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[[1980年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の「[[花王名人劇場]]」や[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の「[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]」で[[横山やすし・西川きよし]]、[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]]([[島田洋七]]・[[島田洋八]])、[[島田紳助・松本竜介]]、[[西川のりお・上方よしお]]、[[太平サブロー・シロー]]らと共に爆笑漫才を披露、[[漫才ブーム]]の頂点を極めたコンビへと発展した。この当時大阪・東京の会場を[[ヘリコプター]]で往復し、[[楽屋]]で[[過労]]防止のために[[点滴]]を打っていたと言われている。


[[1981年]]、'''「[[恋のぼんちシート]]」'''で[[フォーライフ・レコード|フォーライフ]]から[[レコード]]デビュー、売上約80万枚<ref name=sanspo030109>[http://web.archive.org/web/20030618093302/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200301/gt2003011022.html ザ・ぼんちが2・21に再結成後初の単独ライブ]、SANSPO.COM、2003年1月9日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>、[[オリコンチャート|オリコン]]では最高位2位になる大ヒット曲となり、[[日本武道館]]を満員にした初の漫才師となった。発売当時吉本興業はこのレコードが売れるとは思わず、フォーライフからの30万円で原盤権買取の話を断ったという<ref name=sanspo030109 />。
[[1981年]]、'''「[[恋のぼんちシート]]」'''で[[フォーライフ・レコード|フォーライフ]]から[[レコード]]デビュー、売上約80万枚<ref name=sanspo030109>[http://web.archive.org/web/20030618093302/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200301/gt2003011022.html ザ・ぼんちが2・21に再結成後初の単独ライブ]、SANSPO.COM、2003年1月9日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>、[[オリコンチャート|オリコン]]では最高位2位になる大ヒット曲となり、[[日本武道館]]を満員にした初の漫才師となった。発売当時吉本興業はこのレコードが売れるとは思わず、フォーライフからの30万円で原盤権買取の話を断ったという<ref name=sanspo030109 />。
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しかも皮肉にも、おさむは歌がうまかったが、まさとは下手だった故に両者の間に確執が生まれた上に、漫才ブームも終焉を迎えたことが拍車をかけ、-->
しかも皮肉にも、おさむは歌がうまかったが、まさとは下手だった故に両者の間に確執が生まれた上に、漫才ブームも終焉を迎えたことが拍車をかけ、-->

2017年9月4日 (月) 16:28時点における版

ザ・ぼんち
出身地 日本の旗 日本
ジャンル お笑い
活動期間 1973年 - 1986年
2003年 - 現在
レーベル フォーライフ(1981年)
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー吉本興業傘下)
共同作業者 吉野伊佐男(現・吉本興業代表取締役会長)
公式サイト プロフィール
メンバー ぼんちおさむ(以下、おさむ)
里見まさと(以下、まさと)
タイヘイトリオ曾我廼家明蝶Wヤング(第1期)、横山やすし・西川きよし

ザ・ぼんち(The Bonchi)は、漫才コンビ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。1973年コンビ結成。1980年代前半に一世を風靡した。

プロフィール

ぼんちおさむ(以下、おさむ、1952年12月16日 - )
里見まさと(さとみ まさと、以下、まさと、 (1952-04-25) 1952年4月25日(72歳) - )
  • 兵庫県姫路市出身。本名は里 道和(さと みちかず)
  • 父親は広島県尾道市の出身[1]。母親は姫路の出身[1]
  • ツッコミ担当
  • 立ち位置:右
  • 小学校3年生の時に両親が離婚。その後は父に育てられる。プロ野球選手を目指して興國高校に進学[1]
  • 高校時代に野球部のレベルについていけず野球を断念するが、そんなときに読んだ週刊誌で、西川きよしさんが『二十歳で家建てた』っていう記事を偶然読んで、稼ぐなら漫才しかないと思い立った[2]
  • 最近は落語講談にも力をいれており、講談は3代目旭堂小南陵(後の4代目旭堂南陵)の勉強会に参加し10席ほど稽古を付けてもらっている。芸名は「旭堂南総里見八犬伝」。

来歴

タイヘイトリオに師事し、レツゴー三匹の弟弟子に当たる。おさむは3か月ほど「やらかす一石二蝶」というコンビを組んでいた、1973年デビュー。コンビ名の「ぼんち」は、山崎豊子の大阪・船場を舞台とした小説タイトルにもなった大阪船場言葉で「器の大きい坊ちゃん」の意味である。松竹芸能からデビューしたが、和光プロダクションを経て吉本に移籍。毎日放送テレビヤングおー!おー!」のユニット「チンチラチン」のメンバーで売り出し、一時は同局の「モーレツ!!しごき教室」にも出演して若手の注目株と目された。 1980年関西テレビの「花王名人劇場」やフジテレビの「THE MANZAI」で横山やすし・西川きよしB&B島田洋七島田洋八)、島田紳助・松本竜介西川のりお・上方よしお太平サブロー・シローらと共に爆笑漫才を披露、漫才ブームの頂点を極めたコンビへと発展した。この当時大阪・東京の会場をヘリコプターで往復し、楽屋過労防止のために点滴を打っていたと言われている。

1981年恋のぼんちシートフォーライフからレコードデビュー、売上約80万枚[3]オリコンでは最高位2位になる大ヒット曲となり、日本武道館を満員にした初の漫才師となった。発売当時吉本興業はこのレコードが売れるとは思わず、フォーライフからの30万円で原盤権買取の話を断ったという[3]。 1986年に、漫才ブームの沈静化に伴ってコンビ解散[2]

コンビ解散後は、おさむは「はぐれ刑事純情派」などのテレビドラマなどに出演、俳優としての活動を始めた。一方のまさとは、俳優業に挑戦するも収入が月7万円に落ち込むなど家族4人でやっていけないほど困窮した。自殺も考えたが[2]、現芸名に改名し亀山房代とともに「里見まさと・亀山房代」という男女漫才コンビを組み、「ザ・ぼんち」として頂点を極めたにも関わらず若手と同じ扱いで再スタート。「地獄の中の仏」だと跳びついたワイドショー番組の15分のコーナーを、亀山と2人で担当したことが再浮上のきっかけとなった[2]。実績を重ね、遂には1998年上方漫才大賞を受賞。亀山の妊娠により、2001年末にコンビを円満解散[2]

2003年に「ザ・ぼんち」としての活動を再開。2014年には「THE MANZAI」に出場、認定漫才師50組に選出された。おさむ曰く当時、予選控え室や会場通路の至る所で練習熱心に励む若手の熱気と気迫に圧倒され、年数制限がないからと軽い気持ちの参戦を後悔した。しかし、認定という結果は当時のファン、高齢以外の層にも受け入れられたという自信に繋がり、活動の転機となった、以後若手中心のライブや学園祭に積極的に参加、記念ライブの会場に敢えてよしもとの常設劇場であるルミネtheよしもと大須演芸場を選ぶなどベテラン、大御所という自覚を持たず若手と同じ目線、立場での芸能活動を展開している。

吉本興業代表取締役会長の吉野伊佐男はザ・ぼんちの元マネージャーである。

現在、中川礼二モノマネをしたことによりTBSラジオで放送中の雨上がり決死隊がパーソナリティーを務める「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」にて話題になっている。

コンビの設定は男前&ボケで、スマートなまさとと、大きくボケるおさむのコンビは異色であった[3]。原点はアメリカの「底抜けコンビ」(ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス)にある。おさむはルイスの大ファンであることを公言しており、髪型やダンス、芸風など重なる部分も多々ある。現在日本で発売されているDVDはルイス単独作だが、コンビものを見れば、いかにこのコンビが「マーティン&ルイス」の影響を受けているかが理解できる。

エピソード

おさむとまさとは大阪の興國高校の同級生である。同校の同級生としては他に九十九一がいる。

おさむは売れない時代、月亭八方の経営する飲食店でアルバイトをしていた。その頃まだ顔が知られていないために客から、「兄ちゃん、オモロイから芸人になったらええで」とよく勧められたという。また吉本へ移籍する以前、小さな芸能事務所に在籍していた頃は、大手事務所に所属する芸人と放送局から差別的な待遇を受けた。これらの経験から「売れて見返してやろやないか!」という気持ちを奮い起したと語っている。

受賞歴

(音楽新人賞の田原俊彦松田聖子らを抑え、芸能新人賞受賞者では最初で最後の最優秀新人賞受賞者に)
  • 1981年 第1回花王名人大賞 最優秀新人賞
  • 1981年 第16回上方漫才大賞 大賞

ギャグ(口癖)

  • そうーなんですよ、川崎さん(おさむ、山本耕一のものまね)
  • ちょっと待ってください、山本さん(まさと、川崎敬三のものまね)
  • おさむちゃんで〜す(おさむ)このセリフのあと続けて自分の頭をげんこつで叩くフリ(振り切らないで頭上で止める)をしながら口内で舌を鳴らす。
  • 潮来の伊太郎〜、あれ〜(おさむ、橋幸夫ものまね
  • 今日、耳日曜(おさむ)
  • おまえは、病気やろ(まさと)
  • やったやった!○○やった!!。(まさと)※○○の中には「阪神勝ってる」等が入る。

テレビ・ラジオ

過去の出演作

里見まさと個人の出演作も記載

レコード

  • 恋のぼんちシート
  • ラヂオ-ニューミュージックに耳を塞いで- (ギャグは間奏の独白部分のみ)
  • るんるんブギ(ショッピング編)
  • ぼくの妹に - (加山雄三のカバー)

テレビCM

師匠

タイヘイトリオ

弟子

脚注

  1. ^ a b c ザ・ぼんち・里見まさと『おおきに! 漫才 人生は何歳からでもやり直せるヨシモトブックスワニブックス、2013年、p10-18
  2. ^ a b c d e SAPIO 2016年12月号 「日本の芸能を旅する」里見まさと(文・上原善広)
  3. ^ a b c ザ・ぼんちが2・21に再結成後初の単独ライブ、SANSPO.COM、2003年1月9日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)

関連項目

外部リンク