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「諱」の版間の差分

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Nekosuki600 (会話 | 投稿記録)
m いったん戻す。ノートでの結論が出るまで触らない方が無難でしょう。
通称: ノートの議論により「中国や朝鮮半島ほど」に
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日本では諱を口に出して呼ぶことは特に避けられ、貴人を居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ぶことが通例だった。[[平安時代]]中頃以降には[[武士]]など多くの人々も、諱とは別に通称を持ち、普段は通称で呼ばれるようになるが、これを漢文表記する場合は中国の例になぞらえて名を諱(いみな)、通称を字(あざな)と呼ぶ。例えば[[豊臣秀吉|木下藤吉郎平秀吉]]は、木下が[[名字]]、藤吉郎が通称あるいは字、平が氏あるいは本姓、秀吉が名あるいは諱である。
日本では諱を口に出して呼ぶことは特に避けられ、貴人を居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ぶことが通例だった。[[平安時代]]中頃以降には[[武士]]など多くの人々も、諱とは別に通称を持ち、普段は通称で呼ばれるようになるが、これを漢文表記する場合は中国の例になぞらえて名を諱(いみな)、通称を字(あざな)と呼ぶ。例えば[[豊臣秀吉|木下藤吉郎平秀吉]]は、木下が[[名字]]、藤吉郎が通称あるいは字、平が氏あるいは本姓、秀吉が名あるいは諱である。


中国や朝鮮半島と日本における諱の習慣が大きく異なるのは、諱を表記する漢字に関するタブーである。日本では漢字の呪術性は中国における観念とは違う形で受容されたためか、ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものがその人物の霊的人格に対する侵害だとする観念は中国などほど激しくはなかった。
中国や朝鮮半島と日本における諱の習慣が大きく異なるのは、諱を表記する漢字に関するタブーである。日本では漢字の呪術性は中国における観念とは違う形で受容されたためか、"ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものがその人物の霊的人格に対する侵害だ"とする観念は、日本では中国や朝鮮半島ほど激しくはなかった。


===通字===
===通字===

2006年5月19日 (金) 01:49時点における版

(いみな)は、中国などの東アジア漢字圏における人名の一要素である。

諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを避けることを意味する動詞であるが、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになる。

実名敬避俗

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかける事は極めて無礼な事と考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。このような慣習は「実名敬避俗」(じつめいけいひぞく)と呼ばれ、世界各地で行われた。実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱」という。特に天子皇帝)の諱は厳重に避けられ、以下の公文書にも一切使われず、同じ字を使った臣下や地名・官職名は改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどあらゆる手段を用いて使われないようにした。例えば、の初代皇帝劉邦の諱は邦であったため、漢代には「邦」の字は全く使用できなくなり、以後「国」の字を使うことが一般化した。

避諱の実際は時代によって異なるが、多くは、王朝の初代、現皇帝から八代前までさかのぼる歴代の皇帝の諱を避けた。また皇帝のほか、自分の親の名も避諱の対象となった。詳しくは避諱の項を参照。

日本にはこうした例は殆ど見られないが、中国の影響が大きかった桓武天皇の時代に編纂された正史続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けて(大納言)「諱」と記載されている。

日本

日本の諱

日本でも、中国と同様に目上の者を実名で呼ぶのを避ける習慣から、実名のことを漢文表記するときは諱と呼んだ。これは中国と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想に基く。そのため、武士は主従関係を取り結ぶときに主君と見定めた人物に自分の名を書いた名簿(みょうぶ)を提出するしきたりがあり、また親子関係、夫婦関係以外の社会的主従関係に乏しかった女性では、公的に活躍した人物ですら、後世実名が不明となる場合が多かった。清少納言紫式部の実名が不明なのはこのためである。

また僧侶が受戒するときに受ける法名のことを仏弟子として新たに身につける真の名前として諱(厳密には法諱)といい、僧などは中国の例にならって号・字などと呼ばれるものを諱と別に持った。

のちには僧侶の受戒が、俗人の葬式で、死者を授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため現在では諱はと混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。

通称

日本では諱を口に出して呼ぶことは特に避けられ、貴人を居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ぶことが通例だった。平安時代中頃以降には武士など多くの人々も、諱とは別に通称を持ち、普段は通称で呼ばれるようになるが、これを漢文表記する場合は中国の例になぞらえて名を諱(いみな)、通称を字(あざな)と呼ぶ。例えば木下藤吉郎平秀吉は、木下が名字、藤吉郎が通称あるいは字、平が氏あるいは本姓、秀吉が名あるいは諱である。

中国や朝鮮半島と日本における諱の習慣が大きく異なるのは、諱を表記する漢字に関するタブーである。日本では漢字の呪術性は中国における観念とは違う形で受容されたためか、"ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものがその人物の霊的人格に対する侵害だ"とする観念は、日本では中国や朝鮮半島ほど激しくはなかった。

通字

そのため、平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってからのちの日本では、「通字」或いは「系字」といい家に代々継承され、先祖代々、特定の文字を諱に入れる習慣があった。典型的な例として平安後期から現在に至るまで天皇家の男子の大半に用いられている「仁」の字があげられ、臣下の家でも桓武平氏貞盛流の「盛」、清和源氏頼信流の「義」および「頼」、北条氏の「時」、徳川将軍家の「家」など、類例に枚挙の暇がないほどである。このような「通字」「系字」の文化は、先祖の名を避ける中国の避諱とはまったく対照的な、日本独特の風習である。ちなみに、日本では活躍した祖先の事績にあやかり、祖先の諱を称する場合もあり、これを先祖返りといった。伊達政宗などが顕著である。

中国や朝鮮半島では祖先の諱を避ける代わりに同一血統で同世代の者が諱の中で特定の字を共有する習慣が見られて血族内の長幼の序を確認しあっており、日本でも平安時代初期にこの習慣が一時行われた(本来の同世代間の通字を「列系字」、日本式の多世代間に渡る通字を「行系字」とも言う)。また女性が朝廷官位を得るに際して与えられる位記に諱を書く必要があることから父親ないし近親者から偏諱を受ける例もあった。北条時政の娘・北条政子(正しくは平政子)、近衛前久の娘・前子(中和門院)、豊臣秀吉の正室・吉子(高台院)などの多くの例がある。

しかしこのような場合でも、ニ字名のうち主に通字ではない方の字はある程度避ける習慣があり、このような避諱が行われた方の字を「偏諱(へんき・かたいみな)」という。

偏諱授与の風習

日本の特徴として、偏諱は避けるだけではなく、貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。初めは将軍宗尊親王から北条時宗への偏諱など、下の字につく場合もままあったが、時代が降るにつれて主君へのはばかりから偏諱は受ける側の上の字となる場合がほとんどとなった。室町時代頃には重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることがひろくみられるようになった(一字拝領ともいう)。江戸時代になると主君から家臣への偏諱授与の風習は氾濫するに至り、特に将軍家の偏諱は、加賀藩など外様のうちのさらに特定の藩主だけに与えられる特別な特権、格式のあらわれとみなされるようになった。またこの時期には、摂関家を筆頭とする公家においても偏諱を受ける習慣が生まれ、室町時代近衛九条二条の各家、江戸時代の二条家などが将軍の偏諱を受けた。

諱と通称との区別の消滅

なお日本では、明治3年に太政官布告により、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとされ、それまで複数の名(諱及び通称並びに号など)を持っている人は各自、自分の選択したものを「名」として登録した(またウジ苗字の区別も問われなくなった)。そのため、明治政府の高官の中でも、伊藤博文など諱を登録する者もあれば、板垣退助(諱は正形で、通称は退助、号は無形)など通称を登録する者もいた。

しかし、諱を避け、官職その他の役職の名を使って人を呼ぶ習慣は、なお残っている。特に天皇を諱で呼ぶことはためらわれる傾向にあり、天皇の署名については「御名」と表記して公刊されるのが通常である。

関連項目