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{{Otheruses|サッカー選手|俳優|福田健二 (俳優)|福岡県を拠点に活躍するローカルタレントの福田健'''次'''|福田健次}}
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{{サッカー選手
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| 名前 =福田 健二
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| 利き足 = 左足{{R|san2007|hoc2007}}
|代表ゴール数=
| ユースクラブ1 = {{Flagicon|JPN}} 蔵波FC | ユース年1 = 1984-1989
| ユースクラブ2 = {{Flagicon|JPN}} 市川カネヅカSC | ユース年2 = 1990-1992
| ユースクラブ3 = {{Flagicon|JPN}} [[習志野市立習志野高等学校|習志野高校]] | ユース年3 = 1993-1995
| クラブ1 = {{flagicon|JPN}} [[名古屋グランパスエイト]] | 年1 = 1996-2001 | 出場1 = 114 | 得点1 = 37
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| クラブ5 = →{{flagicon|MEX}} [[CFパチューカ|パチューカ]] (loan) | 年5 = 2005 | 出場5 = 21 | 得点5 = 12
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| クラブ12 = {{flagicon|HKG}} [[夢想駿其足球會|夢想駿其]]{{R|yfc-name|group=注}} | 年12 = 2013-2016| 出場12 = 58 | 得点12 = 30
|通算出場=450|通算得点=134
| クラブ成績更新日 =2016年5月7日
| 代表1 = {{Fbu|20|JPN|name=日本 U-19/20}}
| 代表年1 = 1996-1997 | 代表出場1 = 4 | 代表得点1 = 1
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| 代表年2 = 1998-1999 | 代表出場2 = | 代表得点2 =
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[[File:Kenji Fukuda.JPG|thumb|福田 健二]]
'''福田 健二'''(ふくだ けんじ、[[1977年]][[10月21日]] - )は、[[愛媛県]][[新居浜市]]出身の[[サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。[[香港ファーストディビジョンリーグ]]の[[横浜FC香港]]所属。元サッカー選手の[[廣山望]]とは、小学生時代からの幼馴染である。
'''福田 健二'''(ふくだ けんじ、[[1977年]][[10月21日]] - )は、[[愛媛県]][[新居浜市]]出身の元[[サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード(FW)]]。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== プロ入り以前 ===
両親の離婚により母子家庭に育ち、小学生時代に母親が生活苦から自殺する、という過酷な少年時代を過ごす<ref>「福田健二 遺書」『[[Sports Graphic Number]]』2005年9月22日号</ref>。父に引き取られて千葉へ転居した後も、金銭的な問題からサッカーを諦めかけたが、[[廣山望]]ら友人たちの助けもあって中学でもサッカーを続け、ユース年代で頭角を現す。中学卒業時にはサッカーのためにブラジルへの移住を考えるなど、当時から海外志向は強かった。
小学2年生の時に兄の影響でサッカーを始めた<ref name="orange">[http://www.ehimefc.com/special/orangelife09_02.html スペシャルインタビュー OrangeLife VOL.9] 愛媛FC</ref><ref name="dream">[http://www.idream-jp.com/yume/001.php 福田健二 I DREAM] スルガ銀行</ref>{{R|fb2002}}。両親の離婚により[[一人親家庭|母子家庭]]に育ち、5年生の時に母が生活苦から自殺するという少年時代を過ごした<ref>{{Cite book|和書|title=[[Sports Graphic Number]]「福田健二 遺書」|volume=No.636 (2005年9月22日号)|year=2005}}</ref>。


父に引き取られて[[千葉県]][[袖ケ浦市]]へ転居した後も金銭的な問題からサッカーを諦めかけたが、同級生で同じサッカークラブに所属していた[[廣山望]]{{R|san2007}}ら友人たちの助けもあって<ref name="ko0712">[[#Ko2007|小宮,2007年,12頁]]</ref> 中学でもサッカーを続け、1992年の[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|U-15クラブ選手権]]で全国3位の成績を残した<ref>[http://www.jcy.jp/?page_id=584 過去の大会結果] 日本クラブユースサッカー連盟</ref>。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕前だったこともあり{{R|orange}}、中学卒業時にはサッカーのためにブラジルへの移住を考えるなど{{R|ko0712|nino01}}当時から海外志向を持っていた。
[[習志野市立習志野高等学校|習志野高校]]を経て、1996年に[[名古屋グランパスエイト]]に加入。3年目の1998年には16得点を挙げて名古屋のエースとして活躍し、[[フィリップ・トルシエ]]によって五輪代表候補にも選ばれるなど、将来が嘱望された。しかし2000年頃から、負傷に加え、主力選手が次々に退団するなどのチームの内紛も重なり、徐々に結果が残せなくなる。同年途中に移籍した[[FC東京]]、更に2003年途中に移籍した[[ベガルタ仙台]]でも目立った活躍は出来なかった。


[[1993年]]に[[習志野市立習志野高等学校|習志野高校]]に進学。[[本田裕一郎]]監督からゴールへの執念を買われて、1年時から1軍入りし<ref name="ko0785">[[#Ko2007|小宮,2007年,85-86頁]]</ref>、[[1994年]]の[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯]]で3位、[[1995年]]の[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]]で優勝{{R|nino01}}。同期には廣山を始め、[[小田島隆幸]]、[[西脇徹也]]{{Enlink|Tetsuya Nishiwaki|a=on}}、[[御厨景]]、[[桜井啓]]らがいた。
2004年、[[リーガ・パラグアージャ]]([[パラグアイ]]1部リーグ)の[[クラブ・グアラニー]]へと移籍。ここでレギュラーを掴んでリーグ10得点を挙げ、[[コパ・リベルタドーレス]]にも出場した。2005年には[[プリメーラ・ディビシオン (メキシコ)|プリメーラ・ディビシオン]]([[メキシコ]]1部リーグ)の[[CFパチューカ]]へ移籍。シーズン途中にはメキシコ2部の[[イラプアトFC]]に引き抜かれ、両クラブで2桁得点を挙げる活躍を見せた。この頃に、前述の幼少期の来歴がスポーツ誌で紹介されたこともあり、「Jリーグでも欧州の有名リーグでもない、独自の道で活躍する選手」として、再び注目を受けるようになる。


=== 名古屋 / 東京 / 仙台 ===
メキシコでの活躍が認められ、2006年1月、[[セグンダ・ディビシオン]]([[スペイン]]2部リーグ)の[[CDカステリョン]]への移籍を果たす。カステリョンではシーズン途中加入ということもあり2得点に終わったが、同じくスペイン2部の[[CDヌマンシア]]に移籍した2006-07シーズンは、エースストライカーとして君臨し10得点を記録。チーム得点王となり、地元メディアが選ぶ年間最優秀選手となった<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20070618-00000025-spnavi-socc.html 福田がチーム得点王 地元メディアが選ぶ年間最優秀選手に]スポーツナビ、2007年6月18日</ref>。2007-08シーズンもヌマンシア残留が望まれたが、資金の問題により福田を手放さざるを得なくなり、スペイン2部の[[UDラス・パルマス]]へ移籍。ここでは負傷もあって15試合出場3得点と結果を残せず、足掛け3シーズン在籍したスペインを離れることになった。
[[1996年]]に高校を卒業し、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[名古屋グランパスエイト]]に加入。「日本人ストライカーを育てたい」と語る[[アーセン・ベンゲル]]監督の下<ref name="nik1996">[https://www.nikkansports.com/ns/special/xerox-cup/1996result.html 名古屋V 福田初出場で初ゴール / 1996年] [[日刊スポーツ]]</ref>、同年3月の[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]で先発出場し、デビュー戦で1得点1アシストを記録した<ref>[http://www.asahi.com/sports/2005supercup/96.html ルーキー福田が活躍、名古屋快勝] [[朝日新聞デジタル]]</ref>{{R|nik1996}}。[[1997年]]、[[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]]として[[1997 FIFAワールドユース選手権|ワールドユース]]出場。名古屋では[[#DSto|ストイコビッチと好連携を築き]]、[[1998年]]には公式戦18得点(リーグ戦ではチーム得点王となる16得点<ref>[http://www.j-league.or.jp/club/nagoya/leaguedate.html リーグ戦DATA] Jリーグ</ref>)を記録。Jリーグで結果を残したことで海外移籍につながると考えていたが、移籍金や契約期間の関係で{{R|dream|nino01}}不調に終わり、翌[[1999年]]のシーズン終了後の移籍も叶わなかった{{R|nino01}}。[[フィリップ・トルシエ]]監督率いる[[U-23サッカー日本代表|シドニーオリンピックを目指す日本代表]]に招集され、アジア予選では平瀬とともにレギュラー格として出場を続けていたが{{R|navi2003}}、平瀬が得点を量産するのに対しなかなか得点ができず、スランプだった柳沢が復調してきた事や、ひとつ下のワールドユース組のエース高原がFW争いに加わり、出番が減っていった。トルシエからは「クラブでレギュラーを取らなければ代表でも呼べない」と発破をかけられるが、[[呂比須ワグナー]]や[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]とのレギュラー争いに勝てずベンチ要員となると、シドニー五輪本大会のメンバーから外れた。


名古屋でも、恵まれたJリーグの環境に居心地の悪さを感じる中で{{R|ko0789}}<ref>[https://gendai.media/articles/-/40 「流浪のストライカーの勲章」元日本代表・福田健二 (1/2)] 現代ビジネス (2010年1月1日)</ref> 徐々に結果を残せなくなり{{R|dream}}、呂比須とウェズレイがレギュラーに定着したことで{{R|navi2003}}十数分間出場してヘディングで競り合うだけ<ref name="hone2001">[http://www.pia.co.jp/hot_sports/hone/1016.html 21世紀の骨のあるヤツ 第93回] (2001年10月16日)</ref> という状況になり、[[2001年]]、[[#DSto|ストイコビッチの現役引退と同じタイミング]]で{{R|ko0789}}退団した。
2008-09シーズンは、[[フットボールリーグ (ギリシャ)|ベータ・エスニキ]]([[ギリシャ]]2部リーグ)の[[イオニコスFC]]へ移籍。開幕からの6試合で3得点を挙げ、怪我で3ヶ月の欠場がありながらも24試合出場9得点と上々の成績を挙げたが、クラブの給与未払いにより<ref>http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=100828</ref>1年限りで契約を解除した<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/090911/scb0909111939002-n1.html ギリシャ2部イオニコスが福田と契約解除へ]サンスポ、2009年9月11日</ref>。


この際、ベルギー・[[REムスクロン]]からオファーを受けていたが、代理人からの説得を受けて<ref name="ko0705">[[#Ko2007|小宮,2007年,5頁]]</ref> 2001年8月、[[FC東京]]へ完全移籍<ref>{{Wayback|date=20011027101458|url=http://www.nagoya-grampus-eight.co.jp/news/2001/aug/news8_27.html|title=“福田健二選手”FC 東京へ移籍のお知らせ}} 名古屋グランパスエイト (2001年8月27日)</ref><ref>{{Wayback|date=20040307164953|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/00709|title=福田健二選手 加入のお知らせ}} FC東京 (2001年8月26日)</ref>。しかし東京では、[[サッカーのフォーメーション#ワントップ|1トップ]]に[[ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ|アマラオ]]が入る布陣が採用されていた<ref group="注">2001年序盤に組まれた呂比須・アマラオの[[サッカーのフォーメーション#ツートップ|2トップ]]が機能せず、2トップを解消したことでチームは調子を取り戻していた。</ref> ため{{R|navi2003|br1404}}、福田は[[ミッドフィールダー|左サイドハーフ(SH)]]という不慣れなポジション<ref name="fb2002">{{Cite book|和書|title=FC東京ファンブック2002|page=24|year=2002|publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref> に配された{{R|navi2003|hone2001}}。同年9月、トルシエ率いる[[サッカー日本代表|A代表]]候補に選出<ref>{{Wayback|date=20020826160220|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/00740|title=佐藤由紀彦選手、福田健二選手が日本代表候補に選出される!}} FC東京 (2001年9月19日)</ref>。[[2002年]]は監督交代の影響もあって先発から外れていたが、練習に打ち込む真摯な姿勢は若手選手から慕われ<ref>[[#Ko2007|小宮,2007年,100頁]]</ref>{{R|fct2003}}、[[#Fct2002|同年J1・2nd第14節浦和戦のVゴール]]など印象に残るプレーでサポーターから愛された{{R|fct2003|ko07106}}。同年12月、チームが[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]を控える中、ムスクロンへ短期留学<ref name="fct2002">{{Wayback|date=20040311071853|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/01254|title=福田健二選手 ベルギー短期留学のお知らせ}} FC東京 (2002年12月5日)</ref>。翌[[2003年]]より東京に復帰したが、チーム事情よりも自身の希望を優先したために{{R|ko0705}}ポジション争いの序列からさらに後退してしまった{{R|navi2003}}。
イオニコスとの契約を解除した後、[[UAEリーグ|UAE1部]]の[[アル・アインFC]]と[[リーグ・アン|フランス1部]]の[[USブローニュ]]にテスト生として練習に参加したものの契約に至らず無所属となっていたが、2009年10月28日に故郷・愛媛県のクラブチームである[[愛媛FC]]と契約。実に6年ぶりの日本復帰となった。なお、2009年シーズン途中からの契約ではあるが、Jリーグの選手登録期限を過ぎていたため、試合に出場するのは2010年シーズン以降となった。


同年8月、負傷した[[マルコス・パウロ・ソウザ・リベイロ|マルコス]]に代わる攻撃の核を求めていた<ref name="navi2003">[http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/column/200309/0902goto_01.html 再び頂点を目指して - 福田健二] スポーツナビ:[[後藤勝 (ライター)|後藤勝]] (2003年9月2日)</ref>[[ベガルタ仙台]]から熱烈なオファーを受け<ref name="fct2003">{{Wayback|date=20040111160458|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/01583|title=福田健二選手 ベガルタ仙台へ完全移籍決定のお知らせ}} FC東京 (2003年8月13日)</ref>、仙台へ完全移籍<ref>{{Wayback|date=20030815013219|url=http://www.vegalta.co.jp/letters/2003/08/13.html|title=福田健二 選手 ベガルタ仙台完全移籍決定のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2003年8月13日)</ref>。しかし先発出場の機会は少なく、同年チームはJ2に降格した。
2010年は開幕戦からの出場を期待されていたが、前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否していたため、開幕戦を欠場<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=100828 福田健二選手の登録について]愛媛FC公式サイト、2010年3月5日</ref>。3月12日に[[国際サッカー連盟|FIFA]]が福田の暫定登録を認めたため、第2節以降に出場可能となった<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=100839 福田健二選手の選手登録について]愛媛FC公式サイト、2010年3月12日</ref>。


===パラグアイ / メキシコ===<!-- 南米・ヨーロッパで節を区切りました -->
2013年1月、[[香港ファーストディビジョンリーグ]]の[[横浜FC香港]]へ完全移籍<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=102070 福田 健二 選手 横浜FC香港に移籍のお知らせ]愛媛FC公式サイト、2013年1月23日</ref>。
2003年夏、海外リーグで経験を積んでいた旧友の廣山から代理人を紹介され<ref name="nino01">[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=2180 FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第1回] SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月6日)</ref>{{R|dream}}、[[2004年]]より仙台から[[リーガ・パラグアージャ]]([[パラグアイ]]1部リーグ)の[[クラブ・グアラニー]]へ半年間の[[期限付き移籍]]<ref>{{Wayback|date=20040208162100|url=http://www.vegalta.co.jp/letters/2004/01/30.html|title=福田 健二 選手 パラグアイ・グアラニへ期限付き移籍決定}} ベガルタ仙台 (2004年1月30日)</ref>。リーグ第2節の[[ソル・デ・アメリカ]]{{Enlink|Club Sol de América|a=on}}戦で高い打点のヘディングから移籍後初ゴールを記録した<ref name="go191">{{Cite book|和書|title=トーキョーワッショイ!|author=後藤勝|authorlink=後藤勝 (ライター)|pages=191-192|publisher=[[双葉社]]}}</ref>。外国籍選手として結果を求められることによってプレーの迷いが消え{{R|asahi2008}}、激しいボティコンタクトを厭わず{{R|go191}}、パラグアイ人選手に比べると優れたスピードも活きて{{R|go191}}得点を量産。[[コパ・リベルタドーレス]]でも活躍し、契約延長を勝ち取った{{R|go191}}<ref>{{Wayback|date=20040828101643|url=http://www.vegalta.co.jp/letters/2004/08/27.html|title=福田 健二 選手 パラグアイ・グアラニへ期限付き移籍延長のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2004年8月27日)</ref>。この時のチームメートである[[アウレリアーノ・トーレス]]とは互いに成長を誓い合い、後にスペインでの対戦を果たしている<ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/w_cup/10w_cup/article/2010/06/29/0003143385.shtml パラグアイは「ずるい・激しい・強い」] [[デイリースポーツ]] (2010年6月29日)</ref><ref>{{Wayback|date=20100701074457|url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2010062890103301.html|title=「組織力 日本に勝機」福田選手、パラグアイの仲間誇り}} [[中日スポーツ]] (2010年6月28日)</ref>。[[セロ・ポルテーニョ]]の[[ヘラルド・マルティーノ]]監督からの移籍オファー<ref>{{Wayback|date=20101209210458|url=http://blogola.jp/?p=3948|title=パラグアイとの対決に気持ちは複雑の福田選手}} blogola (2010年6月28日)</ref> を固辞した際には、グアラニーサポーターから「お前を愛している」と横断幕を掲げられた<ref name="br1404">{{Cite book|和書|title=[[F.C.TOKYO MAGAZINE BR TOKYO]] 2014年4月号|pages=52-56|year=2014|publisher=[[ユーメイド]]}}</ref>。

[[2005年]]、[[プリメーラ・ディビシオン (メキシコ)|プリメーラ・ディビシオン]]([[メキシコ]]1部リーグ){{Refnest|group="注"|福田曰く、南米の選手にとってメキシコは憧れの国で<ref name="nino02">[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=2188 FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第2回] SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月13日)</ref>、同国でのプレーは一つのステータス{{R|ko0713}}。}}の[[CFパチューカ]]へ期限付き移籍<ref>{{Wayback|date=20041223224948|url=http://www.vegalta.co.jp/letters/2004/12/23.html|title=福田健二選手 メキシコ・パチューカへ期限付き移籍}} ベガルタ仙台 (2004年12月23日)</ref>。当初はリザーブチーム([[リーガ・デ・アセンソ|2部リーグ]])の[[:en:Pachuca Juniors|パチューカ・ジュニアーズ]]に登録されたが<ref name="ko0713">[[#Ko2007|小宮,2007年,13-14頁]]</ref><ref name="san2007">[http://www.sanspo.com/soccer/japanese/fukuda/profile.html プロフィール] ([https://megalodon.jp/2013-0406-0255-17/www.sanspo.com/soccer/japanese/fukuda/profile.html cache]) [[サンケイスポーツ]]</ref>、標高2400mの高地にも順応し<ref name="nino03">[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=2200 FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第3回] SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月20日)</ref>{{R|gendai02|br1404}}、出だしから好調なプレーで<ref>{{Wayback|date=20050117015439|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20050114-00000024-spnavi-spo.html|title=福田、公式戦で1得点1アシスト=メキシコL}} スポーツナビ (2005年1月14日)</ref><ref>{{Wayback|date=20050130011547|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20050128-00000029-spnavi-spo.html|title=福田、2ゴールで会場沸かせる=メキシコL}} スポーツナビ (2005年1月28日)</ref> クラブからの信頼を得ると<ref name="nino03" />、コパ・リベルタドーレスではトップチームに入り[[ハレド・ボルヘッティ]]を押しのけて出場した{{R|ko0713|br1404}}。

シーズン途中にはメキシコ2部の[[イラプアトFC]]に引き抜かれ{{R|ko0713}}<ref>{{Wayback|date=20060117145650|url=http://www.vegalta.co.jp/news/2005/08/03.php|title=福田健二選手 メキシコ・イラプアトへ期限付き移籍のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2005年8月3日)</ref>、同クラブでも二桁得点を記録。この頃、[[#プロ入り以前|前述の幼少期の来歴]]がスポーツ誌で紹介されたこともあり、日本での注目が俄かに高まった。

=== スペイン / ギリシャ ===<!-- 南米・ヨーロッパで節を区切りました -->
[[2006年]]1月、[[セグンダ・ディビシオン]]([[スペイン]]2部リーグ)の[[CDカステリョン]]へ期限付き移籍<ref>{{Wayback|date=20060303074649|url=http://www.vegalta.co.jp/news/2006/01/06_3.php|title=福田健二選手 デポルティーボ カステリョンへ期限付き移籍のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2006年1月3日)</ref>。パラグアイ及びメキシコでの実績、グアラニ在籍時の監督である[[マリオ・ハケ]]からの推薦{{Refnest|group="注"|name="more"|ハケとモレは、現役時代に[[レアル・バリャドリード]]のチームメートであり、交流が続いていた<ref name="ko0722">[[#Ko2007|小宮,2007年,22-25頁]]</ref>。}}、[[#Lang|スペイン語が話せる点]]を[[ペペ・モレ]]{{Enlink|José Moré Bonet|a=on}}監督{{R|more|group=注}}に評価されての移籍だった<ref name="live2005">[http://news.livedoor.com/article/detail/1555433/ 福田健二、スペイン2部カステジョンと契約] livedoor スポーツ (2005年12月15日)</ref>。しかし、シーズン途中加入だったため<ref group="注" name="nittei">いわゆる[[サッカー文化#日程|「秋春制」]]。</ref> ポジション争いから始まり、左サイドに配されたこともあって力を発揮できずに終わった{{R|ko0722}}。

スペイン2部・[[CDヌマンシア]]の[[アンドニ・ゴイコエチェア・オラスコアガ|ゴイコエチェア]]監督はカステリョン戦において、福田の激しい形相でボールを追いゴールを狙う姿を目に留めており、2006年8月に福田を練習に呼び寄せた<ref name="ko0740">[[#Ko2007|小宮,2007年,40-42頁]]</ref>。福田は練習参加した数日間、持ち前の闘争心を発揮してアピールに成功{{R|ko0740|hoc2007}}。移籍期間末日の同月31日にヌマンシアへの期限付き移籍が決定した<ref>{{Wayback|date=20070307145659|url=http://www.vegalta.co.jp/news/2006/08/31.php|title=福田健二選手 スペイン2部リーグヌマンシアへ期限付き移籍のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2006年8月31日)</ref>。序盤は1トップにFW[[ジョン・アンドニ・ペレス・アロンソ|ボロ]]が配されていたため福田はその控えとなっており、前シーズン不振だった「アジア人{{Refnest|group="注"|2004-05シーズン、同クラブは[[プリメーラ・ディビシオン|1部リーグ]]に所属していたが、この時獲得した韓国人FW[[李天秀]]が無得点と期待外れに終わり{{R|gendai02}}、クラブは2部へ降格。李と同じアジア人選手である福田に対しても懐疑的な目が向けられた<ref name="ko0748">[[#Ko2007|小宮,2007年,48-49頁]]</ref>。なお、スペイン2部のクラブが保有できる[[外国人枠 (サッカー)|外国籍枠(EU圏外の選手に当てられる)]]は僅か2つ<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1112/columndtl/200804280019-spnavi スペインから目指すワールドカップ 福田健二インタビュー (1/3)] スポーツナビ (2008年2月8日)</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/371113?page=3 スペインリーグ初の日本人オーナー、坂本圭介が夢見る「和製欧州クラブ」。(3/4)] Number (2013年3月22日)</ref>。}}」アタッカーに対してメディアやサポーターからの批判が集中していたが{{R|ko0748}}、後にボロと福田の2トップへ変更。これによって福田は古巣カステリョン戦で移籍後初得点を挙げ、主力として定着。同年末、シーズン終了までの契約延長を掴んだ<ref>{{Wayback|date=20070102125817|url=http://www.vegalta.co.jp/news/2006/12/27_2.php|title=福田健二選手 期限付き移籍期間延長のお知らせ}} ベガルタ仙台 (2006年12月27日)</ref>{{R|nittei|group=注}}。ホームゲームでの得点の多さでサポーターの心を掴み<ref>[[#Ko2007|小宮,2007年,124頁]]</ref>、ボロと並ぶチーム得点王となって地元メディアから年間最優秀選手に選出された<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/headlines/20070618-00000025-spnavi-socc.html 福田がチーム得点王 地元メディアが選ぶ年間最優秀選手に] スポーツナビ (2007年6月18日)</ref>{{R|asahi2008}}。ヌマンシアは福田との翌シーズン以降の契約に動いたが、保有権は未だベガルタ仙台にあり{{R|nik2007}}<ref name="hoc2007">{{Wayback|date=20070613010353|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/world/news/20070611-OHT1T00087.htm|title=}} [[スポーツ報知]] (2007年6月11日)</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/13536 ヌマンシア福田健二の胸の内。] Number (2007年5月10日)</ref> 折衝は中々進まなかった<ref name="ko07201">[[#Ko2007|小宮,2007頁,201-205頁]]</ref>。

福田は仙台に対し、東京からの移籍後わずか半年での海外移籍を認めたことへの恩義を感じており{{R|ko07201}}<ref name="nik2007">{{Wayback|date=20071010150936|url=http://tohoku.nikkansports.com/soccer/jleague/vegalta/p-tv-tp0-20070622-216500.html|title=福田「仙台に恩ある」}} [[日刊スポーツ]] (2007年6月22日)</ref>、仙台復帰を選択肢に入れていたが、メディカルチェックで足首負傷{{R|nik2007}}の未完治が認められたことから即戦力にはならないと判断され{{R|ko07201}}破談。[[2007年]]8月、スペイン2部の[[UDラス・パルマス]]へ完全移籍<ref>{{Wayback|date=20071025042356|url=http://www.vegalta.co.jp/news/2007/08/21.php|title=福田健二選手 ラス・パルマス(スペイン2部リーグ)へ完全移籍のお知らせ}}</ref>。しかしラス・パルマスでは負傷が続き<ref name="asahi2008">[http://www.asahi.com/sports/fb/japan/TKY200807290090.html 30歳、目指す代表入り 福田健二] [[朝日新聞デジタル]] (2008年7月29日)</ref>、負傷離脱中に就任した新監督から冷遇されたため<ref name="nino04">[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=2210 FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 最終回] SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月27日)</ref> 3得点に留まった。

2008-09シーズンは、[[フットボールリーグ (ギリシャ)|ベータ・エスニキ]]([[ギリシャ]]2部リーグ)の[[イオニコスFC]]へ移籍。開幕からの6試合で3得点を挙げ、[[靭帯損傷]]による3ヶ月の欠場がありながらも<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=2928 福田健二「イオニコスでの1年を振り返って」] SPORTS COMMUNICATIONS (2009年6月11日)</ref> 24試合出場9得点と上々の成績を記録。翌シーズンもイオニコスでプレーする予定でいたが<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=3522 待望のストライカー福田健二、加入決定!] SPORTS COMMUNICATIONS (2009年10月28日)</ref>、クラブの給与未払いにより<ref name="gendai02">[https://gendai.media/articles/-/40?page=2 「流浪のストライカーの勲章」元日本代表・福田健二 (2/2)] 現代ビジネス (2010年1月1日)</ref> 1年限りで契約を解除した<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/090911/scb0909111939002-n1.html ギリシャ2部イオニコスが福田と契約解除へ] [[サンケイスポーツ]] (2009年9月11日)</ref>。

イオニコスを離れた後、[[UAEリーグ|UAE1部]]の[[アル・アインFC]]<ref>{{Wayback|date=20090915211148|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/soccer/news/CK2009091202000199.html|title=元グランパスFW福田がUAEリーグへ}} [[中日スポーツ]] (2009年9月12日)</ref> や[[リーグ・アン|フランス1部]]の[[USブローニュ]]にテスト生として練習に参加したものの{{R|gendai02}}契約に至らず無所属となっていた。

=== 愛媛FC ===
[[2009年]]9月{{R|ehime2010}}、予てから移籍を打診されていたという<ref>[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00091835.html 【愛媛:福田健二選手 加入発表会見】福田健二選手の会見コメント] [[J's GOAL]] (2009年10月30日)</ref> 故郷・愛媛県のJリーグクラブ[[愛媛FC]]と契約締結。10月に加入が発表され<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?stpId=100634 福田健二選手 新加入のお知らせ] 愛媛FC (2009年10月28日)</ref>、実に6年ぶりの日本復帰となった。なお、この時既にJリーグの選手登録期限を過ぎていたため<ref>[http://www.j-league.or.jp/release/000/00002773.html 2009年シーズンの追加登録期限と登録期間(ウインドー)について] Jリーグ (2008年12月16日)</ref>、同年の公式戦出場は不可{{R|gendai02}}。

[[2010年]]は前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否したために開幕戦への選手登録が叶わず<ref name="ehime2010">[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=100828 福田健二選手の登録について] 愛媛FC (2010年3月5日)</ref>、已む無く[[国際サッカー連盟|FIFA]]承認の下での暫定登録という措置を取り<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=100839 福田健二選手の選手登録について] 愛媛FC (2010年3月12日)</ref> 第2節以降の出場が可能となった。サッカー人生初となる主将を任され<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=3043 「愛媛FC、背番号12の視点」:第148回「新主将」] SPORTS COMMUNICATIONS (2010年3月3日)</ref>、巧みな[[ポストプレー]]や<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=3807 福田が決めた! 今季初白星 -Jリーグ ディヴィジョン2 第2節-] SPORTS COMMUNICATIONS (2010年3月13日)</ref> 相手DFを引き付ける潰れ役として貢献し<ref>[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00098358.html 【J2:第3節 愛媛 vs 水戸】プレビュー] [[J's GOAL]] (2010年3月21日)</ref>、チーム最多の7得点を記録した<ref>[http://www.j-league.or.jp/SS/jpn/team/2010020003_000052_1_W0707_J.html 選手出場記録] Jリーグ (2010年12月4日)</ref>。しかし[[2011年]]、[[2012年]]と徐々に出場機会を減らしていき、2012年限りで契約満了により退団<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?stpId=102003 契約満了選手のお知らせ] 愛媛FC (2012年11月16日)</ref>。

=== 香港 ===
[[四国ダービー|愛媛在籍時のダービーマッチ]]での対戦を機に親交を持った[[裴乗振|ペ・スンジン]](2012年より[[横浜FC]]に在籍)から[[夢想駿其足球會|横浜FC香港]](後に改称{{R|yfc-name|group=注}})がFWを探していると聞かされ<ref name="komiya2015">{{Cite book|和書|title=おれは最後に笑う サッカーが息づく12の物語|pages=189-191|author=小宮良之|authorlink=小宮良之|year=2015|publisher=[[東邦出版]]}}</ref>、[[2013年]]1月に[[香港ファーストディビジョンリーグ|香港甲組(1部リーグ)]]の同クラブへ完全移籍<ref>[http://www.ehimefc.com/efc/topics.php?s|id=102070 福田 健二 選手 横浜FC香港に移籍のお知らせ] 愛媛FC (2013年1月23日)<!-- ←出場記録に誤記有り(2014年1月時点)--></ref><ref>{{Wayback|date=20140104204629|url=http://www.yokohamafc-hk.com/ja/news/news20130123_111.php|title=FW福田健二、横浜FC香港に移籍決定!}} 横浜FC香港 (2013年1月23日)</ref>。2012-13シーズン終了までの4ヶ月契約だった{{R|komiya2015}}。同年、[[日本サッカー協会指導者ライセンス|JFA・B級ライセンス]]取得<ref>{{PDFlink|[http://www.jfa.or.jp/jfa/rijikai/2013/20130411/PDF/h20130411_06.pdf 2012(平成24)年度 公認B級コーチ養成講習会 合格者【415名】]}} [[日本サッカー協会]] (2013年4月11日)</ref>。香港では前年より加入していたFW[[吉武剛]]との共存を求められ、[[ミッドフィールダー|トップ下]]でチャンスメイクにも励んだ<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35779 “さすらいのgoleador”福田健二、香港での新たな旅路 (1/4)] 現代ビジネス (2013年5月15日)</ref>。シーズン最終節では、試合終了間際になってチームを2部降格の危機から救う劇的な同点ゴール{{Refnest|group="注"|降格した[[大埔足球会]]と横浜FC香港との勝ち点差は「1」。福田の得点が無ければ横浜FC香港が降格していた<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35779?page=3 “さすらいのgoleador”福田健二、香港での新たな旅路 (3/4)] 現代ビジネス (2013年5月15日)</ref>。}}を挙げ<ref>[http://int.soccerway.com/matches/2013/05/04/hong-kong/hkfa-1st-division/fourway-athletics/wofoo-tai-po-fc/1362343/ Yokohama Hong Kong vs. Wofoo Tai Po 2-2] SOCCERWAY{{En icon}}</ref>、チームの1部残留と自身の契約延長を掴んだ{{R|komiya2015}}。

前述の活躍によって2013-2014シーズンは福田を主力とする布陣に変わり、リーグ戦18試合11得点<!-- 1試合無効になっている。 -->を挙げ、得点ランキング3位でシーズンを終えた。2015年1月、[[大埔足球会]]戦で[[ハットトリック]]達成<ref>[http://www.hkfa.com/ch/match/detail/16747/ 中銀集團人壽香港超級聯賽] 香港足球總會 (2015年1月18日){{Zh icon}}</ref>。2015-2016シーズン終了とともに現役引退を表明<ref>[http://hk.on.cc/hk/bkn/cnt/sport/20160507/bkn-20160507162905572-0507_00882_001.html 港超聯煞科 福田健二淚別駿其:續撐香港波] 港澳新聞 (2016年5月7日){{Zh icon}}</ref>、今後は指導者を目指すとしている<ref>[http://hk.apple.nextmedia.com/sports/art/20160506/19600318 「福田san」掛靴最後夢想] リンゴ日報 2016年05月06日 2016年05月7日閲覧{{zh-tw icon}}</ref>。

=== 引退後 ===
2016年7月、横浜FCの強化ダイレクターに就任した。

2021年4月9日、横浜FCのテクニカルダイレクターに就任した<ref>{{Cite press release |和書 |title=福田 健二氏 テクニカルダイレクター就任のお知らせ |publisher=横浜FC |date=2021-04-09 |url=https://www.yokohamafc.com/2021/04/09/1800-2/ |accessdate=2021-04-09}}</ref>。


== 所属クラブ ==
== 所属クラブ ==
;ユース経歴
;ユース経歴
* 泉川SS
* 蔵波FC ([[袖ケ浦市立蔵波小学校]])
* 蔵波FC ([[袖ケ浦市立蔵波小学校]])
* 市川カネヅカサッカークラブ ([[袖ケ浦市立蔵波中学校]])
* 市川カネヅカサッカークラブ ([[袖ケ浦市立蔵波中学校]])
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* 1996年 - 2001年8月 {{flagicon|JPN}} [[名古屋グランパスエイト]]
* 1996年 - 2001年8月 {{flagicon|JPN}} [[名古屋グランパスエイト]]
* 2001年8月 - 2003年8月 {{flagicon|JPN}} [[FC東京]]
* 2001年8月 - 2003年8月 {{flagicon|JPN}} [[FC東京]]
**2002年12月 {{flagicon|BEL}} [[REムスクロン]] (留学)
**2002年12月 {{flagicon|BEL}} [[REムスクロン]] (留学{{R|fct2002}})
* 2003年8月 - 200312月 {{flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台]]
* 2003年8月 - 20078月 {{flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台]]
** 2004年 {{flagicon|PAR}} [[クラブ・グアラニー]] レンタル移籍
** 2004年 {{flagicon|PAR}} [[クラブ・グアラニー]] ([[期限付き移籍|レンタル移籍]])
** 2005年1月 - 7{{flagicon|MEX}} [[CFパチューカ]] レンタル移籍
** 2005年1月 - 同年6月 {{flagicon|MEX}} [[CFパチューカ]] (レンタル移籍)
** 2005年7月 - 12月 {{flagicon|MEX}} [[イラプアトFC]]{{enlink|Irapuato FC|a=on}} レンタル移籍
** 2005年8月 - 同年12月 {{flagicon|MEX}} [[イラプアトFC]]{{enlink|Irapuato FC|a=on}} (レンタル移籍)
** 2006年1月 - 20069{{flagicon|ESP}} [[CDカステリョン]] レンタル移籍
** 2006年1月 - 6月 {{flagicon|ESP}} [[CDカステリョン]] (レンタル移籍)
** 2006年9月 - 2007年7{{flagicon|ESP}} [[CDヌマンシア]] レンタル移籍
** 2006年9月 - 2007年6月 {{flagicon|ESP}} [[CDヌマンシア]] (レンタル移籍)
* 2007年8月 - 2008年8月 {{flagicon|ESP}} [[UDラス・パルマス]]
* 2007年8月 - 2008年6月 {{flagicon|ESP}} [[UDラス・パルマス]]
* 2008年9月 - {{flagicon|GRE}} [[イオニコスFC]]{{enlink|Ionikos F.C.|a=on}}
* 2008年8月 - 2009年8月{{R|ehime2010}} {{flagicon|GRE}} [[イオニコスFC]]{{enlink|Ionikos F.C.|a=on}}
* 2009年10月 - 2012年 {{flagicon|JPN}} [[愛媛FC]]※選手登録は2010年シーズンから
* 2009年9{{R|ehime2010}} - 2012年 {{flagicon|JPN}} [[愛媛FC]] ※選手登録は2010年シーズンから
* 2013年1月 - 2016年6月 {{flagicon|HKG}} [[夢想駿其足球會|横浜FC香港 / YFCMD / 夢想駿其足球會]]<ref name="yfc-name" group="注">クラブ名は、2012年から「横浜FC香港」、2014年から「YFCMD」、2015年から「夢想駿其足球會」と変遷。</ref>
* 2013年1月 - {{flagicon|HKG}} [[横浜FC香港]]

== エピソード ==
*母が自殺した際に残した遺書に、兄には長いメッセージが書かれていたのに対し、自分には一言しか書かれておらずショックを受け、それをずっと疑問に抱えてきた事を、2008年の情熱大陸にて語っている{{信頼性要検証|date=2019-08}}。
*[[天然ボケ|天然キャラ]]。本人は自覚に無いそうだが{{R|orange}}、[[矢部次郎]](名古屋)<ref>[[#Ko2007|小宮,2007年,87頁]]</ref>、[[佐藤由紀彦]](東京)<ref>{{Cite book|和書|title=FC東京ファンブック2002|page=60|year=2002|publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref>、[[大木勉]](愛媛){{R|orange}}など、かつてのチームメートの見解は一致している。
*{{Anchors|DSto}}名古屋では[[ドラガン・ストイコビッチ]]の勝利への執着心に刺激を受け、その姿勢を学びとろうと片言の英語を使って話しかけている<ref name="ko0789">[[#Ko2007|小宮,2007年,89-92頁]]</ref>。英語は元々好きだったが{{R|navi0802}}「ストイコビッチと少しでも会話がしたくて{{R|ko0789}}」熱心に英語のレッスンを受けたという。二人の話題は[[コソボ紛争]]にも及び、1999年3月27日の「名古屋vs[[ヴィッセル神戸]]」において福田がストイコビッチのアシストから決勝点を挙げた際<ref>{{Cite book|和書|title=悪者見参|author=木村元彦|authorlink=木村元彦|page=164|year=2000|publisher=[[集英社]]}}</ref><ref>[http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/column/2001/ZZZAUO5JOOC.html 「NATO STOP STRIKES!」もうひとつの「ピクシー伝説」を検証する (1/5)] スポーツナビ (2001年7月11日)</ref>、ストイコビッチは「NATO STOP STRIKES」とメッセージを示したが、福田もすぐさま駆け寄ってこのメッセージが書かれたシャツを指差し、共にアピールした。ストイコビッチの去就は、福田が名古屋退団を考える切っ掛けの一つとなった{{R|ko0789|br1404}}。
*{{Anchors|Fct2002}} 2002年J1・2nd第14節「FC東京vs[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]])」では両者無得点のまま延長戦に入り、途中出場の福田が[[ゴールデンゴール|Vゴール]]を挙げた<ref>[http://www.j-league.or.jp/SS/jpn/j1s/200201000214201_W0201_J.html 公式記録 2002Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第14節第2日] Jリーグ (2002年11月24日)</ref>。この得点はこぼれ玉を押し込んだだけ<ref name="go103">{{Cite book|和書|title=トーキョーワッショイ!|author=後藤勝|authorlink=後藤勝 (ライター)|pages=103-105|year=2005|publisher=[[双葉社]]}}</ref> というものだったが、福田は喜びを爆発させて上半身裸になり、ゴール裏のスタンドをよじ登ろうとした<ref name="ko07106">[[#Ko2007|小宮,2007年,106頁]]</ref>。この時、スタンドとピッチの間にある溝に落下してしまい、場内は一時騒然としたが{{R|go103}}、東京サポーターがスタンド壁面に掲げていた横断幕が偶然にも防護マット代わりとなったおかげで大事には至らなかった{{R|ko07106|go103}}。劇的勝利の立役者であることに加え、苦闘を続けていた福田の喜び様は、多くのサポーターに強い印象を残した{{R|ko07106|go103|br1404}}。なお、同会場ではこれ以後、転落防止ネットが張られている{{R|go103}}。
*{{Anchors|Lang}}パラグアイはスペイン語圏であり、2003年時点の福田の語学力は「知っていた言葉は[[wikt:en:gracias|グラシアス]]と[[wikt:hola|オラ]]くらい{{R|nino02}}」という状態だったが、通訳無しで渡ったため<ref name="navi0802">[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1112/columndtl/200804280019-spnavi?page=2 スペインから目指すワールドカップ 福田健二インタビュー (2/3)] スポーツナビ (2008年2月8日)</ref>、会う人会う人にとにかく挨拶をすること{{R|dream}}がコミュニケーションの一歩目となった{{R|nino02}}。辞書で調べながら自身が載っている新聞記事を読み<ref name="ko0752">[[#Ko2007|小宮,2007年,52頁]]</ref>{{R|navi0802}}、チームメートが行う[[テレレ]]を回し飲みしながらの歓談にも欠かさず参加{{R|nino02}}。半年程でスペイン語でのインタビューをこなすようになり{{R|ko0752}}、1年程でプレーに支障が出ない程度に成熟させた{{R|navi0802}}。メキシコもスペイン語が公用語であったためパラグアイでの経験が活かされ、スペインへの移籍の際も有利に働いた{{R|live2005}}。とはいえ、スペインではパラグアイやメキシコで用いたものとは[[同音異義語|異義の単語]]も少なくなく{{R|ko0752}}、当初は南米仕込みの発音をからかわれていた{{R|nino03}}。福田によれば、スペイン人はとにかくお喋りが大好きで、敵地への遠征中もサッカーに関係ない話題を含めて終始喋ってばかりいるため、もし日本から直接渡西していたら苦しかっただろうとのこと{{R|navi0802|nino03}}。愛媛FCの[[イヴィッツァ・バルバリッチ]]監督(スペインでのプレー経験が長かった)とも通訳を介さず対話した<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=2899 愛媛FC、背番号12の視点:第142回「帰郷」] SPORTS COMMUNICATIONS (2009年12月2日)</ref>。香港では漢字の[[筆談]]を使って親交を築いている<ref>[https://gendai.media/articles/-/35779?page=2 “さすらいのgoleador”福田健二、香港での新たな旅路 (2/4)] 現代ビジネス (2013年5月15日)</ref>。


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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|[[1996年のJリーグ|1996]]||rowspan=6|[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||-||rowspan=3|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||4||0||2||0||1||0||7||0
|[[1996年のJリーグ|1996]]||rowspan=6|[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||-||rowspan=3|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||4||0||2||0||1||0||7||0
71行目: 141行目:
|[[1998年のJリーグ|1998]]||33||16||4||0||3||2||40||18
|[[1998年のJリーグ|1998]]||33||16||4||0||3||2||40||18
|-
|-
|[[1999年のJリーグ|1999]]||rowspan=7|[[日本プロサッカーリーグ|J1]]||24||10||3||1||4||2||31||13
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|-
|-
|[[2000年のJリーグ|2000]]||26||4||6||0||2||0||34||4
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84行目: 154行目:
|-
|-
|[[ベガルタ仙台|仙台]]||34||10||0||colspan="2"|-||1||0||11||0
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|-
|-
|2004{{enlink|2004 in Paraguayan football|a=on}}||[[クラブ・グアラニー|グアラニー]]||20||[[リーガ・パラグアージャ|プリメーラ]]||36||10||||||||||36||10
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|2005C{{enlink|Primera División de México Clausura 2005|a=on}}||[[CFパチューカ|パチューカ]]||||[[・ディビシオ (メキシコ)|プリメーラ]]||21||12||||||||||21||12
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|-
|2005A||[[イラプアトFC|イラプアト]]||20||[[リーガ・デ・アセンソ|プリメーラA]]{{enlink|Liga de Ascenso|a=on}}||19||10||||||||||19||10
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|-
|-
|2005-06{{enlink|2005–06 Segunda División|a=on}}||[[CDカステリョン|カステリョン]]||21||rowspan=3|[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||17||2||0||0||colspan="2"|-||17||2
|2005-06{{enlink|2005–06 Segunda División|a=on}}||[[CDカステリョン|カステリョン]]||21||rowspan=3|[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||17||2||0||0||colspan="2"|-||17||2
99行目: 169行目:
|-
|-
|2007-08{{enlink|2007–08 Segunda División|a=on}}||[[UDラス・パルマス|ラス・パルマス]]||7||15||3||2||0||colspan="2"|-||17||3
|2007-08{{enlink|2007–08 Segunda División|a=on}}||[[UDラス・パルマス|ラス・パルマス]]||7||15||3||2||0||colspan="2"|-||17||3
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|-
|-
|2008-09{{enlink|2008–09 Beta Ethniki|a=on}}||[[イオニコスFC|イオニコス]]||24||[[フットボールリーグ (ギリシャ)|ベータ]]{{enlink|Football League (Greece)|a=on}}||24||9||||||colspan="2"|-||24||9
|2008-09{{enlink|2008–09 Beta Ethniki|a=on}}||[[イオニコスFC|イオニコス]]||24||[[フットボールリーグ (ギリシャ)|ベータ]]{{enlink|Football League (Greece)|a=on}}||24||9||||||colspan="2"|-||24||9
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|-
|-
|[[2010年のJリーグ|2010]]||rowspan=3|[[愛媛FC|愛媛]]||rowspan=3|24||rowspan=3|[[日本プロサッカーリーグ|J2]]||29||7||colspan="2"|-||1||0||30||7
|[[2010年のJリーグ|2010]]||rowspan=3|[[愛媛FC|愛媛]]||rowspan=3|24||rowspan=3|[[日本プロサッカーリーグ|J2]]||29||7||colspan="2"|-||1||0||30||7
108行目: 178行目:
|[[2011年のJリーグ|2011]]||22||1||colspan="2"|-||1||1||23||2
|[[2011年のJリーグ|2011]]||22||1||colspan="2"|-||1||1||23||2
|-
|-
|[[2012年のJリーグ|2012]]||29||7||colspan="2"|-||0||0||29||7
|[[2012年のJリーグ|2012]]||14||0||colspan="2"|-||0||0||14||0
<!-- 香港移籍の際、愛媛FC公式で「29試合7得点」とリリースされたが、これは誤り。正しくは→ http://www.j-league.or.jp/SS/jpn/team/2012020003_000052_1_W0707_J.html -->
{{サッカー選手国内成績表 th|香港|all}}
|-
|-
|2012-13{{Enlink|2012–13 Hong Kong First Division League|a=on}}||rowspan=4|[[夢想駿其足球會|横浜FC香港 /<br />YFCMD /<br />夢想駿其]]{{R|yfc-name|group=注}}||rowspan=4|20||rowspan=2|[[香港ファーストディビジョンリーグ|甲組]]||8||3||colspan=2|-||2||0||10||3
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|-
|-
|2013-14{{Enlink|2013–14 Hong Kong First Division League|a=on}}||18||11||colspan=2|-||1||1||19||12
|2012-13||[[横浜FC香港]]||20||[[香港ファーストディビジョンリーグ|香港1部]]||||||||||||||||
|-
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|8|日本|J1}}156||40||33||5||13||4||202||49
|2014-15{{Enlink|2014–15 Hong Kong Premier League|a=on}}||rowspan=2|[[香港プレミアリーグ|超級]]||16||10||2||0||3||2||21||12
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|J2}}80||15||colspan="2"|-||2||1||82||16
|-
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|パラグアイ|プリメーラ}}36||10||||||||||36||10
|2015-16{{Enlink|2015–16 Hong Kong Premier League|a=on}}||16||6||2||0||1||1||19||7
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|メキシコ|プリメーラ}}21||12||||||||||21||12
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算|メキシコ|プリメーラA}}19||10||||||||||19||10
{{サッカー選手国内成績表 通算|7|日本|J1}}156||40||33||5||13||4||202||49
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|スペイン|セグンダ}}71||15||3||0||colspan="2"|-||74||15
{{サッカー選手国内成績表 通算行|日本|J2}}65||8||colspan="2"|-||2||1||67||9
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|ギリシャ|}}24||9||||||colspan="2"|-||24||9
{{サッカー選手国内成績表 通算行|パラグアイ|プリメ}}36||10||||||||||36||10
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|香港|香港1部}}||||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算行|メキシコ|プリメーラA}}40||22||||||||||40||22
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算}}407||111||36||5||15||5||458||121
{{サッカー選手国内成績表 通算行|スペイン|セグンダ}}71||15||3||0||colspan="2"|-||74||15
{{サッカー選手国内成績表 通算行|ギリシャ|ベータ}}24||9||||||colspan="2"|-||24||9
{{サッカー選手国内成績表 通算行|香港|超級 / 甲組}}58||30||4||0||7||4||69||34
{{サッカー選手国内成績表 通算終}}450||134||40||5||22||9||512||148
|}
|}
その他の公式戦
その他の公式戦
* 1996年
* 1996年
** [[FUJI XEROX SUPER CUP|スーパーカップ]] 1試合1得点
** [[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]] 1試合1得点
* 1997年
* 1997年
** [[サンワバンクカップ]] 1試合0得点
** [[サンワバンクカップ]] 1試合0得点
* 2013-2014
** [[香港シニアシールド]] 1試合1得点
* 2014-2015
** 香港シニアシールド 1試合0得点
* 2015年
** [[AFCカップ2016]]プレーオフ 1試合0得点


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{{サッカー選手国際成績表 top|1|}}
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国際表 th|CONMEBOL|2|NY|}}
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|[[コパ・リベルタドーレス2004|2004]]{{enlink|2004 Copa Libertadores|a=on}}||[[クラブ・グアラニー|グアラニー]]||20||5||1
|[[コパ・リベルタドーレス2004|2004]]{{enlink|2004 Copa Libertadores|a=on}}||[[クラブ・グアラニー|グアラニー]]||20||5||1
|-
|-
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その他の国際試合
その他の国際試合
*1996 [[アジアカップウィナーズカップ]] 4試合3得点
*1996 [[アジアカップウィナーズカップ]] 4試合3得点
*2000/01 アジアカップウィナーズカップ 3試合0得点
*2000-2001年 アジアカップウィナーズカップ 3試合0得点


== 代表歴 ==
== 代表歴 ==
*U-19、[[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]]
*[[U-20サッカー日本代表|U-19 / U-20日本代表]]
**1996年[[AFCユース選手権|AFCアジアユース]](ベスト4)
**1996年 [[AFCユース選手権|AFCアジアユース]](ベスト4)
**1997年[[FIFAワールドユース]](ベスト8)
**1997年 [[FIFAワールドユース]](ベスト8)
*U-21U-22日本代表
*[[U-23サッカー日本代表|U-21 / U-22日本代表]]
**1998年アジア大会
**1998年 [[アジア競技大会サッカー競技|アジア大会]]
**1999年シドニーオリンピックアジア最終予選
**1999年 シドニーオリンピックアジア最終予選
*日本代表候補
**2001年 トレーニングキャンプメンバー


==関連情報==
== エピソード ==
=== 出演 ===
* スペイン2部時代にリーガはトップ5より下から2部リーグまでは同レベルだと言われており、[[UEFAカップ]]出場クラスの相手なら自分たちは間違いなく互角だと語った<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0708/spain/column/200802/at00016213.html 僕らが優勝したんです]</ref>。
*2001年 - [[第52回NHK紅白歌合戦]] (NHK)
* [[スコティッシュ・プレミアリーグ|スコットランド]]や[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア]]と比べてスペイン2部のレベルはどうか?という質問に対し、スペイン2部で出られなくなった選手がスコットランドや[[ギリシャ・スーパーリーグ|ギリシャ]]の1部に行くと「あれは金のためだ」って(笑)とチームメイトは皆言います。と答えた<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0708/spain/column/200802/at00016213.html 何が「トップ」なのかが分からないですが(笑)。]</ref>。
*2008年 - [[情熱大陸]] (TBS)
* 30歳のときに自分では33~34歳くらいまではトップでいられると思っている、32歳で迎える南アフリカW杯というのは、自分の中では、日本のために十分力になれる自信はあると語った<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/0708/spain/column/200802/at00016215.html 現役時代のゴールは、どこに設定しているのでしょうか?]</ref>。
*2010年 - 百年旅行 Jリーグのある風景<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bs4.jp/entame/hyakunen/story/38.html|title=BS日テレ- 百年旅行〜Jリーグのある風景 #38「ボクが故郷に帰ってきた理由」愛媛FC 福田健二|author=BS日テレ|accessdate=2014-01-25}}</ref>(BS日テレ)
* 海外クラブの所属歴が長いが、実は2004年所属のグアラニーから2006年所属のヌマンシアまでは全てベガルタ仙台からの[[レンタル移籍]]であり、3カ国の5クラブを仙台所属のまま渡り歩いた。

* ヌマンシア入団後しばらく福田はヌマンシアサポーターに批判的な目で見られていた。これは2004-05シーズンに同チームに所属した韓国人FW[[李天秀]]が15試合出場も0得点と全くの期待外れで「なぜまた使えないアジア人を獲るんだ」と思われていた為である<ref>{{Cite book|和書|author=[[小宮良之]]|title=RUN 流浪のストライカー、福田健二の闘い|year=2007|page=48|publisher=[[ダイヤモンド社]]}}</ref>。しかし福田はゴールという結果を出し続け次第にヌマンシアサポーターに愛される選手となった(ただし李が在籍した時期のチームはトップリーグ所属であり、李の不振が降格の一因となっていた。)。
=== 書籍 ===
*{{Anchors|Ko2007}}{{Cite book|和書|title=RUN -流浪のストライカー、福田健二の闘い-|author=小宮良之|authorlink=小宮良之|year=2007|publisher=[[ダイヤモンド社]]|url=https://www.diamond.co.jp/book/9784478002483.html}}
*{{Anchors|Ko2011}}{{Cite book|和書|title=導かれし者 -流浪のストライカー、福田健二の闘い-|author=小宮良之|year=2011|publisher=[[角川文庫]]|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201106000070/}} - 「RUN」を文庫化し、加筆したもの。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
;注釈
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
;出典
{{Reflist|3}}

== 関連項目 ==
*[[名古屋グランパスエイトの選手一覧]]
*[[FC東京の選手一覧]]
*[[ベガルタ仙台の選手一覧]]
*[[愛媛FCの選手一覧]]
*[[日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kenji Fukuda}}
*{{FIFA player|177775}}{{en icon}}
*{{Sports links}}
*{{Wayback|date=20090307233538|url=http://www.kenji-fukuda.com/profile/index.htm|title=プロフィール (2005年版)}} - 公式ウェブサイト
*{{Wayback|date=20100315175741|url=http://blog.kenji-fukuda.com/?pid=6336|title=プロフィール (2009年版)}} - kenji fukuda BLOG
*[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2012/columndtl/201003190001-spnavi 福田健二、ピッチまでの長き道程 愛媛での波乱万丈の135日 (1/2)]、[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2012/columndtl/201003190001-spnavi?page=2 (2/2)] - スポーツナビ (2010年3月19日)
*{{Wayback|date=20031222174901|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=player&num=09|title=プロフィール (2003年)}} - FC東京
*{{Wayback|date=20050205044140|url=http://www.vegalta.co.jp/team/2003/fukuda.html|title=プロフィール (2003年)}} - ベガルタ仙台
*{{Wayback|date=20070410092616|url=http://cdnumancia.com/plantillafutbol.asp?dorsal=24&#jug|title=プロフィール (2007年)}} - CDヌマンシア{{Es icon}}
*{{Wayback|date=20080406194956|url=http://www.udlaspalmas.es/Paginas/Equipos.php?Nivel=7&id=396|title=プロフィール (2008年)}} - UDラス・パルマス{{Es icon}}
*{{Wayback|date=20090505074245|url=http://www.ionikos-fc.gr/players2008_2009/24fukuda.htm|title=プロフィール (2009年)}} - イオニコスFC{{En icon}}
*{{Wayback|date=20120401200455|url=http://www.ehimefc.com/player/24.html|title=プロフィール (2012年)}} - 愛媛FC
*{{Wayback|date=20020609200059|url=http://jinterview.rivals.ne.jp/default.asp?sid=2&p=2&stid=8079843|title=Rivals インタビュー}}


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2024年11月2日 (土) 10:05時点における最新版

福田 健二
名前
愛称 フク[1]
カタカナ フクダ ケンジ
ラテン文字 FUKUDA Kenji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-10-21) 1977年10月21日(47歳)
出身地 愛媛県新居浜市[2]
身長 179cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 左足[3][4]
ユース
1984-1989 日本の旗 蔵波FC
1990-1992 日本の旗 市川カネヅカSC
1993-1995 日本の旗 習志野高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2001 日本の旗 名古屋グランパスエイト 114 (37)
2001-2003 日本の旗 FC東京 32 (3)
2003-2007 日本の旗 ベガルタ仙台 10 (0)
2004 パラグアイの旗 グアラニー (loan) 36 (10)
2005 メキシコの旗 パチューカ (loan) 21 (12)
2005 メキシコの旗 イラプアト (loan) 19 (10)
2006 スペインの旗 カステリョン (loan) 17 (2)
2006-2007 スペインの旗 ヌマンシア (loan) 39 (10)
2007-2008 スペインの旗 ラス・パルマス 15 (3)
2008-2009 ギリシャの旗 イオニコス 24 (9)
2009-2012 日本の旗 愛媛FC 65 (8)
2013-2016 香港の旗 夢想駿其[注 1] 58 (30)
通算 450 (134)
代表歴
1996-1997  日本 U-19/20 4 (1)
1998-1999  日本 U-21/22
2001 日本の旗 日本 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年5月7日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
福田 健二

福田 健二(ふくだ けんじ、1977年10月21日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)

来歴

[編集]

プロ入り以前

[編集]

小学2年生の時に兄の影響でサッカーを始めた[5][6][1]。両親の離婚により母子家庭に育ち、5年生の時に母が生活苦から自殺するという少年時代を過ごした[7]

父に引き取られて千葉県袖ケ浦市へ転居した後も金銭的な問題からサッカーを諦めかけたが、同級生で同じサッカークラブに所属していた廣山望[3]ら友人たちの助けもあって[8] 中学でもサッカーを続け、1992年のU-15クラブ選手権で全国3位の成績を残した[9]Jリーグ開幕前だったこともあり[5]、中学卒業時にはサッカーのためにブラジルへの移住を考えるなど[8][2]当時から海外志向を持っていた。

1993年習志野高校に進学。本田裕一郎監督からゴールへの執念を買われて、1年時から1軍入りし[10]1994年高円宮杯で3位、1995年高校総体で優勝[2]。同期には廣山を始め、小田島隆幸西脇徹也 (en御厨景桜井啓らがいた。

名古屋 / 東京 / 仙台

[編集]

1996年に高校を卒業し、Jリーグ名古屋グランパスエイトに加入。「日本人ストライカーを育てたい」と語るアーセン・ベンゲル監督の下[11]、同年3月のスーパーカップで先発出場し、デビュー戦で1得点1アシストを記録した[12][11]1997年U-20日本代表としてワールドユース出場。名古屋ではストイコビッチと好連携を築き1998年には公式戦18得点(リーグ戦ではチーム得点王となる16得点[13])を記録。Jリーグで結果を残したことで海外移籍につながると考えていたが、移籍金や契約期間の関係で[6][2]不調に終わり、翌1999年のシーズン終了後の移籍も叶わなかった[2]フィリップ・トルシエ監督率いるシドニーオリンピックを目指す日本代表に招集され、アジア予選では平瀬とともにレギュラー格として出場を続けていたが[14]、平瀬が得点を量産するのに対しなかなか得点ができず、スランプだった柳沢が復調してきた事や、ひとつ下のワールドユース組のエース高原がFW争いに加わり、出番が減っていった。トルシエからは「クラブでレギュラーを取らなければ代表でも呼べない」と発破をかけられるが、呂比須ワグナーウェズレイとのレギュラー争いに勝てずベンチ要員となると、シドニー五輪本大会のメンバーから外れた。

名古屋でも、恵まれたJリーグの環境に居心地の悪さを感じる中で[15][16] 徐々に結果を残せなくなり[6]、呂比須とウェズレイがレギュラーに定着したことで[14]十数分間出場してヘディングで競り合うだけ[17] という状況になり、2001年ストイコビッチの現役引退と同じタイミング[15]退団した。

この際、ベルギー・REムスクロンからオファーを受けていたが、代理人からの説得を受けて[18] 2001年8月、FC東京へ完全移籍[19][20]。しかし東京では、1トップアマラオが入る布陣が採用されていた[注 2] ため[14][21]、福田は左サイドハーフ(SH)という不慣れなポジション[1] に配された[14][17]。同年9月、トルシエ率いるA代表候補に選出[22]2002年は監督交代の影響もあって先発から外れていたが、練習に打ち込む真摯な姿勢は若手選手から慕われ[23][24]同年J1・2nd第14節浦和戦のVゴールなど印象に残るプレーでサポーターから愛された[24][25]。同年12月、チームが天皇杯を控える中、ムスクロンへ短期留学[26]。翌2003年より東京に復帰したが、チーム事情よりも自身の希望を優先したために[18]ポジション争いの序列からさらに後退してしまった[14]

同年8月、負傷したマルコスに代わる攻撃の核を求めていた[14]ベガルタ仙台から熱烈なオファーを受け[24]、仙台へ完全移籍[27]。しかし先発出場の機会は少なく、同年チームはJ2に降格した。

パラグアイ / メキシコ

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2003年夏、海外リーグで経験を積んでいた旧友の廣山から代理人を紹介され[2][6]2004年より仙台からリーガ・パラグアージャパラグアイ1部リーグ)のクラブ・グアラニーへ半年間の期限付き移籍[28]。リーグ第2節のソル・デ・アメリカ (en戦で高い打点のヘディングから移籍後初ゴールを記録した[29]。外国籍選手として結果を求められることによってプレーの迷いが消え[30]、激しいボティコンタクトを厭わず[29]、パラグアイ人選手に比べると優れたスピードも活きて[29]得点を量産。コパ・リベルタドーレスでも活躍し、契約延長を勝ち取った[29][31]。この時のチームメートであるアウレリアーノ・トーレスとは互いに成長を誓い合い、後にスペインでの対戦を果たしている[32][33]セロ・ポルテーニョヘラルド・マルティーノ監督からの移籍オファー[34] を固辞した際には、グアラニーサポーターから「お前を愛している」と横断幕を掲げられた[21]

2005年プリメーラ・ディビシオンメキシコ1部リーグ)[注 3]CFパチューカへ期限付き移籍[37]。当初はリザーブチーム(2部リーグ)のパチューカ・ジュニアーズに登録されたが[36][3]、標高2400mの高地にも順応し[38][39][21]、出だしから好調なプレーで[40][41] クラブからの信頼を得ると[38]、コパ・リベルタドーレスではトップチームに入りハレド・ボルヘッティを押しのけて出場した[36][21]

シーズン途中にはメキシコ2部のイラプアトFCに引き抜かれ[36][42]、同クラブでも二桁得点を記録。この頃、前述の幼少期の来歴がスポーツ誌で紹介されたこともあり、日本での注目が俄かに高まった。

スペイン / ギリシャ

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2006年1月、セグンダ・ディビシオンスペイン2部リーグ)のCDカステリョンへ期限付き移籍[43]。パラグアイ及びメキシコでの実績、グアラニ在籍時の監督であるマリオ・ハケからの推薦[注 4]スペイン語が話せる点ペペ・モレ (en監督[注 4]に評価されての移籍だった[45]。しかし、シーズン途中加入だったため[注 5] ポジション争いから始まり、左サイドに配されたこともあって力を発揮できずに終わった[44]

スペイン2部・CDヌマンシアゴイコエチェア監督はカステリョン戦において、福田の激しい形相でボールを追いゴールを狙う姿を目に留めており、2006年8月に福田を練習に呼び寄せた[46]。福田は練習参加した数日間、持ち前の闘争心を発揮してアピールに成功[46][4]。移籍期間末日の同月31日にヌマンシアへの期限付き移籍が決定した[47]。序盤は1トップにFWボロが配されていたため福田はその控えとなっており、前シーズン不振だった「アジア人[注 6]」アタッカーに対してメディアやサポーターからの批判が集中していたが[48]、後にボロと福田の2トップへ変更。これによって福田は古巣カステリョン戦で移籍後初得点を挙げ、主力として定着。同年末、シーズン終了までの契約延長を掴んだ[51][注 5]。ホームゲームでの得点の多さでサポーターの心を掴み[52]、ボロと並ぶチーム得点王となって地元メディアから年間最優秀選手に選出された[53][30]。ヌマンシアは福田との翌シーズン以降の契約に動いたが、保有権は未だベガルタ仙台にあり[54][4][55] 折衝は中々進まなかった[56]

福田は仙台に対し、東京からの移籍後わずか半年での海外移籍を認めたことへの恩義を感じており[56][54]、仙台復帰を選択肢に入れていたが、メディカルチェックで足首負傷[54]の未完治が認められたことから即戦力にはならないと判断され[56]破談。2007年8月、スペイン2部のUDラス・パルマスへ完全移籍[57]。しかしラス・パルマスでは負傷が続き[30]、負傷離脱中に就任した新監督から冷遇されたため[58] 3得点に留まった。

2008-09シーズンは、ベータ・エスニキギリシャ2部リーグ)のイオニコスFCへ移籍。開幕からの6試合で3得点を挙げ、靭帯損傷による3ヶ月の欠場がありながらも[59] 24試合出場9得点と上々の成績を記録。翌シーズンもイオニコスでプレーする予定でいたが[60]、クラブの給与未払いにより[39] 1年限りで契約を解除した[61]

イオニコスを離れた後、UAE1部アル・アインFC[62]フランス1部USブローニュにテスト生として練習に参加したものの[39]契約に至らず無所属となっていた。

愛媛FC

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2009年9月[63]、予てから移籍を打診されていたという[64] 故郷・愛媛県のJリーグクラブ愛媛FCと契約締結。10月に加入が発表され[65]、実に6年ぶりの日本復帰となった。なお、この時既にJリーグの選手登録期限を過ぎていたため[66]、同年の公式戦出場は不可[39]

2010年は前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否したために開幕戦への選手登録が叶わず[63]、已む無くFIFA承認の下での暫定登録という措置を取り[67] 第2節以降の出場が可能となった。サッカー人生初となる主将を任され[68]、巧みなポストプレー[69] 相手DFを引き付ける潰れ役として貢献し[70]、チーム最多の7得点を記録した[71]。しかし2011年2012年と徐々に出場機会を減らしていき、2012年限りで契約満了により退団[72]

香港

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愛媛在籍時のダービーマッチでの対戦を機に親交を持ったペ・スンジン(2012年より横浜FCに在籍)から横浜FC香港(後に改称[注 1])がFWを探していると聞かされ[73]2013年1月に香港甲組(1部リーグ)の同クラブへ完全移籍[74][75]。2012-13シーズン終了までの4ヶ月契約だった[73]。同年、JFA・B級ライセンス取得[76]。香港では前年より加入していたFW吉武剛との共存を求められ、トップ下でチャンスメイクにも励んだ[77]。シーズン最終節では、試合終了間際になってチームを2部降格の危機から救う劇的な同点ゴール[注 7]を挙げ[79]、チームの1部残留と自身の契約延長を掴んだ[73]

前述の活躍によって2013-2014シーズンは福田を主力とする布陣に変わり、リーグ戦18試合11得点を挙げ、得点ランキング3位でシーズンを終えた。2015年1月、大埔足球会戦でハットトリック達成[80]。2015-2016シーズン終了とともに現役引退を表明[81]、今後は指導者を目指すとしている[82]

引退後

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2016年7月、横浜FCの強化ダイレクターに就任した。

2021年4月9日、横浜FCのテクニカルダイレクターに就任した[83]

所属クラブ

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ユース経歴
プロ経歴

エピソード

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  • 母が自殺した際に残した遺書に、兄には長いメッセージが書かれていたのに対し、自分には一言しか書かれておらずショックを受け、それをずっと疑問に抱えてきた事を、2008年の情熱大陸にて語っている[信頼性要検証]
  • 天然キャラ。本人は自覚に無いそうだが[5]矢部次郎(名古屋)[84]佐藤由紀彦(東京)[85]大木勉(愛媛)[5]など、かつてのチームメートの見解は一致している。
  • 名古屋ではドラガン・ストイコビッチの勝利への執着心に刺激を受け、その姿勢を学びとろうと片言の英語を使って話しかけている[15]。英語は元々好きだったが[86]「ストイコビッチと少しでも会話がしたくて[15]」熱心に英語のレッスンを受けたという。二人の話題はコソボ紛争にも及び、1999年3月27日の「名古屋vsヴィッセル神戸」において福田がストイコビッチのアシストから決勝点を挙げた際[87][88]、ストイコビッチは「NATO STOP STRIKES」とメッセージを示したが、福田もすぐさま駆け寄ってこのメッセージが書かれたシャツを指差し、共にアピールした。ストイコビッチの去就は、福田が名古屋退団を考える切っ掛けの一つとなった[15][21]
  • 2002年J1・2nd第14節「FC東京vs浦和レッズ東京スタジアム)」では両者無得点のまま延長戦に入り、途中出場の福田がVゴールを挙げた[89]。この得点はこぼれ玉を押し込んだだけ[90] というものだったが、福田は喜びを爆発させて上半身裸になり、ゴール裏のスタンドをよじ登ろうとした[25]。この時、スタンドとピッチの間にある溝に落下してしまい、場内は一時騒然としたが[90]、東京サポーターがスタンド壁面に掲げていた横断幕が偶然にも防護マット代わりとなったおかげで大事には至らなかった[25][90]。劇的勝利の立役者であることに加え、苦闘を続けていた福田の喜び様は、多くのサポーターに強い印象を残した[25][90][21]。なお、同会場ではこれ以後、転落防止ネットが張られている[90]
  • パラグアイはスペイン語圏であり、2003年時点の福田の語学力は「知っていた言葉はグラシアスオラくらい[35]」という状態だったが、通訳無しで渡ったため[86]、会う人会う人にとにかく挨拶をすること[6]がコミュニケーションの一歩目となった[35]。辞書で調べながら自身が載っている新聞記事を読み[91][86]、チームメートが行うテレレを回し飲みしながらの歓談にも欠かさず参加[35]。半年程でスペイン語でのインタビューをこなすようになり[91]、1年程でプレーに支障が出ない程度に成熟させた[86]。メキシコもスペイン語が公用語であったためパラグアイでの経験が活かされ、スペインへの移籍の際も有利に働いた[45]。とはいえ、スペインではパラグアイやメキシコで用いたものとは異義の単語も少なくなく[91]、当初は南米仕込みの発音をからかわれていた[38]。福田によれば、スペイン人はとにかくお喋りが大好きで、敵地への遠征中もサッカーに関係ない話題を含めて終始喋ってばかりいるため、もし日本から直接渡西していたら苦しかっただろうとのこと[86][38]。愛媛FCのイヴィッツァ・バルバリッチ監督(スペインでのプレー経験が長かった)とも通訳を介さず対話した[92]。香港では漢字の筆談を使って親交を築いている[93]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1996 名古屋 - J 4 0 2 0 1 0 7 0
1997 18 19 5 8 1 1 0 28 6
1998 33 16 4 0 3 2 40 18
1999 J1 24 10 3 1 4 2 31 13
2000 26 4 6 0 2 0 34 4
2001 9 8 2 3 0 - 11 2
FC東京 11 1 - 1 0 12 1
2002 21 2 7 3 0 0 28 5
2003 0 0 0 0 - 0 0
仙台 34 10 0 - 1 0 11 0
パラグアイ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2004 (en グアラニー 20 プリメーラ 36 10 36 10
メキシコ リーグ戦 コパMXオープン杯 期間通算
2005C パチューカJr プリメーラA 21 12 21 12
2005A イラプアト 20 19 10 19 10
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2005-06 (en カステリョン 21 セグンダ 17 2 0 0 - 17 2
2006-07 (en ヌマンシア 24 39 10 1 0 - 40 10
2007-08 (en ラス・パルマス 7 15 3 2 0 - 17 3
ギリシャ リーグ戦 リーグ杯エラーダス杯 期間通算
2008-09 (en イオニコス 24 ベータ (en 24 9 - 24 9
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2010 愛媛 24 J2 29 7 - 1 0 30 7
2011 22 1 - 1 1 23 2
2012 14 0 - 0 0 14 0
香港 リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2012-13 (en 横浜FC香港 /
YFCMD /
夢想駿其
[注 1]
20 甲組 8 3 - 2 0 10 3
2013-14 (en 18 11 - 1 1 19 12
2014-15 (en 超級 16 10 2 0 3 2 21 12
2015-16 (en 16 6 2 0 1 1 19 7
通算 日本 J1 156 40 33 5 13 4 202 49
日本 J2 65 8 - 2 1 67 9
パラグアイ プリメーラ 36 10 36 10
メキシコ プリメーラA 40 22 40 22
スペイン セグンダ 71 15 3 0 - 74 15
ギリシャ ベータ 24 9 - 24 9
香港 超級 / 甲組 58 30 4 0 7 4 69 34
総通算 450 134 40 5 22 9 512 148

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
CONMEBOLリベルタドーレス杯
2004 (en グアラニー 20 5 1
2005 (en パチューカ 1 0
通算 CONMEBOL 6 1

その他の国際試合

代表歴

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関連情報

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出演

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書籍

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脚注

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注釈
  1. ^ a b c d クラブ名は、2012年から「横浜FC香港」、2014年から「YFCMD」、2015年から「夢想駿其足球會」と変遷。
  2. ^ 2001年序盤に組まれた呂比須・アマラオの2トップが機能せず、2トップを解消したことでチームは調子を取り戻していた。
  3. ^ 福田曰く、南米の選手にとってメキシコは憧れの国で[35]、同国でのプレーは一つのステータス[36]
  4. ^ a b ハケとモレは、現役時代にレアル・バリャドリードのチームメートであり、交流が続いていた[44]
  5. ^ a b いわゆる「秋春制」
  6. ^ 2004-05シーズン、同クラブは1部リーグに所属していたが、この時獲得した韓国人FW李天秀が無得点と期待外れに終わり[39]、クラブは2部へ降格。李と同じアジア人選手である福田に対しても懐疑的な目が向けられた[48]。なお、スペイン2部のクラブが保有できる外国籍枠(EU圏外の選手に当てられる)は僅か2つ[49][50]
  7. ^ 降格した大埔足球会と横浜FC香港との勝ち点差は「1」。福田の得点が無ければ横浜FC香港が降格していた[78]
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  93. ^ “さすらいのgoleador”福田健二、香港での新たな旅路 (2/4) 現代ビジネス (2013年5月15日)
  94. ^ BS日テレ. “BS日テレ- 百年旅行〜Jリーグのある風景 #38「ボクが故郷に帰ってきた理由」愛媛FC 福田健二”. 2014年1月25日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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