コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ボ・ディドリー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:ロック・ミュージシャンのカテゴリ修正依頼 - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:ポップ歌手のカテゴリ修正依頼: 性別付け - log
113行目: 113行目:
[[Category:ロックの殿堂入りの人物]]
[[Category:ロックの殿堂入りの人物]]
[[Category:ブルースの殿堂入りの人物]]]
[[Category:ブルースの殿堂入りの人物]]]
[[Category:アメリカ合衆国のシンガーソングライター]]
[[Category:アメリカ合衆国の男性シンガーソングライター]]
[[Category:アメリカ合衆国のロック歌手]]
[[Category:アメリカ合衆国の男性ロック歌手]]
[[Category:アメリカ合衆国のギタリスト]]
[[Category:アメリカ合衆国のギタリスト]]
[[Category:1928年生]]
[[Category:1928年生]]

2016年11月12日 (土) 01:15時点における版

ボ・ディドリー
Bo Diddley
ボ・ディドリー (1997年)
基本情報
出生名 Ellas O.B. McDaniel
生誕 1928年12月30日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシシッピ州マコム
死没 (2008-06-02) 2008年6月2日(79歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州アーチャー
ジャンル ロックンロール
ブルース
職業 ミュージシャン
歌手
担当楽器 ギター
活動期間 1955年 - 2008年
レーベル チェッカー・レコード
公式サイト 公認サイト

ボ・ディドリーBo Diddley, 本名:エラス・O・B・マクダニエル, Ellas O.B. McDaniel, 1928年12月30日 - 2008年6月2日)は、アメリカロックンロールシンガーギタリストボ・ディドリー・ビートと称される強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、ブルースロックンロールの掛け橋となり、チャック・ベリーリトル・リチャードらとともにロックンロールの生みの親のひとりとして知られるようになった。ローリング・ストーンズU2など、数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第20位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第37位、2011年の改訂版では第27位[1]

キャリア

1928年ミシシッピ州マコムに生まれる。出生時の名前はエラス・オサ・ベイツであったが、生後まもなく、実母のいとこガシー・マクダニエルに養子に出された。このため、義理の母親の姓を名乗るようになる。1930年代半ばに、家族とともにイリノイ州シカゴに移住。

最初に手にした楽器はバイオリンであった。12歳のときに姉のルシールからギターをプレゼントされ、ギターも練習するようになった。 彼の芸名となった「ボ・ディドリー」はこの頃生まれたものである[2]

ジョン・リー・フッカーを耳にして感銘を受けたディドリーは、バイオリンを止めてギターに専念するようになっていった。10代の頃からギターを手に路上で演奏活動を展開し、1950年代に入ると、マラカスのジェローム・グリーン、ハーモニカのビリー・ボーイ・アーノルドらとプレイするようになる。そして1955年チェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約し、デビュー・シングル "Bo Diddley" b/w "I'm A Man" をリリースした。これがR&Bチャートのトップに昇りつめる大ヒットを記録し、一躍スターの地位を獲得する。

同年、黒人アーティストとしては初めて『エド・サリヴァン・ショー』への出演を果たすが、番組側から指定された曲の演奏を断り、自らのレパートリーを演奏したことから、以後出演禁止となってしまった。

以後、デビュー曲を越えるヒットは生まれなかったものの、"Crackin Up"1959年, R&Bチャート14位)、"Road Runner"1960年, 同20位)、"You Can't Judge A Book By The Cover"1962年, 同21位)などのヒットを飛ばした。

1967年"Ooh Baby"(R&Bチャート17位)以降はヒットこそなかったものの、演奏活動を続けた。1987年にはロックの殿堂入りを果たした。

来日は、1988年ロン・ウッドとのツアー、1992年ジャパン・ブルース・カーニバル1997年の単独ツアー、2001年ブルーノート東京公演がある。

1998年には映画ブルース・ブラザース2000』に出演している。

80歳を目前に控えても精力的にツアーをこなしていたが、2007年5月13日、公演先のアイオワ州カウンシルブラフスで、脳卒中のため入院した。5月末には退院したものの、後遺症を改善するためにリハビリ・センターに入所した。

2008年6月2日フロリダ州アーチャーの自宅にて心不全のため死去した[3]。79歳だった。

特徴

彼のサウンドは、トレードマークともいえるボ・ディドリー・ビートを前面に押し出しているのが特徴である。コードやメロディーは非常にシンプルなものが多く、リズムが彼の曲を形作っていると言っても過言ではない。このリズムは、例えばバディ・ホリー"Not Fade Away" のように他のアーティストによって引き継がれ、のちのロックにも大きな影響を与えた。

オープンEチューニングによって、指1本だけでコードを弾くことができた。また、ギターのキーは曲に合わせてカポタストで調節していた。

主にグレッチのギターを使用しており、彼のトレードマークともいえるボディが長方形のギターや、ジュピター・サンダーバードなど自身の要望・デザインでグレッチに発注した奇抜なデザインの変形ギターを使用することでも有名であった。なお、箱のようなボディーの形は、葉巻の空き箱を利用して作る米国の伝統的3弦(2弦、4弦もあり)スライドギターであるシガー・ボックス・ギター(en:Cigar Box Guitar:CBG)と酷似している。また、彼のオープン・チューニング、1本指奏法もシガー・ボックス・ギターのオープン・チューニング(主にGDGのオープンGだが決まりは無い)・ボトルネック奏法と共通している。更に、彼の名前ボ(-)・ディドリー(Bo Diddley)も伝統的な1弦スライド・ギター、ディドリー・ボウ(en:Diddley Bow)に因んでいることを思わせる。

ディスコグラフィ

注釈

  1. ^ Rolling Stone 100 Greatest Guitarists of All Time
  2. ^ その由来については、南部黒人スラングで「何でもない」を意味する、あるいは南部の黒人が弾いていた一弦ギター、ディドリー・ボーをもじったものであるなど諸説あるが、実のところはわかっていない。
  3. ^ Rock 'n roll legend Bo Diddley dies in Florida (Reuters)

外部リンク

]