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「大陸軍 (フランス)」の版間の差分

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{{脚注の不足|date=2018年3月}}
[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|200px|right|古参近衛隊]]
'''大陸軍'''(だいりくぐん、{{lang-fr|''Grande Armee''}}、グランド・アルメ)は、[[1805年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名した[[フランス軍]]を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、[[イギリス]]侵攻のために[[イギリス海峡]]に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方の[[オーストリア帝国|オーストリア]]および[[ロシア帝国|ロシア]]に対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、[[1806年]]から[[1807年]]、[[1812年]]、および[[1813年]]から[[1814年]]の各作戦においてもこの名称が使われており、[[19世紀]]初頭にナポレオンが作戦を実行するために自らの勢力圏の国々から召集した多国籍軍の総称である。<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997</ref>フランス語の''{{lang|fr|armée}}''という語には「陸軍」とともに「軍隊」という意味もあり、「大軍隊」と日本語訳することも可能である。


{{Infobox military unit
最初の大陸軍はナポレオン麾下の陸軍元帥(''{{lang|fr|Maréchal}}'')と上級の将軍の指揮下にある6個[[軍団]]で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年の夏に[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を始めた時がその最大であり、兵力は700,000名を数えた。
|unit_name= La Grande Armée<BR />大陸軍
|image= [[File:Emblem of Napoleon Bonaparte.svg|100px]]
|start_date=1805
|end_date=1815
|country={{Flagicon|FRA}}フランス帝国
|size=685,000名<BR />(1812年6月)
|battles=
[[第三次対仏大同盟]]
:[[ウルムの戦い|ウルム]]
:[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]
[[第四次対仏大同盟]]
:[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イエナ・アウエルシュタット]]
:[[フリートラントの戦い|フリートラント]]
[[第五次対仏大同盟]]
:[[アスペルン・エスリンクの戦い|アスペルン・エスリンク]]
:[[ワグラムの戦い|ワグラム]]
[[半島戦争|スペイン半島戦争]]
:[[バイレンの戦い|バイレン]]
:[[ビトリアの戦い|ビトリア]]
[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]
:[[スモレンスクの戦い|スモレンスク]]
:[[ボロジノの戦い|ボロジノ]]
[[第六次対仏大同盟]]
:[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェン]]
:[[ドレスデンの戦い|ドレスデン]]
:[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]
:[[アルシー・シュル・オーブの戦い|アルシー・シュル・オーブ]]
[[第七次対仏大同盟]]
:[[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]]
|commander1=[[ファイル:Imperial Standard of Napoléon I.svg|20px]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<BR />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Naples (1811).svg|20px]] [[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン・ランヌ|ランヌ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ミシェル・ネイ|ネイ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]<BR />[[ファイル:Flag of Sweden.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベルナドット|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[アンドレ・マッセナ|マッセナ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ルイ=ガブリエル・スーシェ|スーシェ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[クロード・ヴィクトル=ペラン|ヴィクトル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ピエール・オージュロー|オージュロー]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル|ルフェーヴル]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ジャン=バティスト・ベシェール|ベシェール]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]<BR />[[ファイル:Flag of France.svg|20px]] [[オーギュスト・マルモン|マルモン]]
}}
'''大陸軍'''(仮名:だい・りくぐん|仏語:''Grande Armée'')は、[[フランス第一帝政]]下の陸軍組織であり、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。1805年8月29日に発足した。いわゆる{{仮リンク|ナポレオン軍|fr|Armée napoléonienne}}であり、[[ナポレオン戦争]]の中心的軍隊となった。


その前身は1804年に'''大西洋沿岸軍'''(''Armée des côtes de l'Océan'')の名で編制された方面軍であり、イギリス本土侵攻を目的に[[ドーバー海峡]]に面する[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に配置されて総勢18万の兵員で構成されていた。しかし、翌1805年にその上陸作戦を援護する為のフランス海軍がイギリス海軍に太刀打ち出来ない事実が明らかとなった為に、計画の変更を余儀無くされたナポレオンは、同年8月29日から大西洋沿岸軍を内陸部の[[ライン川]]に向けて進軍させ、同日の参謀長[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]に宛てた手紙の中で始めて「''Grande Armée''」という言葉を使っている。この時から大西洋沿岸軍は'''大陸軍'''に改称したと見られ、以後はヨーロッパ大陸全域を管轄にして戦う事になった。
ロシアでの壊滅後もナポレオンは兵力を再編し、1813年の[[ライプツィヒ]]での[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年の[[ワーテルローの戦い]]で新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年[[6月]]の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。


1805年にオーストリア、ロシアと交戦した後も、1806~1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までの[[半島戦争|スペイン半島戦争]]、1809年のオーストリアとの決戦、1812年の[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの方針で諸外国の部隊と外国人兵士が積極的に加えられていた事も特徴であり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて事実上の多国籍軍隊となった<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997</ref>。ロシア遠征の敗北後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の[[百日天下]]まで死闘を繰り広げた。なお、1815年時は'''北方軍'''(''Armée du Nord'')の名称で編制されていた。
== 組織 ==
大陸軍の成功の最も重要な要因のひとつは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1個軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団(''{{lang|fr|Corps d'Armée}}'')はそれぞれに、下記のような各兵種と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の行程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥、軍団将軍(''{{lang|fr|Général en chef}}''、[[上将]])または師団将軍(''{{lang|fr|Général de division}}''、[[中将]])によって指揮された。


== 組織構造 ==
ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。[[1800年]]に[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー]]将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、[[1804年]]までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎兵を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。
=== 皇帝軍事本営 ===
[[ファイル:Napoleon bivouac Wagram.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]]
[[ファイル:Vereshagin.Napoleon near Borodino.jpg|サムネイル|ナポレオンと幕僚たち]]
大陸軍(グランダルメ)は事実上皇帝ナポレオンが直率する軍隊であり、その指揮統率を助ける側近達は皇帝軍事本営(''Maison militaire de l'Empereur'')としてまとめられていた。この組織は皇帝の身の安全を保証しその戦争指導を支え各軍への指示伝達を円滑化する為の統帥機関であり、侍従武官と幕僚本部と皇帝近衛隊指揮官で構成されていた。国家予算の1割強を消費しており皇帝近衛隊の維持費はまた別枠だった。常にナポレオンと従軍を共にし親征地の最前線にもそのまま移動した。


'''侍従武官'''(''Aides-de-camp de l'Empereur'')は戦場におけるナポレオンの最側近であり作戦立案と指揮統率を助けていた。その職務は柔軟かつ多岐に渡った。任命されたのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の高級将校達だった。侍従武官の中で主だった者には旧王宮に由来する肩書きが加えられ、宮殿総監(''Grand maréchal du palais'')と馬事総監(''Grand écuyer'')がその双璧だった。前者は宮廷内警護の責任者であり、後者は戦場での警備責任者であったがナポレオンの下では形骸化して、代わりに軍事作戦中の外交交渉を担当する事が多かった。侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。彼らはそれぞれが秘書を持ち自身の職務を助けさせた。
軍団の主要な戦術的単位は[[師団]]であり、通常4,000名から6,000名の歩兵と騎兵で構成された。1個師団は2ないし3個[[旅団]]で、1個旅団は2個[[連隊]]で構成され、3ないし4個砲兵中隊からなる砲兵旅団の支援を受けた。各砲兵中隊には4門の[[カノン砲|野砲]]と2門の[[榴弾砲]]が配備されたので、1個砲兵旅団には18ないし24門の大砲が配備されていたことになる。師団にも恒久的な管理部門と実戦部隊があり、師団長(中将)によって指揮され、軍団同様に独立した作戦行動が可能だった。


'''参謀総監'''(''Major général'')は、幕僚本部(''État-major général de l'armée'')の統括者であり、各種専門スタッフをまとめる他、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的な命令書に書き表して各司令官に伝達する事務統括の役目を果たした。大陸軍の参謀長(''Chef d'état-major'')と同義であり、[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]がほぼ全期間を通して在任していた。
== 大陸軍の戦力 ==

=== 皇帝近衛隊 ===
=== 軍団と師団 ===
フランスの皇帝近衛隊 (''{{lang|fr|Garde Impériale}}'') は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (''{{lang|fr|Garde des Consuls}}'', ''{{lang|fr|Garde Consulaire}}'') から発展した。これはそれ自体が軍団(''{{lang|fr|Corps d'Armée}}'')であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。
近世ヨーロッパの軍隊は絶対君主制および封建制度特有の事情によって、極めて集権的かつ硬直した組織構造になっており、一人の軍司令官が長大な隊列の進退を決めて衝突した敵と順次交戦していく運用法が標準となっていた。封建領地ごとに貴族領主の私部隊でもある連隊(''régiment'')が組織され、戦争時は複数の連隊が合同してある程度戦力を均一化させた旅団(''brigade'')を編制し、旅団は長大な隊列の一部分となった。

[[フランス革命戦争|革命後]]のフランス軍は共和政に移行した軍隊内情の変化により、従来にはない軍事制度の改革に取り組める余地が生まれたので、それまでの長大な隊列を機能的に分割して独自の行動権限を持たせた師団と、複数の師団を合わせて歩兵騎兵砲兵の高度な連携を可能にした軍団の編制単位が考案される事になった。師団(''division'')は[[フランス第一共和政]]の陸軍大臣[[ラザール・カルノー]]によって1793年から1794年にかけて整備され、軍団(''corps d'armée'')は時の第一執政ナポレオン・ボナパルトによって1800年に誕生した。複数の軍団に分けて運用された大陸軍(グランダルメ)は従来にはない軍隊の多元的な活動を実現してヨーロッパ大陸を席巻し、その成功を見た他のヨーロッパ諸国も旅団を基軸とする従来の硬直した軍隊構造を改めて、フランス軍と同様の機能的な編制単位を導入するようになった。

=== 各編制単位 ===
'''軍団'''

:[[軍団]]は歩兵師団を軸にした作戦上の基本単位であり、その兵員数は10,000名から50,000名と幅広く平均20,000名前後であり、標準構成は3個歩兵師団+1個軽騎兵師団+大砲44門であった。歩兵軍団は1805年に7個、1813年に14個存在した。後年には'''歩兵軍団'''(''corps d'infanterie'')とも呼ばれて騎兵軍団と区別された。
:各軍団に未配属の全騎兵師団は'''騎兵予備集団'''(''corps de réserve de cavalerie'')が一括管理していたが、1812年に3個の'''騎兵軍団'''(''corps de cavalerie'')に分割された。その兵員数は約10,000名で概ね4個騎兵師団+大砲30門で構成された。1813年以降の騎兵軍団は小規模化して6個となり、兵員数は約4,000名で標準構成は2個騎兵師団+大砲12門となった。大抵は重騎兵師団と軽騎兵師団のセットで編制された。

:軍団長は副官5名と幕僚部(''état-major'')と兵站部(''parc'')と予備砲兵(''réserve d'artillerie'')と工兵部(''génie'')を持った。副官には私設副官(''aide-de-camp'')と公式副官(''adjudant'')がおり後年は後者のみとなった。幕僚部は各種専門スタッフが在籍し参謀長が統括した。憲兵もここに所属した。軍団および師団は司令官(''commandant'')と参謀長(''chef d'état-major'')の二人三脚で運営されていた。兵站部は軍需品を積んだ荷馬車群の集合場所で砲兵部署(''parc d'artillerie'')と輜重部署(''parc des équipages'')に分かれており、木工職人や鍛冶職人もここで活動した。大砲10~20門からなる予備砲兵は砲兵指揮官(''chef de l'artillerie'')が管理し、また配下の師団砲兵(6~8門)も管理下に置いた。工兵部は概ね3個工兵中隊からなり工兵指揮官(''chef du génie'')が率いた。この軍団長+スタッフ達には2個騎兵大隊(400名)が護衛として随伴した。

'''師団'''

:[[師団]]は一つの戦場または広大な戦場の一区域を受け持つ戦術面の基本単位であり、'''歩兵師団'''(''division d'infanterie'')と'''騎兵師団'''(''division de cavalerie'')に分類された。歩兵師団の兵員数は5,000名から10,000名で徒歩砲兵の大砲8門が標準で付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名で騎馬砲兵の大砲6門が標準で付いた。歩兵師団は大抵3~6個の歩兵連隊と1個の徒歩砲兵中隊で構成され、騎兵師団は概ね2~4個の騎兵連隊と1個の騎馬砲兵中隊で構成された。
:師団長は副官3名と参謀長が統括する幕僚部を持ち、1個騎兵大隊(200名)が護衛として随伴した。軍団のものより小規模な師団の幕僚部(''état-major'')には砲兵中隊士官と、軍需品を積んだ荷馬車を各連隊に捌く輜重士官(''officier des équipages'')や野戦病院を設置する衛生士官(''officier de santé'')などの他、旅団長も在籍した。また、前線での必要に応じて配下連隊が持つ各荷車を集めて一括保管する兵站部(''parc'')が設けられる事もあった。

'''歩兵旅団+連隊+大隊+中隊'''

:フランス軍の'''旅団'''(''brigade'')は戦場指揮面の編制単位となり、旅団長は副官2名を持つのみで、師団配下の連隊1~3個の指揮権を与えられ、その各連隊が擁する各大隊を戦場で動かした。大抵は連隊2個分の大隊の戦場運用をまかされて、結果的に師団は2~3個の旅団を持つ事になった。師団長が各大隊を並べて展開した陣形の前後ないし左右半分それぞれの運用を各旅団長に分担するという形が多かった。他にも戦列歩兵連隊と軽歩兵連隊のペアで歩兵旅団が編制される事もあり、また師団陣形の前に敷かれる軽歩兵連隊1個分の散兵線がそのまま旅団となる事もあった。
:'''大隊'''(''bataillon'')は戦場での基本行動単位であり、定員は800~1,000名だが従軍中の消耗で実際は500名程度の事が多く、戦場に展開される長大な隊列および陣形は基本的にこの大隊が組む戦闘隊形を連結して形成された。大隊長は副官2名と共に大隊の全兵士を指揮した。'''中隊'''(''compagnie'')は兵営生活の基本単位であり定員は120~140名だが実際はその6~8割程度の事が多く、これが6~9個集まって大隊を形成した。
:'''連隊'''(''régiment'')は軍隊管理の基本単位であり各県ないし郡ごとに設置され、地元の人口情勢に応じて2~6個大隊を編制して管理した。大きな戦場での大隊運用は師団長ないし旅団長に一任されたが、旅団が無く師団長が一括運用しない時は連隊長が保有大隊を動かした。連隊長は運営スタッフを持ち、戦場では基本的に第1大隊と共に行動した。連隊は各地域に根差して組織される恒久的な編制単位であり兵員数が極度に減少してもその存在が失われる事はなかった。従軍中の消耗で少人数となった連隊を幾つもまとめて一部隊として率いる役割も旅団は持っていた。軍政上の大隊管理は連隊長が行い、戦場に応じた大隊の一括運用は旅団長が担当すると考えると分かり易い。

'''騎兵旅団+連隊+大隊+中隊'''

:騎兵旅団は、軍団または騎兵師団に属して、連隊1~4個分の騎兵大隊の戦場運用をまかされた。戦場での基本行動単位である'''騎兵大隊'''(''escadron'')の定員は約200名であり、2個の中隊で構成された。兵営生活の基本単位である騎兵中隊の定員は約100名だったが、実際の人数はその半分程度の事が多かった。特定の地域で設立される恒久的な編制単位である騎兵連隊は、3~4個の騎兵大隊を編制して管理した。戦場の騎兵は大隊ごとに行動するのが基本だったが、集中運用が好まれる重騎兵は複数の大隊をつなげて形成する騎兵旅団の長い隊列で突入する事がよく見られた。

'''砲兵連隊+中隊'''

:歩兵騎兵と異なり、砲兵は中隊単位で戦闘活動に従事した。'''砲兵中隊'''(''batterie'')の定員は約120名であり、砲兵連隊に直接管理された。砲兵連隊は後方の本拠地にある純粋な軍政上の管理組織であり実戦指揮機能は持たなかった。従軍時の砲兵中隊は個別に各師団または各軍団に配属され、戦場では師団長または軍団長配下の砲兵指揮官に指揮された。

== 皇帝近衛隊 ==
[[ファイル:Grenadier Pied 1 1812 Revers.png|サムネイル|200x200ピクセル|近衛歩兵隊のマーク]]
”''L'armée est la vrai noblesse de notre pays.''”(軍隊は我が国の品格である)。1804年5月に発足した皇帝近衛隊(''Garde impériale'')は、ナポレオンの戦争芸術品とも言うべき精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(''Garde des consuls'')から発展した組織だった。皇帝近衛隊は軍団(''corps d'armée'')の編制単位と同等であり、歩兵騎兵砲兵工兵の四兵科と各種牽引兵および支援部門を備えていた。

皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊(''régiment'')単位で管理されていた。1806年以降の近衛歩兵連隊は2個大隊構成となり両大隊は4個中隊を擁していた。各近衛歩兵中隊の兵員数は約100名だった。近衛騎兵連隊は当初は2個大隊構成で、後に重騎兵科は6個大隊、軽騎兵科は10個大隊まで拡張された。各大隊は2個中隊を擁しており、各近衛騎兵中隊の兵員数は約100名だった。しかし従軍中の消耗で後年は定員の半分以下になってる事が多かった。従軍中の各近衛連隊は旅団、師団、集団(''corps'')などの編制単位にまとめられて戦った。各連隊の組み合わせである戦闘序列(''ordre de bataille'')は戦役ごとに大きく変化して一定でなかった。


歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|+ 近衛隊の規模の変遷
|-
|-
! 年 !! 兵士数
! colspan="2" | 近衛隊の規模の変遷
|-
|-
| 1800 || 4,000
! 年
! 兵士数
|-
|-
| 1804 || 10,000(皇帝近衛隊発足)
| 1800
| 3,000
|-
|-
| 1806 || 15,000
| 1804
| 8,000
|-
|-
| 1809 || 31,000(新規近衛隊を追加)
| 1805
| 12,000
|-
|-
| 1811 || 52,000
| 1810
| 56,000
|-
|-
| 1813 || 92,000(若年兵が大量採用された)
| 1812
| 112,000
|-
|-
| 1815 || 25,000
| 1813
| 85,000(ほとんどが新規近衛隊)
|-
| 1815
| 28,000
|}
|}
==== 近衛歩兵 ====
近衛歩兵には経験によって3つの部門があった。
; [[古参近衛隊]] ({{lang|fr|Vieille Garde}})
: ナポレオンの軍隊の中でも超一流のものであった。古参近衛隊は従軍期間の長い古参兵(3から5方面作戦に参加)から構成され2種類の連隊があった。
:; 皇帝近衛擲弾歩兵連隊({{lang|fr|Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale}}):<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref><ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006</ref>
:: 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は大陸軍の中でも最も上級の連隊であった。1807年の[[第四次対仏大同盟|ポーランド方面作戦]]では、ナポレオン自身によって「不平屋」(''{{lang|fr|les grognards}}'')という渾名を付けられた。
:: 構成員は近衛兵の中でも最も経験を積んだ勇敢な歩兵であり、古参兵の中には20回以上戦闘に参加した者もいた。この連隊に入ろうとする者は少なくとも10年間は連隊旗の下にあり、読み書きができ、勇猛さで表彰され、しかも身長が178 cm以上である必要があった。
:: 皇帝近衛擲弾歩兵連隊は中堅近衛兵や新規近衛兵ほど戦闘に参加する機会がなかったが、一度参加したときは賞賛に値する戦果を上げた。1815年に皇帝近衛擲弾歩兵は4個連隊に拡張された。新しい連隊すなわち第2、第3、第4連隊は即座に皇帝近衛擲弾歩兵に格付けされた。この時点では第1連隊ほど力量が望めなかったのは事実である。実際にはこの軍隊は中堅近衛隊と呼ばれた。
:: [[ワーテルローの戦い|ワーテルロー]]でイギリス近衛兵に敗れたのはこれらの連隊であった。第1連隊はプランスノアでプロイセン軍と戦った。皇帝近衛擲弾歩兵連隊の兵士は赤の折り返しのある濃青のハビットロング(尾の長い上着)を着て、赤の肩章と白の襟章を着けていた。最も目に付く特徴は高い熊毛帽であり、彫刻された金の板と赤の羽毛、白の紐で飾られていた。
:; 皇帝近衛猟歩兵連隊({{lang|fr|Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale}})
:: 皇帝近衛猟歩兵連隊は大陸軍の中で2番目に上級の連隊であった。[[猟歩兵]]連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊の姉妹隊であった。この隊に入るには同じような基準があったが、身長のみ172 cm以上であった。
:: 猟歩兵連隊は皇帝近衛擲弾歩兵連隊と同様に幾つかの激しい戦闘に参加し戦果を上げた。1815年のナポレオンの帰還では、猟兵連隊も4個連隊に拡張されたが、第2、第3、第4連隊は経験年数4年の兵士から構成された。これらの連隊は歩兵連隊の中堅近衛兵連隊と共に、ワーテルロー会戦の最終段階で近衛隊突撃に加わった。皇帝近衛擲弾歩兵第1連隊と同様に猟歩兵第1連隊もプランスノアの戦いに参加した。
:: 猟歩兵連隊の兵士も赤の折り返しのある濃青ハビットロングを着用し、緑が縁の赤の肩章と白の襟章を着けていた。戦闘時には濃青のズボンを履いた。これも近衛歩兵と同様に、猟歩兵連隊の顕著な特徴は高い熊毛帽であり、緑に重ねた赤の羽毛と白の紐で飾られていた。<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>
; 中堅近衛隊({{lang|fr|Moyenne Garde}})<ref>[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>
: 2ないし3回方面作戦に参加した古参兵により構成された。
:; フュジリエ猟兵連隊({{lang|fr|Fusiliers-Chasseurs}})
:: フュジリエ(火打石銃兵)猟兵は1806年に中堅近衛歩兵の連隊として創設された。中堅近衛隊のすべての兵士は2ないし3回方面作戦に参加した古参兵であり、戦列連隊の下士官に任命された。全近衛隊の中でも問題なく優秀な歩兵であるフュジリエ猟兵連隊猟兵は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ擲弾兵連隊(下記)と共に近衛フュジリエ旅団の一部として戦闘に参加した。
:: フュジリエ猟兵連隊は広範な作戦行動に参加し、繰り返しその存在価値を示し続けたが、ナポレオンの退位に続く1814年に解散し、1815年のワーテルロー方面作戦に向けて再編制されることはなかった。
:: 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット(上着)を着用し、赤い縁で緑の肩章と白の襟章を着けていた。上着の下は白のチョッキと青か茶色のズボンだった。帽子は円筒帽で、白の紐が着き、緑に重ねた赤の羽毛が着いていた。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と[[銃剣]]および短い[[サーベル]]だった。


=== 古参・中堅・新規近衛隊 ===
:; フュジリエ擲弾兵連隊({{lang|fr|Fusiliers-Grenadiers}})<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref>
最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。
:: フュジリエ擲弾兵連隊は1807年に結成された中堅近衛歩兵連隊である。フュジリエ猟歩兵連隊と同様な基準で組織化されたが、規模がやや大きかった。

:: フュジリエ擲弾兵連隊は、多くの場合に姉妹連隊であるフュジリエ猟兵連隊と共に近衛フュジリエ兵旅団の一部として戦闘に参加した。フュジリエ猟兵連隊とほぼ同様な活動履歴を残し、1814年に解散し、1815年にはやはり再編制されなかった。
'''古参近衛隊(''Vieille Garde'')'''[[ファイル:Montfort - Adieux de Napoleon a la Garde imperiale.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|古参近衛隊との別れ]]
:: 服装は、赤の折り返し着きハビット、赤の肩章と白の襟章、白のチョッキ、白のズボンだった。帽子は[[シャコー帽|円筒帽]]で白の紐と長い赤の羽毛が着いていた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣および短いサーベルだった。
[[古参近衛隊]]は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(''campagne'')従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
:; 近衛海兵隊({{lang|fr|Marins de la Garde}})

:: 近衛海兵隊は1803年に結成された。元々の目的はイギリス本国への侵攻に先立ち、[[イギリス海峡]]を越える時に皇帝を乗せて行く船の操船を行うことだった。大隊は実質上5個中隊だった。イギリス侵攻が中止された後は、近衛隊の一部として残され、戦闘員として活動すると同時に、ナポレオンが使うボートや[[艀|バージ]]あるいはその他の船の操船にあたった。
* 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
:: 制服は金のレース飾りのついたネイビーブルーの[[ユサール]]風ドルマンジャケットと、やはり金のレース飾りのついたネイビーブルーの[[ハンガリー]]風ズボンだった。帽子は Gold Guard と刺しゅうされた円筒帽だった。<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>武器は歩兵と同様で、シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、多くの水夫は作業中に邪魔にならないような[[拳銃]]も持っていた。
* 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
; 新規近衛隊({{lang|fr|Jeune Garde}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>
* 近衛精鋭憲兵隊
: 元々は少なくとも1回の方面作戦に参加した古参兵と、頭脳明晰な若い士官および[[徴兵制度|徴集兵]]の中でも初年で優秀な兵とで構成された。後にはほとんど全員が選ばれた徴集兵と志願兵で満たされることになった。戦闘能力というよりも熱心さで知られていた。
:; 狙撃擲弾兵連隊({{lang|fr|Tirailleurs-Grenadiers}})
* 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊
* 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第5大隊+近衛マムルーク騎兵大隊
:: 1808年にナポレオンの注文で作られた連隊であり、最も知性があり強靱な新兵を新規近衛隊の第1連隊に編入したものであった。新兵の中でも背の高い者が編入された。下士官はすべて中堅近衛隊から編成替えされた。この連隊を徐々に鍛えられた古参兵に変えていくことで、士気と戦闘能力を上げていった。
* 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
:: 制服は濃青の折り返しのある濃青のハビット、赤の肩章、白の管状襟章だった。帽子は赤の紐と赤の長い羽毛が着いた円筒帽だった。
* 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第3大隊
:; 狙撃猟兵連隊({{lang|fr|Tirailleurs-Chasseurs}})
* 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第5大隊
:: 新規近衛隊の中で背の低い新兵がこの連隊に編入された。構成は狙撃擲弾兵連隊と同様だが、士官は古参近衛隊から、下士官は中堅近衛兵から編制替えされた。
* 近衛徒歩砲兵第1連隊
:: 制服は赤の折り返しのある濃青のハビット、白の管がある濃青の襟章だった。さらに赤の縁のある緑の肩章が着いていた。帽子は円筒帽で緑あるいは緑に重ねた赤の大きな羽毛で飾られていた。
* 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊

'''中堅近衛隊(''Moyenne Garde'')'''
[[ファイル:Crofts-Napoleon's last grand attack at Waterloo.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|中堅近衛隊への攻撃命令]]
中堅近衛隊<ref>[http://web2.airmail.net/napoleon/IMPERIAL_GUARD_infantry_1.htm#frenchthemiddleguard Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させた。彼らは同時に古参近衛兵候補であり、また新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員でもあった。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の[[百日天下]]でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

* 近衛小銃擲弾兵連隊
* 近衛小銃猟歩兵連隊
* 近衛軽槍騎兵第1連隊の第4大隊~第6大隊

'''新規近衛隊(''Jeune Garde'')'''[[ファイル:Napoleon-imperial-guard.png|サムネイル|273x273px|近衛隊の閲兵]]
新規近衛隊<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_tirailleurs.html Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815], Accessed March 16, 2006</ref>は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

* 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊
* 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊
* 近衛海兵大隊
* 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊
* 近衛猟騎兵連隊の第6大隊~第9大隊
* 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊
* 近衛軽槍騎兵第1連隊の第7大隊
* 近衛軽槍騎兵第2連隊の第6大隊~第10大隊
* 近衛徒歩砲兵第2連隊
* 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊


==== 近衛====
=== 近衛兵 ===
; 近衛擲弾兵(''Grenadiers-à-Pied de la Garde impériale'')<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_impgren.html Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>
近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(''{{lang|fr|Chasseurs-à-Cheval}}'')と騎馬擲弾兵連隊(''{{lang|fr|Grenadiers-à-Cheval}}'')の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(''{{lang|fr|Gendarmes}}'')大隊および[[マムルーク]](''Mamelukes'')大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(''{{lang|fr|Régiment de Dragons de la Garde Impériale}}''、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド[[槍騎兵]]連隊(''Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais''、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスと[[オランダ]]の新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(''2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale'')あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。
[[ファイル:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|354x354px|近衛擲弾兵]]
: 執政親衛隊の擲弾兵を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、1806年以前はナポレオンの最も頼れる歩兵戦力として、1807年以降は滅多に戦闘に投入されない言わば殿堂入りの存在となり、同時に数多くの特権を与えられて皇帝ナポレオンを護持する為の運命共同体的な役割を果たした。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。第1連隊は40歳前後の者が多く年齢的な衰えから実戦力としての価値は後続連隊に譲っていた。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年の[[ホラント王国]]併合時にその近衛歩兵隊が編入され第3連隊となったが1813年に解散している。1815年の[[百日天下]]の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。
: 装備品は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣と歩兵用小剣(''sabre briquet'')であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。
: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_grenadiers.html Foot Grenadiers in the Imperial Guard], Accessed March 16, 2006</ref>。第2連隊は赤い羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤い羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
:ワーテルローの戦いにおいてイギリス軍のメイトランド旅団に撃破され皇帝近衛軍は総崩れとなった。この功績からメイトランド旅団は第一又は擲弾兵近衛歩兵連隊([[グレナディアガーズ]])と命名された。
; 近衛猟歩兵(''Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale'')
: 執政親衛隊の猟歩兵を起源とする最上級に次ぐ地位の歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。散開して戦う軽歩兵科だった。近衛擲弾兵と双璧をなす彼らも、1806年以前は軽歩兵の最優秀戦力として君臨し、1807年以降は滅多に戦闘に投入されない数多くの特権を与えられた殿堂入りの存在となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。40歳前後が多い第1連隊は事実上の名誉部隊だった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
: 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/chasseurs/c_chasseursapied.html Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。第2連隊は赤+緑の羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤+緑の羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
; 近衛海兵(''Marins''' de la Garde impériale''''')
:1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個の海兵中隊(''équipage'')をまとめていた。近衛海兵中隊の人数は約150名だった。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶やボートの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。
: 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった<ref>[http://www.fusiliers.com/item_gdemarinv8.html Grand Tenue - Marins de la Garde], Accessed March 16, 2006</ref>。
; 近衛小銃擲弾兵(''Fusiliers-Grenadiers''' de la Garde impériale''''')<ref>[http://grenadier1812.narod.ru/uniforme/fusiliers_grenadiers.html FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101], Accessed March 16, 2006</ref>
:[[ファイル:Napoleon Fusilier grenadier by Bellange.jpg|サムネイル|281x281px|近衛小銃擲弾兵]]1806年に近衛擲弾兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛ウェリテス擲弾兵(''Velites-Grenadiers de la Garde impériale'')連隊として組織された。[[ウェリテス]]はローマ帝国の若年軽装歩兵に由来する呼称であり、ナポレオンは二軍部隊の意味で用いていた。彼らは年内に近衛小銃兵(''Fusiliers de la Garde impériale'')第2連隊と改称された。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされてその第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。近衛擲弾兵第1連隊は40歳前後の者が多く年齢的な衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢戦力となったのは近衛擲弾兵第2連隊とこの近衛小銃擲弾兵だった。
:制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
; 近衛小銃猟歩兵(''Fusiliers-Chasseurs''' de la Garde impériale''''')
: 1806年に近衛猟歩兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛小銃兵(''Fusiliers de la Garde impériale'')連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。近衛猟歩兵第1連隊は40歳前後の者が多く敏捷さに衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢となって高度な散兵戦を行ったのは近衛猟歩兵第2連隊とこの近衛小銃猟歩兵だった。
: 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
; 近衛狙撃歩兵(''Tirailleurs''' de la Garde impériale''''')
:[[ファイル:French attack in 1812 in Russia.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|近衛狙撃歩兵]]1809年に近衛狙撃擲弾兵(''Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale'')として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。彼らは隊列を組む戦列歩兵であり、この''’’[[散兵|tirailleurs(狙撃兵)]]’’とはナポレオン流の命名で準精鋭を意味する呼称のようだった。ナポレオンの故郷である[[コルシカ島|コルシカ人]]部隊名にも使われている。''まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が入隊した。狙撃歩兵連隊は言わば精鋭部隊育成の為の練兵場であり、古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって新規近衛兵達を鍛えて戦場に導く形となった。次々と連隊が新設され1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。1813年以降は若者達を近衛兵の名で熱狂させて危険な最前線に駆り立てる為のブランド部隊と化していた面があった。
:制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。赤い飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
; 近衛選抜歩兵(''Voltigeurs''' de la Garde impériale''''')
:[[ファイル:Napoleon Guard Tirailleur and Voltigeur by Bellange.jpg|サムネイル|266x266ピクセル|近衛選抜歩兵と近衛狙撃歩兵]]1809年に近衛狙撃猟歩兵(''Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale'')として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。この名称はナポレオンの発案であり、単に従来の軽歩兵を言い換えたものだった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を築き連携して戦った。ロシア遠征の惨敗で戦局が悪化した1813年から若年兵の大量採用が始まり、近衛兵の誇りを持たされた彼らは消耗の激しい最前線に送り出される事になった。
: 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。


'''近衛側防擲弾兵(''Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale'')'''
近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は[[胸甲騎兵]]と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。
:[[ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg|サムネイル|294x294ピクセル|近衛側防擲弾兵と近衛側防猟歩兵]]ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。
: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+赤の羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。
'''近衛側防猟歩兵(''Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale'')'''
: ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛側防擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。
: 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。


=== 近衛騎兵 ===
; 皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊({{lang|fr|Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale}})
; 近衛騎馬擲弾兵(''Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale'')
:「神」(''Gods'')とも「巨人」(''Giants'')とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの近衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。
:[[ファイル:Guard Grenadier at Eylau.jpg|サムネイル|253x253ピクセル|近衛騎馬擲弾兵]]執政親衛隊の重騎兵を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。
: すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。
: この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ちる功績を挙げたが最も有名な戦闘は[[アイラウの戦い]]の時のものだった。この時、ロシアの60門の大の砲撃暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_eylau.html#4 "Heads Up, By God!" French Cavalry At Eylau, 1807 And Napoleon's Cavalry Doctrine], Accessed March 16, 2006</ref>間もなく彼らはミュラ攻撃に加わりロシア軍の戦列なだれ込んだ。皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊はポーラド槍騎兵連隊とともに、一度も負けことがない近衛騎兵連隊であった。
:近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いでロシア皇帝の騎兵1807年のアイラウの戦い大砲60門による苛烈な集中されるが、指揮官の「諸君あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナレオが最頼り騎兵った。
:制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
: 制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。
; 近衛猟騎兵(''Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale'')
[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|200px|近衛猟騎兵]]
[[ファイル:GericaultHorseman.jpg|thumb|235x235px|近衛猟騎兵]]
; 皇帝近衛猟騎兵連隊({{lang|fr|Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale}})
:1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵を組織しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の[[百日天下]]の時には2個目の連隊も作られて第1連隊(古参近衛隊)と第2連隊(新規近衛隊)が存在する事になった。
:「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。
:近衛猟騎兵は最優秀の斥候であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。
: フランス革命の1796年、ナポレオンは[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征]]に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_guides1796.html By Order of the Commander-in-Chief: the Origin of the Guides-a-cheval], Accessed March 16, 2006</ref>この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。
:彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
: 部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。[[半島戦争|半島方面作戦]]では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。
:; 近衛マムルーク騎兵(''Mamelouks de la Garde impériale'')
: 騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。
:[[ファイル:Mamelouks au défilé.JPG|サムネイル|246x246ピクセル|近衛マムルーク騎兵]]ナポレオンは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年の[[アウステルリッツの戦い]]で活躍した事で独自の軍旗を獲得し増員されて大隊待遇の中隊となった。1813年には新中隊が追加されて正式に騎兵大隊となり、第1中隊は古参近衛隊に、第2中隊は新規近衛隊に所属した。近衛猟騎兵連隊の管理下にあり、その第10大隊とも呼ばれていた。
; 精鋭ジャンダルム大隊({{lang|fr|Gendarmerie d’Elite}})
:彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い[[シャムシール|三日月刀]]と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。
: 滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の[[憲兵]]であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。
; 近衛精鋭憲兵(''Gendarmes d'élite de la Garde impériale'')
: 1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスペルン=エスリンクでの[[ドナウ川|ドナウ]]橋の防衛で有名である。
:[[ファイル:Les gendarmes d'élite devant les grilles des Tuileries, le 20 mars 1811.jpg|代替文=|サムネイル|258x258ピクセル|近衛精鋭憲兵]]皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵から畏怖される存在であった。精鋭憲兵隊(''légion d’élite'')は当初4~6個中隊をまとめ、1813年に12個中隊となった。中隊(''compagnie'')の定員は120名だった。彼らは皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つ他、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は中隊数の増加に伴い前線に出て戦闘する機会が増えた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵科からの者もいた。
: 制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。
: 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。
; [[マムルーク]]大隊({{lang|fr|Escadron de Mamalukes}})
; 皇后竜騎兵(''Dragons de l’Impératice'')
: 恐ろしい砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトは[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。
:[[ファイル:Officier des dragons de la Garde impériale.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|皇后竜騎兵]]1806年に近衛竜騎兵(''Dragons de la Garde impériale'')連隊として創設されたが翌年に改称された。3番目の近衛騎兵隊である彼らの装備品は一般の竜騎兵と異なっており、下馬戦闘を行わなず、場合によっては軽騎兵の任務もこなす多芸な重騎兵の位置付けだった。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。
: ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官は[[エジプト]]人や[[トルコ]]人ばかりでなく、[[ギリシア]]人、[[グルジア]]人、[[シリア]]人、[[キプロス]]人なども含まれていた。
: 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。
: 1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には古参近衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され新規近衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。
; 近衛軽槍騎兵(''Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale'')<ref>[http://www.napoleonseries.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon's Polish Lancers], Accessed March 16, 2006</ref>
: 制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った[[シャムシール|三日月刀]]に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。
:4番目の近衛騎兵隊であり、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えでポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。
; 近衛軽槍騎兵連隊({{lang|fr|Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale}})<ref>[http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_polishlancers1.html Napoleon's Polish Lancers], Accessed March 16, 2006</ref>
:; 第1連隊(ポーランド)
:; 第1連隊(ポーランド)
:[[ファイル:Woodville Richard Caton - Poniatowski's Last Charge at Leipzig 1912.jpg|代替文=|サムネイル|251x251ピクセル|近衛ポーランド槍騎兵]]1795年の[[ポーランド分割]]により祖国を失ってフランスに亡命し、その優れた騎兵技術を買われて皇帝近衛隊に採用されたポーランド軍人達はナポレオンの期待を裏切らなかった。1807年にナポレオンはポーランド人騎兵の功績に応える形で、彼らだけの独立部隊である近衛ポーランド軽騎兵(''Chevaux-légers polonais de la Garde impériale'')連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。翌年の[[半島戦争|スペイン戦線]]のソモシエラの戦いの中で、彼らはスペイン軍砲兵陣地への伝説的な突撃を敢行し大いに名声を高めた。ナポレオンは彼らの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称させた。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍の近衛騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。
:: 1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の近衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年の[[ソモシエラの戦い]]では、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。古参近衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、敵の騎兵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(''1e Vistula Uhlans'')というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。
: 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。
:: [[ウーラン]]槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、かれらの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。
:; 第2連隊(フランス=オランダ)
:; 第2連隊(オランダ、後にフランス
:[[ファイル:Lanciers rouges de la Garde impériale.JPG|サムネイル|222x222ピクセル|赤い槍騎兵]]1810年の[[ホラント王国]]併合時に、その近衛騎兵隊を改組編入させる形で組織された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(''les lanciers rouges'')と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。
:: 1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(''Les Lanciers Rouges'')と呼ばれた。
:制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。
:: この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は古参近衛隊で構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。
:; 第3連隊(ポーランド
:; 第3連隊(リトアニア
: [[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]直前の1812年にナポレオンは祖国回復を夢見る[[リトアニア人]]達の熱意を認めて、彼らの騎兵連隊を新規近衛隊に加えた。1795年の[[ポーランド分割|ポーランド・リトアニア分割]]で[[ロシア帝国]]に祖国を奪われていた彼らは、その遠征に参加する事で自分達の悲願を果たそうとしていた。しかし厳しい遠征の中で苦戦を強いられ、ロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲された後に[[スロニム]]で滅ぼされた。その生き残り達は近衛軽槍騎兵第1連隊に編入された。
:: 1812年に新規近衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。
: 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。
:: 訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲され[[スロニム]]で崩壊した。
; 皇妃竜騎兵連隊{{lang|fr|Dragons de l’Impératice}}
; 近衛儀仗騎兵(''Gardes d'honneur de la Garde impériale''
: ナポレオンの指示で1813年に新設された彼らの役割は、各近衛騎兵連隊に随伴して様々な支援任務をこなす事だった。新しく徴集した青年騎兵の中から選ばれた者達で4個連隊が編制された。ナポレオンは上流家庭と富裕家庭出身の若者達を動員し馬と装備品の費用も負担させる事を望んでいたが、実際には庶民層の若者も少なからず存在していた。彼らは’’''gardes d'honneur(儀仗兵)’’と命名されたが、そのエスコート相手は正規の近衛騎兵連隊たちであり、儀仗兵の名称とは裏腹に露払い的な扱いを受けて最前線に立たされ続けた。彼らの技量は近衛騎兵の水準に達していない事が多かった。富裕家庭の子弟は暗に’’人質’’とも呼ばれていたようで国内資産家の亡命を抑止する狙いもあったという。''これを発展させたものが近衛偵察騎兵となった。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。
: 1806年に皇帝近衛竜騎兵連隊(''{{lang|fr|Regiment de Dragons de la Garde Impériale}}'')として創設され、翌年皇妃[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョセフィーヌ]]に敬意を表して改称された。
: 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。
: この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者も編入を認められた。
; 近衛偵察騎兵(''Eclaireurs de la Garde impériale'')
: この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊と新規近衛隊の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。
:[[ファイル:Sous-officier des éclaireurs-grenadiers, 1814.jpg|サムネイル|287x287ピクセル|近衛偵察騎兵]]ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。
; 皇帝近衛偵察兵連隊({{lang|fr|Eclaireurs de la Garde Impériale}})
: 第1連隊第1大隊の制服は熊毛コルパック帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。
: モスクワからの散々たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。
:; 第1連隊(偵察擲弾兵)
:: クロード・テスト・フェリColonel-Major([[上級大佐]]に近いと思われる)が指揮した。(1814年[[3月14日]]にクラオンヌの戦場で彼は負傷し、ナポレオン自身から[[男爵]]の称号を授かった)
:; 第2連隊(偵察竜騎兵)
:; 第3連隊(偵察槍騎兵)


=== 兵 ===
=== 近衛砲兵 ===
; 近衛徒歩砲兵(''Artillerie a Pied de la Garde impériale'')
皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。
:[[ファイル:Guard Foot Artillery 1808.jpeg|サムネイル|220x220px|近衛徒歩砲兵|代替文=]]前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は当初3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で重砲4門か軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を形成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。
:制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
; 近衛騎馬砲兵(''Artillerie a Cheval de la Garde impériale'')
:[[ファイル:Artillerie a cheval garde tanconville.jpg|サムネイル|238x238px|近衛騎馬砲兵|代替文=]][[ファイル:Napoleon Guard Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|265x265px|近衛砲車牽引兵と近衛砲兵|代替文=]]前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁しており、近衛騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。
: 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
; 近衛砲車牽引兵(''Train d’artillerie de la Garde impériale'')
:近衛砲車牽引兵中隊(''compagnie'')は近衛砲兵中隊(''batterie'')の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した。当初は大隊(''bataillon)''組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊(''régiment'')組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。


== 歩兵 ==
フランス革命の流れの中で、封建制度([[アンシャン・レジーム]])の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。
”''Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite.''”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要(神経)である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多いナポレオン軍の主要構成員であり、密集隊形で戦う'''[[戦列歩兵]]'''(''infanterie de ligne'')と、散開して戦う'''[[軽歩兵]]'''(''infanterie légère'')の二つの兵科に分けられていた。


=== [[戦列歩兵]] ===
役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。
[[ファイル:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|サムネイル|戦列歩兵]]
戦列歩兵(''infanterie de ligne'')はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。


ナポレオンが半旅団(''demi-brigade'')を'''連隊'''(''régiment'')に改称した1803年当時は、112個の戦列歩兵連隊が存在し最終的には156個となった。連隊はフランスの各県ないし郡ごとに組織されていた。戦列歩兵連隊は2~6個大隊+後備大隊で構成されており、大隊の数は地元の人口情勢に左右された。後方支援役の'''後備大隊'''(''bataillon de dépôt'')は4個中隊で構成され主に新兵の教育部署となり、新兵達は連隊の荷車を運搬する小荷駄隊を兼ねた。戦場での基本行動単位である'''大隊'''(''bataillon)''は複数の中隊で構成された。'''中隊'''(''compagnie'')は兵営生活の基本単位だった。
==== 重騎兵 ====
; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'')
: 重騎兵は昔の[[騎士]]よろしく重い真鍮や鉄製の胸甲や兜を着け、長く真っすぐなサーベルと拳銃、後には[[カービン]]銃で武装していた。当初25個連隊あり後に18個連隊となった。
: 騎士と同様にこの部隊は騎兵の突撃部隊だった。かれらの着けている甲冑や武器の重量のために、騎手も馬も大きくて強い必要があり、その結果戦闘時には大きな効果を生み出すはずであった。しかし、かれらは多くの場合軽騎兵や竜騎兵の支援に回った。それにも関わらず、重騎兵は戦場でその能力を証明し、敵に強い印象を残した。特にイギリス軍は胸甲騎兵がナポレオンの近衛騎兵だと誤って信じ込み、その特徴ある胸甲や兜を自軍([http://www.london-tower.info/Horse-Guards/horse-guard.jpg Horse Guards])にも採用しようとした。


1800~1804年の戦列歩兵大隊の構成は、1個擲弾兵中隊+8個小銃兵中隊で各中隊の人数は約120名だった。1805~1807年は1個擲弾兵中隊+7個小銃兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808~1815年は1個擲弾兵中隊+4個小銃兵中隊+1個選抜歩兵中隊で各中隊は約140名となった。擲弾兵中隊は大隊の先頭に立って戦う兵士達の牽引役であり、選抜歩兵中隊は主に散兵線を敷く支援要員であった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て1,600~3,200名という事になるが、従軍中の消耗で実際には定員の5~7割程度になってる事が多かった。
; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}})
: 重騎兵とも思われていたが、フランス騎兵の中重量主力戦闘部隊であり、戦闘、[[散兵]]戦や偵察にも用いられた。
: 彼らは高度に融通が利く存在であり、伝統的なサーベル(トレド鋼製のよく切れる3つ刃のもの)だけでなく、拳銃やマスケット銃(乗馬時には鞍に着けていた)で武装し、騎乗だけでなく歩兵のように徒歩でも戦えるようになっていた。その融通性は歩兵としての能力によるものであり、剣の腕の方は他の騎兵のレベルに届いていないことがあったので、冷笑や愚弄のタネにされた。このパートタイム騎兵に適した馬を見つけることも大変であった。歩兵士官の中には竜騎兵になることを諦めるよう求められた者がおり、互いに反感を抱くこともあった。
: 当初25個連隊、後に30個連隊あったが、1815年の「[[百日天下|百日]]」の時はわずか15個連隊しかできなかった。


連隊は'''連隊本部'''(''état-major'')を持った。大佐が連隊長となり中佐が本部長となった。連隊本部には各スタッフ(会計士官、給与士官、連隊付士官&下士官、旗手、軍医長、鼓手長、軍楽長)と各職人(仕立て師、靴職人、理容師、パン屋、大工、鍛冶師)が在籍した。後備大隊は中佐が管理した。大隊長(少佐)には副官(大尉と中尉)2名と准尉1名と鼓手伍長1名が付いた。准尉は監査役で中佐の部下だった。中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長8名、鼓手2名が付いた。
; 騎馬騎銃兵(Carabiniers-à-Cheval)
: 竜騎兵と武器や役割で類似。しかし、甲冑が軽く元々は胸甲を着けていなかったので、接近戦や白兵戦には向いていなかった。その結果融通性もなくなり、連隊数も少なかった(当初2個連隊)ので、竜騎兵ほど認識されていない。
: 1809年にオーストリアの[[ウーラン]]によって打撃を被り、ナポレオンは甲冑を着けるように命令した。しかし、1812年のボロジノでロシア胸甲騎兵になすところなく敗れ、翌年のライプツィヒでは、ハンガリーのユサールを前に恐怖に震えることになった。


;[[フュージリアー|小銃兵]](''Fusiliers'')
==== 軽騎兵 ====
:[[ファイル:199 - Austerlitz 2015 (23705957414).jpg|サムネイル|小銃兵]]小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。戦場では隊列を組んで進み、指揮官の号令で一斉射撃し、銃剣を構えて敵隊列へ突撃した。フランス軍では銃剣突撃が積極的に行われた。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。近衛隊および高名な連隊では彼らの技量に対する信頼の証として、敵への接近中に個々に狙いを定めて射撃する事も奨励されていた。
; [[ユサール]] ({{lang|fr|Hussards}})
:小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲である[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは[[二角帽子]]をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]を付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。
: この速度があり軽装の騎兵隊はナポレオン軍の目であり、耳であり、誇りでもあった。自身、全軍の中でも一番の騎手であり、剣の使い手と自負していた。この意見は全面的に否定できないし、その華やかな制服は品格を映し出していた。
: 戦術的には[[偵察]]や散兵戦に、また指揮官に敵の動きを知らせ続ける一方で敵には情報を与えないようにする操作や、逃げる敵を追いかける際にも使われた。曲がったサーベルと拳銃のみを携行し、ほとんど自殺行為と思われるほどの向こう見ずな勇猛さで評判だった。30歳まで生き延びたユサールは、真の古参兵でありしかも幸運だといわれた。
: 1804年には10個連隊、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊あった。
; [[猟騎兵]](Chasseurs-à-Cheval)
: 上記のユサールと武装や役割が同じ軽装騎馬隊。ただし、上述の皇帝近衛猟騎兵連隊や歩兵の類似部隊とは異なり、特権的なものもなく、精鋭でもなかった。しかし、最も数の多い部隊であり、1811年に31個連隊あった。このうち6個連隊は非フランス人部隊であり、[[ベルギー人]]、[[スイス]]人、イタリア人、ドイツ人で構成された。
: 制服は色遣いが少なく、歩兵とおなじような円筒帽(ユサールの目立つ熊毛帽と対照)、緑の上着、緑の乗馬用ズボンと短い長靴だった。
; [[槍騎兵]]({{lang|fr|Lancers}})
: ナポレオン軍で最もおそれられた騎馬隊はポーランドのビスツラ・[[ウーラン]]槍騎兵であった。「地獄の闘牛士」とかスペイン語で「ポーランドの悪魔(''Los Diablos Polacos'')」と称され、中装および軽装の騎兵隊はユサールと同じくらいの速度と胸甲騎兵と同じくらいの攻撃力を備え、竜騎兵と同様な融通性もあった。名前が示す通り、槍とサーベルと拳銃を携行した。
: 槍騎兵は槍が歩兵の銃剣より先に届くために、歩兵を正面攻撃するには一番効果があった(1811年の[[アルブエラの戦い]]でイギリスのコルボーン連隊に対して実証された)。また行軍する敵を追い詰めることにも優れていた。他の種類の騎兵隊に対しても同様に効果があり、有名な例としてはワーテルローでロイヤル・スコッツ・グレイズとその指揮官[[ウィリアム・ポンソンビー]]卿の息の根を止めたことである。近衛兵以外に槍騎兵は9連隊あった。戦争の終結後、イギリスはフランス軍に刺激されて独自の槍騎兵連隊を結成した。


;[[擲弾兵]](''Grenadiers'')
<center><gallery widths="180px" heights="150px">
:[[ファイル:Napoleon Grenadier and Voltigeur of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|284x284px|擲弾兵と選抜歩兵]]擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。戦列歩兵連隊の中から背が高く勇敢で精強な者が選ばれて擲弾兵となり、彼らをまとめた擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ配備され、その大隊の先頭に立って戦う兵士達の牽引役となった。擲弾兵中隊は大隊が縦隊を組んだ時はその先頭に立ち、横隊の時は古代ローマ&ギリシャ時代に最も名誉な位置と言われた右端に置かれた。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵集団が編制される事もあり、大規模戦闘隊形の要所に配置されて強力な突破力となった。また、擲弾兵中隊の中から選抜された5名は戦闘工兵(''Sapeurs grenadiers'')と呼ばれ、大斧を振るって敵施設を破壊し味方の為の突破口を作る大隊最精鋭の突入要員となった。
ファイル:Napoleon Carabiner of 1812 by Bellange.jpg| フランス軍のカラビニエ騎兵
: 擲弾兵は威圧感を持つ為に全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣(''sabre briquet'')を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。なお、戦闘工兵は1807年以降も熊毛帽の着用を許されていた。
ファイル:8e hussards 1804(fr).jpg|フランス軍の[[ユサール]]騎兵(1804年)
;{{ill2|選抜歩兵|en|Voltigeur}}(''Voltigeurs''、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
ファイル:Lancer.jpg|ヴィスツラ・[[ウーラン]]槍騎兵
: 1803年に各軽歩兵大隊に一つの選抜歩兵中隊が配備されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵大隊にも同様に選抜歩兵中隊を配備させた。その趣旨は軽歩兵のものとはやや異なり、各戦列歩兵大隊に独自の[[散兵|散兵線]]を持たせる事だった。背が低く射撃技術と身のこなしに優れた者が採用されて選抜歩兵となった。低身長者を選り分けたのは銃剣のリーチを揃える為でもあり、小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられていたからでもあった。彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされて1809年から給与待遇が上げられた。通常は大隊横隊の左端か大隊縦隊の後方に位置し、散開を命じられると前方に展開して[[散兵|散兵線]]を敷いた。また市街戦や山岳戦の際には機敏さを活かした突入要員としても活躍した。師団または連隊内の全選抜歩兵中隊が集められて前面に配置され、広大な散兵線を築く事がしばしばあった。
</gallery></center>
: 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。


=== 歩兵 ===
=== [[軽歩兵]] ===
[[ファイル:Une compagnie d'infanterie légère française dans les bois.jpg|サムネイル|軽歩兵]]
[[ファイル:MuseeMarine-ShakoMarine.jpg|thumb|250px|right|19世紀のフランス海軍の円筒帽]]
近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(''infanterie légère'')と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の周辺に配置されて[[散兵|散兵線]]を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数は少なく、1803年の31個連隊から最終的に37個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。
歩兵はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。


軽歩兵連隊は2~3個大隊+後備大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは1個カービン兵中隊+7個猟歩兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは1個カービン兵中隊+4個猟歩兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。
歩兵は大きく2つに分けられた。1つは[[戦列歩兵]](''{{lang|fr|Infanterie de Ligne}}'')であり、もう1つは軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')であった。


軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けており、哨戒や斥候や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。入隊基準は身のこなしに優れた者であったが、小柄な者が優先採用される傾向があり平均身長は戦列歩兵より2cmほど低かった。当時は小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられており、また森林や藪を素早く駆け抜けて物陰に隠れる動作などにも有利であるとされていた。
==== 戦列歩兵 ====
戦列歩兵は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団(''{{lang|fr|demi-brigade}}''、2個で1個旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の創設時、89個戦列歩兵連隊(''{{lang|fr|Régiments de Ligne}}'')があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。


; [[猟歩兵]](''Chasseurs'')
戦列歩兵連隊はナポレオン戦争中にその規模が変わったが、基本的な構成要素は大隊であった。1個歩兵大隊は約840名であり、これが大隊の定員となり、ほとんどどの隊も変わらなかった。ほかに400名から600名の大隊もあった。1800年から1803年にかけては、戦列歩兵大隊には8個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、7個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵(''{{lang|fr|Voltigeur}}'')中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、4個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵中隊が所属していた。
:[[ファイル:1er régiment d'infanterie légère napolitain, 1812.jpg|サムネイル|277x277px|猟歩兵]]猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器は[[シャルルヴィル・マスケット|シャルルヴィル1777年型マスケット銃]]と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。
: 猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なる[[ポンポン]]が付いた。
; カービン歩兵(''Carabiniers'')
:[[ファイル:Napoleon Voltigeur and Carabinier by Bellange.jpg|サムネイル|225x225px|選抜歩兵とカービン歩兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。軽歩兵連隊の中から背が高く勇敢で精強な猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。
: 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。
; 選抜歩兵(''Voltigeurs''、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
: 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。当初の基準は152cm以下だったが、その後は平均より低い程度となった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦山岳戦の時に活躍し、他に偵察や奇襲も専門とした。ナポレオンの命名である「''voltigeur''」には敵騎兵に対して「飛び上がって」攻撃出来る歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し、後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。
: 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄色の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、1807年からは黄色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。


== 騎兵 ==
; フュジリエ
”''La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.''”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。直線的な白兵戦を専門とする'''重騎兵'''(''cavalerie lourde'')と、それ以外の様々な任務を担当する'''軽騎兵'''(''cavalerie légère'')の二つの兵科があった。騎兵科は当時の戦場の花形であり、貴族階層の者達がその主な担い手となっていたが、フランス革命の勃発で貴族騎兵の大半が国外亡命した為にフランス騎兵はその質をひどく落とす事になった。しかし革命戦争の中で徐々に再建され、ナポレオンによる組織改革を経てヨーロッパ一流のものとなった。
: フュジリエ(火打石銃兵)は歩兵大隊の大部分を占めており、大陸軍の典型的な歩兵と考えてよい。武器は[[滑腔砲|旋条のない]]前込め、火打石式シャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であった。訓練は行軍速度と持続時間に重点が置かれ、接近戦や白兵戦での個々に狙いを定めた射撃が続いた。このことはヨーロッパの敵国の大多数と異なるところであり、他国ではきちんとした隊形で動き一斉射撃を行うことに重点が置かれた。
: ナポレオン戦争初期のフランス軍の勝利は、長い距離を素早く移動できる能力にあり、その能力は歩兵に課された訓練の賜物だった。1803年から1個大隊は8個フュジリエ中隊となり、1個中隊はおよそ120名であった。1805年にフュジリエ中隊の1つを改組して1個選抜歩兵中隊を創設した。1808年、ナポレオンは歩兵大隊を9個中隊から6個中隊に変えた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個はフュジリエ中隊、1個は擲弾兵中隊、残る1個は選抜歩兵中隊であった。
: 帽子は[[二角帽子]]であり、1807年に円筒帽に変わった。制服は白のズボン、白の外衣と濃青の上着(1812年まではハビットロング、その後はハビットベスト)に白の襟章を着け、赤の襟と袖口であった。帽子には色のついた[[ポンポン]]を着けていた。このポンポンの色は中隊毎に異なっていた。1808年以後の編成替えで、第1中隊は濃緑のポンポン、第2中隊は空色の、第3中隊は橙色の、第4中隊はすみれ色のポンポンという按配だった。
[[ファイル:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|thumb|250px|擲弾兵(左)と選抜歩兵(右)]]
; 擲弾兵
: 擲弾兵はナポレオン戦列歩兵の精鋭であり、敵に打撃を与える部隊として古参兵で占められた。新しく作られた大隊には擲弾兵中隊が無かった。ナポレオンは、2回の方面作戦に参加させた後に最強で勇敢で背の高いフュジリエを擲弾兵中隊に昇格させ、大隊の中には2個以上の擲弾兵中隊ができたものもあった。
: 擲弾兵の新兵の条件は連隊の中でも背が高く恐ろしげであり、しかも口ひげを生やしているということになった。これに加えて帽子が熊毛になり上着には赤の肩章を着けた。1807年以後熊毛帽は赤い線と赤の羽毛のついた円筒帽に置き換えられた。しかし多くの者が熊毛帽を好んだ。標準のシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣に加えて擲弾兵は短いサーベルを帯びた。これは接近戦で使うためであるが、焚き火の木を切る道具となってしまった。
: 擲弾兵中隊は通常最も伝統的栄誉ある場所として隊列の右端に位置した。作戦行動中、擲弾兵中隊は擲弾兵大隊を形成したり、時には連隊や旅団を形成することもあった。この配置はより大きな戦闘隊形の前衛に置かれた。
; 選抜歩兵選抜歩兵(Voltigeurs、意味合いからは飛び上がる者)
:選抜歩兵選抜歩兵は戦列連隊のエリート軽歩兵であった。1805年、ナポレオンは戦列大隊の中で背は小さいが敏捷な者を選んで選抜歩兵中隊を作るよう命じた。この中隊は大隊の階層の中では擲弾兵中隊に次ぐものである。その名前はもともとの使命からきている。選抜歩兵中隊は敵の騎兵に対し馬に飛び上がって戦うというもので、風変わりなアイデアだったが戦闘ではうまくいかなかった。それにも拘わらず、選抜歩兵は重要な任務をこなし、散兵戦や各大隊の偵察などを行った。その訓練では射撃技術や素早い動きに重点が置かれた。
: 帽子は二角帽で黄と緑あるいは黄と赤の大きな羽毛が付いていた。1807年以後、円筒帽に変わり黄の線と同様な羽毛が付いた。上着には緑の線のある黄の肩章と黄の襟が付いた。もともとの武器は短い竜騎兵用マスケット銃であったが、実際にはシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣を装備した。擲弾兵と同様に、接近戦用に短いサーベルを帯びたがやはりあまり使われなかった。各選抜歩兵中隊はまとめられ、軽歩兵連隊や旅団を作ることがあった。1808年以後戦列の左端に位置した。この位置は伝統的に戦列戦闘の2番目に栄誉あるものであった。


革命前の旧体制下では、精鋭集団であるカービン騎兵連隊2個、白兵戦専門の大騎兵連隊24個、乗馬歩兵である竜騎兵連隊18個、フランス式軽騎兵の猟騎兵連隊6個、ハンガリー式軽騎兵のユサール騎兵連隊6個が存在し、革命戦争期間に幾度か改編され取り分け猟騎兵連隊が増設されていた。1802年頃から騎兵の組織改革に取り組んだナポレオンは、大騎兵(''Grosse cavaleries'')を約半数に選別し、重量胸甲を着せて胸甲騎兵と改称させ重騎兵の一線級とした。この胸甲騎兵による肉弾突撃を多用したのがナポレオン戦術の特徴だった。選別に漏れた者達は竜騎兵に転向させられたので竜騎兵の数は倍増し重騎兵の二線級に位置付けられた。また軽騎兵の育成を強化し、ハンガリー式である[[ユサール|ユサール騎兵]]を一線級に定めて軍服を華やかに飾らせた。フランス式である猟騎兵は二線級とされ質より量の方針で大幅に増員させた。ナポレオンは軽騎兵による組織的な偵察活動を特に重視した。後年にはポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵としてフランス軍に導入した。
==== 軽歩兵 ====
戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(''{{lang|fr|Infanterie Légère}}'')も重要な役割を果たした。軽連隊は35個連隊を超えることはなかった(戦列歩兵の155連隊と対照)。また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。


騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は概ね4個大隊+後備大隊で構成された。戦場での基本行動単位である'''騎兵大隊'''(''escadron'')は2個中隊構成であり、兵営生活の基本単位である騎兵中隊の人数は約100名だった。後方支援役である'''後備大隊'''(''escadron'' ''de dépôt'')は新兵教育と軍馬の入れ替えと小荷駄隊を兼ねていた。各連隊の第1大隊の第1中隊は'''精鋭中隊'''(''compagnie d'élite'')であり連隊内の選抜者が入隊した。騎兵連隊は従軍中の消耗で定員に足りてない事が多く、後年は半数以下になってる連隊も珍しくなかった。騎兵連隊は'''連隊本部'''(''état-major'')を持ち、大佐が連隊長となり中佐が本部長となった。連隊本部のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じで、それに獣医と馬鞍職人と蹄鉄職人が加わった。騎兵大隊と中隊の士官構成も歩兵科とほぼ同じだったが、胸甲騎兵中隊に限り下士官の定員が他の半分となっていた。
軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。


=== 重騎兵 ===
軽歩兵大隊の構成は戦列歩兵大隊のものそのものであったが、擲弾兵、フュジリエ、選抜歩兵については異なった種類の部隊があてられた。
; [[胸甲騎兵]](''{{lang|fr|Cuirassiers}}'')
:[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|胸甲騎兵]]突撃と白兵戦を専門とする彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、胸甲を身に着け兜をかぶり直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にカービン銃も装備品となったが携行しない者もいた。1802年までは大騎兵(''Grosse cavaleries'')という名称で27個連隊が存在したが、1803年の騎兵改革で12個連隊に選別され、重量胸甲の着用を義務付けられた彼らは胸甲騎兵と改称した。1810年頃に2個の連隊が追加された。大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し戦いの流れを変える決定打となり、危険な突撃を敢行する彼らには高い名誉が与えられていた。彼らの胸甲と兜は銃弾に対しても、白兵戦におけるサーベルと槍に対しても大きな防護効果を発揮した。<ref name=":1">{{Cite book|author=|title=戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編|date=|year=|accessdate=|publisher=創元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用してそれがナポレオン軍の強さにつながった。
:胸甲騎兵はナポレオン時代における最強の騎兵であり、近衛騎馬擲弾兵と並び他国の悩みの種となった。<ref name=":1" />
:しかし、オーストリア軍のウーラン、ロシア軍のコサック、イギリス軍の胸甲騎兵もナポレオン軍の胸甲騎兵に勝るとも劣らない戦闘力と勇猛さを持っていた。<ref name=":2">{{Cite book|author=|title=図解 ナポレオンの時代 武器・防具・戦術大全|date=|year=|accessdate=|publisher=レッカ社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
: 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。鉄と真鍮製の兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。
; カービン騎兵(''Carabiniers-à-Cheval'')
:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊であり2個の連隊が存在した。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に疲労が増し落馬時の受け身と離脱行動も難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増すると徐々に消耗を強いられ、1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵に胸甲の着用を命じた。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に金色の胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。
; [[ドラグーン|竜騎兵]](''Dragons'')
:[[ファイル:Battle of Jena.jpg|サムネイル|258x258ピクセル|竜騎兵]]彼らは重騎兵科であったが軽騎兵と同様の任務を担う事もあり、正面戦闘の白兵戦を行う他、哨戒や斥候などの遊撃任務も担当する多芸で汎用な存在だった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1803年の騎兵改革で15個の大騎兵(''Grosse cavaleries'')連隊が竜騎兵連隊に改組される事になり、1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組された。
:制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。

=== 軽騎兵 ===
; [[ユサール|ユサール騎兵]](''Hussards'')
:[[ファイル:9e Hussards, par Victor Huen.jpg|サムネイル|ユサール騎兵]]ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥候を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、精鋭であるユサール騎兵は特に目覚しい働きを見せていた。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であり、30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主(卑怯者)であると言われた。<ref name=":1" /><ref name=":2" />1804年に12個連隊が存在し、1814年に14個連隊となった。
: ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は熊毛コルパック帽だった。
; [[猟騎兵]](''Chasseurs-à-Cheval'')
:[[ファイル:Grande Armée - 1st Regiment of Chasseurs à Cheval.jpg|サムネイル|201x201ピクセル|猟騎兵]]彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年に24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く訓練も簡素で短かった。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけで実戦投入される事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。
:猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。精鋭中隊は熊毛コルパック帽をかぶった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。
; [[槍騎兵]](''Lancers'')
:[[ファイル:Chevau-léger lancier du 2e régiment by Bellange.jpg|サムネイル|259x259ピクセル|槍騎兵]]ポーランド式槍騎兵([[ウーラン]])を高く評価したナポレオンは、1811年に6個の竜騎兵連隊と1個の猟騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。更に槍騎兵の本場である同盟国ポーランド([[ワルシャワ公国]])から2個の槍騎兵連隊の提供を受けて合計9個連隊となった。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は前後二列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド式戦術の正しさが証明されると後列には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite book|author=中里融司|title=覇者の戦術 戦場の天才たち|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元文庫|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は力不足を指摘される事が多かった。また、騎兵槍は騎兵同士の戦闘では乱戦でかえって邪魔になる事も多く、槍を捨ててサーベルに武器を切り替える事も珍しくなかった。<ref name=":1" />槍騎兵は乱戦に弱いという欠点があり、背後にサーベルを主力武器とする騎兵が控えて援護していた。<ref>{{Cite book|author=R・G・グラント|title=兵士の歴史 大図鑑|date=|year=|accessdate=|publisher=創元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>また、槍騎兵の育成には手間がかかり、木製の騎兵槍で訓練をしていた。<ref>{{Cite book|author=ハーピー・S・ウィザーズ|title=世界の刀剣歴史図鑑|date=|year=|accessdate=|publisher=原書房|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
:制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。
:胸甲騎兵には及ばないもののナポレオン時代に復活した槍騎兵は、多くの騎兵がサーベルを主力武器とする中、実戦で恐ろしい威力を発揮した。<ref>{{Cite book|author=市川定春|title=武器事典|date=|year=|accessdate=|publisher=新紀元社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>

== 砲兵 ==
”''Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.''”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref>。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。'''徒歩砲兵'''(''Artillerie a pied'')と'''[[騎馬砲兵]]'''(''Artillerie a cheval'')の二つの兵種があった。更に行軍時の大砲運搬を担当する砲車牽引兵(''Train d’artillerie'')と、大砲の台車や荷車その他の修理修繕を行う工匠兵(''Ouvriers'')と、大砲の修理修繕を行う大砲鍛冶兵(''Armuriers'')の三つの支援兵種があった。また、作戦用の橋を設置する架橋工兵(''Pontonniers'')も砲兵科に属する兵種だった。

'''砲兵連隊'''

: 1805年には徒歩砲兵連隊8個と騎馬砲兵連隊6個が存在した。1810年に徒歩9個、騎馬7個となった。徒歩砲兵連隊は20個の徒歩砲兵中隊(''compagnie'')を管理した。騎馬砲兵連隊は6個の騎馬砲兵中隊(''compagnie'')を管理し1814年に8個となった。砲兵連隊(''régiment'')は連隊本部(''état-major'')を持ち、大佐が連隊長となり少佐(''chef de bataillon'')が本部長となった。連隊本部のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じだった。徒歩砲兵連隊は5個の部署(''section'')を持ち、少佐が部長となってそれぞれ4個の徒歩砲兵中隊を管理した。騎馬砲兵連隊は3個の大隊(''escadron'')を持ち、少佐が大隊長となってそれぞれ2個の騎馬砲兵中隊を管理した。1814年には4個の大隊となった。砲兵連隊は後方の本拠地にある純粋な軍政上の管理組織だったので、従軍時の各砲兵中隊は個別に師団または軍団に配属され、戦場では師団長または軍団長配下の砲兵指揮官の指示下で戦った。平時中隊(''compagnie'')は師団軍団に組み込まれると従軍中隊(''batterie'')と呼ばれた。


'''砲兵中隊'''
; 猟兵({{lang|fr|Chasseurs}})
: 猟兵は軽歩兵大隊のフュジリエである。これが大隊の大部分を占めた。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であったが、接近戦用の短いサーベルも帯びていた。ナポレオン軍に共通することだが、この武器もすぐに焚き火の木を切る道具となってしまった。
: 1803年からは、各大隊に8個猟兵中隊があった。1個中隊は約120名であった。1808年、ナポレオンの命令で各大隊が9個中隊から6個中隊に編制替えされた。新しい中隊は構成員の数が140名となり、このうち4個中隊は猟兵中隊であった。
: 猟兵の制服はフュジリエよりも華美なものであった。1806年までは円筒帽に濃緑の大きな羽と白の紐が付いていた。制服は戦列歩兵よりも暗い青で小競り合いのときのカムフラージュにもなった。上着は戦列歩兵と同じだったが、折り返しと袖口は濃青だった。また濃青と赤の肩章を付けていた。ズボンは濃青で靴は騎兵のような長いものだった。1807年以降円筒帽は標準の円筒帽に置き換えられたが白の飾り紐は着いていた。
: 戦列フュジリエと同様、帽子には色のついたポンポンを着けていたが、その色は連隊ごとに異なるものだった。


: 徒歩砲兵中隊(''batterie'')は[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門を持つのが標準で、騎馬砲兵中隊(''batterie'')は[[カノン砲]]6門を保有するのが標準だった。砲兵中隊には大尉2名、中尉2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長4名がいた。砲兵は1等と2等にランク分けされていた。
; 騎銃兵({{lang|fr|Carabiniers}})
:師団には標準1個の砲兵中隊が配属されて'''師団砲兵'''(''artillerie divisionnaire'')と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ'''軍団予備砲兵'''(''réserve d'artillerie du corps'')となった。師団砲兵は所属軍団の軍団予備砲兵に合流して運用される事もあった。騎兵軍団の予備砲兵は大抵、配下師団砲兵を集結させたものとなった。大砲の大量鹵獲により余裕が出た1809年からは革命戦争末期に廃れた連隊砲兵(''artillerie régimentaire'')の配備が再び始まり、[[カノン砲]]2門を持つ砲兵分隊(''escouade'')が配属された歩兵連隊も存在するようになったが、ロシア遠征での大量喪失で再び消滅した。
: 騎銃兵は軽歩兵大隊の擲弾兵である。2回の方面作戦参加を経験し、背が高く勇敢な猟兵が憲兵中隊に選ばれた。彼らは大隊の精鋭部隊であった。擲弾兵と同様に口ひげを蓄えることを要求された。
: 武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣、および短いサーベルであった。帽子は高い熊毛帽だった(1807年に赤の縁のある円筒帽で赤の羽毛の付いたものに置き換えられた)。
: 制服は猟兵と同じだが、赤の肩章だった。騎銃兵中隊はより大きな騎銃兵部隊を構成することがあり、突撃を要するような作戦に使われた。
; 選抜歩兵({{lang|fr|Voltigeurs}})
: 特別兵は戦列歩兵大隊のものと同じ任務であったが、さらに敏捷性と射撃の腕を求められた。
: 制服はフュジリエと同様であったが、黄と緑の肩章であり、1806年より前に毛皮製高帽(''colpack'')が円筒帽に取って代わった。毛皮製高帽には赤の上に黄の大きな羽毛と緑の紐が付いていた。1807年以降、円筒帽に変わり黄の大きな羽毛と黄の紐だった。この選抜歩兵中隊も必要に応じて大きな部隊を構成することがあった。


=== 砲兵 ===
'''砲兵分団'''
皇帝は砲兵士官の出身であり、次のように言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」<ref name="artillery">Mas, M.A. M., p.81.</ref> ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。


: 砲車牽引兵中隊(''compagnie'')は砲兵中隊(''batterie'')の大砲運搬に一対一で対応した<ref name=":0">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>。このペアは砲兵分団(''division d’artillerie'')と呼ばれた。当時の’’''division’’''は師団または中隊ペアの二つの意味で使われており、前者は軍を複数に分割した事に由来し、後者は大隊を複数に分割する事に由来した。砲兵分団には工匠兵と大砲鍛冶兵も同行して荷車と砲車と大砲の修理修繕を担当した。砲兵分団は言わば従軍ユニットだった。
絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。王政時代に[[ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバル]]が設計した[[グリボーバル・システム|フランス砲]]は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常の[[野戦砲]]は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]があったが、戦争後期には4ポンド砲と8ポンド砲は[[オーギュスト・マルモン]]が設計した[[共和暦11年システム|共和暦11年式]]6ポンド砲に置き換えられた。砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製で<ref>[[青銅砲]]とされる場合もあるが、いわゆる青銅([[銅]]と[[錫]]の合金)に加え、[[真鍮]](銅・[[亜鉛]]合金)、[[砲金]](ガンメタル、銅・錫・亜鉛合金)製のものも含め青銅(ブロンズ)と呼ぶことがあるためである。</ref>、砲架、車輪、および[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することもできた。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊(''Artillerie a Pied'')と騎乗砲兵隊(''Artillerie a Cheval'')があった。
:'''砲車牽引兵'''は、1805年に5個中隊を管理する大隊10個があった。1808年に6個中隊を管理するようになり、1811年に27個大隊にまで拡張された。砲車牽引兵大隊(''bataillon'')は軍政上の管理組織であり、各牽引兵中隊は個別に出動して従軍時の砲兵中隊とペアを組んだ。または大隊自体が直接軍団に随伴して各中隊の割り当てを指揮する事もあり、その場合は精鋭扱いの第1牽引兵中隊が騎馬砲兵中隊を担当するのが通例だった。1809年からは連隊砲兵を運搬支援する分遣隊も柔軟に編制されるようになった<ref name="Elting2" />。
:'''工匠兵'''は1811年に18個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。'''大砲鍛冶兵'''は1811年に5個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。工匠兵と大砲鍛冶兵は中隊(''compagnie'')ごとに各軍団の兵站部(''parc'')などに配属され、5名位のグループに分かれて活動していた。


'''大砲'''
<gallery widths="180px" heights="150px">
: 旧体制時代の1765年に発明された[[グリボーバル・システム]]と呼ばれる大砲製造技術は、フランスの大砲品質を大きく向上させ、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。砲身はより軽く運搬が容易になり、品質の均一化に伴う口径の規格化によって照準も合わせやすくなった。標準規格は4ポンド、[[8ポンドグリボーバル野砲|8ポンド]]、[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンド]]の[[野砲|カノン砲]]と[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ]]の[[榴弾砲]]に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した[[共和暦11年システム|共和暦11年式システム]]を発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で主に軍団予備砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は[[真鍮|真鍮(黄銅)]]製であった。[[青銅砲]]ともされるがこれは慣例上、[[真鍮]]製の物も含めて[[青銅]]砲と呼ばれたからである。[[砲架]]、車輪、[[前車]]はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。
ファイル:Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|戦争前期の野戦用重カノン砲、[[12ポンドグリボーバル野砲|グリボーバル12ポンドカノン砲]]
<gallery widths="180" heights="120" mode="packed">
ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|グリボーバル6インチ榴弾砲]]
ファイル:Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg|[[12ポンドグリボーバル野砲|12ポンドカノン砲]]
File:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|戦争後期の主力野戦カノン砲であった、共和暦11年式6ポンドカノン砲<br>[[:en:Canon de 6 système An XI|Canon de 6 système An XI]]
ファイル:Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg|[[:en:Canon de 6 système An XI|6ポンドカノン砲]]
ファイル:Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg|[[6インチグリボーバル榴弾砲|6インチ榴弾砲]]
</gallery>
</gallery>
; 徒歩砲兵(''Artillerie a pied'')
:[[ファイル:French foot artillery 1809.jpeg|サムネイル|277x277px|徒歩砲兵]]徒歩砲兵は標準的な砲兵だった。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名であり、標準保有数は[[カノン砲]]6門と[[榴弾砲]]2門の計8門だったが、従軍中の破損でその半数程度になってる事が多かった。徒歩砲兵中隊の構造は二通りあり、'''(A)'''下士官が大砲1門(''pièce'')を管理し、その下士官2人(伍長と軍曹)を士官が管理して大砲2門の分隊(''escouade'')を構成し、その士官2人(中尉と大尉)で大砲4門の半中隊(''demi-batterie'')を構成するものと、'''(B)'''下士官が大砲1門(''pièce'')を管理し、その下士官数名を大尉が管理し中尉は補佐となって半中隊(''demi-batterie'')を構成するものがあった。砲兵中隊には大尉が2人いたので半中隊2個のペア部隊と言えた。先任の大尉が中隊長になった。従軍中の大砲破損で大抵は(B)になっていた。この構造から砲兵中隊は分割運用される事が多かった。
:制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
;[[騎馬砲兵]](''Artillerie a cheval'')
:[[ファイル:Detaille - Artillerie à cheval de la Garde Imperiale.jpg|サムネイル|268x268ピクセル|騎馬砲兵]]騎馬砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており総人数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で[[カノン砲]]6門を保有するのが標準だった。これも半中隊(''demi-batterie'')に分けて運用される事がしばしばあった。
:制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
'''砲車牽引兵(''Train d’artillerie'')'''
:[[ファイル:Napoleon Artillery train and Foot artillerist by Bellange.jpg|サムネイル|238x238ピクセル|砲車牽引兵と砲兵]]砲車牽引兵は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref>。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を捨て去る事が多かったので<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref>、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。各砲車牽引兵中隊は各砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応した。砲車牽引兵中隊では曹長が中隊長になった。牽引兵は一等と二等のランクに分かれていた。
:制服は黄色のチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て、黄色のズボンを履き、黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルとカービン銃で武装した。一等牽引兵は短いサーベルと拳銃で武装して敵襲に対応する役目も担った。二等牽引兵はほぼ丸腰だったようで運搬労務に専念した。


==== 徒歩砲 ====
== 兵 ==
この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに近衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは管理上の組織であった。主要な作戦上および戦術上の部隊は120名からなる大隊(または中隊)であり、旅団の中に作られるか師団や軍団に割り当てられた。
; 師団砲兵隊
: 各師団は3ないし4個大隊で編成される1個連隊があり、1個大隊にはカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門が配備された。
; 軍団砲兵隊
: 各軍団も独自の1個連隊以上の砲兵隊があり、たいていは大きく重い大砲を装備していた。


"''On doit changer sa tactique tous les dix ans si l'on veut maintenir sa supériorité.''”(もし敵より優位に立ち続けたいのならば十年ごとに戦い方を変えたまえ)。新しい技術の発見と採用に熱心であったナポレオンは工兵の重要性を明確に認めて、工兵科の給与待遇を騎兵科より上にし砲兵科に並ぶ水準まで引き上げていた。
大隊の要員は砲兵、下士官、士官の他に金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も含んでいた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。


工兵は工兵中隊(''compagnie'')にまとめられて行動した。工兵中隊の人数は平均150名だった。軍政上の管理組織である工兵大隊(''bataillon'')が6~8個の工兵中隊を管理していた。工兵中隊は前線での必要に応じて個別に各軍団に配属され、従軍中は軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けて活動した。なお、工兵科(''Génie'')に属していたのは土木工兵と坑道工兵と工具牽引兵の三つの兵種であった。架橋工兵は砲兵科に属していた。戦闘工兵は擲弾兵中隊から選抜されて戦列歩兵大隊の先頭に立つ攻城戦時の突入要員だった。
==== 騎乗砲兵隊 ====
騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早い砲撃に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。


'''土木工兵(S''apeurs'')'''
前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。
[[ファイル:Sapeurs du génie de la Garde impériale, 1810.jpg|サムネイル|232x232ピクセル|近衛土木工兵]]
:土木工兵は軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は150~200名だった。1812年には8個大隊まで増やされた。土木工兵大隊は軍政上の管理組織であり、戦場では中隊ごとに活動していた。土木工兵中隊は各軍団に複数個配属されて、軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。皇帝近衛隊には'''近衛土木工兵'''(''Sapeurs de la Garde impériale'')の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。


'''坑道工兵(''Mineurs'')'''
近衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いた[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。


:坑道工兵は城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。1805年には9個の坑道工兵中隊が存在した。1808年には12個中隊まで増やされ、2個の大隊が設置されて、それぞれが6個中隊を管理した。坑道工兵中隊の兵員数は150~200名だった。坑道工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて個別に各地の軍団に配属された。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。
管理上の連隊は6個、さらに近衛兵に1個あった。騎兵部隊に割り当てられた大隊に加えて、ナポレオンは各軍団にまた可能ならば各師団に少なくとも1個大隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。


'''工具牽引兵(''Train du génie'')'''
積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。


:工具牽引兵は、土木工兵と坑道工兵が使用するシャベル、つるはし、鍬、鋤などの大小様々な土木用具および各種資材を専用の荷車で運搬した。1806年に創設されて1810年には6個中隊が存在した。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をしていた。
==== 砲車牽引隊 ====
砲車牽引隊(''{{lang|fr|Train d’artillerie}}'')はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997</ref> それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。<ref name="Elting2">Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997</ref>


'''架橋工兵(''Pontonniers'')'''
砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。


:[[ファイル:Lawrence Alma-Tadema 12.jpeg|サムネイル|180x180ピクセル|架橋工兵]]架橋工兵は工兵科(''Génie'')ではなく砲兵科(''Artillerie'')に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「[[艀|はしけ]]」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であった[[ジャン=バティスト・エブレ|ジャン・バプティスト・エーブレ]]による技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。彼らは砲兵科だったので必要な資材、工具、特殊部品を積んだ専門の荷車の運搬は砲車牽引兵が担当した。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程の[[艀|はしけ]](艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵中隊の兵員数は100~150名だった。架橋工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて各地の軍団に配属され中隊ごとに活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には'''近衛架橋工兵'''(''Pontonniers de la Garde impériale'')の1個中隊が存在した。
彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人また[[チロル]]のゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。


'''戦闘工兵(S''apeurs grenadiers'')'''
各砲車牽引隊は当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵大隊に配属された。中間の3個中隊は徒歩砲兵大隊に配属され、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶、なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬の訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、大隊の中には旅団の大砲を取り扱う中隊を創設するものがあり、歩兵隊に付属された。<ref name="Elting2"/>
[[ファイル:Gaston Lenthe.jpg|代替文=|サムネイル|250x250ピクセル|戦闘工兵]]


:戦闘工兵は厳密には工兵(''Génie'')ではなく、擲弾兵中隊の中から5名の者が選抜された戦列歩兵大隊最精鋭の突入要員であった。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、防塞を打ち壊して味方の為の突破口を作り、また敵が使う橋梁や各種施設を破壊して回った。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは熊毛帽をかぶり、擲弾兵の制服の上に足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊(第1大隊第1中隊)から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。
近衛兵は独自の牽引隊を持っており、近衛砲兵隊が増えるにつれて拡張し、大隊よりもむしろ連隊として組織化された。頂点は1813年から1814年にかけてで、近衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、近衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵大隊に1個中隊ずつ配備された。<ref>Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997</ref>


== 支援部隊 ==
== その他の兵科 ==
; 憲兵(''Gendarmes'')
=== 技師 ===
騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。


[[ファイル:Gendarme d'élite au quartier général de l'Empereur.jpg|サムネイル|251x251ピクセル|憲兵|代替文=]]
大陸軍の橋梁技師(''{{lang|fr|pontonniers}}'')はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に[[艀]](はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。
:軍隊内の不正を調査し軍規を引き締める役割を担っていた憲兵は、憲兵隊(''légion'')の編制単位でまとめられていた。憲兵隊の兵員数は50~120名であり中隊と同規模の集団だった。騎馬憲兵と徒歩憲兵の比率は6:4だった。1804年に27個の憲兵隊が存在し、1811年には34個まで増やされた。憲兵隊は各軍団に1個ずつ配属されており、また各方面の要地にも出向した。全憲兵隊は憲兵総監(''Inspecteur général des armées gendarmerie'')に管理されていた。
:皇帝近衛隊内に組織されたものは精鋭憲兵隊(''légion d’élite'')と呼ばれ、これは騎兵連隊と同規模の集団となり複数の憲兵中隊(''compagnie'')をまとめていた。憲兵中隊の兵員数は120名だった。1804年は騎馬4個と徒歩2個の計6個中隊が存在し、1806年に徒歩憲兵中隊が廃止されて4個騎馬憲兵中隊となり、1813年には12個騎馬憲兵中隊にまで拡張された。
:制服は熊毛帽をかぶり、黄色のチョッキの上に赤い襟返しと赤い襟と赤い袖口の濃青色コートを着て、黄色のズボンを履いていた。


; 海兵(''Marins'')
技師達が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは橋梁技師の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ技師[[ジャン=バティスト・エブレ|ジャン・バプティスト・エーブレ]]将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個技師中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。


:[[ファイル:Marins de la Garde royale napolitaine, 1812.jpg|サムネイル|282x282ピクセル|海兵]]海兵とは海軍に属す兵科であり、水兵(''Matelots'')と共に軍用船に乗り込んだが、船舶の操作を担当する水兵とは異なり、艦砲の砲手と艦上での白兵戦を専門とする者たちだった。近世の帆船同士の戦いでは大砲を放ちながら船体をぶつけて接舷した後に、海兵たちが斬り込んで敵乗組員を駆逐し敵艦の捕獲にまで到るケースが最も多かった。彼らは海戦時の主役であり、また敵地に上陸する際は歩兵戦力として活躍した。
橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木[[工兵]]の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝が[[エーカーの包囲戦]]など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。


:[[ファイル:Napoleon Guard Marine by Bellange.jpg|サムネイル|265x265px|近衛海兵|代替文=]][[アンシャン・レジーム|旧体制時代]]の国王海軍海兵部隊は、フランス革命後の1794年に7個の歩兵半旅団に改組される形で一時消滅したが、イギリス上陸作戦が計画される中の1803年に海軍内に再び組織されて、砲手海兵(''Artellerie de la Marine'')の名称で4個の海兵連隊が編制される事になった。加えて皇帝近衛隊の中にも近衛海兵大隊が新設され、選抜された海兵達がその構成員となった。1805年後半にイギリス上陸作戦が中止されると、海兵の一部は陸軍の指揮下に移され、イギリス海軍に備えた沿岸警備を担当するようになった。ロシア遠征敗北後の1813年になると4個の海兵連隊は陸上海兵(''Infanterie de Marine'')と改称された後に大陸軍(グランダルメ)に組み込まれて内陸部へと従軍し、ドイツ方面の戦いに投入された彼らは[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの戦い]]などに参加した。
ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(''{{lang|fr|jeu de mot}}'')と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる[[ジン (アラブ)|精霊]](''Genie'')にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が [[:fr:Génie militaire|'''Génie''' militaire]] と呼ばれるのはこの名残と思われる。


:海兵連隊では海軍式の構成と階級が用いられており、第1連隊は8個大隊、第2連隊は10個大隊、第3連隊と第4連隊は4個大隊を擁していた。各大隊は3~4個の海兵中隊(''équipage'')をまとめていた。海兵中隊の人数は100~150名であり、鼓手とトランペット手の両方を持つ唯一の兵科だった。制服は青い襟返しのブルーのコートを着て青いズボンを履き、上辺を赤く縁取って前面に金色の錨マークを付けた黒い円筒帽をかぶった。
=== 輜重兵 ===
ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の[[兵站]]の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、''La Maraude'')で日々を暮らしていくことを勧めていた。


== 補給部門 ==
補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。
'''概略'''
[[ファイル:Adrien Moreau Soldaten bei einer jungen Markthändlerin auf der Rast.jpg|サムネイル|平和的な購買調達]]
: ”''Une armée marche sur son estomac.''”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、[[兵站]]の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また各連隊の後備大隊(''bataillon de dépôt'')は全兵員に行き渡る食糧8日分を保管しておりこれは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。狩猟採集とは家畜と収穫間近の農作物の収奪である事が多く、現地調達とは強制徴発と略奪である事が多かった。


'''補給物資の流れ'''
兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えば[[ニコラ・アペール]]が発明した今日の[[缶詰]]につながる保存食の技術であった。


: 国家から各軍(方面軍)に提供される軍需品は'''戦争委員'''(''Commiissares des guerres'')が手配した。戦争委員は政府から各軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は方面軍(''armée)''の倉庫に蓄えられて逐次運送された。まず各軍団の'''兵站部'''(''parc'')に補給物資を積んだ荷車が運び込まれて管理され、そこから配下の各師団を中継地点として、補給品の荷車が各連隊に届けられると、中佐が監督する'''後備大隊'''(''bataillon de dépôt'')で保管運搬しつつ、各中隊の下士官(曹長と給養係伍長)による分配を経て、糧秣弾薬衣料その他が兵士達に支給された。フランス軍の中で軍需品の管理保管運搬に直接携わる編制単位は軍団(兵站部)と連隊(後備大隊)だった。
=== 医療関係者 ===
[[ファイル:GericaultWoundedCavalry.jpg|thumb|250px|傷ついて戦場を去る胸甲騎兵]]
医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。[[衛生]]や[[抗生物質]]に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。[[麻酔]]とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。


'''輜重牽引兵'''
ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍の{{仮リンク|ドミニック・ジャン・ラリー|fr|Dominique-Jean Larrey|en|Dominique Jean Larrey}}男爵の提唱になるいわゆる''空飛ぶ救急''システムである。戦場でフランス軍''空飛ぶ砲兵隊''が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、[[野戦病院]]の組織を改善することにより、現代の[[移動陸軍外科病院]]の原型を作った。
[[ファイル:Jean Louis Théodore Géricault 008.jpg|サムネイル|民間の馬借]]
: 1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に'''輜重牽引兵'''(''Train des équipages'')を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を保有していた。中隊は更に4個の分隊(''escouade'')に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。軍政上の管理組織である輜重牽引兵大隊が4~6個中隊を管理し、各中隊は前線での必要に応じて個別に各軍団の兵站部などに配属された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には'''近衛輜重牽引兵'''(''Train des équipages'' ''de la Garde impériale'')の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。


'''その他'''
負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば[[義肢]]も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。


: 遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えて[[ニコラ・アペール]]が発明した「[[瓶詰]]」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。
=== 情報通信 ===
以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。


== 医療部門 ==
[[ファイル:Tour du telegraphe Chappe Saverne 02.JPG|thumb|250px|シャップの腕木通信塔]]
'''当時の医療'''
大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で[[伝書鳩]]を伝令に採用し、また観測用[[熱気球]]を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかし[[クロード・シャップ]]によって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置([[腕木通信]])という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。


: 近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。戦場での治療と言えば、負傷者の身体を包帯でぐるぐるに巻いて止血し、傷口が開かないように包帯の上から革帯で固定して縫合代わりにし、泥と血にまみれた軍服を脱がせて患者衣に着替えさせ、身体に食い込んだ破片異物を摘出し、損傷して回復する見込みがない四肢を切断する事だった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた。また手法は不明だが挫傷の為の治療も存在していた<ref>Campagne 1793-1837 de François Vigo-Roussillon, Grenadier de l'Empire(Broché – 1981)</ref>。
シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(''regulateur'')と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。

'''医療スタッフ'''
シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。
[[ファイル:Antoine-Jean Gros - Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa.jpg|サムネイル|野戦病院]]
: 各連隊には'''軍医長'''(''Chirurgien-major'')1名と'''軍医助手'''(''Aide-chirurgien'')4~5名とその他補助員達が在籍していた。彼らは50kg以上の患者衣と10kg以上の包帯と外科道具を携行して困難な医療活動に従事した。また師団ごとに'''野戦病院'''(''dépôt d'ambulance'')が設置され負傷兵はここに運ばれたが、その実態はただの負傷者置き場と変わりなかった。満員で溢れ返るようになると付近の教会に可能な限り搬送され、ここでは敵味方の国籍を問わない救命活動が行われる事が多かった。皇帝近衛隊の衛生部門(''service de santé'')は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。

'''''救急馬車と移動外科'''''
[[ファイル:Ambulance of the French Army.jpg|サムネイル|救急馬車]]
: 当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護の改善に貢献した二人の人物がいた。{{仮リンク|ドミニク・ジャン・ラリー|fr|Dominique-Jean Larrey|en|Dominique Jean Larrey}}が発明した'''''救急馬車'''(ambulance volante)''は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた[[野戦病院]]の改善にも取り組んだ。{{仮リンク|ピエール・フランシス・パーシー|fr|Pierre-François Percy|en|Pierre-François Percy}}は逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶとその場で治療を施す'''移動外科'''(''chirurgie mobile'')を組織した。治療と言っても破片異物を取り除いて包帯でぐるぐるに巻いて止血する位だったが、これは衛生兵の元祖とも言えた。ラリーとパーシー両名の業績は他の欧米諸国をも啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。

'''廃兵院'''

: ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。[[傷痍軍人]]は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。

== 情報通信部門 ==
'''楽器'''
[[ファイル:Sapeurs du Génie de la Garde impériale.jpg|サムネイル|205x205ピクセル|近衛隊の鼓手]]
: ”''La musique est la voix qui nous dit que la race humaine est plus grande qu’elle ne connait.''”(音楽は我々人類の偉大さを更に語り伝えてくれる)とナポレオンも認めていた通り、楽器演奏は軍隊内で重要な役割を果たし、指示伝達の合図だけでなく規律を保ち士気を高める為の精神的効果も期待されていた。各歩兵中隊には2名の'''鼓手'''(''Tambours'')が所属しドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をした。選抜歩兵中隊では'''ホルン手'''(''Cornets'')となったが音色が不評でドラムに戻される事が多かったという。騎兵中隊には'''トランペット手'''(''Trompettes'')2名が所属した。各連隊には約8名の'''軍楽兵'''(''Musiciens'')が在籍したが、連隊長の裁量で20~30名規模の軍楽隊になる事もあった。

'''軍旗'''

: 軍旗もまた部隊の位置と存在を示すだけでなく、兵士達を結束させる精神的支柱の役割を果たすものと見なされていた。1804年に[[フランス第一帝政|第一帝政]]が樹立するとナポレオンは各戦闘隊形に国軍の象徴である'''鷲章軍旗'''(''aigle'')が掲げられる光景を望んで、従来の連隊だけでなく各大隊にも鷲章軍旗を授けた。しかし数の多さから戦場での喪失も目立った為に1808年以降の鷲章軍旗は各連隊に一本と定められて、各大隊は所在を示すだけの'''小旗'''(''fanion'')を持つ様になった。第1大隊が連隊旗を掲揚し、第2大隊は白色、第3大隊は赤色、第4大隊は青色、第5大隊は緑色、第6大隊は黄色の小旗を掲げた。戦列歩兵大隊では第1小銃兵中隊が、軽歩兵大隊では第1猟歩兵中隊が連隊旗または小旗を保有した。連隊旗の'''旗手'''(''Porte-aigle'')は選抜された士官であり下士官2名がその従者となった。なお、例外的に近衛連隊とカービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊は概ね大隊ごとの鷲章軍旗保有を認められていた。

'''命令書'''
[[ファイル:Décret de Napoléon du 7 décembre 1805 1 - Archives Nationales - AE-II-2303.jpg|サムネイル|265x265ピクセル|当時の命令書]]
: 当時の遠距離通信は文書や手紙のやり取りで行われる他はなかった。近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。ナポレオンは従来の口頭伝令を戒め、軍内の命令は必ず書類を通して伝達するよう義務付けていた。敵方の文書を接収出来ればそれだけ作戦行動の先手を取る事が可能であり、また現地の一般的な書信からも貴重な情報を得れる事があったので、作戦地域における敵伝令の捕縛と書簡収集は重視された。連隊には'''郵便士官'''(''Vaguemestre'')が在籍する事もあり占領地での文書の押収とその分析を担当した。また状況により部隊内の私信検閲を行う事もあった。他にもフランス軍は[[伝書鳩]]を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。

'''新しい技術'''

: 文書に頼らない革新的な通信手段も存在していた。観測用[[熱気球]]をいち早く実用化したフランスは、それを偵察だけでなく遠方に合図を送る用途で空に上げる事もあった。また[[腕木通信]](セマフォ)の施設も国内各所に整備されていた。ナポレオンも[[腕木通信]]に注目し、その開発者であった[[クロード・シャップ|シャップ]]の兄弟を通信監督(''directeur du télégraphe'')として皇帝軍事本営に一時期在籍させた事もあった。この工芸的な通信ネットワークは前線部隊と後方兵站の調整などに役立てられた。


== 外国人部隊 ==
== 外国人部隊 ==
[[フランス第一共和政|フランス革命政府]]は共和主義と市民社会の理念に沿わないものとして外国人傭兵部隊を廃止したが、ナポレオンは[[フランス第一帝政|第一帝政]]の樹立と共にこれを復活させ、旧体制下の伝統的なスイス人傭兵部隊も呼び戻した。ナポレオンは愛国心を基にした国民軍隊を率いるのと同時に、金銭で雇った外国人部隊を用いる事にも前向きだった。皇帝近衛隊にも外国人兵士は積極採用され、愛国心とは無縁の彼らは金銭に加えて名誉欲とナポレオン個人への忠誠心を基にして戦った。自身も元は外国人であるナポレオンは、[[フランス皇帝|フランス人民の皇帝]](''Empereur des Français'')であり、市民革命の成果を守護する防衛機構に必要な存在であるとして外国人部隊の編制を正当化した。結果的に当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面で大陸軍(グランダルメ)の一部となった。外国人部隊は同盟軍として協力するものと、フランス軍の指揮下に組み込まれたものの二つに分類された。
[[ファイル:Napoleon Polish troops by Bellange.jpg|thumb|250px|ポーランド兵]]

多くのヨーロッパ諸国が外国人部隊を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国はさまざまな段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。
;ポーランド
:[[ファイル:Lancer.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|ポーランド槍騎兵]]1795年の[[ポーランド分割]]で祖国を失いフランスに亡命したポーランド軍人達が近衛軽槍騎兵第1連隊となっていた他、イタリアに亡命していたポーランド軍人達はフランス傘下の[[ナポリ王国]]に仕えて1807年にナポリ軍の一部としてプロイセン・ポーランド方面に遠征し、翌年の祖国の地において兵力6,000名からなるヴィスワ部隊(''Légion de la vistule'')として新編制された。1807年に成立したポーランド人の[[ワルシャワ公国]]は槍騎兵連隊2個をフランス軍に編入させる他、自国の軍団や師団を積極的に派遣して協力した。しかし[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの敗戦]]によるナポレオンの凋落でポーランド人達は再び祖国を失う事になった。また同様の事情で祖国回復を目指す[[リトアニア]]もロシア遠征に際して複数の連隊を提供し、その中の一つは近衛軽槍騎兵第3連隊となった。
;イタリア
: 1803年にイタリア北部で[[ポー川]]狙撃兵(''Tirailleurs du pô'')大隊が組織され、後にフランス軍の軽歩兵連隊となった。ナポレオンの継子[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ|ウジェーヌ]]が治める[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]の軍隊、ナポレオンの義弟[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]が治める[[ナポリ王国]]の軍隊、ナポレオンの妹[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]が治める[[トスカーナ大公国]]の軍隊は当然の如くフランスの同盟軍となった。ナポレオンの故郷では[[コルシカ島|コルシカ]]狙撃兵(''Tirailleurs corses)大隊が組織され、彼らは皇帝の従兄弟(Les Cousins de l'Empereur)と呼ばれていた。''
;ドイツ
: 1803年にフランスが占領した[[ハノーファー|ハノーヴァー]]では、軽歩兵と軽騎兵を合わせたハノーヴァー人部隊(''Légion hanovrienne'')が組織されフランス軍の一部となった。ナポレオンの弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]が治める[[ヴェストファーレン王国]]は忠実な同盟軍となり多数の住民を動員してフランス軍に協力した。ナポレオンの甥っ子が治める[[ベルク公国|ベルク大公国]]も複数の連隊を提供した。ドイツ諸国の中では[[ザクセン王国]]と[[バイエルン王国]]が大きな兵力で協力し、[[ライン同盟]]諸国もそれぞれ師団や連隊をナポレオンの下に派遣して同盟軍の役割を果たしたが、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィッヒの戦い]]で離反した。
;その他
:[[ファイル:Napoleon Swiss Grenadier in 1812 by Bellange.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|スイス人傭兵]]1803年に[[アイルランド合併法|アイルランド]]からの亡命者を中心にしたアイルランド人部隊(''Légion irlandaise'')が組織されてイギリス上陸作戦に備えたが計画は中止され、その後は一つの外国人連隊に改組された。[[アンシャン・レジーム|旧体制下]]の優秀な歩兵戦力だった[[スイス傭兵|スイス人傭兵隊]]は[[フランス革命]]時に解雇されたが、1804年にナポレオンが皇帝になると再雇用されて4個のスイス歩兵連隊がフランス軍の指揮下に入った。1805年にオーヴェルニュ遠征連隊(''Régiment de la tour d’auvergne'')が編制され4個連隊まで拡張し1811年に外国人連隊(''Régiment étranger'')と改称した。この傭兵部隊には故郷を捨てた様々な国籍の者達が集まっていた。ナポレオンの弟[[ルイ・ボナパルト|ルイ]]が治める[[ホラント王国]]が1810年に併合されると国王騎兵隊は近衛軽槍騎兵第2連隊に、国王歩兵隊は近衛擲弾兵第3連隊にそれぞれ改組された。フランスの占領下にあったポルトガルでは、1808年に9,000名の選抜兵員からなるポルトガル人部隊(''Légion portugaise'')が組織されてヨーロッパ各地に遠征した。1809年にオーストリアからフランスに割譲された[[ダルマチア]]では1811年に4個の[[クロアチア人]]歩兵連隊が組織された。彼らは優れた[[猟兵]]と言われていた。

== 階級構成 ==

=== 階級の一覧 ===
[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|サムネイル|勲章を授けるナポレオン]]
”''Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France.''"(全てのフランス兵の背嚢には未来の[[元帥杖]]が入っている)。ナポレオンは兵士達にこう声明し、誰もが成した功績によって最高位まで昇進出来る道が開かれている事を示した。生来の身分と富で階級が定められていた封建制度の軍隊とは異なり、ナポレオン軍での昇進は個人の能力と勇気で決められた。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。ただし、[[フランス革命戦争|革命戦争]]時代に見られた様な急速な昇進は無くなり、長く地道な軍隊勤務履歴が必要となっている。

将帥(''colonels généraux'')


: [[フランス第一帝政]]陸軍の最高階級は師団将軍(''Général de division'')であった<ref>John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997</ref>。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥、大将、方面軍将軍の栄典ないし役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。'''帝国元帥'''(''Maréchal d’Empire)''の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。'''大将'''(''Colonel général'')は旧体制下では各兵科最先任の将官を意味する役職であったが<ref>「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年</ref>革命時に廃止された後に、第一帝政下では名誉称号として復活し専らナポレオンの取り巻きが叙任されていた。'''方面軍将軍'''(''Général en chef commandant une armée'')は方面軍(''armée'')の指揮権を必要に応じて与えられた役職で[[半島戦争]]などで叙任が見られた。1812年∼1814年の間廃止されていた。
1805年には、[[ライン同盟]]の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。


将官(''officiers généraux'')
1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。


: '''師団将軍'''(''Général de division'')は旧体制の中将(''Lieutenant général'')に、'''旅団将軍'''(''Général de brigade'')は旧体制の少将(''Maréchal de camp'')に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。1814年に旧体制時代の呼称に戻されている。旧体制の准将(''Brigadier des armées du roi'')は革命時に廃止されたままとなった。'''将軍副官'''(''Adjudant-commandant'')は正式の階級ではなく軍団または師団の参謀長としての役職的階級であり大佐の者が任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされた。
1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、[[バルト海]]に面した[[シュトラールズント]]と[[グダニスク|ダンツィヒ]]の港の占領を助けた。


上級士官(''officiers supérieurs'')
1807年の[[フリートラントの戦い]]では、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、[[ザクセン王国|ザクセン]]、[[オランダ]]の兵で占められた。このときは外人部隊が初めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。


: ナポレオンは1803年に、革命時に改称された半旅団(''demi-brigade'')を連隊(''régiment'')に、半旅団長(''Chef de brigade'')を'''大佐'''(''Colonel'')に戻させ、更に革命時に廃止された'''中佐'''(''Major''/又は''Gros-major''とも呼ばれた)を再設して各連隊に1名置くよう指示した<ref>Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "http://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"</ref>。中佐は連隊の管理と運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(''Colonel en second'')は1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊(''régiment provisoire'')を率いる事になった。'''少佐'''=大隊長(''Chef de bataillon'')を補佐する大尉は'''副官勤務大尉'''(''Capitain adjudant-major'')、中尉は副官中尉(''Lieutenant sous-adjudants-major'')と呼ばれ、役職的立場として一つ上のランクに扱われた。'''准尉'''(''Adjudant sous-oficier'')は各大隊に1名置かれて下士官達の監査役となり中佐の管理業務を補佐した。
1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン同盟の兵士だった。<ref name=Elting01b>Elting, John R. ''Swords Around A Throne''. Da Capo Press, 1997. Pg.387.</ref> またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。


下級士官(''officiers subalternes'')下士官(''sous-officiers'')
1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した部隊の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。


: '''大尉'''(''Capitaine'')は中隊長であり、'''中尉'''(''Lieutenant'')は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。'''少尉'''(''Sous-lieutenant'')は副中隊長の次席か連隊付き士官となった。'''軍曹'''(''Sergent'')は兵士達の現場監督であり、'''伍長'''(''Caporal'')はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。'''曹長'''(''Sergent-major'')は中隊の物資全般を管理し、'''給養係伍長'''(''Caporal-fourrier'')は中隊の食糧を管理した。軍需品を扱うこの両名は誠実で教養ある者が選ばれた。なお各種牽引兵中隊では曹長が中隊長となった。
== 大陸軍の階級 ==
封建制度や他の君主政治の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。


なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵)での呼称である。
その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に[[元帥杖]]を持てるといわれた。下の表は現在の米陸軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。なお、当時のフランス軍では1788年に[[准将#歴史|准将]](仏:{{lang|fr-FR|''Brigadier des armées du roi''}})が廃止されたため、将官は少将と中将の二階級のみである。


:::::::{| class="wikitable"
{| class="wikitable" style="margin-left:1em"
! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級
! 大陸軍の階級 !! 現代の米陸軍で相当する階級
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|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}<ref> 帝国元帥([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Maréchal de l'Empire''}})は階級ではない。師団将で傑出していると認められた者の名誉称号であり、それに応じた高い給与と特権が与えられた。ナポレオン軍の最高階級は実際には師団将軍(仏:{{lang|fr-FR|''General de division''}})である。 {{lang|en|Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 124. Da Capo Press, 1997.}} </ref>||[[元帥]]{{lang|en-US||(General of the Army)}}
|帝国元帥 {{lang|fr-FR|('''Maréchal d’Empire''')}}<br/>大将 {{lang|fr-Fr|('''Colonel général''')}}※<br/>方面軍将軍 {{lang|fr-Fr|('''Général en chef commandant une armée''')}}<br/>師団将軍 {{lang|fr-FR|('''Général de division''')}}
| [[大将]] {{lang|en-US|(General)}}<br />[[中将]] {{lang|en-US|(Lieutenant general)}}<br />[[少将]] {{lang|en-US|(Major general)}}
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|旅団将軍 {{lang|fr-FR|('''Général de brigade''')}} || [[准将]] {{lang|en-US|(Brigadier general)}}
|中将
*大将{{lang|fr-Fr|('''Colonel-Général''')}}<ref>各兵科最先任の将官に対する名誉称号(『華麗なるナポレオン軍の軍服 134頁、上級大将として記述。』 マール社 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子監修翻訳 2014年10月20日。)であり階級ではない。帝国元帥にもなった者を除いてはルイ・ボナパルト{{lang|fr-Fr|('''Louis Bonaparte''')}}、ジュノー{{lang|fr-Fr|('''Jean Andoche Junot''')}}、ディリエ{{lang|fr-Fr|('''Louis Baraguey d'Hilliers''')}}などが叙任された。</ref>
*上将{{lang|fr-Fr|('''Général en chef''')}}<ref>軍団長としての地位であり階級ではない。1812年廃止。その後1814年に復活するも、1848年に再び廃止された。但し階級章(四つ星)自体は軍団長たる師団将軍(仏 : {{lang|fr-FR|''Général de division commandant de un corps d'armée''}})のものとして使用された。 [[:en:G%C3%A9n%C3%A9ral|Général]] または [[:en:General-in-chief|General-in-chief]] 参照。</ref>
*{{lang|fr-FR|('''Général de division''')}}<ref>旧体制及び1814~1848年は中将([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Lieutenant-Général''}})</ref>
| [[少将]]<ref>アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。</ref>
*[[大将]]{{lang|en-US|(General)}}
*[[中将]]{{lang|en-US|(Lieutenant general)}}
*{{lang|en-US|(Major general)}}
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|将 {{lang|fr-FR|('''Général de brigade''')}}<ref>旧体制及び1814~1848年は陣地総監(=少将)([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Maréchal de camp''}})</ref> || [[准将]] {{lang|en-US|(Brigadier general)}}
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|大佐 {{lang|fr-FR|('''Colonel''')}}|| [[大佐]] {{lang|en-US|(Colonel)}}
|将軍副官 {{lang|fr-FR|('''Adjudant-commandant''')}}<ref>将軍付き幕僚としての地位であり階級ではない。大佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Colonel''}})または中佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Major''}})が任じられた。序列は少将([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Général de brigade''}})と大佐([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Colonel''}})の間とされる事が多かった。</ref> || [[大佐]] {{lang|en-US|(Staff Colonel)}}
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|大佐 {{lang|fr-FR|('''Colonel''')}}<ref>1793~1803は半旅団長([[フランス語|仏]]:{{lang|fr-FR|''Chef de brigade''}})</ref> || [[佐]] {{lang|en-US|(Colonel)}}
|二等大佐 {{lang|fr-FR|('''Colonel en second''')}}※1809のみ || [[佐]] {{lang|en-US|(Senior lieutenant colonel)}}
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|曹長 {{lang|fr-FR|('''Sergent-major'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal-des-logis-major''')}}<ref name="Elting9">後者は騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引および輜重)の呼称</ref> || [[曹長]] {{lang|en-US|(Sergeant-Major)}}
|曹長 {{lang|fr-FR|('''Sergent-major'''}} または {{lang|fr-FR|'''Maréchal-des-logis-major''')}} || [[曹長]] {{lang|en-US|(Sergeant-Major)}}
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ファイル:Jean Baptiste Bernadotte.jpg|[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ベルナドット]]
ファイル:louisberthier1.jpg|[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]
ファイル:Louis nicolas davout.jpg|[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]
ファイル:Jean lannes.jpg|[[ジャン・ランヌ]]
ファイル:Etienne-Jacques-Joseph-Alexandre MacDonald.jpg|[[ジャック・マクドナル]]
ファイル:Viesse-de-marmont.jpg|[[オーギュスト・マルモン]]
ファイル:andremassena1.jpg|[[アンドレ・マッセナ]]
ファイル:Murat2.jpg|[[ジョアシャン・ミュラ]]
ファイル:Marechal Ney.jpg|[[ミシェル・ネイ]]
ファイル:Prince Jozef Poniatowski.jpg|[[ユーゼフ・ポニャトフスキ]]
ファイル:Nicolas Jean de Dieu Soult.jpg|[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]
ファイル:Louisgabrielsuchet.JPG|[[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]
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== および戦術 ==
=== 制服の ===
帝国元帥、大将、師団将軍、旅団将軍、将軍副官は専用の将官服を着用した。大佐以下の士官は兵士と同じ制服を着用し、コートの肩章と帽子の羽飾りで区別させた。帽子の羽飾りは佐官のみだったが、近衛兵や擲弾兵なども羽飾りを付けていたのでその中では目立たなくなった。下士官は肩に長方形のワッペンを付けてその模様で区別された。なお、皇帝ナポレオンは猟騎兵大佐の緑のコートを着て白いズボンを履き(猟騎兵は緑ズボン)黒い地味な二角帽子をかぶっていた。
ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、さらに[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の斜角陣形([[ロイテンの戦い]]で使われた)や、革命の初期に[[国民皆兵]](''Levee en masse'')軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。
{| style="border:1px solid #8888aa; background-color:#f7f8ff; padding:5px; font-size:95%; margin: 0px 12px 12px 0px;" width="100%"
|- align="center"
||肩章
|| [[File:0MarechalFR-ImpFrArmy.jpg|80px]][[File:0MarechalFR-ImpFrArmy.jpg|80px]]
|| [[File:Epaulette-general-empire-crop.jpg|80px]][[File:Epaulette-general-empire-crop.jpg|80px]]
|| [[File:Gen.Div-ImpFrArmy.jpg|80px]][[File:Gen.Div-ImpFrArmy.jpg|80px]]
|| [[File:Gen.Brig-ImpFrArmy.jpg|80px]][[File:Gen.Brig-ImpFrArmy.jpg|80px]]
|- align="center"
||将官
|| 帝国元帥
|| 大将/方面軍将軍
|| 師団将軍
|| 旅団将軍
|}
将官服は、前面中央の襟返しに豪華な黄金の装飾を施したダークブルーのテイルコートで、襟口、袖口、裾口も黄金模様で華やかに縁取られていた。上の階級ほど金の装飾面積が広かった。金色肩章も豪華に装飾され金の房飾りと銀の星印が付いた。将軍副官は星無しで、帝国元帥は×印の各端に計4個の星が付いた。その下に白いズボンを履き、金色基調の腰帯を巻いた。ふさふさの羽毛で端を飾り立てた二角帽子をかぶった。
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|- align="center"
||肩章
||[[File:Colonel-ImpFrArmy.jpg|80px]] [[File:Colonel-ImpFrArmy.jpg|80px]]
||[[File:Magg-ImpFrArmy.jpg|80px]][[File:Magg-ImpFrArmy.jpg|80px]]
||[[File:Epaulettes chef de bataillon.svg|130px]]
|- align="center"
||佐官
|| 大佐
|| 中佐
|| 少佐
|}
大佐は金の房飾り付き金色肩章を付けて、帽子に白い羽飾りを立てた。中佐は金の房飾り付き銀色肩章で、白+赤の羽飾りを帽子に立てた。少佐は左肩のみ房飾りが付いた金色肩章で、帽子には赤い羽飾りを立てた。なお、制服ボタンが銀色の連隊ではこの金銀の肩章配色が逆となり銀の肩章を付けた。赤い羽飾りは精鋭兵の印として広く使われていたので、大佐特有の白い羽飾りだけはよく目立ったという。佐官の肩章房飾りは太く、尉官のは細かった。
{| style="border:1px solid #8888aa; background-color:#f7f8ff; padding:5px; font-size:95%; margin: 0px 12px 12px 0px;" width="100%"
|- align="center"
||肩章
||[[File:Epaulette capitaine adjudant major.svg|130px]]
||[[File:Epaulette capitaine.svg|130px]]
||[[File:Epaulettes lieutenant premiere classe armee Napoleonienne.svg|130px]]
||[[File:Epaulette sous-lieutenant premiere classe armee Napoleonienne.svg|130px]]
|- align="center"
||尉官
||副官勤務大尉
|| 大尉
|| 中尉
|| 少尉
|}
副官勤務大尉は右肩のみ房飾りが付いた金色肩章、大尉は左肩のみ房飾りが付いた金色肩章だった。中尉は左肩のみ房飾りが付いて赤線の入った金色肩章であり、少尉は赤線の面積が広くなった。准尉の房飾りは金と赤の混合となった。尉官は専用の羽飾りを持たず、所属部隊兵士の羽飾りの有無に合わせた。


'''熊毛帽(''Bonnet à poil'')熊毛コルパック帽(''Colback'')'''
ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列(''Linear'')戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後の[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェンの戦い]]で実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。


近世ヨーロッパにおいて熊毛帽はエリート兵の証であり軍内で高い名誉を誇示した。主に戦列歩兵科と重騎兵科と徒歩砲兵科は熊毛帽を、軽歩兵科と軽騎兵科と騎馬砲兵科は熊毛コルパック帽(胴太で背が低い)をかぶった。1806年以前は皇帝近衛隊全員と、擲弾兵&カービン歩兵(全歩兵の約10%)、カービン騎兵(重騎兵の約4%)、ユサール騎兵&猟騎兵の精鋭中隊(軽騎兵の約10%)、騎馬砲兵(全砲兵の約16%)がかぶる事を許されていた。
ナポレオンは常に彼の近衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。


1807年以降はずっと少なくなり、皇帝近衛隊の15~25%と、戦闘工兵(全歩兵の1%未満)、ユサール騎兵&猟騎兵の精鋭中隊(軽騎兵の約10%)、騎馬砲兵(全砲兵の約16%)のみが許されるようになった。皇帝近衛隊内では近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参格、近衛精鋭憲兵、近衛徒歩砲兵の古参格、近衛騎馬砲兵、近衛偵察騎兵の一部精鋭が着用を認められていた。近衛擲弾兵と近衛騎馬擲弾兵の熊毛帽が最も背が高く周囲を圧倒した。
より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。
; [[横隊]]({{lang|fr|Ligne}})
: 基本的な3階層の横隊を組んだ陣形。歩兵や騎兵が一斉射撃を行ったり、正面攻撃を行うときに適していたが、動きが比較的鈍く、側面からの攻撃に弱かった。
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}})
: 軍隊の急な動きや持続する移動、および正面攻撃には最善の隊形であったが、集中できる火力が少なく、側面攻撃や待ち伏せ、砲撃および突入には弱かった。
; V字形隊形({{lang|fr|Colonne de Charge}})
: 鏃(やじり)あるいは槍の穂先の形をした騎兵の陣形。急速に接近したり敵の戦列を破るために考案された。歴史的にもよく使われ効果のあった陣形であり、今日でも戦車隊が使っている。しかし突進が止められた時やタイミングを失った時にその側面への反撃に弱い。
; 攻撃縦隊({{lang|fr|Colonne d'Attaque}})
: 歩兵の広い縦隊であり、戦列と縦隊の組み合わせであった。軽装歩兵の散兵線で敵を混乱させたり、縦列での前進を排斥するために用いられた。縦隊が接近すると散兵が側面を防御し、縦隊が一斉射撃と銃剣による攻撃を行った。通常の薄い戦列陣形には効果的な陣形であった。攻撃縦隊はフランス革命初期のフランス軍が使った「群衆」あるいは「大群」戦術から発展した。その欠点は火力の集中度が劣り、大砲の攻撃に弱いことだった。
; 混成陣形({{lang|fr|Ordre Mixte}})
: ナポレオンの好んだ歩兵隊形である。複数の部隊(多くは連隊か大隊)が戦列陣に配置され、その背後や間に縦列攻撃部隊を配するものだった。これは戦列の火力と速度を組み合わせ、縦列攻撃部隊の行う混戦や散兵戦に利点をもたらした。多少の欠点もあったが、この戦術を成功させるためには、砲兵や騎兵の支援が特に重要だった。
; [[散兵]]({{lang|fr|Ordre Ouvert}})
: 歩兵や騎兵が部隊毎にあるいは個兵毎に散開する戦術。この戦術は軽装の部隊や散兵部隊には効果的だった。この戦術では丘や森のある荒れた地形では特に移動速度が速く、散開しているので敵の攻撃に対しても防御面で有効だった。その欠点は一斉射撃のような手段がなく、接近戦の場合は特に騎兵に弱かった。
; [[方陣]]({{lang|fr|Carre}})
: 騎兵に対する歩兵の古典的防御陣形。兵士が中空の四角形を構成し、1辺は3層ないし4層とする。士官や砲兵、騎兵が中に入る。歩兵にとっては最も防御に適した陣形であり、特に丘の頂上や下り坂に面している時、有効だった。こ
: の陣形では動きが緩慢になり、固定された目標とされることがあった。その密度を濃くすると大砲の攻撃に弱く、それほどまでではないにしても歩兵の銃撃にも弱かった。この陣形がいったん壊れると完敗に終わる傾向があった。


'''羽飾り(''Plume'')'''
; 空飛ぶ砲兵大隊({{lang|fr|Batterie Volante}})
: フランス砲兵の移動性能と訓練を生かした隊形。一つの大隊が戦場のある地点に移動し、短時間で鋭い砲撃を行い、続いてまた荷車に積んで別の地点に移動し、攻撃を加え、といった操作を繰り返すものであった。
: 多くの大隊がこの攻撃を組み合わせ集積していくことで、敵の戦列に壊滅的な打撃を与えた。騎乗砲兵隊はこの戦術に特に適していた。ナポレオンは初期の方面作戦でこの戦術を使い、大きな成果を得た。この戦術の柔軟性で、攻撃を加えたい目標に素早く攻撃を集中できた。この戦術は特別の訓練を必要とし、また砲兵と馬が整然と行動できるように密接な指揮と連携を必要とした。


* 「赤」  <small>少佐、擲弾兵、カービン歩兵、カービン騎兵(1809年まで)、胸甲騎兵、騎馬砲兵、憲兵、近衛擲弾兵、近衛小銃擲弾兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛精鋭憲兵、皇后竜騎兵、近衛徒歩砲兵、近衛騎馬砲兵</small>
; 大砲兵大隊({{lang|fr|Grande Batterie}})
* 「赤+緑」<small>近衛猟歩兵、近衛小銃猟歩兵、近衛選抜歩兵、近衛猟騎兵</small>
: もう一つの砲兵戦術であり、空飛ぶ砲兵大隊が使えない時に用いられた。
* 「赤+白」<small>近衛狙撃歩兵</small>
: 大砲を単一の急所となる地点(多くは敵の中央)に集中するものである。敵が恐怖に捕らわれたり、陣形が崩れると大きな損害を与えられた。ただし、敵の情報が不足したままで単一の地点に多くの砲火を合わせることには細心の注意を払わなければならなかった。いったん砲門を開き目標が明確になると、照準を合わせ直すことで上記のことを回避できた。この戦術は敵の大砲からの反撃に弱く、騎兵の攻撃に対する防御も必要だった。これがフランス砲兵の最も良く知られた戦術であったが、ナポレオンは空飛ぶ砲兵大隊の方を好み、この戦術を使う必要のある時、あるいは使った方が成功の機会が増えると思われた時のみに、この戦術を使った。戦闘の開始時点で、ナポレオンは多くの砲兵大隊をさらに大きな大砲兵大隊にして、集中砲火を浴びせ、その後にそれを解いて空飛ぶ砲兵大隊に変えた。
* 「黄」  <small>選抜歩兵(軽歩兵科)</small>
: 初期の方面作戦ではあまり使われなかったが、大陸軍の馬の数や砲兵の質が落ちてくると、この戦術を使う機会を増やさざるを得なかった。
* 「黄+緑」<small>選抜歩兵(戦列歩兵科)、近衛側防猟歩兵</small>
; イノシシの頭({{lang|fr|Tete du Sanglier}})
* 「黄+赤」<small>近衛側防擲弾兵</small>
: 複合した陣形であり、混成陣形に似ているところもあるが、三軍(歩兵、騎兵、砲兵)がV字形のような方形に組むもので、集中攻撃や防御の場面で使われた。歩兵が最前線で短く何層にも厚く隊形を組み、これをイノシシの鼻とした。その後ろに2組の砲兵隊を置き、イノシシの目とした。側面と最後尾は斜角陣で縦列、横列、方形陣の歩兵がイノシシの顔を作った。さらに側面と後ろを守るのが2組の騎兵隊であり、イノシシの牙の役目を果たした。
* 「白」  <small>大佐、近衛軽槍騎兵</small>
: 高度に複雑な陣形であり、容易にまた急速に組めるものではなかった。いったん組まれると、牙を除いて、動きは緩慢であった。しかし、伝統的な方形陣よりも動きが速く、砲兵や歩兵の攻撃に対しても防御が堅かった。牙は強い攻撃能力も持っていた。
* 「白+赤」<small>中佐</small>
: 後の[[1830年代]]と[[1840年代]]に行われた[[北アフリカ]]制圧ではこの戦術が効果的に用いられ、[[1920年代]]まで使われていた。
* 「緑」  <small>猟歩兵(1806年まで)、近衛儀仗騎兵</small>
*「その他」<small>ユサール騎兵</small>

== 戦術と戦闘隊形 ==

=== 戦術 ===
[[ファイル:Inspecting the Troops at Boulogne, 15 August 1804.png|サムネイル|戦闘隊形の集合]]戦場の歩兵たちの基本行動単位は大隊(''bataillon'')であり、その定員は1807年までは約1,000名、1808年からは約800名であったが、従軍中の消耗で実際は400~600名である事が多かった。'''戦闘隊形'''(''formation de combat'')はこの大隊ごとに組まれており、一軍の戦力は大隊の数で換算されるのが通例だった。師団は概ね8~16個の戦闘隊形を展開する事になり、師団長が一括運用する時もあったが、大抵は左右または前後半々に分けられて、双方の旅団長に4~8個の戦闘隊形の運用が分担された。連隊は地域ごとに設立される2~6個大隊の管理組織であり、戦闘時の連隊長は基本的に第1大隊と共に行動した。旅団編制が存在せず師団長が一括運用しない時は連隊長が管理下大隊を指揮した。師団長は戦闘隊形を幾何学模様的に配置し、大抵は'''散兵線'''(''Formation en tirailleur'')を前面に敷き、'''横隊'''(''Ligne'')を中央に並べて、'''縦隊'''(''Colonne'')を横隊の両翼か後方または横隊間の切れ目に置いた。散兵線は軽歩兵、横隊と縦隊は戦列歩兵が構成した。この布陣は'''混成配置'''(''Ordre mixte'')と呼ばれた。また、師団長は1個徒歩砲兵中隊(大砲8門)を標準戦力とする師団砲兵を歩兵陣形と併せて指揮し、各戦闘隊形の移動と攻撃を大砲で支援した。

騎兵の基本行動単位である騎兵大隊(''escadron'')の定員は概ね200名であったが、これも従軍中の消耗で実際には100名程度である事が多かった。敵隊列への衝撃力として使われる重騎兵は集中運用が重視されたので、大抵は連隊2~4個分の騎兵大隊を並べて形成した騎兵旅団の長い隊列で一斉突入する事がよく見られた。主に支援任務を担う軽騎兵は戦況に応じて騎兵旅団または騎兵大隊ごとにその都度投入される事が多かった。騎兵師団長は、1~3本の騎兵旅団戦列または8~16個の騎兵大隊と、1個騎馬砲兵中隊(大砲6門)を標準戦力とする師団砲兵を併せて指揮し、主に騎兵突撃を大砲で支援させた。

歩兵軍団は複数の歩兵師団と支援軽騎兵と予備砲兵の連携を行った。支援軽騎兵は1個の軽騎兵師団、予備砲兵は2個の砲兵中隊が標準戦力とされた。支援軽騎兵は斥候、前衛遊撃、側面援護、追撃など様々に用いられて歩兵の行動をサポートした。予備砲兵はその火力で軍団全体の戦闘活動を助けた。編制によっては1個程度の重騎兵師団も配属されて突入戦力として用いられた。騎兵軍団は重騎兵師団と支援軽騎兵と予備砲兵の連携を行った。重騎兵は長大な隊列を組ませて集中投入されるのが通例であり、支援軽騎兵はその周囲で様々な任務に従事した。騎兵軍団の予備砲兵は大抵、配下師団の師団砲兵を集めたものとなった。

=== 戦闘隊形一覧 ===
「陣形」の基本要素である大隊戦闘隊形と、その部品となる中隊隊形の種類は以下の通りであった。歩兵大隊は1807年までは9個歩兵中隊、1808年からは6個歩兵中隊で構成されていた。騎兵大隊は2個騎兵中隊で構成されていた。

<gallery mode="packed" widths="200" heights="120">
ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|横隊
ファイル:Butler Lady Quatre Bras 1815.jpg|方陣
</gallery>

; 戦列歩兵中隊の隊形
: 横幅30~40名が前後三列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の'''分隊'''(''section'')2個が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。従軍中の消耗で実際の横幅はこれより少ない事が多かった。また戦場をピンポイントで移動する時は横幅3名位の縦隊になる事があった。
; 戦列歩兵大隊の戦闘隊形
: '''横隊'''(''Ligne'')
:: 各中隊を横一列に並べたもので一斉射撃用の隊形だった。右端は擲弾兵中隊だった。左端の選抜歩兵中隊が前方に展開して散兵線を敷く事もあった。
: '''分団縦隊'''(''Colonne par division'')
:: 中隊2個を繋げた'''分団'''=分大隊(''division)''を前後4列または3列(1808年以降)に並べたもので銃剣突撃用の隊形だった。当時の’’''division''’’には師団と分団の二つの意味があった。擲弾兵中隊は最前列の右だった。選抜歩兵中隊は最後列の左だったが縦隊の前面に出て散兵線となる事もあった。散兵線を前衛にしたものは'''攻撃縦隊'''(''Colonne d'attaque)と呼ばれた。''各分団の前後間隔は列を詰めるもの(''serrée'')と一定の距離を空けるもの(''à distance'')のニつがあった。
: '''中隊縦隊'''(''Colonne par peloton'')
:: 各中隊を縦一列に並べたものでこれも銃剣突撃用の隊形であり、狭い地形や都市ないし城塞への突入時に用いられた。’’''peloton’’''は欠員無しの完全中隊を意味した。擲弾兵中隊が先頭で選抜歩兵中隊が最後尾となり、大抵は前後の間隔を詰めて並んでいた。
: '''方陣'''(''Carré'')
:: 各中隊を正方形ないし長方形の四辺となるように並べたもので騎兵に対する防御用隊形だった。6個中隊の時は前辺に2個、後辺に2個、左辺に1個、右辺に1個のように配置された。

; 軽歩兵中隊の隊形
: 各兵士が広い間隔を取って横幅10~13名の前後三列に並ぶ'''分隊'''(''section'')3個を、左と中央と右に並べるのが基本だった。平地では左右分隊がやや前進してその三列が交互に入れ替わりつつ狙撃を行い、銃剣を構える中央分隊は緊急時の集結地点を示す控えとなった。森林や起伏のある地形では各分隊の位置を保ちながら流動的に進んだ。これは'''散兵線'''(''Formation en tirailleur'')の基本要素となった。
; 軽歩兵大隊の戦闘隊形
: '''分団縦隊'''(''Colonne par division'')
:: 軽歩兵中隊2個を繋げた[[散兵|散兵線]]を前後4層または3層(1808年以降)に配置した。戦列歩兵大隊の横隊二つ分の横幅をカバー出来る浅めの'''散兵線'''(''Formation en tirailleur'')を形成した。
: '''中隊縦隊'''(''Colonne par peloton'')
:: 軽歩兵中隊の[[散兵|散兵線]]を前後9層または6層(1808年以降)に配置した。横隊を組んだ戦列歩兵大隊の横幅をカバー出来る深めの'''散兵線'''(''Formation en tirailleur'')を形成した。

<gallery mode="packed" widths="200" heights="160">
ファイル:Detaille 4th French hussar at Friedland.jpg
ファイル:Grenadiers à cheval de la Garde impériale avant la charge.jpg
</gallery>

; 騎兵中隊の隊形
: 横幅30~40名の騎兵が前後二列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の'''分隊'''(''section'')が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。ピンポイントで進む時は隊列の真ん中から折れた逆V字型の両翼を閉じるようにして横幅四名の縦隊となった。また分隊が前後に並ぶ事もあった。それらに加えて軽騎兵中隊は、斥候や遊撃などの任務に応じて一定の集合を保ちつつも臨機応変に動く'''解放態勢'''(''Ordre lâche'')を取る事が多かった。
; 騎兵大隊の戦闘隊形
: '''横隊'''(''Ligne'')
:: 2個の騎兵中隊を左右に並べた。
: '''縦隊'''(''Colonne'')
:: 2個の騎兵中隊を前後に並べた。


== 戦歴 ==
== 戦歴 ==
{{main|ナポレオン戦争}}
{{main|ナポレオン戦争}}
[[ファイル:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg|サムネイル|皇帝ナポレオン]]
=== 1804年 - 1806年 ===
1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスは[[アミアンの和約]]を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴う[[フランス第一帝政]]の樹立と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。
[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]]
大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref>


'''第三次対仏大同盟(1805)'''
中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref>


イギリス征服を企図したナポレオンは[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に総勢18万を数える軍勢を集結させていた。それに対抗してイギリスは1805年4月にオーストリア、ロシアと共に[[第三次対仏大同盟]]を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月の[[ウルムの戦い]]を経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンは[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の地でオーストリア=ロシア連合軍を破り、オーストリアに[[プレスブルクの和約]]を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする[[神聖ローマ帝国]]は解体され、代わりにフランスを盟主とする[[ライン同盟]]がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる[[大陸封鎖令]]を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。
=== 1807年 - 1809年 ===
ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、[[1807年]]2月7日から8日にかけての[[アイラウの戦い]]では事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、[[ベニグセン]]のロシア部隊は6月14日の[[フリートラントの戦い]]で完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間で[[ティルジット条約]]が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。<ref name="continent">Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92</ref>
[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref>
一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。


'''第四次対仏大同盟(1806 - 1807)'''
=== 1810年 - 1812年 ===
スペインを除いてヨーロッパでは一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり、[[1812年]]の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するために、これまでにない最大規模の軍隊を結成した。新しい大陸軍はそれまでと変わっていて、士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。[[ポーランド]]とオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。


ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に[[第四次対仏大同盟]]を結成した。直ちに出征したナポレオンは[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月の[[フリートラントの戦い]]でもロシア軍を撃破した。その後の[[ティルジットの和約|ティルジット条約]]でロシア、プロイセン両国と講和し、先の[[大陸封鎖令]]にも参加させた。
巨大な多国籍軍は1812年6月23日に[[ネマン川]]を越え東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、[[ミハイル・バルクライ・ド・トーリ]]軍と[[ピョートル・バグラチオン]]軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、大陸軍には苛立ちが溜まっていった。[[スモレンスク]]を占領し、モスクワを守るための最後の防衛戦として9月7日に[[ボロジノの戦い]]が行われた。その結果は、大陸軍が勝ったものの犠牲が多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利の7日後の9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はついに[[モスクワ]]に到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの守りも強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘と病気(主に[[チフス]])で夏の間にすでに兵士の半分を失っていたうえに、ロシアの[[焦土作戦]]によって大陸軍が確保できる食糧は無かった。フランス皇帝が無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンと大陸軍はモスクワで1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、遂に西方への退却を開始した。退却は侵攻以上に悲惨を極め、寒さと飢えと病気に悩まされ、集まってくる[[コサック]]やロシア軍に繰り返し襲撃された。[[ミシェル・ネイ]]が殿軍を引き受けロシア軍との間の分離を図ったが、大陸軍は事実上壊滅し、およそ400,000名が死に、[[ベレジナ川]]に到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。<ref>[http://scarab.msu.montana.edu/historybug/napoleon/typhus_russia.htm Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee]</ref>それでも[[ベレジナの戦い]]の結果と[[ジャン=バティスト・エブレ]]の技師達によるベレジナ川に橋を架ける必死の作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。


'''スペイン半島戦争(1808 - 1814)'''
軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。<ref name="survived">Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171</ref>この大遠征は、今まで大陸軍が積み上げてきた数々の勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果に終わった。


1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインの[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権と[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を結び、[[大陸封鎖令]]を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実な[[マヌエル・デ・ゴドイ|ゴドイ]]政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起して[[ゲリラ]]の語源となると共に、凄惨な[[半島戦争]]が始まった。7月に起きたフランス軍の[[バイレンの戦い|衝撃的な敗北]]で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月に[[イベリア半島]]へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]をスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。
=== 1813年 - 1815年 ===
ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。[[第六次対仏大同盟]]が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、[[リュッツェンの戦い (1813年)|リュッツェンの戦い]]と[[バウツェンの戦い]]で連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間の[[ドレスデンの戦い]]でフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側の{{仮リンク|トラチェンブルク計画|en|Trachenburg Plan}}の採用により、フランスは[[カッツバッハの戦い]]、[[クルムの戦い]]、[[グロスベーレンの戦い]]、{{仮リンク|デネヴィッツの戦い|en|Battle of Dennewitz}}と負け続けた。


'''第五次対仏大同盟(1809)'''
同盟軍は数を増し、フランス軍を[[ライプツィヒ]]で包囲した。有名な3日間の[[ライプツィヒの戦い|諸国民の戦い]]が行われ、橋が時期尚早に壊されたために、[[白エルスター川|エルスター川]]の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、{{仮リンク|ハナウの戦い|en|Battle of Hanau}}でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立した[[バイエルン王国|バイエルン]]軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。<ref name="hanau">Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287</ref>

[[半島戦争]]でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと[[第五次対仏大同盟]]を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生した[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月の[[ヴァグラムの戦い|ワグラムの戦い]]で勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月の[[シェーンブルンの和約]]でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ[[大陸封鎖令]]の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。
「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは[[1813年]]の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍は[[ピレネー山脈]]から、北[[イタリア]]平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンが{{仮リンク|ラ・ロシエールの戦い|en|Battle of La Rothière}}で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。[[1814年]]の{{仮リンク|六日間の戦役|en|Six Days' Campaign}}で30,000名のフランス軍が[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]の散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、{{仮リンク|カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク|en|Karl Philipp, Prince of Schwarzenberg}}を{{仮リンク|モントローの戦い|en|Battle of Montereau}}で破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、[[ランの戦い|ラン(Laon)の戦い]]と{{仮リンク|アルシス=シュル=アウベの戦い|en|Battle of Arcis-sur-Aube}}でのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、{{仮リンク|パリの戦い (1814年)|en|Battle of Paris (1814)|label=パリの戦い}}で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、[[1814年]]4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。<ref name="abdicate">Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297</ref>

'''ロシア遠征(1812)'''
[[1815年]]2月[[エルバ島]]から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(''L'Armee du Nord'')は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、[[ベルギー]]にいる[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]やブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日には[[リニーの戦い]]でプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。[[エマニュエル・ド・グルーシー]]が対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、[[ワーテルローの戦い]]でウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。<ref name="army">Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312</ref>

[[大陸封鎖令]]による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく[[焦土作戦]]を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月の[[ボロジノの戦い|ボロディノの戦い]]の後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。

'''第六次対仏大同盟(1813 - 1814)'''

ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと[[第六次対仏大同盟]]を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境の[[ピレネー山脈]]を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、[[ライン同盟]]諸国も次々とフランスから離反して[[大陸封鎖令]]も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]で史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。

1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。[[フォンテーヌブロー条約 (1814年)|フォンテーヌブロー条約]]に従いナポレオンは[[エルバ島]]に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月の[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間で[[ウィーン会議]]が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。

'''第七次対仏大同盟(1815)'''

1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満と[[ウィーン会議]]の混迷を好機と見たナポレオンは[[エルバ島]]を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると[[第七次対仏大同盟|第七次対大同盟]]を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月の[[ワーテルローの戦い]]で敗北した事で再び退位に追い込まれ、11月の[[第二次パリ条約]]の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。


== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ナポレオン戦争]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* Mas, M.A. M. ''La Grande Armee: Introduction to Napoleon’s Army''. Andrea Press, 2005.
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* ''Swords Around a Throne: Napoleon's Grande Armee'', John Robert Elting. 784 pages. 1997. ISBN 0306807572
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* ''Napoleon's Line Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 085045512X
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* ''Napoleon's Light Infantry'', Philip Haythornthwaite, Bryan Fosten, 48 pages. 1983. ISBN 0850455219
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* ''Campaigns of Napoleon'', David G. Chandler. 1216 pages. 1973. ISBN 0025236601
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* Fisher, Todd & Fremont-Barnes, Gregory. ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' Oxford: Osprey Publishing Ltd., 2004. ISBN 1-84176-831-6
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* ''1812: Napoleon's Fatal March on Moscow'', [[Adam Zamoyski]], ISBN 0007123752
* ''1812: Napoleon's Fatal March on Moscow'', [[Adam Zamoyski]], ISBN 0007123752
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* ''Who Was Who in the Napoleonic Wars'', Phillip Haythornthwaite, London, 1998.
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* [http://napoleonic-literature.com/Flying_Ambulance.htm ''The Revolutionary Flying Ambulance of Napoleon's Surgeon''], Capt. Jose M. Ortiz.
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* ''The Encyclopedia Of Military History: From 3500 B.C. To The Present. (2nd Revised Edition 1986)'', R. Ernest Dupuy, and Trevor N. Dupuy.
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* [http://www.Peterswald.org/geschichte/Pete_rovigo.html Memoirs] [[Anne Jean Marie Rene Savary|of the Duke Rovigo]]
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* [http://www.napoleonicsociety.com/english/scholarship97/c_contents97.html ''The Journal of the International Napoleonic Society'']
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* ''Supplying War: Logistics From Wallenstein to Patton'', 2nd Edition, Martin van Crevald. 2004. ISBN 0521546575
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* [http://www.wtj.com/articles/napart/ ''Napoleonic Artillery:Firepower Comes Of Age'', James Burbeck. ''War Times Journal'']
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* ''Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815'', Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714
* ''Napoleon's Elite Cavalry: Cavalry of the Imperial Guard, 1804-1815'', Edward Ryan with illustrations by Lucien Rousselot, 1999 , 208 pages ISBN 1853673714


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.drapeaux.org/France/Empire_1/index.html French website displaying flags of the Grande Armee]
* [http://www.drapeaux.org/France/Empire_1/index.html French website displaying flags of the Grande Armee]
* [http://www.militaryhistoryonline.com/napoleonicwars/articles/soldiersoffortitude.aspx Soldiers of Fortitude: The Grande Armee of 1812 in Russia] by Major James T. McGhee
* [http://www.militaryhistoryonline.com/napoleonicwars/articles/soldiersoffortitude.aspx Soldiers of Fortitude: The Grande Armee of 1812 in Russia] by Major James T. McGhee
* [http://web2.airmail.net/napoleon/cavalry_Napoleon.html#frenchhistorycavalry French Heavy and Light Cavalry (Lourde et Legere Cavalerie)]{{リンク切れ|date=2012年4月}}
* [http://web2.airmail.net/napoleon/cavalry_Napoleon.html#frenchhistorycavalry French Heavy and Light Cavalry (Lourde et Legere Cavalerie)]{{リンク切れ|date=2012年4月}}

2019年5月4日 (土) 04:04時点における版

La Grande Armée
大陸軍
活動期間 1805–1815
国籍 フランスの旗フランス帝国
兵力 685,000名
(1812年6月)
主な戦歴

第三次対仏大同盟

ウルム
アウステルリッツ

第四次対仏大同盟

イエナ・アウエルシュタット
フリートラント

第五次対仏大同盟

アスペルン・エスリンク
ワグラム

スペイン半島戦争

バイレン
ビトリア

ロシア遠征

スモレンスク
ボロジノ

第六次対仏大同盟

リュッツェン
ドレスデン
ライプツィヒ
アルシー・シュル・オーブ

第七次対仏大同盟

ワーテルロー
指揮
現司令官 ナポレオン
ミュラ
ランヌ
ベルティエ
ネイ
ダヴー
ベルナドット
スールト
マッセナ
スーシェ
ヴィクトル
オージュロー
ルフェーヴル
モルティエ
ベシェール
ウディノ
マルモン
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大陸軍(仮名:だい・りくぐん|仏語:Grande Armée)は、フランス第一帝政下の陸軍組織であり、ナポレオン1世が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。1805年8月29日に発足した。いわゆるナポレオン軍であり、ナポレオン戦争の中心的軍隊となった。

その前身は1804年に大西洋沿岸軍Armée des côtes de l'Océan)の名で編制された方面軍であり、イギリス本土侵攻を目的にドーバー海峡に面するブローニュに配置されて総勢18万の兵員で構成されていた。しかし、翌1805年にその上陸作戦を援護する為のフランス海軍がイギリス海軍に太刀打ち出来ない事実が明らかとなった為に、計画の変更を余儀無くされたナポレオンは、同年8月29日から大西洋沿岸軍を内陸部のライン川に向けて進軍させ、同日の参謀長ベルティエに宛てた手紙の中で始めて「Grande Armée」という言葉を使っている。この時から大西洋沿岸軍は大陸軍に改称したと見られ、以後はヨーロッパ大陸全域を管轄にして戦う事になった。

1805年にオーストリア、ロシアと交戦した後も、1806~1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までのスペイン半島戦争、1809年のオーストリアとの決戦、1812年のロシア遠征の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの方針で諸外国の部隊と外国人兵士が積極的に加えられていた事も特徴であり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて事実上の多国籍軍隊となった[1]。ロシア遠征の敗北後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の百日天下まで死闘を繰り広げた。なお、1815年時は北方軍Armée du Nord)の名称で編制されていた。

組織構造

皇帝軍事本営

ナポレオンと幕僚たち
ナポレオンと幕僚たち

大陸軍(グランダルメ)は事実上皇帝ナポレオンが直率する軍隊であり、その指揮統率を助ける側近達は皇帝軍事本営(Maison militaire de l'Empereur)としてまとめられていた。この組織は皇帝の身の安全を保証しその戦争指導を支え各軍への指示伝達を円滑化する為の統帥機関であり、侍従武官と幕僚本部と皇帝近衛隊指揮官で構成されていた。国家予算の1割強を消費しており皇帝近衛隊の維持費はまた別枠だった。常にナポレオンと従軍を共にし親征地の最前線にもそのまま移動した。

侍従武官Aides-de-camp de l'Empereur)は戦場におけるナポレオンの最側近であり作戦立案と指揮統率を助けていた。その職務は柔軟かつ多岐に渡った。任命されたのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の高級将校達だった。侍従武官の中で主だった者には旧王宮に由来する肩書きが加えられ、宮殿総監(Grand maréchal du palais)と馬事総監(Grand écuyer)がその双璧だった。前者は宮廷内警護の責任者であり、後者は戦場での警備責任者であったがナポレオンの下では形骸化して、代わりに軍事作戦中の外交交渉を担当する事が多かった。侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。彼らはそれぞれが秘書を持ち自身の職務を助けさせた。

参謀総監Major général)は、幕僚本部(État-major général de l'armée)の統括者であり、各種専門スタッフをまとめる他、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的な命令書に書き表して各司令官に伝達する事務統括の役目を果たした。大陸軍の参謀長(Chef d'état-major)と同義であり、ルイ=アレクサンドル・ベルティエがほぼ全期間を通して在任していた。

軍団と師団

近世ヨーロッパの軍隊は絶対君主制および封建制度特有の事情によって、極めて集権的かつ硬直した組織構造になっており、一人の軍司令官が長大な隊列の進退を決めて衝突した敵と順次交戦していく運用法が標準となっていた。封建領地ごとに貴族領主の私部隊でもある連隊(régiment)が組織され、戦争時は複数の連隊が合同してある程度戦力を均一化させた旅団(brigade)を編制し、旅団は長大な隊列の一部分となった。

革命後のフランス軍は共和政に移行した軍隊内情の変化により、従来にはない軍事制度の改革に取り組める余地が生まれたので、それまでの長大な隊列を機能的に分割して独自の行動権限を持たせた師団と、複数の師団を合わせて歩兵騎兵砲兵の高度な連携を可能にした軍団の編制単位が考案される事になった。師団(division)はフランス第一共和政の陸軍大臣ラザール・カルノーによって1793年から1794年にかけて整備され、軍団(corps d'armée)は時の第一執政ナポレオン・ボナパルトによって1800年に誕生した。複数の軍団に分けて運用された大陸軍(グランダルメ)は従来にはない軍隊の多元的な活動を実現してヨーロッパ大陸を席巻し、その成功を見た他のヨーロッパ諸国も旅団を基軸とする従来の硬直した軍隊構造を改めて、フランス軍と同様の機能的な編制単位を導入するようになった。

各編制単位

軍団

軍団は歩兵師団を軸にした作戦上の基本単位であり、その兵員数は10,000名から50,000名と幅広く平均20,000名前後であり、標準構成は3個歩兵師団+1個軽騎兵師団+大砲44門であった。歩兵軍団は1805年に7個、1813年に14個存在した。後年には歩兵軍団corps d'infanterie)とも呼ばれて騎兵軍団と区別された。
各軍団に未配属の全騎兵師団は騎兵予備集団corps de réserve de cavalerie)が一括管理していたが、1812年に3個の騎兵軍団corps de cavalerie)に分割された。その兵員数は約10,000名で概ね4個騎兵師団+大砲30門で構成された。1813年以降の騎兵軍団は小規模化して6個となり、兵員数は約4,000名で標準構成は2個騎兵師団+大砲12門となった。大抵は重騎兵師団と軽騎兵師団のセットで編制された。
軍団長は副官5名と幕僚部(état-major)と兵站部(parc)と予備砲兵(réserve d'artillerie)と工兵部(génie)を持った。副官には私設副官(aide-de-camp)と公式副官(adjudant)がおり後年は後者のみとなった。幕僚部は各種専門スタッフが在籍し参謀長が統括した。憲兵もここに所属した。軍団および師団は司令官(commandant)と参謀長(chef d'état-major)の二人三脚で運営されていた。兵站部は軍需品を積んだ荷馬車群の集合場所で砲兵部署(parc d'artillerie)と輜重部署(parc des équipages)に分かれており、木工職人や鍛冶職人もここで活動した。大砲10~20門からなる予備砲兵は砲兵指揮官(chef de l'artillerie)が管理し、また配下の師団砲兵(6~8門)も管理下に置いた。工兵部は概ね3個工兵中隊からなり工兵指揮官(chef du génie)が率いた。この軍団長+スタッフ達には2個騎兵大隊(400名)が護衛として随伴した。

師団

師団は一つの戦場または広大な戦場の一区域を受け持つ戦術面の基本単位であり、歩兵師団division d'infanterie)と騎兵師団division de cavalerie)に分類された。歩兵師団の兵員数は5,000名から10,000名で徒歩砲兵の大砲8門が標準で付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名で騎馬砲兵の大砲6門が標準で付いた。歩兵師団は大抵3~6個の歩兵連隊と1個の徒歩砲兵中隊で構成され、騎兵師団は概ね2~4個の騎兵連隊と1個の騎馬砲兵中隊で構成された。
師団長は副官3名と参謀長が統括する幕僚部を持ち、1個騎兵大隊(200名)が護衛として随伴した。軍団のものより小規模な師団の幕僚部(état-major)には砲兵中隊士官と、軍需品を積んだ荷馬車を各連隊に捌く輜重士官(officier des équipages)や野戦病院を設置する衛生士官(officier de santé)などの他、旅団長も在籍した。また、前線での必要に応じて配下連隊が持つ各荷車を集めて一括保管する兵站部(parc)が設けられる事もあった。

歩兵旅団+連隊+大隊+中隊

フランス軍の旅団brigade)は戦場指揮面の編制単位となり、旅団長は副官2名を持つのみで、師団配下の連隊1~3個の指揮権を与えられ、その各連隊が擁する各大隊を戦場で動かした。大抵は連隊2個分の大隊の戦場運用をまかされて、結果的に師団は2~3個の旅団を持つ事になった。師団長が各大隊を並べて展開した陣形の前後ないし左右半分それぞれの運用を各旅団長に分担するという形が多かった。他にも戦列歩兵連隊と軽歩兵連隊のペアで歩兵旅団が編制される事もあり、また師団陣形の前に敷かれる軽歩兵連隊1個分の散兵線がそのまま旅団となる事もあった。
大隊bataillon)は戦場での基本行動単位であり、定員は800~1,000名だが従軍中の消耗で実際は500名程度の事が多く、戦場に展開される長大な隊列および陣形は基本的にこの大隊が組む戦闘隊形を連結して形成された。大隊長は副官2名と共に大隊の全兵士を指揮した。中隊compagnie)は兵営生活の基本単位であり定員は120~140名だが実際はその6~8割程度の事が多く、これが6~9個集まって大隊を形成した。
連隊régiment)は軍隊管理の基本単位であり各県ないし郡ごとに設置され、地元の人口情勢に応じて2~6個大隊を編制して管理した。大きな戦場での大隊運用は師団長ないし旅団長に一任されたが、旅団が無く師団長が一括運用しない時は連隊長が保有大隊を動かした。連隊長は運営スタッフを持ち、戦場では基本的に第1大隊と共に行動した。連隊は各地域に根差して組織される恒久的な編制単位であり兵員数が極度に減少してもその存在が失われる事はなかった。従軍中の消耗で少人数となった連隊を幾つもまとめて一部隊として率いる役割も旅団は持っていた。軍政上の大隊管理は連隊長が行い、戦場に応じた大隊の一括運用は旅団長が担当すると考えると分かり易い。

騎兵旅団+連隊+大隊+中隊

騎兵旅団は、軍団または騎兵師団に属して、連隊1~4個分の騎兵大隊の戦場運用をまかされた。戦場での基本行動単位である騎兵大隊escadron)の定員は約200名であり、2個の中隊で構成された。兵営生活の基本単位である騎兵中隊の定員は約100名だったが、実際の人数はその半分程度の事が多かった。特定の地域で設立される恒久的な編制単位である騎兵連隊は、3~4個の騎兵大隊を編制して管理した。戦場の騎兵は大隊ごとに行動するのが基本だったが、集中運用が好まれる重騎兵は複数の大隊をつなげて形成する騎兵旅団の長い隊列で突入する事がよく見られた。

砲兵連隊+中隊

歩兵騎兵と異なり、砲兵は中隊単位で戦闘活動に従事した。砲兵中隊batterie)の定員は約120名であり、砲兵連隊に直接管理された。砲兵連隊は後方の本拠地にある純粋な軍政上の管理組織であり実戦指揮機能は持たなかった。従軍時の砲兵中隊は個別に各師団または各軍団に配属され、戦場では師団長または軍団長配下の砲兵指揮官に指揮された。

皇帝近衛隊

近衛歩兵隊のマーク

L'armée est la vrai noblesse de notre pays.”(軍隊は我が国の品格である)。1804年5月に発足した皇帝近衛隊(Garde impériale)は、ナポレオンの戦争芸術品とも言うべき精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(Garde des consuls)から発展した組織だった。皇帝近衛隊は軍団(corps d'armée)の編制単位と同等であり、歩兵騎兵砲兵工兵の四兵科と各種牽引兵および支援部門を備えていた。

皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊(régiment)単位で管理されていた。1806年以降の近衛歩兵連隊は2個大隊構成となり両大隊は4個中隊を擁していた。各近衛歩兵中隊の兵員数は約100名だった。近衛騎兵連隊は当初は2個大隊構成で、後に重騎兵科は6個大隊、軽騎兵科は10個大隊まで拡張された。各大隊は2個中隊を擁しており、各近衛騎兵中隊の兵員数は約100名だった。しかし従軍中の消耗で後年は定員の半分以下になってる事が多かった。従軍中の各近衛連隊は旅団、師団、集団(corps)などの編制単位にまとめられて戦った。各連隊の組み合わせである戦闘序列(ordre de bataille)は戦役ごとに大きく変化して一定でなかった。

近衛隊の規模の変遷
兵士数
1800 4,000
1804 10,000(皇帝近衛隊発足)
1806 15,000
1809 31,000(新規近衛隊を追加)
1811 52,000
1813 92,000(若年兵が大量採用された)
1815 25,000

古参・中堅・新規近衛隊

最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。

古参近衛隊(Vieille Garde

古参近衛隊との別れ

古参近衛隊は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

  • 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
  • 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
  • 近衛精鋭憲兵隊
  • 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊
  • 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第5大隊+近衛マムルーク騎兵大隊
  • 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
  • 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第3大隊
  • 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第5大隊
  • 近衛徒歩砲兵第1連隊
  • 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊

中堅近衛隊(Moyenne Garde

中堅近衛隊への攻撃命令

中堅近衛隊[2]は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させた。彼らは同時に古参近衛兵候補であり、また新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員でもあった。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の百日天下でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

  • 近衛小銃擲弾兵連隊
  • 近衛小銃猟歩兵連隊
  • 近衛軽槍騎兵第1連隊の第4大隊~第6大隊

新規近衛隊(Jeune Garde

近衛隊の閲兵

新規近衛隊[3]は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

  • 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊
  • 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊
  • 近衛海兵大隊
  • 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊
  • 近衛猟騎兵連隊の第6大隊~第9大隊
  • 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊
  • 近衛軽槍騎兵第1連隊の第7大隊
  • 近衛軽槍騎兵第2連隊の第6大隊~第10大隊
  • 近衛徒歩砲兵第2連隊
  • 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊

近衛歩兵

近衛擲弾兵(Grenadiers-à-Pied de la Garde impériale[4]
近衛擲弾兵
執政親衛隊の擲弾兵を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、1806年以前はナポレオンの最も頼れる歩兵戦力として、1807年以降は滅多に戦闘に投入されない言わば殿堂入りの存在となり、同時に数多くの特権を与えられて皇帝ナポレオンを護持する為の運命共同体的な役割を果たした。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。第1連隊は40歳前後の者が多く年齢的な衰えから実戦力としての価値は後続連隊に譲っていた。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年のホラント王国併合時にその近衛歩兵隊が編入され第3連隊となったが1813年に解散している。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。
装備品はシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣と歩兵用小剣(sabre briquet)であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。
制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった[5]。第2連隊は赤い羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤い羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
ワーテルローの戦いにおいてイギリス軍のメイトランド旅団に撃破され皇帝近衛軍は総崩れとなった。この功績からメイトランド旅団は第一又は擲弾兵近衛歩兵連隊(グレナディアガーズ)と命名された。
近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale
執政親衛隊の猟歩兵を起源とする最上級に次ぐ地位の歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。散開して戦う軽歩兵科だった。近衛擲弾兵と双璧をなす彼らも、1806年以前は軽歩兵の最優秀戦力として君臨し、1807年以降は滅多に戦闘に投入されない数多くの特権を与えられた殿堂入りの存在となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。40歳前後が多い第1連隊は事実上の名誉部隊だった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった[6]。第2連隊は赤+緑の羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤+緑の羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
近衛海兵(Marins de la Garde impériale
1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個の海兵中隊(équipage)をまとめていた。近衛海兵中隊の人数は約150名だった。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶やボートの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。
制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった[7]
近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde impériale[8]
近衛小銃擲弾兵
1806年に近衛擲弾兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛ウェリテス擲弾兵(Velites-Grenadiers de la Garde impériale)連隊として組織された。ウェリテスはローマ帝国の若年軽装歩兵に由来する呼称であり、ナポレオンは二軍部隊の意味で用いていた。彼らは年内に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)第2連隊と改称された。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされてその第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。近衛擲弾兵第1連隊は40歳前後の者が多く年齢的な衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢戦力となったのは近衛擲弾兵第2連隊とこの近衛小銃擲弾兵だった。
制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde impériale
1806年に近衛猟歩兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。近衛猟歩兵第1連隊は40歳前後の者が多く敏捷さに衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢となって高度な散兵戦を行ったのは近衛猟歩兵第2連隊とこの近衛小銃猟歩兵だった。
制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde impériale
近衛狙撃歩兵
1809年に近衛狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。彼らは隊列を組む戦列歩兵であり、この’’tirailleurs(狙撃兵)’’とはナポレオン流の命名で準精鋭を意味する呼称のようだった。ナポレオンの故郷であるコルシカ人部隊名にも使われている。まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が入隊した。狙撃歩兵連隊は言わば精鋭部隊育成の為の練兵場であり、古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって新規近衛兵達を鍛えて戦場に導く形となった。次々と連隊が新設され1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。1813年以降は若者達を近衛兵の名で熱狂させて危険な最前線に駆り立てる為のブランド部隊と化していた面があった。
制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。赤い飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde impériale
近衛選抜歩兵と近衛狙撃歩兵
1809年に近衛狙撃猟歩兵(Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。この名称はナポレオンの発案であり、単に従来の軽歩兵を言い換えたものだった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を築き連携して戦った。ロシア遠征の惨敗で戦局が悪化した1813年から若年兵の大量採用が始まり、近衛兵の誇りを持たされた彼らは消耗の激しい最前線に送り出される事になった。
制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。

近衛側防擲弾兵(Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale

ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg
近衛側防擲弾兵と近衛側防猟歩兵
ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。
制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+赤の羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。

近衛側防猟歩兵(Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale

ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛側防擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。
制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。

近衛騎兵

近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale
近衛騎馬擲弾兵
執政親衛隊の重騎兵を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。
近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナポレオンが最も頼りにした重騎兵だった。
制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale
近衛猟騎兵
1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵を組織しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の百日天下の時には2個目の連隊も作られて第1連隊(古参近衛隊)と第2連隊(新規近衛隊)が存在する事になった。
近衛猟騎兵は最優秀の斥候であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。
彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
近衛マムルーク騎兵(Mamelouks de la Garde impériale
近衛マムルーク騎兵
ナポレオンはエジプト遠征の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで活躍した事で独自の軍旗を獲得し増員されて大隊待遇の中隊となった。1813年には新中隊が追加されて正式に騎兵大隊となり、第1中隊は古参近衛隊に、第2中隊は新規近衛隊に所属した。近衛猟騎兵連隊の管理下にあり、その第10大隊とも呼ばれていた。
彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い三日月刀と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。
近衛精鋭憲兵(Gendarmes d'élite de la Garde impériale
近衛精鋭憲兵
皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵から畏怖される存在であった。精鋭憲兵隊(légion d’élite)は当初4~6個中隊をまとめ、1813年に12個中隊となった。中隊(compagnie)の定員は120名だった。彼らは皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つ他、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は中隊数の増加に伴い前線に出て戦闘する機会が増えた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵科からの者もいた。
制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。
皇后竜騎兵(Dragons de l’Impératice
皇后竜騎兵
1806年に近衛竜騎兵(Dragons de la Garde impériale)連隊として創設されたが翌年に改称された。3番目の近衛騎兵隊である彼らの装備品は一般の竜騎兵と異なっており、下馬戦闘を行わなず、場合によっては軽騎兵の任務もこなす多芸な重騎兵の位置付けだった。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。
制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。
近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale[9]
4番目の近衛騎兵隊であり、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えでポーランド式槍騎兵(ウーラン)の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。
第1連隊(ポーランド)
近衛ポーランド槍騎兵
1795年のポーランド分割により祖国を失ってフランスに亡命し、その優れた騎兵技術を買われて皇帝近衛隊に採用されたポーランド軍人達はナポレオンの期待を裏切らなかった。1807年にナポレオンはポーランド人騎兵の功績に応える形で、彼らだけの独立部隊である近衛ポーランド軽騎兵(Chevaux-légers polonais de la Garde impériale)連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。翌年のスペイン戦線のソモシエラの戦いの中で、彼らはスペイン軍砲兵陣地への伝説的な突撃を敢行し大いに名声を高めた。ナポレオンは彼らの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称させた。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍の近衛騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。
制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。
第2連隊(オランダ、後にフランス)
赤い槍騎兵
1810年のホラント王国併合時に、その近衛騎兵隊を改組編入させる形で組織された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(les lanciers rouges)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。
制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。
第3連隊(リトアニア)
ロシア遠征直前の1812年にナポレオンは祖国回復を夢見るリトアニア人達の熱意を認めて、彼らの騎兵連隊を新規近衛隊に加えた。1795年のポーランド・リトアニア分割ロシア帝国に祖国を奪われていた彼らは、その遠征に参加する事で自分達の悲願を果たそうとしていた。しかし厳しい遠征の中で苦戦を強いられ、ロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲された後にスロニムで滅ぼされた。その生き残り達は近衛軽槍騎兵第1連隊に編入された。
制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。
近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale
ナポレオンの指示で1813年に新設された彼らの役割は、各近衛騎兵連隊に随伴して様々な支援任務をこなす事だった。新しく徴集した青年騎兵の中から選ばれた者達で4個連隊が編制された。ナポレオンは上流家庭と富裕家庭出身の若者達を動員し馬と装備品の費用も負担させる事を望んでいたが、実際には庶民層の若者も少なからず存在していた。彼らは’’gardes d'honneur(儀仗兵)’’と命名されたが、そのエスコート相手は正規の近衛騎兵連隊たちであり、儀仗兵の名称とは裏腹に露払い的な扱いを受けて最前線に立たされ続けた。彼らの技量は近衛騎兵の水準に達していない事が多かった。富裕家庭の子弟は暗に’’人質’’とも呼ばれていたようで国内資産家の亡命を抑止する狙いもあったという。これを発展させたものが近衛偵察騎兵となった。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。
制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。
近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde impériale
近衛偵察騎兵
ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。
第1連隊第1大隊の制服は熊毛コルパック帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。

近衛砲兵

近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale
近衛徒歩砲兵
前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は当初3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で重砲4門か軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を形成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。
制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale
近衛騎馬砲兵
近衛砲車牽引兵と近衛砲兵
前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁しており、近衛騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。
制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
近衛砲車牽引兵(Train d’artillerie de la Garde impériale
近衛砲車牽引兵中隊(compagnie)は近衛砲兵中隊(batterie)の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した。当初は大隊(bataillon)組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊(régiment)組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。

歩兵

Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite.”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要(神経)である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多いナポレオン軍の主要構成員であり、密集隊形で戦う戦列歩兵infanterie de ligne)と、散開して戦う軽歩兵infanterie légère)の二つの兵科に分けられていた。

戦列歩兵

戦列歩兵(infanterie de ligne)はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。

ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊régiment)に改称した1803年当時は、112個の戦列歩兵連隊が存在し最終的には156個となった。連隊はフランスの各県ないし郡ごとに組織されていた。戦列歩兵連隊は2~6個大隊+後備大隊で構成されており、大隊の数は地元の人口情勢に左右された。後方支援役の後備大隊bataillon de dépôt)は4個中隊で構成され主に新兵の教育部署となり、新兵達は連隊の荷車を運搬する小荷駄隊を兼ねた。戦場での基本行動単位である大隊bataillon)は複数の中隊で構成された。中隊compagnie)は兵営生活の基本単位だった。

1800~1804年の戦列歩兵大隊の構成は、1個擲弾兵中隊+8個小銃兵中隊で各中隊の人数は約120名だった。1805~1807年は1個擲弾兵中隊+7個小銃兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808~1815年は1個擲弾兵中隊+4個小銃兵中隊+1個選抜歩兵中隊で各中隊は約140名となった。擲弾兵中隊は大隊の先頭に立って戦う兵士達の牽引役であり、選抜歩兵中隊は主に散兵線を敷く支援要員であった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て1,600~3,200名という事になるが、従軍中の消耗で実際には定員の5~7割程度になってる事が多かった。

連隊は連隊本部état-major)を持った。大佐が連隊長となり中佐が本部長となった。連隊本部には各スタッフ(会計士官、給与士官、連隊付士官&下士官、旗手、軍医長、鼓手長、軍楽長)と各職人(仕立て師、靴職人、理容師、パン屋、大工、鍛冶師)が在籍した。後備大隊は中佐が管理した。大隊長(少佐)には副官(大尉と中尉)2名と准尉1名と鼓手伍長1名が付いた。准尉は監査役で中佐の部下だった。中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長8名、鼓手2名が付いた。

小銃兵Fusiliers
小銃兵
小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。戦場では隊列を組んで進み、指揮官の号令で一斉射撃し、銃剣を構えて敵隊列へ突撃した。フランス軍では銃剣突撃が積極的に行われた。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。近衛隊および高名な連隊では彼らの技量に対する信頼の証として、敵への接近中に個々に狙いを定めて射撃する事も奨励されていた。
小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲であるシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは二角帽子をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンを付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。
擲弾兵Grenadiers
擲弾兵と選抜歩兵
擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。戦列歩兵連隊の中から背が高く勇敢で精強な者が選ばれて擲弾兵となり、彼らをまとめた擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ配備され、その大隊の先頭に立って戦う兵士達の牽引役となった。擲弾兵中隊は大隊が縦隊を組んだ時はその先頭に立ち、横隊の時は古代ローマ&ギリシャ時代に最も名誉な位置と言われた右端に置かれた。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵集団が編制される事もあり、大規模戦闘隊形の要所に配置されて強力な突破力となった。また、擲弾兵中隊の中から選抜された5名は戦闘工兵(Sapeurs grenadiers)と呼ばれ、大斧を振るって敵施設を破壊し味方の為の突破口を作る大隊最精鋭の突入要員となった。
擲弾兵は威圧感を持つ為に全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣(sabre briquet)を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。なお、戦闘工兵は1807年以降も熊毛帽の着用を許されていた。
選抜歩兵英語版Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
1803年に各軽歩兵大隊に一つの選抜歩兵中隊が配備されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵大隊にも同様に選抜歩兵中隊を配備させた。その趣旨は軽歩兵のものとはやや異なり、各戦列歩兵大隊に独自の散兵線を持たせる事だった。背が低く射撃技術と身のこなしに優れた者が採用されて選抜歩兵となった。低身長者を選り分けたのは銃剣のリーチを揃える為でもあり、小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられていたからでもあった。彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされて1809年から給与待遇が上げられた。通常は大隊横隊の左端か大隊縦隊の後方に位置し、散開を命じられると前方に展開して散兵線を敷いた。また市街戦や山岳戦の際には機敏さを活かした突入要員としても活躍した。師団または連隊内の全選抜歩兵中隊が集められて前面に配置され、広大な散兵線を築く事がしばしばあった。
彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。
軽歩兵

近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(infanterie légère)と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の周辺に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数は少なく、1803年の31個連隊から最終的に37個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。

軽歩兵連隊は2~3個大隊+後備大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは1個カービン兵中隊+7個猟歩兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは1個カービン兵中隊+4個猟歩兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。

軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けており、哨戒や斥候や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。入隊基準は身のこなしに優れた者であったが、小柄な者が優先採用される傾向があり平均身長は戦列歩兵より2cmほど低かった。当時は小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられており、また森林や藪を素早く駆け抜けて物陰に隠れる動作などにも有利であるとされていた。

猟歩兵Chasseurs
猟歩兵
猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。
猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンが付いた。
カービン歩兵(Carabiniers
選抜歩兵とカービン歩兵
この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。軽歩兵連隊の中から背が高く勇敢で精強な猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。
制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。
選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。当初の基準は152cm以下だったが、その後は平均より低い程度となった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦山岳戦の時に活躍し、他に偵察や奇襲も専門とした。ナポレオンの命名である「voltigeur」には敵騎兵に対して「飛び上がって」攻撃出来る歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し、後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。
制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄色の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、1807年からは黄色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。

騎兵

La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。直線的な白兵戦を専門とする重騎兵cavalerie lourde)と、それ以外の様々な任務を担当する軽騎兵cavalerie légère)の二つの兵科があった。騎兵科は当時の戦場の花形であり、貴族階層の者達がその主な担い手となっていたが、フランス革命の勃発で貴族騎兵の大半が国外亡命した為にフランス騎兵はその質をひどく落とす事になった。しかし革命戦争の中で徐々に再建され、ナポレオンによる組織改革を経てヨーロッパ一流のものとなった。

革命前の旧体制下では、精鋭集団であるカービン騎兵連隊2個、白兵戦専門の大騎兵連隊24個、乗馬歩兵である竜騎兵連隊18個、フランス式軽騎兵の猟騎兵連隊6個、ハンガリー式軽騎兵のユサール騎兵連隊6個が存在し、革命戦争期間に幾度か改編され取り分け猟騎兵連隊が増設されていた。1802年頃から騎兵の組織改革に取り組んだナポレオンは、大騎兵(Grosse cavaleries)を約半数に選別し、重量胸甲を着せて胸甲騎兵と改称させ重騎兵の一線級とした。この胸甲騎兵による肉弾突撃を多用したのがナポレオン戦術の特徴だった。選別に漏れた者達は竜騎兵に転向させられたので竜騎兵の数は倍増し重騎兵の二線級に位置付けられた。また軽騎兵の育成を強化し、ハンガリー式であるユサール騎兵を一線級に定めて軍服を華やかに飾らせた。フランス式である猟騎兵は二線級とされ質より量の方針で大幅に増員させた。ナポレオンは軽騎兵による組織的な偵察活動を特に重視した。後年にはポーランド式槍騎兵(ウーラン)を正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵としてフランス軍に導入した。

騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は概ね4個大隊+後備大隊で構成された。戦場での基本行動単位である騎兵大隊escadron)は2個中隊構成であり、兵営生活の基本単位である騎兵中隊の人数は約100名だった。後方支援役である後備大隊escadron de dépôt)は新兵教育と軍馬の入れ替えと小荷駄隊を兼ねていた。各連隊の第1大隊の第1中隊は精鋭中隊compagnie d'élite)であり連隊内の選抜者が入隊した。騎兵連隊は従軍中の消耗で定員に足りてない事が多く、後年は半数以下になってる連隊も珍しくなかった。騎兵連隊は連隊本部état-major)を持ち、大佐が連隊長となり中佐が本部長となった。連隊本部のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じで、それに獣医と馬鞍職人と蹄鉄職人が加わった。騎兵大隊と中隊の士官構成も歩兵科とほぼ同じだったが、胸甲騎兵中隊に限り下士官の定員が他の半分となっていた。

重騎兵

胸甲騎兵Cuirassiers
胸甲騎兵
突撃と白兵戦を専門とする彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、胸甲を身に着け兜をかぶり直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にカービン銃も装備品となったが携行しない者もいた。1802年までは大騎兵(Grosse cavaleries)という名称で27個連隊が存在したが、1803年の騎兵改革で12個連隊に選別され、重量胸甲の着用を義務付けられた彼らは胸甲騎兵と改称した。1810年頃に2個の連隊が追加された。大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し戦いの流れを変える決定打となり、危険な突撃を敢行する彼らには高い名誉が与えられていた。彼らの胸甲と兜は銃弾に対しても、白兵戦におけるサーベルと槍に対しても大きな防護効果を発揮した。[10]なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用してそれがナポレオン軍の強さにつながった。
胸甲騎兵はナポレオン時代における最強の騎兵であり、近衛騎馬擲弾兵と並び他国の悩みの種となった。[10]
しかし、オーストリア軍のウーラン、ロシア軍のコサック、イギリス軍の胸甲騎兵もナポレオン軍の胸甲騎兵に勝るとも劣らない戦闘力と勇猛さを持っていた。[11]
制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。鉄と真鍮製の兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。
カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval
カービン騎兵
この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊であり2個の連隊が存在した。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に疲労が増し落馬時の受け身と離脱行動も難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増すると徐々に消耗を強いられ、1809年にはオーストリア軍のウーラン騎兵(ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵に胸甲の着用を命じた。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に金色の胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。
竜騎兵Dragons
竜騎兵
彼らは重騎兵科であったが軽騎兵と同様の任務を担う事もあり、正面戦闘の白兵戦を行う他、哨戒や斥候などの遊撃任務も担当する多芸で汎用な存在だった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1803年の騎兵改革で15個の大騎兵(Grosse cavaleries)連隊が竜騎兵連隊に改組される事になり、1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組された。
制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。

軽騎兵

ユサール騎兵Hussards
ユサール騎兵
ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥候を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、精鋭であるユサール騎兵は特に目覚しい働きを見せていた。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であり、30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主(卑怯者)であると言われた。[10][11]1804年に12個連隊が存在し、1814年に14個連隊となった。
ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は熊毛コルパック帽だった。
猟騎兵Chasseurs-à-Cheval
猟騎兵
彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年に24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く訓練も簡素で短かった。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけで実戦投入される事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。
猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。精鋭中隊は熊毛コルパック帽をかぶった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。
槍騎兵Lancers
槍騎兵
ポーランド式槍騎兵(ウーラン)を高く評価したナポレオンは、1811年に6個の竜騎兵連隊と1個の猟騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。更に槍騎兵の本場である同盟国ポーランド(ワルシャワ公国)から2個の槍騎兵連隊の提供を受けて合計9個連隊となった。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は前後二列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド式戦術の正しさが証明されると後列には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。[10][11][12]ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は力不足を指摘される事が多かった。また、騎兵槍は騎兵同士の戦闘では乱戦でかえって邪魔になる事も多く、槍を捨ててサーベルに武器を切り替える事も珍しくなかった。[10]槍騎兵は乱戦に弱いという欠点があり、背後にサーベルを主力武器とする騎兵が控えて援護していた。[13]また、槍騎兵の育成には手間がかかり、木製の騎兵槍で訓練をしていた。[14]
制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。
胸甲騎兵には及ばないもののナポレオン時代に復活した槍騎兵は、多くの騎兵がサーベルを主力武器とする中、実戦で恐ろしい威力を発揮した。[15]

砲兵

Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)[16]。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。徒歩砲兵Artillerie a pied)と騎馬砲兵Artillerie a cheval)の二つの兵種があった。更に行軍時の大砲運搬を担当する砲車牽引兵(Train d’artillerie)と、大砲の台車や荷車その他の修理修繕を行う工匠兵(Ouvriers)と、大砲の修理修繕を行う大砲鍛冶兵(Armuriers)の三つの支援兵種があった。また、作戦用の橋を設置する架橋工兵(Pontonniers)も砲兵科に属する兵種だった。

砲兵連隊

1805年には徒歩砲兵連隊8個と騎馬砲兵連隊6個が存在した。1810年に徒歩9個、騎馬7個となった。徒歩砲兵連隊は20個の徒歩砲兵中隊(compagnie)を管理した。騎馬砲兵連隊は6個の騎馬砲兵中隊(compagnie)を管理し1814年に8個となった。砲兵連隊(régiment)は連隊本部(état-major)を持ち、大佐が連隊長となり少佐(chef de bataillon)が本部長となった。連隊本部のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じだった。徒歩砲兵連隊は5個の部署(section)を持ち、少佐が部長となってそれぞれ4個の徒歩砲兵中隊を管理した。騎馬砲兵連隊は3個の大隊(escadron)を持ち、少佐が大隊長となってそれぞれ2個の騎馬砲兵中隊を管理した。1814年には4個の大隊となった。砲兵連隊は後方の本拠地にある純粋な軍政上の管理組織だったので、従軍時の各砲兵中隊は個別に師団または軍団に配属され、戦場では師団長または軍団長配下の砲兵指揮官の指示下で戦った。平時中隊(compagnie)は師団軍団に組み込まれると従軍中隊(batterie)と呼ばれた。

砲兵中隊

徒歩砲兵中隊(batterie)はカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門を持つのが標準で、騎馬砲兵中隊(batterie)はカノン砲6門を保有するのが標準だった。砲兵中隊には大尉2名、中尉2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長4名がいた。砲兵は1等と2等にランク分けされていた。
師団には標準1個の砲兵中隊が配属されて師団砲兵artillerie divisionnaire)と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ軍団予備砲兵réserve d'artillerie du corps)となった。師団砲兵は所属軍団の軍団予備砲兵に合流して運用される事もあった。騎兵軍団の予備砲兵は大抵、配下師団砲兵を集結させたものとなった。大砲の大量鹵獲により余裕が出た1809年からは革命戦争末期に廃れた連隊砲兵(artillerie régimentaire)の配備が再び始まり、カノン砲2門を持つ砲兵分隊(escouade)が配属された歩兵連隊も存在するようになったが、ロシア遠征での大量喪失で再び消滅した。

砲兵分団

砲車牽引兵中隊(compagnie)は砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した[17]。このペアは砲兵分団(division d’artillerie)と呼ばれた。当時の’’division’’は師団または中隊ペアの二つの意味で使われており、前者は軍を複数に分割した事に由来し、後者は大隊を複数に分割する事に由来した。砲兵分団には工匠兵と大砲鍛冶兵も同行して荷車と砲車と大砲の修理修繕を担当した。砲兵分団は言わば従軍ユニットだった。
砲車牽引兵は、1805年に5個中隊を管理する大隊10個があった。1808年に6個中隊を管理するようになり、1811年に27個大隊にまで拡張された。砲車牽引兵大隊(bataillon)は軍政上の管理組織であり、各牽引兵中隊は個別に出動して従軍時の砲兵中隊とペアを組んだ。または大隊自体が直接軍団に随伴して各中隊の割り当てを指揮する事もあり、その場合は精鋭扱いの第1牽引兵中隊が騎馬砲兵中隊を担当するのが通例だった。1809年からは連隊砲兵を運搬支援する分遣隊も柔軟に編制されるようになった[18]
工匠兵は1811年に18個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。大砲鍛冶兵は1811年に5個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。工匠兵と大砲鍛冶兵は中隊(compagnie)ごとに各軍団の兵站部(parc)などに配属され、5名位のグループに分かれて活動していた。

大砲

旧体制時代の1765年に発明されたグリボーバル・システムと呼ばれる大砲製造技術は、フランスの大砲品質を大きく向上させ、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。砲身はより軽く運搬が容易になり、品質の均一化に伴う口径の規格化によって照準も合わせやすくなった。標準規格は4ポンド、8ポンド12ポンドカノン砲6インチ榴弾砲に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した共和暦11年式システムを発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で主に軍団予備砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は真鍮(黄銅)製であった。青銅砲ともされるがこれは慣例上、真鍮製の物も含めて青銅砲と呼ばれたからである。砲架、車輪、前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。
徒歩砲兵(Artillerie a pied
徒歩砲兵
徒歩砲兵は標準的な砲兵だった。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名であり、標準保有数はカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門だったが、従軍中の破損でその半数程度になってる事が多かった。徒歩砲兵中隊の構造は二通りあり、(A)下士官が大砲1門(pièce)を管理し、その下士官2人(伍長と軍曹)を士官が管理して大砲2門の分隊(escouade)を構成し、その士官2人(中尉と大尉)で大砲4門の半中隊(demi-batterie)を構成するものと、(B)下士官が大砲1門(pièce)を管理し、その下士官数名を大尉が管理し中尉は補佐となって半中隊(demi-batterie)を構成するものがあった。砲兵中隊には大尉が2人いたので半中隊2個のペア部隊と言えた。先任の大尉が中隊長になった。従軍中の大砲破損で大抵は(B)になっていた。この構造から砲兵中隊は分割運用される事が多かった。
制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
騎馬砲兵Artillerie a cheval
騎馬砲兵
騎馬砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており総人数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名でカノン砲6門を保有するのが標準だった。これも半中隊(demi-batterie)に分けて運用される事がしばしばあった。
制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。

砲車牽引兵(Train d’artillerie

砲車牽引兵と砲兵
砲車牽引兵は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した[19]。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を捨て去る事が多かったので[18]、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。各砲車牽引兵中隊は各砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応した。砲車牽引兵中隊では曹長が中隊長になった。牽引兵は一等と二等のランクに分かれていた。
制服は黄色のチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て、黄色のズボンを履き、黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルとカービン銃で武装した。一等牽引兵は短いサーベルと拳銃で武装して敵襲に対応する役目も担った。二等牽引兵はほぼ丸腰だったようで運搬労務に専念した。

工兵

"On doit changer sa tactique tous les dix ans si l'on veut maintenir sa supériorité.”(もし敵より優位に立ち続けたいのならば十年ごとに戦い方を変えたまえ)。新しい技術の発見と採用に熱心であったナポレオンは工兵の重要性を明確に認めて、工兵科の給与待遇を騎兵科より上にし砲兵科に並ぶ水準まで引き上げていた。

工兵は工兵中隊(compagnie)にまとめられて行動した。工兵中隊の人数は平均150名だった。軍政上の管理組織である工兵大隊(bataillon)が6~8個の工兵中隊を管理していた。工兵中隊は前線での必要に応じて個別に各軍団に配属され、従軍中は軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けて活動した。なお、工兵科(Génie)に属していたのは土木工兵と坑道工兵と工具牽引兵の三つの兵種であった。架橋工兵は砲兵科に属していた。戦闘工兵は擲弾兵中隊から選抜されて戦列歩兵大隊の先頭に立つ攻城戦時の突入要員だった。

土木工兵(Sapeurs

近衛土木工兵
土木工兵は軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は150~200名だった。1812年には8個大隊まで増やされた。土木工兵大隊は軍政上の管理組織であり、戦場では中隊ごとに活動していた。土木工兵中隊は各軍団に複数個配属されて、軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。皇帝近衛隊には近衛土木工兵Sapeurs de la Garde impériale)の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。

坑道工兵(Mineurs

坑道工兵は城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。1805年には9個の坑道工兵中隊が存在した。1808年には12個中隊まで増やされ、2個の大隊が設置されて、それぞれが6個中隊を管理した。坑道工兵中隊の兵員数は150~200名だった。坑道工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて個別に各地の軍団に配属された。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。

工具牽引兵(Train du génie

工具牽引兵は、土木工兵と坑道工兵が使用するシャベル、つるはし、鍬、鋤などの大小様々な土木用具および各種資材を専用の荷車で運搬した。1806年に創設されて1810年には6個中隊が存在した。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をしていた。

架橋工兵(Pontonniers

架橋工兵
架橋工兵は工兵科(Génie)ではなく砲兵科(Artillerie)に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「はしけ」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であったジャン・バプティスト・エーブレによる技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。彼らは砲兵科だったので必要な資材、工具、特殊部品を積んだ専門の荷車の運搬は砲車牽引兵が担当した。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程のはしけ(艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵中隊の兵員数は100~150名だった。架橋工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて各地の軍団に配属され中隊ごとに活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には近衛架橋工兵Pontonniers de la Garde impériale)の1個中隊が存在した。

戦闘工兵(Sapeurs grenadiers

戦闘工兵
戦闘工兵は厳密には工兵(Génie)ではなく、擲弾兵中隊の中から5名の者が選抜された戦列歩兵大隊最精鋭の突入要員であった。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、防塞を打ち壊して味方の為の突破口を作り、また敵が使う橋梁や各種施設を破壊して回った。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは熊毛帽をかぶり、擲弾兵の制服の上に足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊(第1大隊第1中隊)から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。

その他の兵科

憲兵(Gendarmes
憲兵
軍隊内の不正を調査し軍規を引き締める役割を担っていた憲兵は、憲兵隊(légion)の編制単位でまとめられていた。憲兵隊の兵員数は50~120名であり中隊と同規模の集団だった。騎馬憲兵と徒歩憲兵の比率は6:4だった。1804年に27個の憲兵隊が存在し、1811年には34個まで増やされた。憲兵隊は各軍団に1個ずつ配属されており、また各方面の要地にも出向した。全憲兵隊は憲兵総監(Inspecteur général des armées gendarmerie)に管理されていた。
皇帝近衛隊内に組織されたものは精鋭憲兵隊(légion d’élite)と呼ばれ、これは騎兵連隊と同規模の集団となり複数の憲兵中隊(compagnie)をまとめていた。憲兵中隊の兵員数は120名だった。1804年は騎馬4個と徒歩2個の計6個中隊が存在し、1806年に徒歩憲兵中隊が廃止されて4個騎馬憲兵中隊となり、1813年には12個騎馬憲兵中隊にまで拡張された。
制服は熊毛帽をかぶり、黄色のチョッキの上に赤い襟返しと赤い襟と赤い袖口の濃青色コートを着て、黄色のズボンを履いていた。
海兵(Marins
海兵
海兵とは海軍に属す兵科であり、水兵(Matelots)と共に軍用船に乗り込んだが、船舶の操作を担当する水兵とは異なり、艦砲の砲手と艦上での白兵戦を専門とする者たちだった。近世の帆船同士の戦いでは大砲を放ちながら船体をぶつけて接舷した後に、海兵たちが斬り込んで敵乗組員を駆逐し敵艦の捕獲にまで到るケースが最も多かった。彼らは海戦時の主役であり、また敵地に上陸する際は歩兵戦力として活躍した。
近衛海兵
旧体制時代の国王海軍海兵部隊は、フランス革命後の1794年に7個の歩兵半旅団に改組される形で一時消滅したが、イギリス上陸作戦が計画される中の1803年に海軍内に再び組織されて、砲手海兵(Artellerie de la Marine)の名称で4個の海兵連隊が編制される事になった。加えて皇帝近衛隊の中にも近衛海兵大隊が新設され、選抜された海兵達がその構成員となった。1805年後半にイギリス上陸作戦が中止されると、海兵の一部は陸軍の指揮下に移され、イギリス海軍に備えた沿岸警備を担当するようになった。ロシア遠征敗北後の1813年になると4個の海兵連隊は陸上海兵(Infanterie de Marine)と改称された後に大陸軍(グランダルメ)に組み込まれて内陸部へと従軍し、ドイツ方面の戦いに投入された彼らはライプツィッヒの戦いなどに参加した。
海兵連隊では海軍式の構成と階級が用いられており、第1連隊は8個大隊、第2連隊は10個大隊、第3連隊と第4連隊は4個大隊を擁していた。各大隊は3~4個の海兵中隊(équipage)をまとめていた。海兵中隊の人数は100~150名であり、鼓手とトランペット手の両方を持つ唯一の兵科だった。制服は青い襟返しのブルーのコートを着て青いズボンを履き、上辺を赤く縁取って前面に金色の錨マークを付けた黒い円筒帽をかぶった。

補給部門

概略

平和的な購買調達
Une armée marche sur son estomac.”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、兵站の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また各連隊の後備大隊(bataillon de dépôt)は全兵員に行き渡る食糧8日分を保管しておりこれは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。狩猟採集とは家畜と収穫間近の農作物の収奪である事が多く、現地調達とは強制徴発と略奪である事が多かった。

補給物資の流れ

国家から各軍(方面軍)に提供される軍需品は戦争委員Commiissares des guerres)が手配した。戦争委員は政府から各軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は方面軍(armée)の倉庫に蓄えられて逐次運送された。まず各軍団の兵站部parc)に補給物資を積んだ荷車が運び込まれて管理され、そこから配下の各師団を中継地点として、補給品の荷車が各連隊に届けられると、中佐が監督する後備大隊bataillon de dépôt)で保管運搬しつつ、各中隊の下士官(曹長と給養係伍長)による分配を経て、糧秣弾薬衣料その他が兵士達に支給された。フランス軍の中で軍需品の管理保管運搬に直接携わる編制単位は軍団(兵站部)と連隊(後備大隊)だった。

輜重牽引兵

民間の馬借
1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に輜重牽引兵Train des équipages)を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を保有していた。中隊は更に4個の分隊(escouade)に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。軍政上の管理組織である輜重牽引兵大隊が4~6個中隊を管理し、各中隊は前線での必要に応じて個別に各軍団の兵站部などに配属された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には近衛輜重牽引兵Train des équipages de la Garde impériale)の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。

その他

遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えてニコラ・アペールが発明した「瓶詰」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。

医療部門

当時の医療

近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。戦場での治療と言えば、負傷者の身体を包帯でぐるぐるに巻いて止血し、傷口が開かないように包帯の上から革帯で固定して縫合代わりにし、泥と血にまみれた軍服を脱がせて患者衣に着替えさせ、身体に食い込んだ破片異物を摘出し、損傷して回復する見込みがない四肢を切断する事だった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた。また手法は不明だが挫傷の為の治療も存在していた[20]

医療スタッフ

野戦病院
各連隊には軍医長Chirurgien-major)1名と軍医助手Aide-chirurgien)4~5名とその他補助員達が在籍していた。彼らは50kg以上の患者衣と10kg以上の包帯と外科道具を携行して困難な医療活動に従事した。また師団ごとに野戦病院dépôt d'ambulance)が設置され負傷兵はここに運ばれたが、その実態はただの負傷者置き場と変わりなかった。満員で溢れ返るようになると付近の教会に可能な限り搬送され、ここでは敵味方の国籍を問わない救命活動が行われる事が多かった。皇帝近衛隊の衛生部門(service de santé)は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。

救急馬車と移動外科

救急馬車
当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護の改善に貢献した二人の人物がいた。ドミニク・ジャン・ラリーフランス語版英語版が発明した救急馬車(ambulance volante)は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた野戦病院の改善にも取り組んだ。ピエール・フランシス・パーシーフランス語版英語版は逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶとその場で治療を施す移動外科chirurgie mobile)を組織した。治療と言っても破片異物を取り除いて包帯でぐるぐるに巻いて止血する位だったが、これは衛生兵の元祖とも言えた。ラリーとパーシー両名の業績は他の欧米諸国をも啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。

廃兵院

ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。

情報通信部門

楽器

近衛隊の鼓手
La musique est la voix qui nous dit que la race humaine est plus grande qu’elle ne connait.”(音楽は我々人類の偉大さを更に語り伝えてくれる)とナポレオンも認めていた通り、楽器演奏は軍隊内で重要な役割を果たし、指示伝達の合図だけでなく規律を保ち士気を高める為の精神的効果も期待されていた。各歩兵中隊には2名の鼓手Tambours)が所属しドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をした。選抜歩兵中隊ではホルン手Cornets)となったが音色が不評でドラムに戻される事が多かったという。騎兵中隊にはトランペット手Trompettes)2名が所属した。各連隊には約8名の軍楽兵Musiciens)が在籍したが、連隊長の裁量で20~30名規模の軍楽隊になる事もあった。

軍旗

軍旗もまた部隊の位置と存在を示すだけでなく、兵士達を結束させる精神的支柱の役割を果たすものと見なされていた。1804年に第一帝政が樹立するとナポレオンは各戦闘隊形に国軍の象徴である鷲章軍旗aigle)が掲げられる光景を望んで、従来の連隊だけでなく各大隊にも鷲章軍旗を授けた。しかし数の多さから戦場での喪失も目立った為に1808年以降の鷲章軍旗は各連隊に一本と定められて、各大隊は所在を示すだけの小旗fanion)を持つ様になった。第1大隊が連隊旗を掲揚し、第2大隊は白色、第3大隊は赤色、第4大隊は青色、第5大隊は緑色、第6大隊は黄色の小旗を掲げた。戦列歩兵大隊では第1小銃兵中隊が、軽歩兵大隊では第1猟歩兵中隊が連隊旗または小旗を保有した。連隊旗の旗手Porte-aigle)は選抜された士官であり下士官2名がその従者となった。なお、例外的に近衛連隊とカービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊は概ね大隊ごとの鷲章軍旗保有を認められていた。

命令書

当時の命令書
当時の遠距離通信は文書や手紙のやり取りで行われる他はなかった。近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。ナポレオンは従来の口頭伝令を戒め、軍内の命令は必ず書類を通して伝達するよう義務付けていた。敵方の文書を接収出来ればそれだけ作戦行動の先手を取る事が可能であり、また現地の一般的な書信からも貴重な情報を得れる事があったので、作戦地域における敵伝令の捕縛と書簡収集は重視された。連隊には郵便士官Vaguemestre)が在籍する事もあり占領地での文書の押収とその分析を担当した。また状況により部隊内の私信検閲を行う事もあった。他にもフランス軍は伝書鳩を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。

新しい技術

文書に頼らない革新的な通信手段も存在していた。観測用熱気球をいち早く実用化したフランスは、それを偵察だけでなく遠方に合図を送る用途で空に上げる事もあった。また腕木通信(セマフォ)の施設も国内各所に整備されていた。ナポレオンも腕木通信に注目し、その開発者であったシャップの兄弟を通信監督(directeur du télégraphe)として皇帝軍事本営に一時期在籍させた事もあった。この工芸的な通信ネットワークは前線部隊と後方兵站の調整などに役立てられた。

外国人部隊

フランス革命政府は共和主義と市民社会の理念に沿わないものとして外国人傭兵部隊を廃止したが、ナポレオンは第一帝政の樹立と共にこれを復活させ、旧体制下の伝統的なスイス人傭兵部隊も呼び戻した。ナポレオンは愛国心を基にした国民軍隊を率いるのと同時に、金銭で雇った外国人部隊を用いる事にも前向きだった。皇帝近衛隊にも外国人兵士は積極採用され、愛国心とは無縁の彼らは金銭に加えて名誉欲とナポレオン個人への忠誠心を基にして戦った。自身も元は外国人であるナポレオンは、フランス人民の皇帝Empereur des Français)であり、市民革命の成果を守護する防衛機構に必要な存在であるとして外国人部隊の編制を正当化した。結果的に当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面で大陸軍(グランダルメ)の一部となった。外国人部隊は同盟軍として協力するものと、フランス軍の指揮下に組み込まれたものの二つに分類された。

ポーランド
ポーランド槍騎兵
1795年のポーランド分割で祖国を失いフランスに亡命したポーランド軍人達が近衛軽槍騎兵第1連隊となっていた他、イタリアに亡命していたポーランド軍人達はフランス傘下のナポリ王国に仕えて1807年にナポリ軍の一部としてプロイセン・ポーランド方面に遠征し、翌年の祖国の地において兵力6,000名からなるヴィスワ部隊(Légion de la vistule)として新編制された。1807年に成立したポーランド人のワルシャワ公国は槍騎兵連隊2個をフランス軍に編入させる他、自国の軍団や師団を積極的に派遣して協力した。しかしライプツィッヒの敗戦によるナポレオンの凋落でポーランド人達は再び祖国を失う事になった。また同様の事情で祖国回復を目指すリトアニアもロシア遠征に際して複数の連隊を提供し、その中の一つは近衛軽槍騎兵第3連隊となった。
イタリア
1803年にイタリア北部でポー川狙撃兵(Tirailleurs du pô)大隊が組織され、後にフランス軍の軽歩兵連隊となった。ナポレオンの継子ウジェーヌが治めるイタリア王国の軍隊、ナポレオンの義弟ミュラが治めるナポリ王国の軍隊、ナポレオンの妹エリザが治めるトスカーナ大公国の軍隊は当然の如くフランスの同盟軍となった。ナポレオンの故郷ではコルシカ狙撃兵(Tirailleurs corses)大隊が組織され、彼らは皇帝の従兄弟(Les Cousins de l'Empereur)と呼ばれていた。
ドイツ
1803年にフランスが占領したハノーヴァーでは、軽歩兵と軽騎兵を合わせたハノーヴァー人部隊(Légion hanovrienne)が組織されフランス軍の一部となった。ナポレオンの弟ジェロームが治めるヴェストファーレン王国は忠実な同盟軍となり多数の住民を動員してフランス軍に協力した。ナポレオンの甥っ子が治めるベルク大公国も複数の連隊を提供した。ドイツ諸国の中ではザクセン王国バイエルン王国が大きな兵力で協力し、ライン同盟諸国もそれぞれ師団や連隊をナポレオンの下に派遣して同盟軍の役割を果たしたが、ライプツィッヒの戦いで離反した。
その他
スイス人傭兵
1803年にアイルランドからの亡命者を中心にしたアイルランド人部隊(Légion irlandaise)が組織されてイギリス上陸作戦に備えたが計画は中止され、その後は一つの外国人連隊に改組された。旧体制下の優秀な歩兵戦力だったスイス人傭兵隊フランス革命時に解雇されたが、1804年にナポレオンが皇帝になると再雇用されて4個のスイス歩兵連隊がフランス軍の指揮下に入った。1805年にオーヴェルニュ遠征連隊(Régiment de la tour d’auvergne)が編制され4個連隊まで拡張し1811年に外国人連隊(Régiment étranger)と改称した。この傭兵部隊には故郷を捨てた様々な国籍の者達が集まっていた。ナポレオンの弟ルイが治めるホラント王国が1810年に併合されると国王騎兵隊は近衛軽槍騎兵第2連隊に、国王歩兵隊は近衛擲弾兵第3連隊にそれぞれ改組された。フランスの占領下にあったポルトガルでは、1808年に9,000名の選抜兵員からなるポルトガル人部隊(Légion portugaise)が組織されてヨーロッパ各地に遠征した。1809年にオーストリアからフランスに割譲されたダルマチアでは1811年に4個のクロアチア人歩兵連隊が組織された。彼らは優れた猟兵と言われていた。

階級構成

階級の一覧

勲章を授けるナポレオン

Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の元帥杖が入っている)。ナポレオンは兵士達にこう声明し、誰もが成した功績によって最高位まで昇進出来る道が開かれている事を示した。生来の身分と富で階級が定められていた封建制度の軍隊とは異なり、ナポレオン軍での昇進は個人の能力と勇気で決められた。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。ただし、革命戦争時代に見られた様な急速な昇進は無くなり、長く地道な軍隊勤務履歴が必要となっている。

将帥(colonels généraux

フランス第一帝政陸軍の最高階級は師団将軍(Général de division)であった[21]。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥、大将、方面軍将軍の栄典ないし役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。帝国元帥Maréchal d’Empire)の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。大将Colonel général)は旧体制下では各兵科最先任の将官を意味する役職であったが[22]革命時に廃止された後に、第一帝政下では名誉称号として復活し専らナポレオンの取り巻きが叙任されていた。方面軍将軍Général en chef commandant une armée)は方面軍(armée)の指揮権を必要に応じて与えられた役職で半島戦争などで叙任が見られた。1812年∼1814年の間廃止されていた。

将官(officiers généraux

師団将軍Général de division)は旧体制の中将(Lieutenant général)に、旅団将軍Général de brigade)は旧体制の少将(Maréchal de camp)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。1814年に旧体制時代の呼称に戻されている。旧体制の准将(Brigadier des armées du roi)は革命時に廃止されたままとなった。将軍副官Adjudant-commandant)は正式の階級ではなく軍団または師団の参謀長としての役職的階級であり大佐の者が任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされた。

上級士官(officiers supérieurs

ナポレオンは1803年に、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(Chef de brigade)を大佐Colonel)に戻させ、更に革命時に廃止された中佐Major/又はGros-majorとも呼ばれた)を再設して各連隊に1名置くよう指示した[23]。中佐は連隊の管理と運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(Colonel en second)は1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊(régiment provisoire)を率いる事になった。少佐=大隊長(Chef de bataillon)を補佐する大尉は副官勤務大尉Capitain adjudant-major)、中尉は副官中尉(Lieutenant sous-adjudants-major)と呼ばれ、役職的立場として一つ上のランクに扱われた。准尉Adjudant sous-oficier)は各大隊に1名置かれて下士官達の監査役となり中佐の管理業務を補佐した。

下級士官(officiers subalternes)下士官(sous-officiers

大尉Capitaine)は中隊長であり、中尉Lieutenant)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉Sous-lieutenant)は副中隊長の次席か連隊付き士官となった。軍曹Sergent)は兵士達の現場監督であり、伍長Caporal)はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長Sergent-major)は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長Caporal-fourrier)は中隊の食糧を管理した。軍需品を扱うこの両名は誠実で教養ある者が選ばれた。なお各種牽引兵中隊では曹長が中隊長となった。

なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵)での呼称である。

大陸軍の階級 現代の米陸軍で相当する階級
帝国元帥 (Maréchal d’Empire)
大将 (Colonel général)
方面軍将軍 (Général en chef commandant une armée)
師団将軍 (Général de division)
大将 (General)
中将 (Lieutenant general)
少将 (Major general)
旅団将軍 (Général de brigade) 准将 (Brigadier general)
将軍副官 (Adjudant-commandant) 大佐 (Staff Colonel)
大佐 (Colonel) 大佐 (Colonel)
二等大佐 (Colonel en second)※1809年のみ 中佐 (Senior lieutenant colonel)
中佐 (Major) 中佐 (Lieutenant Colonel)
少佐 (Chef de bataillon または Chef d'escadron) 少佐 (Major)
副官勤務大尉 (Capitaine adjudant-major) 大尉 (Staff Captain)
大尉 (Capitaine) 大尉 (Captain)
中尉 (Lieutenant) 中尉 (First Lieutenant)
少尉 (Sous-lieutenant) 少尉 (Second Lieutenant)
准尉 (Adjudant sous-oficier) 准尉 (Warrant Officer)
曹長 (Sergent-major または Maréchal-des-logis-major) 曹長 (Sergeant-Major)
軍曹 (Sergent または Maréchal des logis) 軍曹 (Sergeant)
給養係伍長 (Caporal-fourrier または Brigadier-fourrier) 中隊書記 / 補給係軍曹 (Company clerk / Supply sergeant)
伍長 (Caporal または Brigadier) 伍長 (Corporal)
兵士 (Soldat) または騎兵 (Cavalier) または砲兵 (Canonnier) 一等兵 (Private)

制服の形状

帝国元帥、大将、師団将軍、旅団将軍、将軍副官は専用の将官服を着用した。大佐以下の士官は兵士と同じ制服を着用し、コートの肩章と帽子の羽飾りで区別させた。帽子の羽飾りは佐官のみだったが、近衛兵や擲弾兵なども羽飾りを付けていたのでその中では目立たなくなった。下士官は肩に長方形のワッペンを付けてその模様で区別された。なお、皇帝ナポレオンは猟騎兵大佐の緑のコートを着て白いズボンを履き(猟騎兵は緑ズボン)黒い地味な二角帽子をかぶっていた。

肩章
将官 帝国元帥 大将/方面軍将軍 師団将軍 旅団将軍

将官服は、前面中央の襟返しに豪華な黄金の装飾を施したダークブルーのテイルコートで、襟口、袖口、裾口も黄金模様で華やかに縁取られていた。上の階級ほど金の装飾面積が広かった。金色肩章も豪華に装飾され金の房飾りと銀の星印が付いた。将軍副官は星無しで、帝国元帥は×印の各端に計4個の星が付いた。その下に白いズボンを履き、金色基調の腰帯を巻いた。ふさふさの羽毛で端を飾り立てた二角帽子をかぶった。

肩章
佐官 大佐 中佐 少佐

大佐は金の房飾り付き金色肩章を付けて、帽子に白い羽飾りを立てた。中佐は金の房飾り付き銀色肩章で、白+赤の羽飾りを帽子に立てた。少佐は左肩のみ房飾りが付いた金色肩章で、帽子には赤い羽飾りを立てた。なお、制服ボタンが銀色の連隊ではこの金銀の肩章配色が逆となり銀の肩章を付けた。赤い羽飾りは精鋭兵の印として広く使われていたので、大佐特有の白い羽飾りだけはよく目立ったという。佐官の肩章房飾りは太く、尉官のは細かった。

肩章
尉官 副官勤務大尉 大尉 中尉 少尉

副官勤務大尉は右肩のみ房飾りが付いた金色肩章、大尉は左肩のみ房飾りが付いた金色肩章だった。中尉は左肩のみ房飾りが付いて赤線の入った金色肩章であり、少尉は赤線の面積が広くなった。准尉の房飾りは金と赤の混合となった。尉官は専用の羽飾りを持たず、所属部隊兵士の羽飾りの有無に合わせた。

熊毛帽(Bonnet à poil)熊毛コルパック帽(Colback

近世ヨーロッパにおいて熊毛帽はエリート兵の証であり軍内で高い名誉を誇示した。主に戦列歩兵科と重騎兵科と徒歩砲兵科は熊毛帽を、軽歩兵科と軽騎兵科と騎馬砲兵科は熊毛コルパック帽(胴太で背が低い)をかぶった。1806年以前は皇帝近衛隊全員と、擲弾兵&カービン歩兵(全歩兵の約10%)、カービン騎兵(重騎兵の約4%)、ユサール騎兵&猟騎兵の精鋭中隊(軽騎兵の約10%)、騎馬砲兵(全砲兵の約16%)がかぶる事を許されていた。

1807年以降はずっと少なくなり、皇帝近衛隊の15~25%と、戦闘工兵(全歩兵の1%未満)、ユサール騎兵&猟騎兵の精鋭中隊(軽騎兵の約10%)、騎馬砲兵(全砲兵の約16%)のみが許されるようになった。皇帝近衛隊内では近衛擲弾兵、近衛猟歩兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛猟騎兵の古参格、近衛精鋭憲兵、近衛徒歩砲兵の古参格、近衛騎馬砲兵、近衛偵察騎兵の一部精鋭が着用を認められていた。近衛擲弾兵と近衛騎馬擲弾兵の熊毛帽が最も背が高く周囲を圧倒した。

羽飾り(Plume

  • 「赤」  少佐、擲弾兵、カービン歩兵、カービン騎兵(1809年まで)、胸甲騎兵、騎馬砲兵、憲兵、近衛擲弾兵、近衛小銃擲弾兵、近衛騎馬擲弾兵、近衛精鋭憲兵、皇后竜騎兵、近衛徒歩砲兵、近衛騎馬砲兵
  • 「赤+緑」近衛猟歩兵、近衛小銃猟歩兵、近衛選抜歩兵、近衛猟騎兵
  • 「赤+白」近衛狙撃歩兵
  • 「黄」  選抜歩兵(軽歩兵科)
  • 「黄+緑」選抜歩兵(戦列歩兵科)、近衛側防猟歩兵
  • 「黄+赤」近衛側防擲弾兵
  • 「白」  大佐、近衛軽槍騎兵
  • 「白+赤」中佐
  • 「緑」  猟歩兵(1806年まで)、近衛儀仗騎兵
  • 「その他」ユサール騎兵

戦術と戦闘隊形

戦術

戦闘隊形の集合

戦場の歩兵たちの基本行動単位は大隊(bataillon)であり、その定員は1807年までは約1,000名、1808年からは約800名であったが、従軍中の消耗で実際は400~600名である事が多かった。戦闘隊形formation de combat)はこの大隊ごとに組まれており、一軍の戦力は大隊の数で換算されるのが通例だった。師団は概ね8~16個の戦闘隊形を展開する事になり、師団長が一括運用する時もあったが、大抵は左右または前後半々に分けられて、双方の旅団長に4~8個の戦闘隊形の運用が分担された。連隊は地域ごとに設立される2~6個大隊の管理組織であり、戦闘時の連隊長は基本的に第1大隊と共に行動した。旅団編制が存在せず師団長が一括運用しない時は連隊長が管理下大隊を指揮した。師団長は戦闘隊形を幾何学模様的に配置し、大抵は散兵線Formation en tirailleur)を前面に敷き、横隊Ligne)を中央に並べて、縦隊Colonne)を横隊の両翼か後方または横隊間の切れ目に置いた。散兵線は軽歩兵、横隊と縦隊は戦列歩兵が構成した。この布陣は混成配置Ordre mixte)と呼ばれた。また、師団長は1個徒歩砲兵中隊(大砲8門)を標準戦力とする師団砲兵を歩兵陣形と併せて指揮し、各戦闘隊形の移動と攻撃を大砲で支援した。

騎兵の基本行動単位である騎兵大隊(escadron)の定員は概ね200名であったが、これも従軍中の消耗で実際には100名程度である事が多かった。敵隊列への衝撃力として使われる重騎兵は集中運用が重視されたので、大抵は連隊2~4個分の騎兵大隊を並べて形成した騎兵旅団の長い隊列で一斉突入する事がよく見られた。主に支援任務を担う軽騎兵は戦況に応じて騎兵旅団または騎兵大隊ごとにその都度投入される事が多かった。騎兵師団長は、1~3本の騎兵旅団戦列または8~16個の騎兵大隊と、1個騎馬砲兵中隊(大砲6門)を標準戦力とする師団砲兵を併せて指揮し、主に騎兵突撃を大砲で支援させた。

歩兵軍団は複数の歩兵師団と支援軽騎兵と予備砲兵の連携を行った。支援軽騎兵は1個の軽騎兵師団、予備砲兵は2個の砲兵中隊が標準戦力とされた。支援軽騎兵は斥候、前衛遊撃、側面援護、追撃など様々に用いられて歩兵の行動をサポートした。予備砲兵はその火力で軍団全体の戦闘活動を助けた。編制によっては1個程度の重騎兵師団も配属されて突入戦力として用いられた。騎兵軍団は重騎兵師団と支援軽騎兵と予備砲兵の連携を行った。重騎兵は長大な隊列を組ませて集中投入されるのが通例であり、支援軽騎兵はその周囲で様々な任務に従事した。騎兵軍団の予備砲兵は大抵、配下師団の師団砲兵を集めたものとなった。

戦闘隊形一覧

「陣形」の基本要素である大隊戦闘隊形と、その部品となる中隊隊形の種類は以下の通りであった。歩兵大隊は1807年までは9個歩兵中隊、1808年からは6個歩兵中隊で構成されていた。騎兵大隊は2個騎兵中隊で構成されていた。

戦列歩兵中隊の隊形
横幅30~40名が前後三列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の分隊section)2個が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。従軍中の消耗で実際の横幅はこれより少ない事が多かった。また戦場をピンポイントで移動する時は横幅3名位の縦隊になる事があった。
戦列歩兵大隊の戦闘隊形
横隊Ligne
各中隊を横一列に並べたもので一斉射撃用の隊形だった。右端は擲弾兵中隊だった。左端の選抜歩兵中隊が前方に展開して散兵線を敷く事もあった。
分団縦隊Colonne par division
中隊2個を繋げた分団=分大隊(division)を前後4列または3列(1808年以降)に並べたもので銃剣突撃用の隊形だった。当時の’’division’’には師団と分団の二つの意味があった。擲弾兵中隊は最前列の右だった。選抜歩兵中隊は最後列の左だったが縦隊の前面に出て散兵線となる事もあった。散兵線を前衛にしたものは攻撃縦隊Colonne d'attaque)と呼ばれた。各分団の前後間隔は列を詰めるもの(serrée)と一定の距離を空けるもの(à distance)のニつがあった。
中隊縦隊Colonne par peloton
各中隊を縦一列に並べたものでこれも銃剣突撃用の隊形であり、狭い地形や都市ないし城塞への突入時に用いられた。’’peloton’’は欠員無しの完全中隊を意味した。擲弾兵中隊が先頭で選抜歩兵中隊が最後尾となり、大抵は前後の間隔を詰めて並んでいた。
方陣Carré
各中隊を正方形ないし長方形の四辺となるように並べたもので騎兵に対する防御用隊形だった。6個中隊の時は前辺に2個、後辺に2個、左辺に1個、右辺に1個のように配置された。
軽歩兵中隊の隊形
各兵士が広い間隔を取って横幅10~13名の前後三列に並ぶ分隊section)3個を、左と中央と右に並べるのが基本だった。平地では左右分隊がやや前進してその三列が交互に入れ替わりつつ狙撃を行い、銃剣を構える中央分隊は緊急時の集結地点を示す控えとなった。森林や起伏のある地形では各分隊の位置を保ちながら流動的に進んだ。これは散兵線Formation en tirailleur)の基本要素となった。
軽歩兵大隊の戦闘隊形
分団縦隊Colonne par division
軽歩兵中隊2個を繋げた散兵線を前後4層または3層(1808年以降)に配置した。戦列歩兵大隊の横隊二つ分の横幅をカバー出来る浅めの散兵線Formation en tirailleur)を形成した。
中隊縦隊Colonne par peloton
軽歩兵中隊の散兵線を前後9層または6層(1808年以降)に配置した。横隊を組んだ戦列歩兵大隊の横幅をカバー出来る深めの散兵線Formation en tirailleur)を形成した。
騎兵中隊の隊形
横幅30~40名の騎兵が前後二列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の分隊section)が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。ピンポイントで進む時は隊列の真ん中から折れた逆V字型の両翼を閉じるようにして横幅四名の縦隊となった。また分隊が前後に並ぶ事もあった。それらに加えて軽騎兵中隊は、斥候や遊撃などの任務に応じて一定の集合を保ちつつも臨機応変に動く解放態勢Ordre lâche)を取る事が多かった。
騎兵大隊の戦闘隊形
横隊Ligne
2個の騎兵中隊を左右に並べた。
縦隊Colonne
2個の騎兵中隊を前後に並べた。

戦歴

皇帝ナポレオン

1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴うフランス第一帝政の樹立と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。

第三次対仏大同盟(1805)

イギリス征服を企図したナポレオンはドーバー海峡に面したブローニュに総勢18万を数える軍勢を集結させていた。それに対抗してイギリスは1805年4月にオーストリア、ロシアと共に第三次対仏大同盟を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月のウルムの戦いを経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンはアウステルリッツの地でオーストリア=ロシア連合軍を破り、オーストリアにプレスブルクの和約を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする神聖ローマ帝国は解体され、代わりにフランスを盟主とするライン同盟がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる大陸封鎖令を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。

第四次対仏大同盟(1806 - 1807)

ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月のフリートラントの戦いでもロシア軍を撃破した。その後のティルジット条約でロシア、プロイセン両国と講和し、先の大陸封鎖令にも参加させた。

スペイン半島戦争(1808 - 1814)

1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインのゴドイ政権とフォンテーヌブロー条約を結び、大陸封鎖令を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実なゴドイ政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄ジョゼフを王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起してゲリラの語源となると共に、凄惨な半島戦争が始まった。7月に起きたフランス軍の衝撃的な敗北で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄ジョゼフをスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。

第五次対仏大同盟(1809)

半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと第五次対仏大同盟を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生したアスペルン・エスリンクの戦いで始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月のワグラムの戦いで勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月のシェーンブルンの和約でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ大陸封鎖令の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。

ロシア遠征(1812)

大陸封鎖令による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく焦土作戦を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月のボロディノの戦いの後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。

第六次対仏大同盟(1813 - 1814)

ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと第六次対仏大同盟を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境のピレネー山脈を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、ライン同盟諸国も次々とフランスから離反して大陸封鎖令も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、ライプツィヒで史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。

1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。フォンテーヌブロー条約に従いナポレオンはエルバ島に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月のパリ条約で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間でウィーン会議が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。

第七次対仏大同盟(1815)

1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満とウィーン会議の混迷を好機と見たナポレオンはエルバ島を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると第七次対大同盟を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月のワーテルローの戦いで敗北した事で再び退位に追い込まれ、11月の第二次パリ条約の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。

脚注

  1. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997
  2. ^ Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde, Accessed March 16, 2006
  3. ^ Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815, Accessed March 16, 2006
  4. ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  5. ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
  6. ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  7. ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
  8. ^ FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101, Accessed March 16, 2006
  9. ^ Napoleon's Polish Lancers, Accessed March 16, 2006
  10. ^ a b c d e 戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編. 創元社 
  11. ^ a b c 図解 ナポレオンの時代 武器・防具・戦術大全. レッカ社 
  12. ^ 中里融司. 覇者の戦術 戦場の天才たち. 新紀元文庫 
  13. ^ R・G・グラント. 兵士の歴史 大図鑑. 創元社 
  14. ^ ハーピー・S・ウィザーズ. 世界の刀剣歴史図鑑. 原書房 
  15. ^ 市川定春. 武器事典. 新紀元社 
  16. ^ Mas, M.A. M., p.81.
  17. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
  18. ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
  19. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
  20. ^ Campagne 1793-1837 de François Vigo-Roussillon, Grenadier de l'Empire(Broché – 1981)
  21. ^ John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997
  22. ^ 「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年
  23. ^ Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "http://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"

参考文献

外部リンク