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{{Otheruses||ウィリアム・シェイクスピアの史劇|リチャード二世 (シェイクスピア)}} |
{{Otheruses||ウィリアム・シェイクスピアの史劇|リチャード二世 (シェイクスピア)}}{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = リチャード2世 |
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{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = リチャード2世 |
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| 画像 = Richard II of England.jpg |
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| 画像サイズ = 180px |
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| 画像説明 |
| 画像説明 = リチャード2世 |
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| 在位 |
| 在位 = [[1377年]][[6月22日]] - [[1399年]][[9月29日]] |
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| 戴冠日 |
| 戴冠日 = [[1377年]][[7月16日]] |
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| 別号 |
| 別号 = |
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| 全名 |
| 全名 = |
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| 出生日 |
| 出生日 = [[1367年]][[1月6日]]<ref>{{Kotobank|リチャード2世}}</ref> |
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| 生地 |
| 生地 = [[アキテーヌ]]、[[ボルドー]] |
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| 死亡日 |
| 死亡日 = [[1400年]][[2月14日]]<ref>{{Find a Grave}}</ref>(満33歳没) |
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| 没地 |
| 没地 = {{ENG927}}、[[ウェスト・ヨークシャー]]、{{仮リンク|ポンテフラクト城|en|Pontefract Castle}} |
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| 埋葬日 |
| 埋葬日 = [[1400年]][[3月6日]]<br/>{{ENG927}}、[[ハートフォードシャー]]、{{仮リンク|キングス・ラングリー修道院|en|King's Langley Priory}} |
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| 埋葬地 |
| 埋葬地 = [[1413年]]12月<br/>{{ENG927}}、ロンドン、[[ウェストミンスター寺院]]へ改葬 |
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| 配偶者1 |
| 配偶者1 = [[アン・オブ・ボヘミア]] |
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| 配偶者2 = [[イザベラ・オブ・ヴァロワ]] |
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| 子女 |
| 子女 = |
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| 王家 |
| 王家 = プランタジネット家 |
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| 王朝 = [[プランタジネット朝]] |
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| 王室歌 = |
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| 王朝 = [[プランタジネット朝]] |
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| 父親 = [[エドワード黒太子]] |
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| 王室歌 = |
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| 母親 = [[ジョーン・オブ・ケント]] |
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| サイン = Richard II Signature.svg |
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| 母親 = [[ジョーン・オブ・ケント]] |
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'''リチャード2世'''({{lang|en|Richard II}}, [[1367年]][[1月6日]] - [[1400年]][[2月14日]])は、[[プランタジネット朝]]最後の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位:[[1377年]][[6月22日]] - [[1399年]][[9月29日]])。父はイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]と王妃[[フィリッパ・オブ・エノー]]の長男[[エドワード黒太子]]、母はその妃[[ジョーン・オブ・ケント]]。 |
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幼少で即位したため治世初期は貴族たちの補佐を受け、成長してからは専制のため側近を重用したことが周囲の反発を招き、1388年に反対派の[[訴追派貴族]]たちに側近たちを[[非情議会]]に訴追されて失い、一度挫折した。[[1397年]]に訴追派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]])ら貴族層の[[クーデター]]によって王位から追放・幽閉された末に死去、プランタジネット朝は断絶した。 |
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'''リチャード2世'''(Richard II, [[1367年]][[1月6日]] - [[1400年]][[2月14日]])は、[[プランタジネット朝]]最後の[[イングランド王国|イングランド]]王(在位:[[1377年]][[6月22日]] - [[1399年]][[9月29日]])。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 幼少期の統治 === |
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リチャード2世は、[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の長男[[エドワード黒太子]]とその妃[[ジョーン・オブ・ケント]]の間に次男として[[ボルドー]]において誕生した。兄エドワードが[[1372年]]に7歳で、続いて[[1376年]]に父が死去したため[[コーンウォール公]]に叙され、祖父エドワード3世の後嗣に指名された。1377年[[6月21日]]に祖父が死去すると10歳で王位を継承し、叔父の[[ケンブリッジ伯]](後に[[ヨーク公]])[[エドムンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]が摂政に立った。 |
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[[ファイル:Coronation Richard2 England 02.jpg|左|180px|thumb|リチャード2世の戴冠式(15世紀の作品)]] |
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1367年、エドワード黒太子とジョーン・オブ・ケント夫妻の間に次男として[[ボルドー]]において誕生。出生地からリチャード・オブ・ボルドーと呼ばれた。兄エドワードが[[1372年]]に7歳で、続いて[[1376年]]に父が死去したため祖父から[[コーンウォール公]]に叙されると共に後嗣に指名された。そして翌1377年[[6月21日]]に祖父も死去すると10歳で王位を継承した。 |
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黒太子には4人の弟がいたが、[[クラレンス公]][[ライオネル・オブ・アントワープ]]は若死、残った3人の弟[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]、[[ケンブリッジ伯]](後に[[ヨーク公]])[[エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]、[[エセックス伯]](後に[[グロスター公]])[[トマス・オブ・ウッドストック]]が摂政候補に挙げられたが{{Efn|ランカスター公は密かにイングランド王位への野望を抱いているという噂が流れ、周囲から疑われたこと、エドワード3世時代末期から政権を司ってきたとはいえ、黒太子の死去直前の1376年に開催された[[善良議会]]の決定を翌年の議会で強引に覆したことから警戒され、摂政候補から外されていた{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1pp=156 - 157|2a1=川北|2y=1998|2pp=102-103|3a1=ロイル|3y=2014|3p=32}}。}}、誰も決まらず貴族たちによる集団指導体制でリチャード2世を補佐することに決定、評議会がその役目を担ったが、筆頭に選ばれたランカスター公の発言権が強かった。リチャード2世の治世はこの3人の叔父たちの動向に大きく左右されていくことになる{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=160 - 161|2a1=青山|2y=1991|2p=378|3a1=川北|3y=1998|3p=106|4a1=佐藤|4y=2003|4p=119|5a1=キング|5y=2006|5p=291-292|6a1=ロイル|6y=2014|6p=31-33}}。 |
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[[1380年]]に新政権は[[百年戦争]]による膨大な戦費調達のため[[人頭税]]の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。[[1381年]]6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、[[エセックス]]の煉瓦工[[ワット・タイラー]]に率いられて反乱を起すと、リチャード2世はタイラーとの面会に応じた。リチャード2世はタイラーの要求事項に回答を約束したが、翌日、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]が面会に現れたタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された([[ワット・タイラーの乱]])。 |
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[[ファイル:Death of Wat Tyler Froissart.jpg|250px|thumb|王と交渉中に斬殺されるワット・タイラー(15世紀の作品)]] |
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幼いリチャード2世の宮廷では、エドワード3世時代から政権を司ってきた叔父の[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]](ヨーク公の兄)の発言権が強く、彼自身も密かにイングランド王位への野望を抱いているという噂が流れた。[[1383年]]に親政を開始したリチャード2世は側近の[[サフォーク伯]][[マイケル・ド・ラ・ポール (初代サフォーク伯)|マイケル・ド・ラ・ポール]]や[[オックスフォード伯爵|オックスフォード伯]][[ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)|ロバート・ド・ヴィアー]]らを重用した。さらにランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、叔父でランカスター公の兄[[ライオネル・オブ・アントワープ]]の外孫である従甥のマーチ伯[[ロジャー・モーティマー (第4代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]を王位継承者に指名する(しかし、ロジャーは[[1398年]]に死去する)。 |
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[[1378年]]と[[1380年]]に新政権は[[百年戦争]]で[[フランス王国|フランス]]に奪われた占領地域の奪還を図り大陸へ遠征したが、全く成果が上がらなかった。この遠征による膨大な戦費調達のため[[人頭税]]の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。[[1381年]]6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、[[エセックス]]の煉瓦工[[ワット・タイラー]]に率いられて反乱を起こすと、ランカスター公の屋敷が焼き払われ、政府の幹部だった財務府長官ロバート・ヘイルズと尚書部長官サイモン・サドベリーの2名が殺害され、反乱軍が[[ロンドン]]へ迫る展開になったが、リチャード2世はタイラーとの面会に応じた。[[6月14日]]にリチャード2世はタイラーの要求事項に回答を約束したが、翌[[6月15日|15日]]、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]が面会に現れたタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された([[ワット・タイラーの乱]]){{Efn|反乱鎮圧後リチャード2世はタイラーの要求を撤回したが、そのうちの一つである[[農奴制]]は時代の流れで15世紀前半までに自然消滅へ向かっていった{{Sfn|キング|2006|p=300-302}}。}}。 |
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自ら危機を乗り切ったリチャード2世は自信をつけて親政を手掛けたが、それは貴族の反感を買うことになっていく{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=161 - 163|2a1=青山|2y=1991|2p=378-380|3a1=川北|3y=1998|3p=107-109|4a1=佐藤|4y=2003|4p=119-120|5a1=キング|5y=2006|5p=292-300|6a1=ロイル|6y=2014|6p=38-45}}。 |
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=== 専制政治とその挫折 === |
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[[1383年]]に親政を開始したリチャード2世は、側近の[[マイケル・ド・ラ・ポール (初代サフォーク伯)|マイケル・ド・ラ・ポール]]や[[オックスフォード伯爵|オックスフォード伯]][[ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)|ロバート・ド・ヴィアー]]らを重用、ド・ラ・ポールを[[サフォーク伯]]に([[1385年]])、オックスフォード伯を[[アイルランド公爵|アイルランド公]]に叙爵した([[1386年]])。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯[[ロジャー・モーティマー (第4代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]を王位継承者に指名する。さらに2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。 |
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しかし外交は失敗が重なり、[[フランドル]]の都市[[ヘント]]で反乱を起こした{{仮リンク|フィリップ・ヴァン・アルテベルデ|en|Philip van Artevelde}}はイングランドの支援を求めたが、[[1382年]]の[[ローゼベーケの戦い]]でフランス軍に討ち取られ、出遅れる形で翌1383年に出兵したイングランド軍も成果が無いまま撤退、金の無駄遣いに終わった。のみならず、[[スコットランド王国|スコットランド]]とフランスが手を組みイングランドへ逆侵攻する恐れが生じたため、1385年にリチャード2世はスコットランドへ遠征したが、敵側が焦土作戦を取ったためこの遠征も戦果を挙げられず、引き上げざるを得なかった。外交の失敗に加え、リチャード2世が寵臣たちに気前よく爵位や土地、財産などをばらまき、彼らを中心とした専制政治で議会や貴族を無視する態度を取ったため不満が高まっていった。 |
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[[1386年]]に宮廷闘争が発生して、ノッティンガム伯[[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]や叔父の[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]](ランカスター公とヨーク公の弟)らが側近の追放を要求するとこれに応じたが、その後事態が沈静化するのを見て、[[1397年]]にグロスター公らを逮捕し、その一貫性のない裁定が信望を失わせた。グロスター公はおそらく王の命令で獄内で殺され、王への信望はさらに減じた。 |
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[[ファイル:Robert de Vere fleeing Radcot Bridge.jpg|thumb|ラドコット・ブリッジの戦いで敗走するアイルランド公ロバート・ド・ヴィアー(15世紀の作品)]] |
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ランカスター公が1399年に死去したのを機会に、その息子で従弟の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー・ボリングブルック]]に対して、広大なランカスター公領の没収と追放を命じた。しかし、7月にボリングブルックが兵を挙げると、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流した。翌8月に[[アイルランド]]遠征から帰途にあったリチャード2世は、[[ウェールズ]]との国境付近で優勢なボリングブルック軍に呆気なく降伏して捕らわれ、[[ロンドン塔]]に幽閉されて[[9月28日]]に開かれた議会で正式に廃位された。 |
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[[ファイル:Lancaster Aquitaine.jpg|thumb|ランカスター公にアキテーヌ公位を与えるリチャード2世(15世紀の作品)]] |
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ランカスター公は両者の調停に尽力していたが、1386年7月に妻[[コンスタンス・オブ・カスティル|コンスタンス]]の王位継承権を盾に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]へ遠征すると、貴族たちが国王批判を展開した{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=163 - 164|2a1=青山|2y=1991|2p=380-383|3a1=川北|3y=1998|3p=110-111|4a1=佐藤|4y=2003|4p=120-121|5a1=キング|5y=2006|5p=302-305|6a1=ロイル|6y=2014|6p=49-53}}。 |
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10月に宮廷闘争が発生して、議会はサフォーク伯を弾劾、投獄へ追いやり、王室財政の監視と国政運営を担当する任期1年の常設評議会の設置を決定した。リチャード2世はこれに反発して[[1387年]]2月に側近たちとロンドンを離れ、[[チェシャー]]・[[ウェールズ]]で徴兵を始め、裁判官を味方につけて王権の侵害を根拠に議会の決定を無効とし、反逆罪にかけることを企てた。対して[[訴追派貴族]]と呼ばれる議会派の3人の貴族(グロスター公を筆頭に[[アランデル伯爵|アランデル伯]][[リチャード・フィッツアラン (第11代アランデル伯)|リチャード・フィッツアラン]]、[[ウォリック伯]][[トマス・ド・ビーチャム (第12代ウォリック伯)|トマス・ド・ビーチャム]])も軍備を整え、新たにアランデル伯の婿[[ノッティンガム伯爵|ノッティンガム伯]][[トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公)|トマス・モウブレー]]と、リチャード2世の従弟でランカスター公の息子でもある[[ダービー伯爵|ダービー伯]]ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を加えて迎撃態勢を整え、[[12月20日]]の{{仮リンク|ラドコット・ブリッジの戦い|en|Battle of Radcot Bridge}}でアイルランド公の国王軍を破り、勢いを増した。 |
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翌[[1388年]]2月の[[非情議会]]で国王側近は追放・処刑され(サフォーク伯とアイルランド公は海外へ亡命){{Efn|亡命した2人のほか、ヨーク大司教アレクサンダー・ネヴィルは聖職者だったため死刑を免れたが、残りの6人が処刑された。議会の弾劾を否定した王座裁判所長官ロバート・トレジリアンとウォリック伯の同族に当たるサー・ジョン・ビーチャム、ロンドン市長ニコラス・ブレンバー、サー・サイモン・バーリーらが処刑され、トレジリアンと同じくリチャード2世を擁護した5人の裁判官も追放された{{sfnm|1a1=青山|1y=1991|1p=384-385|2a1=キング|2y=2006|2p=308|3a1=ロイル|3y=2014|3p=58}}。}}、手足を失ったリチャード2世は議会側に屈服、訴追派貴族が実権を握り彼らが入った評議会が国政を動かしていった。しかし、次第に議会内部が対立したり、イングランド軍がスコットランド軍に{{仮リンク|オッターバーンの戦い|en|Battle of Otterburn|}}で敗れ評議会も支持が揺らぎだすと、リチャード2世がこの隙を見て[[1389年]]5月に親政を宣言してグロスター公・アランデル伯らを評議会から解任、常設評議会も任期切れで廃止され、リチャード2世は主導権を取り戻した。 |
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ボリングブルックはヘンリー4世としてイングランド王に即位し、[[ランカスター朝]]を開いた。退位したリチャードは身柄を各地に移され、1400年2月14日に[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]南西の[[ポンティフラクト城]]で33歳で死去した。リチャードは前王の尊厳を奪われ、過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている。 |
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権力を回復したとはいえ、リチャード2世は専制政治を行うことはせず、11月にランカスター公が帰国したこともあり彼を助言者として信任、[[1390年]]に[[アキテーヌ公]]位を譲渡した。[[ウィカムのウィリアム]]を[[大法官]]として登用、再編した評議会の補佐を受けつつ数年間は平穏な治世を過ごしたリチャード2世だったが、フランスに対する平和外交を推し進める一方で訴追派貴族への反撃の機会も窺い、自らの基盤回復に策略を巡らしていった{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=164-165|2a1=青山|2y=1991|2p=383|3a1=川北|3y=1998|3p=111-112|4a1=佐藤|4y=2003|4p=120-121|5a1=キング|5y=2006|5p=305-311|6a1=ロイル|6y=2014|6p=53-62}}。 |
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=== 反撃と再度の専制 === |
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[[ファイル:2svatbaRicharda2.png|250px|thumb|イザベラとの結婚(15世紀の作品)]] |
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1383年のフランドル遠征はあったが、リチャード2世は百年戦争に乗り気でなく、フランスとの和平を考え交渉を呼びかけていた。1381年5月の時点からリチャード2世はフランスと接触を開始、フランス北部の都市[[ルーランジャン]]で交渉を重ねて[[1384年]]1月に休戦協定を結んだ。それからも休戦を延長しつつ話し合いを続け、1389年に3年間の休戦を決め、[[1392年]]に[[アミアン]]でリチャード2世とフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]と会見、[[1396年]][[3月11日]]にフランスの首都[[パリ]]で[[1398年]]から[[1426年]]まで28年間の休戦協定を発表した。同年に内容をより具体的に取り決め、11月にシャルル6世の娘[[イザベラ・オブ・ヴァロワ]]とリチャード2世の結婚が実現した。 |
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しかし、フランスの和睦はイングランドでは評判が悪く、イザベラが幼いため世継ぎを生む可能性が大分先になってしまうこと、フランス侵攻の足掛かりにしていた北西部の港町[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]をフランスへ明け渡したことなどが非難された。好戦派だったグロスター公・アランデル伯も和睦に不満を抱き、イングランドは再び不穏な空気に包まれた。リチャード2世はそうした情勢をよそに[[1394年]]から[[1395年]]まで[[アイルランド島|アイルランド]]へ遠征、現地の[[イングランド人]]入植者と先住民の[[ゲール人]]部族の対立を収め、両者の不満をなだめた{{sfnm|1a1=青山|1y=1991|1p=386-387|2a1=川北|2y=1998|2p=112|3a1=佐藤|3y=2003|3p=118-119|4a1=キング|4y=2006|4p=311|5a1=ロイル|5y=2014|5p=69-73}}。 |
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[[1397年]]7月、リチャード2世は訴追派貴族3名(ノッティンガム伯・ボリングブルックを除く)をロンドンの宴席へ招待したが、拒否されたことを口実に3人を逮捕、9月の議会で次々と処罰した。グロスター公はフランスの[[カレー (フランス)|カレー]]へ監禁された後に暗殺、アランデル伯は死刑、ウォリック伯は[[マン島]]へ追放された。議会はリチャード2世がチェシャーから招集した軍隊で威圧され、貴族たちはリチャード2世の復讐に恐怖と不信感を抱いた{{Efn|リチャード2世はこの議会で1386年から1388年の一連の出来事に対する恩赦を宣言したが、50人は対象から外すとも言ったため、貴族たちは対象者の名前が明かされていなかったことから疑心暗鬼を生じ、600人以上が恩赦を求め王への金銭支払いに走った。続けてリチャード2世は[[ケント (イングランド)|ケント]]、エセックス、[[ハートフォードシャー]]など地方からも赦免と引き換えに金銭を徴収、各地から強引に金を脅し取る手法は周囲の反感を買った{{sfnm|1a1=青山|1y=1991|1p=387-389|2a1=キング|2y=2006|2p=313-314|3a1=ロイル|3y=2014|3p=74-76}}。}}。 |
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一方、訴追派貴族の分断と自らの基盤を再構築するため、ランカスター公父子とノッティンガム伯らを懐柔し、ボリングブルックは新たに[[ヘレフォード公爵|ヘレフォード公]]、ノッティンガム伯は[[ノーフォーク公]]に叙爵され、ランカスター公も同年に4人の庶子でボリングブルックの異母弟妹に当たる子供([[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン]]・[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ヘンリー]]・[[トマス・ボーフォート (エクセター公)|トマス]]・[[ジョウン・ボーフォート (ウェストモーランド伯爵夫人)|ジョウン]])が嫡出子に格上げされたためリチャード2世に肩入れするようになっていった。寵臣の補充も行い、自分の2人の異父兄である[[ケント伯爵|ケント伯]][[トマス・ホランド (第2代ケント伯)|トマス・ホランド]]とハンティンドン伯[[ジョン・ホランド (初代エクセター公)|ジョン・ホランド]]を登用、ケント伯が死亡すると同名の息子[[トマス・ホランド (初代サリー公)|トマス・ホランド]]をサリー公、ハンティンドン伯を[[エクセター公]]に叙爵して厚遇したが、これは専制の再来を予感させた{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=166|2a1=川北|2y=1998|2p=112|3a1=ロイル|3y=2014|3p=75-76}}。 |
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翌1398年1月に開会した議会でリチャード2世は軍事力を背景に議会へ圧力をかけ、開催地をロンドンではなく国王派の地盤に近い[[シュルーズベリー]]に変更させた上、非情議会の決定を全て無効と宣言して議会を統制下に置こうとした。さらに、前年に優遇した訴追派貴族の残り2名にも処罰を与え、ボリングブルックがノーフォーク公から「国王が自分達を暗殺しようとしている」と告げられたと議会で言いだし、反発したノーフォーク公と対立して互いに反逆罪で訴え決闘寸前まで至った所で中止を命令、2人とも国外追放とした(ノーフォーク公は終身、ボリングブルックは6年)。スコットランドと国境を接するイングランド北部にも介入し、[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]と息子の[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ホットスパー]]が手にしていた辺境守護職を取り上げ、北部貴族も敵に回した{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=166-167|2a1=青山|2y=1991|2p=403-404|3a1=川北|3y=1998|3p=112|4a1=佐藤|4y=2003|4p=122|5a1=キング|5y=2006|5p=311-312|6a1=ロイル|6y=2014|6p=76-78}}。 |
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=== 廃位 === |
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ランカスター公が1399年に死去したのを機会に、ボリングブルックに対して広大なランカスター公領の没収と永久追放への変更を命じた。これにより貴族層の離反は決定的になり、ボリングブルックは復讐の機会を窺った。そのような状況を横目に、5月にリチャード2世はアイルランドへ2度目の遠征を敢行した。1度は服従したゲール人が反乱を起こし、食い止めようとしたマーチ伯が戦死したため報復と鎮圧の意図があった。 |
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しかし、7月にボリングブルックが兵を挙げると、ノーサンバランド伯父子と[[ウェストモーランド伯爵|ウェストモーランド伯]][[ラルフ・ネヴィル (初代ウェストモーランド伯)|ラルフ・ネヴィル]]ら北部貴族を始め、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流、留守を守っていたヨーク公も降伏した。翌8月にアイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの国境付近で優勢なボリングブルック軍に呆気なく降伏して捕らわれ、[[ロンドン塔]]に幽閉されて[[9月28日]]に開かれた議会で翌29日に正式に廃位された。そしてボリングブルックは[[9月30日|30日]]にヘンリー4世としてイングランド王に即位し、[[ランカスター朝]]を開いた。 |
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退位したリチャードは身柄を各地に移され、1400年2月14日に[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]南西の[[ポンテフラクト]]にある{{仮リンク|ポンテフラクト城|en|Pontefract Castle}}で33歳で死去した。1月にリチャードに重用され、ヘンリー4世即位と共に権勢を失った元サリー公、元エクセター公、元グロスター伯[[トマス・ル・ディスペンサー (初代グロスター伯)|トマス・ル・ディスペンサー]]、[[ソールズベリー侯|ソールズベリー伯]][[ジョン・モンタキュート (第3代ソールズベリー伯)|ジョン・モンタキュート]]の4人が[[公現祭]]でヘンリー4世暗殺を企て、失敗して処刑されていたが、直後にリチャードが死去したこともヘンリー4世の関与が疑われている。 |
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リチャードの詳しい死因は不明で、前王の尊厳を奪われ、過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている一方、自殺・他殺説もある。遺体は当初[[ハートフォードシャー]]の{{仮リンク|キングス・ラングリー修道院|en|King's Langley Priory}}へ埋葬されたが、[[1413年]]4月に即位した[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が12月に遺体をロンドンへ運び出し、[[ウェストミンスター寺院]]に改葬した{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=167-169|2a1=青山|2y=1991|2p=404-406|3a1=川北|3y=1998|3p=112-113|4a1=佐藤|4y=2003|4p=122|5a1=キング|5y=2006|5p=315-318|6a1=ロイル|6y=2014|6p=78-84, 424}}。 |
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ファイル:Richard II arrest.jpg|捕縛されるリチャード2世(15世紀の作品) |
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ファイル:Abdikace Richarda2.png|廃位式(15世紀の作品) |
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ファイル:Richard2funeral.jpg|リチャード2世の葬列(15世紀の作品) |
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== 王妃 == |
== 王妃 == |
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[[ファイル:Richard2 Anna.jpg|thumb|リチャード2世と王妃アン(14世紀の作品)]] |
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[[1382年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の娘[[アン・オブ・ボヘミア]]と最初の結婚をした。[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]同様に仲睦ましい夫妻だったが、アンは[[ペスト]]のため[[1394年]]に亡くなった。 |
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当初[[ミラノ公国|ミラノ]]僭主[[ベルナボ・ヴィスコンティ]]の娘[[カテリーナ・ヴィスコンティ|カテリーナ]]との縁談が予定されていたが実現せず、[[1382年]]に[[神聖ローマ皇帝]]兼[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の娘[[アン・オブ・ボヘミア]]と最初の結婚をした。結婚は[[教会大分裂]]でイングランドを[[ローマ教皇庁]]支持にして[[神聖ローマ帝国]]とイングランドを結び付けたい[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]とアンの異母兄[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]の意向が働いていた。 |
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アンがボヘミアから連れてきた大勢の使用人が浪費している、イングランドが持参金をボヘミアへ支払う羽目になる、アンがイングランド人から人気が無いなど周囲の印象は良くなかったが、彼女とリチャード2世は[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]同様に仲睦ましい夫妻だった。アンは[[ペスト]]のため[[1394年]]に亡くなり、大いに悲しんだリチャード2世は彼女と2人で過ごしたシーン離宮(後の{{仮リンク|リッチモンド宮殿|en|Richmond Palace}})の破却を命じた。アンはウェストミンスター寺院に埋葬され、リチャード2世と手をつないでいる墓像が建てられている{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=170|2a1=ロイル|2y=2014|2p=45-47, 66-67, 423}}。 |
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[[1397年]]、[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の娘[[イザベラ・オブ・ヴァロワ]]と再婚した。この時イザベラはわずか7歳であり、成人に達する前に未亡人となり、フランスへ帰国の後に王族[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公シャルル]]と再婚した。なおイザベラは、[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]と結婚して[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]を生んだ[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|キャサリン]]の姉である。 |
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[[1397年]]、フランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]の娘[[イザベラ・オブ・ヴァロワ]]と再婚した。この時イザベラはわずか7歳であり、両国の休戦条件として出された政略結婚だった。イザベラが成人に達する前にリチャード2世が廃位・獄死したため未亡人となり[[1401年]]にフランスへ帰国、[[1406年]]にフランス王族で従弟の[[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]と再婚した。なおイザベラは、ヘンリー4世の息子[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]と結婚して[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]を生んだ[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|キャサリン]]の姉である{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=170-172|2a1=ロイル|2y=2014|2p=69-70, 99-100}}。 |
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いずれの王妃との間にも子供はいない。 |
いずれの王妃との間にも子供はいない。 |
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== |
== 人物 == |
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敬虔で洗練された文化的感覚を持ち合わせている一方、短気で感情の抑制が利かない性格だった。 |
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{{イングランド王室プランタジネット朝}} |
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文化では芸術家の[[パトロン]]を買って出て彼らを保護・奨励、[[国際ゴシック]]の流行に一役買い、華麗な服装の色やデザインに気を遣い、[[ジョン・ガワー]]、[[ジェフリー・チョーサー]]らに様々な庇護を与え、チョーサーには実入りのある官職、年金などを与えて優遇した。また臣下に[[紋章]]の加増([[オーグメンテイション]])を許可しており、[[エドマンド殉教王]]や[[エドワード懺悔王]]、曽祖父に当たる[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]に対する帰依は熱心であり、懺悔王の紋章とされる飾りを自身の未紋章の左半分に追加したり、一時はエドワード2世の列聖を検討したりしている。 |
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しかし、華麗な宮廷生活で目に余る浪費が臣下の不満を生み、1383年に親政開始してからは自己判断だけに頼りだし、寵臣を集めて専制に走る軽率さと虚栄心が目立ち始めた。アンが死去してからは感情の抑制が利かなくなり、葬儀に遅参したアランデル伯を杖で打ち据えたり、シーン離宮の破却命令など喜怒哀楽が大きく揺れ動くようになった。やがて1397年に訴追派貴族を排除してからは周囲から暴君と恐れられる行為を繰り返したため人望を失い、廃位へと至る末路に繋がった{{sfnm|1a1=森|1y=1986|1p=158-160|2a1=ロイル|2y=2014|2p=39, 49, 62-67, 77, 84-86}}。 |
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== リチャード2世が登場する作品 == |
== リチャード2世が登場する作品 == |
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[[ファイル:R2 Q3 TP 1598.jpg|thumb|シェイクスピアの『リチャード2世』表紙(1598年版)]] |
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; 戯曲 |
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*:(日本語訳:『シェークスピア全集11 リチャード二世』、白水社Uブックス、1983年 など) |
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:* [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]『[[リチャード二世 (シェイクスピア)|リチャード二世]]』 |
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*[[蒲生総]]の漫画『リチャード二世 Splendour of king』([[1998年]]角川書店から第1巻出版。ただし現在は絶版のため入手不可能) |
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::*(日本語訳:『シェークスピア全集11 リチャード二世』、白水社Uブックス、1983年 など) |
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*[[青池保子]]『[[アルカサル-王城-]]』外伝1「公爵夫人の記」 |
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; 漫画 |
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:* [[蒲生総]]『リチャード二世 Splendour of king』([[1998年]]角川書店から第1巻出版。ただし現在は絶版のため入手不可能) |
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:*[[青池保子]]『[[アルカサル-王城-]]』外伝1「公爵夫人の記」 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book ja-jp |author = [[森護]] |year = 1986 |title = 英国王室史話 |publisher = [[大修館書店]] |isbn = 978-4469240900 |ref = {{SfnRef|森|1986}}}} |
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* {{Cite book ja-jp |author = [[青山吉信]](編) |year = 1991 |title = イギリス史<1> 先史〜中世 |publisher = [[山川出版社]] |series = 世界歴史大系 |isbn = 978-4634460102 |ref = {{SfnRef|青山|1991}}}} |
|||
* {{Cite book ja-jp |author = [[川北稔]](編) |year = 1998 |title = イギリス史 |publisher = 山川出版社 |series = 世界各国史 |isbn = 978-4634414105 |ref = {{SfnRef|川北|1998}}}} |
|||
* {{Cite book ja-jp |author = [[佐藤賢一]] |year = 2003 |title = 英仏百年戦争 |publisher = 集英社 |series = [[集英社新書]] |isbn = 9784087202168 |ref = {{SfnRef|佐藤|2003}}}} |
|||
* {{Cite book ja-jp |author = [[エドマンド・キング]] |translator = [[吉武憲司]] |year = 2006 |title = 中世のイギリス |publisher = [[慶應義塾大学出版会]] |isbn = 978-4766413236 |ref = {{SfnRef|キング|2006}}}} |
|||
* {{Cite book ja-jp |author = [[トレヴァー・ロイル]] |translator = [[陶山昇平]] |year = 2014 |title = 薔薇戦争新史 |publisher = [[彩流社]] |isbn = 978-4779120329 |ref = {{SfnRef|ロイル|2014}}}} |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Richard II of England}} |
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*[[ウィルトンの二連祭壇画]] |
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*[[グリンドゥールの反乱]] |
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*[[イングランド料理]] |
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*[[ライム・パーク]] |
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{{先代次代|[[イングランド君主一覧|イングランド国王]]|[[1377年]] - [[1399年]]|[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]|[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]}}{{先代次代|[[アキテーヌ公]]|[[1377年]] - [[1390年]]|[[エドワード3世 (イングランド王)|エドゥアール3世]]|[[ジョン・オブ・ゴーント|ジャン2世]]}} |
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{{先代次代|アキテーヌ公|[[1397年]] - [[1399年]]|ジャン2世|[[ヘンリー4世 (イングランド王)|アンリ3世]]}} |
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{{イングランド王|1377年 - 1399年}} |
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{{Normdaten}} |
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{{先代次代|アキテーヌ公|[[1397年]] - [[1399年]]|[[ジョン・オブ・ゴーント|ジャン2世]]|[[ヘンリー4世 (イングランド王)|アンリ3世]]}} |
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[[Category:芸術のパトロン]] |
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[[Category:餓死した人物]] |
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[[Category:ウェストミンスター寺院に埋葬された人物]] |
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[[Category:1367年生]] |
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[[Category:1400年没]] |
[[Category:1400年没]] |
2024年11月23日 (土) 00:32時点における最新版
リチャード2世 Richard II | |
---|---|
イングランド国王 | |
リチャード2世 | |
在位 | 1377年6月22日 - 1399年9月29日 |
戴冠式 | 1377年7月16日 |
出生 |
1367年1月6日[1] アキテーヌ、ボルドー |
死去 |
1400年2月14日[2](満33歳没) イングランド王国、ウェスト・ヨークシャー、ポンテフラクト城 |
埋葬 |
1400年3月6日 イングランド王国、ハートフォードシャー、キングス・ラングリー修道院 1413年12月 イングランド王国、ロンドン、ウェストミンスター寺院へ改葬 |
配偶者 | アン・オブ・ボヘミア |
イザベラ・オブ・ヴァロワ | |
家名 | プランタジネット家 |
王朝 | プランタジネット朝 |
父親 | エドワード黒太子 |
母親 | ジョーン・オブ・ケント |
サイン |
リチャード2世(Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)は、プランタジネット朝最後のイングランド王(在位:1377年6月22日 - 1399年9月29日)。父はイングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの長男エドワード黒太子、母はその妃ジョーン・オブ・ケント。
幼少で即位したため治世初期は貴族たちの補佐を受け、成長してからは専制のため側近を重用したことが周囲の反発を招き、1388年に反対派の訴追派貴族たちに側近たちを非情議会に訴追されて失い、一度挫折した。1397年に訴追派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクーデターによって王位から追放・幽閉された末に死去、プランタジネット朝は断絶した。
生涯
[編集]幼少期の統治
[編集]1367年、エドワード黒太子とジョーン・オブ・ケント夫妻の間に次男としてボルドーにおいて誕生。出生地からリチャード・オブ・ボルドーと呼ばれた。兄エドワードが1372年に7歳で、続いて1376年に父が死去したため祖父からコーンウォール公に叙されると共に後嗣に指名された。そして翌1377年6月21日に祖父も死去すると10歳で王位を継承した。
黒太子には4人の弟がいたが、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは若死、残った3人の弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、ケンブリッジ伯(後にヨーク公)エドマンド・オブ・ラングリー、エセックス伯(後にグロスター公)トマス・オブ・ウッドストックが摂政候補に挙げられたが[注釈 1]、誰も決まらず貴族たちによる集団指導体制でリチャード2世を補佐することに決定、評議会がその役目を担ったが、筆頭に選ばれたランカスター公の発言権が強かった。リチャード2世の治世はこの3人の叔父たちの動向に大きく左右されていくことになる[4]。
1378年と1380年に新政権は百年戦争でフランスに奪われた占領地域の奪還を図り大陸へ遠征したが、全く成果が上がらなかった。この遠征による膨大な戦費調達のため人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起こすと、ランカスター公の屋敷が焼き払われ、政府の幹部だった財務府長官ロバート・ヘイルズと尚書部長官サイモン・サドベリーの2名が殺害され、反乱軍がロンドンへ迫る展開になったが、リチャード2世はタイラーとの面会に応じた。6月14日にリチャード2世はタイラーの要求事項に回答を約束したが、翌15日、ロンドン市長が面会に現れたタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱)[注釈 2]。 自ら危機を乗り切ったリチャード2世は自信をつけて親政を手掛けたが、それは貴族の反感を買うことになっていく[6]。
専制政治とその挫折
[編集]1383年に親政を開始したリチャード2世は、側近のマイケル・ド・ラ・ポールやオックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらを重用、ド・ラ・ポールをサフォーク伯に(1385年)、オックスフォード伯をアイルランド公に叙爵した(1386年)。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。さらに2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。
しかし外交は失敗が重なり、フランドルの都市ヘントで反乱を起こしたフィリップ・ヴァン・アルテベルデはイングランドの支援を求めたが、1382年のローゼベーケの戦いでフランス軍に討ち取られ、出遅れる形で翌1383年に出兵したイングランド軍も成果が無いまま撤退、金の無駄遣いに終わった。のみならず、スコットランドとフランスが手を組みイングランドへ逆侵攻する恐れが生じたため、1385年にリチャード2世はスコットランドへ遠征したが、敵側が焦土作戦を取ったためこの遠征も戦果を挙げられず、引き上げざるを得なかった。外交の失敗に加え、リチャード2世が寵臣たちに気前よく爵位や土地、財産などをばらまき、彼らを中心とした専制政治で議会や貴族を無視する態度を取ったため不満が高まっていった。
ランカスター公は両者の調停に尽力していたが、1386年7月に妻コンスタンスの王位継承権を盾にカスティーリャへ遠征すると、貴族たちが国王批判を展開した[7]。 10月に宮廷闘争が発生して、議会はサフォーク伯を弾劾、投獄へ追いやり、王室財政の監視と国政運営を担当する任期1年の常設評議会の設置を決定した。リチャード2世はこれに反発して1387年2月に側近たちとロンドンを離れ、チェシャー・ウェールズで徴兵を始め、裁判官を味方につけて王権の侵害を根拠に議会の決定を無効とし、反逆罪にかけることを企てた。対して訴追派貴族と呼ばれる議会派の3人の貴族(グロスター公を筆頭にアランデル伯リチャード・フィッツアラン、ウォリック伯トマス・ド・ビーチャム)も軍備を整え、新たにアランデル伯の婿ノッティンガム伯トマス・モウブレーと、リチャード2世の従弟でランカスター公の息子でもあるダービー伯ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を加えて迎撃態勢を整え、12月20日のラドコット・ブリッジの戦いでアイルランド公の国王軍を破り、勢いを増した。
翌1388年2月の非情議会で国王側近は追放・処刑され(サフォーク伯とアイルランド公は海外へ亡命)[注釈 3]、手足を失ったリチャード2世は議会側に屈服、訴追派貴族が実権を握り彼らが入った評議会が国政を動かしていった。しかし、次第に議会内部が対立したり、イングランド軍がスコットランド軍にオッターバーンの戦いで敗れ評議会も支持が揺らぎだすと、リチャード2世がこの隙を見て1389年5月に親政を宣言してグロスター公・アランデル伯らを評議会から解任、常設評議会も任期切れで廃止され、リチャード2世は主導権を取り戻した。
権力を回復したとはいえ、リチャード2世は専制政治を行うことはせず、11月にランカスター公が帰国したこともあり彼を助言者として信任、1390年にアキテーヌ公位を譲渡した。ウィカムのウィリアムを大法官として登用、再編した評議会の補佐を受けつつ数年間は平穏な治世を過ごしたリチャード2世だったが、フランスに対する平和外交を推し進める一方で訴追派貴族への反撃の機会も窺い、自らの基盤回復に策略を巡らしていった[9]。
反撃と再度の専制
[編集]1383年のフランドル遠征はあったが、リチャード2世は百年戦争に乗り気でなく、フランスとの和平を考え交渉を呼びかけていた。1381年5月の時点からリチャード2世はフランスと接触を開始、フランス北部の都市ルーランジャンで交渉を重ねて1384年1月に休戦協定を結んだ。それからも休戦を延長しつつ話し合いを続け、1389年に3年間の休戦を決め、1392年にアミアンでリチャード2世とフランス王シャルル6世と会見、1396年3月11日にフランスの首都パリで1398年から1426年まで28年間の休戦協定を発表した。同年に内容をより具体的に取り決め、11月にシャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワとリチャード2世の結婚が実現した。
しかし、フランスの和睦はイングランドでは評判が悪く、イザベラが幼いため世継ぎを生む可能性が大分先になってしまうこと、フランス侵攻の足掛かりにしていた北西部の港町ブレストをフランスへ明け渡したことなどが非難された。好戦派だったグロスター公・アランデル伯も和睦に不満を抱き、イングランドは再び不穏な空気に包まれた。リチャード2世はそうした情勢をよそに1394年から1395年までアイルランドへ遠征、現地のイングランド人入植者と先住民のゲール人部族の対立を収め、両者の不満をなだめた[10]。
1397年7月、リチャード2世は訴追派貴族3名(ノッティンガム伯・ボリングブルックを除く)をロンドンの宴席へ招待したが、拒否されたことを口実に3人を逮捕、9月の議会で次々と処罰した。グロスター公はフランスのカレーへ監禁された後に暗殺、アランデル伯は死刑、ウォリック伯はマン島へ追放された。議会はリチャード2世がチェシャーから招集した軍隊で威圧され、貴族たちはリチャード2世の復讐に恐怖と不信感を抱いた[注釈 4]。
一方、訴追派貴族の分断と自らの基盤を再構築するため、ランカスター公父子とノッティンガム伯らを懐柔し、ボリングブルックは新たにヘレフォード公、ノッティンガム伯はノーフォーク公に叙爵され、ランカスター公も同年に4人の庶子でボリングブルックの異母弟妹に当たる子供(ジョン・ヘンリー・トマス・ジョウン)が嫡出子に格上げされたためリチャード2世に肩入れするようになっていった。寵臣の補充も行い、自分の2人の異父兄であるケント伯トマス・ホランドとハンティンドン伯ジョン・ホランドを登用、ケント伯が死亡すると同名の息子トマス・ホランドをサリー公、ハンティンドン伯をエクセター公に叙爵して厚遇したが、これは専制の再来を予感させた[12]。
翌1398年1月に開会した議会でリチャード2世は軍事力を背景に議会へ圧力をかけ、開催地をロンドンではなく国王派の地盤に近いシュルーズベリーに変更させた上、非情議会の決定を全て無効と宣言して議会を統制下に置こうとした。さらに、前年に優遇した訴追派貴族の残り2名にも処罰を与え、ボリングブルックがノーフォーク公から「国王が自分達を暗殺しようとしている」と告げられたと議会で言いだし、反発したノーフォーク公と対立して互いに反逆罪で訴え決闘寸前まで至った所で中止を命令、2人とも国外追放とした(ノーフォーク公は終身、ボリングブルックは6年)。スコットランドと国境を接するイングランド北部にも介入し、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーと息子のホットスパーが手にしていた辺境守護職を取り上げ、北部貴族も敵に回した[13]。
廃位
[編集]ランカスター公が1399年に死去したのを機会に、ボリングブルックに対して広大なランカスター公領の没収と永久追放への変更を命じた。これにより貴族層の離反は決定的になり、ボリングブルックは復讐の機会を窺った。そのような状況を横目に、5月にリチャード2世はアイルランドへ2度目の遠征を敢行した。1度は服従したゲール人が反乱を起こし、食い止めようとしたマーチ伯が戦死したため報復と鎮圧の意図があった。
しかし、7月にボリングブルックが兵を挙げると、ノーサンバランド伯父子とウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルら北部貴族を始め、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流、留守を守っていたヨーク公も降伏した。翌8月にアイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの国境付近で優勢なボリングブルック軍に呆気なく降伏して捕らわれ、ロンドン塔に幽閉されて9月28日に開かれた議会で翌29日に正式に廃位された。そしてボリングブルックは30日にヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝を開いた。
退位したリチャードは身柄を各地に移され、1400年2月14日にヨーク南西のポンテフラクトにあるポンテフラクト城で33歳で死去した。1月にリチャードに重用され、ヘンリー4世即位と共に権勢を失った元サリー公、元エクセター公、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサー、ソールズベリー伯ジョン・モンタキュートの4人が公現祭でヘンリー4世暗殺を企て、失敗して処刑されていたが、直後にリチャードが死去したこともヘンリー4世の関与が疑われている。
リチャードの詳しい死因は不明で、前王の尊厳を奪われ、過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている一方、自殺・他殺説もある。遺体は当初ハートフォードシャーのキングス・ラングリー修道院へ埋葬されたが、1413年4月に即位したヘンリー5世が12月に遺体をロンドンへ運び出し、ウェストミンスター寺院に改葬した[14]。
-
捕縛されるリチャード2世(15世紀の作品)
-
廃位式(15世紀の作品)
-
リチャード2世の葬列(15世紀の作品)
王妃
[編集]当初ミラノ僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘カテリーナとの縁談が予定されていたが実現せず、1382年に神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の娘アン・オブ・ボヘミアと最初の結婚をした。結婚は教会大分裂でイングランドをローマ教皇庁支持にして神聖ローマ帝国とイングランドを結び付けたいローマ教皇ウルバヌス6世とアンの異母兄ヴェンツェルの意向が働いていた。
アンがボヘミアから連れてきた大勢の使用人が浪費している、イングランドが持参金をボヘミアへ支払う羽目になる、アンがイングランド人から人気が無いなど周囲の印象は良くなかったが、彼女とリチャード2世はエドワード1世同様に仲睦ましい夫妻だった。アンはペストのため1394年に亡くなり、大いに悲しんだリチャード2世は彼女と2人で過ごしたシーン離宮(後のリッチモンド宮殿)の破却を命じた。アンはウェストミンスター寺院に埋葬され、リチャード2世と手をつないでいる墓像が建てられている[15]。
1397年、フランス王シャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワと再婚した。この時イザベラはわずか7歳であり、両国の休戦条件として出された政略結婚だった。イザベラが成人に達する前にリチャード2世が廃位・獄死したため未亡人となり1401年にフランスへ帰国、1406年にフランス王族で従弟のオルレアン公シャルルと再婚した。なおイザベラは、ヘンリー4世の息子ヘンリー5世と結婚してヘンリー6世を生んだキャサリンの姉である[16]。
いずれの王妃との間にも子供はいない。
人物
[編集]敬虔で洗練された文化的感覚を持ち合わせている一方、短気で感情の抑制が利かない性格だった。
文化では芸術家のパトロンを買って出て彼らを保護・奨励、国際ゴシックの流行に一役買い、華麗な服装の色やデザインに気を遣い、ジョン・ガワー、ジェフリー・チョーサーらに様々な庇護を与え、チョーサーには実入りのある官職、年金などを与えて優遇した。また臣下に紋章の加増(オーグメンテイション)を許可しており、エドマンド殉教王やエドワード懺悔王、曽祖父に当たるエドワード2世に対する帰依は熱心であり、懺悔王の紋章とされる飾りを自身の未紋章の左半分に追加したり、一時はエドワード2世の列聖を検討したりしている。
しかし、華麗な宮廷生活で目に余る浪費が臣下の不満を生み、1383年に親政開始してからは自己判断だけに頼りだし、寵臣を集めて専制に走る軽率さと虚栄心が目立ち始めた。アンが死去してからは感情の抑制が利かなくなり、葬儀に遅参したアランデル伯を杖で打ち据えたり、シーン離宮の破却命令など喜怒哀楽が大きく揺れ動くようになった。やがて1397年に訴追派貴族を排除してからは周囲から暴君と恐れられる行為を繰り返したため人望を失い、廃位へと至る末路に繋がった[17]。
リチャード2世が登場する作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ランカスター公は密かにイングランド王位への野望を抱いているという噂が流れ、周囲から疑われたこと、エドワード3世時代末期から政権を司ってきたとはいえ、黒太子の死去直前の1376年に開催された善良議会の決定を翌年の議会で強引に覆したことから警戒され、摂政候補から外されていた[3]。
- ^ 反乱鎮圧後リチャード2世はタイラーの要求を撤回したが、そのうちの一つである農奴制は時代の流れで15世紀前半までに自然消滅へ向かっていった[5]。
- ^ 亡命した2人のほか、ヨーク大司教アレクサンダー・ネヴィルは聖職者だったため死刑を免れたが、残りの6人が処刑された。議会の弾劾を否定した王座裁判所長官ロバート・トレジリアンとウォリック伯の同族に当たるサー・ジョン・ビーチャム、ロンドン市長ニコラス・ブレンバー、サー・サイモン・バーリーらが処刑され、トレジリアンと同じくリチャード2世を擁護した5人の裁判官も追放された[8]。
- ^ リチャード2世はこの議会で1386年から1388年の一連の出来事に対する恩赦を宣言したが、50人は対象から外すとも言ったため、貴族たちは対象者の名前が明かされていなかったことから疑心暗鬼を生じ、600人以上が恩赦を求め王への金銭支払いに走った。続けてリチャード2世はケント、エセックス、ハートフォードシャーなど地方からも赦免と引き換えに金銭を徴収、各地から強引に金を脅し取る手法は周囲の反感を買った[11]。
出典
[編集]- ^ 『リチャード2世』 - コトバンク
- ^ リチャード2世 - Find a Grave
- ^ 森 1986, pp. 156–157; 川北 1998, pp. 102–103; ロイル 2014, p. 32.
- ^ 森 1986, p. 160 - 161; 青山 1991, p. 378; 川北 1998, p. 106; 佐藤 2003, p. 119; キング 2006, p. 291-292; ロイル 2014, p. 31-33.
- ^ キング 2006, p. 300-302.
- ^ 森 1986, p. 161 - 163; 青山 1991, p. 378-380; 川北 1998, p. 107-109; 佐藤 2003, p. 119-120; キング 2006, p. 292-300; ロイル 2014, p. 38-45.
- ^ 森 1986, p. 163 - 164; 青山 1991, p. 380-383; 川北 1998, p. 110-111; 佐藤 2003, p. 120-121; キング 2006, p. 302-305; ロイル 2014, p. 49-53.
- ^ 青山 1991, p. 384-385; キング 2006, p. 308; ロイル 2014, p. 58.
- ^ 森 1986, p. 164-165; 青山 1991, p. 383; 川北 1998, p. 111-112; 佐藤 2003, p. 120-121; キング 2006, p. 305-311; ロイル 2014, p. 53-62.
- ^ 青山 1991, p. 386-387; 川北 1998, p. 112; 佐藤 2003, p. 118-119; キング 2006, p. 311; ロイル 2014, p. 69-73.
- ^ 青山 1991, p. 387-389; キング 2006, p. 313-314; ロイル 2014, p. 74-76.
- ^ 森 1986, p. 166; 川北 1998, p. 112; ロイル 2014, p. 75-76.
- ^ 森 1986, p. 166-167; 青山 1991, p. 403-404; 川北 1998, p. 112; 佐藤 2003, p. 122; キング 2006, p. 311-312; ロイル 2014, p. 76-78.
- ^ 森 1986, p. 167-169; 青山 1991, p. 404-406; 川北 1998, p. 112-113; 佐藤 2003, p. 122; キング 2006, p. 315-318; ロイル 2014, p. 78-84, 424.
- ^ 森 1986, p. 170; ロイル 2014, p. 45-47, 66-67, 423.
- ^ 森 1986, p. 170-172; ロイル 2014, p. 69-70, 99-100.
- ^ 森 1986, p. 158-160; ロイル 2014, p. 39, 49, 62-67, 77, 84-86.
参考文献
[編集]- 森護、1986、『英国王室史話』、大修館書店 ISBN 978-4469240900
- 青山吉信(編)、1991、『イギリス史<1> 先史〜中世』、山川出版社〈世界歴史大系〉 ISBN 978-4634460102
- 川北稔(編)、1998、『イギリス史』、山川出版社〈世界各国史〉 ISBN 978-4634414105
- 佐藤賢一、2003、『英仏百年戦争』、集英社〈集英社新書〉 ISBN 9784087202168
- エドマンド・キング、吉武憲司(訳)、2006、『中世のイギリス』、慶應義塾大学出版会 ISBN 978-4766413236
- トレヴァー・ロイル、陶山昇平(訳)、2014、『薔薇戦争新史』、彩流社 ISBN 978-4779120329
関連項目
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