「小鶴誠」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
Sugayoshihide22 (会話 | 投稿記録) |
||
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
46行目: | 46行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
=== プロ入り前 === |
=== プロ入り前 === |
||
[[飯塚商業高等学校|飯塚商業専修学校]]を経て、[[社会人野球]]の[[新日本製鐵八幡硬式野球部|八幡製鐵所]]でプレー。軍需工場のため転職が認められていなかったことから、[[日本大学]]進学の名目で出身地にちなんだ'''飯塚誠'''の[[偽名]]を使い、これを[[登録名]]に用いて{{by|1942年}}に[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]に入団。場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。 |
[[飯塚商業高等学校|飯塚商業専修学校]]を経て、[[社会人野球]]の[[新日本製鐵八幡硬式野球部|八幡製鐵所]]でプレー。軍需工場のため転職が認められていなかったことから、[[日本大学]]法学部進学の名目で出身地にちなんだ'''飯塚誠'''の[[偽名]]を使い、これを[[登録名]]に用いて{{by|1942年}}に[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]に入団。場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。 |
||
=== 現役時代 === |
=== 現役時代 === |
||
[[File:Makoto Kozuru Scan10054.JPG|right|thumb|200px|小鶴の打席での構え]] |
[[File:Makoto Kozuru Scan10054.JPG|right|thumb|200px|小鶴の打席での構え]] |
||
1年目からレギュラーとして活躍。{{by|1944年}}は応召のため球団に在籍しなかった。小鶴は晩年に「大学に進学したのは、大学で勉強するつもりはなく、野球をするために[[日本大学]] |
1年目からレギュラーとして活躍。{{by|1944年}}は応召のため球団に在籍しなかった。小鶴は晩年に「大学に進学したのは、大学で勉強するつもりはなく、野球をするために[[日本大学]]法学部に通った」と振り返っている<ref>「[[プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜]]([[テレビ愛知]])」のゲスト出演時の発言。</ref>。引退後、日本大学[[法学部]]卒業。 |
||
{{by|1946年}}に[[中日ドラゴンズ|中部日本軍]]に復帰するものの、{{by|1948年}}に球団代表の[[赤嶺昌志]]が辞任に追い込まれると、後を追って退団。[[北海道日本ハムファイターズ|急映フライヤーズ]]に移籍した。この間、のちに[[松竹ロビンス]]の監督も務めた[[新田恭一]]に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つ'''ゴルフスイング打法'''を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは新鮮であった。新田が元[[ゴルファー]]だったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の[[流行語]]となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。 |
{{by|1946年}}に[[中日ドラゴンズ|中部日本軍]]に復帰するものの、{{by|1948年}}に球団代表の[[赤嶺昌志]]が辞任に追い込まれると、後を追って退団。[[北海道日本ハムファイターズ|急映フライヤーズ]]に移籍した。この間、のちに[[松竹ロビンス]]の監督も務めた[[新田恭一]]に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つ'''ゴルフスイング打法'''を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは新鮮であった。新田が元[[ゴルファー]]だったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の[[流行語]]となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。 |
2019年7月24日 (水) 01:19時点における版
松竹ロビンス時代の小鶴誠 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県飯塚市 |
生年月日 | 1922年12月17日 |
没年月日 | 2003年6月2日(80歳没) |
身長 体重 |
176 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1942年 |
初出場 | 1942年 |
最終出場 | 1958年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1980年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
小鶴 誠(こづる まこと、1922年12月17日 - 2003年6月2日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ。
美しい打撃フォームで、風貌もジョー・ディマジオに似ていたことから『和製ディマジオ』と呼ばれた[1]。
経歴
プロ入り前
飯塚商業専修学校を経て、社会人野球の八幡製鐵所でプレー。軍需工場のため転職が認められていなかったことから、日本大学法学部進学の名目で出身地にちなんだ飯塚誠の偽名を使い、これを登録名に用いて1942年に名古屋軍に入団。場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。
現役時代
1年目からレギュラーとして活躍。1944年は応召のため球団に在籍しなかった。小鶴は晩年に「大学に進学したのは、大学で勉強するつもりはなく、野球をするために日本大学法学部に通った」と振り返っている[2]。引退後、日本大学法学部卒業。
1946年に中部日本軍に復帰するものの、1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って退団。急映フライヤーズに移籍した。この間、のちに松竹ロビンスの監督も務めた新田恭一に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つゴルフスイング打法を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは新鮮であった。新田が元ゴルファーだったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の流行語となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。
1949年に大映スターズに移籍した後、バットを力まずに振る感覚を身につけ、打撃奨励のためのラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが採用されたこともあり、飛躍的に打撃成績が向上した。同年は打率.361で首位打者を獲得。
1950年、松竹ロビンスに移籍。岩本義行、大岡虎雄、金山次郎らと共に「水爆打線」と呼ばれた強力打線を形成した。この年は前年に生まれた藤村富美男の日本記録の46本を更新する47本を放ち、さらに11月2日の対大洋ホエールズ戦(日生球場)の3回において、大洋の今西錬太郎からレフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放つ[3][4]。シーズンを通して130試合の出場で打率.355・51本塁打・161打点の成績[5]でリーグ優勝に貢献。打率は.362の藤村富美男に及ばなかったものの、本塁打・打点の2冠とシーズンMVPを獲得した。この年は28盗塁を記録し、日本球界唯一の50本塁打20盗塁を達成している(この記録は当時、メジャーリーグでも達成者がいなかった)。しかしシーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、日本シリーズでは活躍できなかった。なお、川上哲治の「ボールが止まって見えた」という言葉があるが、これは実際には小鶴が50本塁打を達成した時に言ったものであり、「知名度のない小鶴では記事にならないから」という理由で報知の記者が川上が発言した事にしたものである[6][7]。
翌1951年からは飛ぶボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。治療法も無い時代であったため、腰の痛みで感覚が無くなる程だったという。
1953年に広島カープへ移籍。石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。計6年間勝率が低かった当時のチームを支えた。
1958年に現役引退。打撃のみならず、通算240盗塁を記録した俊足と、守備における強肩も評価が高かった。
1958年に現役引退したが、実際は同年のシーズンオフに「チーム若返り策」の名目で戦力外を告げられていた。その時、小鶴は球団代表の河口豪に対して、「(自分より)実力の劣る選手がいるのに何故自分なのか。まだまだ現役でやれる自信がある」「この球団は広島閥が強すぎる」「引退を勧めるならば、コーチ就任の話ぐらいあってもいいのでは」と不満をぶつけている。それに対して河口は「君は性格的にコーチは向いていないだろう。それに現役時代より給料は格段に落ちる。ならば勇退とした方がすっきりとするのではないか」と説得し、小鶴も受け入れた。後に河口は、球団幹部だった松田恒次から、「小鶴に引退してもらったのは白石監督をやりやすくするためだ」と聞かされたという。
その後、白石率いるカープは1960年に球団初の勝率5割を達成したが、白石から門前真佐人が監督を引き継いだ1961年~1962年は、チーム成績は低迷し、観客動員数も落ち込んでしまう。危機感を抱いた球団社長の伊藤信之は小鶴を監督として招聘しようとするが、球団役員の意志統一が図れず、伊藤は辞任してしまう。代わって球団社長に就任した松田恒次は白石を監督として再招聘したため、小鶴がカープに復帰する機会は永遠に失われてしまった[8]。
引退後
引退後はラジオ関東解説者(1959年 - 1963年)を経て、国鉄・サンケイ(1964年 - 1965年一軍打撃コーチ)、阪神(1968年一軍打撃コーチ, 1969年 - 1976年東京駐在スカウト)でコーチ・スカウトを歴任。阪神時代は投手として入団した桑野議を打者に転向させたほか、掛布雅之の入団テストを担当。球界から離れた後は東京都練馬区でビル管理会社を経営していた。還暦までバッティングセンターに通い続け、毎日200球ほど打ち込み、打撃を追求し続けていたという打撃の職人であった。
2003年6月2日、心室細動の為、東京都豊島区の病院で死去。満80歳没。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1942 | 名古屋 中部日本 |
102 | 417 | 370 | 35 | 80 | 9 | 9 | 2 | 113 | 29 | 8 | 7 | 1 | -- | 45 | -- | 1 | 49 | -- | .216 | .303 | .305 | .608 |
1943 | 80 | 349 | 314 | 31 | 65 | 10 | 4 | 3 | 92 | 21 | 4 | 4 | 3 | -- | 32 | -- | 0 | 20 | -- | .207 | .280 | .293 | .573 | |
1946 | 96 | 427 | 374 | 54 | 102 | 21 | 7 | 10 | 167 | 63 | 6 | 7 | 1 | -- | 50 | -- | 2 | 40 | -- | .273 | .362 | .447 | .808 | |
1947 | 114 | 432 | 375 | 43 | 79 | 17 | 5 | 9 | 133 | 38 | 9 | 2 | 0 | -- | 57 | -- | 0 | 49 | -- | .211 | .315 | .355 | .669 | |
1948 | 急映 | 113 | 483 | 429 | 57 | 131 | 14 | 7 | 16 | 207 | 65 | 27 | 9 | 1 | -- | 52 | -- | 1 | 66 | -- | .305 | .382 | .483 | .864 |
1949 | 大映 | 129 | 577 | 501 | 112 | 181 | 26 | 8 | 24 | 295 | 92 | 15 | 6 | 0 | -- | 75 | -- | 1 | 45 | -- | .361 | .445 | .589 | 1.034 |
1950 | 松竹 | 130 | 606 | 516 | 143 | 183 | 28 | 6 | 51 | 376 | 161 | 28 | 8 | 0 | -- | 89 | -- | 1 | 53 | 16 | .355 | .450 | .729 | 1.179 |
1951 | 97 | 441 | 387 | 68 | 101 | 16 | 4 | 24 | 197 | 85 | 20 | 3 | 0 | -- | 54 | -- | 0 | 43 | 11 | .261 | .351 | .509 | .861 | |
1952 | 119 | 504 | 450 | 57 | 128 | 24 | 0 | 17 | 203 | 49 | 19 | 7 | 0 | -- | 51 | -- | 1 | 44 | 14 | .284 | .359 | .451 | .810 | |
1953 | 広島 | 130 | 557 | 488 | 80 | 138 | 32 | 2 | 14 | 216 | 74 | 33 | 5 | 0 | -- | 68 | -- | 1 | 57 | 14 | .283 | .372 | .443 | .814 |
1954 | 121 | 503 | 454 | 67 | 135 | 25 | 3 | 15 | 211 | 72 | 20 | 7 | 0 | 2 | 47 | -- | 0 | 48 | 16 | .297 | .362 | .465 | .827 | |
1955 | 130 | 549 | 494 | 62 | 141 | 17 | 7 | 18 | 226 | 67 | 26 | 7 | 5 | 4 | 46 | 11 | 0 | 68 | 15 | .285 | .344 | .457 | .801 | |
1956 | 122 | 482 | 428 | 48 | 111 | 12 | 0 | 11 | 156 | 43 | 16 | 4 | 3 | 2 | 48 | 5 | 1 | 60 | 4 | .259 | .334 | .364 | .699 | |
1957 | 107 | 422 | 387 | 31 | 99 | 12 | 0 | 8 | 135 | 38 | 7 | 4 | 1 | 5 | 28 | 5 | 1 | 70 | 10 | .256 | .304 | .349 | .653 | |
1958 | 65 | 200 | 174 | 21 | 43 | 4 | 0 | 8 | 71 | 26 | 2 | 2 | 2 | 5 | 19 | 1 | 0 | 29 | 8 | .247 | .313 | .408 | .721 | |
通算:15年 | 1655 | 6949 | 6141 | 909 | 1717 | 267 | 62 | 230 | 2798 | 923 | 240 | 82 | 17 | 18 | 761 | 22 | 10 | 741 | 108 | .280 | .359 | .456 | .815 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高
- 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業(産業軍)に、1946年に中部日本(中部日本軍)に球団名を変更
タイトル
表彰
- 最高殊勲選手(MVP):1回 (1950年)
- ベストナイン:2回 (外野手部門:1949年、1950年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:1980年)
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1953年4月28日 ※史上17人目
- その他の記録
- シーズン最多得点:143 (1950年)
- シーズン最多打点:161 (1950年)
- シーズン最多塁打:376 (1950年)
- 10試合連続打点 (1950年5月17日 - 5月31日)
- オールスターゲーム出場:3回 (1951年、1953年、1956年)
背番号
- 32 (1942年 - 1943年、1946年 - 1947年)
- 24 (1948年)
- 3 (1949年 - 1952年)
- 15 (1953年 - 1958年)
- 61 (1964年 - 1965年)
- 57 (1968年)
登録名
- 飯塚 誠 (いいづか まこと、1942年 - 1942年8月31日)
- 小鶴 誠 (こづる まこと、1942年9月1日 - )
脚注
- ^ 週刊ベースボール2012年4月16日号 P78
- ^ 「プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜(テレビ愛知)」のゲスト出演時の発言。
- ^ ベースボールマガジン2012年1月号51ページ
- ^ 1963年に野村克也(52本)に破られるまでは日本記録で、1964年に王貞治(55本)に破られるまではセ・リーグ記録であった。
- ^ 161打点・143得点・376塁打は現在でも日本プロ野球記録である
- ^ 【乾坤一筆】わが故郷が生んだ大打者「小鶴誠」
- ^ 最高の野球人 川上哲治
- ^ 参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)より
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 小鶴誠 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- この人にこの技あり 第18回:小鶴誠の「新田式打法」(ベースボール・マガジン社 SportsClick より)