コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「横田豊秋」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
NXA90D (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
156行目: 156行目:
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:日本の俳優]]
[[Category:日本の俳優]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:サイレント映画の監督]]
[[Category:サイレント映画の監督]]
[[Category:サイレント映画の俳優]]
[[Category:サイレント映画の俳優]]

2016年6月8日 (水) 05:59時点における版

よこた とよあき
横田 豊秋
別名義 宇留木 浩
うるき ひろし
生年月日 (1903-08-27) 1903年8月27日
没年月日 (1936-08-28) 1936年8月28日(33歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市麹町区内幸町
(現:東京都千代田区
民族 日本人
職業 映画監督脚本家俳優
ジャンル 映画
活動期間 1921年 - 1936年
テンプレートを表示

横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督脚本家俳優である。撮影助手、撮影技師助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。

来歴・人物

撮影助手から映画監督へ

1903年(明治36年)8月27日東京市麹町区内幸町1-5[1](現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・豊田冬)である。

当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる[2]。まもなく江川のいる大活に移籍、撮影助手を続ける。

同年夏、大活の撮影所を借りて撮影された映画『真夏の夜の夢』で俳優としてデビューした平田延介(のちの山本嘉次郎)と知り合う[2]。以来長いつきあいが始まる。同社の撮影所閉鎖で江川は獏与太平内田吐夢井上金太郎らと京都入りし、牧野省三の「牧野教育映画製作所」の設立に参加するが、横田は平田が1922年(大正11年)2月、東京・深川区(現在の江東区深川)に設立した「無名映画協会」に撮影技師として参加した[2]。同協会は『ある日の熊さん』(詳細不明)、『未来の大名優』(監督近藤伊与吉、5月19日公開)の短篇2本を撮って解散した。このころまだ横田は19歳である。

1923年(大正12年)、平田が京都の小笠原プロダクションで『愛の導き』に出演し、翌1924年(大正13年)、早川プロダクション製作の『熱火の十字球』の監督に平田が抜擢されると、横田はその監督助手をつとめた[2]。同年秋、大活で俳優だった井上が監督として活躍している、西宮市甲陽園東亜キネマ甲陽撮影所に入社し、平田が「山本嘉次郎」名で監督する『断雲』の監督助手となった。

1925年(大正14年)、山本とともに東京に戻り、高松豊次郎率いる東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島)の「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」に入り[2]、同撮影所でマキノ・プロダクション製作の『輝ける扉』を山本が監督、横田は助手についた。引き続きマキノ製作の近藤伊与吉主演作『男児一諾』で、主演兼監督の山本の共同監督として、22歳の横田が監督デビューした。横田の昔仲間の江川(西山普烈名義)も出演している同作は、翌1926年(大正15年)1月22日、浅草「大東京」で公開された。同年監督として一本立ちし、近藤主演の『港の謙吉』、国枝史郎原作、佐久間八郎主演の『銅銭会事変』を監督する一方で、監督と役者の境目のない同社の社風から、役者の近藤と長崎武が共同監督した『楠公の唄』に主演、俳優としてデビュー、引き続き友成用三監督の山本の主演作『陽炎の舞』に江川(西山名義)とともに出演する。同社では江川も1本監督している。

脚本家から映画スターへ

1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所の俳優森野五郎日活大将軍撮影所の俳優だった片岡松燕がそれぞれ独立して設立したプロダクションの合同製作で、『恋の四千両』を監督、引き続き『狂恋魔刃』を片岡松燕プロダクションで監督するが、先に京都の日活大将軍に入社した山本を頼って、横田も同撮影所に入った。同撮影所では書いた脚本は映画化にまで至らず、太秦への移転にともなって異動した1930年(昭和5年)から、『怪盗夜叉王』をはじめとする映画化脚本を「宇留木浩」名で数本書く。当時の同撮影所長・池永浩久の命令で俳優に転向[2]木藤茂監督の『彼女への飛来』に宇留木名義で主演する。以降、専業俳優「宇留木浩」となり、山本の監督作にも出演した。1934年(昭和9年)の日活現代劇部の多摩川撮影所(現在の東京都調布市、角川大映スタジオ)への移転にともない、多摩川に異動になる[2]

1935年(昭和10年)、前年に東京・砧のP.C.L.映画製作所に移った山本を追い、宇留木は山本が監督をする夏目漱石原作の映画『坊つちやん』の主役試験に合格、この1作で宇留木はスターとなった[1]。以降同年中に、山本や成瀬巳喜男木村荘十二矢倉茂雄らの監督作に7本出演した。山本がPCL入りした年に、妹の細川ちか子も舞台女優から転身して同社に入社しており、木村監督の『三色旗ビルディング』などで「兄妹共演」をしている。

1936年(昭和11年)も5本に出演し、同年8月21日には歌手の藤山一郎主演、矢倉監督の『大洋の寵児』が「日本劇場」ほかで公開になった。映画公開の同日、浅草の「花月劇場」で宇留木主演の舞台版『坊つちゃん』が開幕になり、27日に千秋楽を迎えた。終演後の夜、迎えに来た妻と浅草公園六区のてんぷら屋での食事後、突然の狭心症に倒れる。その夜も明けぬ同年28日午前1時に死去[1]。33歳没。

フィルモグラフィ

特筆以外はすべて無声映画である。

撮影技師

1922年 無名映画協会

監督

1926年
1927年

脚本家

1930年 日活太秦撮影所
1931年 日活太秦撮影所
  • 江戸美少年録 原作・脚本 監督清瀬英次郎、撮影渡会六蔵、主演沢田清
  • 江戸っ子市場 原作のみ 監督清瀬英次郎、脚本薬師寺雅江・八森重与詩、撮影渡会六蔵、主演沢田清
1932年 日活太秦撮影所

俳優

1932年 日活太秦撮影所
1933年 日活太秦撮影所
1934年 日活太秦撮影所
1935年 P.C.L.映画製作所 (トーキー)
1936年 P.C.L.映画製作所
  • 女軍突撃隊 監督木村荘十二、原作中野実、脚本永見柳二、撮影三村明、音楽紙恭輔、主演藤原釜足
  • 求婚三銃士 監督矢倉茂雄、原作佐々木邦、脚本伊馬鵜平・阪田英一、撮影友成達雄、音楽伊藤昇、主演千葉早智子
  • 歌ふ弥次喜多 監督岡田敬・伏水修、原作・主演古川緑波、脚本阪田英一、撮影吉野馨、音楽鈴木静一、共演藤原釜足、徳山璉
  • 吾輩は猫である 監督山本嘉次郎、原作夏目漱石、脚本小林勝、撮影唐沢弘光、音楽紙恭輔、主演徳川夢声
  • 大洋の寵児 監督矢倉茂雄、原作古川緑波、脚本永見柳二、撮影友成達雄、音楽古賀政男・紙恭輔、主演藤山一郎 ※遺作

関連事項

  1. ^ a b c 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「横田豊秋」の項(p.442)を参照。同項執筆は岸松雄
  2. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「宇留木浩」の項(p.85-86)を参照。同項執筆は吉田智恵男

外部リンク