「アレイスター・クロウリー」の版間の差分
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'''アレイスター・クロウリー<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]</ref>'''(''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[英国|イギリス]]の[[隠秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術家|en|Ceremonial magic}}、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。[[セレマ|セレマ思想]]を提唱して「[[法の書]]」を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。 |
'''アレイスター・クロウリー<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]</ref>'''(''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[英国|イギリス]]の[[隠秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術家|en|Ceremonial magic}}、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学の[[セレマ|セレマ思想]]を提唱して「[[法の書]]」を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。 |
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== 経歴 == |
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クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。[[福音派|キリスト教福音派]]の敬虔な信徒であった両親の方針で[[ミッションスクール|ミッション系スクール]]で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に尊敬する父親と死別した事も彼を深く打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。 |
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⚫ | 父が残した莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入した彼はそこで数々の秘儀知識を習得したが、1900年に起きた内紛で師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と共に追放されると、[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲し自身の魔術実践スタイルに磨きをかけた。その間に世界一周旅行もして見聞を広めた。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在からの幻聴を「[[法の書]]」として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点となった。 |
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ハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争から師匠[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。その中で長女リリスが誕生し喜びに包まれた。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、[[ヒマラヤ山脈]]で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。その為、クロウリーは愛娘を失った悲嘆の矛先をローズに向けてしまい二人の仲も急速に冷え込む事になった。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。 |
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⚫ | 1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称して[[セレマ|セレマ思想]]の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。1912年になるとドイツのオカルト団体「[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]」の指導者{{仮リンク|テオドール・ロイス|en|Theodor Reuss}}に見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。1920年にクロウリーは念願の{{仮リンク|セレマ修道院|en|Abbey of Thelema}}を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を送った。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。 |
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イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。前年に死去した[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、1924年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂団の同志に招かれての活動を続けた。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して[[東方聖堂騎士団|東方聖堂団]]の運営に力を注ぐようになった。[[セレマ神秘主義|セレマ思想]]の伝道にも取り組み続けた。なお、これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産はどんどん目減りしていった。 |
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生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[異端|現代異端思想]]と[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産「汝の意思することを行なえ」をモットーとする[[セレマ|セレマ思想]]は、その後の[[ウイッカ|ウィッカ]]、[[ネオペイガニズム]]、[[ケイオスマジック]]、そして[[サタニズム]]の根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。 |
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⚫ | 数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]も彼に興味を示しており『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにクロウリーの肖像が見られる。 |
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== 年譜 == |
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* [[1875年]][[10月12日]] - 英国[[ウォリックシャー]]州[[レミントン・スパー]]の地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(''Edward Alexander'')と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派[[プリマス・ブレザレン]]の信徒であった。 |
* [[1875年]][[10月12日]] - 英国[[ウォリックシャー]]州[[レミントン・スパー|レミントンスパー]]の地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(''Edward Alexander'')と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派[[プリマス・ブレザレン]]の信徒であった。 |
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* 1883年 - [[ブラザレン派]]の寄宿学校に入るが、1年余りで退学した。以降の彼は厳格なキリスト教教育に反発するようになる。 |
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* 1887年 - 父エドワード死去。父 |
* 1887年 - 父エドワード死去。父を深く尊敬していたクロウリーはひどく打ちのめされ、非行にも手を染め始めたという。父が残した莫大な遺産は彼の後々までの活動資金になった。 |
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* 189x年 - 二つの[[パブリックスクール]]に入退学した後に、イーストボーン・カレッジで化学を専攻した。 |
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*1895年 - [[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学する。 |
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* 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った魔術結社・[[黄金の夜明け団]]のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。 |
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* 1900年 - 黄金の夜明け団から師メイザースとともに追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、セイロン島を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。 |
* 1900年 - 黄金の夜明け団から師[[マグレガー・メイザース|M・メイザース]]とともに追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、[[セイロン島]]を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。 |
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*1902年 - インドから[[ヒマラヤ山脈]]に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に再び出航してパリに到着する。 |
*1902年 - インドから[[ヒマラヤ山脈]]に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。 |
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* 1904年 - 妻ローズと結婚し、ハネムーン中に訪れたエジプトのカイロで[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作「[[法の書]]」の内容となった。 |
* 1904年 - 妻ローズと結婚し、ハネムーン中に訪れたエジプトの[[カイロ]]で[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作「[[法の書]]」の内容となった。 |
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* 1905年 - 師[[マグレガー・メイザース|メイザース]]と仲違いする。長女リリスが誕生する。 |
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*1923年 - O.T.O.の指導者ロイスが死去しその後継者に指名されて団体を受け継ぐ。以降のクロウリーはこの東方聖堂団(O.T.O.)の運営と発展に力を注いだ。 |
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*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。 |
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*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー|I・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。 |
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*1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。 |
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*1939年 - 第二次世界大戦勃発前にイギリスに帰還する。 |
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== 魔法名 == |
== 魔法名 == |
2019年5月29日 (水) 02:35時点における版
アレイスター・クロウリー Aleister Crowley | |
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OTO主宰時の1919年 | |
誕生 |
エドワード・アレグザンダー・クロウリー Edward Alexander Crowley 1875年10月12日 イングランド、ウォリックシャー州ロイヤル・レミントン・スパー |
死没 |
1947年12月1日(72歳没) イングランド、ヘイスティングズ |
職業 | オカルティスト、著述家、登山家 |
国籍 | イギリス |
最終学歴 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ中退 |
代表作 |
『法の書』 『第四の書』 |
配偶者 | ローズ・イーディス・ケリー |
パートナー |
リーラ・ウォドル リーア・ハーシグ |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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アレイスター・クロウリー[1](Aleister Crowley 発音、1875年10月12日 - 1947年12月1日)は、イギリスのオカルティスト、儀式魔術家、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱して「法の書」を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。
経歴
1875~1904年(少年~青年期)
クロウリーは、英国ウォリックシャー州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。キリスト教福音派の敬虔な信徒であった両親の方針でミッション系スクールで教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に尊敬する父親と死別した事も彼を深く打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。
父が残した莫大な遺産を相続し、1895年にケンブリッジ大学に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「黄金の夜明け団」に参入した彼はそこで数々の秘儀知識を習得したが、1900年に起きた内紛で師匠メイザースと共に追放されると、ネス湖の畔に購入した邸宅で半ば隠棲し自身の魔術実践スタイルに磨きをかけた。その間に世界一周旅行もして見聞を広めた。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトのカイロで魔術儀式を行い、その中でアイワスと名乗る霊的存在からの幻聴を「法の書」として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求するセレマ思想提唱の起点となった。
1905~1923年(壮年期)
ハネムーンを終えたクロウリーは、セレマ思想の価値を巡る論争から師匠メイザースと対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。その中で長女リリスが誕生し喜びに包まれた。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、ヒマラヤ山脈でカンチェンジュンガ登頂に挑戦し、またビルマの黄金の三角地帯では阿片の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこでチフス熱に感染したのが原因だった。その為、クロウリーは愛娘を失った悲嘆の矛先をローズに向けてしまい二人の仲も急速に冷え込む事になった。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「銀の星」を結成した。自身を魔術師エリファス・レヴィの生まれ変わりと称してセレマ思想の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年にアルコール依存症に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。1912年になるとドイツのオカルト団体「東方聖堂団」の指導者テオドール・ロイスに見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者と書き立てられた。1920年にクロウリーは念願のセレマ修道院をシチリア島に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を送った。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。
1924~1947年(中高年~老年期)
イタリアを追われた後のクロウリーは、チュニジアに向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。前年に死去した東方聖堂団の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、1924年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂団の同志に招かれての活動を続けた。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して東方聖堂団の運営に力を注ぐようになった。セレマ思想の伝道にも取り組み続けた。なお、これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産はどんどん目減りしていった。
1939年の第二次世界大戦勃発直前にクロウリーは母国イギリスに帰還した。この頃のすでに還暦を過ぎたクロウリーはほとんど無一文になっていたので、各地の弟子達に生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。晩年のクロウリーはその波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に、英国イーストサセックス州の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。享年72歳であった。
没後の世評
生前のクロウリーは麻薬常習やバイセクシャルといった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、現代異端思想とカウンターカルチャーに大きな影響を与えた稀有の人物として人々の記憶に刻まれることになった。また彼の遺産「汝の意思することを行なえ」をモットーとするセレマ思想は、その後のウィッカ、ネオペイガニズム、ケイオスマジック、そしてサタニズムの根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。
数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、タロット愛好者の間では名作トート・タロットの考案者として知られている。ヘヴィメタルファンには、オジー・オズボーンのアルバム『ブリザード・オブ・オズ』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、映画監督のケネス・アンガーらがいる。ビートルズも彼に興味を示しており『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにクロウリーの肖像が見られる。
年譜
- 1875年10月12日 - 英国ウォリックシャー州レミントンスパーの地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(Edward Alexander)と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派プリマス・ブレザレンの信徒であった。
- 1883年 - ブラザレン派の寄宿学校に入るが、1年余りで退学した。以降の彼は厳格なキリスト教教育に反発するようになる。
- 1887年 - 父エドワード死去。父を深く尊敬していたクロウリーはひどく打ちのめされ、非行にも手を染め始めたという。父が残した莫大な遺産は彼の後々までの活動資金になった。
- 189x年 - 二つのパブリックスクールに入退学した後に、イーストボーン・カレッジで化学を専攻した。
- 1895年 - ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学する。
- 1898年 - ケンブリッジ大学卒業間際に出会った魔術結社・黄金の夜明け団のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。
- 1900年 - 黄金の夜明け団から師M・メイザースとともに追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、セイロン島を回り、インドを訪れてヨーガも学んだ。
- 1902年 - インドからヒマラヤ山脈に向かいK2登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。
- 1904年 - 妻ローズと結婚し、ハネムーン中に訪れたエジプトのカイロでアイワスという名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作「法の書」の内容となった。
- 1905年 - 師メイザースと仲違いする。長女リリスが誕生する。
- 1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈のカンチェンジュンガ登頂に挑戦した後に、ビルマ、中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む。
- 1907年 - 次女ローラが誕生する。魔術結社・銀の星(A∴A∴)を結成し、春秋分点(The Equinox)と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。
- 1909年 - 妻ローズと離婚する。アルジェリアに滞在し数々の魔術儀式を行なう。
- 1912年 - ドイツの秘教団体・東方聖堂団(O.T.O.)の指導者テオドール・ロイスに見込まれてイギリス支部長となる。団内儀式と教義作成もまかされるようになった。
- 1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
- 1920年 - シチリア島のチェファルにテレマ僧院を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。
- 1923年 - O.T.O.の指導者ロイスが死去しその後継者に指名されて団体を受け継ぐ。以降のクロウリーはこの東方聖堂団(O.T.O.)の運営と発展に力を注いだ。
- 1924年 - 健康状態が悪化し、チュニジアで麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。
- 1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年にI・リガルディーが秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。
- 1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。
- 1939年 - 第二次世界大戦勃発前にイギリスに帰還する。
- 1947年12月1日 - 英国イーストサセックス州ヘイスティングスの地で死去。享年72歳。
魔法名
魔術結社内で用いられる個人名。ラテン語の銘(モットー)を用いることが多い。
- Perdurabo (ペルデュラボー) (0°=0□, G∴D∴) - ラテン語で「われ耐え忍ばん」。
- ΟΥ ΜΗ (オミクロン・ユプシロン ミュー・エータ) (7°=4□, A∴A∴)
- Vi Veri Vniversum Vivus Vici (8°=3□, A∴A∴) - ラテン語で「われ、真実の力によりて生きながらに万象に打ち克てり」。
- To Mega Therion (ト・メガ・セリオン)〔Τὸ Μεγα Θηρίον (ト・メガ・テーリオン)〕(9°=2□, A∴A∴) - ギリシア語で「大いなる獣」。
- Baphomet (バフォメット)(X°, O.T.O.)
著書
日本語訳されたもののみ記載。
- 『法の書』 Sor. Raven訳(O.T.O. Japan公式日本語訳、詳細は法の書の項を参照)
- 『法の書』 島弘之訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02438-1
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(上)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02590-6
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(下)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02594-4
- (新装版)『魔術 - 理論と実践』 島弘之他訳、国書刊行会、1997年、ISBN 978-4-336-04043-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集1 神秘主義と魔術』 島弘之訳、国書刊行会、1986年、ISBN 978-4-336-02615-6
- 『アレイスター・クロウリー著作集2 トートの書』 榊原宗秀訳、1991年、ISBN 978-4-336-03095-5
- (新装版)『トートの書』 榊原宗秀訳、2004年、ISBN 978-4-336-04647-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集3 麻薬常用者の日記』 植松靖夫訳、国書刊行会、1987年、ISBN 978-4-336-02616-3
- 改訳新装版、同上 全3巻、2017年
- 『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』 飯野友幸訳、国書刊行会、1988年、ISBN 978-4-336-02617-0
- 『アレイスター・クロウリー著作集5 777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、1992年、ISBN 978-4-336-03096-2
- (新装版)『777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、2013年、ISBN 978-4-336-05781-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集別巻2 アレイスター・クロウリーの魔術日記』 スティーヴン・スキナー編、江口之隆訳、国書刊行会、1998年、ISBN 978-4-336-03097-9
- 『ムーンチャイルド』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1990年、ISBN 978-4-488-55201-5
- 『黒魔術の娘』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1991年、ISBN 978-4-488-55202-2
登場作品
小説
- トマス・ウィーラー『神秘結社アルカーヌム』
- ランダル・コリンズ『シャーロック・ホームズ対オカルト怪人』
- サマセット・モーム『魔術師』(The Magician) - 魔術師オリヴァー・ハドゥーはクロウリーがモデル。
- コリン・ウィルソン『ジェラード・ソーム氏の性の日記』- 自称魔術師カラドック・カニンガムはクロウリーがモデル。
- 鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』 - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アレイスター本人が現代まで生き延びたという設定であり、作品の根幹を担うキーキャラクターである。アニメ版の担当声優は関俊彦。
漫画
- 氷室奈美『タロットウォーズ』 - 死後のクロウリーが幽体(アストラル体)で登場。
- 星野桂『D.Gray-man』 - 吸血鬼のようなエクソシストがアレイスター・クロウリー三世という名で登場。作者はキャラクター設定において、「ユースケ・サンタマリアがモデルだ」と公言している。
- CLAMP『カードキャプターさくら』 - 精霊を封印するクロウカードの制作者クロウ・リードの名前のモデル。
- 外薗昌也『犬神』 - 作中に登場する「23細胞」命名の由来となる「生命の樹宇宙論」の提唱者。
アダルトアニメ
- 『新・バイブルブラック』 - アレイスターの孫娘、ジョディ・クロウリーが登場。
ゲーム
- 『真・女神転生II』 - 魔界ネツァクのボスとして登場。
テレビドラマ
- 『木曜の怪談』 - 怪奇倶楽部の小学生編でクラスターに解説された。
音楽
- 「Mr. Crowley」 - オジー・オズボーンの楽曲。アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説』に収録。
脚注
関連項目
外部リンク
- Aleister Crowleyの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Aleister Crowleyに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- アレイスター・クロウリーの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- The Skeptic's Dictionary 日本語版 アレイスター・クロウリーの項