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「占守 (海防艦)」の版間の差分

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|名称 = 占守
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|画像説明 = 終末公試中の占守<br/>([[1940年]]6月、日比沖)
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|運用者 = {{navy|Empire of Japan}}<br/>[[File:Flag of Japan.svg|25px|border]] [[第二復員省]]/[[復員庁]]<br/>{{navy|Soviet Union}}
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|建造費 = 3,060,000円(予算成立時の価格)
|建造費 = 3,060,000円(予算成立時の価格)
|要目注記 = 併記無き限り竣工時
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|種別 = [[海防艦]](大日本帝国海軍)<br/>[[復員輸送艦|特別輸送艦]](第二復員省/復員庁)
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|公試排水量 = 1,020トン
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|航続距離 = 16ノットで8,000海里
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軍艦'''占守'''(しむしゅ)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[海防艦]]<ref name="寺崎奮戦242占守">[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]242-244頁『占守(しむしゅ)』</ref><ref name="S14達190">[[#達昭和14年11月]]p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及昭和十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣 吉田善吾  株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシユ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』</ref>。
軍艦'''占守'''(しむしゅ)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[海防艦]]<ref name="寺崎奮戦242占守">[[#寺崎、補助艦艇|補助艦艇奮戦記]]242-244頁『占守(しむしゅ)』</ref><ref name="S14達190">[[#達昭和14年11月]]p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及昭和十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣 吉田善吾 株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシユ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
軍艦'''占守'''(しむしゅ)は、日本海軍海防艦<ref name="S14達190"/>。艦名は[[占守島]]に由来する<ref>[[#占守電探|占守電探室]]45頁</ref>。
軍艦(ぐんかん)'''占守'''(しむしゅ)は、日本海軍が1938年(昭和13年)11月から1940年(昭和15年)6月にかけて建造した海防艦<ref name="S14達190" /><ref name="福井補助150">[[#福井著作10|日本補助艦艇物語]]150-152頁『軍艦籍を離れた新海防艦』</ref><ref name="福井補助181">[[#福井著作10|日本補助艦艇物語]]181-184頁『海防艦占守について』</ref>。艦名は[[占守島]]に由来する<ref>[[#占守電探|占守電探室]]45頁</ref><ref>[[#写真七|写真日本の軍艦7巻]]192頁『艦名の由来―海防艦―島嶼名』</ref>。
竣工時は軍艦籍にあった<ref name="占守電探47">[[#占守電探|占守電探室]]47-48頁</ref><ref name="写真七196">[[#写真七|写真日本の軍艦7巻]]196-197頁『鈴木範樹、海防艦と御紋章』</ref><ref group="注釈">ここでの「軍艦」とは軍隊に属する艦船の意ではなく、日本海軍内での艦艇の分類の一つである。[[軍艦#旧日本海軍における規定]]も参照。</ref>。
竣工時は軍艦籍にあったが<ref name="占守電探47">[[#占守電探|占守電探室]]47-48頁</ref>、[[1942年]](昭和17年)7月の見直しで<ref name="S17達192">[[#達昭和17年7月(1)]]p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』</ref><ref name="S17内令1178">[[#内令昭和17年1月(1)]]pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>、'''海防艦'''占守に名称変更<ref name="S17達192"/>、および類別変更された<ref name="S17内令1186"/>。
だが[[1942年]](昭和17年)7月の見直しで<ref name="S17達192">[[#達昭和17年7月(1)]]p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』</ref><ref name="S17内令1178">内令昭和17年1月(1)pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>、'''海防艦'''(かいぼうかん)占守(しむしゅ)に名称変更<ref name="S17達192" /><ref group="注釈">ここでの「海防艦」とは日本海軍内での艦艇の分類の一つであり、日本海軍内での分類が「軍艦」から「海防艦」へと変更されたということである。一般的にはこれ以前も海防艦として扱われる。</ref>、および類別変更された<ref name="S17内令1186" />。
海防艦としては、[[占守型海防艦]]の1番艦である<ref name="S17内令1186">[[#内令昭和17年1月(1)]]pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』</ref>。北方警備を目的として開発された艦級であるが、本艦は[[太平洋戦争]]終盤まで東南アジア方面で活動した<ref name="占守電探47"/>。
海防艦としては、[[占守型海防艦]]の1番艦である<ref name="S17内令1186">内令昭和17年1月(1)pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』</ref>。
北方警備を目的として開発された艦級であるが<ref>[[#福井著作10|日本補助艦艇物語]]98-99頁『(1)占守型』</ref><ref name="写真七212">[[#写真七|写真日本の軍艦7巻]]212-213頁『◇占守型◇』</ref>、占守型4隻のうち本艦のみ[[太平洋戦争]]終盤まで東南アジア方面で活動した<ref name="福井補助150" /><ref name="写真七194">[[#写真七|写真日本の軍艦7巻]]194頁(占守写真解説)</ref>。


[[太平洋戦争]]開戦時の占守は[[南遣艦隊]]に所属して、東南アジア方面での船団護衛任務に従事<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。第一南遣艦隊へ改編後も、同艦隊に所属して船団護衛任務や対潜掃蕩任務に従事した。[[1943年]](昭和18年)12月下旬に[[海上護衛隊|第一海上護衛隊]]へ編入され、引続き船団護衛任務に従事した<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。
[[太平洋戦争]]開戦時の占守は[[南遣艦隊]]に所属して、[[マレー作戦]]や[[蘭印作戦]]における船団護衛任務に従事([[南方作戦]])<ref name="寺崎奮戦242占守" /><ref name="福井補助150" />。第一南遣艦隊へ改編後も、同艦隊に所属して船団護衛任務や対潜掃蕩任務に従事した。[[1943年]](昭和18年)12月下旬に[[海上護衛隊|第一海上護衛隊]]へ編入され、引続き船団護衛任務に従事した<ref name="寺崎奮戦242占守" />。
[[1944年]](昭和19年)10月下旬[[南西方面艦隊]]の指揮下に入る<ref name="S1908第一海護(3)7">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|十月二十七日|沖縄 占守 第十一号海防艦 第十三号海防艦 南西方面艦隊作戰指揮ニ編入』</ref>。本艦は11月上旬から中旬にかけて[[多号作戦]]に従事、生還した<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。
[[1944年]](昭和19年)2月中旬、占守は[[ヒ40船団]]を護衛、米潜水艦の襲撃でヒ40船団は大損害を受けた<ref>[[#S1902護衛対潜|昭和19年2月、経過(護衛対潜)]]p.9(昭和19年2月19日)</ref>。
同年10月下旬[[南西方面艦隊]]の指揮下に入る<ref name="S1908第一海護(3)7">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|十月二十七日|沖縄 占守 第十一号海防艦 第十三号海防艦 南西方面艦隊作戰指揮ニ編入』</ref>。占守は11月上旬から中旬にかけて[[多号作戦]]に従事、生還した<ref name="寺崎奮戦242占守" />。
フィリピン方面で行動中の11月25日、米潜水艦の魚雷攻撃により損傷<ref name="寺崎奮戦242占守"/><ref name="S1908第一海護(4)9">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.9『(ハ)艦艇被害(中略)(11)占守被雷小破 占守ハ「ラブアン」発「マニラ」ニ向ケ航行中二十五日敵潜ノ雷撃ヲ受ケ小破セリ』</ref>。第一海上護衛隊に復帰後<ref name="S1908第一海護(4)7">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|二十六日|新南 第四十一号海防艦 第六十六号海防艦 當隊編入/占守 第十三号海防艦 南西方面部隊作戰指揮ニ編入中ノ處當隊ヘ復皈』</ref>、内地に帰投して修理を行った<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。
フィリピン方面で行動中の11月25日、米潜水艦の魚雷攻撃により損傷<ref name="寺崎奮戦242占守" /><ref name="S1908第一海護(4)9">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.9『(ハ)艦艇被害(中略)(11)占守被雷小破 占守ハ「ラブアン」発「マニラ」ニ向ケ航行中二十五日敵潜ノ雷撃ヲ受ケ小破セリ』</ref>。第一海上護衛隊に復帰後<ref name="S1908第一海護(4)7">[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|二十六日|新南 第四十一号海防艦 第六十六号海防艦 當隊編入/占守 第十三号海防艦 南西方面部隊作戰指揮ニ編入中ノ處當隊ヘ復皈』</ref>、内地に帰投して修理を行った<ref name="寺崎奮戦242占守" /><ref name="写真七194" />。この際、喪失した艦首を[[丙型海防艦]]と同型にした<ref name="写真七212" />。

[[1945年]](昭和20年)4月10日、[[特設護衛船団司令部#護衛戦隊一覧|第一〇四戦隊]]に編入され、[[北海道]]方面で行動<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。[[終戦]]後、復員輸送に従事したのち[[ソビエト連邦]]に引き渡された<ref name="寺崎奮戦242占守"/>。
[[1945年]](昭和20年)4月10日、[[特設護衛船団司令部#護衛戦隊一覧|第一〇四戦隊]]に編入され、[[北海道]]方面で行動<ref name="寺崎奮戦242占守" />。[[終戦]]後、復員輸送に従事した<ref>[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]269-270頁『特別輸送艦としての海防艦』</ref>。[[1947年]](昭和22年)に[[ソビエト連邦]]へ引き渡された<ref name="寺崎奮戦242占守" /><ref>[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]274-275頁『四カ国に賠償として(昭和二十二年)』</ref>。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 竣工まで ===
=== 竣工まで ===
占守は、[[マル3計画]]の1,200トン型海防艦<ref group="注釈">予算要求時の排水量。実際には900トン型として設計され、300トン分の予算×同型4隻分は[[大和型戦艦]]に流用したとされる</ref>、仮称艦名第9号艦として計画。
占守は、[[計画]]の1,200トン型海防艦<ref name="写真七212" /><ref group="注釈">予算要求時の排水量。実際には900トン型として設計され、300トン分の予算×同型4隻分は[[大和型戦艦]]に流用したとされる</ref>、仮称艦名第9号艦として計画<ref name="福井補助181" /><ref>[[#福井著作10|日本補助艦艇物語]]142-144頁『新海防艦の計画』</ref>
[[1938年]](昭和13年)[[11月29日]]、[[三井造船|玉造船所]]で建造番号262番船<ref>『三井造船株式会社75年史』、p. 816</ref>として起工<ref name="要目占守">[[#艦艇類別等級表(S16.06.30)]]p.19『艦名:占守|艦種:海防艦|長(米):74.80|幅(米):9.08|喫水(米):2.73|排水量(噸)(基準)860|速力(節)19.7|短艇數:4|製造所:玉造船所|起工年月日:昭和13-11-29|進水年月日:昭和14-12-13|竣工年月日:昭和15-6-30|主要兵装 大砲:12c/m…3|發射管:―|探照燈:―|機械 種類 數:「デイゼル」2|推進器數:2|馬力:4,500|備考: |』</ref>。
[[1938年]](昭和13年)[[11月29日]]、[[三井E&S|玉造船所]]で建造番号262番船<ref>『三井造船株式会社75年史』、p. 816</ref>として起工<ref name="写真七212" /><ref name="要目占守">[[#艦艇類別等級表(S16.06.30)]]p.19『艦名:占守|艦種:海防艦|長(米):74.80|幅(米):9.08|喫水(米):2.73|排水量(噸)(基準)860|速力(節)19.7|短艇數:4|製造所:玉造船所|起工年月日:昭和13-11-29|進水年月日:昭和14-12-13|竣工年月日:昭和15-6-30|主要兵装 大砲:12c/m…3|發射管:―|探照燈:―|機械 種類 數:「デイゼル」2|推進器數:2|馬力:4,500|備考: |』</ref>。
[[1939年]](昭和14年)[[11月6日]]、日本海軍は玉造船所で建造中の本艦を占守(シムシュ)、[[藤永田造船所]]で建造する駆逐艦を[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]](ウラカゼ)と命名する<ref name="S14達190"/>。同年[[12月13日]]、占守は進水<ref name="要目占守"/>。
[[1939年]](昭和14年)[[11月6日]]、日本海軍は玉造船所で建造中の本艦を占守(シムシュ)、[[藤永田造船所]]で建造する駆逐艦を[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]](ウラカゼ)と命名する<ref name="S14達190" />。同年[[12月13日]]、占守は進水<ref name="福井補助181" /><ref name="要目占守" />。


[[1940年]](昭和15年)[[2月2日]]、日本海軍は駆逐艦複数隻([[羽風 (駆逐艦)|羽風]]、[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]])艦長を歴任した[[荘司喜一郎]]中佐(前職、潜水母艦[[祥鳳 (空母)|剣埼]]副長)を、占守艤装員長に任命する<ref name="jirei436">{{アジア歴史資料センター|C13072077700|昭和15年2月5日(発令2月2日付)海軍辞令公報(部内限)第436号 p.5}}</ref>。
[[1940年]](昭和15年)[[2月2日]]、日本海軍は駆逐艦複数隻([[羽風 (駆逐艦)|羽風]]、[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]])艦長を歴任した[[荘司喜一郎]]中佐(前職、潜水母艦[[祥鳳 (空母)|剣埼]]副長)を、占守艤装員長に任命する<ref name="jirei436">{{アジア歴史資料センター|C13072077700|昭和15年2月5日(発令2月2日付)海軍辞令公報(部内限)第436号 p.5}}</ref>。
[[2月7日]]、玉造船所内に設置された占守艤装員事務所は、事務を開始する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070386500|昭和15年2月13日(火)海軍公報(部内限)第3428号 p.4}}『○事務所設置 軍艦蒼鷹艤装員事務所ヲ兵庫縣赤穂郡相生町播磨造船所内ニ設置シ二月八日ヨリ事務ヲ開始セリ|軍艦占守艤装員事務所ヲ岡山縣兒島郡日比町玉造船所内ニ設置シ二月七日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。
[[2月7日]]、玉造船所内に設置された占守艤装員事務所は、事務を開始する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070386500|昭和15年2月13日(火)海軍公報(部内限)第3428号 p.4}}『○事務所設置 軍艦蒼鷹艤装員事務所ヲ兵庫縣赤穂郡相生町播磨造船所内ニ設置シ二月八日ヨリ事務ヲ開始セリ|軍艦占守艤装員事務所ヲ岡山縣兒島郡日比町玉造船所内ニ設置シ二月七日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。
[[6月30日]]、竣工<ref name="要目占守"/>。荘司喜一郎中佐は占守艦長となる<ref name="jirei499">{{アジア歴史資料センター|C13072078400|昭和15年7月1日(発令6月30日付)海軍辞令公報(部内限)第499号 p.9}}</ref>。主な初代幹部は、砲術長岡村幸雄大尉、航海長小松乃生盛中尉、機関長小澤重嗣機関大尉<ref name="jirei499"/>。竣工にともない、占守艤装員事務所は撤去された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389000|昭和15年7月2日(火)海軍公報(部内限)第3542号 p.10}}『○事務所撤去 占守艤装員事務所ハ六月三十日撤去セリ』</ref>。本籍を[[舞鶴鎮守府]]に定められる。
[[6月30日]]、竣工<ref name="福井補助181" /><ref name="要目占守" />。荘司喜一郎中佐は占守艦長となる<ref name="jirei499">{{アジア歴史資料センター|C13072078400|昭和15年7月1日(発令6月30日付)海軍辞令公報(部内限)第499号 p.9}}</ref>。主な初代幹部は、砲術長岡村幸雄大尉、航海長小松乃生盛中尉、機関長小澤重嗣機関大尉<ref name="jirei499" />。竣工にともない、占守艤装員事務所は撤去された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389000|昭和15年7月2日(火)海軍公報(部内限)第3542号 p.10}}『○事務所撤去 占守艤装員事務所ハ六月三十日撤去セリ』</ref>。本籍を[[舞鶴鎮守府]]に定められる<ref name="福井補助181" /><ref name="写真7占守年表">[[#写真七|写真日本の軍艦7巻]]232頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表〕(◇占守(しむしゅ)◇)</ref>


=== 軍艦占守 ===
=== 軍艦占守 ===
[[1940年]](昭和15年)[[7月15日]]、占守は[[遣支艦隊#第二遣支艦隊|第二遣支艦隊]](司令長官[[高須四郎]]中将)に編入。10月15日、荘司喜一郎中佐(占守艦長)は第一水雷隊司令へ転任(後日、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]艦長として、同艦沈没時に戦死)<ref name="jirei543"/>。後任の占守艦長は、有村不二中佐(当時、水路部部員)となる<ref name="jirei543">{{アジア歴史資料センター|C13072079000|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27(澤本頼雄中将、補第二遣支艦隊長官)、<!--p.31古木百蔵大佐免34dg司令&第一水雷隊司令、補白沙特務艦長 -->p.33荘司免職、p.34有村補職}}</ref>。また占守機関長も小澤重嗣大尉(戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]分隊長補職)から[[大迫吉二]]機関中尉(当時、戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]勤務)に交代した<ref name="jirei543弐">{{アジア歴史資料センター|C13072079100|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27小澤免職、p.29大迫補職}}</ref>。
[[1940年]](昭和15年)[[7月15日]]、占守は[[遣支艦隊#第二遣支艦隊|第二遣支艦隊]](司令長官[[高須四郎]]中将)に編入<ref name="福井補助181" /><ref name="写真7占守年表" />。舞鶴を出撃し、東南アジア方面に進出した<ref name="写真7占守年表" /><ref name="木俣海防17">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]17-18頁『開戦前後の海防艦』</ref>。北方海域での運用を想定していた占守は<ref>[[#大井2014|角川、海上護衛戦]]98-99頁</ref>、通風装置こそ備えていたものの、南方では非常に暑い艦だったという<ref name="福井補助181" /><ref>[[#福井著作10|日本補助艦艇物語]]153-154頁『おソマツな対潜兵装』</ref>
10月15日、荘司喜一郎中佐(占守艦長)は第一水雷隊司令へ転任(後日、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]艦長として、同艦沈没時に戦死)<ref name="jirei543" />。後任の占守艦長は、有村不二中佐(当時、水路部部員)となる<ref name="jirei543">{{アジア歴史資料センター|C13072079000|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27(澤本頼雄中将、補第二遣支艦隊長官)、<!--p.31古木百蔵大佐免34dg司令&第一水雷隊司令、補白沙特務艦長 -->p.33荘司免職、p.34有村補職}}</ref>。また占守機関長も小澤重嗣大尉(戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]分隊長補職)から[[大迫吉二]]機関中尉(当時、戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]勤務)に交代した<ref name="jirei543弐">{{アジア歴史資料センター|C13072079100|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27小澤免職、p.29大迫補職}}</ref>。


[[1941年]](昭和16年)1月14日、第二遣支艦隊司令長官[[沢本頼雄]]中将は<ref name="jirei543"/>、旗艦を重巡洋艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]から占守に変更する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070392900|昭和16年1月17日(金)海軍公報(部内限)第3699号 p.13}}『○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十四日将旗ヲ一時占守ニ移揚セリ』</ref>。16日、第二遣支艦隊旗艦は占守から足柄に戻った<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070392900|昭和16年1月20日(月)海軍公報(部内限)第3701号 p.27}}『○将旗復歸 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十六日将旗ヲ足柄ニ復歸セリ』</ref>。
[[1941年]](昭和16年)1月14日、第二遣支艦隊司令長官[[沢本頼雄]]中将は<ref name="jirei543" />、旗艦を重巡洋艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]から占守に変更する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070392900|昭和16年1月17日(金)海軍公報(部内限)第3699号 p.13}}『○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十四日将旗ヲ一時占守ニ移揚セリ』</ref>。16日、第二遣支艦隊旗艦は占守から足柄に戻った<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070392900|昭和16年1月20日(月)海軍公報(部内限)第3701号 p.27}}『○将旗復歸 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十六日将旗ヲ足柄ニ復歸セリ』</ref>。
日本軍の[[仏印進駐]]に伴い、占守はベトナム方面(ハノイ、カムラン湾、サイゴン)での海岸警備任務<ref name="福井補助181" />や、フランスの極東艦隊([[ラモット・ピケ (軽巡洋艦)|ラモット・ピケ ]]等)の行動を監視した<ref name="木俣海防18">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]18-20頁『占守 ベトナムで監視』</ref>。


{{Main|南遣艦隊}}
{{Main|南遣艦隊}}


同年[[7月31日]]、日本海軍は'''南遣艦隊'''を新編する(司令長官[[平田昇]]中将)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081600|昭和16年7月31日(発令7月31日付)海軍辞令公報(部内限)第681号 p.49}}</ref>南遣艦隊旗艦は、[[香取型練習巡洋艦]]3番艦[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]指定された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070396500|昭和168月6日(水)海軍公報(部内限)第3864号 p.47}}『○将旗掲揚 南遣艦隊司令長官ハ八月二日将旗ヲ香椎ニ掲揚セリ』</ref>。9月5日、占守機関長は大迫吉二大尉(補、駆逐艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]機関長。のちに[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]初代機関長)<ref name="jirei705">{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月5日(発令9月5日付)海軍辞令公報(部内限)第705号 p.50}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090900|昭和18年5月10日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1111号 p.34}}</ref>から竹田武晴機関中尉(当時、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]分隊長)に交代<ref name="jirei705"/>。
同年[[7月31日]]南遣艦隊新編され(司令長官[[平田昇]]中将)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081600|昭和16年7月31日(発令7月31日付)海軍辞令公報(部内限)第681号 p.49}}</ref>、「占守」も南遣艦隊に編入された<ref name="写真7占守表" />。
9月5日、占守機関長は大迫吉二大尉(補、駆逐艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]機関長。のちに[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]初代機関長)<ref name="jirei705">{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月5日(発令9月5日付)海軍辞令公報(部内限)第705号 p.50}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090900|昭和18年5月10日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1111号 p.34}}</ref>から竹田武晴機関中尉(当時、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]分隊長)に交代<ref name="jirei705" />。


当時の南遣艦隊は、軍艦2隻(香椎、占守)および特設砲艦、設営隊、小規模地上部隊のみという規模だった<ref name="回想提督25">[[#回想の提督]]25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』</ref>。しかし日米開戦が決定的になると、日本海軍は南遣艦隊を一挙に増強する<ref name="回想提督25"/>。10月18日、[[小沢治三郎]]中将は南遣艦隊司令長官に任命される<ref name="回想提督25"/><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072082900|昭和16年10月20日(発令10月18日付)海軍辞令公報(部内限)第732号 pp.13-14}}</ref>。
編成直後の南遣艦隊は、軍艦2隻(香椎、占守)および特設砲艦、設営隊、小規模地上部隊のみという規模だった<ref name="回想提督25">[[#回想の提督]]25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』</ref>。しかし日米開戦が決定的になると、日本海軍は南遣艦隊を一挙に増強した<ref name="回想提督25" />。10月18日、[[小沢治三郎]]中将は南遣艦隊司令長官に任命される<ref name="回想提督25" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072082900|昭和16年10月20日(発令10月18日付)海軍辞令公報(部内限)第732号 pp.13-14}}</ref>。


{{Main|南方作戦}}
{{Main|南方作戦}}
{{Main|マレー作戦}}
太平洋戦争緒戦では「占守」と練習巡洋艦「[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]」で馬来部隊の第二護衛隊を編成し、[[マレー半島]]上陸に参加した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、358-359ページ</ref>。第二護衛隊はタイ南部のナコンなどに上陸する宇野支隊を乗せた船団を護衛して12月5日にサンジャックを出発<ref name="sen24 407">戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、407ページ</ref>。一方、[[シンゴラ]]、[[コタバル]]へ向かう船団も12月4日に三亞より出撃しており、両船団はいったん合流した後分離しそれぞれの目的地へと向かった<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、380、393-394、407ページ</ref>。「占守」は「善洋丸」と「三池丸」と共にナコンへ向かい、12月8日0時30分ごろにパクパーン川河口北東に入泊<ref name="sen24 407"/>。上陸部隊はナコンを占領した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、408ページ</ref>。


続いて「占守」は第三水雷戦隊の一部や「香椎」などと共に第一護衛隊を編成し<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、508ページ</ref>、第二次マレー上陸に参加した。上陸部隊および「占守」などは12月13日に[[カムラン湾]]を出発し、12月15日にシンゴラ・パタニ方面とシンゴラ方面へ向かうものに分かれた<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、511、516ページ</ref>。「占守」は「香椎」や軽巡洋艦「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」などとともにシンゴラ・パタニ方面行きであった<ref name="sen24 516">戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、516ページ</ref>。12月16日に輸送船は目的地に着き、揚陸が開始された<ref name="sen24 516"/>。
太平洋戦争直前の南遣艦隊(馬来部隊)は、重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](南遣艦隊司令長官[[小沢治三郎]]中将/馬来部隊指揮官)、練習巡洋艦香椎、海防艦'''占守'''以下、第七戦隊(司令官[[栗田健男]]少将:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])、第三水雷戦隊(司令官[[橋本信太郎]]少将:旗艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、第11駆逐隊《[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]、[[吹雪 (吹雪型駆逐艦)|吹雪]]》、第12駆逐隊《[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]]、[[東雲 (吹雪型駆逐艦)|東雲]]》、第19駆逐隊《[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]》)、第四潜水戦隊(司令官[[吉富説三]]少将:《軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、特設潜水母艦[[名古屋丸]]》、第18潜水隊、第19潜水隊、第21潜水隊)、第五潜水戦隊(司令官[[醍醐忠重]]少将:《軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、特設潜水母艦[[りおでじゃねろ丸]]》、第28潜水隊、第29潜水隊、第30潜水隊、第9潜水隊)、第12航空戦隊([[山陽丸 (特設水上機母艦)|山陽丸]]、[[神川丸 (特設水上機母艦)|神川丸]])、第22航空戦隊([[元山海軍航空隊]]、[[美幌海軍航空隊]])、第9根拠地隊([[初鷹 (急設網艦)|初鷹]])、工作艦[[朝日 (戦艦)|朝日]]等の『寄せ集め部隊』に膨れ上がっていた<ref name="回想提督25" /><ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]](付図第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。


12月末からは第二護衛隊の一隻として第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、557-558ページ</ref>。第二護衛隊は「占守」と「香椎」、軽巡洋艦「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」および駆逐艦14隻からなっていた<ref name="sen24 558">戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、558ページ</ref>。「占守」は「香椎」および駆逐艦2隻と共に「[[黒潮丸]]」を護衛して12月24日にカムラン湾を発ち馬公へ向かった<ref name="sen24 558"/>。12月31日に船団は馬公より出発<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、561ページ</ref>。1942年1月3日、船団中の「明光丸」(明治海運、4,383トン)が爆発事故を起こして沈没<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ、日本海防艦戦史、22ページ</ref>。「明光丸」には落下傘部隊である第一挺進団第一連隊約1500名が乗っていたが船員も含めて全員が救助された<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ</ref>。「占守」は180名を収容した<ref>日本海防艦戦史、22ページ</ref>。1月7日に船団は分離され、「占守」と「香椎」および駆逐艦2隻はバンコクへ向かう船団を護衛<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、563ページ</ref>。1月9日に船団はバンコクに到着した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、564ページ</ref>。
{{Main|マレー作戦}}

上記作戦中の[[1942年]](昭和17年)1月3日に南遣艦隊は[[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]]と改名されている<ref name="jirei787">{{アジア歴史資料センター|C13072083800|昭和17年1月5日(発令1月3日付)海軍辞令公報(部内限)第787号 p.3}}</ref>。

1月24日からは「[[初鷹 (急設網艦)|初鷹]]」、第九十一駆潜隊、第四十四掃海隊などとともに[[アナンバス諸島|アナンバス]]基地占領作戦に参加<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、597-598ページ</ref>。特に抵抗を受けることもなく作戦は完了した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、598ページ</ref>。

1月下旬、「占守」と第一掃海隊は[[マレー沖海戦]]で沈没したイギリス戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」と巡洋戦艦「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」の沈没位置確認を命じられ、2月2日(2月1日<ref>日本海防艦戦史、23ページ</ref>)に「占守」は「プリンス・オブ・ウェールズ」の沈没位置を確認した<ref>戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、483ページ</ref>。

2月中旬、占守は[[スマトラ島]]の[[パレンバン]]に到着<ref name="木俣海防23">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]23-24頁『陸軍上陸に協力した占守』</ref>。同都市を流れる[[ムシ川 (インドネシア)|ムシ川]]を遡行して機雷掃海作業を実施する<ref name="木俣海防23" />。さらに陸軍第三十八師団司令部を揚陸した<ref name="木俣海防23" />。


4月上旬までに、日本軍は当初の攻略目標をすべて占領<ref>[[#南方部隊経過]]p.22『カクシテ日本ノ南方攻略ノ主要段階ハ終ツタ。』</ref>。4月10日附連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動により、それまで第一南遣艦隊に編入されていた他部隊・艦艇は、新たな部隊や任地に転じることになった<ref name="叢書(26)668">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]668-669頁</ref>。
[[1941年]](昭和16年)12月8日の[[太平洋戦争]]開戦時、占守は[[マレー半島]]上陸船団を護衛する。
[[1942年]]昭和17年)1月3日、南遣艦隊は'''[[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]]'''と改名小沢治三郎長[[澤田虎夫]]参謀長以下留任)<ref name="jirei787">{{アジア歴史資料センター|C13072083800|昭和17年15日(発令13日付)海軍辞令公報(部内限)第787号 p.3}}</ref>。本艦は、引き続き[[蘭印作戦]]における船団護衛任務従事した。
<!--同日附で、第一南遣艦隊および、既に編成されていた第二南遣艦隊(3月10日、[[第三艦隊 (日本海軍)#五代(1941年4月10日新編〜1942年3月10日第二南遣艦隊へ改称)|第三艦隊]]より改編、司令長官[[高橋伊望]]中将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072084400|昭和17年310日(発令3月10付)海軍辞令公報(部内限)第824号 p.13}}</ref>。旗艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]])第三南遣艦隊[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]](司令官[[井上保雄]]中将)<ref name="jirei841">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年410日(発令410日付)海軍辞令公報(部内限)第841号 p.13}}</ref><ref>[[#叢書46海上護衛戦]]115頁『第一海上護衛隊』</ref>より、'''[[南西方面艦隊]]'''(司令長官[[高橋伊望]]中将《第二南遣艦隊長官兼務》)<ref name="jirei841" />が編制された。-->
4月上旬までに、日本軍は当初の攻略目標をすべて占領。4月10日附連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動により、それまで第一南遣艦隊に編入されていた他部隊・艦艇は、新たな部隊や任地に転じることになった<ref name="叢書(26)668">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]668-669頁</ref>。
同日附で、第一南遣艦隊および、既に編制されていた第二南遣艦隊(3月10日、[[第三艦隊 (日本海軍)#五代(1941年4月10日新編〜1942年3月10日第二南遣艦隊へ改称)|第三艦隊]]より改編、司令長官[[高橋伊望]]中将<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072084400|昭和17年3月10日(発令3月10日付)海軍辞令公報(部内限)第824号 p.13}}</ref>。旗艦[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]])、第三南遣艦隊、[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]](司令官[[井上保雄]]中将)<ref name="jirei841">{{アジア歴史資料センター|C13072085100|昭和17年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第841号 p.13}}</ref><ref>[[#叢書46海上護衛戦]]115頁『第一海上護衛隊』</ref>により、'''[[南西方面艦隊]]'''(司令長官[[高橋伊望]]中将《第二南遣艦隊長官兼務》)<ref name="jirei841" />が編制された。


4月12日、小沢治三郎中将(第一南遣艦隊長官)は、第一南遣艦隊旗艦を鳥海から香椎に変更する<ref>[[#1KF日誌.1|第1南遣艦隊日誌(1)]]p.10『3.馬來部隊機動部隊ハ四月十一日昭南皈着十二日旗艦ヲ鳥海ヨリ香椎ニ変更7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)ハ四月十三日昭南發内地ニ皈還セシム』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070411300|昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.43}}『○旗艦變更 第一南遣艦隊司令長官ハ四月十二日旗艦ヲ香椎ニ變更セリ』</ref>。各艦艇(鳥海、由良、第三水雷戦隊、第七戦隊、龍驤)等は、それぞれ内地へ帰投した<ref name="叢書(26)668" /><ref>[[#1KF日誌.1|第1南遣艦隊日誌(1)]]p.39『四月十三日|一七〇〇|7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)馬來部隊指揮官ノ指揮下ヲ離レ昭南發内地ニ皈還ス』</ref>。
4月12日、小沢治三郎中将(第一南遣艦隊長官)は、第一南遣艦隊旗艦を鳥海から香椎に変更する<ref>[[#1KF日誌.1|第1南遣艦隊日誌(1)]]p.10『3.馬來部隊機動部隊ハ四月十一日昭南皈着十二日旗艦ヲ鳥海ヨリ香椎ニ変更7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)ハ四月十三日昭南發内地ニ皈還セシム』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070411300|昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.43}}『○旗艦變更 第一南遣艦隊司令長官ハ四月十二日旗艦ヲ香椎ニ變更セリ』</ref>。各艦艇(鳥海、由良、第三水雷戦隊、第七戦隊、龍驤)等は、それぞれ内地へ帰投した<ref name="叢書(26)668" /><ref>[[#1KF日誌.1|第1南遣艦隊日誌(1)]]p.39『四月十三日|一七〇〇|7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)馬來部隊指揮官ノ指揮下ヲ離レ昭南發内地ニ皈還ス』</ref>。
その後、香椎・占守・第5駆逐隊([[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]、[[朝風 (2代神風型駆逐艦)|朝風]]、[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]《5月5日附で第5駆逐隊より除籍》<ref>[[#内令昭和17年5月(1)]]p.31『内令第七百九十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年五月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第五驅逐隊ノ項中「、旗風」ヲ削ル』</ref>)・一部の掃海艇や根拠地隊は小沢長官直率の主隊となり<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.3-6『三、令達報告 機密馬來部隊命令作第二一號 第二段第一期作戰馬來部隊兵力部署』</ref><ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.7-11『五月二十日 機密馬來部隊命令作第二二號 第二段第二期作戰馬來部隊兵力部署』</ref>、[[シンガポール]]のセレター軍港を根拠地として<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.24『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』</ref>、[[オランダ領東インド]]の攻略や[[ビルマ国|ビルマ]]方面の[[護送船団|船団護衛]]に従事した<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.37『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。
その後、香椎・占守・第5駆逐隊([[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[春風 (2代神風型駆逐艦)|春風]]、[[朝風 (2代神風型駆逐艦)|朝風]]、[[旗風 (駆逐艦)|旗風]]《5月5日附で第5駆逐隊より除籍》<ref>[[#内令昭和17年5月(1)]]p.31『内令第七百九十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年五月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第五驅逐隊ノ項中「、旗風」ヲ削ル』</ref>)・一部の掃海艇や根拠地隊は小沢長官直率の主隊となり<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.3-6『三、令達報告 機密馬來部隊命令作第二一號 第二段第一期作戰馬來部隊兵力部署』</ref><ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.7-11『五月二十日 機密馬來部隊命令作第二二號 第二段第二期作戰馬來部隊兵力部署』</ref>、[[シンガポール]]のセレター軍港を根拠地として<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.24『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』</ref>、[[オランダ領東インド]]の攻略や[[ビルマ国|ビルマ]]方面の[[護送船団|船団護衛]]に従事した<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.37『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref name="木俣海防23" />。
同方面には、巡洋艦複数隻(軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]《1943年7月1日まで》<ref name="S1803十六S(6)p64">[[#S18.03第16戦隊日誌(6)]]p.64『一日(天候略)一八.七.一 大井 北上16Sニ編入 名取ハ16Sヨリ除カル』</ref> 、軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]《1942年4月10日、第十戦隊へ》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.15『四.一〇 16Sヨリ長良ヲ除キ五十鈴ヲ編入』</ref>、[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]《1942年4月10日編入、翌年4月1日に第十四戦隊へ》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.14『18|4|1|14S編成 (旗艦)那珂、五十鈴』</ref>、軽巡[[球磨 (軽巡洋艦)|球磨]]《1942年9月25日編入》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.15『九.二五 16Sヨリ五十鈴ヲ除キ球磨ヲ編入』</ref>、軽巡[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]と[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]《2隻とも1943年7月1日編入》<ref name="S1803十六S(6)p64"/><ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.16『七.一 16Sヨリ名取ヲ除キ大井、北上ヲ編入』</ref>、重巡[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]《1943年8月26日臨時編入、9月20日正式編入》<ref>[[#S18.08第16戦隊日誌(1)]]p.7『二六|一六一〇|足柄及第十九駆逐隊一時警戒部隊ニ編入セラル(南西方面部隊電令作第一三七號)』</ref><ref>[[#S18.08第16戦隊日誌(2)]]p.8『二十日 足柄及第十九駆逐隊、第十六戰隊ニ編入』</ref>)を主力とする第十六戦隊も展開していた<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]pp.15-17『16S』</ref>。
同方面には、巡洋艦複数隻(軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]《1943年7月1日まで》<ref name="S1803十六S(6)p64">[[#S18.03第16戦隊日誌(6)]]p.64『一日(天候略)一八.七.一 大井 北上16Sニ編入 名取ハ16Sヨリ除カル』</ref> 、軽巡[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]《1942年4月10日、第十戦隊へ》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.15『四.一〇 16Sヨリ長良ヲ除キ五十鈴ヲ編入』</ref>、[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]《1942年4月10日編入、翌年4月1日に第十四戦隊へ》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.14『18|4|1|14S編成 (旗艦)那珂、五十鈴』</ref>、軽巡[[球磨 (軽巡洋艦)|球磨]]《1942年9月25日編入》<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.15『九.二五 16Sヨリ五十鈴ヲ除キ球磨ヲ編入』</ref>、軽巡[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]と[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]《2隻とも1943年7月1日編入》<ref name="S1803十六S(6)p64" /><ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.16『七.一 16Sヨリ名取ヲ除キ大井、北上ヲ編入』</ref>、重巡[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]《1943年8月26日臨時編入、9月20日正式編入》<ref>[[#S18.08第16戦隊日誌(1)]]p.7『二六|一六一〇|足柄及第十九駆逐隊一時警戒部隊ニ編入セラル(南西方面部隊電令作第一三七號)』</ref><ref>[[#S18.08第16戦隊日誌(2)]]p.8『二十日 足柄及第十九駆逐隊、第十六戰隊ニ編入』</ref>)を主力とする第十六戦隊も展開していた<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]pp.15-17『16S』</ref>。


=== 海防艦占守 ===
=== 海防艦占守 ===
[[1942年]](昭和17年)[[7月1日]]、艦艇類別等級の改正により占守は[[軍艦|軍艦籍]]より除籍<ref name="S17内令1178"/>。艦艇の[[海防艦]]となり、『海防艦 占守』([[占守型海防艦|海防艦占守型]])となる<ref name="S17達192"/><ref name="S17内令1186"/>。有村不二中佐(占守艦長)の職名も、占守海防艦長となる<ref name="S17海軍公報(部内限)4131">{{アジア歴史資料センター|C12070421700|昭和17年7月2日(木)海軍公報(部内限)第4131号 p.20}}『官房機密第八一八六號 本年達第百九二號艦種變更命名ノ際舊艦名ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ新艦種名ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年七月一日 海軍大臣』</ref>。
[[1942年]](昭和17年)[[7月1日]]、艦艇類別等級の改正により占守は[[軍艦|軍艦籍]]より除籍<ref name="S17内令1178" /><ref name="写真七196" />。艦艇の[[海防艦]]となり<ref name="福井補助150" />、『海防艦 占守』([[占守型海防艦|海防艦占守型]])となる<ref name="S17達192" /><ref name="S17内令1186" />。有村不二中佐(占守艦長)の職名も、占守海防艦長となる<ref name="S17海軍公報(部内限)4131">{{アジア歴史資料センター|C12070421700|昭和17年7月2日(木)海軍公報(部内限)第4131号 p.20}}『官房機密第八一八六號 本年達第百九二號艦種變更命名ノ際舊艦名ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ新艦種名ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年七月一日 海軍大臣』</ref>。
ひき続き舞鶴鎮守府に所属した<ref name="S17内令1179">[[#内令昭和17年1月(1)]]pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。
ひき続き舞鶴鎮守府に所属した<ref name="S17内令1179">内令昭和17年1月(1)pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。艦首の[[菊花紋章|菊花御紋章]]も外された<ref name="福井補助181" /><ref name="福井補助150" />。
7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢中将から[[大川内傳七]]中将に交代する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086200|昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50}}</ref><ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.35-36『二.人員ノ現状(一)司令部(イ)職員官氏名』</ref>。
7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢中将から[[大川内傳七]]中将に交代する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086200|昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50}}</ref><ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]pp.35-36『二.人員ノ現状(一)司令部(イ)職員官氏名』</ref>。
8月22日、占守海防艦長は有村不二中佐<!--横須賀鎮守府附-->から寺西武千代中佐<!--第一南遣艦隊司令部附-->にかわる<ref name="jirei927">{{アジア歴史資料センター|C13072086700|昭和17年8月25日(発令8月22日)海軍辞令公報(部内限)第928号 p.3}}</ref>。従来通り、本艦や第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は、東南アジア方面での船団護衛任務に従事する<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.51『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』</ref><ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.11『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和17年9月)</ref>。10月はシンガポールで修理と整備を実施した<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.28『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十七年十月 第一南遣艦隊』</ref>。
11月、戦線に復帰<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.37『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十七年十一月 第一南遣艦隊』</ref>。同月10日、占守機関長は竹田武晴大尉<!--佐世保鎮守府附-->から、重巡[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]分隊長の岡島健次郎大尉に交代(古鷹は前月の[[サボ島沖海戦]]で沈没)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088000|昭和17年11月10日(発令11月10日付)海軍辞令公報(部内限)第981号 p.21}}</ref>。後日、岡島は駆逐艦[[巻波 (駆逐艦)|巻波]](第31駆逐隊)機関長となった<ref name="jirei1085">{{アジア歴史資料センター|C13072090400|昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.24(前田憲夫大尉免巻波機関長)、p.25(岡島健次郎大尉補巻波機関長)}}</ref>。12月の占守は、護衛任務や対潜掃蕩任務に従事する<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.50『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和17年12月)</ref>。


8月中旬、占守はシンガポールで入渠、しばらく整備と修理に従事する<ref name="写真7占守年表" />。
[[1943年]](昭和18年)1月初頭の占守はシンガポールにて整備を実施、同月中旬より護衛任務に復帰する<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.15『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年1月)</ref>。任務従事中<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.27『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年2月)</ref>の2月11日、占守は第十特別根拠地隊の指揮下に入る<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.21『十一日 占守ヲ一時10aBa司令官ノ指揮下ニ入ル』</ref>。同月25日、占守の僚艦として活動していた第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は解隊された(各艦は[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]に編入)<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.15『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年1月)</ref><ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.21『二十五日 第五驅逐隊解隊サレ松風 朝風 春風ハ1KEgニ編入サル/愛國丸 護國丸 清澄丸 各搭載機及同関係者(清澄丸欠)ヲ10aSg司令官ノ指揮下ニ入ル/雁ヲ一時主隊ニ入ル』</ref>。
3月<ref>[[#1KF日誌.4|1南遣艦隊日誌(4)]]p.37『(ホ)麾下艦船隊ノ行動(昭和十八年三月)第一南遣艦隊』</ref>、4月<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.46『麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八月)第一南遣艦隊』</ref>、5<ref name="1KF日誌五p7">[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.7(二)麾下艦船部隊ノ行動 昭和十八年ノ五月 第一南遣艦隊』</ref>、6月<ref name="1KF日誌五p14">[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.14『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和186月)</ref>にかけて第十特別根拠地隊司令官の[[指揮 (軍事)|指揮]]下行動する<ref name="1KF日誌五p7"/>。船団護衛や対潜掃蕩並行して、[[タンベラン諸島]]の掃討などに従事した<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.35(二)麾下行動概要(1)(全略)/(2)(略)10aBg司令官ハ右ノ歸途 占守w7ヲ以テ「タンベラ」諸島ノ掃蕩ヲ實施セリ(以下略)』</ref>。6月下旬、第一南遣艦隊の指揮下に戻る<ref name="1KF日誌五p14"/>。7月、船団護衛に従事<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.23『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年7月)</ref>。
822日、占守海防艦長は有村不二中佐<!--横須賀鎮守府附-->から寺西武千代中佐<!--南遣艦隊司令附-->にかわる<ref name="jirei927">{{アジア歴史資料センター|C13072086700|昭和17825日(発令8月22日)海軍辞令公報(部内限)第928号 p.3}}</ref>。従来通り本艦や第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は、東南アジア方面での船団護衛任務に従事する<ref>[[#1KF日誌.2|第1南遣艦隊日誌(2)]]p.51四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』</ref><ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.11四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和179月)</ref>。10月はシンガポール修理整備を実施した<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.28四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十七年十月 第一南遣艦隊』</ref>。
11月、戦線に復帰<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.37『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十七年十一月 第一南遣艦隊』</ref>。同月10日、占守機関長は竹田武晴大尉<!--佐世保鎮守府附-->から、重巡[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]分隊長の岡島健次郎大尉に交代(古鷹は前月の[[サボ島沖海戦]]で沈没)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072088000|昭和17年11月10日(発令11月10日付)海軍辞令公報(部内限)第981号 p.21}}</ref>。後日、岡島は駆逐艦[[巻波 (駆逐艦)|巻波]](第31駆逐隊)機関長となった<ref name="jirei1085">{{アジア歴史資料センター|C13072090400|昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.24(前田憲夫大尉免巻波機関長)、p.25(岡島健次郎大尉補巻波機関長)}}</ref>。12月の占守は、護衛任務や対潜掃蕩任務に従事する<ref>[[#1KF日誌.3|第1南遣艦隊日誌(3)]]p.50『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和17年12月)</ref>。
8月1日、[[ビルマ国]]が成立([[日本占領時期のビルマ]])<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.27『(ハ)作戰指導(壱)八月一日「ビルマ」獨立 1KF長官 ビルマ國國郡代表間ニ軍事協定ヲ締結セリ(別紙参照)』</ref>。同時期の占守は、船団護衛や対潜哨戒任務に従事した<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.34『麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八年八月)第一南遣艦隊』</ref><ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.46『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年9月)</ref>。

[[1943年]](昭和18年)1月初頭の占守はシンガポールにて整備を実施、同月中旬より護衛任務に復帰する<ref name="#1">[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.15『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年1月)</ref>。任務従事中<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.27『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年2月)</ref>の2月11日、占守は第十特別根拠地隊の指揮下に入る<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.21『十一日 占守ヲ一時10aBa司令官ノ指揮下ニ入ル』</ref>。
同月25日、占守の僚艦として活動していた第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は解隊された(各艦は[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]に編入)<ref name="#1"/><ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.21『二十五日 第五驅逐隊解隊サレ松風 朝風 春風ハ1KEgニ編入サル/愛國丸 護國丸 清澄丸 各搭載機及同関係者(清澄丸欠)ヲ10aSg司令官ノ指揮下ニ入ル/雁ヲ一時主隊ニ入ル』</ref>。
3月<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.37『(ホ)麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八年三月)第一南遣艦隊』</ref>、4月<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.46『麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八年四月)第一南遣艦隊』</ref>、5月<ref name="1KF日誌五p7">[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.7『(二)麾下艦船部隊ノ行動 昭和十八年ノ五月 第一南遣艦隊』</ref>、6月<ref name="1KF日誌五p14">[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.14『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年6月)</ref>にかけて第十特別根拠地隊司令官の[[指揮 (軍事)|指揮]]下で行動する<ref name="1KF日誌五p7" />。船団護衛や対潜掃蕩と並行して、[[タンベラン諸島]]の掃討などに従事した<ref>[[#1KF日誌.4|第1南遣艦隊日誌(4)]]p.35『(二)麾下行動概要(1)(全略)/(2)(略)10aBg司令官ハ右ノ歸途 占守w7ヲ以テ「タンベラ」諸島ノ掃蕩ヲ實施セリ(以下略)』</ref>。6月下旬、第一南遣艦隊の指揮下に戻る<ref name="1KF日誌五p14" />。7月、船団護衛に従事<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.23『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年7月)</ref>。
8月1日、[[ビルマ国]]が成立([[日本占領時期のビルマ]])<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.27『(ハ)作戰指導(壱)八月一日「ビルマ」獨立 1KF長官 ビルマ國國郡代表間ニ軍事協定ヲ締結セリ(別紙参照)』</ref>。同時期の占守は、船団護衛や対潜哨戒任務に従事した<ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.34『麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八年八月)第一南遣艦隊』</ref><ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.46『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年9月)</ref>。
9月20日、第一南遣艦隊司令長官は[[大川内傳七]]中将から[[田結穣]]中将に交代<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093100|昭和18年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1220号 p.12}}</ref><ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.47『人員ノ現状(司令長官)中将|大川内傳七|九月二十七日退部/同|田結穣|九月二十七日着任』</ref>。
9月20日、第一南遣艦隊司令長官は[[大川内傳七]]中将から[[田結穣]]中将に交代<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093100|昭和18年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1220号 p.12}}</ref><ref>[[#1KF日誌.5|第1南遣艦隊日誌(5)]]p.47『人員ノ現状(司令長官)中将|大川内傳七|九月二十七日退部/同|田結穣|九月二十七日着任』</ref>。


10月、占守はシンガポールで整備と改修を実施した<ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.9『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年10月)</ref>。10月25日、占守海防艦長は寺西武千代大佐<!--横須賀鎮守府附--><ref name="jirei1246寺西">{{アジア歴史資料センター|C13072094000|昭和18年10月26日(発令10月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1246号 p.10}}</ref>から[[島村和猪]]大尉<!--第一南遣艦隊司令部附-->に交代した<ref name="jirei1246島村">{{アジア歴史資料センター|C13072093900|昭和18年10月25日(発令10月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1246号 p.43}}</ref>。
10月、占守はシンガポールで整備と改修を実施した<ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.9『麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年10月)</ref>。10月25日、占守海防艦長は寺西武千代大佐<!--横須賀鎮守府附--><ref name="jirei1246寺西">{{アジア歴史資料センター|C13072094000|昭和18年10月26日(発令10月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1246号 p.10}}</ref>から[[島村和猪]]大尉<!--第一南遣艦隊司令部附-->に交代した<ref name="jirei1246島村">{{アジア歴史資料センター|C13072093900|昭和18年10月25日(発令10月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1246号 p.43}}</ref>。
11月25日、第一南遣艦隊に重巡洋艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]](呉在泊中)が編入される<ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.23『(三)十一月二十五日附 青葉ヲ1KFニ編入サル』</ref><ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.26『(別表第一)麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年11月)</ref>。
11月25日、第一南遣艦隊に重巡洋艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]](呉在泊中)が編入される<ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.23『(三)十一月二十五日附 青葉ヲ1KFニ編入サル』</ref><ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.26『(別表第一)麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊』(昭和18年11月)</ref>。
[[12月20日]]、占守は[[海上護衛総司令部]][[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]](司令官[[中島寅彦]]中将)<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]p.15『二.人員ノ現状(一)司令部(イ)主要職員官氏名』</ref>に編入され、同隊指揮下で船団護衛任務に従事した<ref name="S1812-1KEg(1)5">[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]p.5『(二)我ガ軍ノ情況(イ)十二月十五日海防艦占守編入』</ref><ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.30『(三)十二月二十日附 占守ヲ1KFヨリ除キ 十二月二十三日附津軽ヲ西方部隊ニ編入サル』</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.12-14『(四)麾下艦舩部隊ノ行動/備考 複線ハ航海中(護衛任務從事中)ヲ示ス』(昭和18年12月)</ref>。
[[12月20日]]、占守は[[海上護衛総司令部]][[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]](司令官[[中島寅彦]]中将)<ref name="写真7占守年表" /><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]p.15『二.人員ノ現状(一)司令部(イ)主要職員官氏名』</ref>に編入され、同隊指揮下で船団護衛任務に従事した<ref name="S1812-1KEg(1)5">[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]p.5『(二)我ガ軍ノ情況(イ)十二月十五日海防艦占守編入』</ref><ref>[[#1KF日誌.6|第1南遣艦隊日誌(6)]]p.30『(三)十二月二十日附 占守ヲ1KFヨリ除キ 十二月二十三日附津軽ヲ西方部隊ニ編入サル』</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.12-14『(四)麾下艦舩部隊ノ行動/備考 複線ハ航海中(護衛任務從事中)ヲ示ス』(昭和18年12月)</ref>。


=== ヒ40船団 ===
=== ヒ40船団 ===
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{{Main|ヒ40船団}}
{{Main|ヒ40船団}}


[[1944年]](昭和19年)[[1月13日]]、占守は佐世保に帰投<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.10-13『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年1月)</ref>。[[1月15日]]から23日にかけて[[佐世保海軍工廠]]で整備と[[電波探知機]]設置工事をおこなった<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.5『(ホ)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 |占守|自一月十五日至一月二十三日|佐世保海軍工廠|機関整備、電波探知機増備工事』</ref>。
[[1944年]](昭和19年)[[1月13日]]、占守は佐世保に帰投<ref name="写真7占守年表" /><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.10-13『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年1月)</ref>。[[1月15日]]から23日にかけて[[佐世保海軍工廠]]で整備と[[電波探知機]]設置工事をおこなった<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.5『(ホ)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 |占守|自一月十五日至一月二十三日|佐世保海軍工廠|機関整備、電波探知機増備工事』</ref>。
1月26日より『[[ヒ39船団]]』を護衛<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.21『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年一月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。2月13日1600、ヒ40船団を護衛して昭南(シンガポール)を出航、門司に向かう<ref name="komamiya139140">駒宮(1987)、139-140頁。</ref><ref name="2014大井207">[[#大井2014|角川、海上護衛戦]]207-208頁</ref>。石油を満載した貴重なタンカー船団であったが、護衛は占守1隻のみだった<ref>[[#S19.02.15-02.22経過概要]]p.23〔19-2〕|19|0245-2335|油槽船×6ヲ以テ編成セルヒ40船團(護衛艦占守)ハ昭南ヨリ門司ニ向ケ航行中 南洋丸(5019t) 國栄丸(5154t) 一洋丸(5106t) 日輪丸(5162t)南支那海西沙群島ノ南東約200′附近ニ於テ相次デ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|菲蘭 民間|沈没』</ref>。
1月26日より『ヒ39船団』を護衛<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.21『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年一月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。2月13日1600、ヒ40船団を護衛して昭南を出航する<ref name="komamiya139140">駒宮(1987)、139-140頁。</ref>。護衛は本艦のみであった。2月19日朝、南シナ海上を航行中のヒ40船団は、米潜[[ジャック (潜水艦)|ジャック]](''USS Jack, SS-259'')に発見されてしまった。0442、[[逓信省]]標準TM型タンカーの南栄丸(日東汽船、5,019総トン)が魚雷2本を受け、大爆発を起こした後沈没した。さらに1TM型[[戦時標準船|戦時標準タンカー]]の国栄丸(日東汽船、5,155総トン)も魚雷2本を受けて沈没。残された船団は全速で退避するも、ジャックの追撃を受ける。同日1849、石油7,500トンを輸送中の逓信省標準TM型タンカーの一洋丸(浅野物産:5,106総トン)、同じく逓信省標準TM型タンカーの日輪丸(昭和タンカー:5,163総トン)を撃沈されてしまった<ref name="komamiya139140" />。占守は残存船2隻を率いて台湾東岸まで逃れた。その後ヒ45船団から分離した駆逐艦[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]が護衛に協力。しかし、汐風がヒ45船団に戻った後の2月24日0336、米潜[[グレイバック (SS-208)|グレイバック]](''USS Grayback, SS-208'')に発見される。敵潜水艦に気付いた[[浅間丸]]が警報を発し、1TL型戦時標準タンカーの南邦丸(飯野海運、10,033総トン)が威嚇のために応戦するも、0345に魚雷2本を受けて搭載していた石油に引火、炎上し沈没した。損傷した浅間丸だけとなったヒ40船団は、かろうじて台湾の[[高雄市|高雄]]に入港したところで、途中解散となった<ref name="komamiya139140" />。海防艦占守は、後続のヒ42船団に合流して[[基隆港]]まで護衛している<ref>[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]司令部 『昭​和​18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』 [[アジア歴史資料センター]] Ref.C08030140300 画像35-37枚目。</ref>。
[[2月19日]]朝、南シナ海上{{coor dm|14|28|N|114|27|E|}}を航行中のヒ40船団は<ref name="S1902船舶沈没p7">[[#S19.02船舶(沈没)|船舶被害(沈没)昭和19年2月]]p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|南栄丸|民間|五一〇九|〃(占守)|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』</ref>、米潜[[ジャック (潜水艦)|ジャック]](''USS Jack, SS-259'')に発見されてしまった<ref name="2014大井207" />。
0442、[[逓信省]]標準TM型タンカーの[[南栄丸]](日東汽船、5,019総トン)<ref name="S1902船舶沈没p7" />が魚雷2本を受け、大爆発を起こした後沈没した<ref>[[#喪失一覧(2)|昭和19年2月喪失]]p.40〔<ins>昭和19年2月(1944年)C</ins>〕『19|a.c|南栄丸|5,019|日東汽船|雷撃|南支那海星沙沖』</ref>。さらに1TM型[[戦時標準船|戦時標準タンカー]]の国栄丸(日東汽船、5,155総トン)<ref>[[#S19.02船舶(沈没)|船舶被害(沈没)昭和19年2月]]p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|國栄丸|〃(民間)|五一五四|〃(占守)|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』</ref>も撃沈される<ref>[[#喪失一覧(2)|昭和19年2月喪失]]p.40〔<ins>昭和19年2月(1944年)C</ins>〕『19|a.c|国栄丸|5,155|日東汽船|雷撃|南支那海星沙沖』</ref>。
残された船団は全速で退避するも、ジャックの追撃を受けた。
同日1849、石油7,500トンを輸送中の逓信省標準TM型タンカーの[[一洋丸]](浅野物産、5,106総トン)<ref>[[#S19.02船舶(沈没)|船舶被害(沈没)昭和19年2月]]p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|一洋丸(油)|菲蘭陸軍|五一〇六|占守|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』</ref><ref>[[#喪失一覧(2)|昭和19年2月喪失]]p.40〔<ins>昭和19年2月(1944年)C</ins>〕『19|c|一洋丸|5,106|淺野物産|雷撃|15-46N 115-57E』</ref>、同じく逓信省標準TM型タンカーの[[日輪丸]](昭和タンカー、5,163総トン)<ref>[[#S19.02船舶(沈没)|船舶被害(沈没)昭和19年2月]]p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|日輪丸|〃(民間)|五一六二|〃(占守)|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』</ref><ref>[[#喪失一覧(2)|昭和19年2月喪失]]p.40〔<ins>昭和19年2月(1944年)C</ins>〕『19|c|日輪丸|2,762|昭和タンカー|雷撃|15-46N 115-57E』</ref>を撃沈されてしまった<ref name="komamiya139140" />。
占守は残存船2隻を率いて台湾東岸まで逃れた。その後ヒ45船団から分離した駆逐艦[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]が護衛に協力。しかし、汐風がヒ45船団に戻った後の2月24日0336、米潜[[グレイバック (SS-208)|グレイバック]](''USS Grayback, SS-208'')に発見される。敵潜水艦に気付いた[[浅間丸]]が警報を発し、1TL型戦時標準タンカーの[[南邦丸]](飯野海運、10,033総トン)<ref>[[#喪失一覧(2)|昭和19年2月喪失]]p.41〔<ins>昭和19年2月(1944年)C</ins>〕『23|b|南邦丸|10,033|飯野海運|雷撃|24-20N 122-23E』</ref>が威嚇のために応戦するも、0345に魚雷2本を受けて搭載していた石油に引火、炎上し沈没した。
損傷した浅間丸だけとなったヒ40船団は、かろうじて台湾の[[高雄市|高雄]]に入港したところで、途中解散となった<ref name="komamiya139140" />。海防艦占守は、後続の[[ヒ42船団]]に合流して[[基隆港]]まで護衛している<ref>[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]司令部 『昭和18年12月1日~昭和19年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』 [[アジア歴史資料センター]] Ref.C08030140300 画像35-37枚目。</ref>。


以後、占守は内地と東南アジア間を往復して船団護衛任務に従事した<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.35-37『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年2月)</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.46『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年二月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
以後、占守は内地と東南アジア間を往復して船団護衛任務に従事した<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.35-37『(四)麾下艦船部隊ノ行動』(昭和19年2月)</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.46『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年二月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
3月、『ヒ48船団』の護衛に従事<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.55-57『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年3月)</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.71『舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年三月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
3月、『[[ヒ48船団]]』の護衛に従事<ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.55-57『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年3月)</ref><ref>[[#S18.12第一海上護衛隊日誌(2)]]p.71『舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年三月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
4月、空母[[海鷹 (空母)|海鷹]]他と共に『ヒ57船団』と『ヒ58船団』の護衛に従事<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年4月)</ref><ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]p.31『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年四月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
4月、空母[[海鷹 (空母)|海鷹]]他と共に『[[ヒ57船団]]』と『[[ヒ58船団]]』の護衛に従事<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年4月)</ref><ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]p.31『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年四月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。
内地帰投後の[[5月3日]]から5月18日にかけて<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年5月)</ref>、佐世保海軍工廠で電波探知機基礎工事<ref group="注釈">該当部の戦時日誌原文ママ。ただし、電波探知機の設置は同年1月に終了している</ref>と[[ソナー|水中探信儀]]の整流覆設置工事を行う<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(2)]]p.5『(二)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 |占守|自五月三日至五月十八日|仝右(佐世保海軍工廠)|電波探知機基礎工事、整流覆装備』</ref>。再び船団護衛任務に従事した。
内地帰投後の[[5月3日]]から5月18日にかけて<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(1)]]pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年5月)</ref>、佐世保海軍工廠で電波探知機基礎工事<ref group="注釈">該当部の戦時日誌原文ママ。ただし、電波探知機の設置は同年1月に終了している</ref>と[[ソナー|水中探信儀]]の整流覆設置工事を行う<ref>[[#S19.04第一海上護衛隊日誌(2)]]p.5『(二)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 |占守|自五月三日至五月十八日|仝右(佐世保海軍工廠)|電波探知機基礎工事、整流覆装備』</ref>。再び船団護衛任務に従事した。

[[9月5日]]、占守は母港の[[舞鶴港]]に帰投<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.9『(o)修理艦船 占守整備工事ノ爲九月五日入港九月二十七日工事完成出港/呂號第四十九潜水艦 九月八日緊急整備工事完成出港』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.35『五(天候略)一六四〇占守修理ノ爲入港(以下略)』</ref>。[[舞鶴海軍工廠]]で[[電波探信儀]]の整備<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.39『一〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装工事ニ着手外(以下略)』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.46『二〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装完成(以下略)』</ref>、[[九七式曲射歩兵砲|迫撃砲]]の設置<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.38『九(天候略)(略)工廠工事 占守迫撃砲装備工事ニ着手(以下略)』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.47『二一(天候略)(略)工廠工事(略)占守迫撃砲装備工事/東州丸應急用器材搭載工事完成(以下略)』</ref>、[[エンジン|主機械]]の分解検査を行う<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(2)]]p.10『(三)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』</ref>。9月27日、舞鶴を出撃<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.51『二七(天候略)一六〇〇占守出撃(以下略)』</ref><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.27-29『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ三)』</ref>。船団護衛任務に復帰した<ref>[[#占守電探|占守電探室]]51-53頁『11 さらば故郷の山川』</ref>。
[[9月5日]]、占守は母港の[[舞鶴港]]に帰投<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.9『(o)修理艦船 占守整備工事ノ爲九月五日入港九月二十七日工事完成出港/呂號第四十九潜水艦 九月八日緊急整備工事完成出港』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.35『五(天候略)一六四〇占守修理ノ爲入港(以下略)』</ref>。[[舞鶴海軍工廠]]で[[電波探信儀]]の整備<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.39『一〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装工事ニ着手外(以下略)』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.46『二〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装完成(以下略)』</ref>、[[九七式曲射歩兵砲|迫撃砲]]の設置<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.38『九(天候略)(略)工廠工事 占守迫撃砲装備工事ニ着手(以下略)』</ref><ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.47『二一(天候略)(略)工廠工事(略)占守迫撃砲装備工事/東州丸應急用器材搭載工事完成(以下略)』</ref>、[[エンジン|主機械]]の分解検査を行う<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(2)]]p.10『(三)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』</ref>。9月27日、舞鶴を出撃<ref>[[#S19.09舞鎮日誌]]p.51『二七(天候略)一六〇〇占守出撃(以下略)』</ref><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(2)]]pp.27-29『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ三)』</ref>。船団護衛任務に復帰した<ref>[[#占守電探|占守電探室]]51-53頁『11 さらば故郷の山川』</ref>。
『モマ04船団』を護衛して10月26日にマニラへ到着<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]p.56『別表第三 舩団護衛状況(台湾航路)昭和十九年十月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。翌日の10月27日、海防艦4隻([[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、占守、第11号海防艦、第13号海防艦)は[[南西方面艦隊]]の作戦指揮下に入った<ref name="S1908第一海護(3)7"/><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]pp.35-37『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ四)』</ref>。
10月12日、第七船団司令官[[松山光治]]少将([[第一次ソロモン海戦]]時の第十八戦隊司令官)指揮下の海防艦4隻(占守《旗艦》、[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、[[第十一号海防艦|第11号海防艦]]、[[第十三号海防艦|第13号海防艦]])は、貨物船4隻からなる『モマ04船団』を護衛して[[呉淞区|呉淞]]([[上海市]])を出発する<ref name="木俣海防89">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]89-90頁『占守、沖縄ら ほとぼりのさめるのを待つ』</ref>。[[台湾沖航空戦]]を回避するため、適宜待機<ref name="木俣海防89" />。10月20日、船団は上海を出発<ref name="木俣海防89" />。10月26日、モマ04船団はマニラに到着した<ref name="木俣海防89" /><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]p.56『別表第三 舩団護衛状況(台湾航路)昭和十九年十月 第一海上護衛隊司令部』</ref>。翌日の10月27日、海防艦4隻(占守、沖縄、11号、13号)は[[南西方面艦隊]]の作戦指揮下に入った<ref name="S1908第一海護(3)7" /><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(3)]]pp.35-37『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ四)』</ref>。


=== 多号作戦 ===
=== 多号作戦 ===
{{Main|多号作戦}}
{{Main|多号作戦}}


[[1944年]](昭和19年)10月29日より、南西方面部隊指揮官[[三川軍一]]中将(南西方面艦隊司令長官)は[[レイテ島]]へのレイテ島増援輸送作戦を実施する('''多号作戦''')<ref name="戦場将器245">[[#戦場の将器]]245-246頁</ref>。[[レイテ沖海戦]]で大損害を受けた[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](志摩艦隊)や[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](栗田艦隊)の残存駆逐艦に加えて、第一海上護衛隊の4隻(占守、沖縄、第11号海防艦、第13号海防艦)も同任務に投入される<ref name="占守電探57">[[#占守電探|占守電探室]]57-59頁『13 決戦場レイテ島へ』</ref>。
[[1944年]](昭和19年)10月29日より、南西方面部隊指揮官[[三川軍一]]中将(南西方面艦隊司令長官)は[[レイテ島]]へのレイテ島増援輸送作戦を実施する('''多号作戦''')<ref name="戦場将器245">[[#戦場の将器]]245-246頁</ref>。[[レイテ沖海戦]]で大損害を受けた[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](志摩艦隊)や[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](栗田艦隊)の残存駆逐艦に加えて、第一海上護衛隊の4隻(占守、沖縄、第11号海防艦、第13号海防艦)も同任務に投入される<ref name="占守電探57">[[#占守電探|占守電探室]]57-59頁『13 決戦場レイテ島へ』</ref><ref name="木俣海防106">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]106-109頁『海防艦、レイテ島へ(十一月)』</ref>。
[[10月31日]]、多号作戦第二次輸送部隊(警戒部隊《[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〔第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(海兵41期)旗艦。一水戦参謀[[大迫吉二]]大佐は元占守機関長〕、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]》、[[松山光治]]少将指揮下の護衛部隊《[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、'''占守'''、海防艦11号、海防艦13号》、輸送船4隻《能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸》)<ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.1(昭和19年11月1日)</ref>としてマニラを出撃した<ref name="地獄レイテ32">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]32-37頁『最大規模の第二次輸送作戦』</ref>。
[[10月31日]]午前9時、多号作戦第二次輸送部隊(警戒部隊《[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〔第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(海兵41期)旗艦<ref name="木俣海防106" />。一水戦参謀[[大迫吉二]]大佐は元占守機関長〕、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]》、[[松山光治]]少将(海兵40期)指揮下の護衛部隊《'''占守'''〔松山少将旗艦〕、[[沖縄 (海防艦)|沖縄]]、海防艦11号、海防艦13号》、輸送船4隻《能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸》)<ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.1(昭和19年11月1日)</ref>としてマニラを出撃した<ref name="地獄レイテ32">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]32-37頁『最大規模の第二次輸送作戦』</ref>。
翌11月1日夕刻、輸送部隊は[[レイテ島]][[オルモック湾]]に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した<ref>『多号作戦戦闘詳報第一号』pp.15</ref><ref name="地獄レイテ32" />。だが輸送部隊は[[P-38 (航空機)|P-38]] と[[B-24 (航空機)|B-24]] の攻撃を受け、輸送船能登丸([[日本郵船]]、7,191トン)が沈没、駆逐艦[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]](第7駆逐隊)が損傷した<ref name="地獄レイテ32" /><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.1(昭和19年11月2日)</ref>。輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(霞座乗)はこれを見て、同日19時に部隊を出港させた<ref name="c">『多号作戦戦闘詳報第一号』pp.19</ref>。11月4日朝、輸送部隊はマニラに帰投した。なお11月1日附で南西方面艦隊司令長官は三川中将から[[大川内傳七]]中将にかわった<ref name="戦場将器245"/>。
[[11月1日]]夕刻、輸送部隊は[[レイテ島]][[オルモック湾]]に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した<ref name="木俣海防106" /><ref name="地獄レイテ32" />。だが輸送部隊は[[P-38 (航空機)|P-38]] と[[B-24 (航空機)|B-24]] の攻撃を受け、輸送船能登丸([[日本郵船]]、7,191トン)が沈没<ref>[[#喪失一覧(3)|昭和19年11月喪失]]p.25〔<ins>昭和19年11月(1944年)A</ins>〕『2|a|能登丸|7,191|日本郵船|空爆|レイテ島西岸オルモツク湾』</ref><ref name="木俣海防109">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]109-110頁『珍兵器・防空凧の登場』</ref>、駆逐艦[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]](第7駆逐隊)が損傷した<ref name="地獄レイテ32" /><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.1(昭和19年11月2日)</ref>。占守もP-38の機銃掃射で戦死者1名、負傷者15名を出す<ref name="木俣海防109" />。輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(霞座乗)はこれを見て、同日19時に部隊を出港させた<ref name="c">『多号作戦戦闘詳報第一号』pp.19</ref>。11月4日朝、輸送部隊はマニラに帰投した<ref name="木俣海防109" />。なお11月1日附で南西方面艦隊司令長官は三川中将から[[大川内傳七]]中将にかわった<ref name="戦場将器245" />。


[[11月5日]]、マニラ湾に対する大規模空襲により重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]](第五艦隊旗艦)が沈没<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.5『那智雷爆撃ヲ受ケ沈没』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.2(昭和19年11月5日)</ref>。駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]](第7駆逐隊)も大破した<ref>[[#地獄のレイテ輸送作戦]]37-38頁</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.9-10『…之ガ護衛警戒ノ為急遽出撃セル曙亦被弾火災航行不能トナレルヲ以テ敵上機最終引揚ノ機ヲ計ヒ1630所在麾下兵力〔霞、二十一駆(初春初霜)、潮〕ヲ率ヰ出港之ガ救援ニ任ズ』</ref>。
[[11月5日]]、マニラ湾に対する大規模空襲により重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]](第五艦隊旗艦)が沈没<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.5『那智雷爆撃ヲ受ケ沈没』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.2(昭和19年11月5日)</ref>。駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]](第7駆逐隊)も大破した<ref>[[#地獄のレイテ輸送作戦]]37-38頁</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.9-10『…之ガ護衛警戒ノ為急遽出撃セル曙亦被弾火災航行不能トナレルヲ以テ敵上機最終引揚ノ機ヲ計ヒ1630所在麾下兵力〔霞、二十一駆(初春初霜)、潮〕ヲ率ヰ出港之ガ救援ニ任ズ』</ref>。
そこで第二水雷戦隊所属の[[夕雲型駆逐艦]]2隻([[長波 (駆逐艦)|長波]]《第31駆逐隊》、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]《第2駆逐隊》)、第十戦隊所属の[[秋月型駆逐艦]]1隻([[若月 (駆逐艦)|若月]]《第61駆逐隊》)が加わり、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(海兵41期)<ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.3(昭和19年11月8日)</ref>が指揮する第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〔一水戦旗艦〕、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]》、第七護衛隊《司令官[[松山光治]]少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)は[[11月8日]]にマニラを出撃<ref name="多号経過6四次">[[#多号作戦経過概要]]p.6『四|香椎丸 金華丸 高津丸|第一水雷戰隊 (霞長波朝霜若月潮秋霜)海防艦(沖縄占守十一號十三號)|沈没 香椎丸高津丸海十一 損傷 秋霜金華丸|軍隊 泉兵團ノ主力約一〇,〇〇〇名|糧食 弾薬 遠距離砲/約三六〇〇 四門|ナシ|一一-九|一一-八「マニラ」發「オルモツク」突入 各船人員全部、物件ノ一部ノミ揚陸』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.7『第四次輸送部隊』</ref><ref name="地獄レイテ輸送38">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]38頁</ref>。
そこで第二水雷戦隊所属の[[夕雲型駆逐艦]]2隻([[長波 (駆逐艦)|長波]]《第31駆逐隊》、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]《第2駆逐隊》)、第十戦隊所属の[[秋月型駆逐艦]]1隻([[若月 (駆逐艦)|若月]]《第61駆逐隊》)が加わり、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将(海兵41期)<ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.3(昭和19年11月8日)</ref>が指揮する第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]〔一水戦旗艦〕、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]》、第七護衛隊《司令官[[松山光治]]少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)は[[11月8日]]にマニラを出撃する<ref name="多号経過6四次">[[#多号作戦経過概要]]p.6『四|香椎丸 金華丸 高津丸|第一水雷戰隊 (霞長波朝霜若月潮秋霜)海防艦(沖縄占守十一號十三號)|沈没 香椎丸高津丸海十一 損傷 秋霜金華丸|軍隊 泉兵團ノ主力約一〇,〇〇〇名|糧食 弾薬 遠距離砲/約三六〇〇 四門|ナシ|一一-九|一一-八「マニラ」發「オルモツク」突入 各船人員全部、物件ノ一部ノミ揚陸』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.7『第四次輸送部隊』</ref><ref name="地獄レイテ輸送38">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]38頁</ref>。
本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官、旗艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]])はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである<ref name="多号経過6三次">[[#多号作戦経過概要]]p.6『三|三笠丸(J)泰山丸(JYW)西豊丸( )天昭丸(JIVE)せれべす丸(JOED)|第二水雷戰隊 島風濱波初春竹掃三〇驅潜四六(註)第四次輸送部隊ト行會ヒタル際、長波朝霜若月加入初春及竹ハ分派ス|沈没 島風濱波若月長波掃三〇三笠丸泰山丸西豊丸天昭丸 坐礁(往途)せれべす丸|軍隊 泉兵團(第一二六師團)ノ一部約一,〇〇〇名|軍需品 糧食、弾薬 約七,五〇〇 ナシ|一一-一〇|一一-九「マニラ」發「オルモツク」突入準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモツク」灣口ニテ空襲ヲ受ケ全滅』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.3(昭和19年11月9日)</ref>。
本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官、旗艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]])はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである<ref name="多号経過6三次">[[#多号作戦経過概要]]p.6『三|三笠丸(J)泰山丸(JYW)西豊丸( )天昭丸(JIVE)せれべす丸(JOED)|第二水雷戰隊 島風濱波初春竹掃三〇驅潜四六(註)第四次輸送部隊ト行會ヒタル際、長波朝霜若月加入初春及竹ハ分派ス|沈没 島風濱波若月長波掃三〇三笠丸泰山丸西豊丸天昭丸 坐礁(往途)せれべす丸|軍隊 泉兵團(第一二六師團)ノ一部約一,〇〇〇名|軍需品 糧食、弾薬 約七,五〇〇 ナシ|一一-一〇|一一-九「マニラ」發「オルモツク」突入準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモツク」灣口ニテ空襲ヲ受ケ全滅』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.3(昭和19年11月9日)</ref>。第四次多号作戦において、松山少将は旗艦を占守から沖縄に変更した<ref name="木俣海防111">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]111-112頁『第四次多号輸送』</ref>。


翌[[11月9日]]夕方、第四次輸送部隊第一梯団は[[オルモック湾]]に到着<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『一八一五|沖縄誘導船團オルモック泊地ニ突入ス』</ref>。まもなく[[第一号型輸送艦]]3隻(6号、9号、10号)も到着した<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『一八三〇|第六、第九、第一〇號輸送艦オルモック泊地ニ突入ス』</ref>。だが[[大発動艇]]が揃わず(予定50隻中、使用可能5隻)<ref name="地獄レイテ輸送38" />、兵員しか陸揚げできなかった<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『二〇〇〇|揚搭用大発來ラズ船團揚搭進捗セズ』-『二三五〇|使用大発五隻程度ニシテ揚搭ノ見込タタズ筏ヲ以テスル揚搭及月出後海防艦及輸送艦ヲ以テスル人員物件ノ揚搭ヲ指令ス』</ref><ref name="戦場将器246">[[#戦場の将器]]246-249頁</ref>。
翌[[11月9日]]夕方、第四次輸送部隊第一梯団は[[オルモック湾]]に到着<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『一八一五|沖縄誘導船團オルモック泊地ニ突入ス』</ref>。まもなく[[第一号型輸送艦]]3隻(6号、9号、10号)も到着した<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『一八三〇|第六、第九、第一〇號輸送艦オルモック泊地ニ突入ス』</ref>。だが[[大発動艇]]が揃わず(予定50隻中、使用可能5隻)<ref name="地獄レイテ輸送38" />、海防艦を大発のかわりとしたものの<ref name="木俣海防111" />、兵員しか陸揚げできなかった<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.10『二〇〇〇|揚搭用大発來ラズ船團揚搭進捗セズ』-『二三五〇|使用大発五隻程度ニシテ揚搭ノ見込タタズ筏ヲ以テスル揚搭及月出後海防艦及輸送艦ヲ以テスル人員物件ノ揚搭ヲ指令ス』</ref><ref name="戦場将器246">[[#戦場の将器]]246-249頁</ref>。
第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、[[11月10日]]10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]pp.12-13『一〇三〇|高津丸香椎丸揚搭終了 沖縄海防十一海防十三護衛オルモック発 金華丸及占守稍遅ル三番隊ヲシテ警戒セシム』-『一一〇〇|金華丸占守揚搭終了オルモック発船團ニ追及ス』</ref>。だが間もなく[[B-25 (航空機)|B-25双発爆撃機]]約30機と[[P-38 (航空機)|P-38双発戦闘機]]等約100機の攻撃([[反跳爆撃]])を受けた<ref name="戦場将器246"/><ref name="地獄レイテ輸送41">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]41-43頁</ref>。
第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、[[11月10日]]10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう<ref name="戦場将器246" /><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]pp.12-13『一〇三〇|高津丸香椎丸揚搭終了 沖縄海防十一海防十三護衛オルモック発 金華丸及占守稍遅ル三番隊ヲシテ警戒セシム』-『一一〇〇|金華丸占守揚搭終了オルモック発船團ニ追及ス』</ref>。だが間もなく[[B-25 (航空機)|B-25双発爆撃機]]約30機と[[P-38 (航空機)|P-38双発戦闘機]]等約100機の攻撃([[反跳爆撃]])を受けた<ref name="木俣海防113">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]113-114頁</ref><ref name="地獄レイテ輸送41">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]41-43頁</ref>。
[[陸軍特船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸([[商船三井|大阪商船]]、8,407トン)<ref name="多号経過6四次" /><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.4(昭和19年11月10日)</ref>、海防艦11号(占守の僚艦)が沈没<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.7『(ハ)艦艇被害(3)第十一号海防艦被爆沈没 第十一号海防艦十日「オルモック」ニ於テ敵機ノ爆撃ヲ受ケ沈没セリ』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]pp.13-14『自一一二五至一一五〇|B-25三五機ト交戦 戦果 撃墜十數機/被害 高津丸沈没 海防十一 被弾大火災 香椎丸 被弾火災停止 三番隊ヲシテ香椎丸及海防十一ノ警戒ニ當ラシム』-『一二〇〇|霞ハ反轉被害船現場ニ向フ 香椎丸大火災トナリ續イテ爆沈ス 長波朝霜及六.九.一〇號輸送艦ヲ以テ人員ヲ救助セシム 一一海防艦大火災トナリ曳航ノ見込ミナク一三海防艦ニヨリ人員ヲ救助シ處分ヲ行フ(擱座ノ爲沈没スルニ至ラズ)』</ref>。占守も至近弾で若干の損傷を受けた<ref name="戦場将器246"/>。
[[陸軍特船]]高津丸(山下汽船、5,657トン)<ref name="多号経過6四次" />、輸送船香椎丸([[大阪商船]]、8,407トン)<ref name="木俣海防113" /><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.4(昭和19年11月10日)</ref>、海防艦11号が沈没(第13号海防艦により処分)<ref name="木俣海防113"/><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]p.7『(ハ)艦艇被害(3)第十一号海防艦被爆沈没 第十一号海防艦十日「オルモック」ニ於テ敵機ノ爆撃ヲ受ケ沈没セリ』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]pp.13-14『自一一二五至一一五〇|B-25三五機ト交戦 戦果 撃墜十數機/被害 高津丸沈没 海防十一 被弾大火災 香椎丸 被弾火災停止 三番隊ヲシテ香椎丸及海防十一ノ警戒ニ當ラシム』-『一二〇〇|霞ハ反轉被害船現場ニ向フ 香椎丸大火災トナリ續イテ爆沈ス 長波朝霜及六.九.一〇號輸送艦ヲ以テ人員ヲ救助セシム 一一海防艦大火災トナリ曳航ノ見込ミナク一三海防艦ニヨリ人員ヲ救助シ處分ヲ行フ(擱座ノ爲沈没スルニ至ラズ)』</ref>。占守も至近弾で若干の損傷を受けた<ref name="戦場将器246" />。
第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将は、麾下駆逐艦(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたる<ref name="地獄レイテ輸送41" />。占守以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた<ref name="戦場将器246"/><ref>木俣『日本水雷戦史』554ページ</ref>。
第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将は、麾下駆逐艦(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたる<ref name="地獄レイテ輸送41" />。占守以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた<ref name="戦場将器246" /><ref>木俣『日本水雷戦史』554ページ</ref>。


14時以降、金華丸以下の先発隊は[[セブ島]]北端でP-38の攻撃を受け、秋霜が大破<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.47『警戒部隊|秋霜|10日一四一八|P-38ニヨル被弾一 艦首一番砲塔ヨリ前部落下ス浸水アリ|戰死二〇戦傷三五|最大速力一六節』</ref><ref name="地獄レイテ輸送41" />。
14時以降、金華丸以下の先発隊は[[セブ島]]北端でP-38の攻撃を受け、秋霜が大破<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.47『警戒部隊|秋霜|10日一四一八|P-38ニヨル被弾一 艦首一番砲塔ヨリ前部落下ス浸水アリ|戰死二〇戦傷三五|最大速力一六節』</ref><ref name="地獄レイテ輸送41" />。
一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.16『二一〇〇|ブラツクロツク東口ニテ長波朝霜若月第三次輸送部隊ニ合同ス霞之ト分離マスバテ島東北側ヲ迂回第四次輸送部隊ヲ追及ス』</ref><ref name="地獄レイテ輸送43">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]43-46頁『壮絶、第三次輸送部隊』</ref>。[[南西方面艦隊]](司令長官[[大川内傳七]]中将)の下令によるものだった<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.38『十一月十日一〇〇九(長官)NSB|十日一四三〇多號作戰部隊|NSB機密第一〇一〇〇九番電 NSB電令作第七四〇號 初春竹十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離以後マニラ歸還迄第四次輸送部隊ニ編入ス』</ref>。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう<ref name="戦場将器246"/><ref name="多号経過6三次" />。
一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官[[早川幹夫]]少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[竹 (松型駆逐艦)|竹]]、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.16『二一〇〇|ブラツクロツク東口ニテ長波朝霜若月第三次輸送部隊ニ合同ス霞之ト分離マスバテ島東北側ヲ迂回第四次輸送部隊ヲ追及ス』</ref><ref name="地獄レイテ輸送43">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]43-46頁『壮絶、第三次輸送部隊』</ref>。[[南西方面艦隊]](司令長官[[大川内傳七]]中将)の下令によるものだった<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.38『十一月十日一〇〇九(長官)NSB|十日一四三〇多號作戰部隊|NSB機密第一〇一〇〇九番電 NSB電令作第七四〇號 初春竹十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離以後マニラ歸還迄第四次輸送部隊ニ編入ス』</ref>。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう<ref name="戦場将器246" /><ref name="多号経過6三次" />。海防艦2隻(占守、13号)はせれべす丸(5,863トン、大阪商船)の救援に向かった<ref name="木俣海防113" />。


11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.16『十一月十一日|〇四五〇|第四次輸送部隊ヲ認ム』-『〇五〇〇|初春竹第四次輸送部隊ト合同ス』</ref>。18時以降、輸送部隊はマニラに到着して任務を終えた(占守と海防艦13号は23時着)<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.17『一八三〇|第四輸送部隊(霞潮秋霜初春竹沖縄金華丸)MM着』-『二三〇〇|海防十三及占守MM着』</ref><ref name="地獄レイテ輸送41" />。
11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.16『十一月十一日|〇四五〇|第四次輸送部隊ヲ認ム』-『〇五〇〇|初春竹第四次輸送部隊ト合同ス』</ref>。18時以降、輸送部隊はマニラに到着して任務を終えた<ref name="地獄レイテ輸送41" />(占守と海防艦13号は救援のため帰着が遅れ23時着)<ref name="木俣海防113" /><ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.17『一八三〇|第四輸送部隊(霞潮秋霜初春竹沖縄金華丸)MM着』-『二三〇〇|海防十三及占守MM着』</ref>。
一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモックでアメリカ軍機動部隊艦載機約340機以上に襲撃され、駆逐艦[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]](第2駆逐隊)を残して全滅<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.17『一一四〇.第三次輸送部隊敵艦上機群約一二〇機ト交戰朝霜ノ外全部沈没ス朝霜戰場ヲ避退ス』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.4(昭和19年11月11日)</ref>、島風の沈没時に二水戦司令官早川少将も戦死した(後任の二水戦司令官は[[木村昌福]]少将)<ref>[[#多号作戦経過概要]]p.6『準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモック」湾口ニテ空襲ヲ受ケ全滅』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.7(昭和19年11月18日)</ref>。
一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモックでアメリカ軍機動部隊艦載機約340機以上に襲撃され、駆逐艦[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]](第2駆逐隊)を残して全滅<ref>[[#S1909一水戦日誌(5)]]p.17『一一四〇.第三次輸送部隊敵艦上機群約一二〇機ト交戰朝霜ノ外全部沈没ス朝霜戰場ヲ避退ス』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.4(昭和19年11月11日)</ref>、島風の沈没時に二水戦司令官早川少将も戦死した(後任の二水戦司令官は[[木村昌福]]少将)<ref>[[#多号作戦経過概要]]p.6『準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモック」湾口ニテ空襲ヲ受ケ全滅』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.7(昭和19年11月18日)</ref>。


[[11月12日]]、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、重巡[[利根 (重巡洋艦)|利根]]〔ブルネイで途中合流〕、軽巡[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、第30駆逐隊《[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]》)は<ref name="木俣空母793">[[#日本空母戦史]]793-795頁『ボルネオにて(十一月)』</ref>、軽巡木曾と駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]](スリガオ海峡夜戦で損傷中)を入れ替え、内地へ帰投する<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]]p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』</ref>。秋月型駆逐艦[[霜月 (駆逐艦)|霜月]](第41駆逐隊)と、マニラ残留組の木曾は、多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.42-43『十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略』</ref>(木曾は第一水雷戦隊旗艦予定)<ref name="木俣空母793"/><ref name="地獄レイテ50">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]50-51頁『マニラ湾の地獄』</ref>。
[[11月12日]]、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、重巡[[利根 (重巡洋艦)|利根]]〔ブルネイで途中合流〕、軽巡[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、第30駆逐隊《[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]》)は<ref name="木俣空母793">[[#日本空母戦史]]793-795頁『ボルネオにて(十一月)』</ref>、軽巡木曾と駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]](スリガオ海峡夜戦で損傷中)を入れ替え、内地へ帰投する<ref>[[#S1906三十駆日誌(3)]]p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』</ref>。秋月型駆逐艦[[霜月 (駆逐艦)|霜月]](第41駆逐隊)と、マニラ残留組の木曾は、多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.42-43『十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略』</ref>(木曾は第一水雷戦隊旗艦予定)<ref name="木俣空母793" /><ref name="地獄レイテ50">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]50-51頁『マニラ湾の地獄』</ref>。
[[11月13日]]、[[マニラ湾]]は再び空襲をうけ在泊艦船は大損害を受ける<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.5(昭和19年11月13日)</ref>。
[[11月13日]]、[[マニラ湾]]は再び空襲をうけ在泊艦船は大損害を受ける<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』</ref><ref>[[#S1911護衛対潜|昭和19年11月、経過(護衛対潜)]]p.5(昭和19年11月13日)</ref>。
多号作戦関連艦だけでも複数隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』</ref><ref name="地獄レイテ50"/>。占守乗組員の回想によれば、座礁炎上中の駆逐艦(秋霜と推定)より弾薬を調達している<ref name="占守電探57"/>。
多号作戦関連艦だけでも複数隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』</ref><ref name="地獄レイテ50" />。
占守乗組員の回想によれば、座礁炎上中の駆逐艦(秋霜と推定)より弾薬を調達している<ref name="占守電探57" />。
[[南西方面艦隊]]司令長官[[大川内傳七]]中将は志摩中将(第五艦隊長官)の進言を受け、水雷戦隊の退避を決定<ref name="地獄レイテ53">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]53-54頁</ref>。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した<ref name="地獄レイテ53"/><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』</ref>。
[[南西方面艦隊]]司令長官[[大川内傳七]]中将は志摩中将(第五艦隊長官)の進言を受け、水雷戦隊の退避を決定<ref name="地獄レイテ53">[[#地獄のレイテ輸送作戦]]53-54頁</ref>。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した<ref name="地獄レイテ53" /><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』</ref>。


水雷戦隊と別れた海防艦2隻(占守、第13号)はラブアン島(ブルネイ)向け移動タンカーを護衛して内地に帰投することになった<ref name="占守電探61">[[#占守電探|占守電探室]]61-65頁『14 危機のたとの奇蹟』</ref>。だが油槽船2隻は相次いで米潜水艦により撃沈されいう<ref name="占守電探61"/>。[[11月25日]]<ref name="S1908第一海護(4)9"/>、[[マニラ湾]]南方で占守は米潜水艦[[ハッド (潜水艦)|ハッド]] (''USS Haddo, SS-255'')から雷撃される。[[船首|艦首]]部分に被雷<ref name="占守電探61"/>。第13号海防艦の援護により敵潜水艦(ハッド)から追撃されることなく、マニラに帰投できた<ref name="占守電探61"/>。翌日、海防艦2隻(占守、第13号海防艦)は[[南西方面艦隊|南西方面部隊]]の指揮下を離れ、第一海上護衛隊に復帰<ref name="S1908第一海護(4)7"/><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]pp.20-22『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』</ref>。占守は[[マニラ]]<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]pp.12-13『(五)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』</ref>と[[馬公市|馬公]]で応急修理を実施した<ref name="占守電探65">[[#占守電探|占守電探室]]65-68頁『15 モンスーンと闘う』</ref>。船団護衛を行いつつ、内地に向かう<ref name="占守電探65"/>。[[12月25日]]、第十二航空艦隊千島方面根拠地隊に編入。
水雷戦隊と別れた海防艦3隻(占守、第13号、沖縄)は[[11月17日]]にブルネイに寄港。18日にラブアン島ビクトリア港到着輸送船2隻を護衛して内地に帰投することになった<ref name="占守電探61">[[#占守電探|占守電探室]]61-65頁『14 危機のたとの奇蹟』</ref>。ところが、停泊中の19日0145、[[B-24 (航空機)|B-24]]の夜間空襲を受けて沖縄が損傷する。夜が明けた0558、海防艦3隻(沖縄、占守、第13号)は、17日0730に昭南を出港しビクトリア港にやってきていた陸軍輸送船暁山丸(拿捕船、5,698トン/旧英船Hosang(浩生))、[[逓信省#海事|逓信省標準D型貨物船]]改装応急タンカー同和丸([[日東商船|日東汽船]]、1,916トン)の2隻からなるシマ03船団を護衛してビクトリア港を出港し、マニラに向かう。20日1210、沖縄が船団から分離し、修理を受けるため昭南に向かう。だが輸送船2隻は相次いで米潜水艦により撃沈されるこになる<ref name="占守電探61" />。[[11月21日]]午後、船団は米潜[[フラウンダー (潜水艦)|フラウンダー]](''USS Flounder, SS-251'')に発見される<ref>[[#SS-251, USS FLOUNDER]]pp.158-159</ref>。接近したフラウンダーは{{coor dm|10|39|N|115|05|E|}}の地点で先頭の輸送船に向けて魚雷を6本発射。魚雷は暁山丸に3本が命中し、同船は大破したため放棄された<ref>[[#SS-251, USS FLOUNDER]]pp.171-172</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html|title=The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2012-05-16}}</ref>。22日夜、{{coor dm|10|18|N|114|15|E|}}の[[南沙諸島]][[太平島|長島]]沖で船団は漂泊し夜を明かすこととなった。ところが、同日1900頃に船団はフラウンダーとウルフパックを組んでいた米潜[[ガヴィナ (潜水艦)|ガヴィナ]](''USS Guavina, SS-362'')に発見される。ガヴィナは魚雷を1本ずつ計2本発射。魚雷は同和丸の左舷3番船倉と機関室に1本ずつ命中し、同船は1945に沈没した<ref>[[#SS-362, USS GUAVINA]] pp.139-140, pp.160-161</ref><ref>[[#駒宮 (1987)]] p.294</ref>。[[11月23日]]、ガヴィナは{{coor dm|10|22|N|114|22|E|}}の地点で漂流中の暁山丸を発見し、魚雷を1本ずつ計3本発射。魚雷は暁山丸に1本が命中し、同船は沈没した<ref group="注釈">この経緯から暁山丸撃沈はガヴィナとフラウンダーの共同戦果となったが([[#Roscoe]] p.564)、当初はガヴィナと[[バッショー (潜水艦)|バッショー]](''USS Bashaw, SS-241'')との共同戦果となっていた([[#SS-251, USS FLOUNDER]]p.185)。また、日本側記録では暁山丸の沈没を11月26日としているが([[#駒宮 (1987)]] p.294)、ガヴィナは11月26日に戦闘行動を行っていない([[#SS-362, USS GUAVINA]] pp.140-141)。</ref><ref>[[#SS-362, USS GUAVINA]] pp.162-163</ref>。護衛の海防艦2隻(占守、第13号)だけとなったシマ03船団はそのままマニラへ向かうが、[[11月25日]]<ref name="写真7占守年表" /><ref name="S1908第一海護(4)9" />、[[マニラ湾]]南方で占守は米潜水艦[[ハッド (潜水艦)|ハッド]] (''USS Haddo, SS-255'')から雷撃される。[[船首|艦首]]部分に被雷<ref name="占守電探61" />。行方不明者3名を出す(後日戦死認定)<ref>[[#海防艦戦記]] p.62</ref>。第13号海防艦の援護により敵潜水艦(ハッド)から追撃されることなく、マニラに帰投できた<ref name="占守電探61" />。翌日、海防艦2隻(占守、第13号海防艦)は[[南西方面艦隊|南西方面部隊]]の指揮下を離れ、第一海上護衛隊に復帰<ref name="S1908第一海護(4)7" /><ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]pp.20-22『(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』</ref>。占守は[[マニラ]]<ref>[[#S19.08第一海上護衛隊日誌(4)]]pp.12-13『(五)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』</ref>と[[馬公市|馬公]]で応急修理を実施した<ref name="占守電探65">[[#占守電探|占守電探室]]65-68頁『15 モンスーンと闘う』</ref>。船団護衛を行いつつ、内地に向かう<ref name="占守電探65" />。[[12月25日]]、第十二航空艦隊千島方面根拠地隊に編入<ref name="写真7占守年表" />


=== その後 ===
=== その後 ===
[[1945年]](昭和20年)[[1月20日]]、占守は舞鶴に入港する<ref name="S2001舞鎮日誌11損傷">[[#S20.01舞鎮日誌]]pp.11-12『(2)損傷艦船 驅逐艦榧 一月十三日入港損傷竝ニ整備工事中/海防艦占守 一月二十日入港損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦朝顔 一月二十五日入港損傷復舊竝ニ整備工事中/軍艦利根 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦波風 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中』</ref><ref>[[#S20.01舞鎮日誌]]p.46『二〇(天候略)(略)占守修理ノ爲入港 花月出撃(略)工廠工事 占守船體損傷部復舊工事』</ref>。各艦([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[波風 (駆逐艦)|波風]]、[[朝顔 (駆逐艦)|朝顔]])他と共に修理に従事した<ref name="S2001舞鎮日誌11損傷"/><ref>[[#S20.02舞鎮日誌]]p.12『(2)損傷艦船 驅逐艦波風 損傷復舊竝ニ整備工事完成二月二日出撃/軍艦利根 損傷復舊竝ニ整備工事完成二月二十八日出撃/呂號第五十潜水艦 二月二十五日入港損傷部復舊竝ニ整備工事施行中/驅逐艦榧 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦朝顔 同右/海防艦占守 同右』</ref><ref>[[#S20.03舞鎮日誌]]p.12『(2)損傷艦船 朝顔 損傷復舊竝ニ整備工事完成三月二日出撃/榧 損傷復舊竝ニ整備工事完成三月四日出港/占守 引續キ損傷復舊竝ニ背尾工事中/呂五十潜 同右』</ref>。
[[1945年]](昭和20年)[[1月20日]]、占守は舞鶴に入港する<ref name="S2001舞鎮日誌11損傷">[[#S20.01舞鎮日誌]]pp.11-12『(2)損傷艦船 驅逐艦榧 一月十三日入港損傷竝ニ整備工事中/海防艦占守 一月二十日入港損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦朝顔 一月二十五日入港損傷復舊竝ニ整備工事中/軍艦利根 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦波風 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中』</ref><ref>[[#S20.01舞鎮日誌]]p.46『二〇(天候略)(略)占守修理ノ爲入港 花月出撃(略)工廠工事 占守船體損傷部復舊工事』</ref>。
各艦([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[波風 (駆逐艦)|波風]]、[[朝顔 (駆逐艦)|朝顔]])他と共に修理に従事した<ref name="S2001舞鎮日誌11損傷" /><ref>[[#S20.02舞鎮日誌]]p.12『(2)損傷艦船 驅逐艦波風 損傷復舊竝ニ整備工事完成二月二日出撃/軍艦利根 損傷復舊竝ニ整備工事完成二月二十八日出撃/呂號第五十潜水艦 二月二十五日入港損傷部復舊竝ニ整備工事施行中/驅逐艦榧 前月ニ引續キ損傷復舊竝ニ整備工事中/驅逐艦朝顔 同右/海防艦占守 同右』</ref><ref>[[#S20.03舞鎮日誌]]p.12『(2)損傷艦船 朝顔 損傷復舊竝ニ整備工事完成三月二日出撃/榧 損傷復舊竝ニ整備工事完成三月四日出港/占守 引續キ損傷復舊竝ニ背尾工事中/呂五十潜 同右』</ref>。
占守においては、失った艦首を[[丙型海防艦|第一号型]]と同様の簡易なものとし、[[煙突]]を楕円筒型に改める。機銃も増備<ref>[[#S20.02舞鎮日誌]]p.44『六(天候略)(略)工廠工事(二)占守機銃増備訓令工事着手』</ref>。4月1日、占守の修理と整備完了<ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.48『一(天候略)(略)工廠工事 占守機銃増備工事外二件完成』</ref>。また北方海域での行動に備えるため、耐寒冷装備の整備を実施した<ref name="占守電探65"/>。大湊に向けて出撃する<ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.11『(2)占守 損傷復舊竝ニ整備工事完成四月二日出港(以下略)』</ref><ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.49『三(天候略)占守大湊ニ向ケ出撃』</ref>。
占守においては、失った艦首を[[丙型海防艦|第一号型海防艦(丙型)]]と同様の簡易なものとし、[[煙突]]を楕円筒型(擇捉型と同等)に改める<ref name="写真七194" />。機銃も増備<ref>[[#S20.02舞鎮日誌]]p.44『六(天候略)(略)工廠工事(二)占守機銃増備訓令工事着手』</ref>。また従来の九三式探深儀と二十二号電探をそれぞれ三式探深儀と二十四号電探に交換した<ref name="#2">[[#海防艦戦記]] p.60</ref>。4月1日、占守の修理と整備完了<ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.48『一(天候略)(略)工廠工事 占守機銃増備工事外二件完成』</ref>。北方海域での行動に備えるため、耐寒冷装備の整備も行なわれていた<ref name="占守電探65" />。翌日<ref name="写真7占守年表" />、大湊に向けて出撃する<ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.11『(2)占守 損傷復舊竝ニ整備工事完成四月二日出港(以下略)』</ref><ref>[[#S20.04舞鎮日誌]]p.49『三(天候略)占守大湊ニ向ケ出撃』</ref>。

[[4月10日]]、海防艦3隻(占守、国後、八丈)は役務を舞鶴鎮守府警備海防艦に定められ<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070528900|昭和20年4月19日(木)海軍公報 第4989号 p.1}}『○令達 内令第三一一號|佐世保鎭守府豫備海防艦 海防艦 擇捉 海防艦 笠戸/舞鶴鎭守府豫備海防艦 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル/舞鶴鎭守府警備敷設艇 敷設艇 成生 右役務ヲ解カル|昭和二十年四月十日 海軍大臣』</ref>、占守は[[大湊警備府]][[特設護衛船団司令部#第百四戦隊|第百四戦隊]]に編入。軍隊区分宗谷防備部隊で行動。終戦時は[[北海道]]方面([[稚内市]])に所在<ref name="占守電探70">[[#占守電探|占守電探室]]70-72頁『17 軍艦旗奉焼』</ref>。[[大泊町|大泊]]([[樺太]])から北海道への邦人撤収任務に従事した<ref name="占守電探70"/>。[[10月5日]]、帝国海防艦籍から除籍。[[10月12日]]、帝国艦船[[復員輸送艦|特別輸送艦]]と呼称され、[[復員]][[輸送]]に従事。[[12月1日]]、[[第二復員省#地方復員局|舞鶴地方復員局]]所管の特別輸送艦に定められる。
[[4月10日]]、海防艦3隻(占守、国後、八丈)は役務を舞鶴鎮守府警備海防艦に定められる<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070528900|昭和20年4月19日(木)海軍公報 第4989号 p.1}}『○令達 内令第三一一號|佐世保鎭守府豫備海防艦 海防艦 擇捉 海防艦 笠戸/舞鶴鎭守府豫備海防艦 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル/舞鶴鎭守府警備敷設艇 敷設艇 成生 右役務ヲ解カル|昭和二十年四月十日 海軍大臣』</ref>。
同日、日本海軍は海防艦複数隻([[福江 (海防艦)|福江]]、[[国後 (海防艦)|国後]]、[[八丈 (海防艦)|八丈]]、[[笠戸 (海防艦)|笠戸]]、'''占守'''、[[択捉 (海防艦)|択捉]])により<ref>[[#S16-20調書|戦隊行動調書]]p.31〔 隊名|104S 〕</ref>、[[大湊警備府]](司令長官[[宇垣完爾]]中将)麾下に[[特設護衛船団司令部#第百四戦隊|第百四戦隊]](司令官[[渡辺清七]]少将)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072104400|昭和20年4月23日(発令4月10日付)海軍辞令公報(甲)第1780号 p.33}}</ref><ref>[[#S20.04百四戦隊日誌]]p.7『(一)司令部(イ)主要職員官氏名』</ref>を新編した<ref>[[#S20.04百四戦隊日誌]]pp.4-5『(二)我ガ軍ノ情況 (イ)帝國海軍ノ全力ヲ擧ゲ敵主攻撃ヲ邀撃中ナリ/(ロ)前記情勢ニ宗谷海峡方面ノ防備ヲ主任務トシ第百四戰隊新編セラル』</ref><ref name="木俣海防223">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]223-224頁『第一〇四戦隊の設立』</ref>。
軍隊区分警戒部隊(八丈、国後、占守、笠戸、択捉)に配され、[[八丈 (海防艦)|八丈]]海防艦長の指揮下で行動した<ref>[[#S20.04百四戦隊日誌]]p.5『(三)作戰指導 兵力部署左ノ通』</ref>。
その後、軍隊区分宗谷防備部隊で行動<ref name="写真7占守年表" />。千島列島から本土へ撤退する陸海軍部隊の輸送作戦に従事<ref name="#2"/>。7月18日特務艦[[宗谷 (船)|宗谷]]を護衛中の海防艦第112号が亜庭において雷撃を受けたとの連絡により現場に急行、生存者2名を救助<ref name="#2"/>。終戦時、占守は[[北海道]]方面([[稚内市]])に所在<ref name="占守電探70">[[#占守電探|占守電探室]]70-72頁『17 軍艦旗奉焼』</ref>。[[大泊町|大泊]]([[樺太]])から北海道への邦人撤収任務に従事した<ref name="占守電探70" />。[[10月5日]]、帝国海防艦籍から除籍<ref name="写真7占守年表" />。[[10月12日]]、帝国艦船[[復員輸送艦|特別輸送艦]]と呼称され、[[復員]][[輸送]]に従事。テニアン・トラック・パラオ・沖縄・奄美大島・サイゴン・バンコク・コロ島・プサン方面からの復員輸送に参加した<ref name="#2"/>。[[12月1日]]、[[第二復員省#地方復員局|舞鶴地方復員局]]所管の特別輸送艦に定められる。


[[1946年]](昭和21年)[[12月30日]]、特別保管艦に指定される。
[[1946年]](昭和21年)[[12月30日]]、特別保管艦に指定される。


[[1947年]](昭和22年)[[7月5日]]、特別輸送艦の定めを解かれ、[[ナホトカ]]で[[戦利艦|賠償艦]]として[[ソビエト連邦|ソ連]]へ引き渡された。
[[1947年]](昭和22年)[[7月5日]]、特別輸送艦の定めを解かれ<ref name="写真7占守年表" />、[[ナホトカ]]で駆逐艦椎、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、海防艦第34号、第105号、第196号、第227号とともに[[戦利艦|賠償艦]]として[[ソビエト連邦|ソ連]]へ引き渡された。

[[ソビエト連邦|ソ連]]では、「護衛艦」を意味する「EK」の略号を与えられ、'''EK-31'''('''{{lang|ru|ЭК-31}}'''<small>エーカー・トリーッツァチ・アディン</small>)の艦名で[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]]に編入された。10月に[[ウラジオストク]]に回航。
11月、[[ソ連海軍]]総司令官[[イワン・ユマシェフ]]大将は海軍第1研究所のザイツェフ中佐を団長とした旧日本艦の運用調査団を編成し、翌1948年6月、調査団の報告に基いてソ連海軍は艦艇配分を指示した。この際EK-31は第7艦隊(後に第5艦隊と統合して[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]])に[[通報艦]]として配属される予定となった<ref name="ポルトフ119">[[#ポルトフ]] pp.119</ref>。
[[1948年]](昭和23年)7月、[[ソヴィエツカヤ・ガヴァニ]]の第263造船所で[[通報艦]]に類別を変更し、名称も「第25号通報艦」を意味する'''PS-25'''('''{{lang|ru|ПС-25}}'''<small>ペーエス・ドヴァーッツァチ・ピャーチ</small>)に変更された。
1949年1月にはソ連海軍総司令部作戦局により、各旧日本艦の再兵装案が作成された。計画されたPS-25の再兵装案は以下の通りである<ref name="ポルトフ119-120">[[#ポルトフ]] pp.119-120</ref>。

*[[B-34型]]100mm単装砲1基(有事には二基増設)
*[[V-11型]]37mm連装機銃2基
*BMB-1型爆雷投射機2基

しかし改造費用が多額になること、造船所の整備対応能力が欠けていたことから造船省の首脳部が旧日本艦の工事を拒否し、艦政局も本格的な改造を諦めて最低限の工事を施すことにした<ref name="ポルトフ119-120"/>。このためPS-25は1953年まで保管状態におかれた<ref name="ポルトフ121">[[#ポルトフ]] pp.121</ref>。1952年5月、[[ソ連海軍]]総司令官[[ニコライ・クズネツォフ]]中将は1949年5月12日付けの各旧日本艦の再兵装案を承認した。計画されたPS-25の再兵装案は以下の通りである<ref name="ポルトフ121-122">[[#ポルトフ]] pp.121-122</ref>。

*V-11型37mm連装機銃3基もしくは70K型37mm単装機銃6基
*Neptun型レーダー
*Fakel-M型識別装置
*MDSH型発煙筒20個(有事搭載)
*R-644型短波受信機
*R-671型短波受信機
*R-673型全周波受信機
*R-609型超短波受信機


1953年[[ソヴィエツカヤ・ガヴァニ]]の第263船舶修理工場で通報艦に改造、1954年カムチャツカ混成艦隊司令部通信局に配属<ref name="ポルトフ121">[[#ポルトフ]] pp.121</ref>。
[[ソビエト連邦|ソ連]]では、「護衛艦」を意味する「EK」の略号を与えられ、'''EK-31'''('''{{lang|ru|ЭК-31}}'''<small>エーカー・トリーッツァチ・アディン</small>)の艦名で[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]]に編入された。10月に[[ウラジオストク]]に回航。[[1948年]](昭和23年)7月、[[ソヴィエツカヤ・ガヴァニ]]の第263造船所で
[[通報艦]]に類別を変更し、名称も「第25号通報艦」を意味する'''PS-25'''('''{{lang|ru|ПС-25}}'''<small>ペーエス・ドヴァーッツァチ・ピャーチ</small>)に変更された。[[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]から[[10月5日]]にかけて、第263造船所で工作艦(плавучая мастерская)に改装され、'''PM-74'''('''{{lang|ru|ПМ-74}}'''<small>ペエーム・スィェーミヂェスャト・チトィーリェ</small>。「第74号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1959年5月16日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡された後、解体された。
[[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]から[[10月5日]]にかけて、第263造船所で工作艦(плавучая мастерская)に改装され、'''PM-74'''('''{{lang|ru|ПМ-74}}'''<small>ペエーム・スィェーミヂェスャト・チトィーリェ</small>。「第74号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1959年5月16日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡された後、解体された。


== 艦長 ==
== 艦長 ==
;艤装員長
;艤装員長
#荘司喜一郎[[中佐]]:[[1940年]][[2月2日]]<ref name="jirei436"/> - 1940年[[6月30日]]<ref name="jirei499"/>
#荘司喜一郎 [[中佐]]:[[1940年]][[2月2日]]<ref name="jirei436" /> - 1940年[[6月30日]]<ref name="jirei499" />
;艦長/海防艦長
;艦長/海防艦長
#荘司喜一郎中佐:[[船長|艦長]] 1940年6月30日<ref name="jirei499"/> - 1940年[[10月15日]]<ref name="jirei543"/>
#荘司喜一郎 中佐:[[船長|艦長]] 1940年6月30日<ref name="jirei499" /> - 1940年[[10月15日]]<ref name="jirei543" />
#有村不二中佐:1940年10月15日<ref name="jirei543"/> - 海防艦長 [[1942年]][[7月1日]]<ref name="S17海軍公報(部内限)4131"/> - 1942年[[8月22日]]<ref name="jirei927"/>
#有村不二 中佐:1940年10月15日<ref name="jirei543" /> - 海防艦長 [[1942年]][[7月1日]]<ref name="S17海軍公報(部内限)4131" /> - 1942年[[8月22日]]<ref name="jirei927" />
#寺西武千代中佐:1942年8月22日<ref name="jirei927"/> - [[1943年]][[10月25日]]<ref name="jirei1246寺西"/>
#寺西武千代 中佐:1942年8月22日<ref name="jirei927" /> - [[1943年]][[10月25日]]<ref name="jirei1246寺西" />
#島村和猪[[大尉]]/[[少佐]]/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1943年10月25日<ref name="jirei1246島村"/> - 艦長 [[1945年]][[12月20日]] - [[1947年]][[1月10日]]
#島村和猪 [[大尉]]/[[少佐]]/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1943年10月25日<ref name="jirei1246島村" /> - 艦長 [[1945年]][[12月20日]] - [[1947年]][[1月10日]]
#(兼)永井博復員事務官:1947年[[2月10日]] - 1947年[[7月5日]]<ref group="注釈">昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職</ref> (本職:「[[奄美 (海防艦)|奄美]]」艦長)
#(兼)永井博 復員事務官:1947年[[2月10日]] - 1947年[[7月5日]]<ref group="注釈">昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職</ref> (本職:「[[奄美 (海防艦)|奄美]]」艦長)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[海軍省]]
*[[海軍省]]
:*昭和14年11月6日付 達 第190号。
**昭和14年11月6日付 達 第190号。
:*昭和15年4月10日付 内令第243号。
**昭和15年4月10日付 内令第243号。
:*昭和17年6月17日付 内令第1091号。
**昭和17年6月17日付 内令第1091号。
:*昭和17年7月1日付 内令第1178号、内令第1179号、内令第1186号、達第192号、官房機密第8186号。
**昭和17年7月1日付 内令第1178号、内令第1179号、内令第1186号、達第192号、官房機密第8186号。
:*昭和20年4月10日付 内令第311号。
**昭和20年4月10日付 内令第311号。
:*昭和20年10月1日付 軍務一第180号。
**昭和20年10月1日付 軍務一第180号。
:*昭和20年10月12日付 軍務一第192号。
**昭和20年10月12日付 軍務一第192号。
:*昭和15年2月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第436号。
**昭和15年2月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第436号。
:*昭和15年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第499号。
**昭和15年7月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第499号。
:*昭和15年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第543号。
**昭和15年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第543号。
:*昭和17年8月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第928号。
**昭和17年8月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第928号。
:*昭和18年10月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1246号。
**昭和18年10月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1246号。
:*昭和18年10月26日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1247号。
**昭和18年10月26日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1247号。
:*内令提要「艦船要目公表範囲別表」。
**内令提要「艦船要目公表範囲別表」。
:*馬来部隊(南遣艦隊)戦時日誌。
**馬来部隊(南遣艦隊)戦時日誌。
:*馬来部隊(第一南遣艦隊)戦時日誌。
**馬来部隊(第一南遣艦隊)戦時日誌。
:*第一南遣艦隊戦時日誌。
**第一南遣艦隊戦時日誌。
:*馬来部隊戦闘詳報。
**馬来部隊戦闘詳報。
:*第十特別根拠地隊戦時日誌。
**第十特別根拠地隊戦時日誌。
:*第一海上護衛隊戦時日誌。
**第一海上護衛隊戦時日誌。
:*千島方面根拠地隊戦時日誌
**千島方面根拠地隊戦時日誌
*[[第二復員省]]
*[[第二復員省]]
:*昭和20年12月1日付 内令第6号。
**昭和20年12月1日付 内令第6号。
:*昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
**昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
*[[復員庁]]第二復員局
*[[復員庁]]第二復員局
:*昭和21年7月1日付 復二第67号。
**昭和21年7月1日付 復二第67号。
:*昭和21年12月30日付 復二第508号。
**昭和21年12月30日付 復二第508号。
:*昭和22年7月5日付 復二第468号。
**昭和22年7月5日付 復二第468号。
:*昭和22年1月27日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第127号。
**昭和22年1月27日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第127号。
:*昭和22年2月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第138号。
**昭和22年2月18日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第138号。
*{{Cite book|title=SS-251, USS FLOUNDER|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-251_flounder|format=issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-251, USS FLOUNDER}}

*{{Cite book|title= SS-362, USS GUAVINA|url= https://issuu.com/hnsa/docs/ss-362_guavina |format= issuu|publisher=Historic Naval Ships Association |ref= SS-362, USS GUAVINA}}
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070106100|title=昭和14年、達/11月|ref=達昭和14年11月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070106100|title=昭和14年、達/11月|ref=達昭和14年11月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070115100|title=昭和17年1月~12月 達/7月(1)|ref=達昭和17年7月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070115100|title=昭和17年1月~12月 達/7月(1)|ref=達昭和17年7月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070162700|title=昭和17年4月~6月 内令2巻/内令昭和17年5月(1)|ref=内令昭和17年5月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070162700|title=昭和17年4月~6月 内令2巻/内令昭和17年5月(1)|ref=内令昭和17年5月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070171600|title=昭和17年5月~8月 内令/昭和17年7月(1)|ref=内令昭和17年7月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070171600|title=昭和17年5月~8月 内令/昭和17年7月(1)|ref=内令昭和17年7月(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071997700|title=昭和16年6月30日現在 10版 内令提要追録第9号(上)原稿/巻1追録/第6類 機密保護|ref=艦艇類別等級表(S16.06.30)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071997700|title=昭和16年6月30日現在 10版 内令提要追録第9号(上)原稿/巻1追録/第6類 機密保護|ref=艦艇類別等級表(S16.06.30)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=S16-20調書}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=S16-20調書}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026500|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=1KF日誌.1}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026500|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=1KF日誌.1}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026600|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=1KF日誌.2}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026600|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=1KF日誌.2}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026700|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=1KF日誌.3}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026700|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=1KF日誌.3}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026800|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=1KF日誌.4}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026800|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=1KF日誌.4}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026900|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=1KF日誌.5}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026900|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=1KF日誌.5}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030027000|title=昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=1KF日誌.6}}
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*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
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**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886716}}|ref=海軍制度沿革(巻8、1940)}}
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
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*{{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|chapter=第十九章―陸軍を大敗させた海軍の戦果発表|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}}
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*{{Cite book|和書|author=小沢提督伝刊行会編|year=1971|month=3|title={{small|回想の提督}} 小沢治三郎|publisher=原書房|isbn=|ref=回想の提督}}
*<!-- オオイ2014 -->{{Cite book|和書|author=大井篤|authorlink=大井篤|coauthors=|year=2014|month=5|origyear=1953|title=海上護衛戦|chapter=|publisher=株式会社KADOKAWA|series=角川文庫|isbn=978-4-04-101598-8|ref=大井2014}}
*{{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]|year=2010|month=12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2666-8|ref=地獄レイテ輸送作戦}}
*{{Cite book|和書|author=小沢提督伝刊行会編|year=1971|month=3|title={{small|回想提督}} 小沢治三郎|publisher=原書房|isbn=|ref=回想提督}}
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*{{Cite book|和書|author=海防艦顕彰会(編)|year=1982|title=海防艦|publisher=海防艦顕彰会/原|ref=海防艦}}
*{{Cite book|和書|author=岸見勇美|authorlink=岸見勇美|year=2010|month=12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下の多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2666-8|ref=地獄のレイテ輸送作戦}}
*木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
*<!-- キマタ1977 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|authorlink=|year=1977|month=7|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ISBN=|ref=日本空母戦史}}
*駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版共同社、1987年。
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*{{Cite book|和書|author=駒宮真七郎|year=1987|title=戦時輸送船団史|publisher=出版協同社|isbn=4-87970-047-9|ref=駒宮 (1987)}}
*坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
*坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
*[[世界の艦船]] No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、[[海人社]]、1996年
*[[世界の艦船]] No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、[[海人社]]、1996年
* <!-- テラサキ -->{{Cite book|和書|author=寺崎隆治ほか|coauthors=|year=2016|month=6|origyear=|title=補助艦艇奮戦記 {{smaller|縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1620-1|ref=寺崎、補助艦艇}}
*<!-- テラサキ -->{{Cite book|和書|author=寺崎隆治ほか|coauthors=|year=2016|month=6|title=補助艦艇奮戦記 {{smaller|縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1620-1|ref=寺崎、補助艦艇}}
**{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 {{small|水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争}}/海防艦(五十七隻)
**{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 {{small|水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争}}/海防艦(五十七隻)
*<!-- フクイ1993 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|year=1993|month=12|chapter=|title=<small>福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻</small> 日本補助艦艇物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0658-2|ref=福井著作10}}
*防衛研修所戦史室 『[[戦史叢書]]』
*防衛研修所戦史室 『[[戦史叢書]]』
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}}
*防衛庁防衛研修所 戦史室『[https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=024 戦史叢書第24巻 比島マレー方面海軍進攻作戦]』朝雲新聞社
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|year=1971|month=5|title=戦史叢書46上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46上護衛戦}}
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}}軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26軍進攻作戦}}
*{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|year=1971|month=5|title=戦史叢書46 海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46海上護衛戦}}
:*第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
:*第39巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(4) -第三段作戦前期-』、朝雲新聞社、1970年。
**第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
:*第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦期-』、朝雲新聞社、1971年。
**第39巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(4) -第三段作戦期-』、朝雲新聞社、1970年。
:*第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦期-』、朝雲新聞社、1974年。
**第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦期-』、朝雲新聞社、1971年。
:*第77巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(3) -昭和十八年二月まで-』、朝雲新聞社、1974年。
**第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、朝雲新聞社、1974年。
:*第80巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(2) -昭和十月まで-』、朝雲新聞社、1975年。
**第77巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(3) -昭和十月まで-』、朝雲新聞社、1974年。
**第80巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(2) -昭和十七年六月まで-』、朝雲新聞社、1975年。
*[[丸 (雑誌)|丸スペシャル]] No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、[[潮書房光人社|潮書房]]、1979年。
* {{Cite book|和書|author=アンドレイ・V・ポルトフ「ソ連艦となった日本艦艇始末記」|coauthors=|year=2010|month=6|title=[[世界の艦船]] 2010年6月 第725号|publisher=海人社|id={{全国書誌番号|00013428}}|ref=ポルトフ}}
*{{Cite book|和書|author=「丸」編集部{{small|編}}|year=2012|month=10|title={{small|小艦艇戦記}} 海防艦「占守」電探室異状なし|publisher=株式会社潮書房[[光人社]]|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2756-6|ref=占守電探}}
*<!--マル1979-->[[丸 (雑誌)|丸スペシャル]] No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、[[潮書房光人社|潮書房]]、1979年。
*<!--マル1990-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|year=1990|month=2|title=写真 日本の軍艦 {{small|重巡Ⅲ}} 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦|volume=第7巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0457-1|ref=写真七}}
<!-- マル2012 -->*{{Cite book|和書|author=「丸」編集部{{small|編}}|year=2012|month=10|title={{small|小艦艇戦記}} 海防艦「占守」電探室異状なし|publisher=株式会社潮書房[[光人社]]|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2756-6|ref=占守電探}}
**海防艦「占守」電探室異状なし{{small|"学徒兵かく戦へり"電探員が見た船団護衛始末記―北村栄作}}
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*三井造船株式会社75年史編纂委員会 『三井造船株式会社75年史』、三井造船株式会社、1993年。
<!-- ミツイ1993 -->*三井造船株式会社75年史編纂委員会 『三井造船株式会社75年史』、三井造船株式会社、1993年。
*{{Cite book|last=Roscoe|first=Theodore|title=United States Submarine Operetions in World War II|publisher=Naval Institute press |location=Annapolis, Maryland|isbn=0-87021-731-3|ref=Roscoe}}
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占守
終末公試中の占守 (1940年6月、日比沖)[1]
終末公試中の占守
1940年6月、日比沖)[1]
基本情報
建造所 玉造船所
運用者  大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
 ソビエト連邦海軍
艦種 海防艦(大日本帝国海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
護衛艦/通報艦/工作艦(ソビエト連邦海軍)
級名 占守型海防艦
建造費 3,060,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 ③計画
起工 1938年11月29日
進水 1939年12月13日
竣工 1940年6月30日
最期 1947年7月5日ソ連に引渡し
除籍 1945年10月5日(日本海軍)
1947年7月5日(復員庁)
その後 1959年5月16日、除籍・解体
要目(併記無き限り竣工時)
基準排水量 860トン[2]
公試排水量 1,020トン
全長 78.00m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 22号10型ディーゼル 2基2軸
推進 2軸[2]
出力 4,500hp[2]
速力 19.7ノット[2]
燃料 重油220トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 竣工時:定員150名[注釈 1]
1942年7月1日時点:定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x18個
搭載艇 短艇x4隻[2]
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軍艦占守(しむしゅ)は、日本海軍海防艦[3][4]

概要

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軍艦(ぐんかん)占守(しむしゅ)は、日本海軍が1938年(昭和13年)11月から1940年(昭和15年)6月にかけて建造した海防艦[4][5][6]。艦名は占守島に由来する[7][8]。 竣工時は軍艦籍にあった[9][10][注釈 2]。 だが1942年(昭和17年)7月の見直しで[11][12]海防艦(かいぼうかん)占守(しむしゅ)に名称変更[11][注釈 3]、および類別変更された[13]。 海防艦としては、占守型海防艦の1番艦である[13]。 北方警備を目的として開発された艦級であるが[14][15]、占守型4隻のうち本艦のみ太平洋戦争終盤まで東南アジア方面で活動した[5][16]

太平洋戦争開戦時の占守は南遣艦隊に所属して、マレー作戦蘭印作戦における船団護衛任務に従事(南方作戦[3][5]。第一南遣艦隊へ改編後も、同艦隊に所属して船団護衛任務や対潜掃蕩任務に従事した。1943年(昭和18年)12月下旬に第一海上護衛隊へ編入され、引続き船団護衛任務に従事した[3]1944年(昭和19年)2月中旬、占守はヒ40船団を護衛、米潜水艦の襲撃でヒ40船団は大損害を受けた[17]。 同年10月下旬、南西方面艦隊の指揮下に入る[18]。占守は11月上旬から中旬にかけて多号作戦に従事、生還した[3]。 フィリピン方面で行動中の11月25日、米潜水艦の魚雷攻撃により損傷[3][19]。第一海上護衛隊に復帰後[20]、内地に帰投して修理を行った[3][16]。この際、喪失した艦首を丙型海防艦と同型にした[15]

1945年(昭和20年)4月10日、第一〇四戦隊に編入され、北海道方面で行動[3]終戦後、復員輸送に従事した[21]1947年(昭和22年)にソビエト連邦へ引き渡された[3][22]

艦歴

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竣工まで

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占守は、③計画の1,200トン型海防艦[15][注釈 4]、仮称艦名第9号艦として計画[6][23]1938年(昭和13年)11月29日玉造船所で建造番号262番船[24]として起工[15][2]1939年(昭和14年)11月6日、日本海軍は玉造船所で建造中の本艦を占守(シムシュ)、藤永田造船所で建造する駆逐艦を浦風(ウラカゼ)と命名する[4]。同年12月13日、占守は進水[6][2]

1940年(昭和15年)2月2日、日本海軍は駆逐艦複数隻(羽風狭霧)艦長を歴任した荘司喜一郎中佐(前職、潜水母艦剣埼副長)を、占守艤装員長に任命する[25]2月7日、玉造船所内に設置された占守艤装員事務所は、事務を開始する[26]6月30日、竣工[6][2]。荘司喜一郎中佐は占守艦長となる[27]。主な初代幹部は、砲術長岡村幸雄大尉、航海長小松乃生盛中尉、機関長小澤重嗣機関大尉[27]。竣工にともない、占守艤装員事務所は撤去された[28]。本籍を舞鶴鎮守府に定められる[6][29]

軍艦占守

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1940年(昭和15年)7月15日、占守は第二遣支艦隊(司令長官高須四郎中将)に編入[6][29]。舞鶴を出撃し、東南アジア方面に進出した[29][30]。北方海域での運用を想定していた占守は[31]、通風装置こそ備えていたものの、南方では非常に暑い艦だったという[6][32]。 10月15日、荘司喜一郎中佐(占守艦長)は第一水雷隊司令へ転任(後日、軽巡川内艦長として、同艦沈没時に戦死)[33]。後任の占守艦長は、有村不二中佐(当時、水路部部員)となる[33]。また占守機関長も小澤重嗣大尉(戦艦扶桑分隊長補職)から大迫吉二機関中尉(当時、戦艦伊勢勤務)に交代した[34]

1941年(昭和16年)1月14日、第二遣支艦隊司令長官沢本頼雄中将は[33]、旗艦を重巡洋艦足柄から占守に変更する[35]。16日、第二遣支艦隊旗艦は占守から足柄に戻った[36]。 日本軍の仏印進駐に伴い、占守はベトナム方面(ハノイ、カムラン湾、サイゴン)での海岸警備任務[6]や、フランスの極東艦隊(ラモット・ピケ 等)の行動を監視した[37]

同年7月31日に南遣艦隊が新編され(司令長官平田昇中将)[38]、「占守」も南遣艦隊に編入された[29]。 9月5日、占守機関長は大迫吉二大尉(補、駆逐艦白露機関長。のちに島風初代機関長)[39][40]から竹田武晴機関中尉(当時、軽巡由良分隊長)に交代[39]

編成直後の南遣艦隊は、軍艦2隻(香椎、占守)および特設砲艦、設営隊、小規模地上部隊のみという規模だった[41]。しかし日米開戦が決定的になると、日本海軍は南遣艦隊を一挙に増強した[41]。10月18日、小沢治三郎中将は南遣艦隊司令長官に任命される[41][42]

太平洋戦争緒戦では「占守」と練習巡洋艦「香椎」で馬来部隊の第二護衛隊を編成し、マレー半島上陸に参加した[43]。第二護衛隊はタイ南部のナコンなどに上陸する宇野支隊を乗せた船団を護衛して12月5日にサンジャックを出発[44]。一方、シンゴラコタバルへ向かう船団も12月4日に三亞より出撃しており、両船団はいったん合流した後分離しそれぞれの目的地へと向かった[45]。「占守」は「善洋丸」と「三池丸」と共にナコンへ向かい、12月8日0時30分ごろにパクパーン川河口北東に入泊[44]。上陸部隊はナコンを占領した[46]

続いて「占守」は第三水雷戦隊の一部や「香椎」などと共に第一護衛隊を編成し[47]、第二次マレー上陸に参加した。上陸部隊および「占守」などは12月13日にカムラン湾を出発し、12月15日にシンゴラ・パタニ方面とシンゴラ方面へ向かうものに分かれた[48]。「占守」は「香椎」や軽巡洋艦「川内」などとともにシンゴラ・パタニ方面行きであった[49]。12月16日に輸送船は目的地に着き、揚陸が開始された[49]

12月末からは第二護衛隊の一隻として第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した[50]。第二護衛隊は「占守」と「香椎」、軽巡洋艦「名取」および駆逐艦14隻からなっていた[51]。「占守」は「香椎」および駆逐艦2隻と共に「黒潮丸」を護衛して12月24日にカムラン湾を発ち馬公へ向かった[51]。12月31日に船団は馬公より出発[52]。1942年1月3日、船団中の「明光丸」(明治海運、4,383トン)が爆発事故を起こして沈没[53]。「明光丸」には落下傘部隊である第一挺進団第一連隊約1500名が乗っていたが船員も含めて全員が救助された[54]。「占守」は180名を収容した[55]。1月7日に船団は分離され、「占守」と「香椎」および駆逐艦2隻はバンコクへ向かう船団を護衛[56]。1月9日に船団はバンコクに到着した[57]

上記作戦中の1942年(昭和17年)1月3日に南遣艦隊は第一南遣艦隊と改名されている[58]

1月24日からは「初鷹」、第九十一駆潜隊、第四十四掃海隊などとともにアナンバス基地占領作戦に参加[59]。特に抵抗を受けることもなく作戦は完了した[60]

1月下旬、「占守」と第一掃海隊はマレー沖海戦で沈没したイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」の沈没位置確認を命じられ、2月2日(2月1日[61])に「占守」は「プリンス・オブ・ウェールズ」の沈没位置を確認した[62]

2月中旬、占守はスマトラ島パレンバンに到着[63]。同都市を流れるムシ川を遡行して機雷掃海作業を実施する[63]。さらに陸軍第三十八師団司令部を揚陸した[63]

4月上旬までに、日本軍は当初の攻略目標をすべて占領[64]。4月10日附連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動により、それまで第一南遣艦隊に編入されていた他部隊・艦艇は、新たな部隊や任地に転じることになった[65]

4月12日、小沢治三郎中将(第一南遣艦隊長官)は、第一南遣艦隊旗艦を鳥海から香椎に変更する[66][67]。各艦艇(鳥海、由良、第三水雷戦隊、第七戦隊、龍驤)等は、それぞれ内地へ帰投した[65][68]。 その後、香椎・占守・第5駆逐隊(松風春風朝風旗風《5月5日附で第5駆逐隊より除籍》[69])・一部の掃海艇や根拠地隊は小沢長官直率の主隊となり[70][71]シンガポールのセレター軍港を根拠地として[72]オランダ領東インドの攻略やビルマ方面の船団護衛に従事した[73][63]。 同方面には、巡洋艦複数隻(軽巡名取《1943年7月1日まで》[74] 、軽巡鬼怒、軽巡長良《1942年4月10日、第十戦隊へ》[75]五十鈴《1942年4月10日編入、翌年4月1日に第十四戦隊へ》[76]、軽巡球磨《1942年9月25日編入》[77]、軽巡北上大井《2隻とも1943年7月1日編入》[74][78]、重巡足柄《1943年8月26日臨時編入、9月20日正式編入》[79][80])を主力とする第十六戦隊も展開していた[81]

海防艦占守

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1942年(昭和17年)7月1日、艦艇類別等級の改正により占守は軍艦籍より除籍[12][10]。艦艇の海防艦となり[5]、『海防艦 占守』(海防艦占守型)となる[11][13]。有村不二中佐(占守艦長)の職名も、占守海防艦長となる[82]。 ひき続き舞鶴鎮守府に所属した[83]。艦首の菊花御紋章も外された[6][5]。 7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢中将から大川内傳七中将に交代する[84][85]

8月中旬、占守はシンガポールで入渠、しばらく整備と修理に従事する[29]。 8月22日、占守海防艦長は有村不二中佐から寺西武千代中佐にかわる[86]。従来通り、本艦や第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は、東南アジア方面での船団護衛任務に従事する[87][88]。10月はシンガポールで修理と整備を実施した[89]。 11月、戦線に復帰[90]。同月10日、占守機関長は竹田武晴大尉から、重巡古鷹分隊長の岡島健次郎大尉に交代(古鷹は前月のサボ島沖海戦で沈没)[91]。後日、岡島は駆逐艦巻波(第31駆逐隊)機関長となった[92]。12月の占守は、護衛任務や対潜掃蕩任務に従事する[93]

1943年(昭和18年)1月初頭の占守はシンガポールにて整備を実施、同月中旬より護衛任務に復帰する[94]。任務従事中[95]の2月11日、占守は第十特別根拠地隊の指揮下に入る[96]。 同月25日、占守の僚艦として活動していた第5駆逐隊(朝風、春風、松風)は解隊された(各艦は第一海上護衛隊に編入)[94][97]。 3月[98]、4月[99]、5月[100]、6月[101]にかけて第十特別根拠地隊司令官の指揮下で行動する[100]。船団護衛や対潜掃蕩と並行して、タンベラン諸島の掃討などに従事した[102]。6月下旬、第一南遣艦隊の指揮下に戻る[101]。7月、船団護衛に従事[103]。 8月1日、ビルマ国が成立(日本占領時期のビルマ[104]。同時期の占守は、船団護衛や対潜哨戒任務に従事した[105][106]。 9月20日、第一南遣艦隊司令長官は大川内傳七中将から田結穣中将に交代[107][108]

10月、占守はシンガポールで整備と改修を実施した[109]。10月25日、占守海防艦長は寺西武千代大佐[110]から島村和猪大尉に交代した[111]。 11月25日、第一南遣艦隊に重巡洋艦青葉(呉在泊中)が編入される[112][113]12月20日、占守は海上護衛総司令部第一海上護衛隊(司令官中島寅彦中将)[29][114]に編入され、同隊指揮下で船団護衛任務に従事した[115][116][117]

ヒ40船団

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1944年(昭和19年)1月13日、占守は佐世保に帰投[29][118]1月15日から23日にかけて佐世保海軍工廠で整備と電波探知機設置工事をおこなった[119]。 1月26日より『ヒ39船団』を護衛[120]。2月13日1600、ヒ40船団を護衛して昭南(シンガポール)を出航、門司に向かう[121][122]。石油を満載した貴重なタンカー船団であったが、護衛は占守1隻のみだった[123]2月19日朝、南シナ海上北緯14度28分 東経114度27分 / 北緯14.467度 東経114.450度 / 14.467; 114.450を航行中のヒ40船団は[124]、米潜ジャック(USS Jack, SS-259)に発見されてしまった[122]。 0442、逓信省標準TM型タンカーの南栄丸(日東汽船、5,019総トン)[124]が魚雷2本を受け、大爆発を起こした後沈没した[125]。さらに1TM型戦時標準タンカーの国栄丸(日東汽船、5,155総トン)[126]も撃沈される[127]。 残された船団は全速で退避するも、ジャックの追撃を受けた。 同日1849、石油7,500トンを輸送中の逓信省標準TM型タンカーの一洋丸(浅野物産、5,106総トン)[128][129]、同じく逓信省標準TM型タンカーの日輪丸(昭和タンカー、5,163総トン)[130][131]を撃沈されてしまった[121]。 占守は残存船2隻を率いて台湾東岸まで逃れた。その後ヒ45船団から分離した駆逐艦汐風が護衛に協力。しかし、汐風がヒ45船団に戻った後の2月24日0336、米潜グレイバック(USS Grayback, SS-208)に発見される。敵潜水艦に気付いた浅間丸が警報を発し、1TL型戦時標準タンカーの南邦丸(飯野海運、10,033総トン)[132]が威嚇のために応戦するも、0345に魚雷2本を受けて搭載していた石油に引火、炎上し沈没した。 損傷した浅間丸だけとなったヒ40船団は、かろうじて台湾の高雄に入港したところで、途中解散となった[121]。海防艦占守は、後続のヒ42船団に合流して基隆港まで護衛している[133]

以後も、占守は内地と東南アジア間を往復して船団護衛任務に従事した[134][135]。 3月、『ヒ48船団』の護衛に従事[136][137]。 4月、空母海鷹他と共に『ヒ57船団』と『ヒ58船団』の護衛に従事[138][139]。 内地帰投後の5月3日から5月18日にかけて[140]、佐世保海軍工廠で電波探知機基礎工事[注釈 5]水中探信儀の整流覆設置工事を行う[141]。再び船団護衛任務に従事した。

9月5日、占守は母港の舞鶴港に帰投[142][143]舞鶴海軍工廠電波探信儀の整備[144][145]迫撃砲の設置[146][147]主機械の分解検査を行う[148]。9月27日、舞鶴を出撃[149][150]。船団護衛任務に復帰した[151]。 10月12日、第七船団司令官松山光治少将(第一次ソロモン海戦時の第十八戦隊司令官)指揮下の海防艦4隻(占守《旗艦》、沖縄第11号海防艦第13号海防艦)は、貨物船4隻からなる『モマ04船団』を護衛して呉淞上海市)を出発する[152]台湾沖航空戦を回避するため、適宜待機[152]。10月20日、船団は上海を出発[152]。10月26日、モマ04船団はマニラに到着した[152][153]。翌日の10月27日、海防艦4隻(占守、沖縄、11号、13号)は南西方面艦隊の作戦指揮下に入った[18][154]

多号作戦

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1944年(昭和19年)10月29日より、南西方面部隊指揮官三川軍一中将(南西方面艦隊司令長官)はレイテ島へのレイテ島増援輸送作戦を実施する(多号作戦[155]レイテ沖海戦で大損害を受けた第五艦隊(志摩艦隊)や第二艦隊(栗田艦隊)の残存駆逐艦に加えて、第一海上護衛隊の4隻(占守、沖縄、第11号海防艦、第13号海防艦)も同任務に投入される[156][157]10月31日午前9時、多号作戦第二次輸送部隊(警戒部隊《〔第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)旗艦[157]。一水戦参謀大迫吉二大佐は元占守機関長〕、沖波初春初霜》、松山光治少将(海兵40期)指揮下の護衛部隊《占守〔松山少将旗艦〕、沖縄、海防艦11号、海防艦13号》、輸送船4隻《能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸》)[158]としてマニラを出撃した[159]。 翌11月1日夕刻、輸送部隊はレイテ島オルモック湾に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した[157][159]。だが輸送部隊はP-38B-24 の攻撃を受け、輸送船能登丸(日本郵船、7,191トン)が沈没[160][161]、駆逐艦(第7駆逐隊)が損傷した[159][162]。占守もP-38の機銃掃射で戦死者1名、負傷者15名を出す[161]。輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(霞座乗)はこれを見て、同日19時に部隊を出港させた[163]。11月4日朝、輸送部隊はマニラに帰投した[161]。なお11月1日附で南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将にかわった[155]

11月5日、マニラ湾に対する大規模空襲により重巡那智(第五艦隊旗艦)が沈没[164][165]。駆逐艦(第7駆逐隊)も大破した[166][167]。 そこで第二水雷戦隊所属の夕雲型駆逐艦2隻(長波《第31駆逐隊》、秋霜《第2駆逐隊》)、第十戦隊所属の秋月型駆逐艦1隻(若月《第61駆逐隊》)が加わり、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)[168]が指揮する第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《〔一水戦旗艦〕、長波若月朝霜秋霜》、第七護衛隊《司令官松山光治少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)は11月8日にマニラを出撃する[169][170][171]。 本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風)はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである[172][173]。第四次多号作戦において、松山少将は旗艦を占守から沖縄に変更した[174]

11月9日夕方、第四次輸送部隊第一梯団はオルモック湾に到着[175]。まもなく第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)も到着した[176]。だが大発動艇が揃わず(予定50隻中、使用可能5隻)[171]、海防艦を大発のかわりとしたものの[174]、兵員しか陸揚げできなかった[177][178]。 第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、11月10日10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう[178][179]。だが間もなくB-25双発爆撃機約30機とP-38双発戦闘機等約100機の攻撃(反跳爆撃)を受けた[180][181]陸陸軍特種船高津丸(山下汽船、5,657トン)[169]、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)[180][182]、海防艦11号が沈没(第13号海防艦により処分)[180][183][184]。占守も至近弾で若干の損傷を受けた[178]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は、麾下駆逐艦(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたる[181]。占守以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[178][185]

14時以降、金華丸以下の先発隊はセブ島北端でP-38の攻撃を受け、秋霜が大破[186][181]。 一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《島風浜波初春、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した[187][188]南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将)の下令によるものだった[189]。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう[178][172]。海防艦2隻(占守、13号)はせれべす丸(5,863トン、大阪商船)の救援に向かった[180]

11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流[190]。18時以降、輸送部隊はマニラに到着して任務を終えた[181](占守と海防艦13号は救援のため帰着が遅れ23時着)[180][191]。 一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモック湾でアメリカ軍機動部隊艦載機約340機以上に襲撃され、駆逐艦朝霜(第2駆逐隊)を残して全滅[192][193]、島風の沈没時に二水戦司令官早川少将も戦死した(後任の二水戦司令官は木村昌福少将)[194][195]

11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母隼鷹、重巡利根〔ブルネイで途中合流〕、軽巡木曾、第30駆逐隊《卯月夕月》)は[196]、軽巡木曾と駆逐艦時雨(スリガオ海峡夜戦で損傷中)を入れ替え、内地へ帰投する[197]。秋月型駆逐艦霜月(第41駆逐隊)と、マニラ残留組の木曾は、多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された[198](木曾は第一水雷戦隊旗艦予定)[196][199]11月13日マニラ湾は再び空襲をうけ在泊艦船は大損害を受ける[200][201]。 多号作戦関連艦だけでも複数隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる[202][203][199]。 占守乗組員の回想によれば、座礁炎上中の駆逐艦(秋霜と推定)より弾薬を調達している[156]南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将は志摩中将(第五艦隊長官)の進言を受け、水雷戦隊の退避を決定[204]。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した[204][205]

水雷戦隊と別れた海防艦3隻(占守、第13号、沖縄)は11月17日にブルネイに寄港。18日にラブアン島ビクトリア港に到着、輸送船2隻を護衛して内地に帰投することになった[206]。ところが、停泊中の19日0145、B-24の夜間空襲を受けて沖縄が損傷する。夜が明けた0558、海防艦3隻(沖縄、占守、第13号)は、17日0730に昭南を出港しビクトリア港にやってきていた陸軍輸送船暁山丸(拿捕船、5,698トン/旧英船Hosang(浩生))、逓信省標準D型貨物船改装応急タンカー同和丸(日東汽船、1,916トン)の2隻からなるシマ03船団を護衛してビクトリア港を出港し、マニラに向かう。20日1210、沖縄が船団から分離し、修理を受けるため昭南に向かう。だが輸送船2隻は相次いで米潜水艦により撃沈されることになる[206]11月21日午後、船団は米潜フラウンダー(USS Flounder, SS-251)に発見される[207]。接近したフラウンダーは北緯10度39分 東経115度05分 / 北緯10.650度 東経115.083度 / 10.650; 115.083の地点で先頭の輸送船に向けて魚雷を6本発射。魚雷は暁山丸に3本が命中し、同船は大破したため放棄された[208][209]。22日夜、北緯10度18分 東経114度15分 / 北緯10.300度 東経114.250度 / 10.300; 114.250南沙諸島長島沖で船団は漂泊し夜を明かすこととなった。ところが、同日1900頃に船団はフラウンダーとウルフパックを組んでいた米潜ガヴィナ(USS Guavina, SS-362)に発見される。ガヴィナは魚雷を1本ずつ計2本発射。魚雷は同和丸の左舷3番船倉と機関室に1本ずつ命中し、同船は1945に沈没した[210][211]11月23日、ガヴィナは北緯10度22分 東経114度22分 / 北緯10.367度 東経114.367度 / 10.367; 114.367の地点で漂流中の暁山丸を発見し、魚雷を1本ずつ計3本発射。魚雷は暁山丸に1本が命中し、同船は沈没した[注釈 6][212]。護衛の海防艦2隻(占守、第13号)だけとなったシマ03船団はそのままマニラへ向かうが、11月25日[29][19]マニラ湾南方で占守は米潜水艦ハッド (USS Haddo, SS-255)から雷撃される。艦首部分に被雷[206]。行方不明者3名を出す(後日戦死認定)[213]。第13号海防艦の援護により敵潜水艦(ハッド)から追撃されることなく、マニラに帰投できた[206]。翌日、海防艦2隻(占守、第13号海防艦)は南西方面部隊の指揮下を離れ、第一海上護衛隊に復帰[20][214]。占守はマニラ[215]馬公で応急修理を実施した[216]。船団護衛を行いつつ、内地に向かう[216]12月25日、第十二航空艦隊・千島方面根拠地隊に編入[29]

その後

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1945年(昭和20年)1月20日、占守は舞鶴に入港する[217][218]。 各艦(利根波風朝顔)他と共に修理に従事した[217][219][220]。 占守においては、失った艦首を第一号型海防艦(丙型)と同様の簡易なものとし、煙突を楕円筒型(擇捉型と同等)に改める[16]。機銃も増備[221]。また従来の九三式探深儀と二十二号電探をそれぞれ三式探深儀と二十四号電探に交換した[222]。4月1日、占守の修理と整備完了[223]。北方海域での行動に備えるため、耐寒冷装備の整備も行なわれていた[216]。翌日[29]、大湊に向けて出撃する[224][225]

4月10日、海防艦3隻(占守、国後、八丈)は役務を舞鶴鎮守府警備海防艦に定められる[226]。 同日、日本海軍は海防艦複数隻(福江国後八丈笠戸占守択捉)により[227]大湊警備府(司令長官宇垣完爾中将)麾下に第百四戦隊(司令官渡辺清七少将)[228][229]を新編した[230][231]。 軍隊区分警戒部隊(八丈、国後、占守、笠戸、択捉)に配され、八丈海防艦長の指揮下で行動した[232]。 その後、軍隊区分宗谷防備部隊で行動[29]。千島列島から本土へ撤退する陸海軍部隊の輸送作戦に従事[222]。7月18日特務艦宗谷を護衛中の海防艦第112号が亜庭において雷撃を受けたとの連絡により現場に急行、生存者2名を救助[222]。終戦時、占守は北海道方面(稚内市)に所在[233]大泊樺太)から北海道への邦人撤収任務に従事した[233]10月5日、帝国海防艦籍から除籍[29]10月12日、帝国艦船特別輸送艦と呼称され、復員輸送に従事。テニアン・トラック・パラオ・沖縄・奄美大島・サイゴン・バンコク・コロ島・プサン方面からの復員輸送に参加した[222]12月1日舞鶴地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。

1946年(昭和21年)12月30日、特別保管艦に指定される。

1947年(昭和22年)7月5日、特別輸送艦の定めを解かれ[29]ナホトカで駆逐艦椎、、海防艦第34号、第105号、第196号、第227号とともに賠償艦としてソ連へ引き渡された。

ソ連では、「護衛艦」を意味する「EK」の略号を与えられ、EK-31(ЭК-31エーカー・トリーッツァチ・アディン)の艦名で太平洋艦隊に編入された。10月にウラジオストクに回航。 11月、ソ連海軍総司令官イワン・ユマシェフ大将は海軍第1研究所のザイツェフ中佐を団長とした旧日本艦の運用調査団を編成し、翌1948年6月、調査団の報告に基いてソ連海軍は艦艇配分を指示した。この際EK-31は第7艦隊(後に第5艦隊と統合して太平洋艦隊)に通報艦として配属される予定となった[234]1948年(昭和23年)7月、ソヴィエツカヤ・ガヴァニの第263造船所で通報艦に類別を変更し、名称も「第25号通報艦」を意味するPS-25(ПС-25ペーエス・ドヴァーッツァチ・ピャーチ)に変更された。 1949年1月にはソ連海軍総司令部作戦局により、各旧日本艦の再兵装案が作成された。計画されたPS-25の再兵装案は以下の通りである[235]

  • B-34型100mm単装砲1基(有事には二基増設)
  • V-11型37mm連装機銃2基
  • BMB-1型爆雷投射機2基

しかし改造費用が多額になること、造船所の整備対応能力が欠けていたことから造船省の首脳部が旧日本艦の工事を拒否し、艦政局も本格的な改造を諦めて最低限の工事を施すことにした[235]。このためPS-25は1953年まで保管状態におかれた[236]。1952年5月、ソ連海軍総司令官ニコライ・クズネツォフ中将は1949年5月12日付けの各旧日本艦の再兵装案を承認した。計画されたPS-25の再兵装案は以下の通りである[237]

  • V-11型37mm連装機銃3基もしくは70K型37mm単装機銃6基
  • Neptun型レーダー
  • Fakel-M型識別装置
  • MDSH型発煙筒20個(有事搭載)
  • R-644型短波受信機
  • R-671型短波受信機
  • R-673型全周波受信機
  • R-609型超短波受信機

1953年ソヴィエツカヤ・ガヴァニの第263船舶修理工場で通報艦に改造、1954年カムチャツカ混成艦隊司令部通信局に配属[236]1957年(昭和32年)6月17日から10月5日にかけて、第263造船所で工作艦(плавучая мастерская)に改装され、PM-74(ПМ-74ペエーム・スィェーミヂェスャト・チトィーリェ。「第74号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1959年5月16日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡された後、解体された。

艦長

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艤装員長
  1. 荘司喜一郎 中佐1940年2月2日[25] - 1940年6月30日[27]
艦長/海防艦長
  1. 荘司喜一郎 中佐:艦長 1940年6月30日[27] - 1940年10月15日[33]
  2. 有村不二 中佐:1940年10月15日[33] - 海防艦長 1942年7月1日[82] - 1942年8月22日[86]
  3. 寺西武千代 中佐:1942年8月22日[86] - 1943年10月25日[110]
  4. 島村和猪 大尉/少佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1943年10月25日[111] - 艦長 1945年12月20日 - 1947年1月10日
  5. (兼)永井博 復員事務官:1947年2月10日 - 1947年7月5日[注釈 7] (本職:「奄美」艦長)

脚注

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注釈
  1. ^ a b この数字は特修兵を含まない
  2. ^ ここでの「軍艦」とは軍隊に属する艦船の意ではなく、日本海軍内での艦艇の分類の一つである。軍艦#旧日本海軍における規定も参照。
  3. ^ ここでの「海防艦」とは日本海軍内での艦艇の分類の一つであり、日本海軍内での分類が「軍艦」から「海防艦」へと変更されたということである。一般的にはこれ以前も海防艦として扱われる。
  4. ^ 予算要求時の排水量。実際には900トン型として設計され、300トン分の予算×同型4隻分は大和型戦艦に流用したとされる
  5. ^ 該当部の戦時日誌原文ママ。ただし、電波探知機の設置は同年1月に終了している
  6. ^ この経緯から暁山丸撃沈はガヴィナとフラウンダーの共同戦果となったが(#Roscoe p.564)、当初はガヴィナとバッショー(USS Bashaw, SS-241)との共同戦果となっていた(#SS-251, USS FLOUNDERp.185)。また、日本側記録では暁山丸の沈没を11月26日としているが(#駒宮 (1987) p.294)、ガヴィナは11月26日に戦闘行動を行っていない(#SS-362, USS GUAVINA pp.140-141)。
  7. ^ 昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職
脚注
  1. ^ 写真日本の軍艦7巻193頁(占守写真解説。艦首の菊花紋章は、木箱で覆われている)
  2. ^ a b c d e f g h #艦艇類別等級表(S16.06.30)p.19『艦名:占守|艦種:海防艦|長(米):74.80|幅(米):9.08|喫水(米):2.73|排水量(噸)(基準)860|速力(節)19.7|短艇數:4|製造所:玉造船所|起工年月日:昭和13-11-29|進水年月日:昭和14-12-13|竣工年月日:昭和15-6-30|主要兵装 大砲:12c/m…3|發射管:―|探照燈:―|機械 種類 數:「デイゼル」2|推進器數:2|馬力:4,500|備考: |』
  3. ^ a b c d e f g h 補助艦艇奮戦記242-244頁『占守(しむしゅ)』
  4. ^ a b c #達昭和14年11月p.10『達第百九十號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及昭和十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ海防艦一隻及驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年十一月六日 海軍大臣 吉田善吾 株式會社玉造船所ニ於テ建造 海防艦 占守(シムシユ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 浦風(ウラカゼ)』
  5. ^ a b c d e 日本補助艦艇物語150-152頁『軍艦籍を離れた新海防艦』
  6. ^ a b c d e f g h i 日本補助艦艇物語181-184頁『海防艦占守について』
  7. ^ 占守電探室45頁
  8. ^ 写真日本の軍艦7巻192頁『艦名の由来―海防艦―島嶼名』
  9. ^ 占守電探室47-48頁
  10. ^ a b 写真日本の軍艦7巻196-197頁『鈴木範樹、海防艦と御紋章』
  11. ^ a b c #達昭和17年7月(1)p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』
  12. ^ a b 内令昭和17年1月(1)pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  13. ^ a b c 内令昭和17年1月(1)pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』
  14. ^ 日本補助艦艇物語98-99頁『(1)占守型』
  15. ^ a b c d 写真日本の軍艦7巻212-213頁『◇占守型◇』
  16. ^ a b c 写真日本の軍艦7巻194頁(占守写真解説)
  17. ^ 昭和19年2月、経過(護衛対潜)p.9(昭和19年2月19日)
  18. ^ a b #S19.08第一海上護衛隊日誌(3)p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|十月二十七日|沖縄 占守 第十一号海防艦 第十三号海防艦 南西方面艦隊作戰指揮ニ編入』
  19. ^ a b #S19.08第一海上護衛隊日誌(4)p.9『(ハ)艦艇被害(中略)(11)占守被雷小破 占守ハ「ラブアン」発「マニラ」ニ向ケ航行中二十五日敵潜ノ雷撃ヲ受ケ小破セリ』
  20. ^ a b #S19.08第一海上護衛隊日誌(4)p.7『(ロ)艦艇編入(出)概要|二十六日|新南 第四十一号海防艦 第六十六号海防艦 當隊編入/占守 第十三号海防艦 南西方面部隊作戰指揮ニ編入中ノ處當隊ヘ復皈』
  21. ^ 日本海防艦戦史269-270頁『特別輸送艦としての海防艦』
  22. ^ 日本海防艦戦史274-275頁『四カ国に賠償として(昭和二十二年)』
  23. ^ 日本補助艦艇物語142-144頁『新海防艦の計画』
  24. ^ 『三井造船株式会社75年史』、p. 816
  25. ^ a b 昭和15年2月5日(発令2月2日付)海軍辞令公報(部内限)第436号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077700 
  26. ^ 昭和15年2月13日(火)海軍公報(部内限)第3428号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C12070386500 『○事務所設置 軍艦蒼鷹艤装員事務所ヲ兵庫縣赤穂郡相生町播磨造船所内ニ設置シ二月八日ヨリ事務ヲ開始セリ|軍艦占守艤装員事務所ヲ岡山縣兒島郡日比町玉造船所内ニ設置シ二月七日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  27. ^ a b c d 昭和15年7月1日(発令6月30日付)海軍辞令公報(部内限)第499号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400 
  28. ^ 昭和15年7月2日(火)海軍公報(部内限)第3542号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C12070389000 『○事務所撤去 占守艤装員事務所ハ六月三十日撤去セリ』
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m 写真日本の軍艦7巻232頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表〕(◇占守(しむしゅ)◇)
  30. ^ 日本海防艦戦史17-18頁『開戦前後の海防艦』
  31. ^ 角川、海上護衛戦98-99頁
  32. ^ 日本補助艦艇物語153-154頁『おソマツな対潜兵装』
  33. ^ a b c d e 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27(澤本頼雄中将、補第二遣支艦隊長官)、p.33荘司免職、p.34有村補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  34. ^ 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.27小澤免職、p.29大迫補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079100 
  35. ^ 昭和16年1月17日(金)海軍公報(部内限)第3699号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C12070392900 『○将旗一時移揚 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十四日将旗ヲ一時占守ニ移揚セリ』
  36. ^ 昭和16年1月20日(月)海軍公報(部内限)第3701号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C12070392900 『○将旗復歸 第二遣支艦隊司令長官ハ一月十六日将旗ヲ足柄ニ復歸セリ』
  37. ^ 日本海防艦戦史18-20頁『占守 ベトナムで監視』
  38. ^ 昭和16年7月31日(発令7月31日付)海軍辞令公報(部内限)第681号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  39. ^ a b 昭和16年9月5日(発令9月5日付)海軍辞令公報(部内限)第705号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
  40. ^ 昭和18年5月10日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1111号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090900 
  41. ^ a b c #回想の提督25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』
  42. ^ 昭和16年10月20日(発令10月18日付)海軍辞令公報(部内限)第732号 pp.13-14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 
  43. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、358-359ページ
  44. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、407ページ
  45. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、380、393-394、407ページ
  46. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、408ページ
  47. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、508ページ
  48. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、511、516ページ
  49. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、516ページ
  50. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、557-558ページ
  51. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、558ページ
  52. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、561ページ
  53. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ、日本海防艦戦史、22ページ
  54. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ
  55. ^ 日本海防艦戦史、22ページ
  56. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、563ページ
  57. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、564ページ
  58. ^ 昭和17年1月5日(発令1月3日付)海軍辞令公報(部内限)第787号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800 
  59. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、597-598ページ
  60. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、598ページ
  61. ^ 日本海防艦戦史、23ページ
  62. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、483ページ
  63. ^ a b c d 日本海防艦戦史23-24頁『陸軍上陸に協力した占守』
  64. ^ #南方部隊経過p.22『カクシテ日本ノ南方攻略ノ主要段階ハ終ツタ。』
  65. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦668-669頁
  66. ^ 第1南遣艦隊日誌(1)p.10『3.馬來部隊機動部隊ハ四月十一日昭南皈着十二日旗艦ヲ鳥海ヨリ香椎ニ変更7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)ハ四月十三日昭南發内地ニ皈還セシム』
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  68. ^ 第1南遣艦隊日誌(1)p.39『四月十三日|一七〇〇|7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)馬來部隊指揮官ノ指揮下ヲ離レ昭南發内地ニ皈還ス』
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  76. ^ 戦隊行動調書p.14『18|4|1|14S編成 (旗艦)那珂、五十鈴』
  77. ^ 戦隊行動調書p.15『九.二五 16Sヨリ五十鈴ヲ除キ球磨ヲ編入』
  78. ^ 戦隊行動調書p.16『七.一 16Sヨリ名取ヲ除キ大井、北上ヲ編入』
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  83. ^ 内令昭和17年1月(1)pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
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  105. ^ 第1南遣艦隊日誌(5)p.34『麾下艦船部隊ノ行動(昭和十八年八月)第一南遣艦隊』
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  124. ^ a b 船舶被害(沈没)昭和19年2月p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|南栄丸|民間|五一〇九|〃(占守)|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
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  127. ^ 昭和19年2月喪失p.40〔昭和19年2月(1944年)C〕『19|a.c|国栄丸|5,155|日東汽船|雷撃|南支那海星沙沖』
  128. ^ 船舶被害(沈没)昭和19年2月p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|一洋丸(油)|菲蘭陸軍|五一〇六|占守|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
  129. ^ 昭和19年2月喪失p.40〔昭和19年2月(1944年)C〕『19|c|一洋丸|5,106|淺野物産|雷撃|15-46N 115-57E』
  130. ^ 船舶被害(沈没)昭和19年2月p.7〔19-2〕|19|0545|(14-28N 114-27E(南支那海)西沙群島ノSE約200′|日輪丸|〃(民間)|五一六二|〃(占守)|}敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
  131. ^ 昭和19年2月喪失p.40〔昭和19年2月(1944年)C〕『19|c|日輪丸|2,762|昭和タンカー|雷撃|15-46N 115-57E』
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  142. ^ #S19.09舞鎮日誌p.9『(o)修理艦船 占守整備工事ノ爲九月五日入港九月二十七日工事完成出港/呂號第四十九潜水艦 九月八日緊急整備工事完成出港』
  143. ^ #S19.09舞鎮日誌p.35『五(天候略)一六四〇占守修理ノ爲入港(以下略)』
  144. ^ #S19.09舞鎮日誌p.39『一〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装工事ニ着手外(以下略)』
  145. ^ #S19.09舞鎮日誌p.46『二〇(天候略)(略)工廠工事 占守電波探信儀装備工事及二〇粍信號燈装備竝ニ 六糎高角双眼鏡移装完成(以下略)』
  146. ^ #S19.09舞鎮日誌p.38『九(天候略)(略)工廠工事 占守迫撃砲装備工事ニ着手(以下略)』
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  168. ^ 昭和19年11月、経過(護衛対潜)p.3(昭和19年11月8日)
  169. ^ a b #多号作戦経過概要p.6『四|香椎丸 金華丸 高津丸|第一水雷戰隊 (霞長波朝霜若月潮秋霜)海防艦(沖縄占守十一號十三號)|沈没 香椎丸高津丸海十一 損傷 秋霜金華丸|軍隊 泉兵團ノ主力約一〇,〇〇〇名|糧食 弾薬 遠距離砲/約三六〇〇 四門|ナシ|一一-九|一一-八「マニラ」發「オルモツク」突入 各船人員全部、物件ノ一部ノミ揚陸』
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  173. ^ 昭和19年11月、経過(護衛対潜)p.3(昭和19年11月9日)
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  179. ^ #S1909一水戦日誌(5)pp.12-13『一〇三〇|高津丸香椎丸揚搭終了 沖縄海防十一海防十三護衛オルモック発 金華丸及占守稍遅ル三番隊ヲシテ警戒セシム』-『一一〇〇|金華丸占守揚搭終了オルモック発船團ニ追及ス』
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  182. ^ 昭和19年11月、経過(護衛対潜)p.4(昭和19年11月10日)
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  184. ^ #S1909一水戦日誌(5)pp.13-14『自一一二五至一一五〇|B-25三五機ト交戦 戦果 撃墜十數機/被害 高津丸沈没 海防十一 被弾大火災 香椎丸 被弾火災停止 三番隊ヲシテ香椎丸及海防十一ノ警戒ニ當ラシム』-『一二〇〇|霞ハ反轉被害船現場ニ向フ 香椎丸大火災トナリ續イテ爆沈ス 長波朝霜及六.九.一〇號輸送艦ヲ以テ人員ヲ救助セシム 一一海防艦大火災トナリ曳航ノ見込ミナク一三海防艦ニヨリ人員ヲ救助シ處分ヲ行フ(擱座ノ爲沈没スルニ至ラズ)』
  185. ^ 木俣『日本水雷戦史』554ページ
  186. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.47『警戒部隊|秋霜|10日一四一八|P-38ニヨル被弾一 艦首一番砲塔ヨリ前部落下ス浸水アリ|戰死二〇戦傷三五|最大速力一六節』
  187. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.16『二一〇〇|ブラツクロツク東口ニテ長波朝霜若月第三次輸送部隊ニ合同ス霞之ト分離マスバテ島東北側ヲ迂回第四次輸送部隊ヲ追及ス』
  188. ^ #地獄のレイテ輸送作戦43-46頁『壮絶、第三次輸送部隊』
  189. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.38『十一月十日一〇〇九(長官)NSB|十日一四三〇多號作戰部隊|NSB機密第一〇一〇〇九番電 NSB電令作第七四〇號 初春竹十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離以後マニラ歸還迄第四次輸送部隊ニ編入ス』
  190. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.16『十一月十一日|〇四五〇|第四次輸送部隊ヲ認ム』-『〇五〇〇|初春竹第四次輸送部隊ト合同ス』
  191. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.17『一八三〇|第四輸送部隊(霞潮秋霜初春竹沖縄金華丸)MM着』-『二三〇〇|海防十三及占守MM着』
  192. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.17『一一四〇.第三次輸送部隊敵艦上機群約一二〇機ト交戰朝霜ノ外全部沈没ス朝霜戰場ヲ避退ス』
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関連項目

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外部リンク

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