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「フレデリック・バジール」の版間の差分

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'''ジャン・フレデリック・バジール''' ({{Lang|fr|Jean Frédéric Bazille}}, [[1841年]][[12月6日]] – [[1870年]][[11月28日]])は、[[フランス]]の[[印象派]]の画家。バジールの作品の多くは[[人物画]]であり、[[戸外制作]]で描いた風景の中に主題の人物を配置している<ref name="bio">{{cite web
'''ジャン・フレデリック・バジール''' ({{Lang|fr|Jean Frédéric Bazille}}, [[1841年]][[12月6日]] – [[1870年]][[11月28日]])は、[[フランス]]の[[印象派]]の画家。
|url=http://www.wetcanvas.com/Museum/Artists/b/Frederic_Bazille/index.html |title=Frédéric Bazille: A Tragic Story |publisher=WetCanvas |accessdate=June 20, 2011}}</ref>。


== 生涯と作品 ==
== 概要 ==
バジールは、南仏[[モンペリエ]]の裕福な家庭に生まれ、1862年(21歳頃)、パリに出て絵画の勉強をするため、[[シャルル・グレール]]の画塾に入った。そこで、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌといった仲間と知り合った。彼らは、当時の規範であった[[アカデミズム絵画]]に飽き足らない、[[戸外制作]]などを通じた新しい絵画を目指して交友を深め、バティニョール派と呼ばれるようになった。経済的余裕のあるバジールは、仲間の絵を買ったり、自分の借りたアトリエを使わせたりして、仲間を支援した。
[[ファイル:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|thumb|333px|フレデリック・バジール『バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り』1870年、[[オルセー美術館]]。左から腰掛けているのが[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノアール]](もしくはシスレー)、階段の上は[[エミール・ゾラ]](もしくはモネ)、真中は[[クロード・モネ|モネ]](もしくは[[ザカリー・アストリュク]])と帽子を被った[[エドゥアール・マネ|マネ]]、その右が長身のバジール、右でピアノを弾いているのは音楽家の{{仮リンク|エドモンド・メートル|fr|Edmond_Maître}}<ref>The Art Book, 1994 Phaidon Press, page 33, ISBN 91-0-056859-7 http://uk.phaidon.com/store/art/the-art-book-mini-format-9780714836256/</ref>。]]
フレデリック・バジールは、フランスの[[ラングドック=ルシヨン地域圏]]・[[エロー県]]の[[モンペリエ]]で、裕福な[[プロテスタント]]の家庭に生まれた。彼は[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の作品を見て絵画制作に興味をもった。家族は絵画の勉強を許してくれたが、医学も同時に勉強するという条件つきであった<ref name="bio"/>。


1866年以降、[[サロン・ド・パリ]]に度々入選するが、サロンの審査に不満を抱き、サロンから独立したグループ展の構想を仲間と温めていた。しかし、1870年に勃発した[[普仏戦争]]に志願して参戦し、28歳の若さで戦死した。1874年に始まる[[印象派]]グループ展を見ることはできなかった。
バジールは1859年に医学の勉強を始め, 1862年に勉学を続けるために[[パリ]]に出た。そこで[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]や[[アルフレッド・シスレー]]と会い, 印象派絵画に引き寄せられ、[[シャルル・グレール]]のアトリエで学び始めた。医学の試験に失敗した後は, 絵画に専念し始めた。彼が親しく付き合った友人には、[[クロード・モネ]]、[[アルフレッド・シスレー]]、[[エドゥアール・マネ]]がいる。バジールは裕福で気前がよい性格であったので、困っている友人たちに自分のアトリエや画材を使わせたりして支援を惜しまなかった<ref name="bio"/>。 例えば、1867年の[[サロン・ド・パリ]]に落選したクロード・モネの『庭の女たち』を2,500フランで買い取り、月に50フランずつの分割払いにして援助している<ref>クリストフ・ハインリヒ クロード・モネ 1840-1926 絶えず移り変わる現実の像 TASCHEN GmbH 日本語版 ISBN 978-4-887783-012-7, 2006, p20</ref>。


バジールが残した油彩画は、わずか70点ほどであるが、印象派誕生の貴重な記録となっている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 10)]]。</ref>。彼の代表作『家族の集い』は、戸外における人物群像を、優れた構成力と光のコントラストの下で描いた作品であり、才能が示されている。
『ピンクのドレス』(1864頃、[[オルセー美術館]])を含めて、彼のいくつかの代表作は、わずか23歳で描かれている。『ピンクのドレス』では女性(バジールのいとこテレーズとされる)の後姿を、彼女が見つめる日のあたる村の風景の中に配置している<ref>Rosenblum, 1989, p. 225</ref>。彼の最も有名な作品は『家族の集い』(1867–1868年 [[オルセー美術館]] パリ)である。


== 生涯 ==
[[普仏戦争]]の開戦1か月後、1870年8月に[[ズアーブ兵]]連隊に入った。1870年11月28日{{仮リンク|ボーヌ=ラ=ロランドの戦い|en|Battle of Beaune-la-Rolande}}に部隊とともに参戦したとき、負傷した上官に代わって指揮を執りプロイセン軍陣地に攻撃を掛けた。攻撃は失敗し彼は2度撃たれて、28才で戦場に斃れた。彼の父親は数日後に戦場を訪れ、亡き骸は1週間以上あとでモンペリエに埋葬された<ref>[http://www.jstor.org/view/00076287/ap030607/03a00140/0 Burlington magazine entry]</ref>。
=== 出生、画塾時代 ===
[[ファイル:Frederic Bazille ) Etienne Carjat.jpg|thumb|left|140px|1865年の写真。]]
フレデリック・バジールは、1841年、南仏[[ラングドック=ルシヨン地域圏]]・[[エロー県]]の[[モンペリエ]]で、裕福な[[プロテスタント]]中産階級の家庭に生まれた。少年時代、彼は、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の『[[アルジェの女たち]]』や『ライオンの穴の中のダニエル』に惹かれた。18歳の時、親から、医学を同時に勉強することという条件付きで、絵の勉強をすることを許され、医学部に進学した<ref name="wetcanvas">{{Cite web |url=http://www.wetcanvas.com/Museum/Artists/b/Frederic_Bazille/index.html |title=Frederic Bazille: A Tragic Story |publisher=wetcanvas.com |accessdate=2017-04-02}}</ref><ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 25)]]。</ref>。


[[1862年]]末、バジールは、[[パリ]]に出て、[[シャルル・グレール]]の画塾に入った。ここに入塾したのは、そこで学んでいたモンペリエ出身のカステルノーに勧められたからと思われる。その頃、[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[アルフレッド・シスレー]]もグレールの画塾に入り、彼らは親交を深めた。バジールとモネは、[[1863年]]の復活祭の期間、[[フォンテーヌブロー]]の森近くの[[シャイイ=アン=ビエール]]に写生に行った<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 12-13)]]。</ref>。バジールは、親への手紙で、モネを「画家の卵の中で一番の友達」と呼び、「フォンテーヌブローの森のそばの小さな村シャイイで1週間過ごしました。[[ル・アーヴル]]出身で、風景画がとてもうまい友達のモネと一緒でしたが、彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました。」と書いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 22)]]。</ref>。また、[[ルーヴル美術館]]で[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]や[[ティントレット]]の模写をした<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 84)]]。</ref>。
==主な作品==
* ''{{仮リンク|ピンクのドレス|fr|La Robe rose}}'' (1864) -<small> 147 x 110&nbsp;cm, [[オルセー美術館]]([[パリ]]) </small>
* ''{{仮リンク|フュルスタンベール街のアトリエ|fr|Atelier de la rue Furstenberg}}'' (1865) -<small> 80 x 65&nbsp;cm, [[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]]) </small>
* ''[[エーグ=モルトの風景]]'' (1867) -<small> 46 x 55&nbsp;cm, ファーブル美術館(モンペリエ)</small>
* ''{{仮リンク|バジールの自画像|en|Autoportrait (Bazille)}}'' (1865) -<small> 109x72 cm, [[シカゴ美術館]]</small>
* ''[[家族の集い]]'' (1867) -<small> 152 x 230&nbsp;cm, オルセー美術館(パリ)</small>
* ''[[網を持つ漁師]]'' (1868) -<small> 134 x 83&nbsp;cm, [[Foundation Rau pour le Tiers-Monde]]([[チューリヒ]]) </small>
* ''[[村の眺め]]'' (1868) -<small> 130 x 89&nbsp;cm, ファーブル美術館(モンペリエ) </small>
* ''[[夏の光景]]'' 1869 -<small> 158 x 158&nbsp;cm, [[フォッグ美術館]]([[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]、[[ハーバード大学]]) </small>
* ''[[お化粧部屋]]'' (1870) -<small> 132 x 127&nbsp;cm., ファーブル美術館(モンペリエ)</small>
* ''[[バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り]]'' (1870) -<small> 98 x 128.5&nbsp;cm, オルセー美術館(パリ) </small>
* ''[[レズ近辺の景色]]'' (1870) -<small> 137.8 x 202.5&nbsp;cm, [[ミネアポリス美術館]]([[ミネアポリス]]) </small>
* ''[[エーグ=モルトの女王の港]]'' (1867) -<small> 80.5 x 100 cm, [[メトロポリタン美術館]]([[ニューヨーク]]) </small>


この頃、バジールは、従兄弟のルジョーヌの家に集まっていた芸術家たちの中で、[[ポール・セザンヌ]]と知り合った。そして、セザンヌを通じて、同じ[[アカデミー・シュイス]]で勉強していた[[カミーユ・ピサロ]]や[[アルマン・ギヨマン]]とも知り合った。バジールは、セザンヌをルノワールに紹介した。こうして、バジールは、モネとともに、グレール画塾のメンバーとアカデミー・シュイスのメンバーとを結びつける役割を果たした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 14)]]。</ref>。
==ギャラリー==

<gallery widths="140px" heights="140px" perrow="4">
1863年の夏、モンペリエで過ごした後、パリに戻ると、グレールの病気のために画塾の閉鎖が検討されていることを知らされた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 22)]]。</ref>。バジールは、両親に、学生たちが非常に悲しんでいると手紙で書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 14)]]。</ref>。
<!--File:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|''バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り'' (1870年) [[オルセー美術館]]-->

File:Frédéric Bazille - The Little Gardener - Google Art Project.jpg|''庭師の少年'' (1866-67年) キャンバス 油絵 [[ヒューストン美術館]]
[[1864年]]5月には、モネとともに、[[ノルマンディー]]の[[ルーアン]]、[[オンフルール]]、[[サン=タドレス]]に滞在し、制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 22-23)]]。</ref>。オンフルールで、モネの敬愛する先輩風景画家、[[ウジェーヌ・ブーダン]]と[[ヨハン・ヨンキント]]に出会った<ref name="wetcanvas" />。バジールは、両親に、次のような手紙を書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 105-06)]]。</ref>。
File:Frederic Bazille Paysage au bord du Lez.jpg|''レズ近辺の景色'' (1870年) キャンバス 油絵 [[ミネアポリス美術館]]
{{Quotation|オンフルールに着いてすぐに、風景画のモチーフを探しに行きました。……こんなにも青々と茂った牧草や、こんなにも美しい木々は他の所にはありません。海、というより河口で広がっていく[[セーヌ川]]は、緑の塊に快い水平線を与えています。……あと3年か4年絵を続けて、自分で満足が行くようになりたいと思っています。間もなくパリに戻って大嫌いな医学に打ち込まなくてはいけません。ますます医学が嫌いになっていきます。}}
File:Frédéric Bazille - Renoir.jpg|''ルノアールの肖像'', (1867年) キャンバス 油絵 [[オルセー美術館]]
バジールは先にパリに帰ったが、オンフルールに残ったモネは、バジールに、この地で制作する喜びを手紙で伝えている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 23)]]。</ref>。バジールは、同年夏、モンペリエ郊外の村で、従姉妹のテレーズ (Thérèse des Hours) をモデルに『ピンクのドレス』を制作した<ref name="La robe rose" />。同年秋、医学の試験に落第し、モンペリエに帰省すると、両親は、とうとう絵を専門に勉強することを許した<ref name="wetcanvas" /><ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 106)]]。</ref>。
File:Jean Frédéric Bazille - L'ambulance improvisée.jpg|''病床のモネ'' (1865年) [[オルセー美術館]]

File:Jean Frédéric Bazille - Scène d'été.jpg|''夏の光景,'' (1869年) キャンバス 油絵 [[フォッグ美術館]]([[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]])
<gallery>
File:Frédéric Bazille - The Pink Dress - Google Art Project.jpg|''ピンクのドレス(キャステルノー=ル=レズの眺め)'' (1864年) キャンバス 油絵 [[オルセー美術館]]
ファイル:Frédéric Bazille - The Pink Dress - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|ピンクのドレス|fr|La Robe rose}}』1864年。油彩、キャンバス、148 × 110 cm。[[オルセー美術館]]<ref name="La robe rose">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/la-robe-rose-16134.html |title=La robe rose |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。
File:Bazille, Frédéric ~ La Toilette, 1869-70, Oil on canvas Musee Fabre, Montpelier.jpg|''お化粧部屋'' (1870年) [[ファーブル美術館]]
File:Bazille, Frédéric - Portrait of a Man.jpeg|''自画像'' (1867-1868年)
File:Bazille Studio in the rue de Furstenberg.jpg|''フュルスタンベール街のアトリエ'' (1865年) [[ファーブル美術館]]
File:Bazille-La vue de village.JPG|''村の眺め'' (1868年) [[ファーブル美術館]]
Image:Frédéric Bazille 001.jpg|''家族の集い'' (1867年頃) [[オルセー美術館]]
File:Bazille, Frédéric - Landscape at Chailly.jpeg|'' シャイイ風景'' (1865年) [[シカゴ美術館]]
</gallery>
</gallery>


=== フュルスタンベール通りのアトリエ ===
==脚注==
1864年末、バジールは、{{仮リンク|フュルスタンベール通り|fr|Rue de Furstemberg}}に構えたアトリエにモネを誘い、一緒に制作するようになった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 23)]]。</ref>。その冬、モネとバジールは、バジールの親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れた。ここで、[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[シャルル・ボードレール]]、[[ジュール・バルベー・ドールヴィイ]]、[[ナダール]]、ガンベッタ、ヴィクトール・マッセ、[[エドモン・メートル]]らと出会った。中でもメートルはバジールの親友になった。バジールは[[リヒャルト・ワーグナー]]のファンで、その点でもメートルと意気投合した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 110)]]。</ref>。
{{Reflist}}


[[1865年]]春、モネは再びシャイイに赴き、大作『草上の昼食』の制作を始め、バジールに、人物のためのモデルになってほしいと言って来るように誘った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 23-24)]]。</ref>。その夏、バジールはようやくシャイイに着いたが、着いてみると、モネは、事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態であった。バジールは、医学の知識を生かし、重りや毛布を使ってモネの痛みが和らぐようにしてやった。そして、その様子を絵に描いている<ref name="L'ambulance improvisée" />。結局、モネは、バジールをモデルに使って『草上の昼食』を仕上げた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 24)]]。</ref>。一方、バジールが制作した『シャイイの風景』は、彼らの先輩に当たる[[バルビゾン派]]に近い、静止した自然を描いたものとなっている<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 54)]]。</ref>。
==参考文献==

*Pitman, Dianne W. (1998). ''Bazille: Purity, Pose and Painting in the 1860s.'' University Park: Penn State University Press. ISBN 978-0-271-01700-6.
バジールは、'''[[1866年]]のサロン'''に、『ピアノを弾く少女』と『魚の静物』の2点を提出した。『ピアノを弾く少女』はバジールがあえて選んだ現代的主題であり、彼は、両親に「現代を選んだのは、僕が一番よく理解している時代だからだし、今の人々にとって最も生き生きとしていると感じられる時代だからですが、多分そのせいで落選するでしょう。」と書いている。そのため、落選を恐れて、同時に『魚の静物』を出すことにした<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 120)]]。</ref>。また、続けて、「応募者の数を考えると、私は落選するのではないかと非常に恐れています。明日にはそれは決定するでしょう。もし落選したら、[[落選展]]を開催する請願書に両手で署名するつもりです。」と書き、不安を表している。'''1866年のサロン'''は、審査委員に[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]や[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]が入ったため、バジールや仲間の画家の多くが入選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 31)]]。</ref>。それでも、予想どおり、『ピアノを弾く少女』は落選し、本人が余り気に入っていなかった静物のみが入選した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 125)]]。</ref>。
*Rosenblum, Robert (1989). ''Paintings in the Musée d'Orsay''. New York: Stewart, Tabori & Chang. ISBN 1-55670-099-7
<gallery>
ファイル:Bazille Studio in the rue de Furstenberg.jpg|『{{仮リンク|フュルスタンベール通りのアトリエ|fr|Atelier de la rue Furstenberg}}』1865年。油彩、キャンバス、80 × 65 cm。[[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]])。
ファイル:Jean Frédéric Bazille - L'ambulance improvisée.jpg|『病床のモネ』1865年。油彩、キャンバス、47 × 62 cm。[[オルセー美術館]]<ref name="L'ambulance improvisée">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/lambulance-improvisee-20408.html |title=L'ambulance improvisée |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。
ファイル:Bazille, Frédéric - Landscape at Chailly.jpeg|『シャイイの風景』1865年。油彩、キャンバス、81 × 100.3 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/44017 |title=Landscape at Chailly, 1865 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2017-04-01}}</ref>。
ファイル:Frédéric Bazille 004.jpg|『自画像』1865-66年。油彩、キャンバス、108.9 × 71.1 cm。シカゴ美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/110661?search_no=1&index=1 |title=Self-Portrait, 1865/66 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2017-04-01}}</ref>。
ファイル:Frédéric Bazille - Nature morte avec du poisson.jpg|『魚の静物』1866年。油彩、キャンバス、63.5 × 81.9 cm。[[デトロイト美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.dia.org/object-info/f4c2aa40-e07c-40eb-8610-5f4950938aed.aspx?position=1 |title=Still Life with Fish |publisher=Detroit Institute of Arts |accessdate=2017-04-03}}</ref>。
</gallery>

=== ヴィスコンティ通りのアトリエ ===
[[ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Frédéric Bazille.jpg|thumb|right|160px|ルノワール『バジールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、105 × 73.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref name="Renoir">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/frederic-bazille-17439.html |title=Frédéric Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-03}}</ref>。]]
バジールは、1866年7月、{{仮リンク|ヴィスコンティ通り|fr|Rue Visconti}}にアトリエを移し、ルノワールと共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた<ref>{{Cite web |url=http://www.ruevisconti.com/Histoire/EnfantsduMarais/Bazille.html |title=Frédéric Bazille et la rue Visconti |publisher=Rue Visconti.com |accessdate=2017-04-03}}</ref>。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している<ref name="Renoir" /><ref>[[#吉川|吉川 (2010: 32)]]。</ref>。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。

'''1867年のサロン'''は、前年から一転して審査が厳しくなり、バジールや仲間の画家の多くは落選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 32)]]。</ref>。バジールは、この年の5月初め頃と思われる両親宛の手紙で、次のように書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 32, 39)]]。</ref>。
{{Quotation|今年のサロンは、今まで見た中で最も凡庸なものです。[[パリ万国博覧会 (1867年)|万国博覧会]]には、20点に及ぶ[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]とコローの美しいキャンバスがあります。もうすぐ、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]とマネの個展があるでしょう。見に行くのを楽しみにしています。<br/>……最近の手紙の一つで、一部の若い人たちに独自の展覧会を開く計画があったことを書きました。各人ができるだけ努力して、合計2500フランを集めましたが、それでも十分ではありませんでした。結局、私たちが望んだ計画は断念せざるを得ませんでした。}}
これは、後の印象派グループ展([[1874年]]以降)と同じような、サロンから独立したグループ展の開催を考えていた跡として注目される<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 32)]]。</ref>。

バジールの作品は、1867年頃から、[[イル・ド・フランス]]の風景画が少なくなり、友人や家族をモデルにした[[風俗画]]が多くなる。プロヴァンス地方を描いた風景画はあるが、アトリエで仕上げを施すようになり、同時期のルノワールと同様、アカデミックな画風への回帰が見られる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 40)]]。</ref>。バジールは、1867年、モンペリエ近郊のメリックにある実家で、テラスに集まった家族をモデルに代表作『家族の集い』を制作した。南仏の強い光の下、強いコントラストで人物と背景が描かれている。モネの『{{仮リンク|庭の中の女たち|en|Women in the Garden}}』と比較すると、個々の人物が肖像画として成立しており、カメラを見るようにこちらを見つめている点が画風の違いを示している。バジールは、何度も仕上げをし、サロンに出品後も、犬のモチーフを静物に修正するなど、変更を試みている。『庭の中の女たち』がサロンに拒絶されたのに対し、『家族の集い』はより受け入れられやすい作品であったといえる<ref name="Réunion" />。人物の描き方はやや堅苦しく、未熟な点はあるが、戸外における人物群像構図という、当時の彼らの共通の課題に応えたものである。構成力と、光に対する感受性が優れており、印象派の世界を予告する作品となっていると評される<ref>[[#高階・絵画史|高階・上 (1975: 103)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 286)]]。</ref>。

バジールは、1867年のサロンで落選したモネの『庭の中の女たち』を、[[1868年]]1月、2500フラン(毎月50フランの分割払い)で購入し、彼を支援した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 26-27)]]。</ref>。仲間の画家たちの中では裕福な家の出であったことから、バジールは、モネやルノワールを経済的に助けたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が度々届いた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 23)]]。</ref>。その後も、長男が生まれたモネは、バジールへの手紙で経済的苦境を繰り返し訴えている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 32-33)]]。</ref>。バジールは、モネの長男ジャンの名付け親となった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 141)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Bazille, Frédéric - Studio of the Rue Visconti.jpeg|『ヴィスコンティ通りのアトリエ』1867年。油彩、キャンバス、64 × 49 cm。ヴァージニア美術館。
ファイル:Bazille-Nature morte au héron.JPG|『あおさぎ』1867年。油彩、キャンバス、98 × 78 cm。[[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]])。
ファイル:Frédéric Bazille - Renoir.jpg|『ルノワールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、61.2 × 50 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/catalogue-des-oeuvres/notice.html?nnumid=63 |title=Pierre Auguste Renoir |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-02}}</ref>。
ファイル:Frédéric Bazille 001.jpg|『家族の集い』1867-68年。油彩、キャンバス、152 × 230 cm。オルセー美術館<ref name="Réunion">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/reunion-de-famille-19.html |title=Réunion de famille also called Portraits de famille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。1868年サロン入選。
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=== ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ ===
バジールは、1868年1月、ルノワールとともに、{{仮リンク|バティニョール地区|en|Batignolles}}のラ・ペ通り(1869年12月に{{仮リンク|ラ・コンダミンヌ通り|fr|Rue La Condamine}}に改称<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 219)]]。</ref>)に移った<ref name="L'atelier de Bazille" />。ヴィスコンティ通りのアトリエが手狭だったため、広いアトリエを求めて移ったもので、バジールは、父親に、家賃が余計にかかることを報告している<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 28)]]。</ref>。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、[[エドゥアール・マネ]]が通う{{仮リンク|カフェ・ゲルボワ|en|Café Guerbois}}からすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 21)]]。</ref>。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエには、モネ、ルノワール、マネのほか、[[エミール・ゾラ]]、ピサロ、セザンヌ、[[ギュスターヴ・クールベ]]も訪れた<ref name="wetcanvas" />。

'''[[1868年]]のサロン'''には、『家族の集い』と『花瓶』の2作品が入選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 40)]]。</ref>。

この年、バジールは、アカデミックな伝統と強く結び付いた男性裸体画に、現代的なアプローチで取り組もうとし、『網を持つ漁師』を制作した。しかし、モチーフとしては奇妙で不自然なものとなってしまった<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 40)]]。</ref>。

'''[[1869年]]のサロン'''には、『村の眺め』が入選したが、『網を持つ漁師』は落選した。バジールは、両親に、次のように書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 33)]]。</ref>。
{{Quotation|悪い知らせがあります。展覧会に応募した作品が落選したのです。しかし、あまり深刻に悩まないでください。落胆すべきことは何もなく、むしろ反対に、今年のサロンで優秀だった作品と運命を共にしたのです。……自分たちが望むだけの作品を展示できるアトリエを毎年借りることを、私たちは決めました。……私たちの仲間がことを起こすのは来年です。私としては楽しみなことになるでしょう。}}
このように、バジールは、サロンから独立して画家たち自身が主催する展覧会の構想を継続している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 33-34)]]。</ref>。『村の眺め』の入選には、[[ジャン=レオン・ジェローム]]が強く反対したが、同じく官立美術学校のアトリエ教授で、モンペリエ出身の[[アレクサンドル・カバネル]]は賛成し、バジールは、官展派のカバネルの擁護を知って驚いたという<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 40)]]。</ref>。

[[1870年]]、バジールは、ラ・コンダミンヌ通りのアトリエを作品に描いている。中央でパレットを持っているのがバジールであるが、バジールが父親に書いた手紙によると、これを描き込んだのはマネだという。帽子を被ってイーゼルを見ているのはマネ、右でピアノを弾いているのはバジールの親友{{仮リンク|エドモン・メートル|fr|Edmond_Maître}}である。絵の左側の3人は特定が難しいが、おそらくモネ、ルノワール、[[ザカリー・アストリュク]]ではないかと思われる。画中には、サロンに落選した自分や友人の作品が描かれており、アカデミーへの批判が込められている<ref name="L'atelier de Bazille" />。

『バジールのアトリエ』の画中には、サロンに向けて準備中だった『身繕い(化粧)』が描かれているが、この後、バジールは、急遽3人目の女性を描き加え、3月のサロン提出期限に間に合わせた。しかし、'''1870年のサロン'''には、2点応募したうち、『夏の情景』は入選したが、『身繕い』は落選した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 18-19, 219)]]。</ref>。

『夏の情景』は、『網を持った漁師』で試みた現代の男性裸体画を、より説得的に提示したものといえる。水着の若者たちの中には、聖セバスティアヌスや河の神など、それと分かる伝統的なポーズを取っている者がいるが、こうしたアカデミックな題材を現代の風俗画に取り込もうとしている<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 40)]]。</ref>。サロンで展示された『夏の情景』を見て、批評家[[ザカリー・アストリュク]]は、「彼のキャンバスには陽光があふれている」と評した。この絵の構図はパリのアトリエで描き始められたもののようだが、南仏に旅した時に仕上げたようである<ref name="Summer Scene" />。バジール自身も、作品の評価に満足し、両親に、「私は、自分の作品の展示についてとても嬉しく思っています。私の絵は、大変良い場所にかけられています。皆が私の作品を見て、語っています。……少なくとも、私は時勢に遅れていないわけで、今後どのような作品を展示しても、注目されることになるでしょう。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 189)]]。</ref>。

[[ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。絵筆を持つマネを、若手画家や作家が囲んでいる。バジールは右端から2番目の長身の人物<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 23)]]。</ref>。]]
ところで、バジールは、1870年1月、自ら『身繕い』の制作に追われる傍ら、友人[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]の制作する『バティニョールのアトリエ』のモデルも務めた。2人は、日本美術への魅力に意気投合し、バジールが『身繕い』に日本の着物を持つ3人目の女性を描き加えた一方、ファンタン=ラトゥールは、日本から強い影響を受けた作陶家ローラン・ブヴィエの壺を描き入れた。さらに、バジールは、同年4月、住み慣れたラ・コンダミンヌ通りのアトリエを去り、ファンタン=ラトゥールがアトリエを構えるボザール通りに移った。そして、バジールは、『芍薬と黒人の女性』にブヴィエの壺を描いており、ファンタン=ラトゥールとの友情を明らかにしている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 50-52)]]。</ref>。『芍薬と黒人の女性』は、バジールが出征前にパリで描いた最後の作品となった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 36)]]。</ref>。

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ファイル:Bazille - Pêcheur à l'épervier.jpg|『網を持つ漁師』1868年。油彩、キャンバス、134 × 83 cm。財団蔵([[チューリッヒ]])。1869年サロン落選。
ファイル:Bazille-La vue de village.JPG|『村の眺め』1868年。油彩、キャンバス、137.5 × 85 cm。[[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]])。1869年サロン入選。
ファイル:Jean Frédéric Bazille - Scène d'été.jpg|『{{仮リンク|夏の情景|fr|Scène d'été}}』1869年。油彩、キャンバス、160 × 160.7 cm。[[フォッグ美術館]]([[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]、[[ハーバード大学]])<ref name="Summer Scene">{{Cite web |url=http://www.harvardartmuseums.org/art/230640 |title=Summer Scene |publisher=Harvard Art Museums |accessdate=2017-04-01}}</ref>。1870年サロン入選。
ファイル:Edmond Maître A14555.jpg|『エドモン・メートルの肖像』1869年。油彩、キャンバス、83 × 64.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.66400.html |title=Edmond Maître |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-03}}</ref>。
ファイル:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|『バジールのアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年。油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館<ref name="L'atelier de Bazille">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/oeuvres-commentees/recherche/commentaire/commentaire_id/latelier-de-bazille-11400.html |title=L'atelier de Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。
ファイル:Bazille, Frédéric ~ La Toilette, 1869-70, Oil on canvas Musee Fabre, Montpelier.jpg|『身繕い』1870年。油彩、キャンバス、130 × 128 cm。[[ファーブル美術館]]([[モンペリエ]])。1870年サロン落選。
ファイル:Bazille, Négresse aux pivoines.JPG|『芍薬と黒人の女性』1870年。油彩、キャンバス、60.3 × 75.2 cm。ファーブル美術館。
ファイル:Bazille Paysage au bord du Lez.jpg|『レ川のほとりの風景』1870年。油彩、キャンバス、137.2 × 200.7 cm。[[ミネアポリス美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://collections.artsmia.org/art/1728/landscape-by-the-lez-river-jean-frederic-bazille |title=Landscape by the Lez River |publisher=Minneapolis Institute of Art |accessdate=2017-04-02}}</ref>。
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=== 普仏戦争と死 ===
[[ファイル:Tombe F. Bazille.JPG|thumb|right|180px|モンペリエのバジールの墓。]]
バジールは、1870年5月、甥の誕生祝いを兼ねて、モンペリエに帰省し、メリックの別荘で制作した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 52)]]。</ref>。

同年7月19日、[[普仏戦争]]が勃発すると、バジールは、8月10日、志願して[[ズアーブ兵]]連隊に入った<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 193)]]。</ref>。1870年11月28日、[[オルレアン]]近郊の{{仮リンク|ボーヌ=ラ=ロランドの戦い|en|Battle of Beaune-la-Rolande}}で戦死した<ref name="wetcanvas" />。父親は、戦死の知らせを聞くと、危険を冒してすぐ戦地に赴き、2発の銃弾を受けた息子の遺体を故郷に連れ帰った<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 34)]]。</ref>。

== 死後 ==
バジールが語っていた、サロンから独立したグループ展の構想は、普仏戦争終結後の[[1874年]]以降、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガなどバティニョール派のメンバーによるグループ展として実現した。彼らは、[[印象派]]と呼ばれ、当初は酷評にさらされたが、次第に受け入れられ、20世紀には美術市場で勝利を収めるに至った。

1876年の第2回印象派展には、ルノワールが、バジールとの友情の証として、マネが買い取っていた『バジールの肖像』を借り受けて出品した。バジールの父は、この展覧会を見に来て息子の肖像画と出会った。バジールの親友だったエドモン・メートルは、バジールが購入していたモネの『庭の中の女たち』と、マネが所有していた『バジールの肖像』とを交換するよう仲介し、バジールの父は、息子の肖像を譲り受けることができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 161-62)]]。</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=木村泰司 |title=印象派という革命 |publisher=[[集英社]] |year=2012 |isbn=978-4-08-781496-5 |ref=木村}}
* {{Cite book |和書 |author=[[島田紀夫]] |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}}
* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |year=1975 |id=(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1 |ref=高階・絵画史}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=フランス絵画史――ルネッサンスから世紀末まで |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |year=1990 |isbn=4-06-158894-X |ref=高階・フランス}}
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=「知の再発見」双書 |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}}
* {{Cite book |和書 |author=マリナ・フェレッティ |others=武藤剛史訳 |title=印象派[新版] |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] |year=2008 |origyear=2004 |isbn=978-4-560-50920-3 |ref=フェレッティ}}
* {{Cite book |和書 |author=吉川節子 |title=印象派の誕生――マネとモネ |publisher=中央公論新社 |series=中公新書 |year=2010 |isbn=978-4-12-102052-9 |ref=吉川}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=[[三浦篤]]、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=(1st ed.) 1946 |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Frédéric Bazille}}
{{Commons category|Frédéric Bazille}}
* [http://www.museumsyndicate.com/artist.php?artist=499 Bazille Gallery at MuseumSyndicate]
*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/78705/rec/222 ''Impressionism: a centenary exhibition''], an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (fully available online as PDF), which contains material on Bazille (p. 37-39)
<br />

{{印象派}}


{{印象派|state=collapsed}}
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2017年4月22日 (土) 22:33時点における版

フレデリック・バジール
Frédéric Bazille


fr
1867年の写真
誕生日 (1841-12-06) 1841年12月6日
出生地 フランスの旗 フランス王国 エロー県モンペリエ
死没年 (1870-11-28) 1870年11月28日(28歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国 ロワレ県ボーヌ=ラ=ロランド英語版
墓地 フランスの旗 フランス モンペリエ プロテスタント墓地[1]
墓地座標 北緯43度36分10秒 東経3度53分07秒 / 北緯43.60278度 東経3.88528度 / 43.60278; 3.88528
国籍 フランスの旗 フランス
運動・動向 印象派
芸術分野 絵画
教育 シャルル・グレール画塾
代表作 『家族の集い』
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ジャン・フレデリック・バジール (Jean Frédéric Bazille, 1841年12月6日1870年11月28日)は、フランス印象派の画家。

概要

バジールは、南仏モンペリエの裕福な家庭に生まれ、1862年(21歳頃)、パリに出て絵画の勉強をするため、シャルル・グレールの画塾に入った。そこで、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌといった仲間と知り合った。彼らは、当時の規範であったアカデミズム絵画に飽き足らない、戸外制作などを通じた新しい絵画を目指して交友を深め、バティニョール派と呼ばれるようになった。経済的余裕のあるバジールは、仲間の絵を買ったり、自分の借りたアトリエを使わせたりして、仲間を支援した。

1866年以降、サロン・ド・パリに度々入選するが、サロンの審査に不満を抱き、サロンから独立したグループ展の構想を仲間と温めていた。しかし、1870年に勃発した普仏戦争に志願して参戦し、28歳の若さで戦死した。1874年に始まる印象派グループ展を見ることはできなかった。

バジールが残した油彩画は、わずか70点ほどであるが、印象派誕生の貴重な記録となっている[2]。彼の代表作『家族の集い』は、戸外における人物群像を、優れた構成力と光のコントラストの下で描いた作品であり、才能が示されている。

生涯

出生、画塾時代

1865年の写真。

フレデリック・バジールは、1841年、南仏ラングドック=ルシヨン地域圏エロー県モンペリエで、裕福なプロテスタント中産階級の家庭に生まれた。少年時代、彼は、ウジェーヌ・ドラクロワの『アルジェの女たち』や『ライオンの穴の中のダニエル』に惹かれた。18歳の時、親から、医学を同時に勉強することという条件付きで、絵の勉強をすることを許され、医学部に進学した[3][4]

1862年末、バジールは、パリに出て、シャルル・グレールの画塾に入った。ここに入塾したのは、そこで学んでいたモンペリエ出身のカステルノーに勧められたからと思われる。その頃、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーもグレールの画塾に入り、彼らは親交を深めた。バジールとモネは、1863年の復活祭の期間、フォンテーヌブローの森近くのシャイイ=アン=ビエールに写生に行った[5]。バジールは、親への手紙で、モネを「画家の卵の中で一番の友達」と呼び、「フォンテーヌブローの森のそばの小さな村シャイイで1週間過ごしました。ル・アーヴル出身で、風景画がとてもうまい友達のモネと一緒でしたが、彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました。」と書いている[6]。また、ルーヴル美術館ルーベンスティントレットの模写をした[7]

この頃、バジールは、従兄弟のルジョーヌの家に集まっていた芸術家たちの中で、ポール・セザンヌと知り合った。そして、セザンヌを通じて、同じアカデミー・シュイスで勉強していたカミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンとも知り合った。バジールは、セザンヌをルノワールに紹介した。こうして、バジールは、モネとともに、グレール画塾のメンバーとアカデミー・シュイスのメンバーとを結びつける役割を果たした[8]

1863年の夏、モンペリエで過ごした後、パリに戻ると、グレールの病気のために画塾の閉鎖が検討されていることを知らされた[9]。バジールは、両親に、学生たちが非常に悲しんでいると手紙で書いている[10]

1864年5月には、モネとともに、ノルマンディールーアンオンフルールサン=タドレスに滞在し、制作した[11]。オンフルールで、モネの敬愛する先輩風景画家、ウジェーヌ・ブーダンヨハン・ヨンキントに出会った[3]。バジールは、両親に、次のような手紙を書いている[12]

オンフルールに着いてすぐに、風景画のモチーフを探しに行きました。……こんなにも青々と茂った牧草や、こんなにも美しい木々は他の所にはありません。海、というより河口で広がっていくセーヌ川は、緑の塊に快い水平線を与えています。……あと3年か4年絵を続けて、自分で満足が行くようになりたいと思っています。間もなくパリに戻って大嫌いな医学に打ち込まなくてはいけません。ますます医学が嫌いになっていきます。

バジールは先にパリに帰ったが、オンフルールに残ったモネは、バジールに、この地で制作する喜びを手紙で伝えている[13]。バジールは、同年夏、モンペリエ郊外の村で、従姉妹のテレーズ (Thérèse des Hours) をモデルに『ピンクのドレス』を制作した[14]。同年秋、医学の試験に落第し、モンペリエに帰省すると、両親は、とうとう絵を専門に勉強することを許した[3][15]

フュルスタンベール通りのアトリエ

1864年末、バジールは、フュルスタンベール通りフランス語版に構えたアトリエにモネを誘い、一緒に制作するようになった[16]。その冬、モネとバジールは、バジールの親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れた。ここで、アンリ・ファンタン=ラトゥールシャルル・ボードレールジュール・バルベー・ドールヴィイナダール、ガンベッタ、ヴィクトール・マッセ、エドモン・メートルらと出会った。中でもメートルはバジールの親友になった。バジールはリヒャルト・ワーグナーのファンで、その点でもメートルと意気投合した[17]

1865年春、モネは再びシャイイに赴き、大作『草上の昼食』の制作を始め、バジールに、人物のためのモデルになってほしいと言って来るように誘った[18]。その夏、バジールはようやくシャイイに着いたが、着いてみると、モネは、事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態であった。バジールは、医学の知識を生かし、重りや毛布を使ってモネの痛みが和らぐようにしてやった。そして、その様子を絵に描いている[19]。結局、モネは、バジールをモデルに使って『草上の昼食』を仕上げた[20]。一方、バジールが制作した『シャイイの風景』は、彼らの先輩に当たるバルビゾン派に近い、静止した自然を描いたものとなっている[21]

バジールは、1866年のサロンに、『ピアノを弾く少女』と『魚の静物』の2点を提出した。『ピアノを弾く少女』はバジールがあえて選んだ現代的主題であり、彼は、両親に「現代を選んだのは、僕が一番よく理解している時代だからだし、今の人々にとって最も生き生きとしていると感じられる時代だからですが、多分そのせいで落選するでしょう。」と書いている。そのため、落選を恐れて、同時に『魚の静物』を出すことにした[22]。また、続けて、「応募者の数を考えると、私は落選するのではないかと非常に恐れています。明日にはそれは決定するでしょう。もし落選したら、落選展を開催する請願書に両手で署名するつもりです。」と書き、不安を表している。1866年のサロンは、審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、バジールや仲間の画家の多くが入選した[23]。それでも、予想どおり、『ピアノを弾く少女』は落選し、本人が余り気に入っていなかった静物のみが入選した[24]

ヴィスコンティ通りのアトリエ

ルノワール『バジールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、105 × 73.5 cm。オルセー美術館[28]

バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通りフランス語版にアトリエを移し、ルノワールと共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた[29]。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している[28][30]。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。

1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、バジールや仲間の画家の多くは落選した[31]。バジールは、この年の5月初め頃と思われる両親宛の手紙で、次のように書いている[32]

今年のサロンは、今まで見た中で最も凡庸なものです。万国博覧会には、20点に及ぶミレーとコローの美しいキャンバスがあります。もうすぐ、クールベとマネの個展があるでしょう。見に行くのを楽しみにしています。
……最近の手紙の一つで、一部の若い人たちに独自の展覧会を開く計画があったことを書きました。各人ができるだけ努力して、合計2500フランを集めましたが、それでも十分ではありませんでした。結局、私たちが望んだ計画は断念せざるを得ませんでした。

これは、後の印象派グループ展(1874年以降)と同じような、サロンから独立したグループ展の開催を考えていた跡として注目される[33]

バジールの作品は、1867年頃から、イル・ド・フランスの風景画が少なくなり、友人や家族をモデルにした風俗画が多くなる。プロヴァンス地方を描いた風景画はあるが、アトリエで仕上げを施すようになり、同時期のルノワールと同様、アカデミックな画風への回帰が見られる[34]。バジールは、1867年、モンペリエ近郊のメリックにある実家で、テラスに集まった家族をモデルに代表作『家族の集い』を制作した。南仏の強い光の下、強いコントラストで人物と背景が描かれている。モネの『庭の中の女たち英語版』と比較すると、個々の人物が肖像画として成立しており、カメラを見るようにこちらを見つめている点が画風の違いを示している。バジールは、何度も仕上げをし、サロンに出品後も、犬のモチーフを静物に修正するなど、変更を試みている。『庭の中の女たち』がサロンに拒絶されたのに対し、『家族の集い』はより受け入れられやすい作品であったといえる[35]。人物の描き方はやや堅苦しく、未熟な点はあるが、戸外における人物群像構図という、当時の彼らの共通の課題に応えたものである。構成力と、光に対する感受性が優れており、印象派の世界を予告する作品となっていると評される[36]

バジールは、1867年のサロンで落選したモネの『庭の中の女たち』を、1868年1月、2500フラン(毎月50フランの分割払い)で購入し、彼を支援した[37]。仲間の画家たちの中では裕福な家の出であったことから、バジールは、モネやルノワールを経済的に助けたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が度々届いた[38]。その後も、長男が生まれたモネは、バジールへの手紙で経済的苦境を繰り返し訴えている[39]。バジールは、モネの長男ジャンの名付け親となった[40]

ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ

バジールは、1868年1月、ルノワールとともに、バティニョール地区英語版のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通りフランス語版に改称[42])に移った[43]。ヴィスコンティ通りのアトリエが手狭だったため、広いアトリエを求めて移ったもので、バジールは、父親に、家賃が余計にかかることを報告している[44]。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた[45]。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエには、モネ、ルノワール、マネのほか、エミール・ゾラ、ピサロ、セザンヌ、ギュスターヴ・クールベも訪れた[3]

1868年のサロンには、『家族の集い』と『花瓶』の2作品が入選した[46]

この年、バジールは、アカデミックな伝統と強く結び付いた男性裸体画に、現代的なアプローチで取り組もうとし、『網を持つ漁師』を制作した。しかし、モチーフとしては奇妙で不自然なものとなってしまった[47]

1869年のサロンには、『村の眺め』が入選したが、『網を持つ漁師』は落選した。バジールは、両親に、次のように書いている[48]

悪い知らせがあります。展覧会に応募した作品が落選したのです。しかし、あまり深刻に悩まないでください。落胆すべきことは何もなく、むしろ反対に、今年のサロンで優秀だった作品と運命を共にしたのです。……自分たちが望むだけの作品を展示できるアトリエを毎年借りることを、私たちは決めました。……私たちの仲間がことを起こすのは来年です。私としては楽しみなことになるでしょう。

このように、バジールは、サロンから独立して画家たち自身が主催する展覧会の構想を継続している[49]。『村の眺め』の入選には、ジャン=レオン・ジェロームが強く反対したが、同じく官立美術学校のアトリエ教授で、モンペリエ出身のアレクサンドル・カバネルは賛成し、バジールは、官展派のカバネルの擁護を知って驚いたという[50]

1870年、バジールは、ラ・コンダミンヌ通りのアトリエを作品に描いている。中央でパレットを持っているのがバジールであるが、バジールが父親に書いた手紙によると、これを描き込んだのはマネだという。帽子を被ってイーゼルを見ているのはマネ、右でピアノを弾いているのはバジールの親友エドモン・メートルフランス語版である。絵の左側の3人は特定が難しいが、おそらくモネ、ルノワール、ザカリー・アストリュクではないかと思われる。画中には、サロンに落選した自分や友人の作品が描かれており、アカデミーへの批判が込められている[43]

『バジールのアトリエ』の画中には、サロンに向けて準備中だった『身繕い(化粧)』が描かれているが、この後、バジールは、急遽3人目の女性を描き加え、3月のサロン提出期限に間に合わせた。しかし、1870年のサロンには、2点応募したうち、『夏の情景』は入選したが、『身繕い』は落選した[51]

『夏の情景』は、『網を持った漁師』で試みた現代の男性裸体画を、より説得的に提示したものといえる。水着の若者たちの中には、聖セバスティアヌスや河の神など、それと分かる伝統的なポーズを取っている者がいるが、こうしたアカデミックな題材を現代の風俗画に取り込もうとしている[52]。サロンで展示された『夏の情景』を見て、批評家ザカリー・アストリュクは、「彼のキャンバスには陽光があふれている」と評した。この絵の構図はパリのアトリエで描き始められたもののようだが、南仏に旅した時に仕上げたようである[53]。バジール自身も、作品の評価に満足し、両親に、「私は、自分の作品の展示についてとても嬉しく思っています。私の絵は、大変良い場所にかけられています。皆が私の作品を見て、語っています。……少なくとも、私は時勢に遅れていないわけで、今後どのような作品を展示しても、注目されることになるでしょう。」と書いている[54]

アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』1870年。絵筆を持つマネを、若手画家や作家が囲んでいる。バジールは右端から2番目の長身の人物[55]

ところで、バジールは、1870年1月、自ら『身繕い』の制作に追われる傍ら、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールの制作する『バティニョールのアトリエ』のモデルも務めた。2人は、日本美術への魅力に意気投合し、バジールが『身繕い』に日本の着物を持つ3人目の女性を描き加えた一方、ファンタン=ラトゥールは、日本から強い影響を受けた作陶家ローラン・ブヴィエの壺を描き入れた。さらに、バジールは、同年4月、住み慣れたラ・コンダミンヌ通りのアトリエを去り、ファンタン=ラトゥールがアトリエを構えるボザール通りに移った。そして、バジールは、『芍薬と黒人の女性』にブヴィエの壺を描いており、ファンタン=ラトゥールとの友情を明らかにしている[56]。『芍薬と黒人の女性』は、バジールが出征前にパリで描いた最後の作品となった[57]

普仏戦争と死

モンペリエのバジールの墓。

バジールは、1870年5月、甥の誕生祝いを兼ねて、モンペリエに帰省し、メリックの別荘で制作した[60]

同年7月19日、普仏戦争が勃発すると、バジールは、8月10日、志願してズアーブ兵連隊に入った[61]。1870年11月28日、オルレアン近郊のボーヌ=ラ=ロランドの戦い英語版で戦死した[3]。父親は、戦死の知らせを聞くと、危険を冒してすぐ戦地に赴き、2発の銃弾を受けた息子の遺体を故郷に連れ帰った[62]

死後

バジールが語っていた、サロンから独立したグループ展の構想は、普仏戦争終結後の1874年以降、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガなどバティニョール派のメンバーによるグループ展として実現した。彼らは、印象派と呼ばれ、当初は酷評にさらされたが、次第に受け入れられ、20世紀には美術市場で勝利を収めるに至った。

1876年の第2回印象派展には、ルノワールが、バジールとの友情の証として、マネが買い取っていた『バジールの肖像』を借り受けて出品した。バジールの父は、この展覧会を見に来て息子の肖像画と出会った。バジールの親友だったエドモン・メートルは、バジールが購入していたモネの『庭の中の女たち』と、マネが所有していた『バジールの肖像』とを交換するよう仲介し、バジールの父は、息子の肖像を譲り受けることができた[63]

脚注

  1. ^ Frédéric Bazille”. Find A Grave. 2017年4月3日閲覧。
  2. ^ 吉川 (2010: 10)
  3. ^ a b c d e Frederic Bazille: A Tragic Story”. wetcanvas.com. 2017年4月2日閲覧。
  4. ^ フェレッティ (2008: 25)
  5. ^ 島田 (2009: 12-13)
  6. ^ パタン (1997: 22)
  7. ^ リウォルド (2004: 84)
  8. ^ 島田 (2009: 14)
  9. ^ パタン (1997: 22)
  10. ^ 島田 (2009: 14)
  11. ^ パタン (1997: 22-23)
  12. ^ リウォルド (2004: 105-06)
  13. ^ パタン (1997: 23)
  14. ^ a b La robe rose”. Musée d'Orsay. 2017年4月1日閲覧。
  15. ^ リウォルド (2004: 106)
  16. ^ パタン (1997: 23)
  17. ^ リウォルド (2004: 110)
  18. ^ パタン (1997: 23-24)
  19. ^ a b L'ambulance improvisée”. Musée d'Orsay. 2017年4月1日閲覧。
  20. ^ パタン (1997: 24)
  21. ^ フェレッティ (2008: 54)
  22. ^ リウォルド (2004: 120)
  23. ^ 島田 (2009: 31)
  24. ^ リウォルド (2004: 125)
  25. ^ Landscape at Chailly, 1865”. The Art Institute of Chicago. 2017年4月1日閲覧。
  26. ^ Self-Portrait, 1865/66”. The Art Institute of Chicago. 2017年4月1日閲覧。
  27. ^ Still Life with Fish”. Detroit Institute of Arts. 2017年4月3日閲覧。
  28. ^ a b Frédéric Bazille”. Musée d'Orsay. 2017年4月3日閲覧。
  29. ^ Frédéric Bazille et la rue Visconti”. Rue Visconti.com. 2017年4月3日閲覧。
  30. ^ 吉川 (2010: 32)
  31. ^ 島田 (2009: 32)
  32. ^ 島田 (2009: 32, 39)
  33. ^ 島田 (2009: 32)
  34. ^ 島田 (2009: 40)
  35. ^ a b Réunion de famille also called Portraits de famille”. Musée d'Orsay. 2017年4月1日閲覧。
  36. ^ 高階・上 (1975: 103)高階 (1990: 286)
  37. ^ パタン (1997: 26-27)
  38. ^ 吉川 (2010: 23)
  39. ^ パタン (1997: 32-33)
  40. ^ リウォルド (2004: 141)
  41. ^ Pierre Auguste Renoir”. Musée d'Orsay. 2017年4月2日閲覧。
  42. ^ 吉川 (2010: 219)
  43. ^ a b c L'atelier de Bazille”. Musée d'Orsay. 2017年4月1日閲覧。
  44. ^ 吉川 (2010: 28)
  45. ^ 島田 (2009: 21)
  46. ^ 島田 (2009: 40)
  47. ^ フェレッティ (2008: 40)
  48. ^ 島田 (2009: 33)
  49. ^ 島田 (2009: 33-34)
  50. ^ 島田 (2009: 40)
  51. ^ 吉川 (2010: 18-19, 219)
  52. ^ フェレッティ (2008: 40)
  53. ^ a b Summer Scene”. Harvard Art Museums. 2017年4月1日閲覧。
  54. ^ リウォルド (2004: 189)
  55. ^ 島田 (2009: 23)
  56. ^ 吉川 (2010: 50-52)
  57. ^ 吉川 (2010: 36)
  58. ^ Edmond Maître”. National Gallery of Art. 2017年4月3日閲覧。
  59. ^ Landscape by the Lez River”. Minneapolis Institute of Art. 2017年4月2日閲覧。
  60. ^ 吉川 (2010: 52)
  61. ^ リウォルド (2004: 193)
  62. ^ 吉川 (2010: 34)
  63. ^ 木村 (2012: 161-62)

参考文献

  • 木村泰司『印象派という革命』集英社、2012年。ISBN 978-4-08-781496-5 
  • 島田紀夫『印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』小学館、2009年。ISBN 978-4-09-682021-6 
  • 高階秀爾『近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで』中央公論新社中公新書〉、1975年。(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1 
  • 高階秀爾『フランス絵画史――ルネッサンスから世紀末まで』講談社講談社学術文庫〉、1990年。ISBN 4-06-158894-X 
  • シルヴィ・パタン『モネ――印象派の誕生』渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修、創元社〈「知の再発見」双書〉、1997年(原著1991年)。ISBN 4-422-21127-7 
  • マリナ・フェレッティ『印象派[新版]』武藤剛史訳、白水社文庫クセジュ〉、2008年(原著2004年)。ISBN 978-4-560-50920-3 
  • 吉川節子『印象派の誕生――マネとモネ』中央公論新社〈中公新書〉、2010年。ISBN 978-4-12-102052-9 
  • ジョン・リウォルド『印象派の歴史』三浦篤坂上桂子訳、角川学芸出版、2004年(原著(1st ed.) 1946)。ISBN 4-04-651912-6 

外部リンク