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「ミマール・スィナン」の版間の差分

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[[ファイル:MimarSinan-Detail.jpg|right|200px|thumb|ール・スィナン]]
[[File:MimarSinan-Detail.jpg|thumb|1566年のスレイン1世廟の建築風景を描いた絵画に描き込まれたスィナンと思しき人物(左端)。(1579年に制作された[[細密画]])]]
[[File:Mimar Sinan signature.png|thumb|190px|署名]]
'''コジャ・ミマール・スィナン'''(現代[[トルコ語]] : Koca Mimar Sinan, [[オスマン語]] : قوجه معمار سنان آغا (Ḳoca Mi‘mār Sinān Āġā), [[1489年]][[4月15日]]? - [[1588年]][[7月17日]]([[4月9日]]説あり))は、[[オスマン帝国]]の[[建築家]]。[[トルコ]]最高の建築家とされ、生涯で建築作品は477以上といわれる。彼の名に冠される「ミマール(ミーマール)」とは、「建築家」を意味する。
'''ミマール・スィナン'''(Mimar Sinan, 1489年-1588年<ref>瀧川美生 [http://id.nii.ac.jp/1109/00003211/ Hagia Sophia and Sinan’s Mosques: Structure and Decoration in Süleymaniye Mosque and Selimiye Mosque]</ref>)は、盛期[[オスマン帝国]]の[[建築家]]、[[土木工学|土木技術者]]<ref name = "Britannica" />。1490年前後に[[アナトリア半島]]の[[カイセリ]]近郊で生まれ、[[1588年]][[7月17日]]に[[イスタンブル]]で亡くなった<ref name = "Britannica" />。スィナン(シナン)が名前でミマールは建築家を意味するアラビア語由来の言葉であるため、ミマール・スィナンは「建築家スィナン」を意味する。


[[キリスト教徒]]の[[石工]]の家に生まれ、[[デヴシルメ]]で徴用されて[[イェニチェリ]](常備軍歩兵)の[[工兵]]になった。一介の士官からあっという間に階級を上げ、軍団長にまでなった<ref name="GoodwinA87">Goodwin (2001), p. 87</ref><ref name="ビタール1995" />{{rp|96-102}}。[[セリム1世]]、[[スレイマン1世]]、[[セリム2世]]、[[ムラト3世]]というオスマン帝国最盛期を代表する4代の[[スルターン]]に仕え、軍歴は50年近くに及ぶ。遠征で赴いた土地は、西は[[バルカン半島]]東は[[メソポタミア]]までに及び、各地の建造物を実見した。
彼の作品は多岐にわたるが、特に[[モスク]]の建設において、大ドームを発展させるとともに、[[鉛筆]]型の細長い[[ミナレット]]を特色とする、[[オスマン建築]]特有の様式を完成させたとされる。


前線に出ている間に[[土木工学]]に関する実践的経験を積み、[[道路]]や[[橋梁]]、[[水路]]といった[[インフラストラクチャー]]の構築を含む、あらゆる種類の[[要塞]]建築のエキスパートとなった<ref name="Kinross214">Kinross (1977), pp 214–215</ref>。50歳ごろ帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)に任命され、軍で培った技術的スキルを良質な宗教施設を創造することに用いることを求められた<ref name="Kinross214" />。帝室モスクの代表作は、イスタンブルの{{ill2|シェフザーデ・ジャーミイ|en|Şehzade Mosque}}と[[スレイマニエ・モスク|スレイマニエ・ジャーミイ]]、そして、スィナン自身が自身の最高傑作と認めた[[エディルネ]]の[[セリミエ・モスク|セリミーエ・ジャーミイ]]が挙げられる<ref name="ビタール1995" />{{rp|96-102}}。
== 経歴 ==


==前半生==
スィナンは、[[アナトリア]]中部[[カイセリ]]の近郊で、[[キリスト教徒]]の子として生まれた。生年については諸説あり、1489年とも、1494年とも、1497年とも、1499年とも言われる。
[[File:Sinan bin abduelmennan2.png|thumb|サーイー・ムスタファ・チェレビーが晩年のスィナンから聞き取って筆記したスィナンの自伝の一つ「建築家たちの贈り物(Tuḥfetüʾl-Miʿmārin)」の写本4頁目の7-8行目。 Sinān bin ʿAbdüʾl-Mennān ... ʿAbdullāh oġlı と書かれていることからスィナンの父親はキリスト教徒でスィナン自身は改宗したムスリムであることがわかる。]]
ミマール・スィナンは、称号を省略しない場合、コジャ・ミーマール・スィナーン・アーガー({{rtl翻字併記|ota|قوجه معمار سنان آغا|Ḳoca Mi‘mār Sinān Āġā}})という<ref>Cafer Çelebi: ''Risale-i-mimariye''. 1623</ref>{{efn|ミマールとミーマールの違いは咽頭閉鎖音のカナ転写の表記ゆれの問題で、アーガーをアーと書く場合もあるのはトルコ語を現代風に表記するかオスマン時代風に表記するのかの問題。}}。また、ユースフ・スィナン・ビン・アブドュルメンナンという[[ムスリム]]としての個人名を持っていたことが自伝等により推定される<ref>Gülru Necipoğlu, ''The Age of Sinan: Architectural Culture in the Ottoman Empire.'' Princeton 2005, S. 131f</ref>。


スィナンは晩年に、友人の文人{{ill2|サーイー・ムスタファ・チェレビー|tr|Sai Mustafa Çelebi}}に自分の若いころやイエニチェリになってからの仕事について詳細に語り、これを書き取らせて5つの自伝的回顧録を残した<ref name="自伝書誌情報" />。これらの自伝に基づいて、スィナンは1490年頃に生まれたと推定されている<ref name = "Britannica">{{cite book|title=Encyclopædia Britannica|url=https://global.britannica.com/biography/Sinan|quote=Sinan, also called Mimar Sinan (“Architect Sinan”) or Mimar Koca Sinan (“Great Architect Sinan”) (born c. 1490, Ağırnaz, Turkey—died July 17, 1588, Constantinople [now Istanbul]), most celebrated of all Ottoman architects, whose ideas, perfected in the construction of mosques and other buildings, served as the basic themes for virtually all later Turkish religious and civic architecture. <br />The son of Greek or Armenian Christian parents, Sinan entered his father’s trade as a stone mason and carpenter.|date=2015-08-20|accessdate=2016-08-02}}</ref>。ただし、1494年から1499年までの間と推定する説もある(トルコの建築家 Reha Günayなど)<ref name="Günay">{{cite book |title=A guide to the works of Sinan the architect in Istanbul|last=Günay|first=Reha |authorlink= |year=2006 |publisher=Yapı-Endüstri Merkezi Yayınları |location=Istanbul, Turkey |isbn=975-8599-77-1 | page=23|url=https://books.google.com/books?id=OfQjGQAACAAJ&dq=A+guide+to+the+works+of+Sinan+the+Architect+in+Istanbul&hl=en&sa=X&ei=3ZV8T5rqA8PV4QTisvHYDA&ved=0CDEQ6AEwAA|accessdate=2012-04-05 }}</ref>。出身地は[[アナトリア半島]]の[[カイセリ]]の近くにある{{仮リンク|アールナス|en|Ağırnas}}という小さな町である(と[[セリム2世]]により明言されている)<ref name ="GoodwinB199">Goodwin (2003), pp 199–200.</ref>。
[[1512年]]頃、[[デヴシルメ]]制度によりオスマン帝国政府に徴用され、[[イスラム教]]に改宗して[[イェニチェリ]]に入隊した。彼はイェニチェリの[[工兵]]隊に所属し、[[スレイマン1世]](在位[[1520年]] - [[1566年]])治世に行われた諸遠征に従軍し、遠征軍のための橋梁の建設に従事した。


[[トプカプ宮殿]]の図書館には、ムスタファ・チェレビー自筆のスィナンの生涯に関するテキストが、短いが3種類(無題のテキスト、『建築における最高傑作』、『建築の書』)伝わっている<ref name="Günay" />。これらの古写本の中で、スィナンは父を「アブドュルメンナン({{lang|tr|Abdülmennan}})」とだけ呼んでいる。アブドュルメンナンは文字通りには「[[アッラーフ|寛大で慈悲深きお方]]のしもべ」を意味し、匿名に近い。これはキリスト教徒など、非ムスリムであることを暗に示しているので、スィナンがイエニチェリに入隊した経歴を持つことなどに基づくと、スィナンの父はキリスト教徒であったことは間違いない<ref name="Britannica" /><ref name="Günay" />。スィナンは父の仕事を手伝いながら成長し、イエニチェリに徴用されるまでには建築の実際的な事柄に関して十分な基礎知識を有していたとみられる<ref name="Britannica" />。
[[1538年]]、スレイマンによって帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)に抜擢され、その後1588年に[[イスタンブル]]で没するまでの50年間、スレイマンから[[ムラト3世]]までの3代にわたり、宮廷建築家として仕えた。


== 作品 ==
==軍歴==
[[File:Sinan sketchy drawing.jpg|thumb|スィナン自身が、イスタンブルの上水施設、クルクチェシュメ水道のために描いたスケッチ]]
16世紀頃のオスマン帝国には、非ムスリムの子弟をイスタンブルに徴用し、[[イスラーム]]に改宗させた上で常備軍歩兵、[[イェニチェリ]]の士官({{lang|tr|acemioğlan}})になるべく訓練を受けさせる、[[デヴシルメ]]という制度があった<ref name ="GoodwinB199" />。スィナンは1512年に、このデヴシルメ制に基づきオスマン帝国軍に徴用された<ref name ="GoodwinB199" /><ref name="Kinross214:">Kinross, pp 214–215.</ref>。しかし、[[エンデルーン学校]]という[[トプカプ宮殿]]に付属した士官養成のための寄宿学校へ入寮するには年齢が高すぎたため、その代わりに予備校に送られた<ref name ="GoodwinB199" />。いくつかの史料では、彼が大宰相[[パルガル・イブラヒム・パシャ]]に見習いとして仕えたとしている。そしておそらくは「スィナン」というイスラーム教徒の名前を拝受したのもイブラヒム・パシャの下でのことであろう。スィナンは当初、大工仕事と数学を習っていたが、資質とやる気を見込まれてすぐに棟梁の補佐に取り立てられ、建築家としての修行を積むこととなった<ref name ="GoodwinB199" />。


スィナンは1518年頃まで6年間を士官見習いとして過ごした。その後スィナンは、[[セリム1世]]の最後の外征となった[[ロドス島]]侵攻と、その2年後、[[スレイマン1世]]によるベオグラード攻略戦に従軍した。ハンガリー侵攻にも従軍し、[[モハーチの戦い]]においては近衛騎兵の一員として戦場にいた。スィナンは近衛隊の隊長に昇進し、士官候補生からなる歩兵隊の指揮を任された。また、のちにオーストリアでの駐屯を命じられ、第62ライフル銃オルタ{{efn|''Orta''. イェニチェリの軍制における大隊を意味する。}}を率いた<ref name ="GoodwinB199" />。また、スィナンは建築家として、構造物が射撃を受けた際の弱点を探究するうちに弓の扱いをマスターしてしまった。
* シェフザーデ・モスク([[1545年]]、イスタンブル)
*: スレイマン1世と[[ロクセラーナ|ロクセラーナ皇后]](ヒュッレム)の間の長男で、[[1542年]]に21歳の若さで早世した{{仮リンク|メフメト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mehmed|label=メフメト}}王子のために建設されたモスク。スィナン最初の大作とされ、後に建設される大型モスクの習作となった。
* [[スレイマニエ・モスク]]([[1558年]]、イスタンブル)
*: スレイマン1世のために建設されたモスク。[[アヤソフィア]]の構造に学び、高さ53mの大ドームを左右の半ドームで支えることにより広大な内部空間を実現した。また、モスク周辺の数多くの付属施設もスィナンの作品で、そこには彼自身の墓も含まれている。
* [[リュステム・パシャ・モスク]]([[1563年]]、イスタンブル)
*: スレイマン1世とロクセラーナ皇后の一人娘{{仮リンク|ミフリマー・スルタン|en|Mihrimah Sultan|label=ミフリマー・スルタン}}の婿(ダマト)で[[大宰相]]の[[リュステム・パシャ]]のために建てられたモスク。[[イズニク]]製のタイルをふんだんに使用した美しい内装で名高い。
* ブユックチェクメジェ橋([[1567年]]、ブユックチェクメジェ)
*: イスタンブル郊外の湖にかけられた橋。長さ635mの長大な石造橋。
* [[セリミエ・モスク]]([[1575年]]、[[エディルネ]])
*: [[セリム2世]]のために、オスマン帝国の旧都エディルネに建設されたモスク。アヤソフィアに匹敵する直径31mの大ドームを有し、スィナン自身が自らの最高傑作と称したことで知られる。
* [[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]([[1576年]]、[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]])
*: [[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]の[[ドリナ川]]に架けられた橋。同地出身の大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]の注文により建設された。


1535年には[[バグダード]]方面への遠征に近衛兵の指揮官として従軍、1537年には[[ケルキラ島|コルフ島]]、[[プッリャ州|アプリア]]、[[モルダヴィア]]への遠征にそれぞれ赴いた<ref>[http://archnet.org/library/dictionary/entry.jsp?entry_id=DIA0848 Sinan (in Dictionary of Islamic Architecture)]</ref>。<!-- During these campaigns he proved himself an able architect and engineer. When the Ottoman army captured [[Cairo]], Sinan was promoted to chief architect and was given the privilege of tearing down any buildings in the captured city that were not according to the city plan.{{Citation needed|date=October 2007}} 10年近く出典が示されていないので訳出せず。-->東欧への遠征において、スィナンは[[ドナウ川]]を渡る橋など、防御施設や橋梁の建設、キリスト教会のモスクへの用途変更などを支援した。1535年の[[サファヴィー朝]]イランへの遠征時には、軍兵や砲兵が[[ヴァン湖]]を渡るための船を建造した。これのため、スルタンの近衛隊における隊長の地位、ハセキイーを拝受した。ハセキイーはイェニチェリにおけるアーガーに相当する階級である。
== スィナンを扱った作品 ==

* [[夢枕獏]]『シナン』上・下(中央公論新社)
1539年に新しく大宰相になったチェレビー・リュトフィー・パシャは、以前に自分の指揮下にいたことのあるスィナンを、適切な住宅建築を供給するための役所の長官に任命した。これがスィナンの偉大な業績の第一歩となった。この仕事には、道路、水路、橋梁といった[[インフラストラクチャー|社会資本]]建設はもとよりオスマン帝国内の物資の流れを監督することも求められた。スィナンは何年もかけて、自らに権限を与えられた役所を、上位にある省よりも大きな権力を持った精緻な行政組織に作り変えた。そして、見習いや徒弟も含む建築家集団全体の長になった。

== スィナンの建築 ==
{{see also|オスマン建築}}
工兵部隊において培われた経験は、スィナンが建築に対して、理論的なアプローチをとるよりも、経験的なアプローチをとることに役立った。さまざまな資料に基づくと、スィナンが建築した建物は、少なくとも、[[モスク]]92箇所、[[マスジド]]52箇所、[[マドラサ]]55箇所、[[ダリュクッラ]](クルアーン学校、darülkurra)7箇所、墓廟(türbe)20箇所、[[イマレット]](公共の厨房、imaret)17箇所、[[ダリュッシファ]](病院、darüşşifa)、公共水道6箇所、橋10箇所、[[キャラヴァンサライ]]20箇所、宮殿36箇所、地下礼拝堂8箇所、[[トルコ式公共浴場]]48箇所の、合計374の建築物にのぼる<ref>[http://cadde.milliyet.com.tr/2013/12/30/HaberDetay/1656832/iSTANBUL_A_iMZASINI_ATTI A list of the buildings designed by Mimar Sinan]</ref>。オスマン帝国のすべての建築事業を監督する役目を担う帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)を、スィナンは50年間近く務め、何人もの設計者や熟練した建築技術者のアシスタントを含んだ大きなチームで仕事を進めた。

スィナンは自伝で自らの仕事を3つの時期に分けて説明している。{{ill2|シェフザーデ・ジャーミイ|en|Şehzade Mosque}}を建てるまでが「徒弟の時代」、[[スレイマニエ・モスク|スレイマニエ・ジャーミイ]]を建てるまでが「職人の時代」、[[セリミエ・モスク|セリミーエ・ジャーミイ]]を建てるに至った以後が「親方の時代」である。

<gallery heights="180" mode="packed" caption="スィナンが建てた3つの帝室モスク" perrow="5">
File:Princova mešita.jpg|シェフザーデ・ジャーミイ
File:Cour_mosquee_Suleymaniye_Istanbul.jpg|スレイマニエ・ジャーミイ
File:Salimiye's beauty and grandeur.jpg|セリミーエ・ジャーミイ
</gallery>

===概論===
ドーム建築を建てるにあたって、まだ駆け出しのころは伝統を墨守せざるをえなかったスィナンであったが、軍隊で工兵として経験を積んだ後は理屈ではなく実践的な観点から建築にアプローチすることができるようになった。設計や工法において新しい試みをする場合はドームが一つの建築でまずそれを試し、その後で複数のドーム構造を持つものにも適用した。スィナンはモスクの構造と意匠に幾何学的純粋さと機能性、空間的統合を得ようとした。そのすべての試みにおいて彼は想像性を発揮し、明晰で統一化された空間を作り出すことを願った。そこでスィナンは半ドーム、柱、立ち壁、側廊といったドームを取り囲む要素の多種多様な組み合わせを試しながら一連のドーム建築を発展させていった。スィナンが設計したドームやアーチは言うまでもなく曲線を描いているが、その他の要素においては極力曲線を避けている。ドームの円形は内から外へ行くにしたがって、四角形や六角形、八角形を基本とした形状に変形していく。下部の円筒状の空間に側壁がない主ドームを頂点とし、それに連なる従ドームにより構成されるピラミッド型の外観と、この主ドームが高さ方向に空間をまとめあげた結果得られた全一的内部空間との間には、幾何学的な調和が目指された。この空間の組織化にこそスィナンの真骨頂があり、設計により生み出される張りつめた印象が融解するところに彼の才能が発揮された。装飾の利用方法にも革新をもたらし、全体的に装飾が建築要素の中に入るようにした。主ドームの下に空間に、たくさん設けられた窓から燦々と外光が降り注ぐように設計することで、求心性を強調した。また、モスクを[[キュッリエ]]という複合施設の中に組み入れることによって、コミュニティの人々の学びの場として、あるいは、衛生上の問題を解決する場所として機能するように設計した。
シェフザーデ・ジャーミイはスィナンがはじめて建てた大モスクである。同年に完成したミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ{{efn|Mihrimah Sultan Mosque. ユスキュダル・キー・モスク(the Üsküdar Quay Mosque)としても知られる。}}は、3つの副ドームにより主ドームが支えられるという独自の設計がなされている。スィナンの齢が70に届いたころ、彼はスレイマニエ・ジャーミイを中心とした建築複合体の設計及び建築を完成させた。スレイマン1世の名前が冠されたこの建物は、金角湾を望むイスタンブルの丘の上に位置し、この時代を象徴する記念碑のひとつである。スレイマニエ・ジャーミイのドームの直径は、スィナンが80歳頃のときに完成させたセリミーエ・ジャーミイの31メートルよりも大きく、スィナンの到達した技術的水準の高さを最もよく表す好例である。セリミーエ・ジャーミイの設計、建築、タイル装飾、床石の精緻な配置には、彼の芸術性が頂点に達したことが見て取れる。

スィナンが特徴的な設計を行ったもうひとつの建築分野が、墓廟建築である。シェフザーデ・メフメト廟は、外構の装飾と、縦に割ったように切り取られた形状のドームの見事さとで有名である{{Clarify|date=September 2011}}。リュステム・パシャ廟は、古典様式の非常に魅力的な構造を有している。スレイマン1世廟は、八角形の躯体に平らなドームという興味深い実験作である。正方形のプランを持つセリム2世廟は、トルコ墓廟建築の特徴を最もよく表す好例である。スィナン自身の霊廟は、スレイマニエ・ジャーミイの複合的建築群の北東に置かれ、非常に簡素なつくりである。

[[File:Kanuni-Sultan-Süleyman-Köprüsü.jpg|thumb|{{仮リンク|ビュユクチェクメジェ湖|en|Lake Büyükçekmece}}のカーヌーニー・スルタン・スレイマン橋]]
橋梁建築においてもスィナンは熟練の手際で機能主義と芸術とを調和させた。最長の作品は、[[マルマラ海]]に開いた{{仮リンク|ビュユクチェクメジェ湖|en|Lake Büyükçekmece}}の入口に架けた全長約635メートルのものである。その他に重要な橋梁作品としては、{{仮リンク|シリヴリ|en|Silivri}}にある31個のアーチを持つスレイマン大帝橋、{{仮リンク|スヴィーレングラード|en|Svilengrad}}の{{仮リンク|ムスタファ・パシャ橋|en|Old Bridge, Svilengrad}}、{{仮リンク|リュレブルガズ|en|Lüleburgaz}}にあるリュレブルガズ川に架けた橋、{{仮リンク|エルゲネ川|en|Ergene}}に架けたスィナンル橋、[[ドリナ川]]に架けた[[ヴィシェグラード]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ橋|ソコッル・メフメト・パシャ橋]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/メフメットパシャソコロビッチ橋-644270 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-08-12 }}</ref>{{efn|[[1961年]]の[[ノーベル文学賞]]受賞作家、[[イヴォ・アンドリッチ]]の代表作「[[ドリナの橋]]」で有名である。}}がある。

スィナンはイスタンブルの水道設備を保守・改善する傍ら、いくつかの都市で[[アーチ]]を持つ上水道の建築を行った。{{仮リンク|アリベイ川|tr|Alibey Deresi}}の上方35メートルを立体交差して跨ぎ、257メートルの長さを持つ{{仮リンク|マグロヴァ疎水|en|Mağlova Kemeri}}は、2段アーチを持つ構造であり、彼の水道建築の特徴をよく表している。

スィナンが建築事業に取り組み始めたとき、オスマン帝国の建築は高い有用性があることが求められた。既存の類型を繰り返しなぞり、型にはまった設計を基礎としていた、このころのオスマン建築は、全体を通して見た理念のようなものはなく、部分部分の単なる寄せ集めに過ぎなかった。新規なアイデアが避けられていたから、新しい建物に対して新しい設計を構想する建築家はいたかもしれないし、アシスタントや現場の人間は何をするべきかわかっていた。さらに、建築家たちは自分たちの設計が失敗しないように念には念を入れたため、材料と労働力の使い方に非常に大きな無駄を生む結果となっていた。スィナンはこれらすべてをゆっくりと時間をかけて変革していった。確立された建築方法に変革をもたらしたそのやり方は、伝統に新規な改善を加えることによってその伝統を拡大し、また変形することによって、その伝統を完成へと導こうとするものであった。

===「徒弟の時代」===
[[File:Evlahos Koursoum Mosque.jpg|thumb|[[トリカラ]]の{{仮リンク|クルスーム・ジャーミイ|en|Osman Shah Mosque|el|Κουρσούμ Τζαμί}}]]
この時期のスィナンの建築は、オスマン建築の伝統的なパターンをなぞってはいたが、次第に他の可能性を探索し始めていた。その理由は、彼が軍歴を重ねる中で、ヨーロッパや中東の新たに占領した町にあった建築上の重要性のある建物を研究する機会を得ていたからである。

1530年代半ば、スィナンは重要な建物を設計する機会をはじめて得た。シリアのアレッポに建てたヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイ(フスルウィーヤ・モスク)とそれに付属する2棟のマドラサである。ヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイは、スィナンの上役でアレッポのスルタンであった人物のために、2つの大きな遠征の合間を縫って、1536年から1537年の冬の時期に建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんざいな装飾に見て取れる。

[[File:Mimar Sinan - Mosquée Şehzade Mehmet, Istanbul (02).jpg|thumb|シェフザーデ・ジャーミイ]]
帝室造営局の建築家として最初にうけた主要な依頼は、スレイマン1世の{{仮リンク|ハセキ・スルタン|en|Haseki Sultan|label=正后}}[[ロクセラーナ]](ヒュッレム・スルタン)のための、さほど大規模ではない複合的な居宅の建設であった。スィナンは先人の引いた線のとおりの設計をしなければならず、まったく創意のない、使える空間をただ伝統に従って並べただけの設計に終始した。それでも妃の居宅はアレッポのモスクよりもうまく建てることができ、ある種の気品を漂わせた。もっとも、その後、この妃の居宅は多くの修繕に苦しんだ。1537年に南[[アルバニア]]の[[ヴロラ]]に建てられた防御塔の設計もスィナンの手によるものとされている。ヴロラはスレイマン1世のイタリア遠征時に陣を張った町であるが<ref>{{cite book |title=Fjalori Enciklopedik Shqiptar|author=(Article’s author): Gjergji Frashëri |authorlink= |year=2000 |publisher=Akademia e Shkencave e Shqipërisë| location= |isbn=978-99956-10-32-6 | page=2946|url= |accessdate=}}</ref><ref>{{cite book |title=Albanian Cultural Heritage|author= |authorlink= |year=2000 |publisher=Republic of Albania, National Tourism Agency| location= |isbn= | page=59|url=http://www.akt.gov.al/materiale/kultura%20blerina.pdf|accessdate=2012-04-07 }}</ref>、そこにスィナンが建てた{{仮リンク|ムラディーエ・ジャーミィ|en|Muradie Mosque}}の防御塔は、[[ホワイトタワー (テッサロニキ)|テッサロニキの白塔]]に非常によく似ている<ref name=Tracy>{{cite book |title=City Walls: The Urban Enceinte in Global Perspective|last=Tracy |first=James D. |authorlink= |author2=Savitri Mahajan |year=2000 |publisher=[[Cambridge University Press]]|location= |isbn= 978-0-521-65221-6 | page=306|url=https://books.google.com/books?ei=foZ8T_nhA9Ha4QSSicyUDQ&id=S7dUv-1Ql2oC&dq=architect+sinan+had+albanian+origin&q=the+architect+may+have+been+Sinan#v=onepage&q=%22the%20architect%20may%20have%20been%20Sinan%22&f=false|accessdate=2012-04-07 }}</ref>。

1541年に大提督[[バルバロス・ハイレッディン]]の墓廟 (''türbe'') の建設に取り掛かる。この墓廟が建てられた[[ベシクタシュ]]地区は、イスタンブルのヨーロッパ側の岸辺にあり、提督の軍船がよく集結した場所であった。奇妙なことに提督はその墓廟ではなく、その近くにあるイスケレ・モスク(下述)に埋葬された。そのとき以来現在まで、この墓廟の存在はほとんど無視されていた。

スレイマン1世の一人娘で、大宰相[[リュステム・パシャ]]の妻、{{仮リンク|ミフリマーフ・スルタン|en|Mihrimah Sultan}}の委嘱により建設したウスキュダルのイスケレ・モスク(ミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (ウスキュダル)として知られる)は、マドラサ(大学)、イマレット(厨房)、メクテブ(クルアーン学校)が付属する大規模な複合施設であり、広々とした高い中央の空間、すらりとした[[ミナレット]](尖塔)、単一のドーム天蓋、両翼に広がる3つの[[半ドーム]]が3つの[[エクセドラ]]に突き当たる構造、幅広の二重[[ポルチコ]]といったいくつかの点で、スィナンの円熟期の様式の特徴を見て取ることができる。なお、イマレットは現存しない。建設の完了は1548年。二重ポルチコが建設されたのはオスマン建築史上初めてではないが、これを機に公共のモスクやワズィールが建てるモスクなどに流行する。内側のポルチコの柱頭に鍾乳石が用いられ、外側のポルチコの柱頭が{{仮リンク|シェヴロン (紋章学)|en|Chevron (insignia)|label=シェヴロン・パターン(V字)}}で造作されたこの二重ポルチコを見たミフリマーフとリュステム・パシャは、イスタンブルの3つのモスクと、[[テキルダー]]のリュステム・パシャ・モスクにも二重ポルチコの設置を所望した。

1543年11月、スィナンが上述のイスケレ・モスクの建設を始めたばかりのころ、スィナンは急遽、スレイマン1世に新しいジャーミイの建設を命じられた。そのジャーミイは、大帝の最もかわいがっていた息子の墓廟に付随する大規模なものであって、大帝はバルカン半島への何度目かの遠征から帰還したある日に突然、皇太子シェフザーデ・メフメトが齢22で亡くなったという知らせを受け取ったのであった。この{{仮リンク|シェフザーデ・ジャーミイ|en|Şehzade Mosque}}には、それまでのスィナンの建築作品のどれよりも大規模、且つ、野心的な試みが盛り込まれることになった。そのため、建築史の専門家からは、スィナン最初の傑作であるとの評価がなされている。

大きなドームを中心にするという構想に取り憑かれたスィナンは、[[ディヤルバクル]]の{{仮リンク|ファティフ・パシャ・ジャーミイ|tr|Fatih Paşa Camisi}}や、{{仮リンク|ハスキョイ (イスタンブル)|en|Hasköy, Istanbul|label=ハスキョイ}}のピーリー・パシャ・ジャーミイのようなモスク建築の設計の仕事を始めた。スィナンがペルシア遠征に従軍した際に、上の2つのモスクを訪れた可能性は高く、遠征以後に設計した中央ドームを持つモスクにおいては4つの同じ大きさの半ドームが中央ドームに付随する設計がなされている。この上部構造は巨大ではあるが優美な、八角になるように丸溝が彫られた自立する4本の支柱により支えられ、これらの支柱がそれぞれ横の壁に合体する。四隅の箇所では、屋根を越える高さにそれぞれ尖塔が延び、建物をしっかり定位させる働きをする。この整然とした建築コンセプトは、既に伝統的なオスマン建築に何かを付け足したような設計とは異なっており、特筆される。{{仮リンク|セデフカル・メフメト・アーガー|en|Sedefkar Mehmed Agha}}は、のちに彼が設計した[[スルタンアフメト・モスク|スルタン・アフメト・ジャーミイ]]において、その外見を少しでも軽く見せようとして、丸溝を彫った支柱のコンセプトを流用する。しかしながら、スィナンは同じ手を別のモスクでもう一度使おうとはしなかった。

===「職人の時代」===
「壮麗者」スレイマン1世が権力の絶頂にあったのは1550年までである。彼は早世した息子のために大モスクを建てた今こそ、自らの名前を冠した大モスクの建設をするべきときのように感じた。[[金角湾]]を見下ろすなだらかな傾斜の丘の上に建ち、他のどんなものよりも偉大な記念碑となるジャーミイを。資金に問題はなかった。スルタンが長年にわたってヨーロッパやペルシアを相手に遠征を繰り広げた結果手に入れた戦利品や領土があるためである。スレイマンはスィナンにジャーミイを建造の勅命を発した。スルタンの希望はジャーミイに大規模な{{仮リンク|キュッリエ|en|külliye}}が付属するもので、ジャーミイを中心に4つのマドラサ、1つのイマレット、病院、難民収容所、[[ハンマーム]]、[[キャラヴァンサライ]]、そして旅人の宿泊所タブハーネ(普通は遊行[[スーフィー|デルヴィーシュ]]を泊めるためのもの。3日間は無料で泊まれる。)が取り囲むものであった。いまや大量のアシスタントを抱える大きな役所の長になっていたスィナンは、この手ごわい案件に7年の歳月をかけて取り組み、完成させた。こうして完成した[[スレイマニエ・モスク|スレイマニエ・ジャーミイ]]は、屋根部分の構造が立方体を半分に切った形状をしている。この半立方体の屋根形状は既存のモスクにはなかったものであり、スィナンはこれのアイデアを[[アヤソフィア]]から得たと見られる。スィナンはルネサンスの建築家[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]の思想を知っていたに違いない。それというのもアルベルティもまた理想の教会にこだわり、建築における幾何学的な完全性を通して調和を表現したからである。なお、アルベルティは建築理論をローマ時代の建築家[[ウィトルウィウス#建築について|ウィトルウィウスの著作『建築について』]]に学んでいる。しかしながら、東地中海世界の西側の建築家と対照的なところは、スィナンが豊富化よりも簡素化により強い興味を示していることである。彼は単一の中央ドームの下に、できる限り大きな容積が確保されるようにした。ドームは真円を基本に成り立っている。真円は幾何学的に完全な図形であって、神の完全性を抽象的に表現する。スィナンは建物の形状や比率に微妙な幾何学的関係が保たれるようにしていたが、スレイマニエ・ジャーミイの場合はそれぞれの関係が2の倍数になることを基調にした設計を行った。後年では{{仮リンク|ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ|en|Sokollu Mehmed Pasha Mosque}}(イスタンブルの港地区)などで見られるように、ドームの形状や横幅を制作する際、3分割や2対3の比率もよく使うようになった。

スィナンがスレイマニエの建設にかかりきりになっている間にも、スィナンの弟子たちが設計図を描き、現場に出向いて職人に指示をして、多くの建物を建てていった。そうした建造物についてもスィナンの名前がクレジットされており、[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ]]の名前を冠したモスクや、スレイマニエと同じ地区に属する1551年に建てられた霊廟などもスィナンの作と伝えられる。

[[File:Eupatoria 04-14 img12 Juma Jami Mosque.jpg|thumb|[[クリミア半島]][[イェウパトーリヤ]]の{{仮リンク|イェウパトーリヤの金曜モスク|en|Juma-Jami Mosque, Yevpatoria|label=金曜モスク}}([[ジュマ・ジャーミイ (イェウパトーリヤ)|ジュマ・ジャーミイ]])]]
次代の大宰相[[リュステム・パシャ]]もスィナンに多くの依頼を行った。1550年前後にスィナンは彼の依頼により、イスタンブルの[[ガラタ地区]]や[[エディルネ]]、[[エルズルム]]に大きな旅籠(ハーネ)を建てた。イスタンブルの八角形のマドラサもリュステムの依頼による。

1553年から1555年の間にスィナンがイスタンブルの[[ベシクタシュ地区]]に建てた{{仮リンク|スィナン・パシャ・ジャーミイ|en|Sinan Pasha Mosque (Istanbul)}}は、大提督{{仮リンク|スィナン・パシャ (オスマン帝国の提督)|en|Sinan Pasha (Ottoman admiral)|label=スィナン・パシャ}}に奉献するモスクであるが、エディルネの{{仮リンク|ウチュ・シェレフェリ・ジャーミイ|en|Üç Şerefeli Mosque}}を小さくしたような構造をしている。このことからわかるのは、スィナンが他の建築家の作品を徹底的に研究していたということである。とりわけ、スィナンは、自分が維持管理の責任を負っていた建造物を研究していた。彼は昔の構造を模倣し、建築上の弱点について思索をめぐらした。その上で解決策を編み出し、その弱点を克服しようとした。その好例が、1554年にイスタンブルに建てた{{仮リンク|カラ・アフメト・パシャ・ジャーミイ|en|Kara Ahmet Pasha Mosque}}である。このモスクは、次代の大宰相カラ・アフメト・パシャに奉献したものであり、スィナン・パシャ・ジャーミイで模倣した構成がふたたび採用されているが、六角形の平面プランを有している。この特徴的な平面プランは初めて試みたものであり、これにより4つの副ドームを半ドームに縮小し、45度の角度をつけて各々のコーナーに設置することが可能になった。この設計はのちに、{{仮リンク|ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ|en|Sokollu Mehmed Pasha Mosque}}や[[ウスキュダル]]の{{仮リンク|アティック・ヴァリデ・ジャーミイ|en|Atik Valide Mosque}}にも用いられた。

1556年にスィナンは{{仮リンク|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム|en|Haseki Hürrem Sultan Hamamı}}を建設した。これはアヤソフィア寺院に近接したところに古くからある{{仮リンク|ゼウクシッポスの公共浴場|en|Baths of Zeuxippus}}を一度取り壊してから再建したものであって、スィナンが手がけたハンマームの中で最も美しいものの一つであろう。1559年に今度は、アヤソフィアの前庭の下手にチャフェル・アーガー・メドレセを建てた。同年、[[ボスポラス海峡]]沿いの町にエジプト総督{{仮リンク|イスケンデル・パシャ (エジプト総督)|en|Iskender Pasha (governor of Egypt)|label=イスケンデル・パシャ}}のモスクも建てたが、これはスィナンの役所が年中請け負っていた、細かなルーチンワークの一つにすぎない。

1561年にリュステム・パシャが亡くなる。寡婦となったミフリマーフ・スルタンの監修の下、スィナンは同年から{{仮リンク|リュステム・パシャ・ジャーミイ|en|Rüstem Pasha Mosque|label=かの大宰相を追慕するモスク}}の建設を始めた。今回、中央部の形状に採用されたのは八角形である。四隅に半ドームを配したこの形状は、ハギオン・セルギオス・カイ・バッコス聖堂{{efn|4世紀[[歴史的シリア|シリア]]の{{仮リンク|リサーファ|en|Resafa}}で殉死した聖人{{仮リンク|セルギオスとバッコス|en|Sergius and Bacchus}}に奉献するため6世紀に[[東ローマ皇帝]][[ユスティニアヌス1世]]が[[コンスタンチノープル]]に建てた修道院教会。16世紀前半にモスクに改装された。現{{仮リンク|キュチュク・アヤソフィア・ジャーミイ|en|Little Hagia Sophia}}。{{仮リンク|ファティフ地区|en|Fatih}}の海辺にある。}}に倣ったものである。同年にスィナンは{{仮リンク|シェフザーデ・ジャーミイ|en|Şehzade Mosque}}の庭に、[[イズニク]]で産する最良のタイルを用いて装飾したリュステム・パシャの墓廟を建てた。

夫の遺産を受け継いだミフリマーフ・スルタンはもともと自分が持っていた資産も併せると膨大な富を持つようになり、いまや彼女自身のモスクを望んだ。そこでスィナンはイスタンブルの七つの丘の最も高い丘の上にある{{仮リンク|エディルネ門|en|Edirnekapı, Istanbul}}のある場所に姫のジャーミイを建てた。この{{仮リンク|ミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (エディルネ門)|en|Mihrimah Sultan Mosque (Edirnekapı)}}は隆起した高台の上に聳え立ち、景観にアクセントを与えている。建造は1562年から1565年にかけて行われた<ref>Faroqhi (2005), Subjects of the Sultan.</ref>。雄大さの表現に並々ならぬ関心を注いだスィナンの想像力は、このモスクで大きく花開いた。アーチ構造の支持構造として新しいやり方を用い、縦方向に空間を配置して窓として使える領域を増やした。中央ドームは高さ37メートル、直径20メートル。[[穹隅]]により方形の基礎の上に支えられる。基礎の上には3つの[[キューポラ]]をそれぞれ有する2列の[[側廊]]も設けられた。方形の基礎の四隅にはそれぞれ巨大な柱が聳え立ち、多数の窓が開いたアーチ状の面に連結する。このアーチには15個の大きな窓と4つの円窓が設けられており、溢れんばかりの外光を堂内にもたらす。この革命的建築においてはオスマン建築が許される範囲内で最も[[ゴシック建築]]に近づいた。

1560年から1566年の間にスィナンは、イスタンブルのアイヴァンサライを越えた丘の上に{{仮リンク|ザール・マフムード・パシャ・ジャーミイ|en|Zal Mahmud Pasha Mosque}}を建設した。スィナンは確かに設計を考え建築を監督はしたが、建物の重要でないところは力量に劣る職人たちの手に任せた。なぜなら、スィナンとその最も優秀な部下たちは、今や彼の畢生の大作、エディルネのセリミーエ・ジャーミイの仕事に取り掛かろうとしていたからである。高く聳えるザール・マフムード・パシャ・ジャーミイの東側の外壁には、4層になる窓が穿たれており、この特徴がモスクを一種の宮殿か集合住宅のようにも見せていた。内側には3列の広い側廊があり、これがあることで内装をこぢんまりと見せている。また、この構造の重みがあることで、ドームが予期できぬほどに高くなっているように見せることに成功している。この側廊はセリミーエ・ジャーミイの側廊の予行演習であった。

===「親方の時代」===
[[File:Edirne 7333 Nevit.JPG|right|thumb|200px|[[エディルネ]]に建つ[[セリミエ・モスク|セリミーエ・ジャーミイ]]、1575年建造。]]
スィナンの人生も終わりに差し掛かったこのころになると、彼は建物の内側を高尚で優雅な造作で統一しようとした。この目的を達成するため、中央ドームを支える柱以外の付加的な要素の一切が排除された。この設計思想に基づく作例は、ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイやセリミーエ・ジャーミイに見ることができる。その他の晩年の作においても空間や壁の扱いに、それ以前の[[オスマン建築]]にはなかったスィナンの試行錯誤が見られる。

自伝によるとスィナンはエディルネのセリミーエ・ジャーミイこそが自分の最高傑作であると認識していた。確かにこのモスクは伝統的なオスマン建築の縛りにとらわれることなく、古典期オスマン建築のすべてにおける絶頂であると言え、スィナン建築の到達点を示している。スィナンは建築中に「『アヤソフィヤより大きなドームは作れるわけなかろう、ましてやムスリムには』などとは金輪際言わせん」と発言したと伝えられる。そのため、千年古い偉大なアヤソフィヤへの、この対抗意識こそが本モスク設計の動機であったと考えられる。実際に、床からドームの天井までの高さはアヤソフィヤより高い(ただし、地上からの高さを測るとセリミーエのほうがアヤソフィヤより半メートルほど低い)。完成時には齢80を越えていたスィナンであったが、[[ドーム|穹窿]]の内側に[[タウヒード|この上なく全一化]]された空間を作り出すという狙いをついに実現させた。今回採用したのは直径31.28メートル、高さ42メートルの八角形の中央ドームである。このドームを支える大理石と御影石でできた8本の柱は[[柱頭 (建築)|柱頭]]を一切持たず、その代わりに[[入隅迫持]]もしくは[[持ち送り]]を持つ。これはアーチが柱の外側からだんだんと持ち上がってくるような視覚効果を生む。さらに、縦に長い側廊が遠方に配置されることでこの立体的効果が見るものの目に強く印象付けられる。堂内には立ち壁に多数設けられた窓から外光が降り注ぐ。中央ドーム構造体を支持する[[バットレス]]として機能する半ドームがドーム下の四隅に設置されている。類まれな開放感と優美さを演出することによって、荷重や内壁の張力は隠されている。礼拝空間の四隅に建つ[[ミナレット|尖塔]]は高さ83メートル、当時のイスラーム世界においては最も高い[[ミナレット]]であり、イスタンブルの町に威容を示す本モスクの形状に垂直方向のアクセントを与えている。

[[File:Visegrad Drina Bridge 1.jpg|left|thumb|200px|スィナンにより1577年に建造された[[ソコルル・メフメト・パシャ橋|ソコッル・メフメト・パシャ橋]]([[ボスニア]]、[[ヴィーシェグラード]])はユネスコ世界遺産に登録された]]
[[ダマスクス]]で一番有名な建物と思われている、[[バラダ川]]沿いに建つ{{仮リンク|テッキーヤ・スレイマニエ・ジャーミイ|en|Tekkiye Mosque}}及び付属のキャラヴァンサライや、[[ブルガリア]]の首都[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]で現在でも唯一、モスクとしての機能を果たし続けている{{仮リンク|バニャ・バシ・ジャーミイ|en|Banya Bashi Mosque}}も、スィナンが設計したものである。

==墓廟==
[[File:Edwin Lord Weeks - The Taj Mahal - Walters 37316.jpg|thumb|right|ミマール・スィナンの設計思想は、[[ムガル帝国]]の[[シャー・ジャハーン]]の命により建造された[[タージ・マハル廟]]の設計にも取り入れられた<ref>William J. Hennessey, PhD, Director, Univ. of Michigan Museum of Art. IBM 1999 WORLD BOOK.</ref><ref>Marvin Trachtenberg and Isabelle Hyman. Architecture: from Prehistory to Post-Modernism. p. 223.</ref>]]
スィナンは1588年に亡くなり、自身が設計した霊廟に葬られた。それはイスタンブルのスレイマニエ・ジャーミイの敷地の北東、道を挟んでちょうど向かいにある。

スィナンが長となった政府の部門は広い範囲にわたり、たくさんの助手を育てた。彼らはスィナンに応えて名を上げた。そのような弟子の一人としては、[[スルタンアフメト・モスク]]の建築家、[[セデフカル・メフメト・アーガー]]がいる。[[スタリ・モスト|スタリ・モスト橋]]の設計者もスィナンの弟子の一人である。[[ムガル帝国]]の[[タージ・マハル|タージ・マハル廟]]の設計にもスィナンの弟子の一人が関わっている。

スィナンはたびたび同時代の西洋に生きた[[ミケランジェロ]]と比較される<ref>De Osa, Veronica.</ref><ref>Saoud (2007), p. 7</ref>。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は[[1502年]]に、ミケランジェロは[[1505年]]に、それぞれ{{仮リンク|バーブ・アリー|en|Sublime Porte|label=オスマン帝国中枢}}に[[金角湾]]に架ける橋の設計案を提出してみないかという誘いを受けていることからもわかるとおり、ミケランジェロと彼が設計した[[ローマ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂|聖ペトロ大聖堂]]はイスタンブルでよく知られていた<ref>Vasari (1963), Book IV, p. 122</ref>。

==民族的出自==
ミマール・スィナンの民族的出自が議論になる場合がある。エスノセントリズムやナショナリズムが絡んで、難しい問題になっている。

1935年にトルコの研究者グループにより、スィナン廟からスィナンの遺骸が掘り出された。当時は人種の優劣を云々する科学が広汎に支持されており、トルコの研究者グループは、「スィナンの頭蓋骨を測定したところ、彼は確かにトルコ人であることが証明された」と喧伝された<ref>{{Cite book|title = Atatürk: An Intellectual Biography|last = Hanioğlu|first = M. Şükrü|publisher = Princeton University Press|year = 2013|isbn = 9780691157948|location = Princeton, NJ|pages = 171}}</ref>。

アルメニアを包含していた頃のソ連の学者などは、[[アルメニア人]]説を唱えていた<ref>{{cite book|last=Fletcher|first=Richard|title=The cross and the crescent: Christianity and Islam from Muhammad to the Reformation |year=2005 |publisher=Penguin |location=London |isbn=9780670032716 |page=138 |edition=Reprinted |quote=...was Sinan the Old-he lived to be about ninety-an Armenian from Anatolia who had been brought to the capital as one of the 'gathered'.}}</ref><ref name="SAE">Zaryan, ''Sinan'', Armenian Soviet Encyclopedia, p. 385.</ref><ref>Kouymjian, Dickran. "Armenia from the Fall of the Cilician Kingdom (1375) to the Forced Emigration under Shah Abbas (1604)" in ''The Armenian People From Ancient to Modern Times, Volume II: Foreign Dominion to Statehood: The Fifteenth Century to the Twentieth Century''. [[Richard G. Hovannisian]] (ed.). New York: St. Martin's Press, 1997, p. 13. ISBN 0-312-10168-6.</ref><ref name="Alboyajian1937">Alboyajian (1937), vol. 2, pp. 1533-34.</ref><ref>{{cite book|last=Jackson|first=Thomas Graham|title=Byzantine and Romanesque Architecture, Volume 1|year=1913|publisher=Cambridge University Press|page=[https://books.google.com/books?id=YjDNAAAAMAAJ&pg=PA143 143]|authorlink=Thomas Graham Jackson|quote=They are many of them designed by Sinan, who is said to have been an Armenian}}</ref><ref>{{cite book|last=Sitwell|first=Sacheverell|title=Old Fashioned Flowers|year=1939|publisher=Country Life|page=74|authorlink=Sacheverell Sitwell|quote=The architect Sinan, perhaps of Armenian descent, raised mosques and other buildings all over the Turkish Empire.}}</ref>。西側のイスラーム研究者に多い説は{{仮リンク|カッパドキア人|en|Cappadocian Greeks}}([[カッパドキア]]のギリシア系住民)説である<ref>Talbot, Hamlin ''Architecture Through the Ages''. University of Michigan, p. 208.</ref><ref>Byzantium and the Magyars, Gyula Moravcsik, Samuel R. Rosenbaum p.28.</ref><ref>Kathleen Kuiper. Islamic Art, Literature, and Culture. — The Rosen Publishing Group, 2009 — p. 204 — ISBN 9781615300976: "The son of Greek Orthodox parents, Sinan entered his father's trade as a stone mason and carpenter." .</ref><ref>Sinan: the grand old master of Ottoman architecture, p. 35, Aptullah Kuran, Institute of Turkish Studies, 1987</ref><ref>Walker, Benjamin and Peter Owen ''Foundations of Islam: the making of a world faith'', 1998, p. 275.</ref><ref name="Goodwin, Godfrey 1971 199">{{cite book|author= Goodwin, Godfrey |title= A history of Ottoman architecture |publisher= Johns Hopkins Press |year= 1971 |page=199 |isbn= 978-0-8018-1202-6 |quote= He came from the district of Karaman and the Greek lands, but he does not, it is true, specifically call himself a Greek, which, in effect, he no longer was from the moment that he admitted that there was no other God but Allah. Yet after the conquest of Cyprus in 1571, when Selim decided to repopulate the island by transferring Greek families from the Karaman beylik, Sinan intervened on behalf of his family and obtained two orders from the Sultan in council exempting them from deportation. It was Selim I who ordered the first devsirme levy in Anatolia in 1512 and sent Yaya- basis to Karamania and this is probably the year in which Sinan came to Istanbul. Since he was born about 1491, or at the latest in 1492, he was old for a devsirme… }}</ref><ref name=" Rogers, J. M. 2006 ">{{cite book|author= Rogers, J. M. |title= Sinan: Makers of Islamic Civilization. |publisher= I.B.Tauris: Oxford Centre for Islamic Studies |year= 2006 |page=backcover |isbn= 978-1-84511-096-3 |quote=(Sinan) He was born in Cappadocia, probably into a Greek Christian family. Drafted into the Janissaries during his adolescence, he rapidly gained promotion and distinction as a military engineer. }}</ref>。その他に、[[アルバニア人]]説もある<ref name=Cragg>{{cite book |title=The Arab Christian: A History in the Middle East|last=Cragg|first=Kenneth |authorlink= |year=1991 |publisher=Westminster John Knox Press |location= |isbn=0-664-22182-3 | page=120|url=https://books.google.com/books?id=pMuxLlWih04C&pg=PA120}}</ref><ref>{{cite book |title=The Beirut review, Issue 3|last= al-Lubnānī lil-Dirāsāt |first=Markaz |authorlink= |year=1992 |publisher=Lebanese Center for Policy Studies |location= |isbn= | page=113|url=https://books.google.com/books?id=Cf26AAAAIAAJ&q=sinan+albanian+origin&dq=sinan+albanian+origin&hl=en&sa=X&ei=i458T9SdJo_R4QSvxLHlDA&ved=0CF0Q6AEwCTgo |accessdate=2012-04-05 }}</ref><ref name=Brown>{{cite book |title=Indian architecture: (The Islamic period)|last=Brown |first=Percy |authorlink= |year=1942 |publisher=Taraporevala Sons|location= |isbn= | page=94|url=https://books.google.com/books?id=e-VOAAAAYAAJ&q=the+fame+of+the+leading+Ottoman+architect,+Sinan,+having+reached+his+ears,+he+is+reported+to+have+invited+certain+pupils+of+this+Albanian+genius+to+India+to+carry+out+his+architectural+schemes.&dq=the+fame+of+the+leading+Ottoman+architect,+Sinan,+having+reached+his+ears,+he+is+reported+to+have+invited+certain+pupils+of+this+Albanian+genius+to+India+to+carry+out+his+architectural+schemes.&hl=en&sa=X&ei=SyWyT__ZCsjOswb_y4C9Bg&ved=0CDQQ6AEwAA| quote=… the fame of the leading Ottoman architect, Sinan, having reached his ears, he is reported to have invited certain pupils of this Albanian genius to India to carry out his architectural schemes.}}</ref>。「キリスト教徒の[[トルコ人]]」とする説もある<ref>Akgündüz Ahmed & Öztürk Said, (2011), Ottoman History, Misperfections and Truths, IUR Press (Islamitische Universiteit Rotterdam), Pg.196, [https://books.google.com/books?id=EnT_zhqEe5cC&printsec=frontcover&hl=en&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false See online]. Quoted from the book: "According to yet another view, Sinan came from a Christian Turkish family, whose father's name was Abdulmennan and his grandfather's Doğan Yusuf."</ref>。『[[ブリタニカ百科事典]]』はスィナンがアルメニア人の母とギリシア人の父を持つとした<ref name="Britannica" />。

アルメニア人説の根拠は、[[セリム2世]]がヒジュラ暦981年ラマダーン月7日(西暦1573年12月30日ごろ)に発した勅命にある。この勅命は、スィナンの親族をカイセリのアルメニア人コミュニティすべてに言い渡したキプロス島への追放から免除することを、スィナンの求めにより許すとしたものである<ref name="Alboyajian1937" /><ref>This decree was published in the Turkish journal ''Türk Tarihi Encümeni Mecmuası'', vol. 1, no. 5 (June 1930-May 1931) p. 10.</ref>。この勅命についてゴドフリー・グッドウィンは「1571年のオスマン帝国によるキプロス征服後、セリム2世が島の人口を回復させるために{{仮リンク|エヤーレティ・カラマーン|en|Karaman Eyalet}}から[[ルーム人]][[ミッレト制|ミッレト]]に属する家族を移住させることを定めたところ、スィナンは一族を代表して裁定を求め、御前会議から一族の追放を免除する2通の勅命を獲得した」と主張している<ref name="Goodwin, Godfrey 1971 199" />。ハーバート・ミュラーによると、スィナンは「以前はアルメニア人であったようである」という<ref>{{cite book|last=Muller|first=Herbert Joseph|title=The Loom of History|year=1961|publisher=New American Library|page=439|authorlink=Herbert J. Muller}}</ref>。[[タフツ大学]]のルーシー・デル・マヌエリアンは「帝国の公文書やその他の文字資料に基づくと、彼はアルメニア人とみなせるであろう」という<ref>{{Cite web|title=Architects, Craftsmen, Weavers: Armenians and Ottoman Art|url=http://www.sscnet.ucla.edu/history/centers/armenian/source111.html|work=Abstracts from the International Conference ARMENIAN CONSTANTINOPLE organized by Richard G. Hovannisian, UCLA, May 19–20, 2001|publisher=Social Sciences Division University of California, Los Angeles|accessdate=2013-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140712105852/http://www.sscnet.ucla.edu/history/centers/armenian/source111.html|archivedate=2014-07-12|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。

カッパドキア人説を支持する学者たちは、スィナンの父親の名前がギリシア人にはありふれた名前のクリストス(Χρήστος)であることから、父親は石工か大工であったことがわかるという<ref>Muqarnas, Volume 24 History and Ideology: Architectural Heritage of the lands of Rum, p. 179, Gurlu Necipoglu, Bril, 2007, ISBN 978-90-04-16320-1</ref><ref>Constantinople, de Byzance à Stamboul, Celâl Esad Arseven, H. Laurens, 1909</ref>。

アルバニア人説は、[[ムガル帝国]]皇帝[[バーブル]]が地元インドの建築と設計にまったく満足せず「オスマン帝国の棟梁、アルバニアの天才、スィナンの弟子の幾人かを、彼の建て方で建てさせるために」インドに招待したという記述に基づく(イギリスの学者パーシー・ブラウンとインドの学者ヴィディヤ・ダル・マハジャンなど)<ref name=Brown:>{{cite book |title=Indian architecture: (The Islamic period)|last=Brown |first=Percy |authorlink= |year=1942 |publisher=Taraporevala Sons|location= |isbn= | page=92|url=https://books.google.com/books?id=SnlNAAAAMAAJ&q=architect+sinan+had+albanian+origin&dq=architect+sinan+had+albanian+origin&hl=en&sa=X&ei=LoZ8T9iVMPP04QS8gM26DA&ved=0CFoQ6AEwCA|accessdate=2012-04-05 | quote=… the fame of the leading Ottoman architect, Sinan, having reached his ears, he is reported to have invited certain pupils of this Albanian genius to India to carry out his architectural schemes.}}</ref><ref>{{cite book |title=The Muslim rule in India, Volume 1|last=Mahajan |first=Vidya Dhar |authorlink= |author2=Savitri Mahajan |year=1962 |publisher=S.Chand|location= |isbn= | page=210|url=https://books.google.com/books?id=bOG1AAAAIAAJ&q=He+had+a+mind+to+invite+from+Constantinople+a+pupil+of+Sinan,+the+famous+Albanian+architect,+to+assist+him+in+his+building+projects.&dq=He+had+a+mind+to+invite+from+Constantinople+a+pupil+of+Sinan,+the+famous+Albanian+architect,+to+assist+him+in+his+building+projects.&hl=en&sa=X&ei=lvt_T4XPL9PS4QSv69S4Bw&ved=0CD4Q6AEwAw|accessdate=2012-04-07}}</ref><ref name=Cragg/>。

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{notelist}}
===出典===
{{Reflist|2|refs=
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== 参考文献 ==
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* 鈴木董『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社、1993年
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== 関連項目 ==
==関連文献==
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==関連作品==
* {{Cite|和書 |author=夢枕獏 |date=2007-11 |title=シナン |volume=上 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4-12-204934-5 }}
* {{Cite|和書 |author=夢枕獏 |date=2007-11 |title=シナン |volume=下 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4-12-204935-2 }}
* {{Cite|和書 |author=夢枕獏 |date=2009-03-19 |title=夢枕獏の奇想家列伝 |chapter=第7章 シナン―神が見える家 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-660689-4 }}

==関連項目==
* [[オスマン建築]]
* [[オスマン建築]]
* [[イスラーム建築]]
* [[イスラム美術]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Mimar Sinan}}
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/eurasia/15_selimiye/selimiye.htm 世界建築ギャラリー 「スレイマニエとセリミエ」]
{{Portal box|アジア|イスラーム|建築|人物伝}}
* [http://www.pbase.com/dosseman/edirne_turkey Pictures of the city of Edirne, with many pictures of the Selimiye Mosque]
* [https://web.archive.org/web/20060426222613/http://www.cekulvakfi.org.tr/icerik/icerik.asp?sayfaID=128 A map and a short guide for Sinan's works in Istanbul] {{tr icon}}
* [http://mimoza.marmara.edu.tr/~avni/H62SANAT/mimarsinan.hayati.htm Master Builder of the 16th Century Ottoman Mosque]
* [https://web.archive.org/web/20090727210410/http://www.istan-bul.org/indexer.php?x=28.571459&y=41.0219379&l=15&f=255 Mimar Sinan Bridge in Büyükçekmece]
* [http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/8512512.stm The Ottoman architect who linked East and West]
* [http://www.mimarsinan.gen.tr Mimar Sinan's life and works] {{tr icon}}


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2024年7月11日 (木) 23:08時点における最新版

1566年のスレイマン1世廟の建築風景を描いた絵画に描き込まれたスィナンと思しき人物(左端)。(1579年に制作された細密画
署名

ミマール・スィナン(Mimar Sinan, 1489年-1588年[1])は、盛期オスマン帝国建築家土木技術者[2]。1490年前後にアナトリア半島カイセリ近郊で生まれ、1588年7月17日イスタンブルで亡くなった[2]。スィナン(シナン)が名前でミマールは建築家を意味するアラビア語由来の言葉であるため、ミマール・スィナンは「建築家スィナン」を意味する。

キリスト教徒石工の家に生まれ、デヴシルメで徴用されてイェニチェリ(常備軍歩兵)の工兵になった。一介の士官からあっという間に階級を上げ、軍団長にまでなった[3][4]:96-102セリム1世スレイマン1世セリム2世ムラト3世というオスマン帝国最盛期を代表する4代のスルターンに仕え、軍歴は50年近くに及ぶ。遠征で赴いた土地は、西はバルカン半島東はメソポタミアまでに及び、各地の建造物を実見した。

前線に出ている間に土木工学に関する実践的経験を積み、道路橋梁水路といったインフラストラクチャーの構築を含む、あらゆる種類の要塞建築のエキスパートとなった[5]。50歳ごろ帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)に任命され、軍で培った技術的スキルを良質な宗教施設を創造することに用いることを求められた[5]。帝室モスクの代表作は、イスタンブルのシェフザーデ・ジャーミイ英語版スレイマニエ・ジャーミイ、そして、スィナン自身が自身の最高傑作と認めたエディルネセリミーエ・ジャーミイが挙げられる[4]:96-102

前半生

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サーイー・ムスタファ・チェレビーが晩年のスィナンから聞き取って筆記したスィナンの自伝の一つ「建築家たちの贈り物(Tuḥfetüʾl-Miʿmārin)」の写本4頁目の7-8行目。 Sinān bin ʿAbdüʾl-Mennān ... ʿAbdullāh oġlı と書かれていることからスィナンの父親はキリスト教徒でスィナン自身は改宗したムスリムであることがわかる。

ミマール・スィナンは、称号を省略しない場合、コジャ・ミーマール・スィナーン・アーガー(オスマントルコ語: قوجه معمار سنان آغا‎, ラテン文字転写: Ḳoca Mi‘mār Sinān Āġā)という[6][注釈 1]。また、ユースフ・スィナン・ビン・アブドュルメンナンというムスリムとしての個人名を持っていたことが自伝等により推定される[7]

スィナンは晩年に、友人の文人サーイー・ムスタファ・チェレビートルコ語版に自分の若いころやイエニチェリになってからの仕事について詳細に語り、これを書き取らせて5つの自伝的回顧録を残した[8]。これらの自伝に基づいて、スィナンは1490年頃に生まれたと推定されている[2]。ただし、1494年から1499年までの間と推定する説もある(トルコの建築家 Reha Günayなど)[9]。出身地はアナトリア半島カイセリの近くにあるアールナス英語版という小さな町である(とセリム2世により明言されている)[10]

トプカプ宮殿の図書館には、ムスタファ・チェレビー自筆のスィナンの生涯に関するテキストが、短いが3種類(無題のテキスト、『建築における最高傑作』、『建築の書』)伝わっている[9]。これらの古写本の中で、スィナンは父を「アブドュルメンナン(Abdülmennan)」とだけ呼んでいる。アブドュルメンナンは文字通りには「寛大で慈悲深きお方のしもべ」を意味し、匿名に近い。これはキリスト教徒など、非ムスリムであることを暗に示しているので、スィナンがイエニチェリに入隊した経歴を持つことなどに基づくと、スィナンの父はキリスト教徒であったことは間違いない[2][9]。スィナンは父の仕事を手伝いながら成長し、イエニチェリに徴用されるまでには建築の実際的な事柄に関して十分な基礎知識を有していたとみられる[2]

軍歴

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スィナン自身が、イスタンブルの上水施設、クルクチェシュメ水道のために描いたスケッチ

16世紀頃のオスマン帝国には、非ムスリムの子弟をイスタンブルに徴用し、イスラームに改宗させた上で常備軍歩兵、イェニチェリの士官(acemioğlan)になるべく訓練を受けさせる、デヴシルメという制度があった[10]。スィナンは1512年に、このデヴシルメ制に基づきオスマン帝国軍に徴用された[10][11]。しかし、エンデルーン学校というトプカプ宮殿に付属した士官養成のための寄宿学校へ入寮するには年齢が高すぎたため、その代わりに予備校に送られた[10]。いくつかの史料では、彼が大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに見習いとして仕えたとしている。そしておそらくは「スィナン」というイスラーム教徒の名前を拝受したのもイブラヒム・パシャの下でのことであろう。スィナンは当初、大工仕事と数学を習っていたが、資質とやる気を見込まれてすぐに棟梁の補佐に取り立てられ、建築家としての修行を積むこととなった[10]

スィナンは1518年頃まで6年間を士官見習いとして過ごした。その後スィナンは、セリム1世の最後の外征となったロドス島侵攻と、その2年後、スレイマン1世によるベオグラード攻略戦に従軍した。ハンガリー侵攻にも従軍し、モハーチの戦いにおいては近衛騎兵の一員として戦場にいた。スィナンは近衛隊の隊長に昇進し、士官候補生からなる歩兵隊の指揮を任された。また、のちにオーストリアでの駐屯を命じられ、第62ライフル銃オルタ[注釈 2]を率いた[10]。また、スィナンは建築家として、構造物が射撃を受けた際の弱点を探究するうちに弓の扱いをマスターしてしまった。

1535年にはバグダード方面への遠征に近衛兵の指揮官として従軍、1537年にはコルフ島アプリアモルダヴィアへの遠征にそれぞれ赴いた[12]。東欧への遠征において、スィナンはドナウ川を渡る橋など、防御施設や橋梁の建設、キリスト教会のモスクへの用途変更などを支援した。1535年のサファヴィー朝イランへの遠征時には、軍兵や砲兵がヴァン湖を渡るための船を建造した。これのため、スルタンの近衛隊における隊長の地位、ハセキイーを拝受した。ハセキイーはイェニチェリにおけるアーガーに相当する階級である。

1539年に新しく大宰相になったチェレビー・リュトフィー・パシャは、以前に自分の指揮下にいたことのあるスィナンを、適切な住宅建築を供給するための役所の長官に任命した。これがスィナンの偉大な業績の第一歩となった。この仕事には、道路、水路、橋梁といった社会資本建設はもとよりオスマン帝国内の物資の流れを監督することも求められた。スィナンは何年もかけて、自らに権限を与えられた役所を、上位にある省よりも大きな権力を持った精緻な行政組織に作り変えた。そして、見習いや徒弟も含む建築家集団全体の長になった。

スィナンの建築

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工兵部隊において培われた経験は、スィナンが建築に対して、理論的なアプローチをとるよりも、経験的なアプローチをとることに役立った。さまざまな資料に基づくと、スィナンが建築した建物は、少なくとも、モスク92箇所、マスジド52箇所、マドラサ55箇所、ダリュクッラ(クルアーン学校、darülkurra)7箇所、墓廟(türbe)20箇所、イマレット(公共の厨房、imaret)17箇所、ダリュッシファ(病院、darüşşifa)、公共水道6箇所、橋10箇所、キャラヴァンサライ20箇所、宮殿36箇所、地下礼拝堂8箇所、トルコ式公共浴場48箇所の、合計374の建築物にのぼる[13]。オスマン帝国のすべての建築事業を監督する役目を担う帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)を、スィナンは50年間近く務め、何人もの設計者や熟練した建築技術者のアシスタントを含んだ大きなチームで仕事を進めた。

スィナンは自伝で自らの仕事を3つの時期に分けて説明している。シェフザーデ・ジャーミイ英語版を建てるまでが「徒弟の時代」、スレイマニエ・ジャーミイを建てるまでが「職人の時代」、セリミーエ・ジャーミイを建てるに至った以後が「親方の時代」である。

概論

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ドーム建築を建てるにあたって、まだ駆け出しのころは伝統を墨守せざるをえなかったスィナンであったが、軍隊で工兵として経験を積んだ後は理屈ではなく実践的な観点から建築にアプローチすることができるようになった。設計や工法において新しい試みをする場合はドームが一つの建築でまずそれを試し、その後で複数のドーム構造を持つものにも適用した。スィナンはモスクの構造と意匠に幾何学的純粋さと機能性、空間的統合を得ようとした。そのすべての試みにおいて彼は想像性を発揮し、明晰で統一化された空間を作り出すことを願った。そこでスィナンは半ドーム、柱、立ち壁、側廊といったドームを取り囲む要素の多種多様な組み合わせを試しながら一連のドーム建築を発展させていった。スィナンが設計したドームやアーチは言うまでもなく曲線を描いているが、その他の要素においては極力曲線を避けている。ドームの円形は内から外へ行くにしたがって、四角形や六角形、八角形を基本とした形状に変形していく。下部の円筒状の空間に側壁がない主ドームを頂点とし、それに連なる従ドームにより構成されるピラミッド型の外観と、この主ドームが高さ方向に空間をまとめあげた結果得られた全一的内部空間との間には、幾何学的な調和が目指された。この空間の組織化にこそスィナンの真骨頂があり、設計により生み出される張りつめた印象が融解するところに彼の才能が発揮された。装飾の利用方法にも革新をもたらし、全体的に装飾が建築要素の中に入るようにした。主ドームの下に空間に、たくさん設けられた窓から燦々と外光が降り注ぐように設計することで、求心性を強調した。また、モスクをキュッリエという複合施設の中に組み入れることによって、コミュニティの人々の学びの場として、あるいは、衛生上の問題を解決する場所として機能するように設計した。 シェフザーデ・ジャーミイはスィナンがはじめて建てた大モスクである。同年に完成したミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ[注釈 3]は、3つの副ドームにより主ドームが支えられるという独自の設計がなされている。スィナンの齢が70に届いたころ、彼はスレイマニエ・ジャーミイを中心とした建築複合体の設計及び建築を完成させた。スレイマン1世の名前が冠されたこの建物は、金角湾を望むイスタンブルの丘の上に位置し、この時代を象徴する記念碑のひとつである。スレイマニエ・ジャーミイのドームの直径は、スィナンが80歳頃のときに完成させたセリミーエ・ジャーミイの31メートルよりも大きく、スィナンの到達した技術的水準の高さを最もよく表す好例である。セリミーエ・ジャーミイの設計、建築、タイル装飾、床石の精緻な配置には、彼の芸術性が頂点に達したことが見て取れる。

スィナンが特徴的な設計を行ったもうひとつの建築分野が、墓廟建築である。シェフザーデ・メフメト廟は、外構の装飾と、縦に割ったように切り取られた形状のドームの見事さとで有名である[要説明]。リュステム・パシャ廟は、古典様式の非常に魅力的な構造を有している。スレイマン1世廟は、八角形の躯体に平らなドームという興味深い実験作である。正方形のプランを持つセリム2世廟は、トルコ墓廟建築の特徴を最もよく表す好例である。スィナン自身の霊廟は、スレイマニエ・ジャーミイの複合的建築群の北東に置かれ、非常に簡素なつくりである。

ビュユクチェクメジェ湖英語版のカーヌーニー・スルタン・スレイマン橋

橋梁建築においてもスィナンは熟練の手際で機能主義と芸術とを調和させた。最長の作品は、マルマラ海に開いたビュユクチェクメジェ湖英語版の入口に架けた全長約635メートルのものである。その他に重要な橋梁作品としては、シリヴリ英語版にある31個のアーチを持つスレイマン大帝橋、スヴィーレングラード英語版ムスタファ・パシャ橋英語版リュレブルガズ英語版にあるリュレブルガズ川に架けた橋、エルゲネ川英語版に架けたスィナンル橋、ドリナ川に架けたヴィシェグラードソコッル・メフメト・パシャ橋[14][注釈 4]がある。

スィナンはイスタンブルの水道設備を保守・改善する傍ら、いくつかの都市でアーチを持つ上水道の建築を行った。アリベイ川トルコ語版の上方35メートルを立体交差して跨ぎ、257メートルの長さを持つマグロヴァ疎水英語版は、2段アーチを持つ構造であり、彼の水道建築の特徴をよく表している。

スィナンが建築事業に取り組み始めたとき、オスマン帝国の建築は高い有用性があることが求められた。既存の類型を繰り返しなぞり、型にはまった設計を基礎としていた、このころのオスマン建築は、全体を通して見た理念のようなものはなく、部分部分の単なる寄せ集めに過ぎなかった。新規なアイデアが避けられていたから、新しい建物に対して新しい設計を構想する建築家はいたかもしれないし、アシスタントや現場の人間は何をするべきかわかっていた。さらに、建築家たちは自分たちの設計が失敗しないように念には念を入れたため、材料と労働力の使い方に非常に大きな無駄を生む結果となっていた。スィナンはこれらすべてをゆっくりと時間をかけて変革していった。確立された建築方法に変革をもたらしたそのやり方は、伝統に新規な改善を加えることによってその伝統を拡大し、また変形することによって、その伝統を完成へと導こうとするものであった。

「徒弟の時代」

[編集]
トリカラクルスーム・ジャーミイ英語版ギリシア語版

この時期のスィナンの建築は、オスマン建築の伝統的なパターンをなぞってはいたが、次第に他の可能性を探索し始めていた。その理由は、彼が軍歴を重ねる中で、ヨーロッパや中東の新たに占領した町にあった建築上の重要性のある建物を研究する機会を得ていたからである。

1530年代半ば、スィナンは重要な建物を設計する機会をはじめて得た。シリアのアレッポに建てたヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイ(フスルウィーヤ・モスク)とそれに付属する2棟のマドラサである。ヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイは、スィナンの上役でアレッポのスルタンであった人物のために、2つの大きな遠征の合間を縫って、1536年から1537年の冬の時期に建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんざいな装飾に見て取れる。

シェフザーデ・ジャーミイ

帝室造営局の建築家として最初にうけた主要な依頼は、スレイマン1世の正后英語版ロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)のための、さほど大規模ではない複合的な居宅の建設であった。スィナンは先人の引いた線のとおりの設計をしなければならず、まったく創意のない、使える空間をただ伝統に従って並べただけの設計に終始した。それでも妃の居宅はアレッポのモスクよりもうまく建てることができ、ある種の気品を漂わせた。もっとも、その後、この妃の居宅は多くの修繕に苦しんだ。1537年に南アルバニアヴロラに建てられた防御塔の設計もスィナンの手によるものとされている。ヴロラはスレイマン1世のイタリア遠征時に陣を張った町であるが[15][16]、そこにスィナンが建てたムラディーエ・ジャーミィ英語版の防御塔は、テッサロニキの白塔に非常によく似ている[17]

1541年に大提督バルバロス・ハイレッディンの墓廟 (türbe) の建設に取り掛かる。この墓廟が建てられたベシクタシュ地区は、イスタンブルのヨーロッパ側の岸辺にあり、提督の軍船がよく集結した場所であった。奇妙なことに提督はその墓廟ではなく、その近くにあるイスケレ・モスク(下述)に埋葬された。そのとき以来現在まで、この墓廟の存在はほとんど無視されていた。

スレイマン1世の一人娘で、大宰相リュステム・パシャの妻、ミフリマーフ・スルタン英語版の委嘱により建設したウスキュダルのイスケレ・モスク(ミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (ウスキュダル)として知られる)は、マドラサ(大学)、イマレット(厨房)、メクテブ(クルアーン学校)が付属する大規模な複合施設であり、広々とした高い中央の空間、すらりとしたミナレット(尖塔)、単一のドーム天蓋、両翼に広がる3つの半ドームが3つのエクセドラに突き当たる構造、幅広の二重ポルチコといったいくつかの点で、スィナンの円熟期の様式の特徴を見て取ることができる。なお、イマレットは現存しない。建設の完了は1548年。二重ポルチコが建設されたのはオスマン建築史上初めてではないが、これを機に公共のモスクやワズィールが建てるモスクなどに流行する。内側のポルチコの柱頭に鍾乳石が用いられ、外側のポルチコの柱頭がシェヴロン・パターン(V字)英語版で造作されたこの二重ポルチコを見たミフリマーフとリュステム・パシャは、イスタンブルの3つのモスクと、テキルダーのリュステム・パシャ・モスクにも二重ポルチコの設置を所望した。

1543年11月、スィナンが上述のイスケレ・モスクの建設を始めたばかりのころ、スィナンは急遽、スレイマン1世に新しいジャーミイの建設を命じられた。そのジャーミイは、大帝の最もかわいがっていた息子の墓廟に付随する大規模なものであって、大帝はバルカン半島への何度目かの遠征から帰還したある日に突然、皇太子シェフザーデ・メフメトが齢22で亡くなったという知らせを受け取ったのであった。このシェフザーデ・ジャーミイ英語版には、それまでのスィナンの建築作品のどれよりも大規模、且つ、野心的な試みが盛り込まれることになった。そのため、建築史の専門家からは、スィナン最初の傑作であるとの評価がなされている。

大きなドームを中心にするという構想に取り憑かれたスィナンは、ディヤルバクルファティフ・パシャ・ジャーミイトルコ語版や、ハスキョイ英語版のピーリー・パシャ・ジャーミイのようなモスク建築の設計の仕事を始めた。スィナンがペルシア遠征に従軍した際に、上の2つのモスクを訪れた可能性は高く、遠征以後に設計した中央ドームを持つモスクにおいては4つの同じ大きさの半ドームが中央ドームに付随する設計がなされている。この上部構造は巨大ではあるが優美な、八角になるように丸溝が彫られた自立する4本の支柱により支えられ、これらの支柱がそれぞれ横の壁に合体する。四隅の箇所では、屋根を越える高さにそれぞれ尖塔が延び、建物をしっかり定位させる働きをする。この整然とした建築コンセプトは、既に伝統的なオスマン建築に何かを付け足したような設計とは異なっており、特筆される。セデフカル・メフメト・アーガー英語版は、のちに彼が設計したスルタン・アフメト・ジャーミイにおいて、その外見を少しでも軽く見せようとして、丸溝を彫った支柱のコンセプトを流用する。しかしながら、スィナンは同じ手を別のモスクでもう一度使おうとはしなかった。

「職人の時代」

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「壮麗者」スレイマン1世が権力の絶頂にあったのは1550年までである。彼は早世した息子のために大モスクを建てた今こそ、自らの名前を冠した大モスクの建設をするべきときのように感じた。金角湾を見下ろすなだらかな傾斜の丘の上に建ち、他のどんなものよりも偉大な記念碑となるジャーミイを。資金に問題はなかった。スルタンが長年にわたってヨーロッパやペルシアを相手に遠征を繰り広げた結果手に入れた戦利品や領土があるためである。スレイマンはスィナンにジャーミイを建造の勅命を発した。スルタンの希望はジャーミイに大規模なキュッリエ英語版が付属するもので、ジャーミイを中心に4つのマドラサ、1つのイマレット、病院、難民収容所、ハンマームキャラヴァンサライ、そして旅人の宿泊所タブハーネ(普通は遊行デルヴィーシュを泊めるためのもの。3日間は無料で泊まれる。)が取り囲むものであった。いまや大量のアシスタントを抱える大きな役所の長になっていたスィナンは、この手ごわい案件に7年の歳月をかけて取り組み、完成させた。こうして完成したスレイマニエ・ジャーミイは、屋根部分の構造が立方体を半分に切った形状をしている。この半立方体の屋根形状は既存のモスクにはなかったものであり、スィナンはこれのアイデアをアヤソフィアから得たと見られる。スィナンはルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの思想を知っていたに違いない。それというのもアルベルティもまた理想の教会にこだわり、建築における幾何学的な完全性を通して調和を表現したからである。なお、アルベルティは建築理論をローマ時代の建築家ウィトルウィウスの著作『建築について』に学んでいる。しかしながら、東地中海世界の西側の建築家と対照的なところは、スィナンが豊富化よりも簡素化により強い興味を示していることである。彼は単一の中央ドームの下に、できる限り大きな容積が確保されるようにした。ドームは真円を基本に成り立っている。真円は幾何学的に完全な図形であって、神の完全性を抽象的に表現する。スィナンは建物の形状や比率に微妙な幾何学的関係が保たれるようにしていたが、スレイマニエ・ジャーミイの場合はそれぞれの関係が2の倍数になることを基調にした設計を行った。後年ではソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ英語版(イスタンブルの港地区)などで見られるように、ドームの形状や横幅を制作する際、3分割や2対3の比率もよく使うようになった。

スィナンがスレイマニエの建設にかかりきりになっている間にも、スィナンの弟子たちが設計図を描き、現場に出向いて職人に指示をして、多くの建物を建てていった。そうした建造物についてもスィナンの名前がクレジットされており、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャの名前を冠したモスクや、スレイマニエと同じ地区に属する1551年に建てられた霊廟などもスィナンの作と伝えられる。

クリミア半島イェウパトーリヤ金曜モスク英語版ジュマ・ジャーミイ

次代の大宰相リュステム・パシャもスィナンに多くの依頼を行った。1550年前後にスィナンは彼の依頼により、イスタンブルのガラタ地区エディルネエルズルムに大きな旅籠(ハーネ)を建てた。イスタンブルの八角形のマドラサもリュステムの依頼による。

1553年から1555年の間にスィナンがイスタンブルのベシクタシュ地区に建てたスィナン・パシャ・ジャーミイ英語版は、大提督スィナン・パシャ英語版に奉献するモスクであるが、エディルネのウチュ・シェレフェリ・ジャーミイ英語版を小さくしたような構造をしている。このことからわかるのは、スィナンが他の建築家の作品を徹底的に研究していたということである。とりわけ、スィナンは、自分が維持管理の責任を負っていた建造物を研究していた。彼は昔の構造を模倣し、建築上の弱点について思索をめぐらした。その上で解決策を編み出し、その弱点を克服しようとした。その好例が、1554年にイスタンブルに建てたカラ・アフメト・パシャ・ジャーミイ英語版である。このモスクは、次代の大宰相カラ・アフメト・パシャに奉献したものであり、スィナン・パシャ・ジャーミイで模倣した構成がふたたび採用されているが、六角形の平面プランを有している。この特徴的な平面プランは初めて試みたものであり、これにより4つの副ドームを半ドームに縮小し、45度の角度をつけて各々のコーナーに設置することが可能になった。この設計はのちに、ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ英語版ウスキュダルアティック・ヴァリデ・ジャーミイ英語版にも用いられた。

1556年にスィナンはハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム英語版を建設した。これはアヤソフィア寺院に近接したところに古くからあるゼウクシッポスの公共浴場英語版を一度取り壊してから再建したものであって、スィナンが手がけたハンマームの中で最も美しいものの一つであろう。1559年に今度は、アヤソフィアの前庭の下手にチャフェル・アーガー・メドレセを建てた。同年、ボスポラス海峡沿いの町にエジプト総督イスケンデル・パシャ英語版のモスクも建てたが、これはスィナンの役所が年中請け負っていた、細かなルーチンワークの一つにすぎない。

1561年にリュステム・パシャが亡くなる。寡婦となったミフリマーフ・スルタンの監修の下、スィナンは同年からかの大宰相を追慕するモスク英語版の建設を始めた。今回、中央部の形状に採用されたのは八角形である。四隅に半ドームを配したこの形状は、ハギオン・セルギオス・カイ・バッコス聖堂[注釈 5]に倣ったものである。同年にスィナンはシェフザーデ・ジャーミイ英語版の庭に、イズニクで産する最良のタイルを用いて装飾したリュステム・パシャの墓廟を建てた。

夫の遺産を受け継いだミフリマーフ・スルタンはもともと自分が持っていた資産も併せると膨大な富を持つようになり、いまや彼女自身のモスクを望んだ。そこでスィナンはイスタンブルの七つの丘の最も高い丘の上にあるエディルネ門英語版のある場所に姫のジャーミイを建てた。このミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (エディルネ門)英語版は隆起した高台の上に聳え立ち、景観にアクセントを与えている。建造は1562年から1565年にかけて行われた[18]。雄大さの表現に並々ならぬ関心を注いだスィナンの想像力は、このモスクで大きく花開いた。アーチ構造の支持構造として新しいやり方を用い、縦方向に空間を配置して窓として使える領域を増やした。中央ドームは高さ37メートル、直径20メートル。穹隅により方形の基礎の上に支えられる。基礎の上には3つのキューポラをそれぞれ有する2列の側廊も設けられた。方形の基礎の四隅にはそれぞれ巨大な柱が聳え立ち、多数の窓が開いたアーチ状の面に連結する。このアーチには15個の大きな窓と4つの円窓が設けられており、溢れんばかりの外光を堂内にもたらす。この革命的建築においてはオスマン建築が許される範囲内で最もゴシック建築に近づいた。

1560年から1566年の間にスィナンは、イスタンブルのアイヴァンサライを越えた丘の上にザール・マフムード・パシャ・ジャーミイ英語版を建設した。スィナンは確かに設計を考え建築を監督はしたが、建物の重要でないところは力量に劣る職人たちの手に任せた。なぜなら、スィナンとその最も優秀な部下たちは、今や彼の畢生の大作、エディルネのセリミーエ・ジャーミイの仕事に取り掛かろうとしていたからである。高く聳えるザール・マフムード・パシャ・ジャーミイの東側の外壁には、4層になる窓が穿たれており、この特徴がモスクを一種の宮殿か集合住宅のようにも見せていた。内側には3列の広い側廊があり、これがあることで内装をこぢんまりと見せている。また、この構造の重みがあることで、ドームが予期できぬほどに高くなっているように見せることに成功している。この側廊はセリミーエ・ジャーミイの側廊の予行演習であった。

「親方の時代」

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エディルネに建つセリミーエ・ジャーミイ、1575年建造。

スィナンの人生も終わりに差し掛かったこのころになると、彼は建物の内側を高尚で優雅な造作で統一しようとした。この目的を達成するため、中央ドームを支える柱以外の付加的な要素の一切が排除された。この設計思想に基づく作例は、ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイやセリミーエ・ジャーミイに見ることができる。その他の晩年の作においても空間や壁の扱いに、それ以前のオスマン建築にはなかったスィナンの試行錯誤が見られる。

自伝によるとスィナンはエディルネのセリミーエ・ジャーミイこそが自分の最高傑作であると認識していた。確かにこのモスクは伝統的なオスマン建築の縛りにとらわれることなく、古典期オスマン建築のすべてにおける絶頂であると言え、スィナン建築の到達点を示している。スィナンは建築中に「『アヤソフィヤより大きなドームは作れるわけなかろう、ましてやムスリムには』などとは金輪際言わせん」と発言したと伝えられる。そのため、千年古い偉大なアヤソフィヤへの、この対抗意識こそが本モスク設計の動機であったと考えられる。実際に、床からドームの天井までの高さはアヤソフィヤより高い(ただし、地上からの高さを測るとセリミーエのほうがアヤソフィヤより半メートルほど低い)。完成時には齢80を越えていたスィナンであったが、穹窿の内側にこの上なく全一化された空間を作り出すという狙いをついに実現させた。今回採用したのは直径31.28メートル、高さ42メートルの八角形の中央ドームである。このドームを支える大理石と御影石でできた8本の柱は柱頭を一切持たず、その代わりに入隅迫持もしくは持ち送りを持つ。これはアーチが柱の外側からだんだんと持ち上がってくるような視覚効果を生む。さらに、縦に長い側廊が遠方に配置されることでこの立体的効果が見るものの目に強く印象付けられる。堂内には立ち壁に多数設けられた窓から外光が降り注ぐ。中央ドーム構造体を支持するバットレスとして機能する半ドームがドーム下の四隅に設置されている。類まれな開放感と優美さを演出することによって、荷重や内壁の張力は隠されている。礼拝空間の四隅に建つ尖塔は高さ83メートル、当時のイスラーム世界においては最も高いミナレットであり、イスタンブルの町に威容を示す本モスクの形状に垂直方向のアクセントを与えている。

スィナンにより1577年に建造されたソコッル・メフメト・パシャ橋ボスニアヴィーシェグラード)はユネスコ世界遺産に登録された

ダマスクスで一番有名な建物と思われている、バラダ川沿いに建つテッキーヤ・スレイマニエ・ジャーミイ英語版及び付属のキャラヴァンサライや、ブルガリアの首都ソフィアで現在でも唯一、モスクとしての機能を果たし続けているバニャ・バシ・ジャーミイ英語版も、スィナンが設計したものである。

墓廟

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ミマール・スィナンの設計思想は、ムガル帝国シャー・ジャハーンの命により建造されたタージ・マハル廟の設計にも取り入れられた[19][20]

スィナンは1588年に亡くなり、自身が設計した霊廟に葬られた。それはイスタンブルのスレイマニエ・ジャーミイの敷地の北東、道を挟んでちょうど向かいにある。

スィナンが長となった政府の部門は広い範囲にわたり、たくさんの助手を育てた。彼らはスィナンに応えて名を上げた。そのような弟子の一人としては、スルタンアフメト・モスクの建築家、セデフカル・メフメト・アーガーがいる。スタリ・モスト橋の設計者もスィナンの弟子の一人である。ムガル帝国タージ・マハル廟の設計にもスィナンの弟子の一人が関わっている。

スィナンはたびたび同時代の西洋に生きたミケランジェロと比較される[21][22]レオナルド・ダ・ヴィンチ1502年に、ミケランジェロは1505年に、それぞれオスマン帝国中枢英語版金角湾に架ける橋の設計案を提出してみないかという誘いを受けていることからもわかるとおり、ミケランジェロと彼が設計したローマ聖ペトロ大聖堂はイスタンブルでよく知られていた[23]

民族的出自

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ミマール・スィナンの民族的出自が議論になる場合がある。エスノセントリズムやナショナリズムが絡んで、難しい問題になっている。

1935年にトルコの研究者グループにより、スィナン廟からスィナンの遺骸が掘り出された。当時は人種の優劣を云々する科学が広汎に支持されており、トルコの研究者グループは、「スィナンの頭蓋骨を測定したところ、彼は確かにトルコ人であることが証明された」と喧伝された[24]

アルメニアを包含していた頃のソ連の学者などは、アルメニア人説を唱えていた[25][26][27][28][29][30]。西側のイスラーム研究者に多い説はカッパドキア人英語版カッパドキアのギリシア系住民)説である[31][32][33][34][35][36][37]。その他に、アルバニア人説もある[38][39][40]。「キリスト教徒のトルコ人」とする説もある[41]。『ブリタニカ百科事典』はスィナンがアルメニア人の母とギリシア人の父を持つとした[2]

アルメニア人説の根拠は、セリム2世がヒジュラ暦981年ラマダーン月7日(西暦1573年12月30日ごろ)に発した勅命にある。この勅命は、スィナンの親族をカイセリのアルメニア人コミュニティすべてに言い渡したキプロス島への追放から免除することを、スィナンの求めにより許すとしたものである[28][42]。この勅命についてゴドフリー・グッドウィンは「1571年のオスマン帝国によるキプロス征服後、セリム2世が島の人口を回復させるためにエヤーレティ・カラマーン英語版からルーム人ミッレトに属する家族を移住させることを定めたところ、スィナンは一族を代表して裁定を求め、御前会議から一族の追放を免除する2通の勅命を獲得した」と主張している[36]。ハーバート・ミュラーによると、スィナンは「以前はアルメニア人であったようである」という[43]タフツ大学のルーシー・デル・マヌエリアンは「帝国の公文書やその他の文字資料に基づくと、彼はアルメニア人とみなせるであろう」という[44]

カッパドキア人説を支持する学者たちは、スィナンの父親の名前がギリシア人にはありふれた名前のクリストス(Χρήστος)であることから、父親は石工か大工であったことがわかるという[45][46]

アルバニア人説は、ムガル帝国皇帝バーブルが地元インドの建築と設計にまったく満足せず「オスマン帝国の棟梁、アルバニアの天才、スィナンの弟子の幾人かを、彼の建て方で建てさせるために」インドに招待したという記述に基づく(イギリスの学者パーシー・ブラウンとインドの学者ヴィディヤ・ダル・マハジャンなど)[47][48][38]

脚注

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注釈

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  1. ^ ミマールとミーマールの違いは咽頭閉鎖音のカナ転写の表記ゆれの問題で、アーガーをアーと書く場合もあるのはトルコ語を現代風に表記するかオスマン時代風に表記するのかの問題。
  2. ^ Orta. イェニチェリの軍制における大隊を意味する。
  3. ^ Mihrimah Sultan Mosque. ユスキュダル・キー・モスク(the Üsküdar Quay Mosque)としても知られる。
  4. ^ 1961年ノーベル文学賞受賞作家、イヴォ・アンドリッチの代表作「ドリナの橋」で有名である。
  5. ^ 4世紀シリアリサーファ英語版で殉死した聖人セルギオスとバッコス英語版に奉献するため6世紀に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世コンスタンチノープルに建てた修道院教会。16世紀前半にモスクに改装された。現キュチュク・アヤソフィア・ジャーミイ英語版ファティフ地区英語版の海辺にある。

出典

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    The son of Greek or Armenian Christian parents, Sinan entered his father’s trade as a stone mason and carpenter."
     
  3. ^ Goodwin (2001), p. 87
  4. ^ a b ビタール『オスマン帝国の栄光』(創元社、1995年)
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  44. ^ Architects, Craftsmen, Weavers: Armenians and Ottoman Art”. Abstracts from the International Conference ARMENIAN CONSTANTINOPLE organized by Richard G. Hovannisian, UCLA, May 19–20, 2001. Social Sciences Division University of California, Los Angeles. 2014年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月13日閲覧。
  45. ^ Muqarnas, Volume 24 History and Ideology: Architectural Heritage of the lands of Rum, p. 179, Gurlu Necipoglu, Bril, 2007, ISBN 978-90-04-16320-1
  46. ^ Constantinople, de Byzance à Stamboul, Celâl Esad Arseven, H. Laurens, 1909
  47. ^ Brown, Percy (1942). Indian architecture: (The Islamic period). Taraporevala Sons. p. 92. https://books.google.com/books?id=SnlNAAAAMAAJ&q=architect+sinan+had+albanian+origin&dq=architect+sinan+had+albanian+origin&hl=en&sa=X&ei=LoZ8T9iVMPP04QS8gM26DA&ved=0CFoQ6AEwCA 2012年4月5日閲覧. "… the fame of the leading Ottoman architect, Sinan, having reached his ears, he is reported to have invited certain pupils of this Albanian genius to India to carry out his architectural schemes." 
  48. ^ Mahajan, Vidya Dhar; Savitri Mahajan (1962). The Muslim rule in India, Volume 1. S.Chand. p. 210. https://books.google.com/books?id=bOG1AAAAIAAJ&q=He+had+a+mind+to+invite+from+Constantinople+a+pupil+of+Sinan,+the+famous+Albanian+architect,+to+assist+him+in+his+building+projects.&dq=He+had+a+mind+to+invite+from+Constantinople+a+pupil+of+Sinan,+the+famous+Albanian+architect,+to+assist+him+in+his+building+projects.&hl=en&sa=X&ei=lvt_T4XPL9PS4QSv69S4Bw&ved=0CD4Q6AEwAw 2012年4月7日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • ビタール, テレーズ『オスマン帝国の栄光』鈴木董監修、創元社〈知の再発見双書51〉、1995年11月10日。ISBN 4-422-21111-0 
  • 鈴木董『図説イスタンブル歴史散歩』河出書房新社、1993年
  • 長場紘『イスタンブル 歴史と現代の光と影』慶應義塾大学出版会、2005年
  • ヤマンラール水野美奈子「スィナン」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年

関連文献

[編集]
  • (French) Roux, Jean-Paul (1988). "Les Mosquées de Sinan", Les Dossiers d'archéologie, May 1988, number 127.
  • (French) Stierlin, Henri (1988). "Sinan et Soliman le Magnifique", Les Dossiers d'archéologie, May 1988, number 127.
  • (French) Topçu, Ali (1988a) "Sinan et l'architecture civile", Les Dossiers d'archéologie, May 1988, number 127.
  • (French) Topçu, Ali (1988b)."Sinan et la modernité", Les Dossiers d'archéologie, May 1988, number 127.
  • (アルメニア語) Alboyajian, Arshag A. Պատմութիին հայ Կեսարիոյ (History of Armenian Kayseri). 2 vols. Cairo: H. Papazian, 1937.
  • (Turkish) Çelebi, Sai Mustafa (2004). Book of Buildings : Tezkiretü'l Bünyan Ve Tezkiretü'l-Ebniye (Memoirs of Sinan the Architect). Koç Kültür Sanat Tanıtım ISBN 975-296-017-0
  • (Turkish) Kuran, Aptullah; Ara Güler (Illustrator); Mustafa Niksarli (Illustrator). (1986) Mimar Sinan. Istanbul: Hürriyet Vakfi. ISBN 3-89122-007-3
  • De Osa, Veronica (1982). Sinan the Turkish Michelangelo. New York: Vantage Press ISBN 0-533-04655-6
  • (German) Egli, Ernst (1954). Sinan, der Baumeister osmanischer Glanzzeit, Erlenbach-Zürich, Verlag für Architektur; ISBN 1-904772-26-9
  • Goodwin, Godfrey (2001). The Janissaries. London: Saqi Books. ISBN 978-0-86356-055-2
  • Goodwin, Godfrey (2003). A History of Ottoman Architecture. London: Thames & Hudson Ltd (1971, reprinted 2003) ISBN 978-0-500-27429-3
  • Güler, Ara; Burelli, Augusto Romano; Freely, John (1992). Sinan: Architect of Suleyman the Magnificent and the Ottoman Golden Age. WW Norton & Co. Inc. ISBN 0-500-34120-6
  • Kinross, Patrick (1977). The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire London: Perennial. ISBN 978-0-688-08093-8
  • Kuran, Aptullah. (1987). Sinan: The Grand Old Master of Ottoman architecture, Ada Press Publishers. ISBN 0-941469-00-X
  • Necipoĝlu, Gülru (2005). The Age of Sinan: Architectural Culture in the Ottoman Empire. London: Reaktion Books. ISBN 978-1-86189-244-7 
  • Rogers, J M. (2005). Sinan. I.B. Tauris ISBN 1-84511-096-X
  • Saoud, Rabat (2007). Sinan: The Great Ottoman Architect and Urban Designer. Manchester: Foundation for Science, Technology and Civilisation.
  • Sewell, Brian. (1992) Sinan: A Forgotten Renaissance Cornucopia, Issue 3, Volume 1. ISSN 1301-8175
  • Stratton, Arthur (1972). Sinan. Macmillan Publishers. ISBN 0-333-02901-1 
  • Turner, J. (1996). Grove Dictionary of Art, Oxford University Press, USA; New Ed edition; ISBN 0-19-517068-7
  • Van Vynckt, Randall J. (editor). (1993) International Dictionary of Architects and Architecture Volume 1. Detroit: St James Press. ISBN 1-55862-089-3
  • Vasari, G. (1963). The Lives of Painters, Sculptors and Architects. (Four volumes) Trans: A.B. Hinds, Editor: William Gaunt. London and New York: Everyman.
  • Wilkins, David G. Synan in Van Vynckt (1993), p. 826.
  • A Guide to Ottoman Bulgaria" by Dimana Trankova, Anthony Georgieff and Professor Hristo Matanov; published by Vagabond Media, Sofia, 2011 [1]
3次資料

関連作品

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  • 夢枕獏『シナン』 上、中央公論新社、2007年11月。ISBN 978-4-12-204934-5 
  • 夢枕獏『シナン』 下、中央公論新社、2007年11月。ISBN 978-4-12-204935-2 
  • 夢枕獏「第7章 シナン―神が見える家」『夢枕獏の奇想家列伝』文藝春秋、2009年3月19日。ISBN 978-4-16-660689-4 

関連項目

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外部リンク

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