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「三遊亭好楽」の版間の差分

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== 大喜利メンバーとして ==
== 大喜利メンバーとして ==
* [[1979年]][[9月9日]]放送分から[[三笑亭夢之助]]の後任としてメンバー入りし、[[1983年]][[10月9日]]放送分をもって古典落語の修業に専念するため一時降板。[[1988年]][[4月3日]]放送分から番組に復帰し、4年半の[[ブランク]]を経て30年近くに亘り出演している。好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となる[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]であった。『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『[[金曜夜席]]』のファンだったので、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。
* [[1979年]][[9月9日]]放送分から[[三笑亭夢之助]]の後任としてメンバー入りし、[[1983年]][[10月9日]]放送分をもって古典落語の修業に専念するため一時降板。[[1988年]][[4月3日]]放送分から番組に復帰し、4年半の[[ブランク]]を経て30年近くに亘り出演している。好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となる[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]であった。『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『[[金曜夜席]]』のファンだったので、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。
* 現在着用している色紋付は[[ピンク]]色。[[大正製薬]]の便秘薬『[[コーラック]]』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある<ref>[https://web.archive.org/web/20091201132135/http://woman.nikkei.co.jp/culture/lecture/lecture.aspx?id=20060101se004se 第3回 マンネリズムの強み「笑点」] 日経WOMANサイト 2006年1月1日 [[インターネットアーカイブ]]より 2015年8月18日再閲覧</ref>。小圓遊急逝後、古今亭朝次加入以降、1983年の一時降板までは現在小遊三が着用している水色の着物を着用していた。なお、『笑点』の公式HPでは、好楽が歴代のピンクの着物を着用した落語家は出演期間が短いというジンクス(これを、'''「呪われたピンクの着物」'''と称している)を破り、'''「平成のラッキーカラー」'''になったのかもしれないとしている。当初は『笑点』以外ではピンクの着物を着ず、日本テレビの社長や自身のマネージャーからの指示でピンクの着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、東日本大震災の被災地である陸前高田の小学校に行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった<ref name="kouraku1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』38ページ</ref><ref name="kouraku2">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』39ページ</ref>。
* 現在着用している色紋付は[[ピンク]]色。[[大正製薬]]の便秘薬『[[コーラック]]』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある<ref>[https://web.archive.org/web/20091201132135/http://woman.nikkei.co.jp/culture/lecture/lecture.aspx?id=20060101se004se 第3回 マンネリズムの強み「笑点」] 日経WOMANサイト 2006年1月1日 [[インターネットアーカイブ]]より 2015年8月18日再閲覧</ref>。小圓遊急逝後、古今亭朝次加入以降、1983年の一時降板までは現在小遊三が着用している水色の着物を着用していた。なお、『笑点』の公式HPでは、好楽が歴代のピンクの着物を着用した落語家は出演期間が短いというジンクス(これを、'''「呪われたピンクの着物」'''と称している)を破り、'''「平成のラッキーカラー」'''になったのかもしれないとしている。当初は『笑点』以外ではピンクの着物を着ず、日本テレビの社長や自身のマネージャーからの指示でピンクの着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、東日本大震災の被災地である陸前高田の小学校に行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった<ref name="kouraku1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』38ページ</ref><ref name="kouraku2">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』39ページ</ref>。
* [[1988年]]に桂才賀の後任として笑点復帰後、僅か1カ月で座布団10枚を獲得した。復帰した当時は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、答えた後に「師匠どうでしょう」と聞くなど司会の5代目圓楽への遠慮が見られたため、1992年4月に当時2枠だった小遊三と席を入れ替え、小遊三が1枠、好楽が2枠に席替えした<ref>[http://www.ntv.co.jp/sho-ten/qanda/index.html 笑点Web「笑点Q&A」]</ref>(大喜利メンバーの席替えは今のところこれが最後)。
* [[1988年]]に桂才賀の後任として笑点復帰後、僅か1カ月で座布団10枚を獲得した。復帰した当時は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、答えた後に「師匠どうでしょう」と聞くなど司会の5代目圓楽への遠慮が見られたため、1992年4月に当時2枠だった小遊三と席を入れ替え、小遊三が1枠、好楽が2枠に席替えした<ref>[http://www.ntv.co.jp/sho-ten/qanda/index.html 笑点Web「笑点Q&A」]</ref>(大喜利メンバーの席替えは今のところこれが最後)。
* 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「[[与太郎]]その2」的な役割を持ち、若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機にキャラクター転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっていた。その後(復帰後)『笑点』では好楽が2枠に席替えを行い、3枠の木久扇とは隣同士になった。冒頭の挨拶の際には「そこで一句」と前置きして時事川柳を詠むことが定番となっていた。
* 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「[[与太郎]]その2」的な役割を持ち、若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機にキャラクター転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっていた。その後(復帰後)『笑点』では好楽が2枠に席替えを行い、3枠の木久扇とは隣同士になった。冒頭の挨拶の際には「そこで一句」と前置きして時事川柳を詠むことが定番となっていた。

2017年9月4日 (月) 16:24時点における版

三遊亭 好楽さんゆうてい こうらく
三遊亭 好楽
三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である(ただし、本人は「隅切り鉄砲角にかたばみ」をよく使用する。笑点もそれを使用している)。
本名 家入 信夫(いえいり のぶお)
生年月日 (1946-08-06) 1946年8月6日(78歳)
出身地 日本の旗 日本東京都豊島区東池袋
師匠 林家彦六(1966年 - 1982年)
三遊亭圓楽 (5代目)(1983年 - 2009年)
弟子 三遊亭好太郎
三遊亭兼好
三遊亭好助
三遊亭好吉
三遊亭鯛好
三遊亭とむ
三遊亭好也
三遊亭じゅうべえ
名跡 1. 林家九蔵(1966年 - 1983年)
2. 三遊亭好楽(1983年 - )
出囃子 ずぼらん
元禄花見踊
活動期間 1966年 -
活動内容 古典落語
配偶者 あり
家族 妻:一般女性
長女:好楽のマネージャー
次女:小売業経営者
長男:三遊亭王楽
所属 落語協会(1966年 - 1983年)
大日本落語すみれ会→落語円楽党→落語ベアーズ→円楽一門会(1983年 - )
備考
円楽一門会会長(2015年 - )

三遊亭 好楽(さんゆうてい こうらく、1946年8月6日 - 、本名、家入 信夫(いえいり のぶお))は、落語家円楽一門会の会長。

来歴・人物

出囃子は『ずぼらん』(あるいは師匠5代目三遊亭圓楽、及び師匠の直弟子である6代目円楽と同じ『元禄花見踊』)。演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバーとして知られる。前名は林家九蔵。妻の父は5代目柳家小さんの贔屓筋だった[1]。長男の一夫は、落語家の三遊亭王楽で、弟弟子にあたる(師匠5代目圓楽が死去する直前に真打に昇進が決定していたので好楽自身の預かり弟子にしたことはない)。このほか、王楽と好楽門下のマネージャーを務める[2]長女と雑司が谷で店を開いている[3]次女がいる(いずれも王楽の姉)。

競馬ファンとしても知られており、報知新聞に予想記事を掲載していたがまったく当たらず、クビになっている[4]

『笑点』の共演者である林家木久扇(旧名(初代)林家木久蔵)は、8代目林家正蔵(後の彦六)一門にいた当時の兄弟子でもある。

元々、5代目圓楽の惣領弟子になることを希望していた時期があったが、新聞で楽松(現:三遊亭鳳楽)が惣領として弟子入りしたことを知り、考え直した末、2代前の圓楽であった、当時の8代目正蔵(後の林家彦六)の落語を聞き、彦六門下に志願することにしたと語っている[5]

師匠・彦六は、早逝した息子・信男と同じ読みで子供の頃に父親を亡くしている好楽(当時・九蔵)を実の息子のようにかわいがっていたという[1]。なお、彦六は好楽の3人の子の名付け親となっている[6]

その反面、前座時代は三遊亭鳳楽(当時・楽松)・6代目三遊亭圓橘(当時・朝治)ら同期で飲んだくれては叱られていたようで、兄弟子5代目春風亭柳朝と一緒に師匠正蔵に謝ってもらったりと、その失敗談の数々を聞いた林家たい平曰く「よく破門にならなかったと思うくらい豪快」。実際のところは、行きつけのスナックで溜めたツケの請求を勝手に師匠に回したなどの理由で、本人曰く23回も破門されているというが、いつもしばらくすると済し崩し的に復帰が認められていたという[7]

現在も酒豪で、新幹線乗車時間が1時間程度であっても、ビールを優に5本は買って乗車する[8]。木久扇も著書にて「大の酒好き」、「なかなかの豪快な九州男児」と記している(※正確には好楽の両親が熊本出身(2009年1月5日に96歳で急逝した実母は、現在の菊池郡菊陽町の生まれで、笑点の大ファンであると公表している)であり、好楽自身は東池袋生まれ)。また、好楽一門は(自身も含めて)仕事前にも(後述の銭湯の後に)ビールを飲んでいる(普通、師匠と前座が一緒に酒を飲むことはない)。しかし、休肝日を作らなかったため、笑点メンバーで健康診断を受けた時には腸に7つもポリープができていた。木久扇は好楽より10歳程度も年上であるが、健康診断の結果が好楽があまりにも不健康で余命が短く早死にするので、木久扇が葬儀委員長になるという年功序列が逆になるほどのネタを披露するほどであった[9]

1971年11月に二つ目に昇進しているが、この時彦六(当時は8代目正蔵)に「女が出来たのか、その女と一緒になる気か」と聞かれ、「はい」と答えると「前座で祝言挙げるんじゃ格好がつくめぇ」と言われて二つ目に昇進させてもらうこととなったが、九蔵を二つ目にするためには香盤上他に10人も二つ目に昇進させる必要があった[1]彦六の一面から見ると横暴とも見える弟子思いぶりが伺えるエピソードではある[独自研究?][10]

笑点を降板した時期(1983年)、他番組も降板や番組終了で仕事が無くなり、収入は50万円から1万円を切るようになってしまい、妻の実家で暮らすようになり、笑顔も失っていた。しかし、妻は好楽の草野球の仲間を家に招き、家計は火の車でありながらも精一杯におもてなしをして好楽に笑顔を取り戻そうとしていた。妻の思いを受けた好楽は落語家としての活動を再開、笑点復帰と同時期に他番組の仕事も入ってくるようになった[9]

新幹線の発車1時間前にはホームに行く彦六(たい平著参照)と、笑点収録の集合時間の1時間半前には楽屋入りを済ませる5代目圓楽(『笑点諸国お笑い漫遊記』参照)と、せっかちな師匠2人についた好楽は、事前行動が早いようで、最年少メンバーで最初に楽屋入りするべきのたい平よりも収録に早く来てしまう。また、毎日の習慣で行っている好きな銭湯にもほぼ毎回開店前に来ている[9]。ただし、前述の酒好きのため、九蔵時代と好楽になってから間もないころは、何度か寝過ごしては注意を受け、列車での車両基地入りも経験。妻は尾久駅尾久車両センター)の電話番号をメモして常に持つようになった[11]

人付き合いが良く、他の落語家の弟子にも自分の弟子のように関わりあっている。また林家たい平曰く「(好楽師匠に)一回でも会うと親戚になる」とのこと[9]

2012年、自身の半生を振り返る「好楽日和。」を晶文社から上梓[12]2013年には自らの高座や若手(主に好楽の弟子)の育成を目的に、自宅を新築して寄席「池之端しのぶ亭」をオープンさせた(後述)。

大喜利メンバーとして

  • 1979年9月9日放送分から三笑亭夢之助の後任としてメンバー入りし、1983年10月9日放送分をもって古典落語の修業に専念するため一時降板。1988年4月3日放送分から番組に復帰し、4年半のブランクを経て30年近くに亘り出演している。好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となる5代目三遊亭圓楽であった。『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『金曜夜席』のファンだったので、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。
  • 現在着用している色紋付はピンク色。大正製薬の便秘薬『コーラック』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある[13]。小圓遊急逝後、古今亭朝次加入以降、1983年の一時降板までは現在小遊三が着用している水色の着物を着用していた。なお、『笑点』の公式HPでは、好楽が歴代のピンクの着物を着用した落語家は出演期間が短いというジンクス(これを、「呪われたピンクの着物」と称している)を破り、「平成のラッキーカラー」になったのかもしれないとしている。当初は『笑点』以外ではピンクの着物を着ず、日本テレビの社長や自身のマネージャーからの指示でピンクの着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、東日本大震災の被災地である陸前高田の小学校に行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった[14][15]
  • 1988年に桂才賀の後任として笑点復帰後、僅か1カ月で座布団10枚を獲得した。復帰した当時は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、答えた後に「師匠どうでしょう」と聞くなど司会の5代目圓楽への遠慮が見られたため、1992年4月に当時2枠だった小遊三と席を入れ替え、小遊三が1枠、好楽が2枠に席替えした[16](大喜利メンバーの席替えは今のところこれが最後)。
  • 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「与太郎その2」的な役割を持ち、若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機にキャラクター転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっていた。その後(復帰後)『笑点』では好楽が2枠に席替えを行い、3枠の木久扇とは隣同士になった。冒頭の挨拶の際には「そこで一句」と前置きして時事川柳を詠むことが定番となっていた。
  • 5代目圓楽は笑点オフィシャル本中のインタビューで、大喜利での好楽について、日本でも人気となったアメリカのテレビドラマ「コンバット!」でリック・ジェイソン(スマートでクールなキャラクターのヘンリー少尉役を演じた)の路線で落ち着いてやるといい、とコメントしている。
  • 5代目圓楽が笑点の司会を担当していた頃は、楽屋での稽古が指示通りできず、圓楽の余りの剣幕に落ち込んでしまい本気で廃業しようとしたことが一度だけあったが、桂歌丸の説得で許され、その後の収録に臨むことが出来た[17]2016年5月22日分の放送で明らかにしている。
  • 6代目三遊亭圓楽(旧名・楽太郎)とは、圓楽襲名争いをしているという笑点でのネタが存在するが、この中で、好楽が白圓楽などと呼ばれることがある(楽太郎が6代目圓楽を襲名する以前より、腹黒キャラで黒圓楽と呼ばれていたことに対する対をなすことや歌丸罵倒をした6代目圓楽(楽太郎時代から)を悪いやつだと非難する善人キャラで白である、好楽自身が暇でスケジュール帳が真っ白、という意味も含まれている)。師匠である5代目圓楽は、面長でと呼ばれていたので、馬圓楽と呼ばれる。
  • 歌丸司会就任後は「落ち着いた」ポジションを転換。「仕事がない」「歌が上手に歌えない」「貧乏」といった、やや情けないキャラクター性を打ち出している。
    • 「仕事がない」(近年は「落語が出来ない」も)に関しては、特に6代目圓楽からからかい半分で言われることが多いが、自虐で使用することがある。
    • 池之端しのぶ亭を開いて以降、6代目圓楽から、師匠・5代目圓楽が開設した寄席「若竹」の末路になぞらえて、しのぶ亭が潰れた・解体工事をしている、などとネタにされることも多々ある。またマンツーマンで落語が聞ける(客が入らないという意味)とも茶化されている。
    • 「歌が上手に歌えない」は、往年のヒット曲を歌おうとするが、歌詞が出てこず「ラララ…」でごまかすというパターンの回答であり、座布団を没収されることもしばしば。また、木久扇同様、「次期司会者は自分」などと野心見え見えの回答をして大量没収されることもある。
  • 他の回答者からネタにされると「よせよ!」と返すことが多い。現在はその「よせよ!」が半ばトレードマークになっており、満を持して「よせよ!」を言うこともある。
  • 回答した後に斜になってカメラ目線を決め込む、いわゆる「どや顔」をレイザーラモンRGがモノマネのレパートリーとしている(RGの相方であるHGのコスプレが座布団10枚の商品になったことがあり、好楽が獲得している)。
  • 2014年11月放送の『笑点』(日本テレビ)第2440回で座布団10枚を獲得した際、日本テレビ放送網株式会社の小杉善信取締役専務執行役員から、家族、弟子といった一門をも対象者に含む、限度額無制限で有効期限が「死ぬまで」の「日テレ社員食堂利用カード」をプレゼントされた。なお、この収録の翌日には、このカードを持って息子で弟弟子でもある王楽を含む家族や一門弟子(孫弟子を含む)の合計30名で日テレの社員食堂へ食事に出かけたことが、翌週の『笑点』第2441回の大喜利の前に放送された。カードと言っても横1mほどの巨大なレプリカ風のものであり、それ以降は日テレが保管しているため、カードの使用はその1回のみ(持参しないと無効)であった。
  • 歌丸の次の司会を選ぶにあたって、番組の中村博行プロデューサーが分析した好楽のキャラクターは「面白くない回答」だった[18]

略歴

池之端しのぶ亭

  • 新築した自宅の1階を寄席として設計し、営業している。
  • フローリング敷きで客は座布団の上に座る(足腰の弱い人には椅子の貸し出しも行う)。収容人数は40〜50人と寄席としては狭いが、マイク無しで落語が聞ける[19]
  • 円楽一門会が使用しているお江戸両国亭(永谷商事経営)が工事で使用できない期間、一門会の寄席の会場として使われた[20]
  • 東京メトロ千代田線根津駅が至近(北緯35度42分54.7秒 東経139度45分59秒)。
  • WEBサイトはない。

TVなどの出演歴

CM

《現在》

  • 野村證券「株券電子化篇」「株券預けて安心篇」過去には笑点メンバーで6代目三遊亭円楽(当時は楽太郎)や林家木久扇(当時は初代木久蔵)や桂歌丸も出演
  • 日本薬師堂「グルコンEX」笑点仲間の桂歌丸とも共演

《過去》

一門弟子

廃業

  • 三遊亭なな好
  • 三遊亭ろこう

関連項目

脚注

タイトル未記入のものは全て『好楽日和。』(晶文社 ISBN 9784794967909)からの出典。

  1. ^ a b c 3ページ - 5ページ、林家木久扇の寄稿文『三遊亭好楽外伝』より。
  2. ^ 129ページ。
  3. ^ 130ページ。
  4. ^ 125ページ。
  5. ^ 73ページ - 75ページ。
  6. ^ 128ページ。
  7. ^ 競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2010年11月号、pp.123 - 125。
  8. ^ 林家たい平『笑点絵日記』ぴあ、2007年。
  9. ^ a b c d あのニュースで得する人損する人」より。
  10. ^ 『落語家面白名鑑』かんき出版、1982年、pp.97。なお現在圓楽一門会で同門の鳳楽・圓橘もこの時二つ目に昇進している
  11. ^ 110ページ。
  12. ^ 好楽 半生振り返った一冊 2012年11月12日付読売新聞”. 2013年3月8日閲覧。
  13. ^ 第3回 マンネリズムの強み「笑点」 日経WOMANサイト 2006年1月1日 インターネットアーカイブより 2015年8月18日再閲覧
  14. ^ ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』38ページ
  15. ^ ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』39ページ
  16. ^ 笑点Web「笑点Q&A」
  17. ^ 2000年2月6日放送分
  18. ^ 笑点司会の昇太、実は消去法で決まった!? 6代目で初の独身司会者”. スポーツ報知 (2016年5月23日). 2016年6月1日閲覧。
  19. ^ 好楽の寄席が正月オープン 「若手の勉強の場に」 2012年12月23日付東京新聞”. 2013年3月8日閲覧。
  20. ^ 「笑点」の大喜利の挨拶時の話より。
  21. ^ “初のスウェーデン人落語家誕生、好楽一門の「三遊亭じゅうべえ」”. スポーツ報知. (2016年12月5日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20161205-OHT1T50156.html 2016年12月5日閲覧。 

外部リンク