「谷八郎」の版間の差分
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|説 = 騎手時代(1956年ごろ) |
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|名 = 谷八郎 |
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|出 = [[京都府]][[京都市]]<br />出生は[[神奈川県]][[中郡]][[二宮町]] |
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|体 = 50kg(〃) |
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|所 = 京都競馬場(1959年-1971年)<br />[[栗東トレーニングセンター|栗東T.C.]] (1971年-1998年) |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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1922年、神奈川県[[中郡]][[二宮町]]に生まれる。生家は[[馬車]]運送業を営みながら、馬主として競走馬も所有しており、幼いころから馬に親しんだ。小学校卒業後、[[羽田競馬場]]少年騎手養成所に第1期生として入所。 |
1922年、神奈川県[[中郡]][[二宮町]]に生まれる<ref name="yushun198606">『優駿』1986年6月号、pp.134-137</ref>。生家は[[馬車]]運送業を営みながら、馬主として競走馬も所有しており、幼いころから馬に親しんだ<ref name="yushun198606" />。小学校卒業後、[[地方競馬]]の[[羽田競馬場]]少年騎手養成所に第1期生として入所、のちに騎手として羽田や[[八王子競馬場|八王子]]で騎乗した<ref name="ashi">芦谷(1999)pp.38-40</ref>。その後、[[日中戦争]]の激化と共に地方競馬が休止されていき、全国組織である[[日本競馬会]]に移る<ref name="ashi" />。当初は馬主に[[京都競馬場]]の谷栄次郎を紹介されたが、当時の谷厩舎には[[繋駕速歩競走]]用の馬しかおらず、騎手免許交付の要件を満たしていなかったため、[[東京競馬場]]の[[川崎敬次郎]][[厩舎]]に入門した<ref name="yushun198606" />。1942年に同会で騎手免許を取得。しかし前年末に勃発した[[太平洋戦争]]の戦況悪化により[[徴兵]]を受け、終戦まで陸軍近衛師団で過ごした<ref name="yushun198606" />。 |
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[[復員]]後、 |
[[復員]]後、兵役前よりの約定に従って京都に移り、一般競走馬を入れていた谷厩舎に所属<ref name="ashi" />。翌1946年、栄次郎の姪と結婚、[[婿養子]]となり、谷八郎と改姓した<ref name="yushun198606" />。以後は騎手として活動したが、大柄で年を重ねるごとに体重が増加していったため、騎手生活の後半は主に[[繋駕速歩競走]]に騎乗していた<ref name="yushun198606" />。騎手成績は通算1264戦98勝<ref>井上(1964)o.230</ref>。騎手として大競走を勝つことはなかったが、[[1955年]][[10月22日]]に行われた[[阪神競馬場|阪神]]第6競走においてタチバナヒメに騎乗した際、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]][[オッズ]]558.7倍という最低[[人気]]ながら勝利し、中央競馬における単勝配当の史上最高記録を樹立している。この記録は2014年4月26日に更新<ref>[[日本中央競馬会]]ホームページ「払戻金ランキング」より</ref>されるまで58年半にわたり保持された。 |
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1959年調教師に転 |
1959年より調教師に転じ、京都競馬場に厩舎を開業。翌1960年春にキンシオーで[[タマツバキ記念]]を制し、[[重賞|重賞競走]]を初制覇。以後散発的に重賞に勝利していたが、1971年、「雑種血統」とも呼ばれた安馬の[[ヒカルイマイ]]で[[皐月賞]]と[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]に優勝し、[[八大競走]]制覇を果たした。同馬の主戦騎手は弟子の田島良保が務め、田島は史上2番目に若い[[ダービージョッキー]]となっている。ヒカルイマイは史上3頭目の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]が懸かった[[菊花賞]]を前に[[屈腱炎]]を発症し、三冠に挑むことなく引退した。また、同馬は後に谷の計らいにより余生を[[鹿児島県]]の牧場で送ったが<ref name="ashi" />、谷の顧客には九州出身の馬主が多く、一時は管理馬の半数以上が[[九州産馬]]で占められるなど「九州産馬の谷」としても知られた。ただしこれは九州産馬を誰も預かりたがらなかったからであるといい、谷自身はこの呼び名を好まなかった<ref>『調教師の本VI』p.155</ref>。 |
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ヒカルイマイ以後、引退までの重賞勝利は2勝と華々しいものではなかったが、人材の面では田島に加え、通算1000勝を達成し「天才」とも称された[[田原成貴]]らを育成した。最後の弟子である[[幸英明]]も1000勝を達成している。若い田島を一貫してヒカルイマイに乗せ続けたことに例示されるように、谷は弟子に早くから責任を持たせ、その上で各自の自主性を重んじた<ref>『調教師の本VI』p.149</ref>。 |
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1998年2月28日をもって[[定年]]引退。調教師通算成績は7615戦657勝(うち中央7580戦652勝)であった。 |
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== 通算成績 == |
== 通算成績 == |
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=== 騎手時代 === |
=== 騎手時代 === |
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{| class="wikitable" |
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*487戦30勝(1954年以降) |
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!区分!!1着!!2着!!3着!!騎乗数!!勝率!![[連対率]] |
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|平地||57||89||92||775||.073||.188 |
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|障害||13||18||17||98||.132||.316 |
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|速歩||28||34||39||391||.071||.158 |
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|計||98||141||148||1264||.077||.189 |
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=== 調教師時代 === |
=== 調教師時代 === |
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|style="text-align: right;"|.183 |
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※上記のほか地方競馬で35戦5勝。 |
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*初出走:1959年3月7日 1回阪神1日目第3競走 トシオー(3着) |
*初出走:1959年3月7日 1回阪神1日目第3競走 トシオー(3着) |
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*初勝利:1959年4月4日 2回京都1日目第2競走 ヨシヒカリ(延8頭目) |
*初勝利:1959年4月4日 2回京都1日目第2競走 ヨシヒカリ(延8頭目) |
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==== 主な管理馬 ==== |
==== 主な管理馬 ==== |
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※括弧内は谷管理下の優勝重賞競走。'''太字'''は八大競走。 |
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*キンシオー(1960年タマツバキ記念・春、タマツバキ記念・秋) |
*キンシオー(1960年タマツバキ記念・春、タマツバキ記念・秋) |
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*クリバック(1967年[[小倉大賞典]]、[[金鯱賞]]) |
*クリバック(1967年[[小倉大賞典]]、[[金鯱賞]]) |
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* 梅田康雄(1975年-1977年 騎手) |
* 梅田康雄(1975年-1977年 騎手) |
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* '''[[田原成貴]]'''(1978年-1989年 騎手) |
* '''[[田原成貴]]'''(1978年-1989年 騎手) |
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* '''谷潔'''(1979年-1994年 厩務員、調教助手) |
* '''[[谷潔]]'''(1979年-1994年 厩務員、調教助手) |
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* '''横山雄一'''(1986年-1999年 騎手) |
* '''横山雄一'''(1986年-1999年 騎手) |
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* '''山本康二'''(1988年-1994年 騎手) |
* '''山本康二'''(1988年-1994年 騎手) |
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* '''[[幸英明]]'''(1994年-? 騎手) |
* '''[[幸英明]]'''(1994年-? 騎手) |
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== 記録 == |
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[[1955年]][[10月22日]]に行われた[[阪神競馬場|阪神]]第6レースに騎乗。8頭立ての[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]8番[[人気]]ながらレースを制した。騎乗した[[タチバナヒメ]]の単勝[[オッズ]]は558.7倍で、単勝配当の歴代1位となる。この配当記録はレースから57年半が経過した現在も未だに破られていない<ref>[[日本中央競馬会]]ホームページより</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*井上康文『新版 調教師・騎手名鑑1964年版』(大日本競馬図書刊行会、1964年) |
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*[[中央競馬ピーアール・センター]]編『調教師の本VI』(中央競馬ピーアール・センター、1998年) |
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*[[芦谷有香]]『栗東厩舎探訪記(1)』(翔雲社、1999年)ISBN 978-4921140021 |
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*『[[優駿]]』1986年6月号(日本中央競馬会) |
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**今井昭雄「二冠馬と二人の名手の育ての親 - 谷八郎調教師」 |
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[[Category:京都府出身の人物]] |
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[[Category:1922年生]] |
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[[Category:存命人物]] |
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2014年10月27日 (月) 13:34時点における版
谷八郎 | |
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騎手時代(1956年ごろ) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 |
京都府京都市 出生は神奈川県中郡二宮町 |
生年月日 | 1922年6月16日(102歳) |
身長 | 165cm(1956年[1]) |
体重 | 50kg(〃) |
騎手情報 | |
所属団体 |
日本競馬会 国営競馬 日本中央競馬会 |
所属厩舎 |
川崎敬次郎・東京 (1940年-1943年) (兵役、1943年-1945年) 谷栄次郎・京都 (1946年-1959年) |
初免許年 | 1942年 |
騎手引退日 | 1959年 |
通算勝利 | 1264戦98勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1959年(同年開業) |
調教師引退日 | 1998年2月28日 (定年) |
重賞勝利 | 11勝 |
G1級勝利 | 2勝(八大競走) |
通算勝利 |
7615戦657勝 (中央7580戦652勝、地方35戦5勝) |
経歴 | |
所属 |
京都競馬場(1959年-1971年) 栗東T.C. (1971年-1998年) |
谷 八郎(たに はちろう、1922年6月16日-)は、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、競走馬調教師。調教師時代にクラシック二冠馬ヒカルイマイなどを管理した。長男・谷潔は現在中央競馬調教師。田島良保、田原成貴、幸英明は、それぞれ門下生である。京都府出身(出生地は神奈川県)。旧姓名・宮代八郎。
経歴
1922年、神奈川県中郡二宮町に生まれる[2]。生家は馬車運送業を営みながら、馬主として競走馬も所有しており、幼いころから馬に親しんだ[2]。小学校卒業後、地方競馬の羽田競馬場少年騎手養成所に第1期生として入所、のちに騎手として羽田や八王子で騎乗した[3]。その後、日中戦争の激化と共に地方競馬が休止されていき、全国組織である日本競馬会に移る[3]。当初は馬主に京都競馬場の谷栄次郎を紹介されたが、当時の谷厩舎には繋駕速歩競走用の馬しかおらず、騎手免許交付の要件を満たしていなかったため、東京競馬場の川崎敬次郎厩舎に入門した[2]。1942年に同会で騎手免許を取得。しかし前年末に勃発した太平洋戦争の戦況悪化により徴兵を受け、終戦まで陸軍近衛師団で過ごした[2]。
復員後、兵役前よりの約定に従って京都に移り、一般競走馬を入れていた谷厩舎に所属[3]。翌1946年、栄次郎の姪と結婚、婿養子となり、谷八郎と改姓した[2]。以後は騎手として活動したが、大柄で年を重ねるごとに体重が増加していったため、騎手生活の後半は主に繋駕速歩競走に騎乗していた[2]。騎手成績は通算1264戦98勝[4]。騎手として大競走を勝つことはなかったが、1955年10月22日に行われた阪神第6競走においてタチバナヒメに騎乗した際、単勝オッズ558.7倍という最低人気ながら勝利し、中央競馬における単勝配当の史上最高記録を樹立している。この記録は2014年4月26日に更新[5]されるまで58年半にわたり保持された。
1959年より調教師に転じ、京都競馬場に厩舎を開業。翌1960年春にキンシオーでタマツバキ記念を制し、重賞競走を初制覇。以後散発的に重賞に勝利していたが、1971年、「雑種血統」とも呼ばれた安馬のヒカルイマイで皐月賞と東京優駿(日本ダービー)に優勝し、八大競走制覇を果たした。同馬の主戦騎手は弟子の田島良保が務め、田島は史上2番目に若いダービージョッキーとなっている。ヒカルイマイは史上3頭目のクラシック三冠が懸かった菊花賞を前に屈腱炎を発症し、三冠に挑むことなく引退した。また、同馬は後に谷の計らいにより余生を鹿児島県の牧場で送ったが[3]、谷の顧客には九州出身の馬主が多く、一時は管理馬の半数以上が九州産馬で占められるなど「九州産馬の谷」としても知られた。ただしこれは九州産馬を誰も預かりたがらなかったからであるといい、谷自身はこの呼び名を好まなかった[6]。
ヒカルイマイ以後、引退までの重賞勝利は2勝と華々しいものではなかったが、人材の面では田島に加え、通算1000勝を達成し「天才」とも称された田原成貴らを育成した。最後の弟子である幸英明も1000勝を達成している。若い田島を一貫してヒカルイマイに乗せ続けたことに例示されるように、谷は弟子に早くから責任を持たせ、その上で各自の自主性を重んじた[7]。
1998年2月28日をもって定年引退。調教師通算成績は7615戦657勝(うち中央7580戦652勝)であった。
通算成績
騎手時代
区分 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 57 | 89 | 92 | 775 | .073 | .188 |
障害 | 13 | 18 | 17 | 98 | .132 | .316 |
速歩 | 28 | 34 | 39 | 391 | .071 | .158 |
計 | 98 | 141 | 148 | 1264 | .077 | .189 |
調教師時代
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 615 | 680 | 654 | 5,232 | 7,181 | .086 | .180 |
障害 | 49 | 37 | 41 | 224 | 351 | .140 | .245 |
計 | 664 | 717 | 695 | 5,456 | 7,532 | .088 | .183 |
※上記のほか地方競馬で35戦5勝。
- 初出走:1959年3月7日 1回阪神1日目第3競走 トシオー(3着)
- 初勝利:1959年4月4日 2回京都1日目第2競走 ヨシヒカリ(延8頭目)
- 重賞競走11勝(うち八大競走2勝)
主な管理馬
※括弧内は谷管理下の優勝重賞競走。太字は八大競走。
- キンシオー(1960年タマツバキ記念・春、タマツバキ記念・秋)
- クリバック(1967年小倉大賞典、金鯱賞)
- ペロバック(1968年小倉記念)
- ヒカルイマイ(1971年皐月賞、東京優駿、きさらぎ賞、NHK杯)
- ワイエムアロー(1982年愛知杯)
- ハクリョウベル(1986年中日新聞杯)
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 田島良保(1966年-1967年、1968年-1983年 騎手)
- 梅田康雄(1975年-1977年 騎手)
- 田原成貴(1978年-1989年 騎手)
- 谷潔(1979年-1994年 厩務員、調教助手)
- 横山雄一(1986年-1999年 騎手)
- 山本康二(1988年-1994年 騎手)
- 幸英明(1994年-? 騎手)
脚注
参考文献
- 井上康文『新版 調教師・騎手名鑑1964年版』(大日本競馬図書刊行会、1964年)
- 中央競馬ピーアール・センター編『調教師の本VI』(中央競馬ピーアール・センター、1998年)
- 芦谷有香『栗東厩舎探訪記(1)』(翔雲社、1999年)ISBN 978-4921140021
- 『優駿』1986年6月号(日本中央競馬会)
- 今井昭雄「二冠馬と二人の名手の育ての親 - 谷八郎調教師」