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引退後にイギリスから[[オーストラリア]]へ移住<ref>イギリスの税金の高さに辟易していたためだという。</ref>。4輪レースに出場したほか、レース解説者として活躍することも多かった。彼の知名度の高さを示す逸話として、英国からのファンレターが「オーストラリア、海の近く、バリー・シーン様」という宛名だけで届いたという。
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2003年に食道癌により[[ゴールドコースト]]市内の病院で死去。{{没年齢|1950|9|11|2003|3|10}}。生前はヘビースモーカーだったと言われ、それが癌の原因と見られている。
2003年に食道癌により[[ゴールドコースト]]市内の病院で死去。{{没年齢|1950|9|11|2003|3|10}}。生前は愛煙家だったと言われ、それが癌の原因と見られている。


== エピソード ==
== エピソード ==

2017年3月5日 (日) 21:23時点における版

バリー・シーン
バリー・シーン(1975年)

バリー・シーンBarry Sheene MBE1950年9月11日 - 2003年3月10日)は、イギリス出身のモーターサイクルロードレーサー。ゼッケン7ドナルドダックが描かれたヘルメットがトレードマークだった。ロードレース世界選手権(世界GP)で23勝を挙げた(GP500・19勝、GP125・3勝、GP50・1勝)。現在のところ世界GPの最高峰クラスでチャンピオンになった最後のイギリス人ライダーである。MotoGP殿堂入り。

経歴

1974年スズキと契約。

1975年にアメリカのデイトナスピードウェイで250km/h以上のスピードで転倒[1]。瀕死の重傷を負ったものの、同年末には世界GPレースに復帰して500ccクラスで初優勝を遂げる[2]

1976年1977年、スズキのワークスマシンRG500に乗り、2年連続で世界GP500チャンピオンになった。

1980年にスズキを離れヤマハと契約。当時ヤマハのエースだったケニー・ロバーツに対抗する。ロバーツには最新型マシンが与えられたが、シーンには旧型があてがわれた[3]

1982年にはロバーツと同じ最新型マシンが供給され、世界チャンピオン返り咲きも十分可能かと思われた。しかしイギリスGPの練習走行で転倒していたマシンに激突し、またも瀕死の重傷を負い、夢が絶たれる結果となった。[4]

その後、ヤマハから再びスズキに移籍したが1984年限りで世界GPを引退する。

引退後にイギリスからオーストラリアへ移住[5]。4輪レースに出場したほか、レース解説者として活躍することも多かった。彼の知名度の高さを示す逸話として、英国からのファンレターが「オーストラリア、海の近く、バリー・シーン様」という宛名だけで届いたという。

2003年に食道癌によりゴールドコースト市内の病院で死去。52歳没。生前は愛煙家だったと言われ、それが癌の原因と見られている。

エピソード

  • 世界GPのチャンピオンはゼッケン1を付けるのが慣例だが、シーンは1976年のチャンピオン獲得時のゼッケン7にこだわり、ゼッケン1を付ける権利のあった1977年と1978年もゼッケン7のままだった。その後もシーンはゼッケン7をずっとトレードマークにしていた。[6]
  • ゼッケン7ブリティッシュスーパーバイク選手権永久欠番。
  • レースでの活躍により、英国王室より大英帝国勲章(Member of the British Empire)を授けられた[7]
  • ライダーとしての実績が高かっただけではなく、ファンやマスコミに対して積極的なピーアール活動を行い、モーターサイクルレースの魅力を世に知らしめることにも熱心だった。その結果、映画や音楽のスターと同等の人気と知名度を得るに至り、英国において最も有名なライダーと称されている[8]
  • 瀕死の重傷から二度にわたって復帰したため、勇気あるスポーツマンという評価も与えられていた。骨折した部位を補強する目的で身体中に金属プレートが埋め込まれており、たとえ裸であっても空港の金属探知機に反応してしまうという逸話もあった[9]
  • 現役時代にはライバル選手や所属メーカーを舌鋒鋭く批判したり揶揄したりすることも多く、批判されたり反感を買ったりすることも多かった。同じイギリス出身の先輩ライダーでライバルだったフィル・リードの妻と不倫騒動を起こすなど、スキャンダラスな行動でも知られた。こういった奔放さが人気と知名度を高めた一方、いわゆる敵が多い人物だったと評されることも多い。
  • 引退後に自ら主演した自伝映画『ザ・ライダー』が制作され、日本でも公開された[10]
  • 元妻は、ペントハウスペットでアダルトモデル出身のステファニー・マクレーンで、子供を2人もうけている。

戦績

ロードレースイギリス選手権

  • 1969年 - 125ccチャンピオン
  • 1970年 - 125ccチャンピオン

ロードレース世界選手権

1969年から1987年までのポイントシステム

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 ポイント 順位 勝利数
1970 125cc スズキ GER
-
FRA
-
YUG
-
IOM
-
NED
-
BEL
-
DDR
-
TCH
-
FIN
-
ULS
-
ITA
-
SPA
2
12 13位 0
1971 50cc クライドラー AUT
-
GER
-
NED
-
BEL
-
DDR
-
TCH
1
SWE
4
ITA
-
SPA
-
23 6位 1
125cc スズキ AUT
3
GER
-
IOM
NC
NED
2
BEL
1
DDR
2
TCH
3
SWE
1
FIN
1
ITA
3
SPA
3
79 2位 3
250cc デルビ AUT
-
GER
-
IOM
-
NED
-
BEL
-
DDR
6
TCH
-
SWE
-
FIN
-
ULS
-
ITA
-
SPA
-
5 33位 0
1972 250cc ヤマハ GER
-
FRA
-
AUT
4
ITA
-
IOM
-
YUG
-
NED
-
BEL
-
DDR
-
TCH
-
SWE
-
FIN
-
SPA
3
18 13位 0
1974 500cc スズキ FRA
2
GER
-
AUT
3
ITA
-
IOM
-
NED
-
BEL
-
SWE
-
FIN
-
TCH
4
30 6位 0
1975 500cc スズキ FRA
-
AUT
-
GER
-
ITA
-
IOM
-
NED
1
BEL
DNF
SWE
1
FIN
-
TCH
-
30 6位 2
1976 500cc スズキ FRA
1
AUT
1
ITA
1
IOM
-
NED
1
BEL
2
SWE
1
FIN
-
TCH
-
GER
-
72 1位 5
1977 500cc スズキ VEN
1
AUT
-
GER
1
ITA
1
FRA
1
NED
2
BEL
1
SWE
1
FIN
6
TCH
-
GBR
NC
107 1位 6
1978 500cc スズキ VEN
1
SPA
5
AUT
3
FRA
3
ITA
5
NED
3
BEL
3
SWE
1
FIN
NC
GBR
3
GER
4
100 2位 2
1979 500cc スズキ VEN
1
AUT
12
GER
NC
ITA
4
SPA
NC
YUG
NC
NED
2
BEL
DNS
SWE
1
FIN
3
GBR
2
FRA
1
87 3位 3
1980 500cc ヤマハ ITA
7
SPA
5
FRA
NC
NED
NC
BEL
-
FIN
-
GBR
NC
GER
-
10 15位 0
1981 500cc ヤマハ AUT
4
GER
6
ITA
3
FRA
4
YUG
5
NED
NC
BEL
4
RSM
2
GBR
NC
FIN
NC
SWE
1
72 4位 1
1982 500cc ヤマハ ARG
2
AUT
2
FRA
-
SPA
2
ITA
-
NED
3
BEL
2
YUG
3
GBR
DNS
SWE
INJ
RSM
INJ
GER
INJ
68 5位 0
1983 500cc スズキ RSA
10
FRA
7
ITA
9
GER
NC
SPA
-
AUT
13
YUG
13
NED
NC
BEL
-
GBR
9
SWE
NC
RSM
NC
9 14th 0
1984 500cc スズキ RSA
3
ITA
NC
SPA
7
AUT
10
GER
10
FRA
5
YUG
7
NED
NC
BEL
9
GBR
5
SWE
NC
RSM
NC
34 6位 0

関連文献

脚注

  1. ^ タイヤトラブルが原因と言われる。
  2. ^ 復帰した際には、まだ骨折部位を支える金属棒などが体内に埋め込まれた状態であり、もし再骨折したら治療不可能というリスクを負っていたと言われる。
  3. ^ スズキと契約する以前、シーンはヤマハのマシンに乗っていたが、ヤマハに対する悪口をたびたびマスコミに公言していた。これが再契約の際に冷遇される原因になったと見る向きもある。
  4. ^ 事故の原因は、見通しのきかないカーブの先に転倒車が存在することをコース係員が適切に通知しなかったためと言われ、裁判が行われた末にシーンが勝訴している。
  5. ^ イギリスの税金の高さに辟易していたためだという。
  6. ^ 前年ランキングが下位の場合でも、本来ゼッケン7の権利を有する選手がシーンに7を譲るのが通例となっていた。
  7. ^ 日本ではバリー・シーンは「サー」の称号を授けられたと言われることがあるが、「サー」は称号ではなく敬称であり、バリー・シーンはナイト爵相当の勲章拝受者ではないため「サー」をつけて呼ばれたことはない。
  8. ^ ビートルズのメンバーだったジョージ・ハリスンなどと親しく、ハリスンが世界GPの観戦に訪れたこともある。
  9. ^ 晩年には金属プレート等は再手術で全て除去していたという。
  10. ^ 日本では片山敬済のドキュメンタリー映画『蘇るヒーロー・片山敬済』と併映。

関連項目

外部リンク