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「无邪志国造」の版間の差分

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=== 祖先 ===
=== 祖先 ===
* 『[[日本書紀]]』によれば、'''[[天穂日]]'''が武蔵国造などの遠祖であるという。
* 『[[日本書紀]]』によれば、'''[[天穂日]]'''が武蔵国造などの遠祖であるという。
* 『[[古事記]]』によれば、天菩比(天穂日)の子'''[[武夷鳥命|建比良鳥]]'''が无邪志国造などの祖であるという。[[出雲国造]]・[[上菟上国造]]・[[下菟上国造]]・[[伊自牟国造]]・[[遠江国造]]などと同系。
* 『[[古事記]]』によれば、天菩比(天穂日)の子'''[[建比良鳥]]'''が无邪志国造などの祖であるという。[[出雲国造]]・[[上菟上国造]]・[[下菟上国造]]・[[伊自牟国造]]・[[遠江国造]]などと同系。
* 『[[高橋氏文]]』によれば、[[磐鹿六獦]]に従って[[景行天皇]](第12代[[天皇]])に料理を献上した'''[[大多毛比]]'''(大多毛比は下記兄多毛比の別名である<ref name="442頁"/>)は「無邪国造」の上祖であるという。この「無邪国造」については、『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」(下記)に「无邪志国造」とあるのにより「邪」のあとに「志」を補って「無邪志国造」が本来の表記であったとされている。これは无邪志国造の別名である([[#別名]]参照)。
* 『[[高橋氏文]]』によれば、[[磐鹿六獦]]に従って[[景行天皇]](第12代[[天皇]])に料理を献上した'''[[大多毛比]]'''(大多毛比は下記兄多毛比の別名である<ref name="442頁"/>)は「無邪国造」の上祖であるという。この「無邪国造」については、『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」(下記)に「无邪志国造」とあるのにより「邪」のあとに「志」を補って「無邪志国造」が本来の表記であったとされている。これは无邪志国造の別名である([[#別名]]参照)。
* 『[[先代旧事本紀]]』の「[[国造本紀]]」によれば、[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖、名は'''[[二井之宇迦諸忍之神狭]]'''([[神狭]]の別名は「[[諸忍毘古]]」である<ref name="442頁">『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442頁。</ref>)の10世孫の'''[[兄多毛比]]'''が初代无邪志国造に任命されたという。ただし「兄多毛比」は[[度会延佳]]本による表記で<ref>『[[#taikei|国史大系. 第7巻]]』</ref>、[[神宮文庫]]本は「'''[[兄多比]]'''」と表記している<ref>『[[#taikei2|新訂増補國史大系 第7巻]]』</ref>。この国造任命は成務天皇5年[[秋]][[9月_(旧暦)|9月]]のことと考えられている<ref name="442頁"/>。
* 『[[先代旧事本紀]]』の「[[国造本紀]]」によれば、[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖、名は'''[[二井之宇迦諸忍之神狭]]'''([[神狭]]の別名は「[[諸忍毘古]]」である<ref name="442頁">『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442頁。</ref>)の10世孫の'''[[兄多毛比]]'''が初代无邪志国造に任命されたという。ただし「兄多毛比」は[[度会延佳]]本による表記で<ref>『[[#taikei|国史大系. 第7巻]]』</ref>、[[神宮文庫]]本は「'''[[兄多比]]'''」と表記している<ref>『[[#taikei2|新訂増補國史大系 第7巻]]』</ref>。この国造任命は成務天皇5年[[秋]][[9月_(旧暦)|9月]]のことと考えられている<ref name="442頁"/>。
* 系図(『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」441-442頁)は'''天穂日命'''('''天菩比命''')―天夷鳥命('''建比良鳥命''')―[[出雲建子命]]―神狭命('''二井之宇迦諸忍之神狭命''')―[[身狭耳命]]―[[五十根彦命]]―[[天速古命]]―[[天日古曽乃己呂命]]―[[忍兄多毛比命]]―[[若伊志治命]]―兄多毛比命となっており、これに従えば兄多毛比は神狭の10世孫ではなく7世孫となる。
* 系図(『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」441-442頁)は'''天穂日命'''('''天菩比命''')―天夷鳥命('''建比良鳥命''')―[[出雲建子命]]―神狭命('''二井之宇迦諸忍之神狭命''')―[[身狭耳命]]―[[五十根彦命]]―[[天速古命]]―[[天日古曽乃己呂命]]―[[忍兄多毛比命]]―[[若伊志治命]]―兄多毛比命となっており、これに従えば兄多毛比は神狭の10世孫ではなく7世孫となる。


=== 氏族 ===
=== 氏族 ===
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无邪志国造の系図については、『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442・443頁を参照。
无邪志国造の系図については、『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442・443頁を参照。
* 丈部氏
* 丈部氏
*: '''[[大部氏]]'''とも表記する。系図<ref name="442頁"/>によれば、八背([[直 (姓)|]]は[[カバネ|姓]])は[[応神天皇]](第15代[[天皇]])の時代に[[膳大伴部]](かしわでのおおともべ。天皇の食膳調達にあたる[[部民]]氏族。)となり供奉したので'''[[膳大部氏]]'''(かしわでのおおともうじ。姓は直。)を名乗ったという。これは膳大伴部の在地統率氏族である膳大伴氏(かしわでのおおともうじ)の異表記である。同じように、大部氏(おおともうじ)とは膳大伴氏の略である大伴氏(おおともうじ。[[#一族|下記]]参照。)と同一のものである。なお「大部」を「大伴部」(おおともべ。膳大伴部の略。)の略と考えた場合、その読みは「おおべ」となる。
*: '''[[大部氏]]'''とも表記する。系図<ref name="442頁"/>によれば、[[八背]]([[カバネ|]]は[[直 ()|直]])は[[応神天皇]](第15代[[天皇]])の時代に[[膳大伴部]](かしわでのおおともべ。天皇の食膳調達にあたる[[部民]]氏族。)となり供奉したので'''[[膳大部氏]]'''(かしわでのおおともうじ。姓は直。)を名乗ったという。これは膳大伴部の在地統率氏族である膳大伴氏(かしわでのおおともうじ)の異表記である。同じように、大部氏(おおともうじ)とは膳大伴氏の略である大伴氏(おおともうじ。[[#一族|下記]]参照。)と同一のものである。なお「大部」を「大伴部」(おおともべ。膳大伴部の略。)の略と考えた場合、その読みは「おおべ」となる。
* 武蔵氏
* 武蔵氏
*: [[奈良時代]]の[[官人]]で[[藤原仲麻呂の乱]]の功績により武蔵国造に任じられた[[武蔵不破麻呂|丈部不破麻呂]]([[#人物]]参照)がその時に賜った氏である。
*: [[奈良時代]]の[[官人]]で[[藤原仲麻呂の乱]]の功績により武蔵国造に任じられた[[武蔵不破麻呂|丈部不破麻呂]]([[#人物]]参照)がその時に賜った氏である。
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* [[笠原氏]]([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])
* [[笠原氏]]([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])
* 物部氏(姓は直)
* 物部氏(姓は直)
*: 系図<ref name="442頁"/>によれば、初代国造兄多毛比の[[曽孫]]の[[筑麿]]は物部氏([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])の祖であるという。なお[[推古天皇]](第33代[[天皇]])の時代の[[舎人]]に武蔵国造となった[[物部兄麻呂]]という人物([[#人物]]参照)がいるが、上記笠原兄麻呂との関係は不明である。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[兵器]]の製造・管理を主に管掌していた[[物部氏]](姓は[[連]]のち[[朝臣]])がある。
*: 系図<ref name="442頁"/>によれば、初代国造兄多毛比の[[曽孫]]の[[筑麿]]は物部氏([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])の祖であるという。なお[[推古天皇]](第33代[[天皇]])の時代の[[舎人]]に武蔵国造となった[[物部兄麻呂]]という人物([[#人物]]参照)がいるが、上記笠原兄麻呂との関係は不明である。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[兵器]]の製造・管理を主に管掌していた[[物部氏]](姓は[[連]]のち[[朝臣]])がある。
* 大伴氏(姓は直)
* 大伴氏(姓は直)
*: 上の大部氏の項に記したとおり、大伴氏はのちの武蔵国[[足立郡]]を本拠とする大部氏と同一のものである。またのちの武蔵国[[多摩郡]]の[[郡領]]家にも大伴氏があるが、『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』は多摩郡郡領家の大伴氏について「足立郡なる大伴直家の分流にして、[[多氷屯倉|多摩の屯倉]]を掌どりし氏ならんか」としている。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[物部氏]]と共に朝廷の[[軍事]]を管掌していたと考えられている[[大伴氏]](姓は[[連]]のち[[宿禰]])がいる。
*: 上の大部氏の項に記したとおり、大伴氏はのちの武蔵国[[足立郡]]を本拠とする大部氏と同一のものである。またのちの武蔵国[[多摩郡]]の[[郡領]]家にも大伴氏があるが、『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』は多摩郡郡領家の大伴氏について「足立郡なる大伴直家の分流にして、[[多氷屯倉|多摩の屯倉]]を掌どりし氏ならんか」としている。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[物部氏]]と共に朝廷の[[軍事]]を管掌していたと考えられている[[大伴氏]](姓は[[連]]のち[[宿禰]])がいる。
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=== 本拠 ===
=== 本拠 ===
* のちの武蔵国'''[[足立郡]]'''
* のちの武蔵国'''[[足立郡]]'''
*: 武蔵氏([[#氏族]]参照)および大伴氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の[[東京都]]の[[足立区]]などと[[埼玉県]]の東南部である(詳細は[[足立郡#郡域]]を参照)。郡内の'''[[郡家郷]]'''の「[[郡家]]」は[[郡衙]]のことであり、足立郡の郡衙はさいたま市の[[大久保領家]]遺跡([[大久保領家#文化財]]参照)と[[氷川神社]]東遺跡にあったと推定されている。また、初代国造兄多毛比は足立郡足立府に居住していたという<ref name="442頁"/>。また、[[武蔵武芝]]([[#子孫]]参照)は足立郡の[[郡司]]だった。
*: 武蔵氏([[#氏族]]参照)および大伴氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の[[東京都]]の[[足立区]]などと[[埼玉県]]の東南部である(詳細は[[足立郡#郡域]]を参照)。郡内の'''[[郡家郷]]'''の「[[郡家]]」は[[郡衙]]のことであり、足立郡の郡衙はさいたま市の[[大久保領家]]遺跡([[大久保領家#文化財]]参照)と[[氷川神社]]東遺跡にあったと推定されている。また、初代国造兄多毛比は足立郡足立府に居住していたという<ref name="442頁"/>。また、[[武蔵武芝]]([[#子孫]]参照)は足立郡の[[郡司]]だった。
* のちの武蔵国[[埼玉郡]]'''[[笠原郷]]'''
* のちの武蔵国[[埼玉郡]]'''[[笠原郷]]'''
*: 笠原氏([[#一族]]参照)の本拠であり、現在の埼玉県[[鴻巣市]]笠原を中心とした地域である。武蔵国造の本拠地はこの近くにある[[埼玉古墳群]]([[#墓]]も参照)と推測される{{Sfn|武蔵国(平凡社 埼玉県)|2004年}}。初代国造兄多毛比は笠原郷にも居住していたという<ref name="442頁"/>。
*: 笠原氏([[#一族]]参照)の本拠であり、現在の埼玉県[[鴻巣市]]笠原を中心とした地域である。武蔵国造の本拠地はこの近くにある[[埼玉古墳群]]([[#墓]]も参照)と推測される{{Sfn|武蔵国(平凡社 埼玉県)|2004年}}。初代国造兄多毛比は笠原郷にも居住していたという<ref name="442頁"/>。
* のちの武蔵国'''[[入間郡]]'''
* のちの武蔵国'''[[入間郡]]'''
*: 物部氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の埼玉県[[入間市]]・[[川越市]]・[[狭山市]]・[[所沢市]]・[[富士見市]]・[[ふじみ野市]]などである(詳細は[[入間郡#郡域]]を参照)。
*: 物部氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の埼玉県[[入間市]]・[[川越市]]・[[狭山市]]・[[所沢市]]・[[富士見市]]・[[ふじみ野市]]などである(詳細は[[入間郡#郡域]]を参照)。
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=== 氏神 ===
=== 氏神 ===
* '''[[大國魂神社]]'''(おおくにたまじんじゃ、{{ウィキ座標|35|40|02.87|N|139|28|44.19|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=大國魂神社}})
* '''[[大國魂神社]]'''(おおくにたまじんじゃ、{{ウィキ座標|35|40|02.87|N|139|28|44.19|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=大國魂神社}})
*: [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]](旧[[多摩郡]])にある神社。武蔵国[[総社]]。祭神は[[大国主]]と同神とされる大國魂大神。[[景行天皇]]41年([[111年]])[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]に大神の[[託宣]]に依って造られたのが起源である<ref>[https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/ 由緒・歴史] - 大國魂神社(東京・府中)(2018年3月2日午前0時(夜)41分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖[[天穂日]]の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている<ref>{{cite book|和書| author=東京府 (編)| title=東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志| chapter=大國魂神社| year=1912| publisher=東京府| pages=pp. 92f| url={{NDLDC|946884/117}}}}</ref>。摂社に'''[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮]'''<ref group="注">リンクは大國魂神社のサイト内。</ref>(つぼのみや、府中市本町2-12<ref name="jinja">[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮] - 大國魂神社(2018年2月1日午後3時28分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[大國魂神社#摂社]]を参照。)があり、坪宮社・国造神社ともいう。坪宮の祭神は初代无邪志国造兄多毛比であるが、出雲臣天穂日の後で初代武蔵国造兄多気比であるともいう<ref name="jinja"/>。が国造に任ぜられ、以来代々の国造が当社に奉仕してその国造の霊を祀ったという<ref name="jinja"/>。大國魂神社の[[例大祭]]([[くらやみ祭]])中の[[5月5日]]に[[御旅所]]へ[[神輿]]が[[渡御]]する折に当社より[[奉幣]]を献ずる式は「国造代奉幣式」と称されている<ref name="jinja"/>。
*: [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]](旧[[多摩郡]])にある神社。武蔵国[[総社]]。祭神は[[大国主]]と同神とされる大國魂大神。[[景行天皇]]41年([[111年]])[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]に大神の[[託宣]]に依って造られたのが起源である<ref>[https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/ 由緒・歴史] - 大國魂神社(東京・府中)(2018年3月2日午前0時(夜)41分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖[[天穂日]]の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている<ref>{{cite book|和書| author=東京府 (編)| title=東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志| chapter=大國魂神社| year=1912| publisher=東京府| pages=pp. 92f| url={{NDLDC|946884/117}}}}</ref>。摂社に'''[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮]'''<ref group="注">リンクは大國魂神社のサイト内。</ref>(つぼのみや、府中市本町2-12<ref name="jinja">[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮] - 大國魂神社(2018年2月1日午後3時28分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[大國魂神社#摂社]]を参照。)があり、坪宮社・国造神社ともいう。坪宮の祭神は初代无邪志国造兄多毛比であるが、出雲臣天穂日の後で初代武蔵国造兄多気比であるともいう<ref name="jinja"/>。兄多毛比(兄多気比)が国造に任ぜられ、以来代々の国造が当社に奉仕してその国造の霊を祀ったという<ref name="jinja"/>。大國魂神社の[[例大祭]]([[くらやみ祭]])中の[[5月5日]]に[[御旅所]]へ[[神輿]]が[[渡御]]する折に当社より[[奉幣]]を献ずる式は「国造代奉幣式」と称されている<ref name="jinja"/>。
* '''[[氷川神社]]'''(ひかわじんじゃ、{{ウィキ座標|35|55|0.30|N|139|37|47.04|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=武蔵国一宮または三宮、名神大社:氷川神社}})
* '''[[氷川神社]]'''(ひかわじんじゃ、{{ウィキ座標|35|55|0.30|N|139|37|47.04|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=武蔵国一宮または三宮、名神大社:氷川神社}})
*: [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]](旧足立郡)にある神社。武蔵国[[一宮]]または[[三宮 (曖昧さ回避)|三宮]]<ref group="注">[[一宮]]を参照。</ref>。祭神は[[須佐之男命]]・[[稲田姫命]]・[[大己貴命]]<ref name=hikawa>[http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/about/index.html 氷川神社について] - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。社記によると[[孝昭天皇]]3年(『[[日本書紀]]』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えれば[[紀元前473年]]に当たる)[[4月 (旧暦)|4月]][[未]]の日の創立と伝えられる<ref name="hikawa"/>。[[景行天皇]](第12代[[天皇]])の時代に[[日本武]]は当神社に参拝し[[東夷#日本での用法|東夷]]鎮定の祈願をしたと伝わっている<ref name="hikawa"/>。また[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に兄多毛比は[[出雲族]]をひきつれてこの地に移住し<ref name="kadokawa">『[[#kadokawa|角川日本地名大辞典 11 埼玉県]]』。</ref>、祖神を祀って氏神として<ref name="kadokawa"/>、当社を奉崇した<ref name=hikawa/>という。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は[[出雲国造]]と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「[[簸川郡|簸川]]」(ひかわ、現在の[[斐伊川]](ひいかわ))に由来するという説がある。
*: [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]](旧足立郡)にある神社。武蔵国[[一宮]]または[[三宮 (曖昧さ回避)|三宮]]<ref group="注">[[一宮]]を参照。</ref>。祭神は[[須佐之男命]]・[[稲田姫命]]・[[大己貴命]]<ref name=hikawa>[http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/about/index.html 氷川神社について] - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。社記によると[[孝昭天皇]]3年(『[[日本書紀]]』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えれば[[紀元前473年]]に当たる)[[4月 (旧暦)|4月]][[未]]の日の創立と伝えられる<ref name="hikawa"/>。[[景行天皇]](第12代[[天皇]])の時代に[[日本武]]は当神社に参拝し[[東夷#日本での用法|東夷]]鎮定の祈願をしたと伝わっている<ref name="hikawa"/>。また[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に兄多毛比は[[出雲族]]をひきつれてこの地に移住し<ref name="kadokawa">『[[#kadokawa|角川日本地名大辞典 11 埼玉県]]』。</ref>、祖神を祀って氏神として<ref name="kadokawa"/>、当社を奉崇した<ref name=hikawa/>という。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は[[出雲国造]]と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「[[簸川郡|簸川]]」(ひかわ、現在の[[斐伊川]](ひいかわ))に由来するという説がある。
* '''[[物部天神社]]'''
* '''[[物部天神社]]'''
*: 埼玉県[[所沢市]](旧入間郡)の'''[[北野天神社_(所沢市)|北野天神社]]'''(きたのてんじんしゃ、{{ウィキ座標|35|47|21.32|N|139|25|43.16|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=北野天神社}})を構成する三社のうちの一社。祭神は[[物部氏]]の祖神[[ニギハヤヒ|饒速日命]]。
*: 埼玉県[[所沢市]](旧入間郡)の'''[[北野天神社_(所沢市)|北野天神社]]'''(きたのてんじんしゃ、{{ウィキ座標|35|47|21.32|N|139|25|43.16|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=北野天神社}})を構成する三社のうちの一社。祭神は[[物部氏]]の祖神[[饒速日命]]。


=== 墓 ===
=== 墓 ===
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*: [[埼玉県]][[行田市]](旧埼玉郡)にある[[古墳群]]。9基の大型[[古墳]]からなる。[[5世紀]]末から[[7世紀]]にかけて成立したと考えられている。関東有数の大型古墳群であり、武蔵国造の墓と推測される。
*: [[埼玉県]][[行田市]](旧埼玉郡)にある[[古墳群]]。9基の大型[[古墳]]からなる。[[5世紀]]末から[[7世紀]]にかけて成立したと考えられている。関東有数の大型古墳群であり、武蔵国造の墓と推測される。
* '''[[芝丸山古墳]]'''(しばまるやまこふん、{{ウィキ座標|35|39|16.65|N|139|44|53.07|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=芝丸山古墳}})
* '''[[芝丸山古墳]]'''(しばまるやまこふん、{{ウィキ座標|35|39|16.65|N|139|44|53.07|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=芝丸山古墳}})
*: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]](旧[[荏原郡]]のち[[豊島郡_(武蔵国)|豊島郡]])にある[[前方後円墳]]。都内では最大級の規模である。[[5世紀]]に築造された。初代无邪志国造の兄多毛比の墓という説がある<ref name="nihonjiten"/>。
*: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]](旧[[荏原郡]]のち[[豊島郡_(武蔵国)|豊島郡]])にある[[前方後円墳]]。都内では最大級の規模である。[[5世紀]]に築造された。初代无邪志国造の兄多毛比の墓という説がある<ref name="nihonjiten"/>。


=== 人物 ===
=== 人物 ===

2018年8月9日 (木) 18:21時点における版

无邪志国造
本姓 丈部氏のち武蔵氏
家祖 兄多毛比
種別 神別天孫
主な根拠地 无邪志国
(のちの武蔵国秩父除く))
著名な人物 #人物を参照
支流、分家#一族記載以外の氏族を記載)
菊麻国造
大島国造
伯岐国造
矢田部氏
刑部氏
野与氏
凡例 / Category:日本の氏族

无邪志国造(むざしのくにのみやつこ、むざしこくぞう)はのちに武蔵国東部となる地域(无邪志国)を支配した国造である。

先代旧事本紀』の「国造本紀」において无邪志国造条の次に胸刺国造条があるが、この2国造は同一のものであるとする説と別であるとする説がある。

概要

別名

祖先

氏族

丈部氏)、のち武蔵氏(姓は宿禰)。

无邪志国造の系図については、『埼玉叢書. 第3巻』内「武州一宮氷川神社書上」内「西角井從五位物部忠正家系」442・443頁を参照。

  • 丈部氏
    大部氏とも表記する。系図[1]によれば、八背)は応神天皇(第15代天皇)の時代に膳大伴部(かしわでのおおともべ。天皇の食膳調達にあたる部民氏族。)となり供奉したので膳大部氏(かしわでのおおともうじ。姓は直。)を名乗ったという。これは膳大伴部の在地統率氏族である膳大伴氏(かしわでのおおともうじ)の異表記である。同じように、大部氏(おおともうじ)とは膳大伴氏の略である大伴氏(おおともうじ。下記参照。)と同一のものである。なお「大部」を「大伴部」(おおともべ。膳大伴部の略。)の略と考えた場合、その読みは「おおべ」となる。
  • 武蔵氏
    奈良時代官人藤原仲麻呂の乱の功績により武蔵国造に任じられた丈部不破麻呂#人物参照)がその時に賜った氏である。

一族

以下に記載する氏族などが一族である。

本拠

支配領域

无邪志国造の支配領域は当時无邪志国と呼ばれていた地域である。无邪志国はのちの令制国武蔵国にあたる[5]。ただし、秩父(知々夫国造の支配する知々夫国だった)を除いた範囲をさすとする説もある。現在の埼玉県東京都境界周辺、荒川流域にある[6]北足立郡入間郡・旧大宮市[5]に当たる。

地名の起源については、武蔵国#「武蔵」の国名を参照。

无邪志国は知々夫国造の支配した知々夫国と合わさって7世紀令制国武蔵国となった。当初武蔵国は東山道に所属していたが、771年東海道に移管された。

氏神

人物

以下に武蔵国造を務めた著名な者を記載する。

子孫

呂者。擅於己造寺。而隨恣心借用寺物。未報之死亡焉。爲償此物故受牛身者也。
(赤麻呂は自らが造った多磨寺か)の物を借用し、それをまだ返さないうちに死んだ。この物を償うために牛の身を受けたものである。)
と書かれていたという。

脚注

注釈

  1. ^ リンクは大國魂神社のサイト内。
  2. ^ 一宮を参照。
  3. ^ 日本書紀』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えて算出したもの。
  4. ^ 日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。
  5. ^ a b 四等官を参照。
  6. ^ 国司(国司の長官四等官を参照))の権官
  7. ^ 国司次官四等官も参照)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 埼玉叢書. 第3巻』内「武州一宮氷川神社書上」内「西角井從五位物部忠正家系」442頁。
  2. ^ 国史大系. 第7巻
  3. ^ 新訂増補國史大系 第7巻
  4. ^ 武蔵国(平凡社 埼玉県) & 2004年.
  5. ^ a b 日本歴史地図 原始・古代編 下』。
  6. ^ a b 无邪志国造 ( 武蔵 ) - 日本辞典(2018年3月1日 午前8時24分(JST)閲覧)
  7. ^ 由緒・歴史 - 大國魂神社(東京・府中)(2018年3月2日午前0時(夜)41分(JST)閲覧)
  8. ^ 東京府 (編)「大國魂神社」『東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志』東京府、1912年、pp. 92f頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946884/117 
  9. ^ a b c d 坪宮 - 大國魂神社(2018年2月1日午後3時28分(JST)閲覧)
  10. ^ a b c d 氷川神社について - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分(JST)閲覧)
  11. ^ a b 角川日本地名大辞典 11 埼玉県』。
  12. ^ 中野区史. 上巻』。

参考文献

関連項目