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{{スペイン語圏の姓名|メルカード|レアロンダ}} |
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|名前=ホセ・リサール |
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|説明=ホセ・リサール |
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|生年=[[1861年]][[6月19日]] |
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|生地={{flagicon|ESP1785}} [[スペイン領東インド]], {{仮リンク|カランバ (ラグナ州)|label=カランバ|en|Calamba, Laguna}} |
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|没年={{死亡年月日と没年齢|1861|6|19|1896|12|30}} |
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|思想= |
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|活動=フィリピン独立運動 |
|活動=フィリピン独立運動 |
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|組織=[[ラ・リガ・フィリピナ]] |
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[[File:Jose rizal signature.svg|thumb|署名]] |
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'''ホセ・リサール'''(José Rizal,[[1861年]][[6月19日]] - [[1896年]][[12月30日]])は、[[フィリピン]]独立運動の闘士にしてフィリピンの国民的[[英雄]]。[[医師]]、[[著作家]]、[[画家]]でもあった。志半ばにして捕らえられ、[[スペイン]]軍の手で[[銃殺]]されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛され続ける。8人の[[続柄#高祖父|高祖父]]の内、1人は日系フィリピン人とされている{{要出典|date=2010年2月}}。<!-- 日本人の恋人はいたが...。--> |
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'''ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ''' ({{lang-es|Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda}},[[1861年]][[6月19日]] - [[1896年]][[12月30日]])は、[[フィリピン]]の[[革命家]]、[[医師]]、[[著作家]]、[[画家]]、[[学者]]。フィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的[[英雄]]({{lang|es|Héroe Nacional}})」と称される<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:93)]]</ref>。通称は'''ホセ・リサール'''({{lang-es|José Rizal}})。 |
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[[1949年]]から[[1973年]]にかけて1[[フィリピン・ペソ|ペソ]]または2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 少年期 === |
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フルネームはホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。[[1861年]]、[[ラグナ州]]の[[カランバ]]で父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に生まれた。彼の家系は[[メスティーソ]]といわれる[[中国]]とフィリピンの混血の一族であった。メルカード家は中国・[[福建省]]の[[晋江市|晋江]]から[[17世紀]]に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した[[商人]]の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、[[日本]]からの[[移民]]と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している{{要出典|date=2010年2月}}。 |
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[[スペイン領東インド]][[ルソン島]]の{{仮リンク|カランバ (ラグナ州)|label=カランバ|en|Calamba, Laguna}}で父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に、11人兄弟の7人目の子として生まれた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:7-9)]]</ref>。リサールには姉が5人、兄が1人、妹が4人いた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:7)]]</ref>。 |
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彼の家系は[[メスティーソ]]といわれる[[中国人]]とフィリピン人の[[混血]]の一族であった<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:84-85)]]</ref>。父方の家系には、[[殷]]を倒し[[周]]を建国した[[中国人]]である[[武王 (周)|武王]]の弟、[[蔡叔度]]と、マニラで初めて[[スペイン人|スパニアード]]に出会った{{仮リンク|ラカンドゥラ|en|Lakan Dula}}がいて、中国人、マレー人の血が混ざっている。母方は日本人とスペイン人の血が混ざっている<ref name="ホセ・リサール">{{Cite news|author=|date=|title=Chapter X: Jose Rizal Clan of Lakan Dula of Tondo|publisher=The Principalia Hereditary Council of the Philippines|newspaper=|url=https://sites.google.com/site/truelakandula/joserizalclan|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160204052117/https://sites.google.com/site/truelakandula/joserizalclan|archivedate=2016-02-04}}</ref>。 |
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初等教育を終えると[[マニラ]]にあるアテネオ学院(現在の[[アテネオ・デ・マニラ大学]] [[w:Ateneo de Manila University]])に学び、[[1877年]]に学士号を取得した。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、当時のフィリピンの最高学府[[サント・トマス大学]]([[w:University of Santo Tomas]])で[[哲学]]を学んだ。その後、母が失明の危機に陥ると、サント・トマス大学で[[医学]]を学び始めた。しかし同大学を運営する[[ドミニコ会]]員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った{{要出典|date=2010年2月}}。 |
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父方の祖先は中国・[[福建省]]の[[晋江市|晋江]]から[[17世紀]]に渡りフィリピンの先住民女性と結婚したSiong-CoとZun-Nio(Jun-Nio)の息子である[[商人]]の柯仪南(Lam Co)の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。彼はホセリサールの[[高祖父]]にあたる。 |
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柯仪南は[[1697年]]、35歳の時に[[洗礼]]を受けた(洗礼名:Domingo Lam-co)。柯は自分が商人である事を考慮し、[[1731年]][[11月11日]]に自らの姓を柯からメルカード(スペイン語で市場の意味)に変えた。 |
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彼の子、フランシスコ1世(FranciscoⅠ)の孫でホセリサールの父である、農民のフランシスコ2世(Francisco Ⅱ)は[[1859年]]に姓をリサール(Rizal)に変えた(リサールは牧草地という意味)。 |
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リサールの母、テオドラ・アロンソ(Teodora Alonso)は{{仮リンク|ラカンドゥラ|en|Lakan Dula}}の一族出身で、日本人を祖先とするEugenio Ursuaまで遡ることが出来る<ref name="ホセ・リサール"/><ref>{{Cite book|和書|author=Khoon Choy Lee|date=2013-03-26|url=https://www.google.co.jp/books/edition/Golden_Dragon_and_Purple_Phoenix/pGe6CgAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PA110&printsec=frontcover|title=Golden Dragon and Purple Phoenix|series=|publisher={{仮リンク|World Scientific|en|World Scientific}}|isbn=9814383430|page=110}}</ref>。 |
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8歳にして[[タガログ語]]と[[スペイン語]]を身に付け<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:9)]]</ref>、9歳にしてビニヤーン校に入学した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:15)]]</ref>。[[初等教育]]を終えると[[1877年]]に16歳にして[[マニラ]]にあるアテネオ学院(現在の[[アテネオ・デ・マニラ大学]])に入学し、[[農学]]を学んだ<ref name="#1">[[#安井(1994)|安井(1994:18)]]</ref>。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、母が失明の危機に陥ると当時のフィリピンの最高学府[[サント・トマス大学]]で[[医学]]を学んだ<ref name="#1"/>。在学中の1879年にスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得し、[[1881年]]9月にスペイン政府から「土地査定技師」の免許を授与されている<ref name="#2">[[#安井(1994)|安井(1994:18-19)]]</ref>。 |
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リサールは父の反対を押し切って[[宗主国]]であるスペインの[[マドリッド]]に留学した。[[マドリード・コンプルテンセ大学]]で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらに[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]と[[パリ大学]]で医学の研鑽を積んだ。ちなみにリサールは語学の天才であり、[[アラビア語]]、[[スペイン語]]、[[中国語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[マレー語]]、[[ポルトガル語]]、[[ロシア語]]、[[タガログ語]]やフィリピンの諸言語を自在に操り、[[ギリシャ語]]、[[ラテン語]]、[[ヘブライ語]]、[[日本語]]、[[サンスクリット語]]を理解したといわれている{{要出典|date=2010年2月}}。 |
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リサールは父の反対を押し切って[[宗主国]]であるスペインの[[マドリード・コンプルテンセ大学|マドリード大学]]に留学した。 |
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ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』]と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』[スペイン語で『反逆者』]という2つの著作で有名である。両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ[[植民地]]フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。 |
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=== 最初の海外留学 === |
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リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。[[バルセロナ]]でスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織して[[プロパガンダ]]運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)』[スペイン語で『連帯』]を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。 |
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リサールは[[1881年]]にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌[[1882年]]にサント・トマス大学[[医学部]]を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:20-21)]]</ref>。1882年[[6月13日]]に[[マルセイユ]]に、6月15日に[[バルセロナ]]に到着した後、最終目的地であった[[スペイン]]の首都[[マドリード]]に到着し、同年10月に[[マドリード・コンプルテンセ大学|国立マドリード大学]]の医学部と[[人文学部|哲文学部]]の両学部に入学した<ref name="#2"/>。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までに[[スペイン語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[ポルトガル語]]、[[カタルーニャ語]]、[[中国語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[オランダ語]]、[[スウェーデン語]]、[[ロシア語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]、[[ヘブライ語]]、[[サンスクリット語]]などの諸言語を習得し<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:24)]]</ref>、[[中国語]]、[[日本語]]、[[タガログ語]]、[[ビサヤ語]]、[[イロカノ語]]を研究していた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:26)]]</ref>。大学時代の同級生には後に哲学者として著名になる[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]がおり、リサールと同じ学級でギリシャ語を学んでいる<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:26-27)]]</ref>。[[1885年]]6月にマドリード大学の哲文学博士と医学士の学位を取得したが、金銭事情により医学博士号は取得できなかった<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:28)]]</ref>。マドリード大学を出た後、1885年7月から[[1886年]]1月まで[[パリ大学]]でフランス語と[[眼科学]]を学び、この時に[[フランス革命]]の「[[人権宣言]]」をタガログ語に翻訳している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:28-29)]]</ref>。1886年2月から[[1887年]]5月までドイツ帝国の[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[ライプツィヒ大学]]、[[ベルリン大学]]で引き続き医学と、加えて[[社会学]]を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:29-34)]]</ref>。ドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで[[小説]]『{{仮リンク|ノリ・メ・タンヘレ|en|Noli Me Tángere (novel)}}』({{lang|es|''Noli Me Tángere''}}, [[ノリ・メ・タンゲレ|ラテン語で『我に触れるな』の意]])を出版した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:34)]]</ref>。1887年7月3日に26歳にしてヨーロッパを離れ、同年[[8月5日]]にフィリピンに戻った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:38-39)]]</ref>。 |
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フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバで医者として従事していたが、間もなく同年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:40-41)]]</ref>。 |
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*フィリピンはスペインの一地域であること。 |
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*スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと。 |
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*スペイン人の[[聖アウグスチノ修道会]]員、ドミニコ会員、[[フランシスコ会]]員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。 |
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*言論の自由が認められるべきこと。 |
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*フィリピン人に法律的平等が与えられること。 |
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=== 二度目の海外留学 === |
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もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。[[1892年]]、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。容疑は「[[ラ・リガ・フィリピナ]](La Liga Filipina, フィリピン連盟)」という組織による破壊工作。[[ミンダナオ島]]の[[ダピタン]]([[w:Dapitan|Dapitan]]、現在の[[サンボアンガ・デル・ノルテ州]]にある)へ追放されたリサールは同地で[[病院]]と[[学校]]を作って住民の啓蒙に努めた。 |
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==== 日本滞在 ==== |
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二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、[[日本]]と[[アメリカ合衆国]]を経由して向かった。[[1888年]][[2月28日]]にリサールは[[横浜市|横浜]]に到着し、[[駐日スペイン大使館|駐日スペイン公使館]]邸や[[日比谷]]の[[東京ホテル]]に宿泊し、2か月間滞在した<ref>[http://www.fukushishimbun.co.jp/topics/2974 日比谷公園 ホセ・リサール]福祉新聞、2014年02月17日</ref>。本来は経由地として、船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定だったが、スペイン公使館に滞在中、近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと[[臼井勢似子]](1866-1947<ref>[[松本三之介]]『日本の百年(3) 強国をめざして 1889-1900』(筑摩書房, 1967), p207</ref>)に声をかけたことにより親しくなった。英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは、二人で[[歌舞伎]]を見物に行ったり[[日光市|日光]]や[[箱根]]に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びつつ、滞在は延びて二か月近くに及んだ。リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったため、その存在は知られることは無かったが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見された。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」<ref>日本は私を魅了してしまった。美しい風景と花と樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさん さようなら さようなら 思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活を送る道が示されているのに。私の青春の思い出の最後の一章をあなたにささげます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。さようなら さようなら。</ref>と記されていた。 |
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勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る文物もほとんどない。後述されるリサールの死は日本でも多く報道された。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性[[アルフレッド・チャールトン]]([[学習院大学]]講師)と結婚、1947年(昭和22年)に80歳で亡くなった。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日に[[駐日フィリピン大使館|フィリピン大使館]]により花が供えられている。 |
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==== 訪欧 ==== |
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[[1896年]]、[[秘密結社]][[カティプナン]]が独立闘争([[フィリピン独立革命#1896年革命|1896年革命]])を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、マニラに送致され[[裁判]]にかけられ、暴動の扇動容疑で[[銃殺刑]]が宣告された。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、[[キューバ]]で医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ{{要出典|date=2010年2月}}。<!-- たしか、自ら死を選ぶため留まったのではなく、海外出発前に捕われたのでは? --> |
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1888年[[4月13日]]にリサールは[[サンフランシスコ]]行きの船に乗り込み、船中で後に[[衆議院]]議員となる[[自由民権]]運動の壮士、[[末広鉄腸]]と懇意になった<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:48-51)]]</ref>。英語が話せなかった鉄腸は「親切なフィリピン人青年が船で助けてくれた」と書き残しており、リサールは前述の僅かな滞在中に、多少なりとも通訳ができるようになっていたようである。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、[[5月16日]]に[[リサール]]と共にイギリスの[[リバプール]]に到着した後、ロンドンにて別れている<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:51-53)]]</ref>。ロンドン到着後のリサールは[[大英博物館]]をはじめとする、イギリス、[[ベルギー]]、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:53-57)]]</ref>。[[1889年]]、[[ロンドン]]で日本の[[民話]]「[[さるかに合戦]]」とフィリピンの民話「[[さるかめ合戦 (フィリピン) |さるかめ合戦]]」を比較した論考を著している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:41-48)]]</ref>。 |
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同年[[2月15日]]には[[ロペス・ハエナ]]や[[マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール|デル・ピラール]]らマドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語[[新聞]]『ラ・ソリダリダッド』(スペイン語で「団結」の意)の創刊に加わり、「[[プロパガンダ運動]]」を行っている<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:91-92)]]</ref>。[[1891年]][[9月18日]]にベルギーの[[ヘント]]で二作目の小説『エル・フィリブステリスモ』を出版した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:57-58)]]</ref>。 |
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処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの[[辞世]]の詩は、後に「ミ・ウルティモ・アディオス(''Mi Ultimo Adios'',『我が最後の別れ』)」と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年[[12月30日]]、マニラで銃殺された。 |
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=== 帰国 === |
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リサールが処刑された[[マニラ湾]]を見渡す地は現在、[[リサール公園]]([[w:Rizal Park]]、別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。また、リサールは[[1888年]]に来日しており、1ヶ月ほど[[東京都]](当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の[[日比谷公園]]にはホセ・リサール記念像が設置されている。 |
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『エル・フィリブステリスモ』の出版後、リサールは1891年[[10月18日]]にマルセイユを発ち、フィリピンに帰国しようとしたが、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したために帰国がかなわず、11月19日に[[香港]]に到着した後、当地で眼科医を開業した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:59)]]</ref>。しかしながら望郷の念は已まず、翌1892年6月15日にフィリピンに帰国した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:61-62)]]</ref>。帰国後、リサールは「[[ラ・リガ・フィリピナ]](フィリピン同盟)」を組織すべく活動した<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:100)]]</ref>。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な[[革命]]を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:100-101)]]</ref>、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年[[7月7日]]に[[ミンダナオ島]]の[[ダピタン]]へ流刑された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:62)]]</ref>。ダピタンでのリサールは医者、及び教師として住民に接し、また、ヨーロッパの学者からの依頼に応じて[[ミンダナオ島]]の地質、[[昆虫]]、[[動物]]についての研究を残している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:63-66)]]</ref>。この頃までにリサールは20数言語を習得していた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:67)]]</ref>。 |
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=== 最期 === |
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[[ファイル:Rizal execution.jpg|サムネイル|350x350ピクセル|リサールの処刑の様子を撮影した写真]] |
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[[1896年]]7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた[[軍医]]志望の旨が総督の[[ラモン・ブランコ]]に許可されたため、リサールは[[スペイン海軍]]の[[巡洋艦]]「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領[[キューバ]]へと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:68-69)]]</ref>。しかし、船が[[地中海]]に入ったところで[[秘密結社]][[カティプナン]]が独立闘争([[フィリピン独立革命#1896年革命|1896年革命]])を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:70)]]</ref>。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、[[軍法会議]]にかけられ、同年[[12月26日]]に[[銃殺刑]]が宣告された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:71)]]</ref>。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの[[辞世]]の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(''Mi Ultimo Adios'',『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年[[12月30日]]、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:84-86)]]</ref>。 |
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== 評価 == |
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[[File:Bust of Dr. Jose Rizal.jpg|thumb|日比谷公園のホセ・リサール像]] |
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リサールの処刑は反響を招いた。リサール処刑の翌々年に成立した[[フィリピン第一共和国]]大統領の[[エミリオ・アギナルド]]はリサールが処刑された12月30日を「[[リサール記念日]]」に指定し、祭日とした<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:88)]]</ref>。このようにリサールはフィリピンで高く評価されている他、[[インドネシア]]初代大統領の[[スカルノ]]も[[オランダ人]]が[[インドネシア語]]に訳したリサールの著作を通して影響を受けた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:110-111)]]</ref>。リサール初の伝記はスペイン人でありながらも、リサール心酔者となった[[ウエンセスラオ・レタナ]]によって[[1900年]]にマドリードで出版された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:141-142)]]</ref>。 |
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また、[[1888年]]の4月から5月にかけてのリサールのイギリス行に同行した[[自由民権運動]]の壮士、[[末広鉄腸]]は[[1891年]]にリサールをモデルにした主人公が日本人志士の助けを得てスペインからのフィリピン独立運動を戦う[[政治小説]]、『[[南洋之大波瀾]]』を著している<ref>[[#池端(2001)|池端(2001:211-213)]]</ref>。 |
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現在、リサールは『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』という2つの小説で有名である。フィリピン最初期の[[近代小説]]である両作は共に[[スペイン語]]で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ[[植民地]]フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。 カトリック教会はスペイン植民地統治に対する批判者としてのリサールを称賛しつつも、その主要著作2冊については反修道会的であり、処刑直前にリサールがこれらの著作の内容を撤回したと主張して、公立学校での教育に導入することに反対している<ref>{{Cite journal|和書|author=宮脇聡史 |title=フィリピン・カトリック教会の公文書に見られるフィリピン史解釈 |journal=東洋文化研究所紀要 |ISSN=05638089 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |year=2010 |month=mar |volume=157 |pages=154-122 |naid=120002037115 |doi=10.15083/00026915 |url=https://doi.org/10.15083/00026915}}</ref>。 |
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リサールが処刑された[[マニラ湾]]を見渡す地は現在、[[リサール公園]](別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑がある。公園の北方にある[[パシッグ川]]沿いのサンチャゴ要塞内には、リサールにゆかりのある品々が展示されたリサール記念館がある<ref>[https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/republic_of_the_philippines/MNL/106709/index.html サンチャゴ要塞 (Fort Santiago)]JTB</ref>。 |
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また、リサールは[[1888年]]に来日しており、1ヶ月ほど[[東京都]](当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の[[日比谷公園]]にはホセ・リサール記念像が設置されている。 |
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[[1949年]]から[[1973年]]にかけて1[[フィリピン・ペソ|ペソ]]または2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。[[リサール州]]はじめ、リサールから名をとった地名が各地にある。 |
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[[2020年]]に[[フィリピン軍|フィリピン海軍]]で運用される予定の[[ホセ・リサール級フリゲート|新型フリゲート]]の一番艦に[[ホセ・リサール (フリゲート)|ホセ・リサール]]の名が付けられた。 |
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== 著作 == |
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*『ノリ・メ・タンヘレ |
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*『エル・フィリブステリスモ |
* 『{{仮リンク|エル・フィリブステリスモ|en|El filibusterismo}}』 |
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* 『ミ・ウルティモ・アディオス』 |
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* 『見果てぬ祖国』[[村上政彦]]訳、潮出版社 2003 -(訳者がリサールの主著2作を合体し翻案したもの) |
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== ホセ・リサール |
== ホセ・リサール関連の二次作品 == |
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=== 映画 === |
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*映画『ホセ・リサール』 ([[1998年]]、フィリピン、監督マリルー・ディアス・アバヤ、主演セサール・モンターノ) |
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*『[[ホセ・リサール (映画)|ホセ・リサール]]』 - 1998年、フィリピン、[[マリルー・ディアス・アバヤ]]監督、[[セサール・モンターノ]]主演 |
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=== 能 === |
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*戯曲『シーサの旅路―ラグーナにおける能』-『ノリ・メ・タンヘレ』に登場するシーサの物語をもとにした戯曲<ref>[https://www.ritsumei.ac.jp/~hidedoi/noh05_umali.pdf 異文化環境での能制作 Amelia Lapena-Bonifacio作・戯曲『シーサの旅路―ラグーナにおける能』をめぐって―〈見え掛かり〉と〈見え隠れ〉の概念]アンパロ・アデリナ・ウマリ、立命館大学、2013</ref> |
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== 脚註 == |
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=== 註釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite journal|和書|author=[[池端雪浦]] |title=明治期日本におけるフィリピンへの関心 |journal=アジア・アフリカ言語文化研究 |ISSN=03872807 |publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |date=2001年3月 |issue=61 |pages=203-230 |naid=120000997418 |url=https://hdl.handle.net/10108/21878 |ref=池端(2001)}} |
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* {{Cite book|和書|author=鈴木静夫|authorlink=鈴木静夫 (フィリピン政治史学者) |translator= |editor= |others= |chapter= |title=物語 フィリピンの歴史――「盗まれた楽園」と抵抗の500年 |series=[[中公新書]]1367 |edition=初版 |date=1997年6月25日 |publisher=[[中央公論社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-12-101367-0 |volume= |page= |pages= |url= |ref=鈴木(1997)}} |
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* {{Cite book|和書|author=安井祐一|authorlink=安井祐一 |title=ホセ・リサールの生涯 : フィリピンの近代と文学の先覚者 |publisher=[[芸林書房]] |year=1994 |edition=第3版 |ncid=BN08258100 |isbn=4768156088 |location=東京 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002251528-00 |ref=安井(1994)}} |
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== 関連項目 == |
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*[[フィリピンの歴史]] |
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*[[フィリピン独立革命]] |
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*[[アンドレス・ボニファシオ]] |
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*[[エミリオ・アギナルド]] |
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* [[カティプナン]] |
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* [[ホセ・リサール級フリゲート]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://joserizal.info/ The Life and Writings of Jose Rizal]. Accessed 10 January 2007. |
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* {{gutenberg author| id=Rizal+José | name=José Rizal}} Accessed 10 January 2007 |
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* [http://www.joserizal.ph/ Jose Rizal Website] Accessed 10 January 2007. |
* [http://www.joserizal.ph/ Jose Rizal Website] Accessed 10 January 2007. |
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* [http://www.univie.ac.at/Voelkerkunde/apsis/aufi/rizal/har-ody.htm Rizal's Little Odyssey]. Accessed 10 January 2007. |
* [http://www.univie.ac.at/Voelkerkunde/apsis/aufi/rizal/har-ody.htm Rizal's Little Odyssey]. Accessed 10 January 2007. |
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* [http://www.lewrockwell.com/orig/witmer1.html 22 languages at 3rd paragraph reference 3] |
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* [http://srjarchives.tripod.com/1998-10/PEARSON.HTM Review of Dimasalang: The Masonic Life Of Dr. Jose P. Rizal]. Accessed 10 January 2007. |
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* [http://www.newleftreview.net/GetArticle.asp?Issue=27&Article=5&ArticleId=2510 Benedict Anderson] Accessed 10 January 2007. |
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* [http://rizal.site.voila.fr Jose Rizal, a revolutionary friend of Don Quixote (French)] Accessed 10 January 2007. |
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* [http://www.nodulo.org/ec/2003/n012p06.htm Comparison between Jose Rizal and Jose Marti (Spanish)] Accessed 10 January 2007. |
* [http://www.nodulo.org/ec/2003/n012p06.htm Comparison between Jose Rizal and Jose Marti (Spanish)] Accessed 10 January 2007. |
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* [http://elibro.tripod.com/ Caiñgat Cayo! original image scans of the pamphlet written in 1889]. |
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* [http://www.jose-rizal.eu/held2e.html Why is Rizal the greatest Filipino hero?]. Accessed 10 January 2007. |
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ホセ・リサール | |
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ホセ・リサール | |
生年 | 1861年6月19日 |
生地 | スペイン領東インド, カランバ |
没年 | 1896年12月30日(35歳没) |
没地 | スペイン領東インド, マニラ |
活動 | フィリピン独立運動 |
所属 | ラ・リガ・フィリピナ |
ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ (スペイン語: Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda,1861年6月19日 - 1896年12月30日)は、フィリピンの革命家、医師、著作家、画家、学者。フィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的英雄(Héroe Nacional)」と称される[1]。通称はホセ・リサール(スペイン語: José Rizal)。
生涯
[編集]少年期
[編集]スペイン領東インドルソン島のカランバで父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に、11人兄弟の7人目の子として生まれた[2]。リサールには姉が5人、兄が1人、妹が4人いた[3]。
彼の家系はメスティーソといわれる中国人とフィリピン人の混血の一族であった[4]。父方の家系には、殷を倒し周を建国した中国人である武王の弟、蔡叔度と、マニラで初めてスパニアードに出会ったラカンドゥラがいて、中国人、マレー人の血が混ざっている。母方は日本人とスペイン人の血が混ざっている[5]。 父方の祖先は中国・福建省の晋江から17世紀に渡りフィリピンの先住民女性と結婚したSiong-CoとZun-Nio(Jun-Nio)の息子である商人の柯仪南(Lam Co)の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。彼はホセリサールの高祖父にあたる。 柯仪南は1697年、35歳の時に洗礼を受けた(洗礼名:Domingo Lam-co)。柯は自分が商人である事を考慮し、1731年11月11日に自らの姓を柯からメルカード(スペイン語で市場の意味)に変えた。 彼の子、フランシスコ1世(FranciscoⅠ)の孫でホセリサールの父である、農民のフランシスコ2世(Francisco Ⅱ)は1859年に姓をリサール(Rizal)に変えた(リサールは牧草地という意味)。 リサールの母、テオドラ・アロンソ(Teodora Alonso)はラカンドゥラの一族出身で、日本人を祖先とするEugenio Ursuaまで遡ることが出来る[5][6]。
8歳にしてタガログ語とスペイン語を身に付け[7]、9歳にしてビニヤーン校に入学した[8]。初等教育を終えると1877年に16歳にしてマニラにあるアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学)に入学し、農学を学んだ[9]。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、母が失明の危機に陥ると当時のフィリピンの最高学府サント・トマス大学で医学を学んだ[9]。在学中の1879年にスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得し、1881年9月にスペイン政府から「土地査定技師」の免許を授与されている[10]。
リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリード大学に留学した。
最初の海外留学
[編集]リサールは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った[11]。1882年6月13日にマルセイユに、6月15日にバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着し、同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した[10]。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語などの諸言語を習得し[12]、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語を研究していた[13]。大学時代の同級生には後に哲学者として著名になるミゲル・デ・ウナムーノがおり、リサールと同じ学級でギリシャ語を学んでいる[14]。1885年6月にマドリード大学の哲文学博士と医学士の学位を取得したが、金銭事情により医学博士号は取得できなかった[15]。マドリード大学を出た後、1885年7月から1886年1月までパリ大学でフランス語と眼科学を学び、この時にフランス革命の「人権宣言」をタガログ語に翻訳している[16]。1886年2月から1887年5月までドイツ帝国のハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で引き続き医学と、加えて社会学を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している[17]。ドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ』(Noli Me Tángere, ラテン語で『我に触れるな』の意)を出版した[18]。1887年7月3日に26歳にしてヨーロッパを離れ、同年8月5日にフィリピンに戻った[19]。
フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバで医者として従事していたが、間もなく同年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った[20]。
二度目の海外留学
[編集]日本滞在
[編集]二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、日本とアメリカ合衆国を経由して向かった。1888年2月28日にリサールは横浜に到着し、駐日スペイン公使館邸や日比谷の東京ホテルに宿泊し、2か月間滞在した[21]。本来は経由地として、船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定だったが、スペイン公使館に滞在中、近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと臼井勢似子(1866-1947[22])に声をかけたことにより親しくなった。英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは、二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びつつ、滞在は延びて二か月近くに及んだ。リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったため、その存在は知られることは無かったが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見された。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」[23]と記されていた。 勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る文物もほとんどない。後述されるリサールの死は日本でも多く報道された。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚、1947年(昭和22年)に80歳で亡くなった。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられている。
訪欧
[編集]1888年4月13日にリサールはサンフランシスコ行きの船に乗り込み、船中で後に衆議院議員となる自由民権運動の壮士、末広鉄腸と懇意になった[24]。英語が話せなかった鉄腸は「親切なフィリピン人青年が船で助けてくれた」と書き残しており、リサールは前述の僅かな滞在中に、多少なりとも通訳ができるようになっていたようである。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、5月16日にリサールと共にイギリスのリバプールに到着した後、ロンドンにて別れている[25]。ロンドン到着後のリサールは大英博物館をはじめとする、イギリス、ベルギー、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した[26]。1889年、ロンドンで日本の民話「さるかに合戦」とフィリピンの民話「さるかめ合戦」を比較した論考を著している[27]。
同年2月15日にはロペス・ハエナやデル・ピラールらマドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語新聞『ラ・ソリダリダッド』(スペイン語で「団結」の意)の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」を行っている[28]。1891年9月18日にベルギーのヘントで二作目の小説『エル・フィリブステリスモ』を出版した[29]。
帰国
[編集]『エル・フィリブステリスモ』の出版後、リサールは1891年10月18日にマルセイユを発ち、フィリピンに帰国しようとしたが、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したために帰国がかなわず、11月19日に香港に到着した後、当地で眼科医を開業した[30]。しかしながら望郷の念は已まず、翌1892年6月15日にフィリピンに帰国した[31]。帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を組織すべく活動した[32]。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが[33]、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年7月7日にミンダナオ島のダピタンへ流刑された[34]。ダピタンでのリサールは医者、及び教師として住民に接し、また、ヨーロッパの学者からの依頼に応じてミンダナオ島の地質、昆虫、動物についての研究を残している[35]。この頃までにリサールは20数言語を習得していた[36]。
最期
[編集]1896年7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた軍医志望の旨が総督のラモン・ブランコに許可されたため、リサールはスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領キューバへと旅立った[37]。しかし、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された[38]。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月26日に銃殺刑が宣告された[39]。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された[40]。
評価
[編集]リサールの処刑は反響を招いた。リサール処刑の翌々年に成立したフィリピン第一共和国大統領のエミリオ・アギナルドはリサールが処刑された12月30日を「リサール記念日」に指定し、祭日とした[41]。このようにリサールはフィリピンで高く評価されている他、インドネシア初代大統領のスカルノもオランダ人がインドネシア語に訳したリサールの著作を通して影響を受けた[42]。リサール初の伝記はスペイン人でありながらも、リサール心酔者となったウエンセスラオ・レタナによって1900年にマドリードで出版された[43]。
また、1888年の4月から5月にかけてのリサールのイギリス行に同行した自由民権運動の壮士、末広鉄腸は1891年にリサールをモデルにした主人公が日本人志士の助けを得てスペインからのフィリピン独立運動を戦う政治小説、『南洋之大波瀾』を著している[44]。
現在、リサールは『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』という2つの小説で有名である。フィリピン最初期の近代小説である両作は共にスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。 カトリック教会はスペイン植民地統治に対する批判者としてのリサールを称賛しつつも、その主要著作2冊については反修道会的であり、処刑直前にリサールがこれらの著作の内容を撤回したと主張して、公立学校での教育に導入することに反対している[45]。
リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地は現在、リサール公園(別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑がある。公園の北方にあるパシッグ川沿いのサンチャゴ要塞内には、リサールにゆかりのある品々が展示されたリサール記念館がある[46]。
また、リサールは1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。
1949年から1973年にかけて1ペソまたは2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。リサール州はじめ、リサールから名をとった地名が各地にある。
2020年にフィリピン海軍で運用される予定の新型フリゲートの一番艦にホセ・リサールの名が付けられた。
著作
[編集]- 『ノリ・メ・タンヘレ』
- 『エル・フィリブステリスモ』
- 『ミ・ウルティモ・アディオス』
- 『見果てぬ祖国』村上政彦訳、潮出版社 2003 -(訳者がリサールの主著2作を合体し翻案したもの)
ホセ・リサール関連の二次作品
[編集]映画
[編集]- 『ホセ・リサール』 - 1998年、フィリピン、マリルー・ディアス・アバヤ監督、セサール・モンターノ主演
能
[編集]- 戯曲『シーサの旅路―ラグーナにおける能』-『ノリ・メ・タンヘレ』に登場するシーサの物語をもとにした戯曲[47]
脚註
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ 安井(1994:93)
- ^ 安井(1994:7-9)
- ^ 安井(1994:7)
- ^ 鈴木(1997:84-85)
- ^ a b “Chapter X: Jose Rizal Clan of Lakan Dula of Tondo”. The Principalia Hereditary Council of the Philippines. オリジナルの2016年2月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ Khoon Choy Lee『Golden Dragon and Purple Phoenix』World Scientific、2013年3月26日、110頁。ISBN 9814383430 。
- ^ 安井(1994:9)
- ^ 安井(1994:15)
- ^ a b 安井(1994:18)
- ^ a b 安井(1994:18-19)
- ^ 安井(1994:20-21)
- ^ 安井(1994:24)
- ^ 安井(1994:26)
- ^ 安井(1994:26-27)
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- ^ 安井(1994:34)
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- ^ 日比谷公園 ホセ・リサール福祉新聞、2014年02月17日
- ^ 松本三之介『日本の百年(3) 強国をめざして 1889-1900』(筑摩書房, 1967), p207
- ^ 日本は私を魅了してしまった。美しい風景と花と樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさん さようなら さようなら 思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活を送る道が示されているのに。私の青春の思い出の最後の一章をあなたにささげます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。さようなら さようなら。
- ^ 安井(1994:48-51)
- ^ 安井(1994:51-53)
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- ^ 安井(1994:41-48)
- ^ 鈴木(1997:91-92)
- ^ 安井(1994:57-58)
- ^ 安井(1994:59)
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- ^ 安井(1994:70)
- ^ 安井(1994:71)
- ^ 安井(1994:84-86)
- ^ 安井(1994:88)
- ^ 安井(1994:110-111)
- ^ 安井(1994:141-142)
- ^ 池端(2001:211-213)
- ^ 宮脇聡史「フィリピン・カトリック教会の公文書に見られるフィリピン史解釈」『東洋文化研究所紀要』第157巻、東京大学東洋文化研究所、2010年3月、154-122頁、doi:10.15083/00026915、ISSN 05638089、NAID 120002037115。
- ^ サンチャゴ要塞 (Fort Santiago)JTB
- ^ 異文化環境での能制作 Amelia Lapena-Bonifacio作・戯曲『シーサの旅路―ラグーナにおける能』をめぐって―〈見え掛かり〉と〈見え隠れ〉の概念アンパロ・アデリナ・ウマリ、立命館大学、2013
参考文献
[編集]- 池端雪浦「明治期日本におけるフィリピンへの関心」『アジア・アフリカ言語文化研究』第61号、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2001年3月、203-230頁、ISSN 03872807、NAID 120000997418。
- 鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史――「盗まれた楽園」と抵抗の500年』(初版)中央公論社、東京〈中公新書1367〉、1997年6月25日。ISBN 4-12-101367-0。
- 安井祐一『ホセ・リサールの生涯 : フィリピンの近代と文学の先覚者』(第3版)芸林書房、東京、1994年。ISBN 4768156088。 NCID BN08258100 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- José Rizalの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク Accessed 10 January 2007
- Jose Rizal Website Accessed 10 January 2007.
- Rizal's Little Odyssey. Accessed 10 January 2007.
- Review of Dimasalang: The Masonic Life Of Dr. Jose P. Rizal. Accessed 10 January 2007.
- Comparison between Jose Rizal and Jose Marti (Spanish) Accessed 10 January 2007.
- Caiñgat Cayo! original image scans of the pamphlet written in 1889.
- 木村毅「ホセ・リサールと日本文学 (松蔭女子学院大学開学記念特集)」『研究紀要』第8巻、松蔭女子学院大学、1966年12月、1-25頁、NAID 110000230068。