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[[福岡県]][[久留米市]]出身。[[石ノ森章太郎]]と同じ年月日に生まれる<ref name="manganavi">[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_11-1a.asp 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第11回 松本零士編]</ref>二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。
[[福岡県]][[久留米市]]出身。[[石ノ森章太郎]]と同じ年月日に生まれる<ref name="manganavi">[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_11-1a.asp 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第11回 松本零士編]</ref>二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。


父親である松本強は、[[陸軍少尉候補者|少尉候補者]]制度を用い(少候第10期)、[[下士官]]から叩き上げで[[将校]]である[[少佐|陸軍少佐]](最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]])にまで上った[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の軍人であり、また[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]]の古参の操縦者([[パイロット (航空)|パイロット]])であった。[[第二次世界大戦]]中、その父が[[テストパイロット]]をやっていた関係で、4歳から6歳まで[[兵庫県]][[明石市]]の[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]の社宅に住み<ref name="manganavi"/><ref name="家の履歴書">斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』[[キネマ旬報社]]、2011年、p28-33</ref>。その後は母親の実家がある[[愛媛県]][[喜多郡]][[新谷村]](現在の[[大洲市]]新谷町)に[[疎開]]していた<ref name="manganavi"/><ref>{{Cite news |url=http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |title=「メーテル役は小雪さんに」松本零士さん、松山で講演 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-03-07 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110308174248/http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |archivedate=2011-03-08}}</ref>(両親共に大洲市の出身である<ref>[http://web.archive.org/web/20030111101907/http://www.pref.ehime.jp/izanai/favorite/matsumoto/matsumoto.html 愛媛の観光情報WEBサイト いよ観ネット / 私の愛媛のお気にいり 我がDNAの故郷(ふるさと)(松本零士)](2003年1月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、[http://web.archive.org/web/20040415195436/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/127/index.html グレートマザー物語 2004年1月25日放送 松本零士の母 〜泣くな、母ちゃん 俺がおる!!〜](2004年4月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>)。このとき[[アメリカ軍]]の[[戦闘機]]や、[[松山市]]へ空襲に向かう[[B-29_(航空機)|B-29]]などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという<ref name="manganavi"/>。
父親である松本強は、[[陸軍少尉候補者|少尉候補者]]制度を用い(少候第10期)、[[下士官]]から叩き上げで[[将校]]である[[少佐|陸軍少佐]](最終[[軍隊における階級呼称一覧|階級]])にまで上った[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の軍人であり、また[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]]の古参の操縦者([[パイロット (航空)|パイロット]])であった。[[第二次世界大戦]]中、その父が[[テストパイロット]]をやっていた関係で、4歳から6歳まで[[兵庫県]][[明石市]]の[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]の社宅に住み<ref name="manganavi"/><ref name="家の履歴書">斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』[[キネマ旬報社]]、2011年、p28-33</ref>。その後は母親の実家がある[[愛媛県]][[喜多郡]][[新谷村]](現在の[[大洲市]]新谷町)に[[疎開]]していた<ref name="manganavi"/><ref>{{Cite news |url=http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |title=「メーテル役は小雪さんに」松本零士さん、松山で講演 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-03-07 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110308174248/http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |archivedate=2011-03-08}}</ref>(両親共に大洲市の出身である<ref>[http://web.archive.org/web/20030111101907/http://www.pref.ehime.jp/izanai/favorite/matsumoto/matsumoto.html 愛媛の観光情報WEBサイト いよ観ネット / 私の愛媛のお気にいり 我がDNAの故郷(ふるさと)(松本零士)](2003年1月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、[http://web.archive.org/web/20040415195436/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/127/index.html グレートマザー物語 2004年1月25日放送 松本零士の母 〜泣くな、母ちゃん 俺がおる!!〜](2004年4月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>)。このとき[[アメリカ軍]]の[[戦闘機]]や、[[松山市]]へ空襲に向かう[[B-29_(航空機)|B-29]]などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという<ref name="manganavi"/>。


大戦後半、父親は[[飛行隊#日本軍|第32教育飛行隊]](1944年2月[[編成]])の隊長として、[[特別操縦見習士官]]や[[陸軍少年飛行兵|少年飛行兵]]出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に[[特別攻撃隊]]の隊員として特攻していった者も少なくなかった。末期には[[二式複座戦闘機]]「屠龍」<ref>自伝漫画「昆虫国漂流記」の記述より。</ref>に搭乗し、[[終戦の日]]まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]と戦っていた。
大戦後半、父親は[[飛行隊#日本軍|第32教育飛行隊]](1944年2月[[編成]])の隊長として、[[特別操縦見習士官]]や[[陸軍少年飛行兵|少年飛行兵]]出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に[[特別攻撃隊]]の隊員として特攻していった者も少なくなかった。末期には[[二式複座戦闘機]]「屠龍」<ref>自伝漫画「昆虫国漂流記」の記述より。</ref>に搭乗し、[[終戦の日]]まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]と戦っていた。
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そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した[[東北新社]]との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20061228131917.pdf 平成16年(ワ)第13725号損害賠償等請求事件] 裁判所公式サイト</ref>、2000年からは『[[新宇宙戦艦ヤマト]]』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。
そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した[[東北新社]]との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20061228131917.pdf 平成16年(ワ)第13725号損害賠償等請求事件] 裁判所公式サイト</ref>、2000年からは『[[新宇宙戦艦ヤマト]]』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。


1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという[[著作者]]を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『[[光速エスパー]]』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、[[東京地方裁判所]]は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった<ref name="court" />。控訴審中の[[2003年]]に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった<ref>エナジオ社ニュースリリース[http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/release/old.html#040726 『宇宙戦艦ヤマト」著作権者裁判が終結し、西崎義展の著作者人格権が確定しました」] エナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている<ref>[http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/yamato/reconciliation-3-.pdf 和解書] ナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点のインターネット・アーカイブ</ref>。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している<ref>[http://web.archive.org/web/20031008144248/http://www.tfc.co.jp/news/030806.html 著作権は東北新社に。〜『宇宙戦艦ヤマト』について見解発表〜] 東北新社公式サイト 2003年8月6日(2003年10月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという[[著作者]]を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『[[光速エスパー]]』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、[[東京地方裁判所]]は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった<ref name="court" />。控訴審中の[[2003年]]に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった<ref>エナジオ社ニュースリリース[http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/release/old.html#040726 『宇宙戦艦ヤマト」著作権者裁判が終結し、西崎義展の著作者人格権が確定しました」] エナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている<ref>[http://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/yamato/reconciliation-3-.pdf 和解書] ナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点のインターネット・アーカイブ</ref>。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している<ref>[http://web.archive.org/web/20031008144248/http://www.tfc.co.jp/news/030806.html 著作権は東北新社に。〜『宇宙戦艦ヤマト』について見解発表〜] 東北新社公式サイト 2003年8月6日(2003年10月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。


なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」<ref>「『宇宙戦艦ヤマト』 著作者はプロデューサー 東京地裁判決『松本氏は部分関与だけ』」『[[読売新聞]]』2002年3月26日付</ref>{{要出典範囲|date=2010年12月|「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」}}とのコメントを一部マスコミに報道された。
なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」<ref>「『宇宙戦艦ヤマト』 著作者はプロデューサー 東京地裁判決『松本氏は部分関与だけ』」『[[読売新聞]]』2002年3月26日付</ref>{{要出典範囲|date=2010年12月|「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」}}とのコメントを一部マスコミに報道された。

2017年9月4日 (月) 13:37時点における版

松本 零士
本名 松本 晟
生誕 (1938-01-25) 1938年1月25日(86歳)
日本の旗 日本 福岡県久留米市
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1954年 -
ジャンル SF漫画
代表作銀河鉄道999
宇宙戦艦ヤマト
他多数
受賞 第3回講談社出版文化賞
(『男おいどん』)
第6回星雲賞
(『宇宙戦艦ヤマト』(TVアニメ))
第23回小学館漫画賞(『銀河鉄道999』『戦場まんがシリーズ』)
第7回日本漫画家協会賞特別賞
映画の日特別功労賞
紫綬褒章
旭日小綬章
芸術文化勲章シュヴァリエ
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松本 零士(まつもと れいじ、Leiji Matsumoto、男性、1938年1月25日 - )は、日本漫画家。本名、松本 晟(まつもと あきら)。福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型B型旭日小綬章紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号は練馬区名誉区民

宝塚大学教授、京都産業大学客員教授デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。漫画家の牧美也子とは24歳で結婚。早稲田大学大学院教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。

代表作に『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こした。

経歴

福岡県久留米市出身。石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる[1]二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。

父親である松本強は、少尉候補者制度を用い(少候第10期)、下士官から叩き上げで将校である陸軍少佐(最終階級)にまで上った帝国陸軍の軍人であり、また陸軍航空部隊の古参の操縦者(パイロット)であった。第二次世界大戦中、その父がテストパイロットをやっていた関係で、4歳から6歳まで兵庫県明石市川崎航空機の社宅に住み[1][2]。その後は母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた[1][3](両親共に大洲市の出身である[4])。このときアメリカ軍戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという[1]

大戦後半、父親は第32教育飛行隊(1944年2月編成)の隊長として、特別操縦見習士官少年飛行兵出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に特別攻撃隊の隊員として特攻していった者も少なくなかった。末期には二式複座戦闘機「屠龍」[5]に搭乗し、終戦の日まで連合軍と戦っていた。

戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否。実家がある大平村での焼きや、小倉で野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落としたが、家族で父に反対する者はおらず零士少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足」と行商の大八車を押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後にハーロック沖田十三のモデルとして、松本の作品に生かされていった。また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」という。

母親は元教師で、子供の宿題に適切な添削までしてくれたという。これについて、子供のころは、大人だからできるのだと思っていたが、後から考えると、なかなかできないことだったと気づいたという。そんな、当時の女性としては高学歴で出身家庭が恵まれていた母親が、夫の意地のため苦労しながらも、周囲の嘲笑に歯を食いしばって耐えながら一緒に働いている姿を、息子たちは見て育ったという。

終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る[2]。小学生のときからの漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。[6]

1954年福岡県立小倉南高等学校1年生のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』に掲載されデビュー[7]。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある[8]。高校卒業後の1957年毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされた[9]ものの、月刊少女雑誌『少女』の連載が決定して上京。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。

少年時代から海野十三H・G・ウェルズSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年から『週刊少年マガジン』に連載した「男おいどん」である。同作は人気となり、1972年講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。

1974年秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。松本アニメブームは1982年の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス[10]は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった[11]

一方、1980年代後半からは、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。

2003年には、画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。

2006年宝塚造形芸術大学のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。

人物

宇宙への憧れが強く、「片道でもいいから俺を宇宙に行かせてくれ」などの言葉がある。また、民間宇宙飛行の第一号になるという夢を持っていた(しかし、第一号という夢は叶わなかった)。日本人初の「宇宙へ行った宇宙飛行士」となった秋山豊寛は松本作品『ワダチ』の解説を執筆している。

漫画古書のコレクター。特に手塚治虫の初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管し、手塚本人も自作を探す必要があるときはまず松本に問い合わせていた[12]2002年にはSF作家小松左京がモリミノル名義で描いた赤本漫画の復刻に関わり、2005年阪本牙城タンクタンクロー』の復刻の際には原本の提供を行なった。その他にも漫画本の復刻の際に原本を提供することが多い。『漫画大博物館』という漫画の古書を図版で紹介するビジュアル百科事典も出版している。古式銃のコレクター。法的規制の厳しい日本において100丁以上の私有コレクションは稀である。ブライトリング等の航空腕時計が好きである。

音楽の趣味を尋ねられると「クラシック音楽ファン」であると答えている(『零士のメカゾーン』巻末インタビュー)。特にワーグナーを愛好する「ワグネリアン」である。『音楽の革命児ワーグナー』(音楽之友社)という著書があり、絵と文の双方を執筆している。「作曲家の生涯」シリーズ(新潮文庫)の『ワーグナー』にもコラムを寄稿している。ワーグナーの『ニーベルングの指輪』を漫画化している。『N響アワー』に出演してワーグナーについて作曲家の池辺晋一郎と対談もしている。これらの影響から作品の構造がワーグナーの楽劇と共通している。『宇宙戦艦ヤマト』における男性キャラクターの好戦性による破壊を女性キャラクターが自己犠牲により救済する図式はワーグナー楽劇に一貫する図式と同じである。また『銀河鉄道999』は、主人公とヒロインが恋仲のようでいて母子でもあること、ヒロインの両親が対立していること、母親に忠誠だった娘が密かに父親に寝返っていること、ヒロインが親の野心のための人材を運んでいること、構築した権力の居城が最後に崩壊すること、など『ニーベルングの指輪』と構造が酷似している。『キャプテンハーロック』がアイパッチをして肩に黒い鳥がとまっている姿は『指輪』の大神ヴォータンと同じ。猫のミーメとは『指輪』の小人のミーメと同じ名。『SF西遊記スタージンガ-』の題名は『ニュルンベルグのマイスタージンガー』をもじったような題名である。など多くの共通点がある(井上静『宇宙戦艦ヤマトの時代』2012年世論時報社)。

上京後文京区本郷の山越館へ下宿していたが、その後練馬区に居を移している。2008年には練馬名誉区民に選定され、区の活動にも積極的に協力・参加している。同区で交付される戸籍や住民票などには「銀河鉄道999」のキャラクターが印刷されている(2013年まで)。2012年には原動機付自転車のナンバープレートにメーテルのイラストが採用された。区内を走行するシャトルバス、在住している大泉学園を通っている西武鉄道の車両のラッピングにも作品がプリントされている。

自作品のパチンコ化にも精力的に取り組んでおり、大手パチンコメーカー三共とのコラボレーション "SANKYO×松本零士" としてCRフィーバー大ヤマトCRフィーバー銀河鉄道物語CRフィーバーキャプテンハーロックの3シリーズのパチンコ機が登場している。なお松本零士は『宇宙戦艦ヤマト』の著作権を保持していないことから「大ヤマト」では登場人物や乗り物をわずかに変えて、『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を流す "類似品" としての登場となったが東北新社から訴訟を起こされ、業者が和解金2億5千万円を支払うことになった[13](後述の「宇宙戦艦ヤマト裁判」も参照のこと)。

ペンネーム

デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらペンネームを使用。松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。

2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。

零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治絵物語少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから[14]

松本作品におけるスター・システム

松本零士作品には「ハーロック」や「トチロー」「エメラルダス」のように、複数の作品に登場するキャラクターが存在する。これは作品自体がクロスオーバーしていることもあれば、単に名称が同じという場合もある。またパラレルワールドのように「背景世界はつながっていないが、その世界における性格や役割が似たキャラクター」として登場する場合もあり、一種のスター・システムといえる。松本曰く「同じ俳優が演じている」のであり「(描いていると)自然とそうなる」とのことである。

自身の飼い猫をモデルにした「ミーめ」あるいは「ミーくん」というトラジマの猫と、首長で奇声を発する怪鳥「トリさん」、そして猫の様に見えて正体不明な小動物「ナニカ」は松本零士作品にしばしば登場する動物キャラクターである。なお、原作者の松本自身も自らのアニメ映画などでカメオ出演している。

作品リスト

漫画作品における伏線回収は不得手で、多くの謎を残したまま最終回を迎えた作品が非常に多い。掲載雑誌に恵まれないことも多々あり、最終回到達前に雑誌休刊による中断作品となるケースも多数存在。代表作『銀河鉄道999』ですら、漫画版は2011年現在も「未完」である旨を本人自ら語っている。

漫画

※基本的に五十音順。

映像作品

原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。

テレビアニメ

映画

OVA

その他の映像作品

  • アレイの鏡(1985年)
  • セントエルモ 光の来訪者(1986年)関西電力の創立35周年記念、企業PR用長編アニメ。電力をテーマとした宇宙の物語。
  • 光の風のアーマ(1992年)ハウステンボス アニメワールドで上映された作品。
  • まんがビデオ 宇宙海賊キャプテンハーロック(1999年)
  • 地球のBOOO! 天然ガス・暮らしをささえるエネルギー(1999年)東京ガス株式会社 広報部企画。
  • 未来・スノーエンゼル ―水と生命の惑星― (2002年) フルCGアニメ。
  • KANPAI!-乾杯-(2015年)日本酒造組合中央会のアニメ。キャラクター原案。

書籍

  • 零士のメカゾーン(1979年) 毎日新聞社 - メカ中心のイラスト集。全二巻。松本自身の手による戦車や航空機の試乗リポートも掲載。連載時のタイトルは「サムライゼロ 零士のメカゾーン」
  • 零次元宇宙年代記(1983年) 大和書房 - ガン・フロンティアIIを始めとする松本零士の手による小説・エッセイ集。『銀河鉄道999・未発表オリジナル・シナリオ』の掲載された書。
  • 時の歯車-機械幻想スイス紀行-(1999年) 日本放送出版協会
  • 遠く時の輪の接する処(2002年) 東京書籍 - 松本の自叙伝。
  • 松本零士画集―星の海、美の遺伝子(2004年) 愛育社
  • 松本零士未来へ翔び立つ名言集-ヤマト・999の言葉たち-(2010年) 竹書房 橋富政彦編著
  • 未来創造-夢の発想法-(2010年) 角川書店

編著

  • 漫画歴史大博物館 松本零士/編 日高 敏/編 ブロンズ社 1980年
  • 少年小説大系 別巻3 少年漫画傑作集1 三一書房 1993年
  • 少年小説大系 別巻4 少年漫画傑作集2 三一書房 1993年
  • 漫画大博物館-1924-1959- 松本零士編・著 日高敏編・著 小学館クリエイティブ 2004年

その他の仕事

伊賀鉄道200系201号の運転台側乗務員用ドアの横に直筆サインが書かれている。車体デザインの提供も行っている。
東京都観光汽船ヒミコ
  • 2003年からはじまった福島県などが主催する「全国高等学校パソコンコンクール」(パソコン甲子園)の審査委員長を務めている。
  • 2003年2月、愛媛県の伊予観光大使(いよかん大使)に就任。
  • 東京都観光汽船水上バス『ヒミコ』『ホタルナ』のデザイン。共に宇宙船をモチーフとしたデザインで、『ヒミコ』は2004年3月26日から運航を開始し、フジミ模型プラモデル化もした。『ホタルナ』は2012年から運航を開始している。
  • 2004年6月、福島県のしゃくなげ大使に就任。
  • 2005年ちほく高原鉄道CR75型車両にペインティング列車のデザイン提供(廃線後、足寄郡陸別町にて保存)。CR75型車両の銀河鉄道999ペインティング列車がTOMIXからNゲージ鉄道模型化された際は、松本自らがその試作品の出来を細かくチェックして、完成度に満足した松本はその試作品の車両の屋根に製品化承認を意味する自身のサインをした。このサイン入りの試作品はTOMIXの発売元であるトミーテックで大切に保管されている[17]
  • NHK「探検ロマン世界遺産」進行役CGキャラクターのデザイン。
  • 2006年湧永製薬水虫たむし治療薬『マセトローションT』のパッケージデザイン。この薬は『男おいどん』にも登場する。
  • 2008年3月16日、東京都練馬区のねりたんアニメプロジェクトin大泉の一環として西武鉄道大泉学園駅でに銀河鉄道999のキャラクター「車掌さん」と一日駅長を務めた。名誉区民に選定される。
    • 「アニメのまち練馬区」をPRする活動にも積極的に参加している。同区の住民票の写し、戸籍に関する証明、課税証明書などの各証明書の発行用紙には「銀河鉄道999」の999号、メーテル、鉄郎、車掌さんのイラストが印刷されている(2009年8月3日~2013年8月2日までの期間限定)。また、2012年8月1日からは、原動機付自転車のナンバープレートに、メーテルのカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。希望ナンバーの抽選会及び授受式のイベントにも参加している。
    • 作者の住む大泉学園では「アニメと映像・銀河鉄道999の街」をキャッチコピーに掲げている。駅構内には車掌さんの等身大人形が設置されている。駅前の商店街は「ゆめーてる商店街」と名称を変更し、イメージキャラクターにメーテルを起用していた。しかし、2012年8月3日、作者自らデザインしたオリジナルキャラクター「ゆめーてるちゃん」を発表した。このキャラクターは、かぐや姫~千年女王~◎~女王ラー・メタル~メーテル/クイーンエメラルダスに連なる系譜の「◎」に位置する(メーテルの先祖であるとしている)。現代に生きている小学生の設定[18]
  • 2008年、トヨタ自動車TV-CM「あしたのハーモニー」出演。
  • 東京都北区滝野川の商店街「滝野川馬場商店会」のシンボルキャラクターおよび看板のデザイン。
  • 西武鉄道池袋線所属の3000系メーテル星野鉄郎車掌さんをあしらったデザイン電車のデザイン提供。2009年5月より2014年12月まで運行。
    西武3000系車内に書かれた直筆サイン
  • 北九州モノレールの開業25周年記念として、1000形にメーテル、星野鉄郎、車掌さんをデザインしたラッピング車両のデザイン提供。2010年3月より3年間運行予定であったが好評のため2016年12月頃までに延長。
  • 2010年4月、福島県の猪苗代湖・裏磐梯水環境保全のイメージキャラクター発表。9月に「水恋(すいれん)」、「湖春(こはる)」と愛称決定。
  • 2013年9月4日、ORANGE RANGEのボーカル・HIROKIとギタリスト兼リーダー・NAOTOのユニット「NaotoHiroki&karatesystems」が発売したアルバムTravel Soundsのジャケット描画を担当。

創作・著作権に対するスタンス

日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している[19]

松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという[20]2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった[21]

権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である[20][22]。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、むしろ松本自身が面白がって快く許諾する傾向にある。

松本は『スター・ウォーズ』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが[23]、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。

『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する星野鉄郎の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場するダース・ベイダーとでいくつかの共通点が見られる。また宝島社の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子ルーク・スカイウォーカーと鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。

宇宙戦艦ヤマト裁判

松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサー西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた[24]。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが[25]、西崎が破産した1997年頃より、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め[26]、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった[27]。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である[28]。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして[29]、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。

1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった[27]。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった[30]。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている[31]。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している[32]

なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」[33]「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」[要出典]とのコメントを一部マスコミに報道された。

裁判終結後のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や第1作のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。

製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠最晩年に産経新聞内で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』にて「松本がヤマトの著作権者を名乗れるのなら、他のスタッフ達や私だって著作権者を名乗れる」、「西崎さんの熱意と情熱無しに『宇宙戦艦ヤマト』は存在しなかった」と書き残している[要検証]。劇場版を監督した舛田利雄は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており[34]、企画段階から携わった藤川桂介山本暎一、松本を補佐した石黒昇も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である[35][36][37]。メカデザインのスタジオぬえのメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという[38]

銀河鉄道999裁判

2006年、槇原敬之CHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年より再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した[39]。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した[40]。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している[39]

2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原敬之が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った[41]。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はないとも語った[42]

2008年7月7日、東京地裁で槇原、松本が口頭弁論のため、事件以降、初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した[43]

同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害の2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した[40]。その後双方とも控訴している。

2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)[44]

2011年12月16日、『菊地成孔の粋な夜電波』に近田春夫がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した[45]

松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けたクリスマスカードを書き下ろしており、槇原の似顔絵が描かれている[46]

アシスタント経験者

受賞歴

役職

脚注

  1. ^ a b c d 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第11回 松本零士編
  2. ^ a b 斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』キネマ旬報社、2011年、p28-33
  3. ^ “「メーテル役は小雪さんに」松本零士さん、松山で講演”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年3月7日). オリジナルの2011年3月8日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110308174248/http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html 
  4. ^ 愛媛の観光情報WEBサイト いよ観ネット / 私の愛媛のお気にいり 我がDNAの故郷(ふるさと)(松本零士)(2003年1月11日時点のアーカイブ)、グレートマザー物語 2004年1月25日放送 松本零士の母 〜泣くな、母ちゃん 俺がおる!!〜(2004年4月15日時点のアーカイブ
  5. ^ 自伝漫画「昆虫国漂流記」の記述より。
  6. ^ 松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111
  7. ^ 副賞の置時計はすぐ贈られてきたが学童社の資金的問題からか賞金の5000円は送られてこず、修学旅行で上京した際に学童社を訪れた際にその場で手渡されている。
  8. ^ 『ブラックジャック創作秘話』第2巻 秋田書店
  9. ^ 「ぴーぷる最前線松本零士」には編集長と高校を卒業したら嘱託とするとの約束があったが編集長の交代により反故にされた旨の記述がある。
  10. ^ 『アニメージュ』1982年10月号、p.66
  11. ^ 小黒祐一郎アニメ様365日 第115回 『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』」 WEBアニメスタイル 2009年4月27日
  12. ^ ビッグゴールドNo.7「コミック作家の趣味・特技」より
  13. ^ “「ヤマト」著作権で和解 業者が東北新社に2億5000万円”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2008年12月15日). オリジナルの2008年12月18日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20081218045548/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081215/trl0812152023017-n1.htm 
  14. ^ 小野博宣、渡辺勉『戦後生まれのヒーローたち』アース出版局、1995年、pp.12-13。『サンデー毎日』連載の「ぼくらの戦後50年 あの時、キミたちがヒーローだった」をまとめた単行本。松本への取材に基づく。
  15. ^ 宇宙海賊キャプテンハーロック-SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-
  16. ^ 17代・18代ヤマトのオリジナルデザイナーとしてクレジットされているが、実制作には関わらなかったとされる。
  17. ^ TOMIX 北海道ちほく高原鉄道「999号」 Vol.1
  18. ^ [1][リンク切れ]
  19. ^ 権利強化を求める権利者サイドの声〜パネルディスカッション Internet Watch 2004年9月21日
  20. ^ a b 「interview 松本零士 すべての作品に私の信念がこもる 安易な使用は許さん」『週刊東洋経済』2007年3月10日号、p.50
  21. ^ <放映中止>キャプテンハーロック 原作者松本零士さんの抗議で 毎日新聞 2002年6月24日[リンク切れ]
  22. ^ 電気グルーヴ『カフェ・ド・鬼(顔と科学)』など
  23. ^ 「松本零士インタビュー」『宇宙戦艦ヤマト伝説』安斎レオ編、フットワーク出版、1999年、p.58
  24. ^ 「インタビュー『私は「みつばちマーヤ」が作りたい』松本零士」『季刊ファントーシュ VOL.2』1976年、ファントーシュ編集室
  25. ^ 「インタヴュー・松本零士」『ぱふ』1980年9月号、清彗社、p.91
  26. ^ おたくニュース会議室「002-2/11 宇宙戦艦ヤマトの復活だぞ!!おたくWeekly
  27. ^ a b 平成11年(ワ)第20820号 著作権侵害差止等請求事件、同12年(ワ)第14077号 著作者人格権確認反訴請求事件 裁判所公式サイト
  28. ^ 「松本零士インタビュー」『宇宙戦艦ヤマト伝説』安斎レオ編、フットワーク出版、1999年、p.50
  29. ^ 平成16年(ワ)第13725号損害賠償等請求事件 裁判所公式サイト
  30. ^ エナジオ社ニュースリリース『宇宙戦艦ヤマト」著作権者裁判が終結し、西崎義展の著作者人格権が確定しました」 エナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点のアーカイブ
  31. ^ 和解書 ナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点のインターネット・アーカイブ
  32. ^ 著作権は東北新社に。〜『宇宙戦艦ヤマト』について見解発表〜 東北新社公式サイト 2003年8月6日(2003年10月8日時点のアーカイブ
  33. ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』 著作者はプロデューサー 東京地裁判決『松本氏は部分関与だけ』」『読売新聞』2002年3月26日付
  34. ^ 舛田利雄、佐藤利明、高護編『映画監督舛田利雄 〜アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて〜』ウルトラ・ヴァイヴ、2007年、p.290
  35. ^ 小池正春「元プロデューサー西崎氏の逮捕で混乱 『宇宙戦艦ヤマト』の著作権は誰のものか」『財界展望』1999年5月号
  36. ^ 藤川桂介『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき』ネスコ、1998年、p.117
  37. ^ 石黒昇、小原乃梨子『テレビ・アニメ最前線 私説・アニメ17年史』大和書房、1980年、p.200
  38. ^ 高千穂遙「ASCII番外地バックナンバーVol.6 ヤマト騒動。
  39. ^ a b 槇原VS松本零士 「盗作」騒動泥仕合 J-CASTニュース 2006年11月9日
  40. ^ a b 平成19(ワ)4156 著作権侵害不存在確認等請求事件、東京地方裁判所
  41. ^ 槇原が松本を「盗作問題」で提訴 泥仕合勝つのはどっちだ J-CASTニュース 2007年3月23日
  42. ^ 松本零士氏、意味深発言「負けると分かっていても戦わねば」 サンケイスポーツ 2007年3月27日[リンク切れ]
  43. ^ 槙原敬之vs松本零士氏が法廷で対決 日刊スポーツ 2008年7月8日
  44. ^ 松本零士氏セリフめぐる騒動で槙原に謝罪 日刊スポーツ 2009年11月27日
  45. ^ 第35回(2011年12月16日)ポッドキャストをアップしました。近田春夫さんとの年末放談その2、9時台。 TBSラジオ公式サイト内 2012年12月22日 ※7分20秒頃から
  46. ^ 松本零士氏、槇原敬之氏との「和解」を振り返る 日刊SPA! 2012年3月27日
  47. ^ イブニング』2015年4号より。

参考文献

  • 『ぴーぷる最前線松本零士』 福武書店、1983年
  • 松本零士『遠く時の輪の接する処』東京書籍、2002年
  • 吉本健二『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年
  • 『ファンタジー・ワールド!! 松本零士の世界』辰巳出版、2006年
  • 『 宇宙戦艦ヤマトの時代』井上静世論時報社、2012年
  • 『松本零士 創作ノート』KKベストセラーズ、2013年

関連項目

外部リンク