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* 『[[日本書紀]]』によれば、'''[[天穂日]]'''が武蔵国造などの遠祖であるという。 |
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* 『[[古事記]]』によれば、天菩比 |
* 『[[古事記]]』によれば、天菩比(天穂日)の子'''[[建比良鳥]]'''が无邪志国造などの祖であるという。[[出雲国造]]・[[上菟上国造]]・[[下菟上国造]]・[[伊自牟国造]]・[[遠江国造]]などと同系。 |
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* 『[[高橋氏文]]』によれば、[[磐鹿六獦 |
* 『[[高橋氏文]]』によれば、[[磐鹿六獦]]に従って[[景行天皇]](第12代[[天皇]])に料理を献上した'''[[大多毛比]]'''(大多毛比は下記兄多毛比の別名である<ref name="442頁"/>)は「無邪国造」の上祖であるという。この「無邪国造」については、『[[先代旧事本紀]]』「[[国造本紀]]」(下記)に「无邪志国造」とあるのにより「邪」のあとに「志」を補って「無邪志国造」が本来の表記であったとされている。これは无邪志国造の別名である([[#別名]]参照)。 |
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* 『[[先代旧事本紀]]』の「[[国造本紀]]」によれば、[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖、名は'''[[二井之宇迦諸忍之神狭 |
* 『[[先代旧事本紀]]』の「[[国造本紀]]」によれば、[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖、名は'''[[二井之宇迦諸忍之神狭]]'''([[神狭]]の別名は「[[諸忍毘古]]」である<ref name="442頁">『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442頁。</ref>)の10世孫の'''[[兄多毛比]]'''が初代无邪志国造に任命されたという。ただし「兄多毛比」は[[度会延佳]]本による表記で<ref>『[[#taikei|国史大系. 第7巻]]』</ref>、[[神宮文庫]]本は「'''[[兄多比]]'''」と表記している<ref>『[[#taikei2|新訂増補國史大系 第7巻]]』</ref>。この国造任命は成務天皇5年[[秋]][[9月_(旧暦)|9月]]のことと考えられている<ref name="442頁"/>。 |
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* 系図(『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」441-442頁)は'''天穂日命'''('''天菩比命''')―天夷鳥命('''建比良鳥命''')―[[出雲建子命]]―神狭命('''二井之宇迦諸忍之神狭命''')―[[身狭耳命]]―[[五十根彦命]]―[[天速古命]]―[[天日古曽乃己呂命]]―[[忍兄多毛比命]]―[[若伊志治命]]―兄多毛比命となっており、これに従えば兄多毛比 |
* 系図(『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」441-442頁)は'''天穂日命'''('''天菩比命''')―天夷鳥命('''建比良鳥命''')―[[出雲建子命]]―神狭命('''二井之宇迦諸忍之神狭命''')―[[身狭耳命]]―[[五十根彦命]]―[[天速古命]]―[[天日古曽乃己呂命]]―[[忍兄多毛比命]]―[[若伊志治命]]―兄多毛比命となっており、これに従えば兄多毛比は神狭の10世孫ではなく7世孫となる。 |
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=== 氏族 === |
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无邪志国造の系図については、『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442・443頁を参照。 |
无邪志国造の系図については、『[[#sousyo|埼玉叢書. 第3巻]]』内「[[武蔵国|武州]][[一宮]][[氷川神社]]書上」内「西角井[[従五位|從五位]][[物部忠正]]家系」442・443頁を参照。 |
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* 丈部氏 |
* 丈部氏 |
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*: '''[[大部氏]]'''とも表記する。系図<ref name="442頁"/>によれば、八背 |
*: '''[[大部氏]]'''とも表記する。系図<ref name="442頁"/>によれば、[[八背]]([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])は[[応神天皇]](第15代[[天皇]])の時代に[[膳大伴部]](かしわでのおおともべ。天皇の食膳調達にあたる[[部民]]氏族。)となり供奉したので'''[[膳大部氏]]'''(かしわでのおおともうじ。姓は直。)を名乗ったという。これは膳大伴部の在地統率氏族である膳大伴氏(かしわでのおおともうじ)の異表記である。同じように、大部氏(おおともうじ)とは膳大伴氏の略である大伴氏(おおともうじ。[[#一族|下記]]参照。)と同一のものである。なお「大部」を「大伴部」(おおともべ。膳大伴部の略。)の略と考えた場合、その読みは「おおべ」となる。 |
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* 武蔵氏 |
* 武蔵氏 |
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*: [[奈良時代]]の[[官人]]で[[藤原仲麻呂の乱]]の功績により武蔵国造に任じられた[[武蔵不破麻呂|丈部不破麻呂]]([[#人物]]参照)がその時に賜った氏である。 |
*: [[奈良時代]]の[[官人]]で[[藤原仲麻呂の乱]]の功績により武蔵国造に任じられた[[武蔵不破麻呂|丈部不破麻呂]]([[#人物]]参照)がその時に賜った氏である。 |
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* [[笠原氏]]([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]]) |
* [[笠原氏]]([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]]) |
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* 物部氏(姓は直) |
* 物部氏(姓は直) |
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*: 系図<ref name="442頁"/>によれば、初代国造兄多毛比 |
*: 系図<ref name="442頁"/>によれば、初代国造兄多毛比の[[曽孫]]の[[筑麿]]は物部氏([[カバネ|姓]]は[[直 (姓)|直]])の祖であるという。なお[[推古天皇]](第33代[[天皇]])の時代の[[舎人]]に武蔵国造となった[[物部兄麻呂]]という人物([[#人物]]参照)がいるが、上記笠原兄麻呂との関係は不明である。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[兵器]]の製造・管理を主に管掌していた[[物部氏]](姓は[[連]]のち[[朝臣]])がある。 |
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* 大伴氏(姓は直) |
* 大伴氏(姓は直) |
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*: 上の大部氏の項に記したとおり、大伴氏はのちの武蔵国[[足立郡]]を本拠とする大部氏と同一のものである。またのちの武蔵国[[多摩郡]]の[[郡領]]家にも大伴氏があるが、『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』は多摩郡郡領家の大伴氏について「足立郡なる大伴直家の分流にして、[[多氷屯倉|多摩の屯倉]]を掌どりし氏ならんか」としている。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[物部氏]]と共に朝廷の[[軍事]]を管掌していたと考えられている[[大伴氏]](姓は[[連]]のち[[宿禰]])がいる。 |
*: 上の大部氏の項に記したとおり、大伴氏はのちの武蔵国[[足立郡]]を本拠とする大部氏と同一のものである。またのちの武蔵国[[多摩郡]]の[[郡領]]家にも大伴氏があるが、『[[#seishi|姓氏家系大辞典. 第1巻]]』は多摩郡郡領家の大伴氏について「足立郡なる大伴直家の分流にして、[[多氷屯倉|多摩の屯倉]]を掌どりし氏ならんか」としている。同名の氏族には[[ヤマト王権]]の有力豪族で[[物部氏]]と共に朝廷の[[軍事]]を管掌していたと考えられている[[大伴氏]](姓は[[連]]のち[[宿禰]])がいる。 |
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=== 本拠 === |
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* のちの武蔵国'''[[足立郡]]''' |
* のちの武蔵国'''[[足立郡]]''' |
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*: 武蔵氏([[#氏族]]参照)および大伴氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の[[東京都]]の[[足立区]]などと[[埼玉県]]の東南部である(詳細は[[足立郡#郡域]]を参照)。郡内の'''[[郡家郷]]'''の「[[郡家]]」は[[郡衙]]のことであり、足立郡の郡衙はさいたま市の[[大久保領家]]遺跡([[大久保領家#文化財]]参照)と[[氷川神社]]東遺跡にあったと推定されている。また、初代国造兄多毛比 |
*: 武蔵氏([[#氏族]]参照)および大伴氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の[[東京都]]の[[足立区]]などと[[埼玉県]]の東南部である(詳細は[[足立郡#郡域]]を参照)。郡内の'''[[郡家郷]]'''の「[[郡家]]」は[[郡衙]]のことであり、足立郡の郡衙はさいたま市の[[大久保領家]]遺跡([[大久保領家#文化財]]参照)と[[氷川神社]]東遺跡にあったと推定されている。また、初代国造兄多毛比は足立郡足立府に居住していたという<ref name="442頁"/>。また、[[武蔵武芝]]([[#子孫]]参照)は足立郡の[[郡司]]だった。 |
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* のちの武蔵国[[埼玉郡]]'''[[笠原郷]]''' |
* のちの武蔵国[[埼玉郡]]'''[[笠原郷]]''' |
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*: 笠原氏([[#一族]]参照)の本拠であり、現在の埼玉県[[鴻巣市]]笠原を中心とした地域である。武蔵国造の本拠地はこの近くにある[[埼玉古墳群]]([[#墓]]も参照)と推測される{{Sfn|武蔵国(平凡社 埼玉県)|2004年}}。初代国造兄多毛比 |
*: 笠原氏([[#一族]]参照)の本拠であり、現在の埼玉県[[鴻巣市]]笠原を中心とした地域である。武蔵国造の本拠地はこの近くにある[[埼玉古墳群]]([[#墓]]も参照)と推測される{{Sfn|武蔵国(平凡社 埼玉県)|2004年}}。初代国造兄多毛比は笠原郷にも居住していたという<ref name="442頁"/>。 |
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* のちの武蔵国'''[[入間郡]]''' |
* のちの武蔵国'''[[入間郡]]''' |
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*: 物部氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の埼玉県[[入間市]]・[[川越市]]・[[狭山市]]・[[所沢市]]・[[富士見市]]・[[ふじみ野市]]などである(詳細は[[入間郡#郡域]]を参照)。 |
*: 物部氏([[#一族]]参照)の本拠であり、概ね現在の埼玉県[[入間市]]・[[川越市]]・[[狭山市]]・[[所沢市]]・[[富士見市]]・[[ふじみ野市]]などである(詳細は[[入間郡#郡域]]を参照)。 |
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=== 氏神 === |
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* '''[[大國魂神社]]'''(おおくにたまじんじゃ、{{ウィキ座標|35|40|02.87|N|139|28|44.19|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=大國魂神社}}) |
* '''[[大國魂神社]]'''(おおくにたまじんじゃ、{{ウィキ座標|35|40|02.87|N|139|28|44.19|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=大國魂神社}}) |
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*: [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]](旧[[多摩郡]])にある神社。武蔵国[[総社]]。祭神は[[大国主 |
*: [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]](旧[[多摩郡]])にある神社。武蔵国[[総社]]。祭神は[[大国主]]と同神とされる大國魂大神。[[景行天皇]]41年([[111年]])[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]に大神の[[託宣]]に依って造られたのが起源である<ref>[https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/ 由緒・歴史] - 大國魂神社(東京・府中)(2018年3月2日午前0時(夜)41分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[出雲氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[出雲国造]]の氏族。)の祖[[天穂日]]の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている<ref>{{cite book|和書| author=東京府 (編)| title=東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志| chapter=大國魂神社| year=1912| publisher=東京府| pages=pp. 92f| url={{NDLDC|946884/117}}}}</ref>。摂社に'''[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮]'''<ref group="注">リンクは大國魂神社のサイト内。</ref>(つぼのみや、府中市本町2-12<ref name="jinja">[https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tsubo.php 坪宮] - 大國魂神社(2018年2月1日午後3時28分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。[[大國魂神社#摂社]]を参照。)があり、坪宮社・国造神社ともいう。坪宮の祭神は初代无邪志国造兄多毛比であるが、出雲臣天穂日の後で初代武蔵国造兄多気比であるともいう<ref name="jinja"/>。兄多毛比(兄多気比)が国造に任ぜられ、以来代々の国造が当社に奉仕してその国造の霊を祀ったという<ref name="jinja"/>。大國魂神社の[[例大祭]]([[くらやみ祭]])中の[[5月5日]]に[[御旅所]]へ[[神輿]]が[[渡御]]する折に当社より[[奉幣]]を献ずる式は「国造代奉幣式」と称されている<ref name="jinja"/>。 |
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* '''[[氷川神社]]'''(ひかわじんじゃ、{{ウィキ座標|35|55|0.30|N|139|37|47.04|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=武蔵国一宮または三宮、名神大社:氷川神社}}) |
* '''[[氷川神社]]'''(ひかわじんじゃ、{{ウィキ座標|35|55|0.30|N|139|37|47.04|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=武蔵国一宮または三宮、名神大社:氷川神社}}) |
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*: [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]](旧足立郡)にある神社。武蔵国[[一宮]]または[[三宮 (曖昧さ回避)|三宮]]<ref group="注">[[一宮]]を参照。</ref>。祭神は[[須佐之男命]]・[[稲田姫命]]・[[大己貴命]]<ref name=hikawa>[http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/about/index.html 氷川神社について] - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。社記によると[[孝昭天皇]]3年(『[[日本書紀]]』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えれば[[紀元前473年]]に当たる)[[4月 (旧暦)|4月]][[未]]の日の創立と伝えられる<ref name="hikawa"/>。[[景行天皇]](第12代[[天皇]])の時代に[[日本武 |
*: [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]](旧足立郡)にある神社。武蔵国[[一宮]]または[[三宮 (曖昧さ回避)|三宮]]<ref group="注">[[一宮]]を参照。</ref>。祭神は[[須佐之男命]]・[[稲田姫命]]・[[大己貴命]]<ref name=hikawa>[http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/about/index.html 氷川神社について] - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分([[日本標準時|JST]])閲覧)</ref>。社記によると[[孝昭天皇]]3年(『[[日本書紀]]』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えれば[[紀元前473年]]に当たる)[[4月 (旧暦)|4月]][[未]]の日の創立と伝えられる<ref name="hikawa"/>。[[景行天皇]](第12代[[天皇]])の時代に[[日本武]]は当神社に参拝し[[東夷#日本での用法|東夷]]鎮定の祈願をしたと伝わっている<ref name="hikawa"/>。また[[成務天皇]](第13代天皇)の時代に兄多毛比は[[出雲族]]をひきつれてこの地に移住し<ref name="kadokawa">『[[#kadokawa|角川日本地名大辞典 11 埼玉県]]』。</ref>、祖神を祀って氏神として<ref name="kadokawa"/>、当社を奉崇した<ref name=hikawa/>という。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は[[出雲国造]]と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「[[簸川郡|簸川]]」(ひかわ、現在の[[斐伊川]](ひいかわ))に由来するという説がある。 |
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* '''[[物部天神社]]''' |
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*: 埼玉県[[所沢市]](旧入間郡)の'''[[北野天神社_(所沢市)|北野天神社]]'''(きたのてんじんしゃ、{{ウィキ座標|35|47|21.32|N|139|25|43.16|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=北野天神社}})を構成する三社のうちの一社。祭神は[[物部氏]]の祖神[[ |
*: 埼玉県[[所沢市]](旧入間郡)の'''[[北野天神社_(所沢市)|北野天神社]]'''(きたのてんじんしゃ、{{ウィキ座標|35|47|21.32|N|139|25|43.16|E|region:JP-11_type:landmark|位置|name=北野天神社}})を構成する三社のうちの一社。祭神は[[物部氏]]の祖神[[饒速日命]]。 |
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=== 墓 === |
=== 墓 === |
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*: [[埼玉県]][[行田市]](旧埼玉郡)にある[[古墳群]]。9基の大型[[古墳]]からなる。[[5世紀]]末から[[7世紀]]にかけて成立したと考えられている。関東有数の大型古墳群であり、武蔵国造の墓と推測される。 |
*: [[埼玉県]][[行田市]](旧埼玉郡)にある[[古墳群]]。9基の大型[[古墳]]からなる。[[5世紀]]末から[[7世紀]]にかけて成立したと考えられている。関東有数の大型古墳群であり、武蔵国造の墓と推測される。 |
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* '''[[芝丸山古墳]]'''(しばまるやまこふん、{{ウィキ座標|35|39|16.65|N|139|44|53.07|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=芝丸山古墳}}) |
* '''[[芝丸山古墳]]'''(しばまるやまこふん、{{ウィキ座標|35|39|16.65|N|139|44|53.07|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=芝丸山古墳}}) |
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*: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]](旧[[荏原郡]]のち[[豊島郡_(武蔵国)|豊島郡]])にある[[前方後円墳]]。都内では最大級の規模である。[[5世紀]]に築造された。初代无邪志国造の兄多毛比 |
*: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]](旧[[荏原郡]]のち[[豊島郡_(武蔵国)|豊島郡]])にある[[前方後円墳]]。都内では最大級の規模である。[[5世紀]]に築造された。初代无邪志国造の兄多毛比の墓という説がある<ref name="nihonjiten"/>。 |
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=== 人物 === |
=== 人物 === |
2018年8月9日 (木) 18:21時点における版
→「武蔵国造の乱 § 武蔵国造」も参照
无邪志国造 | |
---|---|
本姓 | 丈部氏のち武蔵氏 |
家祖 | 兄多毛比 |
種別 | 神別(天孫) |
主な根拠地 |
无邪志国 (のちの武蔵国(秩父除く)) |
著名な人物 | #人物を参照 |
支流、分家 |
(#一族記載以外の氏族を記載) 菊麻国造 大島国造 伯岐国造 矢田部氏 刑部氏 野与氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
无邪志国造(むざしのくにのみやつこ、むざしこくぞう)はのちに武蔵国東部となる地域(无邪志国)を支配した国造である。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」において无邪志国造条の次に胸刺国造条があるが、この2国造は同一のものであるとする説と別であるとする説がある。
概要
別名
- 武蔵国造
- 無邪志国造
- 牟邪志国造
- 无謝志国造
祖先
- 『日本書紀』によれば、天穂日が武蔵国造などの遠祖であるという。
- 『古事記』によれば、天菩比(天穂日)の子建比良鳥が无邪志国造などの祖であるという。出雲国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造などと同系。
- 『高橋氏文』によれば、磐鹿六獦に従って景行天皇(第12代天皇)に料理を献上した大多毛比(大多毛比は下記兄多毛比の別名である[1])は「無邪国造」の上祖であるという。この「無邪国造」については、『先代旧事本紀』「国造本紀」(下記)に「无邪志国造」とあるのにより「邪」のあとに「志」を補って「無邪志国造」が本来の表記であったとされている。これは无邪志国造の別名である(#別名参照)。
- 『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲氏(姓は臣。出雲国造の氏族。)の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭(神狭の別名は「諸忍毘古」である[1])の10世孫の兄多毛比が初代无邪志国造に任命されたという。ただし「兄多毛比」は度会延佳本による表記で[2]、神宮文庫本は「兄多比」と表記している[3]。この国造任命は成務天皇5年秋9月のことと考えられている[1]。
- 系図(『埼玉叢書. 第3巻』内「武州一宮氷川神社書上」内「西角井從五位物部忠正家系」441-442頁)は天穂日命(天菩比命)―天夷鳥命(建比良鳥命)―出雲建子命―神狭命(二井之宇迦諸忍之神狭命)―身狭耳命―五十根彦命―天速古命―天日古曽乃己呂命―忍兄多毛比命―若伊志治命―兄多毛比命となっており、これに従えば兄多毛比は神狭の10世孫ではなく7世孫となる。
氏族
无邪志国造の系図については、『埼玉叢書. 第3巻』内「武州一宮氷川神社書上」内「西角井從五位物部忠正家系」442・443頁を参照。
- 丈部氏
- 武蔵氏
一族
以下に記載する氏族などが一族である。
本拠
支配領域
无邪志国造の支配領域は当時无邪志国と呼ばれていた地域である。无邪志国はのちの令制国の武蔵国にあたる[5]。ただし、秩父(知々夫国造の支配する知々夫国だった)を除いた範囲をさすとする説もある。現在の埼玉県と東京都の境界周辺、荒川流域にある[6]北足立郡・入間郡・旧大宮市[5]に当たる。
地名の起源については、武蔵国#「武蔵」の国名を参照。
无邪志国は知々夫国造の支配した知々夫国と合わさって7世紀に令制国の武蔵国となった。当初武蔵国は東山道に所属していたが、771年に東海道に移管された。
氏神
- 大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、北緯35度40分02.87秒 東経139度28分44.19秒)
- 東京都府中市(旧多摩郡)にある神社。武蔵国総社。祭神は大国主と同神とされる大國魂大神。景行天皇41年(111年)5月5日に大神の託宣に依って造られたのが起源である[7]。出雲氏(姓は臣。出雲国造の氏族。)の祖天穂日の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている[8]。摂社に坪宮[注 1](つぼのみや、府中市本町2-12[9]。大國魂神社#摂社を参照。)があり、坪宮社・国造神社ともいう。坪宮の祭神は初代无邪志国造兄多毛比であるが、出雲臣天穂日の後で初代武蔵国造兄多気比であるともいう[9]。兄多毛比(兄多気比)が国造に任ぜられ、以来代々の国造が当社に奉仕してその国造の霊を祀ったという[9]。大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)中の5月5日に御旅所へ神輿が渡御する折に当社より奉幣を献ずる式は「国造代奉幣式」と称されている[9]。
- 氷川神社(ひかわじんじゃ、北緯35度55分0.30秒 東経139度37分47.04秒)
- 埼玉県さいたま市大宮区(旧足立郡)にある神社。武蔵国一宮または三宮[注 2]。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命[10]。社記によると孝昭天皇3年(『日本書紀』に記述されている年を機械的に西暦に置き換えれば紀元前473年に当たる)4月未の日の創立と伝えられる[10]。景行天皇(第12代天皇)の時代に日本武は当神社に参拝し東夷鎮定の祈願をしたと伝わっている[10]。また成務天皇(第13代天皇)の時代に兄多毛比は出雲族をひきつれてこの地に移住し[11]、祖神を祀って氏神として[11]、当社を奉崇した[10]という。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」(ひかわ、現在の斐伊川(ひいかわ))に由来するという説がある。
- 物部天神社
- 埼玉県所沢市(旧入間郡)の北野天神社(きたのてんじんしゃ、北緯35度47分21.32秒 東経139度25分43.16秒)を構成する三社のうちの一社。祭神は物部氏の祖神饒速日命。
墓
- 埼玉古墳群(さきたまこふんぐん、北緯36度07分42秒 東経139度28分46秒)
- 芝丸山古墳(しばまるやまこふん、北緯35度39分16.65秒 東経139度44分53.07秒)
人物
以下に武蔵国造を務めた著名な者を記載する。
子孫
- 大部強頸(おおとも の こわくび、生年不詳 - 仁徳天皇11年(323年[注 3]))
- 小杵(おき・おぎ、生年不詳 - 安閑天皇元年(534年[注 4])閏12月)
- 大伴赤麻呂(おおとも の あかまろ、生年不詳 - 天平勝宝元年(749年、ただしこの場合750年))
- と書かれていたという。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 『埼玉叢書. 第3巻』内「武州一宮氷川神社書上」内「西角井從五位物部忠正家系」442頁。
- ^ 『国史大系. 第7巻』
- ^ 『新訂増補國史大系 第7巻』
- ^ 武蔵国(平凡社 埼玉県) & 2004年.
- ^ a b 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
- ^ a b 无邪志国造 ( 武蔵 ) - 日本辞典(2018年3月1日 午前8時24分(JST)閲覧)
- ^ 由緒・歴史 - 大國魂神社(東京・府中)(2018年3月2日午前0時(夜)41分(JST)閲覧)
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- ^ a b c d 坪宮 - 大國魂神社(2018年2月1日午後3時28分(JST)閲覧)
- ^ a b c d 氷川神社について - 武蔵一宮 氷川神社(2018年7月2日午前10時54分(JST)閲覧)
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』。
- ^ 『中野区史. 上巻』。
参考文献
- 「埼玉郡」『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、2004年。ISBN 4582910300。
- 『國史大辭典』(吉川弘文館)
- 坂本太郎・平野邦雄『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)
- 『日本史広辞典』(山川出版社)
- 『神道大辞典』(臨川書店)
- 経済雑誌社 編『国史大系. 第7巻』経済雑誌社、1901年、凡例1頁,本文407頁頁 。2017年12月25日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション。
- 黒板勝美 編『新訂増補國史大系 第7巻』(新装版)吉川弘文館、1998年、先代舊事本紀凡例1頁,先代舊事本紀本文142頁頁。ISBN 4642003088。
- 柴田常恵, 稲村坦元 編『埼玉叢書. 第3巻』三明社、1929年、441-450頁 。2018年2月6日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、234コマ目。
- 太田亮『姓氏家系大辞典. 第1巻』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、1233頁 。2018年3月30日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、690コマ目。
- 東京都中野区『中野区史. 上巻』東京都中野区、1943年、112頁 。2018年6月24日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、100コマ目。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三 編『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(再版)角川書店、1988年7月1日、716頁。
- 竹内理三等 編『日本歴史地図 原始・古代編 下』柏書房、1982年、289頁。