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「大陸軍 (フランス)」の版間の差分

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; カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
; カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から選抜されたエリート部隊であり2個連隊が編成された。赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履き、大きな黒馬にまたがる姿は近衛騎馬擲弾兵とよく似ていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。
:[[ファイル:Carabiniers à cheval.jpg|サムネイル|213x213px|カービン騎兵]]この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜たエリート部隊の位置付け2個連隊が編成された。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履ていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍の[[ウーラン|ウーラン騎兵]](ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。


; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}})
; [[ドラグーン|竜騎兵]]({{lang|fr|Dragons}})
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:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。
:[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|横隊]]横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}})
; 行軍[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Marche}})
: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。撃には向かず、また大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。
: 街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。には向かず、大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。
; 突撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Charge}})
; 突撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne de Charge}})
: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して全ラインの視界に入り、全員が進行方向を確認出来たので柔軟な高速移動が可能だった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。
: いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して全ラインの視界に入り、全員が進行方向を確認出来たので柔軟な高速移動が可能だった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。
; 攻撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne d'Attaque}})
; 攻撃[[縦隊]]({{lang|fr|Colonne d'Attaque}})
: やや広めの縦隊を組む戦列歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら精密射撃して敵隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の戦列歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はそのまま縦隊の側面を守った。革命戦争時代群衆戦術のよく用いられた。やや火力が劣りまた大砲も弱かった。
: やや広めの縦隊を組む歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。集団突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら射撃して敵を牽制しつつその隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はその縦隊の側面を守った。革命戦争時代群衆戦術の代表例で、玄人の散開歩兵が素人の縦隊歩兵をエスコートして敵ぶつけるような隊形だった。
; 混成配置({{lang|fr|Ordre Mixte}})
; 混成配置({{lang|fr|Ordre Mixte}})
: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。
: 一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。
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== 戦歴 ==
== 戦歴 ==
{{main|ナポレオン戦争}}
{{main|ナポレオン戦争}}
=== 1804年 - 1806年 ===
=== 1805年 - 1807年 ===
1805年春、ナポレオンは海上封鎖を続けてフランス経済に打撃を与えていたイギリスを屈服させる為に[[ドーバー海峡]]に面した[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に軍勢を集結させた。それに対抗してイギリスは4月にオーストリア、ロシアと共に[[第三次対仏大同盟]]を結成した。10月の[[トラファルガーの海戦]]の敗北によりイギリス上陸作戦を断念したナポレオンは、オーストリアに矛先を変えてドイツ南部に進軍し11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンは[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の地でロシア、オーストリア連合軍を撃破し[[プレスブルクの和約]]を締結させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを盟主とする[[神聖ローマ帝国]]は解体された。
[[ファイル:Premiere-legion-dhonneur.jpg|thumb|250px|レジオンドヌール勲章を渡すナポレオン]]
大陸軍は当初、大西洋岸軍(''{{lang|fr|L'Armee des cotes de l'Ocean}}'')として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、[[1803年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]の港に集結した。しかし[[1804年]]のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して[[第三次対仏大同盟]]が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさま[[ライン川]]を渡り南[[ドイツ]]に入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍して[[ウルム]]の要塞で[[カール・マック]]将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれた[[ウルム戦役]]では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月には[[ウィーン]]が占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。[[1805年]]12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]で数的には劣勢であった大陸軍が[[アレクサンドル1世]]の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日の[[プレスブルクの和約]]が結ばれ、翌年、[[神聖ローマ帝国]]は解体された。<ref name="year">Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, ''The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire.'' p. 36-54</ref>


ナポレオンの勢力拡大を警戒したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンは[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季作戦では苦戦するが、翌1807年5月の[[ダンツィヒ攻囲戦 (1734年)|ダンツィヒ]]でプロイセン軍を降服させ、6月の[[フリートラントの戦い]]でもロシア軍を撃破した。その後締結された[[ティルジットの和約|ティルジット条約]]の中でロシア、プロイセン両国と講和し、イギリスの通商活動を封じ込める為の[[大陸封鎖令]]にロシアを参加させた。
中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、[[1806年]]の[[第四次対仏大同盟]]が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、[[イエナ・アウエルシュタットの戦い|イェナの戦いとアウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。[[ルイ=ニコラ・ダヴー]]将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲で[[ベルリン]]に最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。<ref name="enemy">Fisher & Fremont-Barnes p. 54-74</ref>


=== 1807年 - 1809年 ===
=== 1807年 - 1809年 ===
1807年10月、ナポレオンはスペインに[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を調印させ、[[大陸封鎖令]]を拒否するポルトガルの占領と、その為のフランス軍のスペイン領内通過の合意を得ると遠征を始めて12月にポルトガルを制圧した。その後、ナポレオンは様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた為に反仏感情が高まり、やがてスペイン宮廷で政変が発生するとスペイン王家を追放して1808年5月に兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を王位に据えた。スペイン人は国内全土で蜂起して[[ゲリラ]]の語源となると共に、フランスに多大な消耗を強いる事になる凄惨な[[半島戦争|スペイン半島戦争]]が始まった。7月の[[バイレンの戦い]]でフランス軍は敗れ、新王ジョゼフは撤退を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦線が泥沼化した事から11月にナポレオンは12万の大軍と共に親征に踏み切った。12月に[[マドリード]]を占領して兄ジョゼフを帰還させ、翌1809年1月にナポレオンはフランスに帰国したが、スペイン人ゲリラとイギリス軍の活動は続いており戦争はそのまま長期化した。
ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、[[1807年]]2月7日から8日にかけての[[アイラウの戦い]]では事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、[[ベニグセン]]のロシア部隊は6月14日の[[フリートラントの戦い]]で完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間で[[ティルジット条約]]が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。<ref name="continent">Fisher & Fremont-Barnes p. 76-92</ref>

半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月、イギリスと[[第五次対仏大同盟]]を結成した。オーストリア軍はドイツ方面とイタリア方面で急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生した[[アスペルン・エスリンクの戦い]]で始めて一敗地に塗れる事になった。だが、7月の[[ヴァグラムの戦い|ワグラムの戦い]]で大勝してオーストリアが意気消沈した事から停戦への運びとなり、[[シェーンブルンの和約]]を調印して三百万の領民を含む領土をフランスに割譲させた。
[[ポルトガル]]が[[大陸封鎖令]]に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く[[半島戦争]]の始まりとなり、[[フランス第一帝政]]の資源と人を浪費させることになった。フランスは[[1808年]]に[[スペイン]]を占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、[[ブルゴス]]の要塞を占領し、[[ソモシエラの戦い]]で[[マドリッド]]への道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスの[[ムーア]]軍に鉾先を向け、[[1809年]]1月16日の[[コルナの戦い]]で英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍を[[イベリア半島]]から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。<ref name="Spain">Fisher & Fremont-Barnes p. 200-209</ref>
一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。[[フランツ2世|オーストリア皇帝フランツ1世]]の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンが[[パリ]]から到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍は[[エックミュールの戦い]]に敗れ、[[ドナウ川]]を越えて逃亡し、[[レーゲンスブルク|ラティスボン]]の要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続く[[アスペルン・エスリンクの戦い]]に敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたる[[ヴァグラムの戦い]]で勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は[[第五次対仏大同盟]]を終わらせ、10月に[[シェーンブルンの和約]]が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い<ref name="changes">Fisher & Fremont-Barnes p. 113-144</ref>、ようやくナポレオンに屈服した。


=== 1810年 - 1812年 ===
=== 1810年 - 1812年 ===

2018年1月17日 (水) 13:51時点における版

La Grande Armée
大陸軍
活動期間 1805–1815
国籍 フランスの旗フランス帝国
兵力 685,000名
(1812年6月)
主な戦歴

第三次対仏大同盟

ウルム
アウステルリッツ

第四次対仏大同盟

イエナ・アウエルシュタット
アイラウ
フリートラント

第五次対仏大同盟

アスペルン・エスリンク
ワグラム

スペイン半島戦争

バイレン
タラヴェラ
ビトリア

ロシア遠征

スモレンスク
ボロジノ
ベレジナ

第六次対仏大同盟

リュッツェン
ドレスデン
ライプツィヒ
アルシー・シュル・オーブ

第七次対仏大同盟

リニー
ワーテルロー
指揮
現司令官 ナポレオン
ミュラ
ランヌ
ベルティエ
ネイ
ダヴー
ベルナドット
スールト
マッセナ
スーシェ
ヴィクトル
オージュロー
ルフェーヴル
モルティエ
ベシェール
ウディノ
マルモン
テンプレートを表示

大陸軍(だいりくぐん、フランス語: Grande Armée、グランド・アルメ)は、ナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。「大・陸軍」即ち偉大な陸軍という意味が込められていた。最初の記録に現れるのは1805年のイギリス本土侵攻に向けてドーバー海峡に面したブローニュに総勢18万の大軍を集結させた時であった。大陸軍の名称は兵士達を鼓舞したが結局イギリス上陸作戦は中止となり内陸部でオーストリア、ロシアと交戦した。その後も1806年から1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年からのスペイン戦争、1809年のオーストリアとの決戦、1812年のロシア遠征の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。最終的に大陸軍はフランス帝国とその勢力圏諸国から動員された多国籍軍隊の総称となった[1]

最初の大陸軍は6個軍団で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの覇権がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年夏にロシア遠征を始めた時がそのピークで兵力は685,000名を数えた。

ロシア遠征の敗北で莫大な兵力を喪失した後もナポレオンは新たな兵員を徴集して軍隊を立て直し1813年の諸国民の戦い、1814年のフランス防衛戦、そして1815年のワーテルローの戦いで大陸軍の指揮を取った。しかし大陸軍は1812年6月当時の規模まで戻る事はなかった。

組織

軍団と師団

大陸軍の組織階層

大陸軍が成功した特筆すべき要因の一つは組織の優れた柔軟性と機動性であり、それは軍団(Corps d'Armée)と師団(Division)の編成単位を常設しそれぞれに管理部門と補給部門を持たせる事で実現されていた。独自の兵站機能を備えた軍団と師団は個々に独立して活動出来たので軍隊の多元的な運用が可能となった。他のヨーロッパ諸国の軍隊は、封建領地ごとに組織されていた連隊(Régiment)を、戦時の際に複数集めて結成した旅団(Brigade)が最大編成単位であり、戦争が始まると管理部門と補給部門を持つ軍司令官がそれらの雑多な旅団を動かすという一元的な運用しか出来なかったのでこの違いは大きかった。戦争が進むにつれて旧態依然だった各国も師団以上の編成を取り入れるようになった。

大陸軍は複数の軍団に分割されて運用された。軍団の兵員数は10,000万名から50,000万名の間であり、歩兵を中心にして騎兵および砲兵の各兵科を持ち、更に全体を維持する為の支援部隊と輜重部隊を併せ持つ連合型の小軍隊であった。典型的な軍団編成は3個歩兵師団と1個騎兵師団と軍団砲兵というものだった。軍団は単独でも作戦行動が可能であり、更に他の軍団とも互いに連携した行動を取れた。ナポレオンは軍団指揮官に対して彼の作戦の範囲内における幅広い行動の自由権を与えていた。1800年にマリー・モロー将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりと言われておりこれは一時的な分割編成であったが、このヒントを得たナポレオンが1804年までに常設の編成単位とした。

師団は、軍団の担当地域内で実際に敵軍勢と衝突する場面に対応した編成単位であった。歩兵中心の歩兵師団と騎兵のみの騎兵師団があった。師団も独自の輜重部隊を備えていた。歩兵師団の兵員数は4,000名から10,000名であり、2ないし3個旅団または3ないし5個連隊で構成され、それに師団砲兵が付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名であり、2個騎兵旅団または2ないし3個騎兵連隊で構成され、騎乗砲兵の師団砲兵を持つものもあった。師団の発案者はフランス革命戦争時の陸軍大臣ラザール・カルノーであり、ナポレオンはこの智慧を受け継いで大軍隊構築の土台とした事になる。

皇帝軍事宮廷

ナポレオンと幕僚たち

皇帝軍事宮廷(Maison Militaire de l'Empereur)は、皇帝直属の侍従武官(aide-de-camp)とその秘書達および常任士官(officier d'ordonnance)で構成されたナポレオンの戦争指導を支える為の統帥機関であった。帝国内閣閣僚と宮廷総監(Grand Marshal of the Palace)、馬事総監(Grand Écuyer)などの重臣連もそれに加わっていた。侍従武官たちはヨーロッパ全土の様々な情報を収集し、遠征区域の地理地形を調べ上げてナポレオンの作戦立案を助けていた。侍従武官になったのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の将軍と将校たちだった。密偵を駆使するなどして緻密で広大な情報網を張り巡らしていた彼らは文字通りナポレオンの目となり耳となってその戦略構想に多大な影響を及ぼしており、将軍のみならず元帥でさえも侍従武官には敬意を払って彼らの助言に耳を傾けていた。ナポレオンのワーカホリックを満足させる為に宮廷スタッフは日勤と夜勤のシフトを組み24時間体制で勤務していた。侍従武官は専ら日勤で、夜勤の方は秘書と常任士官が半々で担当した。皇帝直属の侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。侍従武官はそれぞれが秘書を持ち自身の業務を助けさせた。彼らは将軍階級の制服を着て肩から飾緒を下げていた。侍従武官が長期間在任し続ける事は少なく一定期間が過ぎると前線司令官や総督に転任され、ナポレオンの指示があればまた復任するのが普通だった。常任士官は偵察や伝令など主に遠隔地への往来を担当し、馬事総監の管理下にあったが1809年に廃止されてその職務は各侍従武官の秘書、補佐官に引き継がれた。

参謀総監

参謀総監ベルティエ

参謀総監(Major-Général)は皇帝軍事宮廷とはまた独立した権限と機能を持ち、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的に実現する為の事務統括者であった。百日天下を除く帝国の全期間を通してルイ=アレクサンドル・ベルティエが在任し続けており参謀総監とベルティエはほとんど同義の言葉となった。参謀総監は運輸、事務、会計、諜報の4つの部局を持ち、自身もまた秘書を雇って業務を遂行した。参謀総監の役目は、皇帝から発せられた戦争指導を具体的な内容に書き表して命令書に記述しそれを各司令官に届ける事であった。その司令官が部隊を率いて移動するルートを策定し、それに伴う補給物資の貯蔵庫の準備と円滑な物資運送の手配をする事もまた重要な役割であった。早期からナポレオンと共に二人三脚で軍隊を動かしてきたベルティエは深く信頼され、ナポレオンは彼の職分を尊重し、皇帝でさえ参謀総監とその部下の業務には介入しない事になった。各地の司令官からの皇帝宛の報告書は全てベルティエが目を通しており、必要とあらば彼が代わりに返信し、また必要と思われるレポートだけを取捨選択して皇帝に伝える事もあったので、軍隊運営における彼はほとんどナポレオンの化身であった。しかしロシア遠征時のボロディノの戦い以降はそれまでの様な全面的委託は避けられたという。なお、参謀総監の仕事は決して安全なオフィスワークなどではなく、時には前線に立って砲弾に身を晒しながら命令書を書き続けるという場面もあった。

大陸軍の戦力

皇帝近衛隊

近衛歩兵隊のマーク

皇帝近衛隊 (Garde Impériale) はフランスの最エリート軍隊であり、前身の執政親衛隊 (Garde des Consuls, Garde Consulaire) から発展した組織だった。皇帝近衛隊はそれ自体が一つの軍団(Corps d'Armée)であり、歩兵、騎兵、砲兵の三兵科を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み、常に皇帝と共に従軍して絶対の忠誠を示す事を求めた。

皇帝近衛隊内の各兵種を分類すると戦列歩兵科は近衛擲弾兵、近衛小銃擲弾兵、近衛狙撃歩兵。軽歩兵科は近衛猟歩兵、近衛小銃猟歩兵、近衛選抜歩兵。重騎兵科は近衛騎馬擲弾兵、皇后竜騎兵。軽騎兵科は近衛猟騎兵、近衛軽槍騎兵となった。

近衛隊の規模の変遷
兵士数
1800 3,000
1804 8,000
1805 12,000
1810 56,000
1812 112,000
1813 85,000(ほとんどが新規近衛隊)
1815 28,000

最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1809年からの組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年頃に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設されたが、これは1814年のナポレオン退位時に消滅したままとなった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者である事が多かった。

古参近衛隊

古参近衛隊との別れ

古参近衛隊Vieille Garde)は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
近衛精鋭憲兵
近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊
近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
近衛マムルーク騎兵大隊
近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第4大隊
近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第4大隊
近衛偵察騎兵第1連隊の第1大隊
近衛徒歩砲兵第1連隊
近衛騎乗砲兵連隊の第1大隊+第2大隊

中堅近衛隊

中堅近衛隊(Moyenne Garde[2]は皇帝近衛隊の次席格であった。規模的には小さく、新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げてストックし精鋭歩兵団を構成させ、又は古参近衛候補生とし、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

近衛小銃猟歩兵連隊
近衛小銃擲弾兵連隊
近衛軽槍騎兵第1連隊の第5大隊~第8大隊

新規近衛隊

近衛隊の閲兵

新規近衛隊(Jeune Garde[3]は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には大半が経験の浅い召集兵と志願兵からの選抜者になった。1814年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。

近衛狙撃歩兵第1連隊~第16連隊
近衛選抜歩兵第1連隊~第16連隊
近衛海兵大隊
近衛哨戒擲弾兵連隊
近衛哨戒猟歩兵連隊
近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊
近衛猟騎兵連隊の第5大隊~第10大隊
皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊
近衛軽槍騎兵第1連隊の第9大隊+第10大隊
近衛軽槍騎兵第2連隊の第5大隊~第10大隊
近衛偵察騎兵第1連隊の第2大隊~第4大隊
近衛偵察騎兵第2連隊+第3連隊
近衛名誉国防騎兵第1連隊~第4連隊
近衛徒歩砲兵第2連隊
近衛騎乗砲兵連隊の第3大隊

近衛歩兵

近衛擲弾兵(Grenadiers-à-Pied de la Garde Impériale[4][5]
近衛擲弾兵
執政親衛隊内の2個大隊を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。1807年のポーランド遠征の中でナポレオンから「不平屋」という渾名を付けられたが、これは皇帝の前でも愚痴をこぼす事を許された彼らの特権を示すものでもあった。彼らはフランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵であり、その中には20回以上の方面作戦に参加した者もいた。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。近衛擲弾兵はナポレオンの最後の切り札とされ、他の近衛兵ほど戦闘に参加する機会はなかったが一度参戦したときは称賛に値する戦果を上げた。その後も増員され1806年に新編成された第2連隊は1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年にはオランダ近衛隊を元にした第3連隊が発足したがこれは1813年に一時解散した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編成された。装備品は銃剣付きシャルルヴィル1777年型マスケット銃と歩兵用小剣であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。
制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。
近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde Impériale
執政親衛隊内の1個大隊を起源とするエリート歩兵団であり、近衛擲弾兵と双璧をなして戦場では共に連携して戦う位置付けだった。1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年には第2連隊が新編成された。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。銀の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった[6]
近衛海兵(Marins de la Garde Impériale
近衛海兵
1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個集団(一つの艦船の乗組員集団)で構成された。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶、ボートやバージなどの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。
制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった[7]
近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde Impériale
近衛小銃擲弾兵
1806年に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde Imperiale)第1連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。当初は古参近衛隊の補欠扱いで、1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属した。続いて1810年頃に中堅近衛隊が創設されるとそこに昇格する形となった。彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下でも再建される事はなかった。
制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde Impériale[8]
1806年に近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde Imperiale)第2連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃擲弾兵連隊に改称された。彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵連隊と同じ様な経歴を辿った。猟歩兵の相方に対して彼ら擲弾兵の方が後番になってるのは、軽歩兵を主とし戦列歩兵を従とするナポレオンの新しい戦術構想が反映されてのものだった。
制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde Impériale
近衛狙撃歩兵
1809年に狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers)として組織され、翌年に狙撃歩兵と改称された。まず2個連隊が編成され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が優先的に入隊した。次々と連隊が新設され1814年には16個連隊が存在した。古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって編入され、新規近衛兵たちを鍛えて戦場に導く形となった。
制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde Impériale
1809年に狙撃猟歩兵(Tirailleurs-Chasseurs)として組織され、翌年に選抜歩兵と改称された。まず2個連隊が編成され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を敷き共に連携して戦った。散開する軽歩兵の比率が高い近衛歩兵隊はその散兵線の広さが特徴だった。
制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。

近衛哨戒擲弾兵(Flanqueurs-grenadiers de la Garde Impériale)

ファイル:Flanqueur-grenadier et officier subalterne de flanqueurs-chasseurs 1813.jpg
近衛哨戒擲弾兵と近衛哨戒猟歩兵
ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。
制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの赤い羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。

近衛哨戒猟歩兵(Flanqueurs-chasseurs de la Garde Impériale)

ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。
制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑色の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。

近衛騎兵

近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale
近衛騎馬擲弾兵
執政親衛隊内の1個大隊を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。
近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵連隊は、近衛軽槍騎兵第1連隊と共に騎兵戦闘において一度も負けた事がない近衛騎兵であった。
制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた背高の熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale
近衛猟騎兵
1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵中隊を編成しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは後に執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の短い間に2個目の連隊も作られていた。
近衛猟騎兵は隊形を重視せず高度に連携の取れた戦いをした。彼らは最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。
彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い外套をマントの様に羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(colpack)をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
近衛精鋭憲兵(Gendarmes d'élite de la Garde impériale)
近衛精鋭憲兵
執政親衛隊時代から2個大隊(escadron)が存在した。更に徒歩精鋭憲兵の1個大隊(bataillon)もあった。皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵達から畏怖される存在であった。皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つと共に、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は戦闘に参加する機会も増え、1809年のアスペルン=エスリンクの戦いにおけるドナウ橋の防衛戦で名を馳せた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵隊からで、また重騎兵隊からの者もいた。
制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた中高の熊毛帽をかぶった。
近衛マムルーク騎兵(Mamelouks de la Garde impériale)
近衛マムルーク騎兵
ナポレオンはエジプト遠征の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し独自の軍旗を獲得して古参近衛隊所属の独立大隊に昇格した。1813年には第二のマムルーク中隊が新規近衛隊に新編成された。この両部隊は近衛猟騎兵と連携して1815年の百日天下を戦った。
彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い三日月刀と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。
皇后竜騎兵(Dragons de l’Impératice
皇后竜騎兵
1806年に近衛竜騎兵(Dragons de la Garde Impériale)連隊として創設されたが翌年に改称された。儀仗兵となる機会が多かった。実質3番目の近衛騎兵隊である彼らは、その装備品から見ても中騎兵的位置付けだった。この連隊も最後までナポレオンと共に戦った。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。
制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。
近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale[9]
実質4番目の近衛騎兵隊であり、ナポレオンはポーランド式槍騎兵(ウーラン)を高く評価して、1810年以降の騎兵編成にはこの槍を用いるポーランド式が最も多く取り入れられていた。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いており、それがポーランド流儀であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃を携行していた。
第1連隊(ポーランド)
近衛ポーランド槍騎兵
皇帝近衛隊に所属するポーランド人騎兵たちは、ナポレオンに自分達の独立部隊の創設を認めさせたいと日々望んでいた。1806年の遠征中の活躍によってその努力は報われ、1807年にナポレオンは近衛ポーランド軽騎兵(Chevaux-légers polonais de la Garde Impériale)第1連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編成された。最初の閲兵時にナポレオンは彼らを意味深な言葉で皮肉ったが、戦場では自身の側に置いた。翌年のスペイン半島戦争中、ソモシエラの戦いでナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン軍砲兵陣地への攻撃を命じた。ポーランド騎兵達はサーベルと拳銃だけを頼りに伝説的な突撃を敢行して無数の砲弾を浴びながらもついに敵陣を打ち破り、20門以上の大砲を鹵獲して偉大な勝利に結び付けた。ナポレオンはこのポーランド人たちの人間離れした勇気を絶賛し一気に古参近衛隊に昇格させた。彼らはこの時に槍を授けられ、本来のポーランド形式で戦う事を認められて近衛軽槍騎兵と改称された。彼らは教えられる側から教える側になり後年、その他の槍騎兵連隊が新編成される時にその手腕をふるった。そして最後までナポレオンの本陣に置かれ敵騎兵に負ける事がなかった。ワーテルローの戦いでイギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。
制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。
第2連隊(オランダ、後にフランス)
赤い槍騎兵
1810年にオランダの3個部隊を元にして編成された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後まで槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。
制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。
第3連隊(リトアニア)
1812年に編成され新規近衛隊に所属した。構成員となったのはリトアニアとポーランドの学生または地主の子弟であり、熱意はあるが経験の足りない者達だった。訓練が不足したままロシア遠征に投入され、1812年後半の戦いでロシア・コサック騎兵とウクライナ・コサック騎兵に包囲されスロニムで滅ぼされた。
制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。
近衛名誉国防騎兵(Gardes d'honneur de la Garde Impériale)
第六次対仏大同盟の結成で予期される諸外国の大規模な侵攻に備える為に、ナポレオンの指示で1813年に新設された。主に上流家庭と富裕家庭出身の20歳から26歳の子弟、約15,000名を半ば強制採用して4個連隊が編成された。彼らは「人質」と暗に呼ばれていたという。彼らの家庭が持つ財産は帝国の権威の下で保証されていたので、その理由もあって駆り出されていた。馬と装備品の費用も自腹だった。彼らの戦闘技術は明らかに近衛騎兵の水準ではなかったが、その身分と立場上の理由から皇帝近衛隊に加えられた。彼らは軽騎兵科であり、他の近衛部隊に随伴して支援任務を担当した。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。
制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの外套をマントの様に羽織っていた。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。
近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde Impériale
近衛偵察騎兵
ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編成された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。彼らは1814年のフランス防衛戦に参加したが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。
第1連隊第1大隊の制服は黒い毛皮高帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。

近衛砲兵

近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde Impériale)
近衛徒歩砲兵
前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。砲兵士官出身のナポレオンはこの皇帝直属の砲兵連隊を世界最高のものにする事を望み、その為の採用システムを注意深く定めて1802年から実施した。それは教養があり背が高く勇敢で精強かつ品行方正な上、3回以上の従軍経験者を各砲兵連隊より2名ずつ選抜して入隊させるというものだった。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。こうして編成された近衛徒歩砲兵連隊は紛れも無くフランス徒歩砲兵部門トップの最精鋭となった。この連隊は3個大隊で構成され第1、第2大隊は古参近衛隊に所属して3個中隊を擁した。第3大隊は新規近衛隊に所属して同じく3個中隊を擁した。1809年に第3大隊は新規近衛隊と共にスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中心にした新連隊が編成されて近衛徒歩砲兵第2連隊となった。同時に古参近衛隊の方は近衛徒歩砲兵第1連隊と改称した。その後、第1連隊は12個中隊に拡張され、第2連隊は15個中隊まで拡大した。軍団規模の集団を支援する砲兵としては驚異的な数だった。
制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
近衛騎乗砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde Impériale)
近衛騎乗砲兵
近衛砲車牽引兵と近衛砲兵
前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年からこの大変な経費を必要とする近衛騎乗砲兵中隊の増設に力を注ぎ連隊規模まで拡張した。最終的な近衛騎乗砲兵連隊は3個大隊で構成され各大隊は2個中隊を擁していた。各中隊は6ポンド砲6門を保有した。近衛騎乗砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。その動きを目の当たりにしたウェリントン公は「彼らはまるで拳銃を撃つように大砲をぶっ放している!」と記している。近衛騎乗砲兵連隊は徒歩と騎乗双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も超一流のものが選ばれており巨大で怪力の黒い馬が必須条件とされた。もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎乗砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。
制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの外套をマントの様に羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
近衛砲車牽引兵(Train d’artillerie de la Garde Impériale)
皇帝近衛隊は独自の砲車牽引兵を持っており、近衛砲兵中隊が増設されるにつれて近衛砲車牽引兵中隊も増やされ、大隊(bataillon)から最終的には連隊(régiment)で管理されるようになった。増員のピークは1813年から1814年にかけてで第1連隊は12個中隊を一括管理し古参近衛隊に所属した。第2連隊は15個中隊を一括管理し新規近衛隊に付いて大砲運搬を支援した。割り当ては一つの砲兵中隊(batterie)に一つの砲車牽引兵中隊(compagnie)が付くというものだった[10]

騎兵

”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。この言葉の解釈は様々だが、戦闘前の騎兵偵察はナポレオンが特に重視した分野であり、作戦中の司令官は軽騎兵からのレポートを逐一受け取り幅広い現状把握に努めるべきだと考えていた。また重騎兵による肉弾突撃を今まで以上に多用したのもナポレオン戦術の特徴であり、結果として敵のみならず味方騎兵の被害をも拡大する事になった。ナポレオンは騎兵との連携を必須とし、なるべく二割以上の騎兵比率を維持するよう各軍に指示していた。

騎兵連隊の兵員数は800名から1200名であり、各連隊は3ないし4個大隊で構成され、各大隊は2個中隊構成であった。各連隊の第1大隊の第1中隊は精鋭中隊とされ成績優秀な者が入隊した。フランス革命の中で、騎兵の中枢であった貴族階層の士官と下士官の大半が国外に脱出して失われておりフランス騎兵はその質をひどく落としていたが、ナポレオンはこの部門の再建に成功した。重騎兵の重量胸甲着用の義務付け、ハンガリー式軽騎兵(ユサール)の育成強化、後年のポーランド式槍騎兵(ウーラン)の導入などがナポレオンのアイディアであった。

騎兵は直線的な白兵戦を専門とする重騎兵(Cavalerie lourde)と柔軟な機動任務を専門とする軽騎兵(Cavalerie légère)の二つの兵科があった。これらは二つのランクに分ける事ができた。カービン騎兵と胸甲騎兵は重騎兵の一線級であり竜騎兵は二線級だった。ユサール騎兵は軽騎兵の一線級であり猟騎兵は二線級だった。槍騎兵はポーランド式騎兵を高く評価したナポレオンが後年に導入したもので、正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵だった。

重騎兵

胸甲騎兵Cuirassiers
胸甲騎兵
彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、重量の胸甲を身に着け、鉄と真鍮製の兜をかぶり、直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にはカービン銃も装備品となったが多くの者が持つのを嫌ったという。胸甲騎兵は当初25個連隊が編成されたが、適格とされた上位12個連隊に選別され残りは竜騎兵に転向させられた。最終的には16個連隊となった。力の強い大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し、しばしば戦いの流れを変える決定打となった。何があっても突撃する事を義務付けられた胸甲騎兵には大きな勇気が必要であり、代わりに高い名誉が与えられた。彼らの胸甲はマスケット銃には無力だったが、遠くからの拳銃と流れ弾ならばはね返す事は出来た。何より胸甲は白兵戦の中で大きな防護効果を発揮し、刀剣と槍の打撃から身を守り続けた。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う重い胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量編成と補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用して、それが大陸軍の強さにつながった。
制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。
カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
カービン騎兵
この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊の位置付けで、2個連隊が編成された。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず純粋に剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に行軍時の疲労が増し夏は暑く冬は冷たく、更に落馬時の受け身と離脱行動が難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増するともはや技量だけでは対応出来ない現実が明らかとなり、彼らの勇気に見合った戦果を挙げれる機会は減っていった。1809年にはオーストリア軍のウーラン騎兵(ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵たちに胸甲の着用を命じる事になった。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に黄金色に輝く胸甲を着用するようになった。
竜騎兵Dragons
竜騎兵
彼らは重騎兵に区分されるが用途的には中騎兵として認識されており、正面戦闘の構成員となって白兵戦を挑む他、前哨戦や遭遇戦の小競り合い、哨戒と偵察の任務にも当たった。彼らは二線級の重騎兵として扱われたが多芸で汎用な存在でもあった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。なお、竜騎兵の為の軍馬調達の努力が怠られていた訳ではなく、必要ならば軍の指示で歩兵将校達の乗用馬を提供させる事もあった。これは竜騎兵の格式を示すのと同時に、歩兵将校達に竜騎兵への反感を持たせる事にもなった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組されたが、これは槍武装に対応出来ると見込まれた故での指示でもあった。そして1815年には軍馬の欠乏から15個連隊まで規模縮小されていた。
制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。

軽騎兵

ユサール騎兵(Hussards
ユサール騎兵
この高速度の精鋭騎兵は各司令官の目となり耳となって軍隊の針路を決定した。ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は特に敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯兵を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは、軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、その中で特に目覚しい働きを見せていたのがユサール騎兵だった。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であった。30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主であると言われた。1804年に10個連隊が編成され、1810年に11個連隊、1813年には13個連隊となった。
ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は黒い毛皮高帽だった。
猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval)
猟騎兵
槍騎兵
彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで、偵察、哨戒、斥侯、奇襲、遊撃、援護、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年には24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊は外国人部隊でありベルギー人、スイス人、イタリア人、ドイツ人で構成された。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く、訓練も簡素で短い事がその規模拡張を容易にしていた。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけの事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。同様の理由で1815年には15個連隊まで規模縮小されていた。
猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。
槍騎兵Lancers
ポーランド槍騎兵
かねてよりポーランド式槍騎兵(ウーラン)の強さに感銘を受けていたナポレオンは、ロシア遠征に備えて1811年から6個の竜騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編成当初は全隊列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド流戦術の正しさが証明されると、後列の槍騎兵には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、先の6個連隊の方は急造による不慣れと訓練の不足からロシア遠征では苦戦を強いられる事が多かった。てこ入れとして本場である同盟国ポーランドから2個の槍騎兵連隊が追加された。更にドイツ人猟騎兵連隊から改組された槍騎兵連隊も加えられた。
制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。

歩兵

”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite. ”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。

ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は大陸軍の主要構成員として戦いの帰趨を決定する存在ではあるが、地味で工夫の無い存在でもあり彼らに劇的な戦闘展開を期待する事は難しかった。歩兵は密集隊形で戦う戦列歩兵Infanterie de Ligne)と、散開して戦う軽歩兵Infanterie Légère)の二つの兵科に分けられていた。

戦列歩兵

戦列歩兵

戦列歩兵(Infanterie de Ligne)は大陸軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科であった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。

ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、89個の戦列歩兵連隊(Régiments de Ligne)が存在した。これはフランス国内の県とほぼ同じ数であり、革命戦争時代にそれぞれの県が一つの半旅団を組織していた事になる。その後も新しい連隊が作られ最終的には156個となった。

戦列歩兵連隊は3ないし4個大隊で構成された。大隊は複数の中隊で構成されたが、その構成内容は革命戦争時代から三回変更されている。1800年から1804年にかけての戦列歩兵大隊は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊であり各中隊の人数は約120名だった。1805年から1807年にかけては7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808年から1815年にかけては4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、即ち戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て2,400名から3,200名という事になる。

小銃兵(Fusilier)
小銃兵
小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力は大陸軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。
小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲であるシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは二角帽子をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンを付けていた。1808年の再編成では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。
擲弾兵(Grenadier)
擲弾兵と選抜歩兵
擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。擲弾兵になれるのは大柄で背の高い歴戦の勇士に限られていた。新設大隊には擲弾兵中隊は存在せず、その大隊が二回以上の方面作戦(campagne)に参加した後に始めて一つの擲弾兵中隊の創設を許される事となり、勇敢かつ精強で背の高い兵士が選ばれて入隊し晴れて擲弾兵となった。擲弾兵中隊の位置は大隊戦列の右端と定められており、これは伝統的に最も名誉ある位置だった。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵大隊が編成される事があり、時には擲弾兵連隊や擲弾兵旅団が編成される事もあった。この強力な部隊はたいてい大規模戦闘隊形の前衛に配置された。
擲弾兵は威圧感を持つように全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。これは白兵戦の為であったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。
選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
1803年に軽歩兵連隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵連隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。連隊の中から特に敏捷で身のこなしに優れた者が選ばれて入隊し、素早い装填と正確な射撃技術を持つ彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされた。1808年から選抜歩兵の待遇は上げられ、彼らの位置は伝統的に二番目の名誉ある位置である大隊戦列の左端と定められた。各選抜歩兵中隊はまとめられて選抜歩兵大隊や選抜歩兵連隊を編成する事があり、司令官の中には擲弾兵よりも選抜歩兵部隊を好んで用いる者もいた。
彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は銃身の短い竜騎兵用マスケット銃とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣を腰に帯びたがもっぱら薪割りの道具となった。

軽歩兵

軽歩兵

近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(Infanterie Légère)と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の前面と側面に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数はずっと少なく、156個連隊が存在した戦列歩兵とは対照的に軽歩兵連隊は35個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編成が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編成が可能だった。

軽歩兵連隊は3個大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。

軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けていた。装飾的な制服と凛とした態度で知られており、選抜扱いの誇りから高い団結心を持っていた。高い技量の持ち主である彼らは指揮官に信頼されて哨戒などの様々な任務をまかされるのが常だった。大柄が美徳とされる軍隊世界において軽歩兵の価値観は一線を画す事が許されており、小柄さの長所と利点が強調されていた。これは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。

猟歩兵(Chasseurs
猟歩兵
猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣であり、歩兵用小剣も携行した。猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており暗めの色彩だが小銃兵より装飾的だった。この暗い色調は遭遇戦時の迷彩色代わりになったという。
彼らは濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンが付いた。
カービン歩兵(Carabiniers
選抜歩兵とカービン歩兵
この名称は近世初期にカービン銃を授けられた騎士が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。二回以上の方面作戦(campagne)を経験し、勇敢かつ精強で背の高い猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。
制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。
選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。彼らの身長は160cmを越える事は無かった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦、山岳戦の時に活躍し、他に奇襲や斥侯も担当した。ナポレオンの命名であるVoltigeurには敵騎兵の背後から「飛び上がって」攻撃する対騎兵用の歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編成されるようになった。
制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄+緑色の羽飾りを立てた黒い毛皮高帽(colpack)をかぶり、1807年からは黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。銃身がやや短い竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。

砲兵

”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)[11] 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。大陸軍の砲兵には徒歩砲兵Artillerie a Pied)と騎乗砲兵Artillerie a Cheval)の二つの兵種があった。更に行軍時の大砲の運搬を専門に行う砲車牽引兵Train d’artillerie)が存在した。

大砲の集中運用を重視するナポレオンは、それまでは半旅団(連隊)ごとに置かれていた砲兵を軍隊中央で一元管理するように変更しフランスの全砲兵を約200個の砲兵中隊(batterie)に再組織した。そして状況に応じて各砲兵中隊を各地の師団司令部と軍団司令部に貸し出す仕組みにした。徒歩砲兵中隊は兵員120名にカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門が配備された。騎乗砲兵中隊は同程度の兵員にカノン砲6門が配備された。中隊の構成員には金属部品、木工品、毛皮用品などの加工職人も含まれていた。彼らは大砲、台車、荷馬車の修理に当たり輓馬の世話と火薬の保管も行った。1809年から再び連隊単位の大砲配備が重視され始めると、砲兵中隊は柔軟に分割運用されて、そこから出された分遣隊(大砲2門)を配属した歩兵連隊も存在するようになった。

徒歩砲兵連隊(régiment)は当初22個砲兵中隊(batterie)で構成された。騎乗砲兵連隊の構成は当初6個砲兵中隊、後に8個砲兵中隊だった。なお砲兵連隊は、歩兵連隊ないし騎兵連隊とは性格が異なり、単に軍政面の管理上の組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団司令部か軍団司令部に配属されていた。師団に配属された砲兵中隊は師団砲兵と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎乗砲兵が割り当てられた。軍団には1個ないし2個の砲兵中隊が配属され軍団砲兵となった。軍団砲兵とその配下師団の師団砲兵はたいてい合併して運用された。師団、軍団による大砲の一括管理は効果的な集中砲火を可能にした。

砲車牽引兵の各中隊(compagnie)は各砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した。砲車牽引兵大隊は5個程度の中隊を擁し、砲兵連隊と同様に軍政面の管理上の組織でもあったが、それだけでなく軍団砲兵と共に行動して配下師団の集結地点における各砲兵中隊の交通整理と円滑な配置展開を指揮する役割も持っていた。

大砲

旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが考案したグリボーバル・システムの下で製造された大砲は軽量かつ運搬が容易で照準を合わせやすく、また台車を強化し砲身口径の大きさも標準化されていた。通常の野戦砲は4ポンド、8ポンド12ポンドカノン砲6インチ榴弾砲があった。1803年にナポレオンはこのシステムを更に改定し、4ポンド砲と8ポンド砲はオーギュスト・マルモンが設計した共和暦11年式6ポンド砲に置き換えられた。
砲身は真鍮(黄銅)製であった。青銅砲ともされるがこれは慣例上、真鍮製の物も含めて青銅砲と呼ばれたからである。砲架、車輪、および前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。

徒歩砲兵

徒歩砲兵
彼らは一般的かつ普通の砲兵だった。1805年には8個の徒歩砲兵連隊があり、後に10個に増えた。制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。

騎乗砲兵

騎乗砲兵
騎乗砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、軍馬および大砲を載せた荷馬車に乗って戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す彼らは近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し照準を定めて敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて新しい場所に素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らはフランス砲兵科の精鋭であった。
1807年には騎乗砲兵連隊は6個存在した。1810年に7個目の連隊が追加された。騎乗砲兵中隊はもっぱら騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個程度が付けられる事があって貴重な戦力となり、歩兵師団に割り当てられた際は非常に重宝された。騎乗砲兵は極めて優秀な戦力となったが、その編成と維持に掛かる費用もかなりのものであり、兵員数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎乗砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり、皇帝は騎乗砲兵全員の名前を覚えているという誇らしげの冗談もあった程である。高度な技術を兼ね備えた彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵は徒歩砲兵の2倍の弾薬を支給されており、皇帝近衛隊の騎乗砲兵に到っては3倍の量を与えられていた。
制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた黒い毛皮高帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。

砲車牽引兵

大砲運搬の砲車
砲車牽引兵と砲兵
1800年1月に創設された彼らの役割は、大砲を乗せた荷車(砲車)を輓馬(牽引する馬)と共に運搬して砲兵部隊の円滑な行軍を支援する事だった[12] 。それまでのフランス軍は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を捨てて我が身と自分の馬を守ろうとした[13]。砲車牽引兵は以前の民間人とは異なり、一定の訓練を施されて規律を持ち兵士と同様に制服を与えられた。彼らの制服は灰色基調でその頑丈そうな外観を引き立てていた。砲車牽引兵はカービン銃と拳銃と歩兵用小剣で武装して運搬中の大砲を守り、後年の遠征中に頻発したコサック騎兵、スペイン人ゲリラ、チロル人ゲリラの襲撃にもよく対抗出来た。
1805年には10個の砲車牽引兵大隊があり、各大隊は5個中隊で構成された。彼らは大砲運搬だけでなく弾薬箱の修繕、荷車の補修、鍛冶作業なども担当した。1808年に8個の大隊に再編成され、各大隊は6個中隊構成となった。その後も増員され1810年に14個大隊、1813年には27個大隊となった。1809年以降、砲兵中隊から分遣隊(大砲2門)を歩兵連隊に配属させるケースが出始めると、砲車牽引兵大隊も自身の分遣隊をその都度柔軟に編成して歩兵連隊の大砲運搬を支援する様になった[13]

支援部隊

技師

騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。

大陸軍の橋梁技師(pontonniers)はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に(はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。

技師達が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは橋梁技師の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ技師ジャン・バプティスト・エーブレ将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個技師中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。

橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木工兵の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝がエーカーの包囲戦など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。

ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(jeu de mot)と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる精霊Genie)にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が Génie militaire と呼ばれるのはこの名残と思われる。

輜重兵

ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、La Maraude)で日々を暮らしていくことを勧めていた。

補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。

兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。

医療関係者

救急馬車

医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。

ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリーフランス語版英語版男爵の提唱になるいわゆる空飛ぶ救急システムである。戦場でフランス軍空飛ぶ砲兵隊が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。

負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。

情報通信

以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。

シャップの腕木通信塔

大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。

シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター(regulateur)と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。

シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。

外国人部隊

ポーランド兵

従来のヨーロッパ諸国と同じくナポレオンも外国人部隊を採用して自国の戦力とした。当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面でフランス軍の一部となった。彼らはフランス人だけでは手が回らない戦闘支援の任務に付けられる他、正規の外国人連隊を構成して主要戦力的に活躍する事もあった。取り分けポーランド人連隊はナポレオン軍の頼れる戦力となった。

1805年の対オーストリア、ロシア戦役では、ライン同盟から動員された35,000名の兵士がフランス軍の情報連絡線と本隊の側面を守る為に使われた。

1806年の対プロイセン、ロシア戦役でも同様の目的でライン同盟から27,000名が動員された。更にザクセンから20、000名の兵員が召集され、彼らはプロイセン軍に対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季作戦ではドイツ諸国、ポーランド人、スペイン人の部隊がフランス軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントダンツィヒの港の占領を助けた。1807年にロシア軍と決戦したフリートラントの戦いでは、外国人部隊が初めて会戦における主要な役割を演じる事になった。ジャン・ランヌ元帥率いる第5軍団の構成員の大半はポーランド人、ザクセン人、オランダ人で占められていたが、彼らは目立った働きを見せてフランス軍の勝利に貢献した。

1809年の対オーストリア戦役ではフランス軍の約3分の1がライン同盟の兵士だった[14]。またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人で構成されていた。そして1812年、最大規模に膨れ上がったナポレオン軍はロシア遠征を開始するが、その総勢60万を数える侵攻軍のおよそ4割はドイツ圏を中心とする外国人兵士たちであり、彼らの出身国は20ヶ国に渡っていた。

大陸軍の階級

勲章を授けるナポレオン

封建制度の軍隊とは異なり、大陸軍での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の元帥杖が入っている)とはナポレオンの言葉であり、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る可能性がある事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。

大陸軍の最高階級は師団将軍(Général de division)であった[15]。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥 (Maréchal d’Empire)、大将(Colonel-Général)、軍団将軍(Général en chef commandant une armée)の栄典、役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。帝国元帥の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。大将は旧体制の称号をナポレオンが引っ張り出してきたもので、元々は各兵科最先任の将官を意味する役職であったが[16]大陸軍ではただの名誉称号となり、もっぱらナポレオンの取り巻きが叙任されて彼らの箔付けに使われた。軍団将軍は複数の師団長を指揮する権限を与えられた役職だった。師団数の増加により設置されたが、ロシア遠征で兵力を失った1812年に廃止された。

師団将軍(Général de division)は旧体制の中将(Lieutenant-Général)に、旅団将軍(Général de brigade)は旧体制の少将(Maréchal de camp)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。ただし、1814年に両階級とも旧体制の階級呼称に戻され、これは1848年2月18日まで続いた。蛇足ながら、少将の呼称をMajor-Généralとしていなかったのは、当時は参謀長を意味していたことによる[17]。旧体制の准将(Brigadier des armées du roi)は革命時に廃止されたままとなった。将軍副官(Adjudant-commandant)は階級ではなく旅団、師団司令部スタッフとしての役職名であり大佐(Colonel)と中佐(Major)の中から任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされる事が多かったという。

ナポレオンは1803年の命令書で、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(Chef de brigade)を大佐(Colonel)に戻させ、更に革命時に廃止された中佐(Major/又はgros-majorとも呼ばれた)を再設して各連隊に置くよう指示した[18]。中佐は専ら連隊の運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(Colonel en second)は各連隊に一名置かれ副連隊長の役目を果たし、1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊を率いる事になった。少佐=大隊長(Chef de bataillon)の補佐に任命された大尉は副官勤務大尉(Capitain adjudant-major)と呼ばれ一つ上のランクに扱われたが、これは階級でなく役職としての地位だった。大佐=連隊長の副官大尉は(Capitain adjudant-chef)と呼ばれた。准尉(Adjudant sous-oficier)は連隊内全下士官の監査役となり中佐の業務を補佐した。

大尉(Capitaine)は中隊長であり、中尉(Lieutenant)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉(Sous-lieutenant)は副中隊長の次席だった。兵科と兵種によって違いはあるが中隊には二名から四名の軍曹(Sergent)がいて、それぞれが二人の伍長(Caporal)を管理し、伍長は約10名の兵士をまとめた。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長(Sergent-major)は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長(Caporal-Fourrier)は中隊の食糧を管理した。

なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎乗砲兵、憲兵、砲車牽引兵、輜重兵)での呼称である。


大陸軍の階級 現代の米陸軍で相当する階級
帝国元帥 (Maréchal d’Empire) 元帥 (General of the Army)
中将
  • 大将(Colonel-Général)
  • 上将(Général en chef)
  • (Général de division)
少将[19]
少将 (Général de brigade) 准将 (Brigadier general)
将軍副官 (Adjudant-commandant) 大佐 (Staff Colonel)
大佐 (Colonel) 大佐 (Colonel)
二等大佐 (Colonel en second) 中佐 (Senior lieutenant colonel)
中佐 (Major) 中佐 (Lieutenant Colonel)
少佐 (Chef de bataillon または Chef d'escadron) 少佐 (Major)
副官勤務大尉 (Capitaine adjudant-chefCapitaine adjudant-major) 大尉 (Staff Captain)
大尉 (Capitaine) 大尉 (Captain)
中尉 (Lieutenant) 中尉 (First Lieutenant)
少尉 (Sous-lieutenant) 少尉 (Second Lieutenant)
准尉 (Adjudant sous-oficier) 准尉 (Warrant Officer)
曹長 (Sergent-major または Maréchal-des-logis-major) 曹長 (Sergeant-Major)
軍曹 (Sergent または Maréchal des logis) 軍曹 (Sergeant)
給養係伍長 (Caporal-Fourrier または Brigadier-Fourrier) 中隊書記/補給係軍曹 (Company clerk / supply Sergeant)
伍長 (Caporal または Brigadier) 伍長 (Corporal)
兵士 (Soldat) または騎兵 (Cavalier) または砲兵 (Canonnier) 一等兵 (Private)


最高位まで昇進を果たした軍人たち

陣形および戦術

18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。

フランス革命で誕生した総動員軍隊(Levée en masse)は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮し、ナポレオンもまたそれを踏襲した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これはアウステルリッツの戦いなどで用いられており戦争の芸術と称えられた。

戦闘隊形

戦場の基本行動単位は大隊(bataillon)であり、その人数は800名から1,000名であった。戦闘隊形はこの大隊ごとに組まれていた。戦場は戦闘隊形の幾何学模様で埋め尽くされ、それぞれの隊形が移動し衝突して疎と密の混在状態を作り出し、ある隊形は突破されて崩壊し、またある隊形は包囲されて消耗し、最終的により多くの戦闘隊形の秩序を保ち続けた側が勝利した。優れた戦術とは状況に応じた適切な戦闘隊形の選択と巧みな機動および連携行動の組成物であった。当時の代表的な戦闘隊形は以下の通りだった。

横隊Ligne
横隊
横長の隊列であり通常は横三列で並んだ。正面への火力が最大となるので一斉射撃に適していた。移動方向はほぼ正面に限られており、また両翼端の側面が弱点となった。
行軍縦隊Colonne de Marche
街道を行進する時と戦場での素早い移動に使われた。大抵は縦三列ほどで先導者を後続の者達が追った。銃撃戦には向かず、大砲被弾時の被害も大きくなった。縦隊で敵に接近して横隊に展開するのが定石とされたが、これを成し遂げるには一定の訓練が必要だった。
突撃縦隊Colonne de Charge
いわゆる逆V字形の楔形隊形。中央の先導者がやや突出して全ラインの視界に入り、全員が進行方向を確認出来たので柔軟な高速移動が可能だった。ただし一定の訓練は必要だった。騎兵の移動と突入に用いられた。
攻撃縦隊Colonne d'Attaque
やや広めの縦隊を組む歩兵の前方に散開した軽歩兵が配置された。集団突入の隊形であり、まず軽歩兵が銘々進みながら射撃して敵を牽制しつつその隊列を乱し、敵にある程度迫った後は左右に散って道を開け、後続の歩兵が縦隊のまま突撃した。左右に分かれた軽歩兵はその縦隊の側面を守った。革命戦争時代の群衆戦術の代表例で、玄人の散開歩兵が素人の縦隊歩兵をエスコートして敵にぶつけるような隊形だった。
混成配置(Ordre Mixte
一斉射撃を行う横隊と銃剣突撃する縦隊を組み合わせた隊形。横隊は複数の大隊をつないだ長大なものとなった。縦隊はその後方か、横隊の節々の切れ目に配置された。横隊が一斉射撃した後に縦隊が突入した。大規模な戦闘隊形ゆえに移動は鈍重で、騎兵と砲兵の支援が必要だったが、横隊の正面火力の高さと縦隊の衝撃力の高さを兼ね備えており、ナポレオンも好んで用いていた。
散兵配置(Ordre Ouvert
各員が散開する隊形。軽歩兵は専らこれで戦った。銃撃と砲撃の被害を減らせるので、戦列歩兵も大砲で狙われた時に用いたが一定の訓練が必要だった。各員が散らばってるので白兵戦には弱く、敵の密集隊形に突入されると為す術が無かった。
方陣Carre
方陣
歩兵が敵騎兵に対して用いる防御隊形。歩兵達が中空の四角形の隊列を組み一辺は三層ないし四層だった。士官が中に入り、四辺の歩兵が銃を構えて射撃し、接近した敵は銃剣で撃退した。こうする事で全方位からの騎兵突入に対抗出来た。また四隅に大砲が置かれる事もあった。移動は極めて緩慢であり、大砲で狙われた時はひとたまりも無く、また敵歩兵の一斉射撃にも弱かった。この隊形は一度崩れると全くの烏合の衆と化してしまう危うさがあった。
機動砲列(Batterie Volante
戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。砲兵部隊が移動を繰り返して場所を変えながら砲撃した。騎乗砲兵はこれを専門とする兵種だった。徒歩砲兵も移動速度は大幅に遅かったが実践した。
大型砲列(Grande Batterie
戦闘隊形ではないが砲兵の運用法の一つ。いわゆる大砲の集中運用であり、一箇所に多くの大砲を並べた砲列を敷いて集中砲火を実現したが、同時に敵砲兵の反撃にも弱く敵騎兵への対策も必要だった。戦闘開始時に用いられ、しばらくすると分割されて複数の機動砲列と化し銘々の場所に移動する事が多かった。しかし砲兵の練度が低い場合は大型砲列のまま運用が続けられた。

戦歴

1805年 - 1807年

1805年春、ナポレオンは海上封鎖を続けてフランス経済に打撃を与えていたイギリスを屈服させる為にドーバー海峡に面したブローニュに軍勢を集結させた。それに対抗してイギリスは4月にオーストリア、ロシアと共に第三次対仏大同盟を結成した。10月のトラファルガーの海戦の敗北によりイギリス上陸作戦を断念したナポレオンは、オーストリアに矛先を変えてドイツ南部に進軍し11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンはアウステルリッツの地でロシア、オーストリア連合軍を撃破しプレスブルクの和約を締結させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを盟主とする神聖ローマ帝国は解体された。

ナポレオンの勢力拡大を警戒したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季作戦では苦戦するが、翌1807年5月のダンツィヒでプロイセン軍を降服させ、6月のフリートラントの戦いでもロシア軍を撃破した。その後締結されたティルジット条約の中でロシア、プロイセン両国と講和し、イギリスの通商活動を封じ込める為の大陸封鎖令にロシアを参加させた。

1807年 - 1809年

1807年10月、ナポレオンはスペインにフォンテーヌブロー条約を調印させ、大陸封鎖令を拒否するポルトガルの占領と、その為のフランス軍のスペイン領内通過の合意を得ると遠征を始めて12月にポルトガルを制圧した。その後、ナポレオンは様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた為に反仏感情が高まり、やがてスペイン宮廷で政変が発生するとスペイン王家を追放して1808年5月に兄ジョゼフを王位に据えた。スペイン人は国内全土で蜂起してゲリラの語源となると共に、フランスに多大な消耗を強いる事になる凄惨なスペイン半島戦争が始まった。7月のバイレンの戦いでフランス軍は敗れ、新王ジョゼフは撤退を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦線が泥沼化した事から11月にナポレオンは12万の大軍と共に親征に踏み切った。12月にマドリードを占領して兄ジョゼフを帰還させ、翌1809年1月にナポレオンはフランスに帰国したが、スペイン人ゲリラとイギリス軍の活動は続いており戦争はそのまま長期化した。

半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月、イギリスと第五次対仏大同盟を結成した。オーストリア軍はドイツ方面とイタリア方面で急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生したアスペルン・エスリンクの戦いで始めて一敗地に塗れる事になった。だが、7月のワグラムの戦いで大勝してオーストリアが意気消沈した事から停戦への運びとなり、シェーンブルンの和約を調印して三百万の領民を含む領土をフランスに割譲させた。

1810年 - 1812年

スペインを除いてヨーロッパでは一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり、1812年の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するために、これまでにない最大規模の軍隊を結成した。新しい大陸軍はそれまでと変わっていて、士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。ポーランドとオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。

巨大な多国籍軍は1812年6月23日にネマン川を越え東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、大陸軍には苛立ちが溜まっていった。スモレンスクを占領し、モスクワを守るための最後の防衛戦として9月7日にボロジノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍が勝ったものの犠牲が多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利の7日後の9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はついにモスクワに到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの守りも強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘と病気(主にチフス)で夏の間にすでに兵士の半分を失っていたうえに、ロシアの焦土作戦によって大陸軍が確保できる食糧は無かった。フランス皇帝が無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンと大陸軍はモスクワで1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、遂に西方への退却を開始した。退却は侵攻以上に悲惨を極め、寒さと飢えと病気に悩まされ、集まってくるコサックやロシア軍に繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイが殿軍を引き受けロシア軍との間の分離を図ったが、大陸軍は事実上壊滅し、およそ400,000名が死に、ベレジナ川に到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。[20]それでもベレジナの戦いの結果とジャン=バティスト・エブレの技師達によるベレジナ川に橋を架ける必死の作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。

軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。[21]この大遠征は、今まで大陸軍が積み上げてきた数々の勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果に終わった。

1813年 - 1815年

ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、リュッツェンの戦いバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のトラチェンブルク計画英語版の採用により、フランスはカッツバッハの戦いクルムの戦いグロスベーレンの戦いデネヴィッツの戦い英語版と負け続けた。

同盟軍は数を増し、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、ハナウの戦い英語版でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したバイエルン軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。[22]

「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがラ・ロシエールの戦い英語版で敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。1814年六日間の戦役で30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク英語版モントローの戦い英語版で破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラン(Laon)の戦いアルシス=シュル=アウベの戦い英語版でのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、パリの戦い英語版で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。[23]

1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。[24]

脚注

  1. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", pages 60-65. Da Capo Press, 1997
  2. ^ Napoleon's Guard Infantry - Moyenne Garde, Accessed March 16, 2006
  3. ^ Tirailleurs de la Garde Imperiale: 1809-1815, Accessed March 16, 2006
  4. ^ Uniform of the Grenadiers-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  5. ^ Foot Grenadiers in the Imperial Guard, Accessed March 16, 2006
  6. ^ Uniforms of the Chasseurs-a-Pied de la Garde, Accessed March 16, 2006
  7. ^ Grand Tenue - Marins de la Garde, Accessed March 16, 2006
  8. ^ FUSILIERS DE LA GARDE 1806 - 1814 ARMEE FRANCAISE PLANCHE N" 101, Accessed March 16, 2006
  9. ^ Napoleon's Polish Lancers, Accessed March 16, 2006
  10. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 186, 194. Da Capo Press, 1997
  11. ^ Mas, M.A. M., p.81.
  12. ^ Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 250. Da Capo Press, 1997
  13. ^ a b Elting, John R.:"Swords Around A Throne.", page 254-5. Da Capo Press, 1997
  14. ^ Elting, John R. Swords Around A Throne. Da Capo Press, 1997. Pg.387.
  15. ^ John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997
  16. ^ 「華麗なるナポレオン軍の軍服」134頁 リシュアン・ルスロ著 辻元よしふみ、辻元玲子翻訳 マール社 2014年
  17. ^ 「華麗なるナポレオン軍の軍服」7頁
  18. ^ Tome huitieme "Correspondance de Napoleon I", p452, "ttp://books.google.com/books?id=KXAPAAAAQAAJ"
  19. ^ アメリカ軍では少将が公式の最高位の階級であり、中将および大将は役職に付随する地位とされる。
  20. ^ Insects, Disease, and Military History: Destruction of the Grand Armee
  21. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 145-171
  22. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 271-287
  23. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 287-297
  24. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 306-312

関連項目

参考文献

外部リンク