コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ヴィクトリー (戦列艦)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
(26人の利用者による、間の35版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 艦艇
[[Image:Victory1.jpg|thumb|right|ヴィクトリー(''HMS Victory'')]]
|名称=ヴィクトリー
'''ヴィクトリー'''({{En|''HMS Victory''}})は、[[イギリス海軍]]の軍艦で、104門搭載の[[戦列艦]]。現存する唯一の戦列艦であるとともに、世界最古の現役艦でもある(ただし、実際に航行可能な現役艦としては[[アメリカ海軍]]の「[[コンスティチューション (帆走フリゲート)|コンスティチューション]]」が最古)。
|画像=Thomas Buttersworth - H.M.S. 'Victory' in full sail and in a squall (1).jpg
|画像幅=300px
|画像説明=
|建造所=[[チャタム工廠]]
|運用者={{navy|United Kingdom}}
|艦種=104門[[1等艦|1等]][[戦列艦]]
|級名=
|発注=[[1758年]][[7月14日]]
|起工=[[1759年]][[7月23日]]
|進水=[[1765年]][[3月7日]]
|竣工=
|就役=[[1778年]]
|退役=
|最後=
|除籍=
|除籍後=
|その後=
|現況=現役 ([[第一海軍卿]][[旗艦]]、[[博物館船|記念艦]])
|所属=
|母港=ポーツマス歴史ドック<BR/>{{Coord|50|48|07|N|1|06|35|W|region:GB_type:landmark|display=inline,title}}
|建造費=63,176[[スターリング・ポンド|ポンド]]3[[シリング]]
|要目注記=<ref name="Lavery, SoLv1 p175">Lavery, Ships of the Line, vol. 1, p. 175.</ref>
|排水量=3,500 [[トン数|トン]]<br/>2,142 [[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bm]]
|基準排水量=
|常備排水量=
|公試排水量=
|満載排水量=
|全長=[[砲列甲板]]:{{フィート変換 (艦艇用)|186|0}}<br/>全体:{{フィート変換 (艦艇用)|227|6}}
|水線長=
|垂線間長=
|全幅={{フィート変換 (艦艇用)|51|10}}
|深さ=
|吃水={{フィート変換 (艦艇用)|28|9}}
|高さ=喫水線からメインマストまで{{フィート変換 (艦艇用)|205|0}}
|帆装=3本マスト[[シップ (帆船)|シップ]]
|最大速力=11 [[ノット]] (20 [[キロメートル毎時|km/h]])
|航続距離=
|乗員=850名
|兵装={{ubl|上砲列:12ポンド(5kg)砲×30門|中砲列:{{仮リンク|24ポンド長砲|en|24-pounder long gun|label=24ポンド(11kg)砲}}×28門|下砲列:{{仮リンク|32ポンド 56cwt砲|en|32-pounder 56 cwt|label=32ポンド(15kg)砲}}×30門|後甲板:12ポンド(5kg)砲×12門|船首楼:12ポンド(5kg)砲×2門+68ポンド(31kg)[[カロネード砲]]×2門}}
|装甲=無し(喫水線部のオーク船材は2ft (61cm) 厚)
|その他=
|備考=
}}
'''ヴィクトリー''' ({{En|HMS ''Victory''}}) は、[[イギリス海軍]]の104門[[1等艦|1等]][[戦列艦]]。1805年の[[トラファルガーの海戦]]において[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]提督が座乗、[[旗艦]]として仏西連合艦隊の脇腹を突くべく艦隊の先鋒を務めていたことで知られる。他にも[[ウェサン島の海戦 (1778年)|ウェサン島の海戦]]での[[オーガスタス・ケッペル]]提督や、{{仮リンク|スパルテル岬の海戦|en|Battle of Cape Spartel}}での[[リチャード・ハウ]]提督、[[サン・ビセンテ岬の海戦]]での[[ジョン・ジャーヴィス]]提督ら、多くの提督の座乗艦であった。


1922年に[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]の[[乾ドック]]に移され、[[博物館船|記念艦]]となった。ポーツマス軍港の港湾司令官や第二海軍卿の旗艦を務めていたが、2012年8月からは[[第一海軍卿]]の旗艦となった。現存する唯一の戦列艦であるとともに、世界最古の現役艦でもある(航行可能な現役艦としては[[アメリカ海軍]]の[[コンスティチューション (帆走フリゲート)|コンスティチューション]]が最古)。また、世界三大[[博物館船|記念艦]]の一つとされている{{Efn|世界の三大[[博物館船|記念艦]]は、[[イギリス海軍]]「'''ヴィクトリー'''」、[[アメリカ海軍]]「[[コンスティチューション (帆走フリゲート)|コンスティチューション]]」、[[大日本帝国海軍]]「三笠」<ref>{{Cite web|和書|title=世界の三大記念艦|url=http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa/big3.html|website=|accessdate=2019-10-04|publisher=(公財)三笠保存会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004110915/http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa/big3.html|archivedate=2019-10-4}}</ref>。}}。
==歴史==
小型で機動力に優れた艦を好んだ[[18世紀]]当時のイギリス海軍では珍しい、100門以上搭載の一級戦列艦として発注された。建造途中に[[七年戦争]]が終結したこともあって、骨組みだけの状態で3年近くドックに放置されることになったが、[[1765年]]に進水。


== 建造 ==
[[ジョン・ジャーヴィス]]、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]ら、多くの提督の座乗艦となり、[[アメリカ独立戦争]]や[[ナポレオン戦争]]のいくつかの重要な海戦で旗艦を務めた。特に[[トラファルガーの海戦]]では、フランス・スペイン連合艦隊の隊列に垂直に切り込む「ネルソン・タッチ」の性質上、約30分にわたって敵艦隊からの集中砲火を浴びることになったが、連合艦隊の砲撃の稚拙さにも助けられ、よく持ちこたえた。上甲板には、トラファルガーの海戦で勝利を収めながら戦死したネルソン提督が敵弾に倒れた場所を示す真鍮の銘盤が設けられている。ネルソンは、周囲の者の「集中射撃を受けて危険なので兵の服を着るように」という提案を聞き入れず、将軍の服のまま陣頭指揮をしていたという。
1758年12月、イギリス政府の事実上の首相であった[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]が、後にヴィクトリーとなる1等艦を含めた12隻の軍艦の建造を提議し、発注が行われた<ref>Mckay (2000) p.9</ref>。 18世紀に建造された1等戦列艦は10隻で、ヴィクトリーはそのうちの1隻だった<ref>Christopher (2010) p.16</ref>。 ヴィクトリーの建造には海軍の[[艦艇監督官]]であった[[トーマス・スレード]]が造船技師として選ばれ<ref>Christopher (2010) pp.15 & 16</ref>、1756年に[[ウリッジ工廠]]で進水した1等艦[[ロイヤル・ジョージ (戦列艦・1756年)|ロイヤル・ジョージ]]の設計図をもとに、最低100門の砲を備える船として設計された。 [[チャタム工廠]]の工廠長はこの船の建造のため乾ドックを準備するように命令され、1759年7月23日に[[竜骨 (船)|竜骨]]がオールド・シングルドック(No.2ドックと改称され、現在はヴィクトリー・ドックとなっている)に敷かれた。1760年の10月には「ヴィクトリー」という名が選定された<ref>Christopher (2010) pp.17 & 20</ref>。この名が選ばれた理由には諸説あり、1つには前年の1759年に当時行われていた[[七年戦争]]でイギリスが次第に優勢になってきており、陸上では[[エイブラハム平原の戦い|ケベックの戦い]]や[[ミンデンの戦い]]、海上では[[ラゴスの海戦]]、[[キブロン湾の海戦]]と勝利 (Victory) が相次いだため、[[奇跡の年 (1759年)|奇跡の年]]を記念して命名されたというもの<ref>Stilwell (2005) p.145</ref><ref>{{cite book|title=English/British Naval History to 1815: A Guide to the Literature|page=129|url=https://books.google.com/books?id=D4oNNsTdvEoC&pg=PA129&dq=HMS+Victory+mirabilis&hl=en&sa=X&ei=ZiZfVYXaHYevsAWMmoGQDA&ved=0CDQQ6AEwBA#v=onepage&q=HMS%20Victory%20mirabilis&f=false}}</ref>。もしくは、7つの命名候補が記された短いリストの中で、当時他の船に使われていなかった名前が単に「ヴィクトリー」だけであったとするものもある<ref name=Vic572>{{cite web|url=http://www.hms-victory.com/index.php?option=com_content&view=article&id=153&Itemid=572|title=Service Life|publisher=HMS-Victory |date= |accessdate=1 October 2013}}</ref><ref name=C19>Christopher (2010) p.19</ref>。先代の{{仮リンク|ヴィクトリー (戦列艦・1737年)|en|HMS Victory (1737)|label=ヴィクトリー}}と名付けられた戦列艦は1744年に乗組員全員とともに失われていたため、一部ではこの命名が適切かどうかに疑問が持たれていた<ref name=C19/>。


一度[[フレーム]]が組みあがると、大抵の場合船には覆いが取りつけられ、数か月に渡って[[木材]]の乾燥と慣らしが行われる。しかし、七年戦争が終結したこともあって、ヴィクトリーはこの骨組みだけの状態で3年近くドックに放置されることになった。ただし、この長期間の乾燥が後の長寿命に繋がったともされる<ref>Eastland & Ballantyne (2011) p.15 & 16</ref><ref>Christopher (2010) pp.&nbsp;20–21</ref>。建造は1763年の秋から再開され、1765年の5月7日に進水が行われた<ref>Christopher (2010) p.21</ref>。かかった費用は63,176[[スターリング・ポンド|ポンド]]3[[シリング]]で、現在価値に直すとおおよそ779万ポンド{{Efn|ジョージ・クラークの『[https://measuringworth.com/ukearncpi/ The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)]』(2016年)のデータに基づくイギリス消費者物価インフレーション率より計算。MeasuringWorth.com}} (日本円で約11億円<ref>{{cite web|url=http://www.currencyconverterx.com/7790000-GBP-to-JPY|title=7790000 GBP to JPY Conversion|publisher=2015 Currency Converter X |date= |accessdate=4 June 2017}}</ref>)となる。建造には6000本にも及ぶ木材が用いられ、そのうち90%が[[オーク]]材で、残りが[[ニレ|エルム]]、[[マツ|パイン]]、[[モミ]]の材木と少量の[[リグナムバイタ]]だった<ref name=FAF>{{cite web|url=http://www.hms-victory.com/index.php?option=com_content&task=view&id=72&Itemid=105 |title=Facts & Figures |publisher=HMS-Victory |date= |accessdate=27 April 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120501012634/http://www.hms-victory.com/index.php?option=com_content&task=view&id=72&Itemid=105|archivedate=1 May 2012|deadurl=yes}}</ref>。
[[1812年]]に退役。士官学校の練習船として用いられた後、[[1922年]]に[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]港の乾ドックに移され、[[記念艦]]として展示されることになった。


進水の日、[[進水式]]の職長に選ばれた[[船大工]]のハートリー・ラーキンは突如として、船がドックのゲートを通り抜けられないであろうことに気づいた。夜明けとともに行われた計測は、彼の懸念を裏付けるものだった。ゲートは少なくとも9{{fraction|1|2}}インチ(約24cm)狭すぎた。この恐るべき知らせは上司である船大工長のジョン・アリンに伝えられ、進水の延期も検討された。ラーキンらは集められる船大工を全て集め、[[釿]](ちょうな)でゲートの周囲の木材を削り、船が安全に通り抜けられるように苦労して切り開いた<ref>{{cite news
形式上は、現在も提督旗を掲げる現役艦(ポーツマス軍港の港湾司令官の旗艦、2012年10月からは[[第一海軍卿]]の旗艦として)である。[[2005年]][[10月21日]]には、王室関係者も臨席のもと、ネルソン没200年式典が執り行われた。
|url=https://www.theguardian.com/culture/2015/feb/22/how-hms-victory-nearly-never-made-it-to-the-battle-of-trafalgar
|newspaper=[[The Guardian]]
|date=22 February 2015
|title=How HMS ''Victory'' nearly never made it to the Battle of Trafalgar
|last=Kennedy
|first=Maev
|authorlink=Maev Kennedy
|accessdate=22 February 2015 }}</ref>。このようなことができたのは、進水後ドックが即座には使用されないためだった。実際ヴィクトリーは整備中として、[[フランス]]が[[アメリカ独立戦争]]に介入してくるまで、13年間メドウェイ川で係留された<ref>Christopher (2010) p.20</ref> 。


ヴィクトリーの試験航行は1778年3月にジョン・リンドセイ艦長の下で行われた。リンドセイがヴィクトリーの艦長だったのは同年5月までで、すぐに[[海軍大将]][[オーガスタス・ケッペル]]提督の旗艦となり、[[中将]]ジョン・カンプベルが第一艦長、勅任艦長のジョナサン・ファルクナーが第二艦長として赴任してきた<ref name=Win/>。
現役艦であり、現在でも艦内は撮影禁止となっているため観光時は注意が必要である(2012年11月現在では撮影は許されているが、いくつかの絵画は撮影禁止のままである)。


ヴィクトリーは鉄製の[[鋳造砲]]で武装しており、下甲板に{{gunpdr|42|30}}、中甲板に{{gunpdr|24|28}}、上甲板に{{gunpdr|12|30}}、船首楼と後甲板に{{gunpdr|6|12}}を備えていた。1778年5月に42ポンド砲は全て32ポンド(15 kg)砲に載せ替えられたが、1779年4月にまた42ポンド砲に戻された。結局、1803年最終的に42ポンド砲は32ポンド砲に置き換えられた。また、1782年には6ポンド砲全門が12ポンド砲に更新された。後に、加えて68-lb (31 kg)の球形弾を打ち出せる[[カロネード砲]]が2門搭載された<ref name=Vic479>{{cite web|url=http://www.hms-victory.com/index.php?option=com_content&view=article&id=94&Itemid=479
「世界3大記念艦」として本艦と、アメリカ海軍の帆走フリゲート艦「[[コンスティチューション (帆走フリゲート)|コンスティチューション]]」、日本海軍の戦艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」があげられている。
|title=Armament |publisher=HMS-Victory |date= |accessdate=1 October 2013}}</ref>。1808年1月、ヴィクトリーは98門[[2等艦|2等戦列艦]]に格下げされたが、1817年2月には再び104門1等戦列艦に分類し直された<ref name=Win>Winfield (2007) p.6</ref>。

== 戦歴 ==
=== 第一次ウェサン島の海戦 ===
[[File:Combat d'Ouessant juillet 1778 par Theodore Gudin.jpg|thumb|「第一次ウェサン島の海戦」(1778年) セオドア・グディンによる絵画 ]]
{{Main|ウェサン島の海戦 (1778年)}}
1778年7月9日、ケッペル提督は29隻の戦列艦とともに[[スピットヘッド]]を出発した。そして7月23日、[[ウェサン島]]の西100マイル (160km) の海域でほぼ同戦力のフランス艦隊を発見した<ref>Dull (2009) p.101</ref><ref>Rodger (2005) pp.&nbsp;336–337</ref>。フランス側のドルヴィリュー伯ルイ・ジロー提督は戦いを避けるよう命令を受けていたが、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]への退路は遮断されていた。風と雨によって次第に操船が困難になる中で、イギリス側はなんとか縦列を保ち、隊列を乱したフランス側に対して開戦を強制できる状態まで持ち込むことができた。しかし、フランス艦隊も苦労しながら有力な艦を並べ、反航の形となったイギリスの戦列に対して戦列を組んだ。正午頃、艦隊の中央に位置したヴィクトリーは、フランス艦隊旗艦の110門艦[[ブルターニュ (戦列艦・初代)|ブルターニュ]]に対し、砲撃を開始した<ref name=C38>Christopher (2010) p.38</ref>。イギリス前衛戦隊は僅かな損害で離脱したが、ヒュー・パリサー中将の後衛戦隊は索具などにしたたかな損傷を受けた。ケッペルはフランス艦隊を追撃するよう信号を送ったが、パリサーは従わず、追撃は行われなかった<ref name=C38/>。そのため、この海戦は後に政争に発展した<ref name=C38/>。

=== 第二次ウェサン島の海戦 ===
{{Main|ウェサン島の海戦 (1781年)}}
1780年3月、ヴィクトリーは[[フナクイムシ]]の害を防ぐため、艦底に合計で3923枚の銅板を貼った<ref name=FAF/>。翌年末、1781年12月2日にこの船はヘンリー・クロムウェル艦長のもと、海軍少将リチャード・ケンペンフェルト提督の旗艦となった。そしてケンペンフェルトはヴィクトリーを含む12隻の戦列艦、1隻の50門4等艦、5隻のフリゲートを率いて<ref name=C42>Christopher (2010) p.42</ref>、ブレストを同年12月10日に出たフランスの護送船団への襲撃に向かった。フランス船団はド・グッシェン伯率いる19隻もの戦列艦に護衛されていた。しかしイギリス側はこの戦力差を知らないまま、12月12日にフランス船団を発見し、追撃を行った。ケンペンフェルトがフランス艦隊の優勢に気づいた時、イギリス艦隊は既に15隻もの輸送船を拿捕していた。ド・グッシェンの護衛艦隊は風下にいたため、救援に赴くことができなかった<ref>Clowes, William Laird, et al. [https://books.google.com/books?id=635nAAAAMAAJ&dq=kempenfelt%20Guichen%20convoy%201781&lr=&pg=PA509#v=onepage&q=kempenfelt%20Guichen%20convoy%201781&f=false ''The royal navy: a history from the earliest times to the present'', Volume 3]</ref>。

=== ジブラルタル包囲戦 ===
{{Main|ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)}}
1782年8月、ヴィクトリーは[[リチャード・ハウ]]提督の旗艦として、フランス、スペイン両海軍に封鎖された[[ジブラルタル]]への補給を行う輸送船団の強力な護衛艦隊に参加した。船団は抵抗に遭うことなくジブラルタル海峡に入り、補給物資を成功裏に積み下ろした。帰路には{{仮リンク|スパルテル岬の海戦|en|Battle of Cape Spartel}}が発生したものの、戦闘は小規模で、ヴィクトリーが砲撃を行うことは無かった<ref>Sayer, Capt Frederick [https://archive.org/stream/historyofgibralt00sayeuoft#page/398/mode/2up The history of Gibraltar and of its political relation to events in Europe&nbsp;... pp.&nbsp;398–403. Saunders, Otley & Co., 1862]</ref><ref>Wharton, Capt. W. J. L. [https://archive.org/stream/shorthistoryofhm00wharrich#page/12/mode/2up A short history of HMS ''Victory''] pp.&nbsp;12–15. Griffin & Co, 1884</ref>。

=== サン・ビセンテ岬の海戦 ===
[[File:Batalha do Cabo de São Vicente.jpg|thumb|right|「サン・ビセンテ岬の海戦」(1881年) リチャード・ブリッジス・ベッキーによる絵画]]
{{Main|サン・ビセンテ岬の海戦}}
1796年、[[ロバート・カルダー]]を第一艦長、ジョージ・グレイを第二艦長として、ヴィクトリーは[[ジョン・ジャーヴィス]]提督の旗艦となった<ref name=Win/><ref name=Wil91>Willis (2013) p.91</ref>。1796年の暮れの時点で、[[地中海]]での英国の編成はフランス・スペイン連合艦隊に対して不十分で、[[コルシカ島]]や[[エルバ島]]からの撤退を余儀なくされた。ジャーヴィスは麾下の艦隊を[[サン・ヴィセンテ岬|サン・ビセンテ岬]]に配置し、スペイン艦隊の北上を妨げていた。当時、代将だった[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]は、エルバ島からのイギリス軍撤退を指揮した後、[[フリゲート|フリゲート艦]]{{仮リンク|ミネルヴァ (フリゲート)|en|French frigate Minerve (1794)|label=ミネルヴァ}}でジブラルタルに向かった<ref name=BW399>Wilson (2013) p.399</ref><ref name=Wil90>Willis (2013) p.90</ref>。そして、スペイン艦隊が数日前に海峡を通過したという情報を入手し、2月11日ジャーヴィスの艦隊と合流するために出港した<ref>Vincent (2003) p.180</ref>。一方のスペイン艦隊は24隻の戦列艦と輸送船からなっていたが、強い東風に流されコースを外れたため、夜を徹して目的地[[カディス]]への航路を取り直していた<ref name=Wil90/>。ネルソンは濃い霧にまぎれてスペイン艦隊に発見されることなく2月13日にジャーヴィスの艦隊と合流した<ref name=Wil102>Willis (2013) p.102</ref>。ジャーヴィスの艦隊は2月5日にウィリアム・パーカー提督率いる5隻の戦列艦を加え、15隻に強化されていた<ref>Vincent (2003) p.163</ref>。2月14日朝、イギリス艦隊を2列の縦隊を形成しており、ジャーヴィスはヴィクトリーの後甲板で士官に向かって「イングランドの命運はこの戦いの勝利にかかっている。("A victory to England is very essential at this moment.")」と宣言した。午前6時半頃スペイン艦隊視認の報があり<ref name=Wil91/>、9時頃には旗艦ヴィクトリーの[[マスト]]からも敵艦を確認できるようになった。そして11時、ジャーヴィスは全艦に戦列を組んで戦うよう命じた<ref name=EB19>Eastland & Ballantyne (2011) p.19</ref>。スペイン艦隊の数は27隻に上りイギリス艦隊の約2倍に達していた。カルダー艦長が次第に増えてゆく算定数をジャーヴィスに報告すると、ジャーヴィスはこう答えた。「十分だ。これ以上はいい。賽は投げられたのだ。私はたとえ(敵が)50隻いようとも、突き進んでゆく。("Enough Sir. No more of that. The die is cast and if there are 50 sail, I will go through them.")<ref>Willis (2013) pp.&nbsp;102–103</ref>」イギリス艦隊は単縦陣で、未だ戦闘準備を終えていない2つのグループに分かれたスペイン艦隊の間に進んでいった<ref name=Wil91/>。イギリス艦隊は、ネルソン指揮下の[[74門艦]][[キャプテン (戦列艦・3代)|キャプテン]]の時機を得た活躍もあり、スペイン艦隊の分断に成功した。午後4時半すぎには戦いはほとんど終息し、[[ブリタニア (戦列艦・1762年)|ブリタニア]]および[[オライオン (戦列艦)|オライオン]]と、守られつつ離脱してゆくスペイン艦[[ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダー (戦列艦)|サンティシマ・トリニダー]]の間で小競り合いがある程度となった。海戦はイギリス艦隊の勝利に終わった。スペイン艦隊は4隻の戦列艦を捕獲され、死傷者合わせて約1,000人の損害を出した。一方イギリス艦隊の損害は全体で戦死73人、負傷327人であり、旗艦ヴィクトリーにおいては戦死1人、負傷5人だった<ref>Willis (2013) pp.104,105 & 109</ref>。この1名の戦死者は、ヴィクトリー甲板上を襲った砲弾が、ジャーヴィスを僅かに逸れ、近くにいた水夫を直撃したものだった<ref name=EB20>Eastland & Ballantyne (2011) p.20</ref>。イギリス艦隊はスペイン艦隊に致命傷を与えることはできず、カディス港入港を阻止するという目的も達成できなかったが、この戦いによってスペイン艦隊はその後2年の間港にとどまることを余儀なくされ、フランスのイギリス侵略を不可能にした<ref name=EB20/>。

== 再建造 ==
[[File:HMS Victory 2015.jpg|thumb|ヴィクトリーの特徴的な船体色、黒と黄の横縞「ネルソンチェッカー ([[w:Nelson Chequer|en]])」は1800年に初めて施され、その後全てのイギリス海軍軍艦に採用された。]]
1797年暮れ、ヴィクトリーはJ.リックマン中尉の指揮の下、チャタム工廠に係留された。同年12月ヴィクトリーはもはや現役の戦闘艦には適さないと見なされ、スペイン人やフランス人の傷病[[捕虜]]を収容するための[[病院船]]に改装することが命じられた<ref name=Win/><ref name=C43>Christopher (2010) p.43</ref>。しかし1799年10月8日、2等戦列艦[[インプレグナブル (戦列艦・1786年)|インプレグナブル]]が[[リスボン]]へ輸送船団を護衛し終えた後、ポーツマスへの帰路に[[チチェスター]]近くで[[座礁]]する事件が発生した<ref name=C43>Christopher (2010) p.43</ref>。インプレグナブルは水漏れから[[沈没|着底]]し、再浮揚は不可能であったため、この船は失われた<ref name=Gossett>Gossett (1986), pp. 23-4.</ref>。そして3層艦が足りなくなったことから、[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]はヴィクトリーを元通りの状態にすることを決断した。再建造は1800年に始まったが、作業が進むにつれ多くの欠陥が見つかり、修繕は非常に広範囲に渡って行われた<ref name=C43/>。当初再建造に必要な費用は£23,500との見積もられていたが、最終的な費用は70,933ポンドに達した<ref name=Vic572/>。砲門がいくつか追加され、ヴィクトリーは100門艦から104門艦になった。また、弾薬庫は銅で裏張りされ、[[船首像]]は[[マスト]]に沿って再配置された。さらに船体の塗装が赤から、今日見られる黒と黄の横縞に変更された。ヴィクトリーの砲門は当初船体の配色に合わせて黄に塗られていたが、その後黒に塗り直された。この船体色は後に「{{仮リンク|ネルソン・チェッカー|en|Nelson Chequer}}」と呼ばれるようになり、トラファルガーの海戦以後全ての英国軍艦に適用された<ref>Christopher (2010) pp.&nbsp;43–44</ref>。再建造の全ての工程は1803年4月に完了した。ヴィクトリーはポーツマスに送られ、数か月の間、勅任艦長[[サミュエル・サットン]]の下で任務に就いた<ref name=Win/><ref name=C85>Christopher (2010) p.85</ref>。

== ネルソンとトラファルガーの海戦 ==
[[File:Vice-Admiral Horatio Nelson, 1758-1805, 1st Viscount Nelson.jpg|thumb|upright|[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]は2度ヴィクトリーを旗艦にした。]]
{{Main|トラファルガー戦役}}
海軍中将ホレーショ・ネルソン提督がその将旗をヴィクトリーに掲げたのは1803年5月18日のことだった。サミュエル・サットンが旗艦艦長を務めた<ref name=Win/>。しかし、ヴィクトリーは航海の準備を完了していなかったため、ネルソンは5月20日にフリゲート艦アンフィオンに移り、指揮官として任じられた[[地中海]]へ向けて出発した<ref name=S149>Stilwell (2005) p.149</ref>。ヴィクトリーは少し遅れて、今度は[[ウィリアム・コーンウォリス]]提督の旗艦となるためウェサン島に向けて出港した。しかし、その必要はないとされ、結局ネルソンの艦隊に合流すべく地中海へ向かった<ref name=S149/>。

5月28日、サットン艦長は[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフール]]へ航海途上のフランスの32門フリゲート、アンビュスケードを捕獲した<ref>Winfield (2005) p.194</ref> 。その後ヴィクトリーは7月31日にトゥーロンでネルソンと再会した。サットンは、先にネルソンが乗ってきたアンフィオンの艦長に転属となり、[[トマス・ハーディ (イギリス海軍)|トマス・ハーディ]]を艦長としてヴィクトリーは再びネルソンの旗艦となった<ref name=S149/>。

1805年4月4日、ネルソンのもとにフリゲート艦フォーブが[[ピエール・ヴィルヌーヴ]]提督指揮下のフランス艦隊がトゥーロンを発った、という知らせをもたらした。この時ヴィクトリーは[[マヨルカ島]]に付属する小島であるトロ島 ({{coord|39.462307|N|2.471722|E}}) 付近にいた。ネルソンはフランス艦隊が[[エジプト]]に向かっているのではないかと推測して[[シチリア|シチリア島]]に急行したが、ヴィルヌーヴは[[カディス]]に入港してスペイン艦隊と合流しようとした<ref>White (2005), pp.33-4.</ref><ref>Best (2005) pp.&nbsp;109–110</ref>。5月9日今度はフリゲート艦オリンパスがネルソンに、ヴィルヌーヴが約1月前にカディスを出たという情報を運んできた。ネルソン率いるイギリス艦隊は[[ポルトガル]]のラゴス湾で補給を行い、5月11日に西に向かった17隻からなるヴィルヌーヴのフランス・スペイン連合艦隊の追撃に移った。この追撃に参加したイギリス艦隊は10隻の戦列艦と3隻のフリゲートで構成されていた<ref>Best (2005) pp.&nbsp;115–116</ref>。しかしこのイギリスの追撃艦隊は6月4日に[[西インド諸島]]の[[バルバドス]]に到着したものの、すぐにヴィルヌーヴの艦隊がヨーロッパに戻ったことを知った。そして、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のイギリス遠征軍が[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]で待機しており、フランス艦隊の帰着を待っていた<ref>Best (2005) p.121</ref>。

ヨーロッパに戻ったヴィルヌーヴ提督と麾下のフランス・スペイン連合艦隊は、スペインのビゴーか[[フェロル]]に退避しようとしていたが、カルダー提督率いるイギリス艦隊に捕捉された。そして7月22日にフェロル沖で、カルダーの15隻の艦隊と、霧で視界の悪い中、決定的でない[[フィニステレ岬の海戦|フィニステレ岬の海戦を]]戦った<ref>Best (2005) pp.&nbsp;135–137</ref>。その後、8月14日にはカルダーの艦隊が、15日にはネルソンの艦隊が、ウェサン島沖にあったコーンウォリスの[[海峡艦隊]]に合流し、イギリス側の陣容が整っていった<ref>Best (2005) pp.&nbsp;143–144</ref>。ネルソン自身は、地中海艦隊をコーンウォリスのもとに残して、ヴィクトリーとともにイギリス本国に帰還した<ref>Best (2005) p.144</ref>。コーンウォリスは自身の指揮下にあった33隻の戦列艦のうち、20隻をカルダーのもとに送り出し、フェロルにいると見られたフランス・スペイン連合艦隊を捜索させた。8月19日、イギリス側にとって悪い知らせが届いた。フランス・スペイン連合艦隊はフェロルを出港し、2日前に援軍を連れてカディスに入港したというものだった。9月28日水曜日の午後、ネルソンはカディス沖の[[カスバート・コリングウッド|コリングウッド]]提督の艦隊に密かに合流した。これはネルソンの存在を気取られないための措置だった<ref>Best (2005) pp.&nbsp;169–170</ref>。

=== トラファルガーの海戦 ===
{{main|トラファルガーの海戦}}
[[File:Turner, The Battle of Trafalgar (1822).jpg|thumb|「トラファルガーの海戦」(1822年–1824年) 海戦の複数の場面を1枚に合成している。[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]による油彩画]]
[[File:HMS victory.jpg|alt=Trafalgar memorial|thumb|192x192px|ネルソンとトラファルガーの海戦で戦死した全ての人間を追悼するプレート]]
ヴィルヌーヴは自身が指揮官を解任されたと知った後の10月19日の朝、艦隊を率いて海上へ出た。フランス・スペイン連合艦隊の最後の船が出港を終えたのはその日の夕方で、彼と彼の艦隊は地中海へと向かった<ref>Best (2005) pp.189 & 192</ref>。この艦隊と夜通し接触を絶やさぬよう命じられたイギリス側のフリゲートは、19時にフランス側に発見され、フランス・スペイン艦隊では戦いのために戦列を組むように命令が出された<ref name=B199>Best (2005) p.199</ref>。

10月21日の朝、10マイル先の視認外でばらばらに航行していたイギリスの主力艦隊は、要撃のために転回した<ref>Best (2005) p.206</ref>。ネルソンはすでに作戦を決めていた。彼はフランス・スペイン連合艦隊中央の旗艦の2~3隻前で戦列を突破、分断し、敵前衛が支援に戻る前に勝利を確定させようとしていた<ref>Best (2005) p.154</ref>。午前6時、ネルソンは麾下の艦隊に2列の縦列になるよう命じた。微風のため艦隊の進行は遅かったが、6時間後、イギリスの2列の戦列は徐々にフランスの艦列と接触し、風下の列を率いた[[ロイヤル・ソブリン (戦列艦・3代)|ロイヤル・ソブリン]]はフランスの74門艦フーギューに砲撃を始めることができた。それから30分ほどで、ヴィクトリーはフランス・スペイン連合艦隊戦列のビューサントルとルドゥタブルの間に割り込み、前者の艦尾に向けて数ヤード先から3重の片舷掃射を行った<ref>Stilwell (2005) pp.&nbsp;178–179</ref>。フランス・スペイン連合艦隊の隊列に垂直に切り込むこの「ネルソン・タッチ」の性質上、戦列の先頭に居たヴィクトリーは敵艦隊からの集中砲火を浴びることになったが、連合艦隊の砲撃の稚拙さにも助けられ、よく持ちこたえた。13時25分ごろヴィクトリーの後甲板上でネルソンは狙撃された<ref>Stilwell (2005) p.181</ref>。致命的な[[マスケット銃|マスケット]]弾が彼の左肩から[[脊椎]]に達し、ネルソンは16時半過ぎに息を引き取った<ref>Best (2005) p.285</ref>。この狙撃はフランス艦ルドゥタブルからのもので、ネルソンは周囲の者の「集中射撃を受けて危険なので兵の服を着るように」という提案を聞き入れず、将軍の服のまま陣頭指揮をしていたという。ルドゥタブルの兵員はヴィクトリーへの切り込みを企てたが、エリアブ・ハーベイ艦長の98門2等艦[[テメレーア (戦列艦)|テメレーア]]が来援しこのフランス艦を打ちのめしたために失敗した<ref>{{cite book |last=Warwick |title=Voices from the Battle of Trafalgar |pages=200–1}}</ref>。ネルソンの最後の命令は「艦隊は[[錨]]を下ろせ」であったが、この命令はコリングウッドによって撤回された<ref>Best (2005) p.295</ref>。この海戦におけるヴィクトリーの損害は戦死57人、負傷者102人だった<ref>Stilwell (2005) p.159</ref>。

== トラファルガー以降 ==
=== 海上での最後の数年間 ===
ヴィクトリーのトラファルガーの海戦での損傷は激しく、自力での航行が不可能な状態だったので、98門2等艦ネプチューンがヴィクトリーを修理のためにジブラルタルへ曳航していった<ref>Christopher (2010) pp.&nbsp;99–100</ref>。そして、その後すぐヴィクトリーはネルソンの亡骸をイギリス本土へ運んだ。亡骸は一旦[[グリニッジ]]で安置された後、1806年1月9日に[[セントポール寺院]]で埋葬された<ref>Christopher (2010) pp.&nbsp;101–104</ref>。

トラファルガーの海戦の後も、ヴィクトリーは数々の提督の旗をその艦上に掲げ、多くの遠征に出帆した。その中には、ジェームズ・ソマーレズ提督の2つの[[バルト海]]方面作戦などが含まれた<ref>Christopher (2010) p.106</ref>。1812年11月7日にヴィクトリーは活動期間を終え、ポーツマス西岸の[[ゴスポート]]に係留されて支援母艦として用いられた<ref name=C107>Christopher (2010) p.107</ref>。

[[File:HMS Victory - bow.jpg|thumb|upright|ヴィクトリーの船首と船首像]]
トマス・ハーディーが[[第一海軍卿]]だった時、彼は家に帰ってヴィクトリーの解体命令に署名したと妻に言った所、彼女は泣きだしてハーディーに執務室へ戻って命令を取り消すように送りだした、と一般に語られているが、この話は出典が疑わしいとされている。この命令が記載されていたはずの1831年の任務記録は破り取られて失われている<ref>Eastland & Ballantyne (2011) p.28</ref>。そして、即位前の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア王女]]とその母ケント公妃[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ヴィクトリア]]が1833年に船を訪れた短い期間を除いて、ヴィクトリーは長い間忘れ去られていた<ref name=C107/>。

1889年、ヴィクトリーは[[電信]]を教える海軍学校として艤装が行われた。そして、すぐに正式な通信学校となり、各艦から不適とされた通信兵は兵舎ではなくヴィクトリーに送られて2か月のトレーニングコースを受けた。通信学校は1904年までヴィクトリーに置かれ、その後トレーニングは一時的に装甲艦{{仮リンク|ハーキュリーズ (装甲艦・1868年)|en|HMS Hercules (1868)|label=ハーキュリーズ}}に移されたが、1906年に半恒久的にポーツマスの海軍兵舎に設置されることとなった<ref>{{cite web | year =| url =http://www.rnca.org.uk/node/1035 | title =The First Signal Schools | work= | date= | author= | publisher =Royal Naval Communications Association | accessdate =5 October 2013 }}</ref>。

数年後、ヴィクトリーの船体状況は停泊地で次第に悪化していた。1903年、装甲砲塔艦ネプチューン(ヴィクトリーをジブラルタルまで曳航した同名の戦列艦とは別船)が解体のために曳航されている途中、ヴィクトリーに接触しその水線下に穴を開けるという事故が発生した。緊急の修理が行われ、ヴィクトリーの沈没は防がれたが、これは海軍本部がヴィクトリーを[[スクラップ]]とすることに反対した国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]による個人的な介入でしかなかった<ref name=C111>Christopher (2010) p.111</ref>。一般大衆のヴィクトリーへの関心が復活したのは、1905年のトラファルガー戦勝100年記念式典の一環として[[潜水艦]]埠頭の傍で[[イルミネーション|電飾]]された時であった<ref name=C111/>。1910年、海事史学会はヴィクトリーを後の世代のために保存しようとしたが、熾烈さを増す[[建艦競争#第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争|ドイツとの建艦競争]]に掛かり切りの海軍本部は協力を行わなかった。一方でヴィクトリーの状況は、フランク・H・マーソン著の『1911年の英国船』によると「ほとんど侮辱的な仕打ち」と表現されるほどだった<ref name=C112>Christopher (2010) p.112</ref><ref name=C113>Christopher (2010) p.113</ref>。1921年、ヴィクトリーは非常にみすぼらしい状態となっており、海運王ジェームズ・ケアードを中心人物としてヴィクトリーを守ろうとするキャンペーンが始まった<ref name=C114>Christopher (2010) p.114</ref>。

=== 乾ドック入り ===
[[File:Restoring HMS Victory, by William Lionel Wyllie.jpg|thumb|left|「HMS ヴィクトリーの修復作業」(1925年) ウィリアム・ライオネル・ウィリーによる絵画]]
1922年にヴィクトリーは、現在も使用されている最古のドックであるポーツマスのNo.2ドックに移された<ref>Sarton, George (1946), "Floating Docks in the Sixteenth Century", Isis 36 (3/4): 153–154</ref>。長期間悪化し続けたヴィクトリーの船体状況は、もはや安全に浮いていられないほどだった<ref name=C114/>。最初の復元作業が行われたのは1922年から1929年にかけてで、喫水線から主に中甲板上にかけてかなりの数の構造が修復された。1928年、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が作業の完了を示す[[銘板]]をつける祝典を執り行うことができたが、復元作業とメンテナンスは海事史学会の監督の下で依然として続けられた<ref name=C114/>。

復元作業は[[第二次世界大戦]]中の1941年に一度中断された。ヴィクトリーは[[ドイツ空軍]]機の爆弾によって、鋼鉄製の船架の1つと、前檣(ぜんしょう、3本マストの一番前)の一部が損傷した。その後、ドイツの[[プロパガンダ]][[ラジオ]]がヴィクトリーの撃破を宣言したが、イギリス海軍本部が否定の声明を出すという出来事があった<ref>Christopher (2010) pp.&nbsp;114–115</ref>。

1950年代に数々の予防的な対策が行われた。空気循環を良くするために隔壁が取り除かれ、木材を食い荒らす[[シバンムシ]]対策に[[燻蒸]]が行われた。また、続く数十年では多くの古びたオーク船材が、硬く油分を含んだチーク材やイロコ材に置き換えられた。この措置は、これらの材木が[[菌類|真菌]]や[[害虫]]により強いと信じられていたために行われたものだった<ref>Christopher (2010) p.115</ref>。ヴィクトリーをトラファルガーの海戦当時の姿に復元するという決定は1920年に行われたが、以上のような重要な修復作業の完了は2005年のトラファルガー戦勝200周年式典の時までかかった<ref>{{cite web | year =| url = http://www.culture24.org.uk/history-and-heritage/war-and-conflict/world-war-two/art22897| title = HMS Victory's Reconstructed Grand Magazine Is Unveiled| work= | date=1 July 2004 | author=David Prudames | publisher = Culture 24| accessdate = 5 November 2013 }}</ref>。トラファルガーの海戦で90発以上の砲弾とその他発射体に突き破られひどく損傷したヴィクトリーの前檣帆の中段の1枚は、海戦の後で取り換えられた後保管され、ポーツマスの英国国立海軍博物館で現在も展示されている<ref>{{Cite web| year = | url = http://www.historicdockyard.co.uk/dockyard/trafalgarsail.php| title = Trafalgar Sail| work = | date = | author = | publisher = Portsmouth Historic Dockyard| accessdate = 2013-10-15| archiveurl = https://web.archive.org/web/20131016023729/http://www.historicdockyard.co.uk/dockyard/trafalgarsail.php| archivedate = 2013-10-16| url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。

=== 現在の状態 ===
ヴィクトリーは2012年10月に国定歴史艦隊の1隻としてリストに記載されるとともに、第一海軍卿の旗艦となった。それ以前は第二海軍卿の旗艦となっていた<ref>{{cite web | year =| url =http://www.nationalhistoricships.org.uk/data/files/advisorypapers/annual_report20062007.pdf | title =Appendix B – Historic fleet core collection | work= First Annual Report April 2006 – March 2007|page=46 | date= | author= | publisher = National Historic Ships Register| accessdate = 7 November 2013}}</ref><ref name=1SL>{{cite news |url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-hampshire-19896257 |title=HMS Victory handed to First Sea Lord in Portsmouth |date=10 October 2012 |publisher=BBC News |accessdate=12 October 2012}}</ref>。ヴィクトリーは世界最古の現役軍艦で、同時に毎年約35万人が訪れる記念艦の役割も果たしている<ref>{{cite news |url=http://www.dailyecho.co.uk/heritage/news/10015441.Victory_welcomes_25_millionth_visitor/|title=Victory welcomes 25 millionth visitor|date=15 October 2013 |publisher=Southern Daily Echo|accessdate=15 October 2013}}</ref>。現在の艦長は第101代艦長ブレイン・スミス少佐で、2015年5月に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.royalnavy.mod.uk/~/media/royal%20navy%20responsive/documents/profiles/smith%20brian.pdf|title=Lt Cdr B J Cmith|publisher=[[Royal Navy]]|accessdate=1 February 2016}}</ref>。

ヴィクトリーは公式的には驚くべき程多くの乗組員が配属されているが、訪問者が海軍の人員を見ることはほとんど無い。これは古い海軍法制の遺産で、全ての士官は艦船(HMSが冠される陸上施設を含む)に登記されていなければならない{{Efn|英国海軍法の厳密な表現では、全ての人員は 「海上で勤務しなければならない ("...&nbsp;must serve afloat") 」とされ、[[イギリス陸軍|陸軍]]と[[イギリス空軍|空軍]]の関連法規では「陸上、若しくは海上で勤務できる ("...&nbsp;men can serve ashore or afloat") 」とされる違いがある。}}ためである。こうした理由によって、[[ロンドン]]の[[国防省 (イギリス)|国防省]]勤務官など艦船上では働かない海軍の人員全てがヴィクトリーの乗組員として記録されている。

=== 現在のサポート体制 ===
[[File:HMSVictoryPortsmouthEngland.jpg|thumb|ヴィクトリーのパノラマ写真、船首像が修復のため取り外されている。]]
2011年12月、国防機器支援局は[[BAEシステムズ]]と5年のプロジェクトマネジメントを契約した。また、この契約には10年への延長オプションがついており、総額で1600万ポンドにも上る復元費用をかけてマストや索具の補修、側板取り換えや[[火災]]防止対策の追加等が予定されている。この計画はトラファルガーの海戦から帰還してから、ヴィクトリーが受ける最も広範囲な改装になるとされている<ref>{{cite web|url=https://www.gov.uk/government/news/hms-victory-to-be-restored|title=HMS Victory to be restored|date=2 December 2011|publisher=UK Government|accessdate=15 October 2013}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-hampshire-15985321|title=HMS Victory at Portsmouth Dockyard in £16m restoration|date=1 December 2011|publisher=[[BBC]] Hampshire and Isle of Wight|accessdate=13 October 2013}}</ref>。

この契約が締結された後、2012年3月5日にヴィクトリーの所有権が国防省から、英国国立海軍博物館の一部であるヴィクトリー保存団体に移されるという大きな変化があった<ref>{{cite web|url=http://www.royalnavy.mod.uk/our-organisation/where-we-are/heritage/hms-victory|title=Heritage – HMS Victory|publisher=Royal Navy|accessdate=28 December 2015}}</ref>。この移動に伴って海軍のウェブサイトによると、ゴスリング財団によって新しい団体へ2500万ポンドもの資本費補助が行われることが告知された<ref>{{cite web|url=http://www.fleetairarmoa.org/news/50-million-boost-for-hms-victory|title=£50million boost for HMS Victory|accessdate=28 December 2015}}</ref>。

== 旗艦とした提督の一覧 ==
2世紀に渡って、数々の提督がヴィクトリーに提督旗を掲げた。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:70%;"
|-
! colspan="3" | 提督一覧
|-
! 提督名 !! 乗艦日 !! 退艦日
|-
|[[オーガスタス・ケッペル]]
|1778年5月16日
|1778年10月28日
|-
|チャールズ・ハーディー
|1779年3月19日
|1780年5月14日
|-
|フランシス・グレイ
|1780年5月24日
|1780年8月28日
|-
|フランシス・ウィリアム・ドレーク
|1780年9月26日
|1780年12月29日
|-
|ハイド・パーカー (5代準男爵)
|1781年3月20日
|1781年5月31日
|-
|[[ジョン・エリオット (ニューファンドランド総督)|ジョン・エリオット]]
|1781年6月
|1781年8月
|-
|リチャード・ケンペンフェルト
|1781年9月10日
|1782年3月11日
|-
|[[リチャード・ハウ]]
|1782年4月20日
|1782年11月14日
|-
|[[リチャード・ハウ]]
|1790年7月
|1790年8月
|-
|[[サミュエル・フッド]]
|1790年8月
|1791年8月
|-
|[[ハイド・パーカー (海軍大将)|ハイド・パーカー]]
|1793年2月6日
|1793年5月
|-
|[[サミュエル・フッド]]
|1793年5月6日
|1794年12月15日
|-
|ロバート・マン
|1795年7月8日
|1795年9月27日
|-
|ロバート・リンジー
|1795年10月
|1795年11月
|-
|[[ジョン・ジャーヴィス]]
|1795年12月3日
|1797年3月30日
|-
|[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]
|1803年5月8日
|1805年10月21日
|-
|ジェームズ・ソマーレズ
|1808年3月18日
|1808年12月9日
|-
|グラハム・モーア
|1808年12月
|1809年1月23日
|-
|ジェームズ・ソマーレズ
|1809年4月8日
|1809年12月
|-
|ジェームズ・ソマーレズ
|1810年3月11日
|1810年12月3日
|-
|ジョセフ・シドニー・ヨーク
|1810年12月
|1811年3月
|-
|ジェームズ・ソマーレズ
|1811年4月2日
|1811年12月25日
|-
|ジェームズ・ソマーレズ
|1812年4月14日
|1812年10月15日
|-
|入渠
|1812年12月18日
|1824年1月31日
|-
|マイケル・シーモア (初代準男爵)
|colspan=2|1824年
|-
|退役
|1827年4月30日
|1831年10月21日
|-
|colspan=3|港湾司令官 ([[w:Port Admiral (Royal Navy)|en]]) の旗艦となる。
|-
|フレデリック・ルイス・メイトランド</td>
|colspan=2|1832年
|-
|ダンコム・プレイデル・ボブリエ</td>
|colspan=2|1837年
|-
|ハイド・パーカー (3世)</td>
|colspan=2|1842年
|-
|ウィリアム・ヘンリー・シュリッフ</td>
|colspan=2|1847年
|-
|チャールズ・オグル
|1848年3月20日
|1848年12月19日
|-
|トーマス・カペル
|1848年12月20日
|1851年12月19日
|-
|トーマス・ブリッジス
|1851年12月20日
|1853年3月19日
|-
|トーマス・ジョン・コクラン
|1854年3月20日
|1856年3月19日
|-
|ジョージ・シーモア
|1856年3月20日
|1859年3月19日
|-
|ウィリアム・ボールス
|1859年3月20日
|1860年3月19日
|-
|ヘンリー・ウィリアム・ブルース
|1860年3月20日
|1864年12月19日
|-
|マイケル・シーモア
|1864年12月20日
|1866年3月19日
|-
|トーマス・サビーン・パースリー
|1866年3月20日
|1869年3月20日
|-
|戦列艦デューク・オブ・ウェリントンの[[テンダーボート|支援母艦]]となる。
|1869年12月20日
|1891年9月1日
|-
|リチャード・ミード
|1891年8月1日
|1894年9月17日
|-
|ノーウェル・サーモン
|1894年9月18日
|1897年8月31日
|-
|マイケル・カルム・シーモア
|1897年9月1日
|1900年11月17日
|-
|チャールズ・フレデリック・ホザム
|1900年11月18日
|1903年9月30日
|-
|[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]
|1903年10月1日
|1904年3月18日
|-
|colspan=3|港湾司令官の旗艦が装甲艦ハーキュリーズに移る。<br/>
1905年2月1日には旗艦がファイアクイーンに移る。
|-
|[[アーチボルド・ルシアス・ダグラス]]
|1905年3月18日
|1907年3月1日
|-
|デイ・ボーザンケット
|1907年3月2日
|1908年3月17日
|-
|アーサー・ダーリンプル・ファンシャーウ
|1908年3月18日
|1910年4月30日
|-
|アッシュトン・カーゾン・ハウ
|1910年5月1日
|1911年3月17日
|-
|アーサー・ムーア
|1911年3月18日
|1912年7月31日
|-
|ヘドワース・ミュー
|1912年8月1日
|1916年2月17日
|-
|スタンリー・コルヴィル
|1916年2月18日
|1919年4月17日
|-
|セシル・バーニー
|1919年4月18日
|1920年6月17日
|-
|サマーセット・ゴフ・キャルソープ
|1920年6月18日
|1923年5月31日
|-
|シドニー・フリーマントル
|1923年6月1日
|1926年4月1日
|-
|オスモンド・ブロック
|1926年5月18日
|1929年4月30日
|-
|ロジャー・キーズ
|1929年5月1日
|1931年6月17日
|-
|アーサー・ワイステル
|1931年6月18日
|1934年2月17日
|-
|ジョン・ケリー
|1931年2月18日
|1936年8月31日
|-
|ウィリアム・ボイル
|1937年8月18日
|1939年6月30日
|-
|ウィリアム・ジェームズ
|1939年7月1日
|1942年9月30日
|-
|チャールズ・リトル
|1942年10月1日
|1945年9月28日
|-
|ジェフリー・レイトン
|1945年9月29日
|1947年6月29日
|-
|[[ブルース・フレーザー]]
|1947年6月30日
|1949年4月18日
|-
|アルジャーノン・ウィリス
|1949年4月19日
|1950年10月17日
|-
|アーサー・パワー
|1950年10月18日
|1952年10月17日
|-
|ジョン・エデルステン
|1952年10月18日
|1954年10月17日
|-
|ジョージ・クリーシー
|1954年10月18日
|1957年7月17日
|-
|ガイ・グラントハム
|1957年7月18日
|1959年7月17日
|-
|マンリー・ローレンス・パワー
|1959年7月18日
|1962年1月17日
|-
|アレクサンダー・ビングリー
|1962年1月18日
|1963年1月17日
|-
|ウィルフリッド・ウッド
|1963年1月18日
|1965年9月9日
|-
|バリル・ベッグ
|1965年9月10日
|1966年6月9日
|-
|フランク・ホプキンス
|1966年6月10日
|1967年10月30日
|-
|ジョン・フレウェン
|1967年10月31日
|1970年2月27日
|-
|ホレイス・ロー
|1970年2月28日
|1972年2月28日
|-
|アンドリュー・ルイス
|1972年2月29日
|1974年6月29日
|-
|デレック・エンプソン
|1974年6月30日
|1975年10月30日
|-
|テレンス・レウィン
|1975年10月31日
|1976年10月30日
|-
|デヴィッド・ウィリアムス
|1976年10月31日
|1978年10月30日
|-
|リチャード・クレイトン
|1978年10月31日
|1981年6月30日
|-
|ジェームス・エバリー
|1981年7月1日
|1983年12月31日
|-
|デズモンド・カシディ
|1983年1月1日
|1984年10月30日
|-
|ピーター・スタンフォード
|1984年10月31日
|1987年10月30日
|-
|サンディ・ウッドワード
|1987年10月31日
|1989年10月30日
|-
|ジェレミー・ブラック
|1989年10月31日
|1991年3月30日
|-
|ジョン・カー
|1991年3月31日
|1993年3月30日
|-
|マイケル・レヤード
|1993年3月31日
|1994年3月30日
|-
|[[マイケル・ボイス (ボイス男爵)|マイケル・ボイス]]
|1994年3月31日
|1997年3月30日
|-
|ジョン・ブリグストック
|1997年3月31日
|2000年1月18日
|-
|ピーター・スペンサー
|2000年1月19日
|2003年1月28日
|-
|ジェームズ・バーネル・ニュージェント
|2003年1月29日
|2005年10月25日
|-
|エイドリアン・ジョンズ
|2005年10月25日
|2008年7月15日
|-
|アラン・マジー
|2008年7月15日
|2010年7月19日
|-
|チャールズ・モントゴメリー
|2010年7月19日
|2012年10月9日
|-
|マーク・スタンホープ
|2012年10月9日
|2013年4月9日
|-
|[[ジョージ・ザンベラス]]
|2013年4月9日
|2016年4月8日
|-
|フィリップ・ジョーンズ
|2016年4月8日
|現在
|}
== 登場作品 ==
; 『[[WORLD WAR Z]]』
: 海外小説。全世界で[[ゾンビ]]が発生し、あらゆる艦船がゾンビで溢れた陸地から逃げるために外洋へと出て[[難民]]船と化す中、ヴィクトリーもまた[[難民]]船と化して登場する。
; 『[[戦艦少女R]]』
: 艦船擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクターがNPCとして登場する。
; 『[[パズルガールズ (ゲーム)|パズルガールズ]]』
: 艦船擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクターがプレイアブルキャラクターとして登場する。
; 『[[御城プロジェクト|御城プロジェクト:RE〜CASTLE DEFENSE〜]]』
: 城擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクター「戦列艦 ヴィクトリー号」がプレイアブルキャラクターとして登場する。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}

== 参照 ==
{{refbegin}}
*{{cite book |first1= Nicholas|last1= Best|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= Trafalgar – The Untold Story of the Greatest Sea Battle in History|origyear= |publisher= The Orion Publishing Group Ltd|location= London|year=2005|language= |isbn=0-297-84622-1 }}
*{{cite book |first1= John|last1= Christopher|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= The HMS Victory Story|origyear= |publisher= The History Press|location= Stroud|year=2010 |language= |isbn=978-0-7524-5605-8 }}
*{{cite book |first1= Jonathan R.|last1= Dull|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= The Age of the Ship of the Line|origyear= |publisher= Seaforth Publishing|location= Barnsley|year=2009 |language= |isbn=978-1-84832-549-4}}
*{{cite book |first1= Jonathan|last1= Eastland|first2= Iain| last2= Ballantyne|titlelink1= |others= |title= HMS Victory – First Rate 1765|origyear= |publisher= Seaforth Publishing, Pen and Sword Books|location= Barnsley|year=2011 |language= |isbn=978-1-84832-094-9 }}
*Lavery, Brian (2003) ''The Ship of the Line Volume 1: The development of the battlefleet 1650–1850.'' Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-252-8.
* {{cite book | author=Longridge, Charles. N | title=The Anatomy of Nelson's Ships | publisher=Naval Institute Press | isbn=0-87021-077-7}}
* {{cite book | author=MacDougall, Philip | title=The Chatham Dockyard Story | publisher=Meresborough Books | year=1987 | isbn=0-948193-30-1}}
* {{cite book | first1= John| last1=McKay| title= The 100-Gun Ship Victory|publisher=Anova Books Ltd.|year=2000|isbn=978-1-84486-223-8}}
*{{cite book |first1= N.A.M|last1= Rodger| titlelink1= |others= |title= The Command of the Ocean|origyear= |publisher= Penguin Books|location= London|year=2005 |language= |isbn=0-14-028896-1}}
*{{cite book |first1= Alexander|last1= Stilwell|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= The Trafalgar Companion|origyear= |publisher= Osprey Publishing|location= Oxford|year=2005|language= |isbn=1-84176-835-9 }}
*{{cite book |first1= Edgar|last1= Vincent|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= Nelson: Love & Fame|origyear= |publisher= Yale University Press|location= London|year=2003|language= |isbn=0-300-10260-7 }}
* {{cite book | author=Warwick, Peter | title=Voices from the Battle of Trafalgar | publisher=David & Charles | isbn=0-7153-2000-9}}
*{{cite book |first1= Sam|last1= Willis|first2= | last2= |titlelink1= |others= |title= In the Hour of Victory – The Royal Navy at War in the Age of Nelson|origyear= |publisher= Atlantic Books Ltd|location= London|year=2013 |language= |isbn=978-0-85789-570-7}}
*{{cite book |first1=Ben |last1=Wilson |titlelink1= |others= |title= Empire of the Deep|origyear= |publisher=Weidenfeld & Nicolson |location=London |year=2013 |language= |isbn= 978-0-297-86408-0|page= |pages= |at=}}
*Winfield, Rif (2007) ''British Warships in the Age of Sail 1714–1792: Design, Construction, Careers and Fates.'' Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84415-700-6.
*Winfield, Rif (2005) ''British Warships in the Age of Sail 1793–1817: Design, Construction, Careers and Fates.'' Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84415-717-4.

{{refend}}


==関連項目==
==関連項目==
*[[コンスティチューション (帆走フリゲート)]] - [[アメリカ海軍]]のフリゲート。航海可能な現役の軍艦としては世界最古。
*[[コンスティチューション (帆走フリゲート)]]
*[[カロライン (軽巡洋艦)]]
*[[イギリス海軍戦列艦一覧]]
*[[イギリス海軍戦列艦一覧]]


==外部リンク==
==外部リンク==
{{Commons|HMS Victory}}
{{Commons&cat|HMS Victory|HMS Victory (ship, 1765)}}
*[http://www.historicdockyard.co.uk The home of HMS ''Victory''] - 公式HP
*[http://www.historicdockyard.co.uk The home of HMS ''Victory''] - 公式HP
*[http://www.hms-victory.com/ HMS ''Victory''] - Royal Navy website
*[http://www.hms-victory.com/ HMS ''Victory''] - Royal Navy website
*[http://www.royalnavy.mod.uk/The-Fleet/Ships/HMS-Victory Royal Navy] - The Fleet - HMS Victory
*[https://web.archive.org/web/20131212063225/http://www.royalnavy.mod.uk/The-Fleet/Ships/HMS-Victory Royal Navy] - The Fleet - HMS Victory


{{DEFAULTSORT:ういくとり}}
{{DEFAULTSORT:ういくとり}}
[[Category:イギリス海軍の戦列艦|ひくとり3]]
[[Category:イギリス海軍の戦列艦|ひくとり3]]
[[Category:1765年進水船]]
[[Category:イギリスの博物館船]]
[[Category:イギリスの博物館船]]
[[Category:帆船の船名]]
[[Category:帆船の船名]]
[[Category:イングランドの観光地]]
[[Category:イングランドの観光地]]
[[Category:リチャード・ハウ]]
[[Category:ホレーショ・ネルソン]]

2024年8月28日 (水) 09:49時点における最新版

ヴィクトリー
基本情報
建造所 チャタム工廠
運用者  イギリス海軍
艦種 104門1等戦列艦
建造費 63,176ポンド3シリング
母港 ポーツマス歴史ドック
北緯50度48分07秒 西経1度06分35秒 / 北緯50.80194度 西経1.10972度 / 50.80194; -1.10972座標: 北緯50度48分07秒 西経1度06分35秒 / 北緯50.80194度 西経1.10972度 / 50.80194; -1.10972
艦歴
発注 1758年7月14日
起工 1759年7月23日
進水 1765年3月7日
就役 1778年
現況 現役 (第一海軍卿旗艦記念艦)
要目([1]
排水量 3,500 トン
2,142 bm
全長 砲列甲板:186ft (56.7m)
全体:227ft 6in(69.3m)
最大幅 51ft 10in(15.8m)
高さ 喫水線からメインマストまで205ft (62.5m)
吃水 28ft 9in(8.8m)
帆装 3本マストシップ
最大速力 11 ノット (20 km/h)
乗員 850名
兵装
装甲 無し(喫水線部のオーク船材は2ft (61cm) 厚)
テンプレートを表示

ヴィクトリー (HMS Victory) は、イギリス海軍の104門1等戦列艦。1805年のトラファルガーの海戦においてホレーショ・ネルソン提督が座乗、旗艦として仏西連合艦隊の脇腹を突くべく艦隊の先鋒を務めていたことで知られる。他にもウェサン島の海戦でのオーガスタス・ケッペル提督や、スパルテル岬の海戦英語版でのリチャード・ハウ提督、サン・ビセンテ岬の海戦でのジョン・ジャーヴィス提督ら、多くの提督の座乗艦であった。

1922年にポーツマス乾ドックに移され、記念艦となった。ポーツマス軍港の港湾司令官や第二海軍卿の旗艦を務めていたが、2012年8月からは第一海軍卿の旗艦となった。現存する唯一の戦列艦であるとともに、世界最古の現役艦でもある(航行可能な現役艦としてはアメリカ海軍コンスティチューションが最古)。また、世界三大記念艦の一つとされている[注釈 1]

建造

[編集]

1758年12月、イギリス政府の事実上の首相であった大ピットが、後にヴィクトリーとなる1等艦を含めた12隻の軍艦の建造を提議し、発注が行われた[3]。 18世紀に建造された1等戦列艦は10隻で、ヴィクトリーはそのうちの1隻だった[4]。 ヴィクトリーの建造には海軍の艦艇監督官であったトーマス・スレードが造船技師として選ばれ[5]、1756年にウリッジ工廠で進水した1等艦ロイヤル・ジョージの設計図をもとに、最低100門の砲を備える船として設計された。 チャタム工廠の工廠長はこの船の建造のため乾ドックを準備するように命令され、1759年7月23日に竜骨がオールド・シングルドック(No.2ドックと改称され、現在はヴィクトリー・ドックとなっている)に敷かれた。1760年の10月には「ヴィクトリー」という名が選定された[6]。この名が選ばれた理由には諸説あり、1つには前年の1759年に当時行われていた七年戦争でイギリスが次第に優勢になってきており、陸上ではケベックの戦いミンデンの戦い、海上ではラゴスの海戦キブロン湾の海戦と勝利 (Victory) が相次いだため、奇跡の年を記念して命名されたというもの[7][8]。もしくは、7つの命名候補が記された短いリストの中で、当時他の船に使われていなかった名前が単に「ヴィクトリー」だけであったとするものもある[9][10]。先代のヴィクトリー英語版と名付けられた戦列艦は1744年に乗組員全員とともに失われていたため、一部ではこの命名が適切かどうかに疑問が持たれていた[10]

一度フレームが組みあがると、大抵の場合船には覆いが取りつけられ、数か月に渡って木材の乾燥と慣らしが行われる。しかし、七年戦争が終結したこともあって、ヴィクトリーはこの骨組みだけの状態で3年近くドックに放置されることになった。ただし、この長期間の乾燥が後の長寿命に繋がったともされる[11][12]。建造は1763年の秋から再開され、1765年の5月7日に進水が行われた[13]。かかった費用は63,176ポンド3シリングで、現在価値に直すとおおよそ779万ポンド[注釈 2] (日本円で約11億円[14])となる。建造には6000本にも及ぶ木材が用いられ、そのうち90%がオーク材で、残りがエルムパインモミの材木と少量のリグナムバイタだった[15]

進水の日、進水式の職長に選ばれた船大工のハートリー・ラーキンは突如として、船がドックのゲートを通り抜けられないであろうことに気づいた。夜明けとともに行われた計測は、彼の懸念を裏付けるものだった。ゲートは少なくとも912インチ(約24cm)狭すぎた。この恐るべき知らせは上司である船大工長のジョン・アリンに伝えられ、進水の延期も検討された。ラーキンらは集められる船大工を全て集め、(ちょうな)でゲートの周囲の木材を削り、船が安全に通り抜けられるように苦労して切り開いた[16]。このようなことができたのは、進水後ドックが即座には使用されないためだった。実際ヴィクトリーは整備中として、フランスアメリカ独立戦争に介入してくるまで、13年間メドウェイ川で係留された[17]

ヴィクトリーの試験航行は1778年3月にジョン・リンドセイ艦長の下で行われた。リンドセイがヴィクトリーの艦長だったのは同年5月までで、すぐに海軍大将オーガスタス・ケッペル提督の旗艦となり、中将ジョン・カンプベルが第一艦長、勅任艦長のジョナサン・ファルクナーが第二艦長として赴任してきた[18]

ヴィクトリーは鉄製の鋳造砲で武装しており、下甲板に42ポンド(19kg)砲30門、中甲板に24ポンド(11kg)砲28門、上甲板に12ポンド(5kg)砲30門、船首楼と後甲板に6ポンド(3kg)砲12門を備えていた。1778年5月に42ポンド砲は全て32ポンド(15 kg)砲に載せ替えられたが、1779年4月にまた42ポンド砲に戻された。結局、1803年最終的に42ポンド砲は32ポンド砲に置き換えられた。また、1782年には6ポンド砲全門が12ポンド砲に更新された。後に、加えて68-lb (31 kg)の球形弾を打ち出せるカロネード砲が2門搭載された[19]。1808年1月、ヴィクトリーは98門2等戦列艦に格下げされたが、1817年2月には再び104門1等戦列艦に分類し直された[18]

戦歴

[編集]

第一次ウェサン島の海戦

[編集]
「第一次ウェサン島の海戦」(1778年) セオドア・グディンによる絵画

1778年7月9日、ケッペル提督は29隻の戦列艦とともにスピットヘッドを出発した。そして7月23日、ウェサン島の西100マイル (160km) の海域でほぼ同戦力のフランス艦隊を発見した[20][21]。フランス側のドルヴィリュー伯ルイ・ジロー提督は戦いを避けるよう命令を受けていたが、ブレストへの退路は遮断されていた。風と雨によって次第に操船が困難になる中で、イギリス側はなんとか縦列を保ち、隊列を乱したフランス側に対して開戦を強制できる状態まで持ち込むことができた。しかし、フランス艦隊も苦労しながら有力な艦を並べ、反航の形となったイギリスの戦列に対して戦列を組んだ。正午頃、艦隊の中央に位置したヴィクトリーは、フランス艦隊旗艦の110門艦ブルターニュに対し、砲撃を開始した[22]。イギリス前衛戦隊は僅かな損害で離脱したが、ヒュー・パリサー中将の後衛戦隊は索具などにしたたかな損傷を受けた。ケッペルはフランス艦隊を追撃するよう信号を送ったが、パリサーは従わず、追撃は行われなかった[22]。そのため、この海戦は後に政争に発展した[22]

第二次ウェサン島の海戦

[編集]

1780年3月、ヴィクトリーはフナクイムシの害を防ぐため、艦底に合計で3923枚の銅板を貼った[15]。翌年末、1781年12月2日にこの船はヘンリー・クロムウェル艦長のもと、海軍少将リチャード・ケンペンフェルト提督の旗艦となった。そしてケンペンフェルトはヴィクトリーを含む12隻の戦列艦、1隻の50門4等艦、5隻のフリゲートを率いて[23]、ブレストを同年12月10日に出たフランスの護送船団への襲撃に向かった。フランス船団はド・グッシェン伯率いる19隻もの戦列艦に護衛されていた。しかしイギリス側はこの戦力差を知らないまま、12月12日にフランス船団を発見し、追撃を行った。ケンペンフェルトがフランス艦隊の優勢に気づいた時、イギリス艦隊は既に15隻もの輸送船を拿捕していた。ド・グッシェンの護衛艦隊は風下にいたため、救援に赴くことができなかった[24]

ジブラルタル包囲戦

[編集]

1782年8月、ヴィクトリーはリチャード・ハウ提督の旗艦として、フランス、スペイン両海軍に封鎖されたジブラルタルへの補給を行う輸送船団の強力な護衛艦隊に参加した。船団は抵抗に遭うことなくジブラルタル海峡に入り、補給物資を成功裏に積み下ろした。帰路にはスパルテル岬の海戦英語版が発生したものの、戦闘は小規模で、ヴィクトリーが砲撃を行うことは無かった[25][26]

サン・ビセンテ岬の海戦

[編集]
「サン・ビセンテ岬の海戦」(1881年) リチャード・ブリッジス・ベッキーによる絵画

1796年、ロバート・カルダーを第一艦長、ジョージ・グレイを第二艦長として、ヴィクトリーはジョン・ジャーヴィス提督の旗艦となった[18][27]。1796年の暮れの時点で、地中海での英国の編成はフランス・スペイン連合艦隊に対して不十分で、コルシカ島エルバ島からの撤退を余儀なくされた。ジャーヴィスは麾下の艦隊をサン・ビセンテ岬に配置し、スペイン艦隊の北上を妨げていた。当時、代将だったホレーショ・ネルソンは、エルバ島からのイギリス軍撤退を指揮した後、フリゲート艦ミネルヴァ英語版でジブラルタルに向かった[28][29]。そして、スペイン艦隊が数日前に海峡を通過したという情報を入手し、2月11日ジャーヴィスの艦隊と合流するために出港した[30]。一方のスペイン艦隊は24隻の戦列艦と輸送船からなっていたが、強い東風に流されコースを外れたため、夜を徹して目的地カディスへの航路を取り直していた[29]。ネルソンは濃い霧にまぎれてスペイン艦隊に発見されることなく2月13日にジャーヴィスの艦隊と合流した[31]。ジャーヴィスの艦隊は2月5日にウィリアム・パーカー提督率いる5隻の戦列艦を加え、15隻に強化されていた[32]。2月14日朝、イギリス艦隊を2列の縦隊を形成しており、ジャーヴィスはヴィクトリーの後甲板で士官に向かって「イングランドの命運はこの戦いの勝利にかかっている。("A victory to England is very essential at this moment.")」と宣言した。午前6時半頃スペイン艦隊視認の報があり[27]、9時頃には旗艦ヴィクトリーのマストからも敵艦を確認できるようになった。そして11時、ジャーヴィスは全艦に戦列を組んで戦うよう命じた[33]。スペイン艦隊の数は27隻に上りイギリス艦隊の約2倍に達していた。カルダー艦長が次第に増えてゆく算定数をジャーヴィスに報告すると、ジャーヴィスはこう答えた。「十分だ。これ以上はいい。賽は投げられたのだ。私はたとえ(敵が)50隻いようとも、突き進んでゆく。("Enough Sir. No more of that. The die is cast and if there are 50 sail, I will go through them.")[34]」イギリス艦隊は単縦陣で、未だ戦闘準備を終えていない2つのグループに分かれたスペイン艦隊の間に進んでいった[27]。イギリス艦隊は、ネルソン指揮下の74門艦キャプテンの時機を得た活躍もあり、スペイン艦隊の分断に成功した。午後4時半すぎには戦いはほとんど終息し、ブリタニアおよびオライオンと、守られつつ離脱してゆくスペイン艦サンティシマ・トリニダーの間で小競り合いがある程度となった。海戦はイギリス艦隊の勝利に終わった。スペイン艦隊は4隻の戦列艦を捕獲され、死傷者合わせて約1,000人の損害を出した。一方イギリス艦隊の損害は全体で戦死73人、負傷327人であり、旗艦ヴィクトリーにおいては戦死1人、負傷5人だった[35]。この1名の戦死者は、ヴィクトリー甲板上を襲った砲弾が、ジャーヴィスを僅かに逸れ、近くにいた水夫を直撃したものだった[36]。イギリス艦隊はスペイン艦隊に致命傷を与えることはできず、カディス港入港を阻止するという目的も達成できなかったが、この戦いによってスペイン艦隊はその後2年の間港にとどまることを余儀なくされ、フランスのイギリス侵略を不可能にした[36]

再建造

[編集]
ヴィクトリーの特徴的な船体色、黒と黄の横縞「ネルソンチェッカー (en)」は1800年に初めて施され、その後全てのイギリス海軍軍艦に採用された。

1797年暮れ、ヴィクトリーはJ.リックマン中尉の指揮の下、チャタム工廠に係留された。同年12月ヴィクトリーはもはや現役の戦闘艦には適さないと見なされ、スペイン人やフランス人の傷病捕虜を収容するための病院船に改装することが命じられた[18][37]。しかし1799年10月8日、2等戦列艦インプレグナブルリスボンへ輸送船団を護衛し終えた後、ポーツマスへの帰路にチチェスター近くで座礁する事件が発生した[37]。インプレグナブルは水漏れから着底し、再浮揚は不可能であったため、この船は失われた[38]。そして3層艦が足りなくなったことから、海軍本部はヴィクトリーを元通りの状態にすることを決断した。再建造は1800年に始まったが、作業が進むにつれ多くの欠陥が見つかり、修繕は非常に広範囲に渡って行われた[37]。当初再建造に必要な費用は£23,500との見積もられていたが、最終的な費用は70,933ポンドに達した[9]。砲門がいくつか追加され、ヴィクトリーは100門艦から104門艦になった。また、弾薬庫は銅で裏張りされ、船首像マストに沿って再配置された。さらに船体の塗装が赤から、今日見られる黒と黄の横縞に変更された。ヴィクトリーの砲門は当初船体の配色に合わせて黄に塗られていたが、その後黒に塗り直された。この船体色は後に「ネルソン・チェッカー英語版」と呼ばれるようになり、トラファルガーの海戦以後全ての英国軍艦に適用された[39]。再建造の全ての工程は1803年4月に完了した。ヴィクトリーはポーツマスに送られ、数か月の間、勅任艦長サミュエル・サットンの下で任務に就いた[18][40]

ネルソンとトラファルガーの海戦

[編集]
ホレーショ・ネルソンは2度ヴィクトリーを旗艦にした。

海軍中将ホレーショ・ネルソン提督がその将旗をヴィクトリーに掲げたのは1803年5月18日のことだった。サミュエル・サットンが旗艦艦長を務めた[18]。しかし、ヴィクトリーは航海の準備を完了していなかったため、ネルソンは5月20日にフリゲート艦アンフィオンに移り、指揮官として任じられた地中海へ向けて出発した[41]。ヴィクトリーは少し遅れて、今度はウィリアム・コーンウォリス提督の旗艦となるためウェサン島に向けて出港した。しかし、その必要はないとされ、結局ネルソンの艦隊に合流すべく地中海へ向かった[41]

5月28日、サットン艦長はロシュフールへ航海途上のフランスの32門フリゲート、アンビュスケードを捕獲した[42] 。その後ヴィクトリーは7月31日にトゥーロンでネルソンと再会した。サットンは、先にネルソンが乗ってきたアンフィオンの艦長に転属となり、トマス・ハーディを艦長としてヴィクトリーは再びネルソンの旗艦となった[41]

1805年4月4日、ネルソンのもとにフリゲート艦フォーブがピエール・ヴィルヌーヴ提督指揮下のフランス艦隊がトゥーロンを発った、という知らせをもたらした。この時ヴィクトリーはマヨルカ島に付属する小島であるトロ島 (北緯39度27分44秒 東経2度28分18秒 / 北緯39.462307度 東経2.471722度 / 39.462307; 2.471722) 付近にいた。ネルソンはフランス艦隊がエジプトに向かっているのではないかと推測してシチリア島に急行したが、ヴィルヌーヴはカディスに入港してスペイン艦隊と合流しようとした[43][44]。5月9日今度はフリゲート艦オリンパスがネルソンに、ヴィルヌーヴが約1月前にカディスを出たという情報を運んできた。ネルソン率いるイギリス艦隊はポルトガルのラゴス湾で補給を行い、5月11日に西に向かった17隻からなるヴィルヌーヴのフランス・スペイン連合艦隊の追撃に移った。この追撃に参加したイギリス艦隊は10隻の戦列艦と3隻のフリゲートで構成されていた[45]。しかしこのイギリスの追撃艦隊は6月4日に西インド諸島バルバドスに到着したものの、すぐにヴィルヌーヴの艦隊がヨーロッパに戻ったことを知った。そして、ナポレオンのイギリス遠征軍がブローニュで待機しており、フランス艦隊の帰着を待っていた[46]

ヨーロッパに戻ったヴィルヌーヴ提督と麾下のフランス・スペイン連合艦隊は、スペインのビゴーかフェロルに退避しようとしていたが、カルダー提督率いるイギリス艦隊に捕捉された。そして7月22日にフェロル沖で、カルダーの15隻の艦隊と、霧で視界の悪い中、決定的でないフィニステレ岬の海戦を戦った[47]。その後、8月14日にはカルダーの艦隊が、15日にはネルソンの艦隊が、ウェサン島沖にあったコーンウォリスの海峡艦隊に合流し、イギリス側の陣容が整っていった[48]。ネルソン自身は、地中海艦隊をコーンウォリスのもとに残して、ヴィクトリーとともにイギリス本国に帰還した[49]。コーンウォリスは自身の指揮下にあった33隻の戦列艦のうち、20隻をカルダーのもとに送り出し、フェロルにいると見られたフランス・スペイン連合艦隊を捜索させた。8月19日、イギリス側にとって悪い知らせが届いた。フランス・スペイン連合艦隊はフェロルを出港し、2日前に援軍を連れてカディスに入港したというものだった。9月28日水曜日の午後、ネルソンはカディス沖のコリングウッド提督の艦隊に密かに合流した。これはネルソンの存在を気取られないための措置だった[50]

トラファルガーの海戦

[編集]
「トラファルガーの海戦」(1822年–1824年) 海戦の複数の場面を1枚に合成している。ターナーによる油彩画
Trafalgar memorial
ネルソンとトラファルガーの海戦で戦死した全ての人間を追悼するプレート

ヴィルヌーヴは自身が指揮官を解任されたと知った後の10月19日の朝、艦隊を率いて海上へ出た。フランス・スペイン連合艦隊の最後の船が出港を終えたのはその日の夕方で、彼と彼の艦隊は地中海へと向かった[51]。この艦隊と夜通し接触を絶やさぬよう命じられたイギリス側のフリゲートは、19時にフランス側に発見され、フランス・スペイン艦隊では戦いのために戦列を組むように命令が出された[52]

10月21日の朝、10マイル先の視認外でばらばらに航行していたイギリスの主力艦隊は、要撃のために転回した[53]。ネルソンはすでに作戦を決めていた。彼はフランス・スペイン連合艦隊中央の旗艦の2~3隻前で戦列を突破、分断し、敵前衛が支援に戻る前に勝利を確定させようとしていた[54]。午前6時、ネルソンは麾下の艦隊に2列の縦列になるよう命じた。微風のため艦隊の進行は遅かったが、6時間後、イギリスの2列の戦列は徐々にフランスの艦列と接触し、風下の列を率いたロイヤル・ソブリンはフランスの74門艦フーギューに砲撃を始めることができた。それから30分ほどで、ヴィクトリーはフランス・スペイン連合艦隊戦列のビューサントルとルドゥタブルの間に割り込み、前者の艦尾に向けて数ヤード先から3重の片舷掃射を行った[55]。フランス・スペイン連合艦隊の隊列に垂直に切り込むこの「ネルソン・タッチ」の性質上、戦列の先頭に居たヴィクトリーは敵艦隊からの集中砲火を浴びることになったが、連合艦隊の砲撃の稚拙さにも助けられ、よく持ちこたえた。13時25分ごろヴィクトリーの後甲板上でネルソンは狙撃された[56]。致命的なマスケット弾が彼の左肩から脊椎に達し、ネルソンは16時半過ぎに息を引き取った[57]。この狙撃はフランス艦ルドゥタブルからのもので、ネルソンは周囲の者の「集中射撃を受けて危険なので兵の服を着るように」という提案を聞き入れず、将軍の服のまま陣頭指揮をしていたという。ルドゥタブルの兵員はヴィクトリーへの切り込みを企てたが、エリアブ・ハーベイ艦長の98門2等艦テメレーアが来援しこのフランス艦を打ちのめしたために失敗した[58]。ネルソンの最後の命令は「艦隊はを下ろせ」であったが、この命令はコリングウッドによって撤回された[59]。この海戦におけるヴィクトリーの損害は戦死57人、負傷者102人だった[60]

トラファルガー以降

[編集]

海上での最後の数年間

[編集]

ヴィクトリーのトラファルガーの海戦での損傷は激しく、自力での航行が不可能な状態だったので、98門2等艦ネプチューンがヴィクトリーを修理のためにジブラルタルへ曳航していった[61]。そして、その後すぐヴィクトリーはネルソンの亡骸をイギリス本土へ運んだ。亡骸は一旦グリニッジで安置された後、1806年1月9日にセントポール寺院で埋葬された[62]

トラファルガーの海戦の後も、ヴィクトリーは数々の提督の旗をその艦上に掲げ、多くの遠征に出帆した。その中には、ジェームズ・ソマーレズ提督の2つのバルト海方面作戦などが含まれた[63]。1812年11月7日にヴィクトリーは活動期間を終え、ポーツマス西岸のゴスポートに係留されて支援母艦として用いられた[64]

ヴィクトリーの船首と船首像

トマス・ハーディーが第一海軍卿だった時、彼は家に帰ってヴィクトリーの解体命令に署名したと妻に言った所、彼女は泣きだしてハーディーに執務室へ戻って命令を取り消すように送りだした、と一般に語られているが、この話は出典が疑わしいとされている。この命令が記載されていたはずの1831年の任務記録は破り取られて失われている[65]。そして、即位前のヴィクトリア王女とその母ケント公妃ヴィクトリアが1833年に船を訪れた短い期間を除いて、ヴィクトリーは長い間忘れ去られていた[64]

1889年、ヴィクトリーは電信を教える海軍学校として艤装が行われた。そして、すぐに正式な通信学校となり、各艦から不適とされた通信兵は兵舎ではなくヴィクトリーに送られて2か月のトレーニングコースを受けた。通信学校は1904年までヴィクトリーに置かれ、その後トレーニングは一時的に装甲艦ハーキュリーズ英語版に移されたが、1906年に半恒久的にポーツマスの海軍兵舎に設置されることとなった[66]

数年後、ヴィクトリーの船体状況は停泊地で次第に悪化していた。1903年、装甲砲塔艦ネプチューン(ヴィクトリーをジブラルタルまで曳航した同名の戦列艦とは別船)が解体のために曳航されている途中、ヴィクトリーに接触しその水線下に穴を開けるという事故が発生した。緊急の修理が行われ、ヴィクトリーの沈没は防がれたが、これは海軍本部がヴィクトリーをスクラップとすることに反対した国王エドワード7世による個人的な介入でしかなかった[67]。一般大衆のヴィクトリーへの関心が復活したのは、1905年のトラファルガー戦勝100年記念式典の一環として潜水艦埠頭の傍で電飾された時であった[67]。1910年、海事史学会はヴィクトリーを後の世代のために保存しようとしたが、熾烈さを増すドイツとの建艦競争に掛かり切りの海軍本部は協力を行わなかった。一方でヴィクトリーの状況は、フランク・H・マーソン著の『1911年の英国船』によると「ほとんど侮辱的な仕打ち」と表現されるほどだった[68][69]。1921年、ヴィクトリーは非常にみすぼらしい状態となっており、海運王ジェームズ・ケアードを中心人物としてヴィクトリーを守ろうとするキャンペーンが始まった[70]

乾ドック入り

[編集]
「HMS ヴィクトリーの修復作業」(1925年) ウィリアム・ライオネル・ウィリーによる絵画

1922年にヴィクトリーは、現在も使用されている最古のドックであるポーツマスのNo.2ドックに移された[71]。長期間悪化し続けたヴィクトリーの船体状況は、もはや安全に浮いていられないほどだった[70]。最初の復元作業が行われたのは1922年から1929年にかけてで、喫水線から主に中甲板上にかけてかなりの数の構造が修復された。1928年、ジョージ5世が作業の完了を示す銘板をつける祝典を執り行うことができたが、復元作業とメンテナンスは海事史学会の監督の下で依然として続けられた[70]

復元作業は第二次世界大戦中の1941年に一度中断された。ヴィクトリーはドイツ空軍機の爆弾によって、鋼鉄製の船架の1つと、前檣(ぜんしょう、3本マストの一番前)の一部が損傷した。その後、ドイツのプロパガンダラジオがヴィクトリーの撃破を宣言したが、イギリス海軍本部が否定の声明を出すという出来事があった[72]

1950年代に数々の予防的な対策が行われた。空気循環を良くするために隔壁が取り除かれ、木材を食い荒らすシバンムシ対策に燻蒸が行われた。また、続く数十年では多くの古びたオーク船材が、硬く油分を含んだチーク材やイロコ材に置き換えられた。この措置は、これらの材木が真菌害虫により強いと信じられていたために行われたものだった[73]。ヴィクトリーをトラファルガーの海戦当時の姿に復元するという決定は1920年に行われたが、以上のような重要な修復作業の完了は2005年のトラファルガー戦勝200周年式典の時までかかった[74]。トラファルガーの海戦で90発以上の砲弾とその他発射体に突き破られひどく損傷したヴィクトリーの前檣帆の中段の1枚は、海戦の後で取り換えられた後保管され、ポーツマスの英国国立海軍博物館で現在も展示されている[75]

現在の状態

[編集]

ヴィクトリーは2012年10月に国定歴史艦隊の1隻としてリストに記載されるとともに、第一海軍卿の旗艦となった。それ以前は第二海軍卿の旗艦となっていた[76][77]。ヴィクトリーは世界最古の現役軍艦で、同時に毎年約35万人が訪れる記念艦の役割も果たしている[78]。現在の艦長は第101代艦長ブレイン・スミス少佐で、2015年5月に就任した[79]

ヴィクトリーは公式的には驚くべき程多くの乗組員が配属されているが、訪問者が海軍の人員を見ることはほとんど無い。これは古い海軍法制の遺産で、全ての士官は艦船(HMSが冠される陸上施設を含む)に登記されていなければならない[注釈 3]ためである。こうした理由によって、ロンドン国防省勤務官など艦船上では働かない海軍の人員全てがヴィクトリーの乗組員として記録されている。

現在のサポート体制

[編集]
ヴィクトリーのパノラマ写真、船首像が修復のため取り外されている。

2011年12月、国防機器支援局はBAEシステムズと5年のプロジェクトマネジメントを契約した。また、この契約には10年への延長オプションがついており、総額で1600万ポンドにも上る復元費用をかけてマストや索具の補修、側板取り換えや火災防止対策の追加等が予定されている。この計画はトラファルガーの海戦から帰還してから、ヴィクトリーが受ける最も広範囲な改装になるとされている[80][81]

この契約が締結された後、2012年3月5日にヴィクトリーの所有権が国防省から、英国国立海軍博物館の一部であるヴィクトリー保存団体に移されるという大きな変化があった[82]。この移動に伴って海軍のウェブサイトによると、ゴスリング財団によって新しい団体へ2500万ポンドもの資本費補助が行われることが告知された[83]

旗艦とした提督の一覧

[編集]

2世紀に渡って、数々の提督がヴィクトリーに提督旗を掲げた。

提督一覧
提督名 乗艦日 退艦日
オーガスタス・ケッペル 1778年5月16日 1778年10月28日
チャールズ・ハーディー 1779年3月19日 1780年5月14日
フランシス・グレイ 1780年5月24日 1780年8月28日
フランシス・ウィリアム・ドレーク 1780年9月26日 1780年12月29日
ハイド・パーカー (5代準男爵) 1781年3月20日 1781年5月31日
ジョン・エリオット 1781年6月 1781年8月
リチャード・ケンペンフェルト 1781年9月10日 1782年3月11日
リチャード・ハウ 1782年4月20日 1782年11月14日
リチャード・ハウ 1790年7月 1790年8月
サミュエル・フッド 1790年8月 1791年8月
ハイド・パーカー 1793年2月6日 1793年5月
サミュエル・フッド 1793年5月6日 1794年12月15日
ロバート・マン 1795年7月8日 1795年9月27日
ロバート・リンジー 1795年10月 1795年11月
ジョン・ジャーヴィス 1795年12月3日 1797年3月30日
ホレーショ・ネルソン 1803年5月8日 1805年10月21日
ジェームズ・ソマーレズ 1808年3月18日 1808年12月9日
グラハム・モーア 1808年12月 1809年1月23日
ジェームズ・ソマーレズ 1809年4月8日 1809年12月
ジェームズ・ソマーレズ 1810年3月11日 1810年12月3日
ジョセフ・シドニー・ヨーク 1810年12月 1811年3月
ジェームズ・ソマーレズ 1811年4月2日 1811年12月25日
ジェームズ・ソマーレズ 1812年4月14日 1812年10月15日
入渠 1812年12月18日 1824年1月31日
マイケル・シーモア (初代準男爵) 1824年
退役 1827年4月30日 1831年10月21日
港湾司令官 (en) の旗艦となる。
フレデリック・ルイス・メイトランド 1832年
ダンコム・プレイデル・ボブリエ 1837年
ハイド・パーカー (3世) 1842年
ウィリアム・ヘンリー・シュリッフ 1847年
チャールズ・オグル 1848年3月20日 1848年12月19日
トーマス・カペル 1848年12月20日 1851年12月19日
トーマス・ブリッジス 1851年12月20日 1853年3月19日
トーマス・ジョン・コクラン 1854年3月20日 1856年3月19日
ジョージ・シーモア 1856年3月20日 1859年3月19日
ウィリアム・ボールス 1859年3月20日 1860年3月19日
ヘンリー・ウィリアム・ブルース 1860年3月20日 1864年12月19日
マイケル・シーモア 1864年12月20日 1866年3月19日
トーマス・サビーン・パースリー 1866年3月20日 1869年3月20日
戦列艦デューク・オブ・ウェリントンの支援母艦となる。 1869年12月20日 1891年9月1日
リチャード・ミード 1891年8月1日 1894年9月17日
ノーウェル・サーモン 1894年9月18日 1897年8月31日
マイケル・カルム・シーモア 1897年9月1日 1900年11月17日
チャールズ・フレデリック・ホザム 1900年11月18日 1903年9月30日
ジョン・アーバスノット・フィッシャー 1903年10月1日 1904年3月18日
港湾司令官の旗艦が装甲艦ハーキュリーズに移る。

1905年2月1日には旗艦がファイアクイーンに移る。

アーチボルド・ルシアス・ダグラス 1905年3月18日 1907年3月1日
デイ・ボーザンケット 1907年3月2日 1908年3月17日
アーサー・ダーリンプル・ファンシャーウ 1908年3月18日 1910年4月30日
アッシュトン・カーゾン・ハウ 1910年5月1日 1911年3月17日
アーサー・ムーア 1911年3月18日 1912年7月31日
ヘドワース・ミュー 1912年8月1日 1916年2月17日
スタンリー・コルヴィル 1916年2月18日 1919年4月17日
セシル・バーニー 1919年4月18日 1920年6月17日
サマーセット・ゴフ・キャルソープ 1920年6月18日 1923年5月31日
シドニー・フリーマントル 1923年6月1日 1926年4月1日
オスモンド・ブロック 1926年5月18日 1929年4月30日
ロジャー・キーズ 1929年5月1日 1931年6月17日
アーサー・ワイステル 1931年6月18日 1934年2月17日
ジョン・ケリー 1931年2月18日 1936年8月31日
ウィリアム・ボイル 1937年8月18日 1939年6月30日
ウィリアム・ジェームズ 1939年7月1日 1942年9月30日
チャールズ・リトル 1942年10月1日 1945年9月28日
ジェフリー・レイトン 1945年9月29日 1947年6月29日
ブルース・フレーザー 1947年6月30日 1949年4月18日
アルジャーノン・ウィリス 1949年4月19日 1950年10月17日
アーサー・パワー 1950年10月18日 1952年10月17日
ジョン・エデルステン 1952年10月18日 1954年10月17日
ジョージ・クリーシー 1954年10月18日 1957年7月17日
ガイ・グラントハム 1957年7月18日 1959年7月17日
マンリー・ローレンス・パワー 1959年7月18日 1962年1月17日
アレクサンダー・ビングリー 1962年1月18日 1963年1月17日
ウィルフリッド・ウッド 1963年1月18日 1965年9月9日
バリル・ベッグ 1965年9月10日 1966年6月9日
フランク・ホプキンス 1966年6月10日 1967年10月30日
ジョン・フレウェン 1967年10月31日 1970年2月27日
ホレイス・ロー 1970年2月28日 1972年2月28日
アンドリュー・ルイス 1972年2月29日 1974年6月29日
デレック・エンプソン 1974年6月30日 1975年10月30日
テレンス・レウィン 1975年10月31日 1976年10月30日
デヴィッド・ウィリアムス 1976年10月31日 1978年10月30日
リチャード・クレイトン 1978年10月31日 1981年6月30日
ジェームス・エバリー 1981年7月1日 1983年12月31日
デズモンド・カシディ 1983年1月1日 1984年10月30日
ピーター・スタンフォード 1984年10月31日 1987年10月30日
サンディ・ウッドワード 1987年10月31日 1989年10月30日
ジェレミー・ブラック 1989年10月31日 1991年3月30日
ジョン・カー 1991年3月31日 1993年3月30日
マイケル・レヤード 1993年3月31日 1994年3月30日
マイケル・ボイス 1994年3月31日 1997年3月30日
ジョン・ブリグストック 1997年3月31日 2000年1月18日
ピーター・スペンサー 2000年1月19日 2003年1月28日
ジェームズ・バーネル・ニュージェント 2003年1月29日 2005年10月25日
エイドリアン・ジョンズ 2005年10月25日 2008年7月15日
アラン・マジー 2008年7月15日 2010年7月19日
チャールズ・モントゴメリー 2010年7月19日 2012年10月9日
マーク・スタンホープ 2012年10月9日 2013年4月9日
ジョージ・ザンベラス 2013年4月9日 2016年4月8日
フィリップ・ジョーンズ 2016年4月8日 現在

登場作品

[編集]
WORLD WAR Z
海外小説。全世界でゾンビが発生し、あらゆる艦船がゾンビで溢れた陸地から逃げるために外洋へと出て難民船と化す中、ヴィクトリーもまた難民船と化して登場する。
戦艦少女R
艦船擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクターがNPCとして登場する。
パズルガールズ
艦船擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクターがプレイアブルキャラクターとして登場する。
御城プロジェクト:RE〜CASTLE DEFENSE〜
城擬人化ゲーム。ヴィクトリーを擬人化したキャラクター「戦列艦 ヴィクトリー号」がプレイアブルキャラクターとして登場する。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 世界の三大記念艦は、イギリス海軍ヴィクトリー」、アメリカ海軍コンスティチューション」、大日本帝国海軍「三笠」[2]
  2. ^ ジョージ・クラークの『The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)』(2016年)のデータに基づくイギリス消費者物価インフレーション率より計算。MeasuringWorth.com
  3. ^ 英国海軍法の厳密な表現では、全ての人員は 「海上で勤務しなければならない ("... must serve afloat") 」とされ、陸軍空軍の関連法規では「陸上、若しくは海上で勤務できる ("... men can serve ashore or afloat") 」とされる違いがある。

出典

[編集]
  1. ^ Lavery, Ships of the Line, vol. 1, p. 175.
  2. ^ 世界の三大記念艦”. (公財)三笠保存会. 2019年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月4日閲覧。
  3. ^ Mckay (2000) p.9
  4. ^ Christopher (2010) p.16
  5. ^ Christopher (2010) pp.15 & 16
  6. ^ Christopher (2010) pp.17 & 20
  7. ^ Stilwell (2005) p.145
  8. ^ English/British Naval History to 1815: A Guide to the Literature. p. 129. https://books.google.com/books?id=D4oNNsTdvEoC&pg=PA129&dq=HMS+Victory+mirabilis&hl=en&sa=X&ei=ZiZfVYXaHYevsAWMmoGQDA&ved=0CDQQ6AEwBA#v=onepage&q=HMS%20Victory%20mirabilis&f=false 
  9. ^ a b Service Life”. HMS-Victory. 1 October 2013閲覧。
  10. ^ a b Christopher (2010) p.19
  11. ^ Eastland & Ballantyne (2011) p.15 & 16
  12. ^ Christopher (2010) pp. 20–21
  13. ^ Christopher (2010) p.21
  14. ^ 7790000 GBP to JPY Conversion”. 2015 Currency Converter X. 4 June 2017閲覧。
  15. ^ a b Facts & Figures”. HMS-Victory. 1 May 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。27 April 2012閲覧。
  16. ^ Kennedy, Maev (22 February 2015). “How HMS Victory nearly never made it to the Battle of Trafalgar”. The Guardian. https://www.theguardian.com/culture/2015/feb/22/how-hms-victory-nearly-never-made-it-to-the-battle-of-trafalgar 22 February 2015閲覧。 
  17. ^ Christopher (2010) p.20
  18. ^ a b c d e f Winfield (2007) p.6
  19. ^ Armament”. HMS-Victory. 1 October 2013閲覧。
  20. ^ Dull (2009) p.101
  21. ^ Rodger (2005) pp. 336–337
  22. ^ a b c Christopher (2010) p.38
  23. ^ Christopher (2010) p.42
  24. ^ Clowes, William Laird, et al. The royal navy: a history from the earliest times to the present, Volume 3
  25. ^ Sayer, Capt Frederick The history of Gibraltar and of its political relation to events in Europe ... pp. 398–403. Saunders, Otley & Co., 1862
  26. ^ Wharton, Capt. W. J. L. A short history of HMS Victory pp. 12–15. Griffin & Co, 1884
  27. ^ a b c Willis (2013) p.91
  28. ^ Wilson (2013) p.399
  29. ^ a b Willis (2013) p.90
  30. ^ Vincent (2003) p.180
  31. ^ Willis (2013) p.102
  32. ^ Vincent (2003) p.163
  33. ^ Eastland & Ballantyne (2011) p.19
  34. ^ Willis (2013) pp. 102–103
  35. ^ Willis (2013) pp.104,105 & 109
  36. ^ a b Eastland & Ballantyne (2011) p.20
  37. ^ a b c Christopher (2010) p.43
  38. ^ Gossett (1986), pp. 23-4.
  39. ^ Christopher (2010) pp. 43–44
  40. ^ Christopher (2010) p.85
  41. ^ a b c Stilwell (2005) p.149
  42. ^ Winfield (2005) p.194
  43. ^ White (2005), pp.33-4.
  44. ^ Best (2005) pp. 109–110
  45. ^ Best (2005) pp. 115–116
  46. ^ Best (2005) p.121
  47. ^ Best (2005) pp. 135–137
  48. ^ Best (2005) pp. 143–144
  49. ^ Best (2005) p.144
  50. ^ Best (2005) pp. 169–170
  51. ^ Best (2005) pp.189 & 192
  52. ^ Best (2005) p.199
  53. ^ Best (2005) p.206
  54. ^ Best (2005) p.154
  55. ^ Stilwell (2005) pp. 178–179
  56. ^ Stilwell (2005) p.181
  57. ^ Best (2005) p.285
  58. ^ Warwick. Voices from the Battle of Trafalgar. pp. 200–1 
  59. ^ Best (2005) p.295
  60. ^ Stilwell (2005) p.159
  61. ^ Christopher (2010) pp. 99–100
  62. ^ Christopher (2010) pp. 101–104
  63. ^ Christopher (2010) p.106
  64. ^ a b Christopher (2010) p.107
  65. ^ Eastland & Ballantyne (2011) p.28
  66. ^ The First Signal Schools”. Royal Naval Communications Association. 5 October 2013閲覧。
  67. ^ a b Christopher (2010) p.111
  68. ^ Christopher (2010) p.112
  69. ^ Christopher (2010) p.113
  70. ^ a b c Christopher (2010) p.114
  71. ^ Sarton, George (1946), "Floating Docks in the Sixteenth Century", Isis 36 (3/4): 153–154
  72. ^ Christopher (2010) pp. 114–115
  73. ^ Christopher (2010) p.115
  74. ^ David Prudames (1 July 2004). “HMS Victory's Reconstructed Grand Magazine Is Unveiled”. Culture 24. 5 November 2013閲覧。
  75. ^ Trafalgar Sail”. Portsmouth Historic Dockyard. 2013年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月15日閲覧。
  76. ^ Appendix B – Historic fleet core collection”. First Annual Report April 2006 – March 2007. National Historic Ships Register. p. 46. 7 November 2013閲覧。
  77. ^ “HMS Victory handed to First Sea Lord in Portsmouth”. BBC News. (10 October 2012). http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-hampshire-19896257 12 October 2012閲覧。 
  78. ^ “Victory welcomes 25 millionth visitor”. Southern Daily Echo. (15 October 2013). http://www.dailyecho.co.uk/heritage/news/10015441.Victory_welcomes_25_millionth_visitor/ 15 October 2013閲覧。 
  79. ^ Lt Cdr B J Cmith”. Royal Navy. 1 February 2016閲覧。
  80. ^ HMS Victory to be restored”. UK Government (2 December 2011). 15 October 2013閲覧。
  81. ^ HMS Victory at Portsmouth Dockyard in £16m restoration”. BBC Hampshire and Isle of Wight (1 December 2011). 13 October 2013閲覧。
  82. ^ Heritage – HMS Victory”. Royal Navy. 28 December 2015閲覧。
  83. ^ £50million boost for HMS Victory”. 28 December 2015閲覧。

参照

[編集]
  • Best, Nicholas (2005). Trafalgar – The Untold Story of the Greatest Sea Battle in History. London: The Orion Publishing Group Ltd. ISBN 0-297-84622-1 
  • Christopher, John (2010). The HMS Victory Story. Stroud: The History Press. ISBN 978-0-7524-5605-8 
  • Dull, Jonathan R. (2009). The Age of the Ship of the Line. Barnsley: Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84832-549-4 
  • Eastland, Jonathan; Ballantyne, Iain (2011). HMS Victory – First Rate 1765. Barnsley: Seaforth Publishing, Pen and Sword Books. ISBN 978-1-84832-094-9 
  • Lavery, Brian (2003) The Ship of the Line Volume 1: The development of the battlefleet 1650–1850. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-252-8.
  • Longridge, Charles. N. The Anatomy of Nelson's Ships. Naval Institute Press. ISBN 0-87021-077-7 
  • MacDougall, Philip (1987). The Chatham Dockyard Story. Meresborough Books. ISBN 0-948193-30-1 
  • McKay, John (2000). The 100-Gun Ship Victory. Anova Books Ltd.. ISBN 978-1-84486-223-8 
  • Rodger, N.A.M (2005). The Command of the Ocean. London: Penguin Books. ISBN 0-14-028896-1 
  • Stilwell, Alexander (2005). The Trafalgar Companion. Oxford: Osprey Publishing. ISBN 1-84176-835-9 
  • Vincent, Edgar (2003). Nelson: Love & Fame. London: Yale University Press. ISBN 0-300-10260-7 
  • Warwick, Peter. Voices from the Battle of Trafalgar. David & Charles. ISBN 0-7153-2000-9 
  • Willis, Sam (2013). In the Hour of Victory – The Royal Navy at War in the Age of Nelson. London: Atlantic Books Ltd. ISBN 978-0-85789-570-7 
  • Wilson, Ben (2013). Empire of the Deep. London: Weidenfeld & Nicolson. ISBN 978-0-297-86408-0 
  • Winfield, Rif (2007) British Warships in the Age of Sail 1714–1792: Design, Construction, Careers and Fates. Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84415-700-6.
  • Winfield, Rif (2005) British Warships in the Age of Sail 1793–1817: Design, Construction, Careers and Fates. Seaforth Publishing. ISBN 978-1-84415-717-4.

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]