのは99機とするのが定説である。
  3. ^ これは既に量産されていた海軍の彗星三三型の空力処理と同様である[要出典]
  4. ^ なお、渡辺(2006)は一型丁と同等の速度と記している[35]
  5. ^ 高高度では大気が希薄になるため、空冷エンジンでは冷却が困難になる。
  6. ^ 編注:ただしP-51は仕様で五式戦闘機より100km/h以上勝るほか、高空性能と防弾装備および長距離航続性能を兼備し、第二次大戦最優秀戦闘機とされる戦闘機である。
  7. ^ 第506戦闘機群ジョン・ベンボウ大尉機、未帰還。

出典

  1. ^ 秋本実著『日本の戦闘機/陸軍篇』1961年出版協同社刊57ページ
  2. ^ 航空情報編集部編『戦闘機WORLD WARII』(株)酣燈社1972年136ページ
  3. ^ 渡辺 2006, p. 156-157.
  4. ^ 渡辺 2006, pp. 117–118.
  5. ^ 碇 2006, p. 225.
  6. ^ 渡辺 2006, pp. 279–280.
  7. ^ 渡辺 2006, pp. 299–300.
  8. ^ 渡辺 2006, p. 284, 289-290.
  9. ^ a b c 渡辺 2006, p. 219.
  10. ^ a b c 片渕 2007, p. 94.
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  12. ^ 碇 2006, p. 223.
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  16. ^ 土井 1999, p. 102.
  17. ^ a b 土井 2002, p. 37.
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  19. ^ a b 渡辺 2006, p. 339.
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  21. ^ 渡辺 2006, pp. 341–342.
  22. ^ a b 古峰 2007, p. 153.
  23. ^ 渡辺 2006, pp. 340–343.
  24. ^ a b c d 土井 1999, p. 103.
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  30. ^ a b 和泉 1999, p. 29.
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  36. ^ 渡辺 2006, pp. 71, 348.
  37. ^ 片渕 2007, pp. 96–97.
  38. ^ a b ピカレッラ, 2010 & p.22.
  39. ^ a b c d e f 古峰 2007, p. 158.
  40. ^ 渡辺 2006, p. 405.
  41. ^ a b 土井 2002, p. 39.
  42. ^ ピカレッラ, 2010 & p.57.
  43. ^ a b c ピカレッラ, 2010 & p.11.
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  45. ^ 土井 2002, p. 40.
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  48. ^ #陸軍戦闘機隊287頁。角田政司(大尉)談。
  49. ^ a b c 古峰 2007, p. 155.
  50. ^ 碇 2006, p. 232.
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  56. ^ 秋本 1999, p. 121.
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  59. ^ 古峰 2007, p. 157.
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  61. ^ 渡辺 2006, pp. 403–404.
  62. ^ 渡辺 2006, p. 408.
  63. ^ #つばさの血戦274-275頁
  64. ^ 渡辺洋二「液冷戦闘機『飛燕』」朝日ソノラマ、1998年5月 p.345~346
  65. ^ #つばさの血戦291頁
  66. ^ 檜與平「紅の翼-ああ、ただ一機檜戦闘機隊-」(東京ライフ社、1957年)、#つばさの血戦289頁
  67. ^ #つばさの血戦288頁、#陸軍戦闘機隊298-301頁
  68. ^ 古峰 2007, p. 179.
  69. ^ 渡辺 2006, p. 393.
  70. ^ 古峰 2007, p. 180.
  71. ^ #陸軍戦闘機隊306頁
  72. ^ 碇 2006, p. 263.
  73. ^ 片渕, 栗原 & Picarella 2007, p. 70.
  74. ^ ピカレッラ, 2010 & p.7.
  75. ^ http://www.rafmuseum.org.uk/cosford/collections/aircraft/aircraft_histories/85-AF-68%20Kawasaki%20Ki-100.pdf [リンク切れ]

参考文献

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  • 碇, 義朗 (2006), 戦闘機「飛燕」技術開発の戦い 日本唯一の液例傑作機, ISBN 4-7698-2137-9  - 1977年 廣済堂出版より刊行された『戦闘機 飛燕』の加筆修正・文庫版。1976年に「東京タイムズ」連載。
  • 和泉, 久 (1999), “INTRODUCTION”, 飛燕・五式戦 / 九九双軽, 図解・軍用機シリーズ, 2, 光人社, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 片渕, 須直; 栗原, 秀夫; Picarella, Joe (2007), “復元「五式戦」の全貌”, 三式戦「飛燕」・五式戦, 歴史群像 太平洋戦史シリーズ, 61, 学習研究社, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 片渕, 須直 (2007), “「キ61」・「キ100」月別生産数と機体番号、「キ61」・「キ100」機体別番号リスト、「キ61」・「キ100」系列の各型製造数と機体番号”, 三式戦「飛燕」・五式戦, 歴史群像 太平洋戦史シリーズ, 61, 学習研究社, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 近現代史編纂会, ed. (2001), 新人物往来社, ISBN 4-404-02945-4  - 配備された航空隊について参照した。pp.118-177。
  • 土井, 武夫 (1999), “三式戦/五式戦の設計と開発”, 飛燕・五式戦 / 九九双軽, 図解・軍用機シリーズ, 2, 光人社, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 土井, 武夫 (2002), “私の設計した液冷戦闘機飛燕”, 軍用機開発物語 設計者が語る秘められたプロセス, 光人者NF文庫, 光人社, ISBN 4-7698-2334-7  - 初出は雑誌「丸」 1961年8月号に掲載された手記であるが本文中での書誌情報はより入手が容易なこの文庫のものを使用している。
  • ピカレッラ, ジュゼッペ (2010), 川崎 キ100 五式戦闘機, エアロ・ディテール, 32, ISBN 978-4-499-23004-9 
  • 古峰, 文三 (2007), “川崎航空機の戦闘機開発系譜と「三式戦」・「キ100」の誕生 第1 - 10章”, 三式戦「飛燕」・五式戦, 歴史群像 太平洋戦史シリーズ, 61, 学習研究社, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 渡辺, 洋二 (2006), 液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼, ISBN 4-16-724914-6  - 朝日ソノラマ 1998 『液冷戦闘機「飛燕」』 の加筆・改正・文庫版。なお、それより更に以前に、サンケイ出版 1983年『「飛燕」苦闘の三式戦闘機』としても出版されている。
  • 檜與平『つばさの血戦 かえらざる隼戦闘隊』光人社、1984年2月。ISBN 4-7698-0008-8 
  • 黒江保彦ほか『陸軍戦闘機隊 私は愛機と共に青春を賭して戦った!』光人社、2011年4月。ISBN 978-4-7698-1494-8 
    • 角田政司(大尉・飛行十八戦隊)『新鋭「五式戦」帝都上空一万メートルの戦い 飛行十八戦隊B29高々度戦闘の実相
    • 稲山英明(大尉・飛行一一一戦隊)『P51激撃「五式戦闘機」空戦始末記 強敵ムスタングを迎え撃った五式戦の栄光と最後

関連項目