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「エスファハーン」の版間の差分

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'''エスファハーン'''({{lang-fa|اصفهان}}; {{lang|fa-latn|Eṣfahān}} {{IPA-fa|esfæˈhɒːn||Esfahan.ogg}}、{{lang-en-short|Isfahan}}) は、[[イラン]]の[[都市]]。[[エスファハーン州]]の[[州都]]。[[テヘラン]]の南約340kmに位置する<ref name="asa-nishiasia-108">『西アジア』、108頁</ref>。[[日本語]]では、慣例的に'''イスファハン'''、'''イスファハーン'''とも表記される<ref>『イランを知るための65章』、6頁</ref>。
[[ファイル:Naghsh-e-jahan masjed-e-shah esfahan.jpg|right|thumb|220px|[[イマーム広場]]]]
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[[ファイル:Esfahan market.jpg|right|thumb|220px|エスファハーンのマーケット]]


古くからの政治・文化・交通の拠点であり<ref name="gamo">蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁</ref>、[[16世紀]]末に[[サファヴィー朝]]の[[首都]]に定められ発展した。当時の繁栄は「'''エスファハーンは世界の半分'''( ''Esfahān nesf-e-jahān ast'' 、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され<ref>『イランを知るための65章』、206頁</ref><ref group="注">20世紀のイランの作家[[サーデグ・ヘダーヤト]]は、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)</ref>、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり<ref>宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、84頁</ref>、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、18頁</ref>。
'''エスファハーン'''({{lang-fa|اصفهان}}; Eṣfahān) は、[[イラン]]の[[都市]]。[[エスファハーン州]]の[[州都]]。[[テヘラン]]の南約340kmに位置し、[[二宮書店]]発行のデータブック・オブ・ザ・ワールドによると、人口は160.2万人([[2006年]]現在)で、イランで3番目に大きい都市である。前近代音ではイスファハーン、[[日本語]]ではイスファハン、イスファハーンとも表記される。


[[サファヴィー朝]]時代に[[首都]]に定められ発展した。有名な[[イマーム・モスク]]などがある[[イマーム広場]]は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]により[[世界遺産]]に登録されている。
町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の[[アッバース1世]]が建設した新市街で構成される。有名な[[イマーム・モスク]](王のモスク<ref name="miyata8384" group="注">1979年の[[イラン革命]]で[[パフラヴィー朝]]が崩壊した後、王([[シャー]])という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁)</ref>)などがある新市街の[[イマーム広場]](王の広場<ref name="miyata8384" group="注"/>)は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]により[[世界遺産]]に登録されている。

町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある<ref name="asa-nishiasia-111">『西アジア』、111頁</ref>。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている<ref name="kamioka">上岡『イラン』、291-293頁</ref>。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる<ref name="kamioka"/>。

== 語源 ==
古代ペルシア語の"{{lang|peo-latn|Aspad-hana}}"(アスパダナ、大軍の集結地)が、町の名前の由来である<ref name="ari">蟻川明男『世界地名語源辞典』(三訂版, 古今書院, 2003年3月)、37頁</ref>。「大軍の集結地」が示す通り、町の周辺の平原は軍隊の駐屯地や捕虜の収容所として使われていた<ref name="une">『ユネスコ世界遺産 3(西アジア)』、200-211頁</ref>。古代ペルシア語の"{{lang|peo-latn|Asp}}"(馬)から派生した「馬を愛する者」「騎兵の補給基地」「厩舎」を語源とする説も存在する<ref>『世界の地名・その由来 アジア篇』(和泉光雄編著, 講談社出版サービスセンター, 1997年1月)</ref>。

[[古代ローマ]]の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[地理学 (プトレマイオス)|地理書]]』には、町はアスパダナ({{lang|la|Aspadana}})の名前で記されている<ref name="asa-nishiasia-108"/>。[[サーサーン朝]]の末期に鋳造された貨幣には、アスパダナを意味する"ASP"の3文字が刻まれていた<ref name="une"/>。

エスファハーンの名前は、7世紀に町を征服した[[アラブ人]]によって定着した<ref name="ari"/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== イスラーム以前 ===
紀元前からの歴史を有する。[[ザーヤンデルード川]]の豊富な水量に支えられた周辺地域の農業生産力と、[[イラン高原]]北部と[[イラク]]、[[ペルシア湾]]岸の港湾都市地域を結ぶ交通の要衝として古代から発展した。[[664年]]、[[正統カリフ]]・[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]の治世にアブドゥッラー・ブン・フザイルによって征服されてから、[[イスラム帝国]]の支配下に入った。
エスファハーンの歴史は紀元前の[[アケメネス朝]]期に遡ることができる<ref name="gamo"/>。一説には、紀元前6世紀の[[ユダヤ人]]居住区が町の起源と言われる<ref name="jiten-toshi605">『事典 イスラームの都市性』、605頁</ref><ref name="hei-93">坂本「イスファハーン」『新イスラム事典』、93頁</ref>。<!-- 古代ローマの地理学者[[ストラボン]]が[[パルティア]]王の住む場所と記したガバエの町は、エスファハーンと推定されている<ref name="une"/>。 -->


[[サーサーン朝]]の時代にはエスファハーンは軍隊の駐屯地とされており、町は「軍隊」の複数形であるセパーハーン(Sepāhān)の名前で呼ばれていた<ref name="asa-nishiasia-108"/>。サーサーン朝の王[[ヤズデギルド1世]]の治世に、ユダヤ人が町に移住させられる<ref name="kamioka"/>。
[[11世紀]]前半、[[ブワイフ朝]]の君主[[アラーウッダウラ]]のもとで市壁が築かれ、おおよそこの市壁に沿って街が発展した。11世紀後半より[[セルジューク朝]]の[[トゥグリル・ベク]]以来、セルジューク朝本家の根拠地としてその支配下で繁栄する。


手工芸品の産地である町は、[[パルティア|パルティア王国]]とサーサーン朝の時代に交易で発展した<ref name="une"/>。
[[1194年]]にセルジューク朝最後の君主[[トゥグリル3世]]が[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・テキシュ]]に敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。[[モンゴル帝国]]軍に敗れて[[インド]]へ逃亡した[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]がイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している。


[[7世紀]]の[[イスラム帝国]]の征服前に、すでに町の原型が形作られていた<ref name="iwa">羽田「イスファハーン」『岩波イスラーム辞典』、121頁</ref>。[[ザーヤンデルード川]]の北を中心に町が形成され、東のジャイ、西のヤフーディーヤの2つの集落が形成された。ジャイは城壁に囲まれた軍事都市、ヤフーディーヤはユダヤ人居住区と異なる役割を有する[[双子都市]]であり、[[ゾロアスター教|ゾロアスター教徒]]、ユダヤ人、[[ネストリウス派]]キリスト教徒が混住していた<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、169頁</ref>。やがてジャイは廃れ、ヤフーディーヤが発展していく<ref name="asa-nishiasia-108"/>。
ジャラールッディーンの死後、ほどなくイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に[[1244年]]に征服され、[[イルハン朝]]時代には中部イランの主要地方都市のひとつとなった。[[14世紀]]半ばのイルハン朝崩壊前後の混乱時代に[[ヤズド]]を根拠地とする[[ムザッファル朝]]の傘下に入り、[[1386年]]には[[ティムール]]が、[[1414年]]には[[シャー・ルフ]]によって2度のティムール朝軍の破壊を受けている。[[モンゴル帝国]]と[[ティムール帝国]]の攻撃を受けて一時停滞した。


[[642年]]のニハーヴァンドの戦いの前後に町は[[アラブ人]]の支配下に入った<ref name="asa-nishiasia-108"/>。サーサーン朝の時代に町に住んでいたゾロアスター教徒の多くはイスラームに改宗、あるいは東方に移住した<ref name="asa-nishiasia-109">『西アジア』、109頁</ref>。しかし、イスラム教徒の支配下でも、残ったゾロアスター教徒、ユダヤ人、キリスト教徒は町の一角に居住していた<ref name="asa-nishiasia-109"/>。
[[16世紀]]末、[[1597年]]に[[サファヴィー朝]]の[[アッバース1世]]によって都に定められると、計画都市としての大規模な市街改造が進められた。「王の広場」を中心として様々な建造物も建設され、当時の繁栄は「'''エスファハーンは世界の半分'''」と賞賛された。西洋の商人もこの街を訪れ、その繁栄の記録を残している。[[18世紀]]前半に[[アフガン人]]によってサファヴィー朝が滅ぼされると、街の人口は減少へと向かった。


=== 第一の隆盛期 ===
== エスファハーンと名づけられた旋律 ==
[[Image:Jame mosque portal.jpg|thumb|180px|right|金曜モスク]]
イラン古典音楽はバヤーテ・エスファハーン(Bayāt-e Esfahān, エスファハーン風、エスファハーン様式のバヤートの意)と名付けられた旋律の一群を持つ。


[[773年]]ごろに[[エスファハーンのジャーメ・モスク|金曜モスク]](ジャーメ・モスク)の基となった大[[モスク]]が建立され、町は大モスクとコフネ広場(旧広場)を中心に発展していく<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、169-170頁</ref>。
== 見所 ==
*[[イマーム広場]]
*[[アリ・カプ宮殿]]
*[[シャー・ モスク]]
*[[ヴァーンク教会]](エスファハーン及び[[イラン]]国内在住の[[アルメニア人]]コミュニティーのための[[アルメニア使徒教会]]の[[聖堂]]。[[1655年]]完成)
*[[エスファハーンの金曜モスク|金曜モスク]]
*スィー・オ・セ橋
*ハージュ橋
*チェヘル・ソトゥーン宮殿
*マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー


[[10世紀]]までに[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]、[[サッファール朝]]、[[サーマーン朝]]がエスファハーンを支配した。[[931年]]に[[ブワイフ朝]]の支配下に入り<ref name="gamo"/>、[[939年]]にブワイフ朝の首都に定められた<ref name="asa-nishiasia-109"/>。[[アラーウッダウラ]]のもとで市壁が築かれ、おおよそ市壁に沿って町が発展した<ref name="iwa"/>。貿易路の交差点に位置する立地のため、多くの街道がエスファハーンと結ばれる<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、170頁</ref>。
== 関連項目 ==

*[[フーラッド・モバラケ・セパハンFC]](エスファハーンを本拠地とするサッカークラブ)
11世紀にエスファハーンは[[ガズナ朝]]、次いで[[セルジューク朝]]に領有される<ref name="gamo"/>。セルジューク朝の[[スルターン]]・[[マリク・シャー]]は、エスファハーンを国の都に定めた。金曜モスクと隣接するコフネ広場を中心として、エスファハーンは最初の隆盛期を迎える<ref name="iwa"/>。

金曜モスクは修復され、南北の大ドームと、中庭に面した4つのホール([[イーワーン]])が増築される<ref name="NHK171">NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、171頁</ref>。また、モスクの近くに[[ニザーミーヤ学院]]が建設された。セルジューク朝支配下のエスファハーンでは200人の両替商が営業を行い、50の[[キャラバンサライ]](隊商宿)が建っていた<ref name="asa-nishiasia-109"/>。

セルジューク朝が分裂した後のエスファハーンは首都としての機能を失うが、地方の中心都市としての地位を保っていた<ref name="iwa"/>。多くの国がエスファハーンの領有を巡って争ったためにたびたび破壊に晒されたが、交通、商業、文化、農業の一拠点としての重要性は維持していた<ref name="jiten-toshi605"/>。

=== 停滞期 ===
11世紀末から12世紀初頭にかけての間、[[イスマーイール派]]がエスファハーンを占領した<ref name="une"/>。[[1165年]]、エスファハーンで[[ハナフィー学派]]と[[シャーフィイー学派]]による8日間に及ぶ武力衝突が起こり、家屋や商店は破壊され、多くの死者を出した<ref>『イランを知るための65章』、154頁</ref>。

[[1194年]]に[[イラク・セルジューク朝]]最後の君主[[トゥグリル3世]]が[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・テキシュ]]に敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。[[モンゴル帝国]]軍に敗れて[[インド]]へ逃亡した[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]がイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)、26-28頁</ref>。

[[1240年]]にイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に征服され<ref name="NHK176">NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、176頁</ref>、[[イルハン朝]]の支配下に入った。[[14世紀]]に、エスファハーンは学術と商業の拠点として復興する<ref name="NHK171"/>。14世紀に旅行家[[イブン・バットゥータ]]がエスファハーンを訪れたとき、町では[[スンナ派]]と[[シーア派]]の争いが起きていた<ref name="bat">イブン・バットゥータ『大旅行記』2巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1997年4月)、311-312,373頁</ref>。

14世紀半ばのイルハン朝崩壊後の混乱時代に、[[ヤズド]]を根拠地とする地方政権[[ムザッファル朝]]の傘下に入る<ref name="NHK176"/><ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1979年11月)、386-388頁</ref>。[[1387年]]には[[ティムール]]の、[[1414年]]には[[シャー・ルフ]]によって2度の[[ティムール朝]]軍の破壊を受けている。1387年にエスファハーンの住民が町を占領したティムール軍に反抗したため、70,000人に達する市民が虐殺された[[:en:Siege of Isfahan (1387)]]という<ref>ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)、68-69頁</ref>。

=== 第二の隆盛期 ===
[[Image:Shah Abbas I engraving by Dominicus Custos.jpg|thumb|200px|right|サファヴィー朝の王アッバース1世]]
[[Image:Naqsh-e Jahan Square by Pascal Coste 1 Ver2.jpg|thumb|220px|right|19世紀に[[:en:Pascal Coste|Pascal Coste]]によって描かれた王の広場]]
[[Image:Esfahan market.jpg|thumb|160px|right|エスファハーンのバーザール]]

16世紀初頭に建国された[[サファヴィー朝]]の創始者[[イスマーイール1世]]は、コフネ広場の南にハール・ネヴェラーヤトと呼ばれる[[スーフィー]]の聖者の霊廟と
アリー・モスクを建立した。16世紀を通して王朝が派遣した地方官や土着の有力者によって、多くの建設事業が行われた<ref name="jiten-toshi605"/>。[[1597年]]に[[アッバース1世]]によって、サファヴィー朝の首都が[[ガズヴィーン]]からエスファハーンへ遷都された<ref>{{Cite web |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572358740394624 |title=サファヴィー朝の「統治の都」における王宮地区建設事業 : カズウィーンのサアーダトアーバードを事例として |access-date=2023-10-13 |last=裕加子 |first=後藤 |date=2018-03 |website=関西学院史学 |pages=80–49 |language=ja}}</ref>。

アッバース1世は町の南西の馬場と青空市に使われる広場を新市街の中心地に選定し、王の広場(後世のイマーム広場)を建設した<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、262-263頁</ref>。王宮地域の西側には、ザーヤンデルードの南岸と北岸を結ぶチャハール・バーグ大通り<ref group="注">「チャハール・バーグ」とは「4分割された庭園」の意であり、4本の水路と4つの区画に由来する。(NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、178-179頁)</ref>が建造され、通りの始点と終点、側面に庭園が造られた<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、172頁</ref>。

王の広場やチャハール・バーグ大通りを中心とする計画都市としての大規模な市街改造が進められる<ref>『イランを知るための65章』、205頁</ref>。王の広場の一角に建立された{{仮リンク|シャイフ・ルトゥフッラー・モスク|en|Sheikh Lotfollah Mosque}}、王のモスク(イマーム・モスク)、[[アリ・カプ宮殿]]などの施設が、新市街に建設された。17世紀のはじめに西方の世界で飲まれていた[[コーヒー]]がイランに伝播すると、建設中の王の広場に[[コーヒーハウス]]が建設された<ref name="永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、266-267頁">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、266-267頁</ref>。

王の広場は外国の使節との謁見、閲兵、青空市、公開処刑など多種のイベントが行われる場所であり<ref name="jiten-toshi606">『事典 イスラームの都市性』、606頁</ref>、使節との謁見や[[ノウルーズ]](新年祭)の時には[[ポロ]]や花火も催された<ref name="asa-nishiasia-109"/>。広場は[[レスリング]]、古式体操の競技場としても使用された。さらに、イベントの観客を目当てにする大道芸人や娼婦の客引きが広場に集まった<ref name="jiten-toshi606"/>。

新市街と旧市街は[[バザール|バーザール]](商業地区)で結ばれ、都市の商業が活発化する<ref name="jiten-toshi606"/>。夏の酷暑と風雨を防ぐため<ref>宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、86頁</ref>、バーザールにはドーム状のアーケードが設置された。バーザールの道沿いに建てられていたキャラバンサライでは、小売りの商人が卸売りから品物を仕入れていた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、268頁</ref>。

旧市街にはバーザールで働く商人や職人の多くが居住し、コフネ広場と周辺には商店が軒を連ねていた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、270-271頁</ref>。また、コフネ広場の周辺には、コクナールという一種の麻薬を売る店や、少年の男娼や娼婦をあてがう置屋が並ぶ界隈が存在していた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、271頁</ref>。

[[1604年]]に<ref name="NHK176"/>アッバース1世によって当時国際交易で活躍していた[[アルメニア人]]がエスファハーン郊外に移住させられ、[[1654年]]<ref name="NHK176"/>に彼らは町の南西のジョルファー(Julfā)と呼ばれる地区に居住した<ref name="asa-nishiasia-110">『西アジア』、110頁</ref>。「ジョルファー」の語源は[[アゼルバイジャン]]の[[アラス川|アラス河畔]]にある町の名前であり<ref name="asa-nishiasia-110"/>、絹交易で利益を得ていた<ref name="chuko278">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、278頁</ref>。オスマン帝国の食糧補給の妨害のため、ジョルファーの収益がオスマン帝国の手に渡ることを阻止するため、アッバース1世はアルメニアの住民をイランに強制的に移住させたと考えられている<ref name="chuko278"/>。アルメニア人には数々の特権が付与され、王室が独占する絹交易に従事することを許された<ref name="asa-nishiasia-110"/><ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、278-279頁</ref>。ジョルファーには、アルメニア人の寄付によって建立された[[ヴァーンク教会]]などの、いくつかのキリスト教徒の教会が存在する。また、ジョルファーの西のゲブラーバードには、ゾロアスター教徒の居住区が形成されていた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、262頁</ref>。

17世紀には、[[スーフィズム]](神秘主義)の影響を強く受けた思想家がエスファハーン学派を形成し、哲学論を巡らせていた<ref>羽田正「イスファハーン学派」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)、121-122頁</ref>。

17世紀末にはエスファハーンの人口は500,000人を超え<ref name="jiten-toshi606"/><ref name="chuko258">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、258頁</ref>、トルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒が混在する他文化都市となっていた<ref name="asa-nishiasia-110"/>。そして町には1802のキャラバンサライ、162のモスク、48の[[マドラサ]](学校)、273の[[ハンマーム|ギャルマーベ]](公衆浴場)が建ち並んでいた<ref name="asa-nishiasia-110"/>。町の繁栄の様子は17世紀末のエスファハーンを訪れたフランスの商人[[ジャン・シャルダン]]によって記録され、[[1711年]]にヨーロッパで出版された<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、257-259頁</ref>。

[[18世紀]]に入るとサファヴィー朝は衰退し、[[1722年]]に[[アフガン人]]によってエスファハーンは破壊される<ref name="hei-93"/>。サファヴィー朝が滅亡して新市街から宮廷が消えると新市街は急速に衰退し<ref name="jiten-toshi606"/>、荒廃した新市街の大部分は耕作地にされた<ref name="iwa"/><ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、277頁</ref>。

[[1756年]]から[[1757年]]にかけて町を襲った飢饉によって約40,000人の市民が餓死、[[1759年]]より知事のムハンマド・リナーニーのもとで復興事業が始められる<ref name="NHK176"/>。

=== 近代以降 ===
[[Image:Isfahan iran 1942.jpg|thumb|180px|right|1942年に作成されたエスファハーンの地図。]]

[[19世紀]]に入って、エスファハーンの復興が始まる<ref name="hei-93"/>。[[ガージャール朝]]が建国された後、遊牧民族の[[バフティヤーリー族]]([[:en:Bakhtiari people|Bakhtiari people]])がエスファハーンの支配権を握った<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、148,150頁</ref>。しかし、首都機能は[[テヘラン]]、商業機能は[[タブリーズ]]に移り、町は一地方都市に転落した<ref name="jiten-toshi606"/>。

[[20世紀]]に[[パフラヴィー朝]]の[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]によって都市の近代化が進められ、町は近代産業と観光産業によって復興する<ref name="jiten-toshi606"/>。[[第二次世界大戦]]後、エスファハーンで実施された自動車交通計画によって市街地に自動車道が敷かれたことが、町の転換点となる<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、173-175頁</ref>。電気や水道などの[[インフラストラクチャー]]が整備され、伝統的な都市に国際的な価値観が持ち込まれた<ref name="NHK173">NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、173頁</ref>。減少した人口は、20世紀後半から急速に増加した<ref name="asa-nishiasia-111"/>。

[[1977年]][[4月6日]]、エスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった<ref>イランでまた地震 死者五百人を超す『朝日新聞』1977年(昭和48年)4月8日朝刊、13版、23面</ref>。

[[1979年]]に新市街の王のモスクと王の広場の周辺が[[世界遺産]]に登録され、[[イラン革命]]を経た後も観光都市として発展を続ける<ref name="NHK173"/>。

== 地理 ==
[[Image:33pol esfahan.jpg|thumb|210px|right|ハージュ橋とザーヤンデルード]]

エスファハーンは海抜1,500m超の高地に存在する<ref name="Assari">{{cite journal|last=assari|first=ali|coauthors=T.M. Mahesh|title=Demographic comparative in heritage texture of Isfahan city|journal=Journal of Geography and Regional Planning|year=2011|month=August|volume=4|series=ISSN 2070-1845 ©2011 Academic Journals|issue=8|pages=463
|url=http://www.academicjournals.org/jgrp/PDF/pdf2011/Aug/Assari%20and%20Mahesh.pdf|accessdate=6 January 2013}}</ref><ref name="oda">織田「イスファハーン」『世界地名大事典』6巻、101-103頁</ref>。イランの都市の中では、標準的な高度に位置する<ref name="kamioka"/>。

[[ザーヤンデルード川]]の北に位置し、対岸にはアルメニア人の集落が存在する。町は周辺を荒野に囲まれているが、ザーヤンデルードの沿岸部は灌漑によって開拓されている<ref name="oda"/>。ザーヤンデルードの豊富な水量に支えられた周辺地域の農業生産力と、[[イラン高原]]北部と[[イラク]]、[[ペルシア湾]]岸の港湾都市地域を結ぶ交通の要衝として古代から発展した<ref name="asa-nishiasia-108"/><ref name="iwa"/>。これらの人工水路網は{{ill2|Madi|fr|Madi (Iran)}}と呼ばれる。

サーサーン朝の時代に、ザーヤンデルードに{{ill2|シャハレスターン橋|en|Shahrestan bridge}}が架けられる。17世紀のサファヴィー朝では、アッバース1世から[[アッバース2世]]の治世にかけて大規模なザーヤンデルードの[[治水工事]]が行われたが、アッバース2世の死後に工事は中止された<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、77,80頁</ref>。20世紀以降は地球温暖化と用水の利用過多によりザーヤンデルードが干上がることがあり、町は水不足に悩まされている<ref name="asa-nishiasia-111"/>。

周囲には沃野が広がり、穀物類、[[ケシ]]、[[メロン]]などが栽培されている<ref name="gamo"/>。旅行家イブン・バットゥータは『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』で、エスファハーンで獲れた[[アンズ]]と[[スイカ]]の甘味を称賛した<ref name="bat"/>。エスファハーンには[[鳩|ハト]]のフンを肥料に使う伝統的な農法があり、郊外には「ハトの塔」という名前の施設が建つ<ref name="asa-nishiasia-111"/>。「ハトの塔」はハトの住処として造られ、塔に溜まったフンが肥料に利用されていたが、20世紀後半以降は使用されていない<ref name="kamioka"/>。

== 気候 ==
穏やかな気候で四季の区別があり<ref name="asa-nishiasia-108"/>、[[砂漠気候]]に分類される。

町は高地にあるにもかかわらず、夏場は[[猛暑|酷暑]]に襲われ、最高気温は36度前後に達する。しかし、夜間には気温は下がり、快適に過ごすことができる。冬季の場合、昼間は温暖だが、夜間になると気温は急激に下がる。

{{Weather box
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|source 1 = [http://irimo.ir/english/monthly&annual/admin2.asp?CODE=37 Synoptic Stations Statistics]
|date=November 2011
}}

== 人口 ==
サファヴィー朝の首都に定められていた時代のエスファハーンの人口は、500,000人に達していたとされる<ref name="chuko258"/>。同時期の世界の都市のうち、500,000人以上の人口を有するものは[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[江戸]]、[[北京]]、[[イスタンブール]]とごく小数に限られていた<ref name="chuko258"/>。サファヴィー朝の滅亡後、住民は[[イラク]]やインドに移住し、またイランの政治的混乱と支配者が課した重税によって人口は最盛期の10分の1にまで減少する<ref>『西アジア』、110-111頁</ref>。

20世紀後半より工業と観光産業が集中的に振興されたため、人口が増加した<ref name="Assari"/>。しかし、交通渋滞、貧困と失業、住宅の不足と老朽化といった問題も起きている<ref name="Assari"/>。

{| class="wikitable"
|-
! !! 1956年 !! 1966年 !! 1976年 !! 1986年!! 1991年 !! 1996年 !! 2006年
|-
! 人口
| 254,708<ref name="world">[http://bevoelkerungsstatistik.de/wg.php?x=&men=gpro&lng=de&des=wg&srt=pnan&col=adhoq&msz=1500&geo=441671168 World Gazetteer Eşfahān](2013年4月閲覧)</ref>
|424,045<ref name="world"/>
| 661,510<ref name="world"/>
| 986,753<ref name="asiose98">『アジア・オセアニア 1』、98頁</ref>
|1,127,030<ref name="world"/>
| 1,266,072<ref name="asiose98"/>
| 1,583,609<ref name="world"/>
|}

== 経済 ==
[[Image:Esfahan Craftsman Art.jpg|thumb|180px|right|エスファハーン産の焼き物]]
エスファハーンは、古くから工業都市としても有名である<ref name="asa-nishiasia-111"/>。

アッバース1世は絹織物、貴金属細工、[[イスラームの書法|書道]]、[[ミニアチュール]]などの手工業を奨励し、サファヴィー朝時代の技術の面影は後世に残った<ref>宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83頁</ref>。銀器、ガラムカーリー(木型を使って着色した[[木綿]])、ハータムサーズィー([[寄木細工]]の一種)、[[七宝]]、タイルなどの手工芸品が特産品として知られている<ref name="asa-nishiasia-111"/>。17世紀に町を訪れた商人ジャン・シャルダンは、バーザールと王の広場の露店を詳細に記録し、広場の露店を「自分が知る限り最も多くの酒類の品物が売られている、市場の中の市場」と評した<ref name="永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、266-267頁"/>。

エスファハーン郊外のナスラーバードには家内工業の形態をとる[[絨毯]]工房が多く集まり、女性たちによって絨毯が織られている<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、98頁</ref>。エスファハーンで織られた絨毯の多くは町の大[[バザール|バーザール]]に出荷され、テヘラン・イラン国外の商人や観光客に購入される<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、108頁</ref>。エスファハーン産の絨毯やミニアチュールには、町のシンボルであるイマーム広場がデザインされることが多い<ref name="asa-nishiasia-111"/>。

20世紀後半に町の周辺に工業地帯が建設されると経済構造が変化し、都市の人口の増加も起きた<ref name="iwa"/>。[[ソビエト連邦]]の援助によって製鉄所が建設され<ref name="oda"/>、1972年に国営の製鉄所が操業を開始した<ref name="asiose110">『アジア・オセアニア 1』、110頁</ref>。エスファハーンの製鉄所の操業は、イランの重金属工業の始まりとされている<ref name="asiose110"/>。また、製鉄所の他に石油精製所が置かれている。

== 観光 ==
[[Image:Masjed-e Shah 3.JPG|thumb|200px|right|イマーム・モスクの内部]]
[[Image:Abbasi Hotel.jpg|thumb|200px|right|キャラバンサライを改装したアッバーシー・ホテル]]

町に点在するサファヴィー朝の建設物には、装飾用のタイルが多く使用されている点に特徴がある<ref name="gamo"/>。

紀元前のアケメネス朝の時代には、すでに[[釉薬]]をかけて焼いた煉瓦が色つきのタイルとして建築物に使われていた<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、196頁</ref>。建築物を色鮮やかなタイルで装飾する技法は、15世紀のティムール朝の時代に始まる<ref>『イランを知るための65章』、107-108頁</ref>。

16世紀末のサファヴィー朝のアッバース1世の時代、エスファハーンに青色のタイルで装飾された建物が多く完成する。これらの建物の外面は青や黄色の装飾タイルのかけらで飾られ、タイルのかけらが組み合わされてモザイク状の模様を形成している<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、30-32頁</ref>。装飾に多く使われる青色のタイルは、[[コバルト]]から出る濃紺のタイルと[[トルコ石]]を顔料として着色した薄い青のタイルの2種類が存在し、トルコ石で着色されたタイルの方が多く使われている<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、66頁</ref>。

アッバース1世の時代以降の建造物には、装飾タイルのほかに描画が施されたストゥッコ([[漆喰]]の絵描きタイル)が装飾に使われている<ref>『イランを知るための65章』、110-111頁</ref>。イマーム広場の西側に建てられた宮殿や劇場は、ストゥッコ壁画によって装飾された<ref>『イランを知るための65章』、111頁</ref>。エスファハーンの建築物には、これらのモザイクを形成する装飾タイルと絵描きタイルがデザインや建設の工程によって使い分けられている<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、192-194頁</ref>。ガージャール朝期の建設物には、ピンクや明るい黄色の派手なタイルが使われるようになる<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、199頁</ref>。

装飾タイルはもっぱら宗教施設か公共施設に使われ、一般の家屋に使われることはほとんどなかった<ref>『イランを知るための65章』、107頁</ref>。バーザールにあるいくつかの工房では伝統的な手法で装飾タイルが作られており、技術とともに徒弟制度も継承されている<ref>『イランを知るための65章』、109頁</ref>。

モスクの他に、町の各所にイマームザーデという[[スーフィズム]]の聖者([[スーフィー]])を祀った霊廟が建てられている<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、118頁</ref>。

過去の王朝が建てた[[キャラバンサライ]]の中には、ホテルに改装されて宿泊が可能になっているものも存在する<ref name="kamioka"/><ref>宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、85頁</ref>。

=== 主な観光地 ===
* [[イマーム広場]] - 東西160m、南北512mの大広場<ref>NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、188頁</ref>。北は大バーザール、東は旧市街、西は宮殿地域、南は新市街に繋がる。
* [[アリ・カプ宮殿]] - サファヴィー朝の王と外国の使節の謁見に使われた宮殿<ref name="NHK28">NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、28頁</ref>。15世紀のティムール朝の時代に宮殿の原型ができる<ref name="une"/>。サファヴィー朝の王にとって、宮殿の門の敷居は特別なものだった<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、264-265頁</ref>。イラン革命後は[[ルーホッラー・ホメイニー]]の肖像などが掲げられている<ref name="une"/>。
* [[イマーム・モスク]] - [[1630年]]に完成。
* [[ヴァーンク教会]] - 1655年完成。エスファハーン及びイラン国内在住のアルメニア人コミュニティーのためのアルメニア使徒教会の聖堂。
* [[エスファハーンの金曜モスク|金曜モスク]] - 10世紀以前に建立、その後増築と改修を繰り返す。[[1121年]]に火事に見舞われ、図書館が焼失した<ref name="une"/>。
* [[スィー・オ・セ橋]] - 13の橋の意味
* {{仮リンク|ハージュ橋|en|Khaju Bridge}} - [[アッバース2世]]の時代に完成。33のアーチを備え、アーチは必要に応じて開閉されるため、ダムとしても機能している<ref name="oda"/>。
* {{仮リンク|チェヘル・ソトゥーン宮殿|en|Chehel Sotoun}}
* {{仮リンク|シャイフ・ルトゥフッラー・モスク|en|Sheikh Lotfollah Mosque}}(マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー) - サファヴィー王室のモスク。その名前はアッバース1世の父[[タフマースブ1世]]によって[[レバノン]]から招かれた説教師に由来する<ref name="NHK28"/>。イマーム・モスクが男性のモスクと呼ばれるのに対して、こちらは女性のモスクと呼ばれる<ref name="une"/>。
* サーレバーン・ミナレット - セルジューク朝の時代に建てられた[[ミナレット]]。
* バーバー・カージム廟 - イルハン朝の時代に建てられた聖者の霊廟。

<gallery>
Image:Masjed-e Shah, Isfahan-entry.jpg|イマーム・モスクの内部
Image:Sheykh lotfollah mosque.jpg|シャイフ・ルトゥフッラー・モスク
Image:Chehel Sotoon.jpg|チェヘル・ソトゥーン宮殿
Image:Alí Qapu.jpg|アリ・カプ宮殿
Image:Esfahan 114.jpg|ヴァーンク教会
</gallery>

== 交通 ==
'''エスファハーン'''は[[テヘラン]]、[[シーラーズ]]、[[ヤズド]]行きの列車の始発地点となっている。また、2路線・総延長43kmの[[イスファハーン地下鉄]]の一部分が完成した。地下鉄が全線開通するまでの間は、バスが市内の公共交通網を支える。

歴史的建造物保護のため、市内の高速道路網の整備には長い時間を要した。テヘランと[[シーラーズ]]を結ぶ自動車道が通過しており、エスファハーンと市周辺の衛星都市も高速道路によって繋がっている<ref>{{cite journal|last=Assari|first=Ali|coauthors=Erfan Assari|title=Urban spirit and heritage conservation problems: case study Isfahan city in Iran|journal=Journal of American Science|year=2012|volume=8|issue=1|pages=203–209|url=http://www.jofamericanscience.org/journals/am-sci/am0801/030_7701am0801_203_209.pdf|accessdate=7 January 2013}}</ref>。

郊外の[[シャヒード・ベヘシュティー空港]]は国内線と国際線の両方が運航されている。国際線は主に[[ドバイ]]や[[ダマスカス]]などの中東の都市と[[中央アジア]]の都市行きの便が就航している。

== 教育 ==
[[Image:College of agriculture, Isfahan University of Technology.jpg|thumb|200px|right|エスファハーン工科大学のキャンパス]]

エスファハーンには複数の大学、神学校が存在する。また、州の各地で非公式の訓練プログラムを実施するエスファハーンTVTOが運営する、50超の技術・職業訓練校が置かれている
<ref>{{cite web|url=http://www.etvto.ir/p/en/index.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071008230645/http://www.etvto.ir/p/en/index.htm |archivedate=2007-10-08|title=Isfahan Technical and Vocational Training Organization |publisher=Web.archive.org |date=2007-10-08 |accessdate=2012-04-23}}</ref>。

2007年には[[国際物理オリンピック]]の開催地となった。

エスファハーンの大学には、以下の学校がある。
* エスファハーン大学([[:en:University of Isfahan|University of Isfahan]])
* エスファハーン医科大学([[:en:Isfahan University of Medical Sciences|Isfahan University of Medical Sciences]])
* エスファハーン芸術大学([[:en:Isfahan University of Art|Isfahan University of Art]])
* エスファハーン工科大学([[:en:Isfahan University of Technology|Isfahan University of Technology]])
* イスラーム自由大学シャフレ・マジュレスィー([[:en:Islamic Azad University of Majlesi|Islamic Azad University of Majlesi]])

== スポーツ ==
エスファハーンは、大規模なスポーツイベントの開催地に選ばれている。

50,000人の収容人数を誇る[[ナクシェ・ジャハーン・スタジアム]]は、収容人数を75,000人に増やすために改築が行われている。[[イランサッカーリーグ]]に属する[[サッカー]]クラブの[[フーラッド・モバラケ・セパハンFC]]と[[ゾブ・アハン・エスファハーンFC]]は、エスファハーンを本拠地としている。[[ナクシェ・ジャハーン・ダービー]]というエスファハーンを本拠地とする両チームのダービーマッチは、イランのサッカーで最も有名なイベントの一つである。


== 姉妹都市 ==
== 姉妹都市 ==
{{div col}}
*{{Flagicon|MAS}} [[クアラルンプール]]、[[マレーシア]]
* {{flagicon|Lebanon}} [[バールベック]]、[[レバノン]]<ref>{{cite web |url=http://www.mehrnews.com/en/NewsDetail.aspx?NewsID=392389 |title=Isfahan, Beirut named sister cities |accessdate=2007-05-02 |authorlink= |month= |publisher=MNA |quote= }}</ref>
* {{flagicon|Lebanon}} [[バールベック]]、[[レバノン]]<ref>{{cite web |url=http://www.mehrnews.com/en/NewsDetail.aspx?NewsID=392389 |title=Isfahan, Beirut named sister cities |accessdate=2007-05-02 |authorlink= |month= |publisher=MNA |quote= }}</ref>
* {{flagicon|Spain}} [[バルセロナ]]、[[スペイン]]<ref name="Barcelona">{{cite web|url=http://w3.bcn.es/XMLServeis/XMLHomeLinkPl/0,4022,229724149_257215678_1,00.html|title=Barcelona internacional – Ciutats agermanades|publisher=2006–2009 [http://www.bcn.es/catala/copyright/welcome2.htm Ajuntament de Barcelona]|language=Catalan|accessdate=2009-07-13}}</ref>
* {{flagicon|Spain}} [[バルセロナ]]、[[スペイン]]<ref name="Barcelona">{{cite web|url=http://w3.bcn.es/XMLServeis/XMLHomeLinkPl/0,4022,229724149_257215678_1,00.html|title=Barcelona internacional – Ciutats agermanades|publisher=2006–2009 [http://www.bcn.es/catala/copyright/welcome2.htm Ajuntament de Barcelona]|language=Catalan|accessdate=2009-07-13}}</ref>
* {{flagicon|Nepal}} [[カトマンズ]]、[[ネパール]]
* {{flagicon|Nepal}} [[カトマンズ]]、[[ネパール]]
*{{Flagicon|EGY}} [[カイロ]]、[[エジプト]]
* {{Flagicon|EGY}} [[カイロ]]、[[エジプト]]
*{{Flagicon|ITA}} [[フィレンツェ]]、[[イタリア]]
* {{Flagicon|ITA}} [[フィレンツェ]]、[[イタリア]]
*{{Flagicon|GER}} [[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]、[[ドイツ]]
* {{Flagicon|GER}} [[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]、[[ドイツ]]
* {{flagicon|Cuba}} [[ハバナ]]、[[キューバ]]
* {{flagicon|Cuba}} [[ハバナ]]、[[キューバ]]
* {{flagicon|India}} [[ハイデラバード]]、 [[インド]]
* {{flagicon|India}} [[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]、 [[インド]]
*{{Flagicon|ROM}} [[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]、[[ルーマニア]]
* {{Flagicon|ROM}} [[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]]、[[ルーマニア]]
*{{Flagicon|TUR}} [[イスタンブル]]、[[トルコ]]
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* {{flagicon|Pakistan}} [[ラホール]]、[[パキスタン]]
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* {{flagicon|Italy}} [[ヴェネツィア]]、[[イタリア]]
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* {{flagicon|China}} [[西安市]]、[[中華人民共和国]]
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*{{Flagicon|ARM}} [[エレバン]]、[[アルメニア]]
* {{Flagicon|ARM}} [[エレバン]]、[[アルメニア]]
* {{flagicon|Iran}} [[ニーシャープール]], [[イラン]]
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
<references group="注"/>

=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=25em}}

== 参考文献 ==
* 板垣雄三、後藤明編『事典 イスラームの都市性』(亜紀書房, 1992年5月)
* NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』(日本放送出版協会, 2002年10月)
* 織田武雄「イスファハーン」『世界地名大事典』6巻収録(朝倉書店, 1974年)
* 上岡弘二編『イラン』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1999年9月)
* 蒲生礼一「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
* 後藤明、木村喜博、安田喜憲編『西アジア』(朝倉世界地理講座 大地と人間の物語, 朝倉書店, 2010年9月)
* 坂本勉「イスファハーン」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
* 坂本勉「市」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
* 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
* 羽田正「イスファハーン」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
* 宮田律『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』(中公新書, 中央公論新社, 2002年9月)
* 『イランを知るための65章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2004年9月)
* 『アジア・オセアニア 1』(桜井由躬雄他監修, 世界地理大百科事典, 朝倉書店, 2002年1月)
* 『ユネスコ世界遺産 3(西アジア)』(ユネスコ世界遺産センター監修, 講談社, 1998年3月)

== 読書案内 ==
* 羽田正編著『シャルダン『イスファハーン誌』研究 17世紀イスラム圏都市の肖像』(東京大学出版会, 1996年3月)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.isfahan.ir/ Isfahan Official website]
{{commonscat|Isfahan}}
* [http://www.isfahan.ir/ Isfahan Official website]
* [http://www.esfahanmetro.org/ Isfahan Metro]
* [http://www.esfahanmetro.org/ Isfahan Metro]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/55_shah/shah.htm イスファハーンの 王のモスク(イマームのモスク) (日本語)]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/53_lotfollah/lotfoll.htm イスファハーンの シャイフ・ロトフォッラー・モスク (日本語)]


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2024年9月19日 (木) 12:18時点における最新版

エスファハーン
اصفهان / Eṣfahān
イランの旗
イマーム広場の建物
イマーム広場の建物
愛称 : 世界の半分(Nesf-e Jahān)
位置
エスファハーンの位置(イラン内)
エスファハーン
エスファハーン
エスファハーン (イラン)
エスファハーンの位置(中東内)
エスファハーン
エスファハーン
エスファハーン (中東)
地図
座標 : 北緯32度39分5秒 東経51度40分45秒 / 北緯32.65139度 東経51.67917度 / 32.65139; 51.67917
行政
イランの旗 イラン
  エスファハーン州
 市 エスファハーン
市長 Morteza Saqaeian Nejad
地理
面積  
  市域 279 km2
標高 1,550 m
人口
人口 (2006年現在)
  市域 1,583,609人
その他
等時帯 IRST (UTC+3:30)
夏時間 UTC+4:30 (UTC+4:30)
公式ウェブサイト : http://www.isfahan.ir/

エスファハーンペルシア語: اصفهان‎; Eṣfahān [esfæˈhɒːn] ( 音声ファイル): Isfahan) は、イラン都市エスファハーン州州都テヘランの南約340kmに位置する[1]日本語では、慣例的にイスファハンイスファハーンとも表記される[2]

古くからの政治・文化・交通の拠点であり[3]16世紀末にサファヴィー朝首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分Esfahān nesf-e-jahān ast 、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され[4][注 1]、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり[5]、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる[6]

町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク[注 2])などがある新市街のイマーム広場(王の広場[注 2])は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。

町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある[7]。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている[8]。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる[8]

語源

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古代ペルシア語の"Aspad-hana"(アスパダナ、大軍の集結地)が、町の名前の由来である[9]。「大軍の集結地」が示す通り、町の周辺の平原は軍隊の駐屯地や捕虜の収容所として使われていた[10]。古代ペルシア語の"Asp"(馬)から派生した「馬を愛する者」「騎兵の補給基地」「厩舎」を語源とする説も存在する[11]

古代ローマプトレマイオスの『地理書』には、町はアスパダナ(Aspadana)の名前で記されている[1]サーサーン朝の末期に鋳造された貨幣には、アスパダナを意味する"ASP"の3文字が刻まれていた[10]

エスファハーンの名前は、7世紀に町を征服したアラブ人によって定着した[9]

歴史

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イスラーム以前

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エスファハーンの歴史は紀元前のアケメネス朝期に遡ることができる[3]。一説には、紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源と言われる[12][13]

サーサーン朝の時代にはエスファハーンは軍隊の駐屯地とされており、町は「軍隊」の複数形であるセパーハーン(Sepāhān)の名前で呼ばれていた[1]。サーサーン朝の王ヤズデギルド1世の治世に、ユダヤ人が町に移住させられる[8]

手工芸品の産地である町は、パルティア王国とサーサーン朝の時代に交易で発展した[10]

7世紀イスラム帝国の征服前に、すでに町の原型が形作られていた[14]ザーヤンデルード川の北を中心に町が形成され、東のジャイ、西のヤフーディーヤの2つの集落が形成された。ジャイは城壁に囲まれた軍事都市、ヤフーディーヤはユダヤ人居住区と異なる役割を有する双子都市であり、ゾロアスター教徒、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒が混住していた[15]。やがてジャイは廃れ、ヤフーディーヤが発展していく[1]

642年のニハーヴァンドの戦いの前後に町はアラブ人の支配下に入った[1]。サーサーン朝の時代に町に住んでいたゾロアスター教徒の多くはイスラームに改宗、あるいは東方に移住した[16]。しかし、イスラム教徒の支配下でも、残ったゾロアスター教徒、ユダヤ人、キリスト教徒は町の一角に居住していた[16]

第一の隆盛期

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金曜モスク

773年ごろに金曜モスク(ジャーメ・モスク)の基となった大モスクが建立され、町は大モスクとコフネ広場(旧広場)を中心に発展していく[17]

10世紀までにウマイヤ朝アッバース朝サッファール朝サーマーン朝がエスファハーンを支配した。931年ブワイフ朝の支配下に入り[3]939年にブワイフ朝の首都に定められた[16]アラーウッダウラのもとで市壁が築かれ、おおよそ市壁に沿って町が発展した[14]。貿易路の交差点に位置する立地のため、多くの街道がエスファハーンと結ばれる[18]

11世紀にエスファハーンはガズナ朝、次いでセルジューク朝に領有される[3]。セルジューク朝のスルターンマリク・シャーは、エスファハーンを国の都に定めた。金曜モスクと隣接するコフネ広場を中心として、エスファハーンは最初の隆盛期を迎える[14]

金曜モスクは修復され、南北の大ドームと、中庭に面した4つのホール(イーワーン)が増築される[19]。また、モスクの近くにニザーミーヤ学院が建設された。セルジューク朝支配下のエスファハーンでは200人の両替商が営業を行い、50のキャラバンサライ(隊商宿)が建っていた[16]

セルジューク朝が分裂した後のエスファハーンは首都としての機能を失うが、地方の中心都市としての地位を保っていた[14]。多くの国がエスファハーンの領有を巡って争ったためにたびたび破壊に晒されたが、交通、商業、文化、農業の一拠点としての重要性は維持していた[12]

停滞期

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11世紀末から12世紀初頭にかけての間、イスマーイール派がエスファハーンを占領した[10]1165年、エスファハーンでハナフィー学派シャーフィイー学派による8日間に及ぶ武力衝突が起こり、家屋や商店は破壊され、多くの死者を出した[20]

1194年イラク・セルジューク朝最後の君主トゥグリル3世ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・テキシュに敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。モンゴル帝国軍に敗れてインドへ逃亡したジャラールッディーン・メングベルディーがイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している[21]

1240年にイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に征服され[22]イルハン朝の支配下に入った。14世紀に、エスファハーンは学術と商業の拠点として復興する[19]。14世紀に旅行家イブン・バットゥータがエスファハーンを訪れたとき、町ではスンナ派シーア派の争いが起きていた[23]

14世紀半ばのイルハン朝崩壊後の混乱時代に、ヤズドを根拠地とする地方政権ムザッファル朝の傘下に入る[22][24]1387年にはティムールの、1414年にはシャー・ルフによって2度のティムール朝軍の破壊を受けている。1387年にエスファハーンの住民が町を占領したティムール軍に反抗したため、70,000人に達する市民が虐殺されたen:Siege of Isfahan (1387)という[25]

第二の隆盛期

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サファヴィー朝の王アッバース1世
19世紀にPascal Costeによって描かれた王の広場
エスファハーンのバーザール

16世紀初頭に建国されたサファヴィー朝の創始者イスマーイール1世は、コフネ広場の南にハール・ネヴェラーヤトと呼ばれるスーフィーの聖者の霊廟と アリー・モスクを建立した。16世紀を通して王朝が派遣した地方官や土着の有力者によって、多くの建設事業が行われた[12]1597年アッバース1世によって、サファヴィー朝の首都がガズヴィーンからエスファハーンへ遷都された[26]

アッバース1世は町の南西の馬場と青空市に使われる広場を新市街の中心地に選定し、王の広場(後世のイマーム広場)を建設した[27]。王宮地域の西側には、ザーヤンデルードの南岸と北岸を結ぶチャハール・バーグ大通り[注 3]が建造され、通りの始点と終点、側面に庭園が造られた[28]

王の広場やチャハール・バーグ大通りを中心とする計画都市としての大規模な市街改造が進められる[29]。王の広場の一角に建立されたシャイフ・ルトゥフッラー・モスク英語版、王のモスク(イマーム・モスク)、アリ・カプ宮殿などの施設が、新市街に建設された。17世紀のはじめに西方の世界で飲まれていたコーヒーがイランに伝播すると、建設中の王の広場にコーヒーハウスが建設された[30]

王の広場は外国の使節との謁見、閲兵、青空市、公開処刑など多種のイベントが行われる場所であり[31]、使節との謁見やノウルーズ(新年祭)の時にはポロや花火も催された[16]。広場はレスリング、古式体操の競技場としても使用された。さらに、イベントの観客を目当てにする大道芸人や娼婦の客引きが広場に集まった[31]

新市街と旧市街はバーザール(商業地区)で結ばれ、都市の商業が活発化する[31]。夏の酷暑と風雨を防ぐため[32]、バーザールにはドーム状のアーケードが設置された。バーザールの道沿いに建てられていたキャラバンサライでは、小売りの商人が卸売りから品物を仕入れていた[33]

旧市街にはバーザールで働く商人や職人の多くが居住し、コフネ広場と周辺には商店が軒を連ねていた[34]。また、コフネ広場の周辺には、コクナールという一種の麻薬を売る店や、少年の男娼や娼婦をあてがう置屋が並ぶ界隈が存在していた[35]

1604年[22]アッバース1世によって当時国際交易で活躍していたアルメニア人がエスファハーン郊外に移住させられ、1654年[22]に彼らは町の南西のジョルファー(Julfā)と呼ばれる地区に居住した[36]。「ジョルファー」の語源はアゼルバイジャンアラス河畔にある町の名前であり[36]、絹交易で利益を得ていた[37]。オスマン帝国の食糧補給の妨害のため、ジョルファーの収益がオスマン帝国の手に渡ることを阻止するため、アッバース1世はアルメニアの住民をイランに強制的に移住させたと考えられている[37]。アルメニア人には数々の特権が付与され、王室が独占する絹交易に従事することを許された[36][38]。ジョルファーには、アルメニア人の寄付によって建立されたヴァーンク教会などの、いくつかのキリスト教徒の教会が存在する。また、ジョルファーの西のゲブラーバードには、ゾロアスター教徒の居住区が形成されていた[39]

17世紀には、スーフィズム(神秘主義)の影響を強く受けた思想家がエスファハーン学派を形成し、哲学論を巡らせていた[40]

17世紀末にはエスファハーンの人口は500,000人を超え[31][41]、トルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒が混在する他文化都市となっていた[36]。そして町には1802のキャラバンサライ、162のモスク、48のマドラサ(学校)、273のギャルマーベ(公衆浴場)が建ち並んでいた[36]。町の繁栄の様子は17世紀末のエスファハーンを訪れたフランスの商人ジャン・シャルダンによって記録され、1711年にヨーロッパで出版された[42]

18世紀に入るとサファヴィー朝は衰退し、1722年アフガン人によってエスファハーンは破壊される[13]。サファヴィー朝が滅亡して新市街から宮廷が消えると新市街は急速に衰退し[31]、荒廃した新市街の大部分は耕作地にされた[14][43]

1756年から1757年にかけて町を襲った飢饉によって約40,000人の市民が餓死、1759年より知事のムハンマド・リナーニーのもとで復興事業が始められる[22]

近代以降

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1942年に作成されたエスファハーンの地図。

19世紀に入って、エスファハーンの復興が始まる[13]ガージャール朝が建国された後、遊牧民族のバフティヤーリー族Bakhtiari people)がエスファハーンの支配権を握った[44]。しかし、首都機能はテヘラン、商業機能はタブリーズに移り、町は一地方都市に転落した[31]

20世紀パフラヴィー朝レザー・シャーによって都市の近代化が進められ、町は近代産業と観光産業によって復興する[31]第二次世界大戦後、エスファハーンで実施された自動車交通計画によって市街地に自動車道が敷かれたことが、町の転換点となる[45]。電気や水道などのインフラストラクチャーが整備され、伝統的な都市に国際的な価値観が持ち込まれた[46]。減少した人口は、20世紀後半から急速に増加した[7]

1977年4月6日、エスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[47]

1979年に新市街の王のモスクと王の広場の周辺が世界遺産に登録され、イラン革命を経た後も観光都市として発展を続ける[46]

地理

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ハージュ橋とザーヤンデルード

エスファハーンは海抜1,500m超の高地に存在する[48][49]。イランの都市の中では、標準的な高度に位置する[8]

ザーヤンデルード川の北に位置し、対岸にはアルメニア人の集落が存在する。町は周辺を荒野に囲まれているが、ザーヤンデルードの沿岸部は灌漑によって開拓されている[49]。ザーヤンデルードの豊富な水量に支えられた周辺地域の農業生産力と、イラン高原北部とイラクペルシア湾岸の港湾都市地域を結ぶ交通の要衝として古代から発展した[1][14]。これらの人工水路網はMadiフランス語版と呼ばれる。

サーサーン朝の時代に、ザーヤンデルードにシャハレスターン橋英語版が架けられる。17世紀のサファヴィー朝では、アッバース1世からアッバース2世の治世にかけて大規模なザーヤンデルードの治水工事が行われたが、アッバース2世の死後に工事は中止された[50]。20世紀以降は地球温暖化と用水の利用過多によりザーヤンデルードが干上がることがあり、町は水不足に悩まされている[7]

周囲には沃野が広がり、穀物類、ケシメロンなどが栽培されている[3]。旅行家イブン・バットゥータは『大旅行記』で、エスファハーンで獲れたアンズスイカの甘味を称賛した[23]。エスファハーンにはハトのフンを肥料に使う伝統的な農法があり、郊外には「ハトの塔」という名前の施設が建つ[7]。「ハトの塔」はハトの住処として造られ、塔に溜まったフンが肥料に利用されていたが、20世紀後半以降は使用されていない[8]

気候

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穏やかな気候で四季の区別があり[1]砂漠気候に分類される。

町は高地にあるにもかかわらず、夏場は酷暑に襲われ、最高気温は36度前後に達する。しかし、夜間には気温は下がり、快適に過ごすことができる。冬季の場合、昼間は温暖だが、夜間になると気温は急激に下がる。

エスファハーンの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 20
(68)
23
(73)
27
(81)
32
(90)
37.6
(99.7)
41
(106)
43
(109)
42
(108)
39
(102)
33.2
(91.8)
25.5
(77.9)
21.2
(70.2)
43
(109)
平均最高気温 °C°F 9.2
(48.6)
12.5
(54.5)
17.0
(62.6)
22.7
(72.9)
28.2
(82.8)
34.3
(93.7)
36.7
(98.1)
35.6
(96.1)
31.8
(89.2)
25
(77)
17
(63)
11
(52)
23.42
(74.16)
平均最低気温 °C°F −2.5
(27.5)
−0.4
(31.3)
4.1
(39.4)
9.3
(48.7)
13.7
(56.7)
18.5
(65.3)
21.0
(69.8)
19.1
(66.4)
14.7
(58.5)
8.9
(48)
3.2
(37.8)
−1
(30)
9.05
(48.29)
最低気温記録 °C°F −19.4
(−2.9)
−12.2
(10)
−6.2
(20.8)
−4
(25)
4.5
(40.1)
10
(50)
13
(55)
11
(52)
5
(41)
0
(32)
−8
(18)
−13
(9)
−19.4
(−2.9)
降水量 mm (inch) 19.9
(0.783)
14.2
(0.559)
21.7
(0.854)
18.9
(0.744)
8.7
(0.343)
1.2
(0.047)
1.7
(0.067)
0.3
(0.012)
0.1
(0.004)
3.9
(0.154)
12.5
(0.492)
19.7
(0.776)
122.8
(4.835)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 4.0 2.9 4.1 3.4 2.0 0.3 0.3 0.1 0.0 0.8 2.2 3.8 23.9
湿度 60 50 43 40 34 25 25 26 28 38 50 60 39.9
平均月間日照時間 203.6 216.8 243.7 250.0 308.7 348.3 349.4 339.7 311.3 281.5 224.2 197.0 3,274.2
出典:Synoptic Stations Statistics

人口

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サファヴィー朝の首都に定められていた時代のエスファハーンの人口は、500,000人に達していたとされる[41]。同時期の世界の都市のうち、500,000人以上の人口を有するものはロンドンパリ江戸北京イスタンブールとごく小数に限られていた[41]。サファヴィー朝の滅亡後、住民はイラクやインドに移住し、またイランの政治的混乱と支配者が課した重税によって人口は最盛期の10分の1にまで減少する[51]

20世紀後半より工業と観光産業が集中的に振興されたため、人口が増加した[48]。しかし、交通渋滞、貧困と失業、住宅の不足と老朽化といった問題も起きている[48]

1956年 1966年 1976年 1986年 1991年 1996年 2006年
人口 254,708[52] 424,045[52] 661,510[52] 986,753[53] 1,127,030[52] 1,266,072[53] 1,583,609[52]

経済

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エスファハーン産の焼き物

エスファハーンは、古くから工業都市としても有名である[7]

アッバース1世は絹織物、貴金属細工、書道ミニアチュールなどの手工業を奨励し、サファヴィー朝時代の技術の面影は後世に残った[54]。銀器、ガラムカーリー(木型を使って着色した木綿)、ハータムサーズィー(寄木細工の一種)、七宝、タイルなどの手工芸品が特産品として知られている[7]。17世紀に町を訪れた商人ジャン・シャルダンは、バーザールと王の広場の露店を詳細に記録し、広場の露店を「自分が知る限り最も多くの酒類の品物が売られている、市場の中の市場」と評した[30]

エスファハーン郊外のナスラーバードには家内工業の形態をとる絨毯工房が多く集まり、女性たちによって絨毯が織られている[55]。エスファハーンで織られた絨毯の多くは町の大バーザールに出荷され、テヘラン・イラン国外の商人や観光客に購入される[56]。エスファハーン産の絨毯やミニアチュールには、町のシンボルであるイマーム広場がデザインされることが多い[7]

20世紀後半に町の周辺に工業地帯が建設されると経済構造が変化し、都市の人口の増加も起きた[14]ソビエト連邦の援助によって製鉄所が建設され[49]、1972年に国営の製鉄所が操業を開始した[57]。エスファハーンの製鉄所の操業は、イランの重金属工業の始まりとされている[57]。また、製鉄所の他に石油精製所が置かれている。

観光

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イマーム・モスクの内部
キャラバンサライを改装したアッバーシー・ホテル

町に点在するサファヴィー朝の建設物には、装飾用のタイルが多く使用されている点に特徴がある[3]

紀元前のアケメネス朝の時代には、すでに釉薬をかけて焼いた煉瓦が色つきのタイルとして建築物に使われていた[58]。建築物を色鮮やかなタイルで装飾する技法は、15世紀のティムール朝の時代に始まる[59]

16世紀末のサファヴィー朝のアッバース1世の時代、エスファハーンに青色のタイルで装飾された建物が多く完成する。これらの建物の外面は青や黄色の装飾タイルのかけらで飾られ、タイルのかけらが組み合わされてモザイク状の模様を形成している[60]。装飾に多く使われる青色のタイルは、コバルトから出る濃紺のタイルとトルコ石を顔料として着色した薄い青のタイルの2種類が存在し、トルコ石で着色されたタイルの方が多く使われている[61]

アッバース1世の時代以降の建造物には、装飾タイルのほかに描画が施されたストゥッコ(漆喰の絵描きタイル)が装飾に使われている[62]。イマーム広場の西側に建てられた宮殿や劇場は、ストゥッコ壁画によって装飾された[63]。エスファハーンの建築物には、これらのモザイクを形成する装飾タイルと絵描きタイルがデザインや建設の工程によって使い分けられている[64]。ガージャール朝期の建設物には、ピンクや明るい黄色の派手なタイルが使われるようになる[65]

装飾タイルはもっぱら宗教施設か公共施設に使われ、一般の家屋に使われることはほとんどなかった[66]。バーザールにあるいくつかの工房では伝統的な手法で装飾タイルが作られており、技術とともに徒弟制度も継承されている[67]

モスクの他に、町の各所にイマームザーデというスーフィズムの聖者(スーフィー)を祀った霊廟が建てられている[68]

過去の王朝が建てたキャラバンサライの中には、ホテルに改装されて宿泊が可能になっているものも存在する[8][69]

主な観光地

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交通

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エスファハーンテヘランシーラーズヤズド行きの列車の始発地点となっている。また、2路線・総延長43kmのイスファハーン地下鉄の一部分が完成した。地下鉄が全線開通するまでの間は、バスが市内の公共交通網を支える。

歴史的建造物保護のため、市内の高速道路網の整備には長い時間を要した。テヘランとシーラーズを結ぶ自動車道が通過しており、エスファハーンと市周辺の衛星都市も高速道路によって繋がっている[73]

郊外のシャヒード・ベヘシュティー空港は国内線と国際線の両方が運航されている。国際線は主にドバイダマスカスなどの中東の都市と中央アジアの都市行きの便が就航している。

教育

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エスファハーン工科大学のキャンパス

エスファハーンには複数の大学、神学校が存在する。また、州の各地で非公式の訓練プログラムを実施するエスファハーンTVTOが運営する、50超の技術・職業訓練校が置かれている [74]

2007年には国際物理オリンピックの開催地となった。

エスファハーンの大学には、以下の学校がある。

スポーツ

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エスファハーンは、大規模なスポーツイベントの開催地に選ばれている。

50,000人の収容人数を誇るナクシェ・ジャハーン・スタジアムは、収容人数を75,000人に増やすために改築が行われている。イランサッカーリーグに属するサッカークラブのフーラッド・モバラケ・セパハンFCゾブ・アハン・エスファハーンFCは、エスファハーンを本拠地としている。ナクシェ・ジャハーン・ダービーというエスファハーンを本拠地とする両チームのダービーマッチは、イランのサッカーで最も有名なイベントの一つである。

姉妹都市

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脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)
  2. ^ a b 1979年のイラン革命パフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁)
  3. ^ 「チャハール・バーグ」とは「4分割された庭園」の意であり、4本の水路と4つの区画に由来する。(NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、178-179頁)

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 『西アジア』、108頁
  2. ^ 『イランを知るための65章』、6頁
  3. ^ a b c d e f 蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁
  4. ^ 『イランを知るための65章』、206頁
  5. ^ 宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、84頁
  6. ^ NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、18頁
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参考文献

[編集]
  • 板垣雄三、後藤明編『事典 イスラームの都市性』(亜紀書房, 1992年5月)
  • NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』(日本放送出版協会, 2002年10月)
  • 織田武雄「イスファハーン」『世界地名大事典』6巻収録(朝倉書店, 1974年)
  • 上岡弘二編『イラン』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1999年9月)
  • 蒲生礼一「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
  • 後藤明、木村喜博、安田喜憲編『西アジア』(朝倉世界地理講座 大地と人間の物語, 朝倉書店, 2010年9月)
  • 坂本勉「イスファハーン」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 坂本勉「市」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
  • 羽田正「イスファハーン」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 宮田律『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』(中公新書, 中央公論新社, 2002年9月)
  • 『イランを知るための65章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2004年9月)
  • 『アジア・オセアニア 1』(桜井由躬雄他監修, 世界地理大百科事典, 朝倉書店, 2002年1月)
  • 『ユネスコ世界遺産 3(西アジア)』(ユネスコ世界遺産センター監修, 講談社, 1998年3月)

読書案内

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  • 羽田正編著『シャルダン『イスファハーン誌』研究 17世紀イスラム圏都市の肖像』(東京大学出版会, 1996年3月)

外部リンク

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