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*『日中問題私見』([[酒井書店]]、1973年)
*『日中問題私見』([[酒井書店]]、1973年)
*『私のみた日本外交』(慶應通信、1976年)
*『私のみた日本外交』(慶應通信、1976年)
*『学長の手帖から――学びの体験 教育の改革』([[リクルート]]出版部、1985年)
*『学長の手帖から――学びの体験 教育の改革』([[リクルートホールディングス]]出版部、1985年)
*『私の夢私の軌跡』(慶應通信、1993年)
*『私の夢私の軌跡』(慶應通信、1993年)
*『禍福はあざなえる縄のごとし』([[小学館]]、1997年)ISBN 4098373343 ISBN 978-4098373345
*『禍福はあざなえる縄のごとし』([[小学館]]、1997年)ISBN 4098373343 ISBN 978-4098373345

2019年9月13日 (金) 06:41時点における版

石川 忠雄
いしかわ ただお
生誕 日本の旗 日本東京府神田
死没 (2007-09-25) 2007年9月25日(85歳没)
研究分野 中国近現代史
研究機関 慶應義塾大学
出身校 慶應義塾大学学士法学博士
宇都宮陸軍飛行学校
主な業績 毛沢東研究・中国共産党
影響を
受けた人物
及川恒忠
影響を
与えた人物
徳田教之
山田辰雄
小島朋之
国分良成
小此木政夫
主な受賞歴 勲一等旭日大綬章1995年
文化勲章2000年
プロジェクト:人物伝
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石川 忠雄(いしかわ ただお、1922年(大正11年)1月21日 - 2007年(平成19年)9月25日)は、日本中国現代史家慶應義塾長を戦後最長、鎌田栄吉以来歴代2番目の長さとなる4期16年務めた。

1991年文化功労者1995年勲一等旭日大綬章2000年文化勲章受章[1]。弟に石川明 (法学者)がいる[2]

概要

中国政治史研究者で、及川恒忠に師事[1]。初期に中国憲法史と中国共産党史を研究[1]。主著は中国共産党に関する先駆的業績となった『中国共産党史研究』[1]。次いで中華人民共和国の政治及び外交の研究を行ない、同時に日中国交正常化へ至る政策決定にも関与した。1984年から日中友好21世紀委員会の日本側座長を務め、日中関係の基礎作りに邁進した。

1956年よりハーバード大学に赴任し、ベンジャミン・シュウォルツ博士他中国研究者と交わり、共産主義中国の地域研究を学ぶ[1]。教え子に橋本龍太郎や、中国政治研究者の徳田教之山田辰雄小島朋之国分良成、朝鮮政治研究者の小此木政夫などがいる。

大学行政方面の活動でも知られ、大学審議会会長として大学の脱レジャーランド化を推し進め、臨時教育審議会会長代理として大学入試センター試験の新設と慶大入試での導入を推進した(結果、慶大入試では自身の出身学部である法学部がセンター試験方式を、医学部が部分的導入を実現した)。慶應義塾長としては、大学改革の先駆けとして1990年の湘南藤沢キャンパス(SFC)開設に尽力した。現代中国研究者として出発しながらも、比較的若い年齢の頃からこうした大学行政・文部省の文教行政に深く関与したため研究への時間が割けず、本来の研究対象である現代中国研究に関する業績は1970年代後半までに集中している[1]彼の勲一等叙勲や文化功労者と文化勲章受章も、中国研究の功績が認められてのものではなく、大学行政、とりわけ文部省の文教行政に協力したことへの功績が認められてのことである。[要出典]

他、大学設置審議会会長、日本私立大学連盟会長、全私学連合代表、青少年問題審議会会長等を歴任。

経歴

東京府神田出身。鳶職人で、町火消しを務めるの父親の経済的な困窮で苦学を余儀なくされる。

著書

単著

共編著

翻訳

記念論集

  • 石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現代中国と世界――その政治的展開』(慶應通信、1982年)ASIN B000J7MSTA
  • 石川忠雄教授退職記念号『法学研究』第60巻第1号(1987年)ISSN 0389-0538

出典

  1. ^ a b c d e f 国分良成「石川忠雄名誉会員を悼んで」『アジア研究』第54巻第1号、アジア政経学会、2008年、1-2頁、doi:10.11479/asianstudies.54.1_1 
  2. ^ 『現代日本人名録2002 1巻 あ~かと』日外アソシエーツ、2001、513頁

関連項目

外部リンク