門野幾之進
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門野 幾之進(かどの いくのしん、1856年4月18日(安政3年3月14日) - 1938年(昭和13年)11月18日)は、日本の実業家で千代田生命保険、日本徴兵保険初代社長。貴族院勅選議員。勲四等。号は靄渓[1]。
経歴
[編集]志摩鳥羽藩士・門野豊右衛門の長子[1]。実弟に大倉組副頭取の門野重九郎がいる[2]。1869年(明治2年)4月、鳥羽藩貢進生として上京し、慶應義塾に入学[1]。同門に中上川彦次郎や後藤牧太がいた[3]。1871年(明治4年)には教員となる[1]。1876年(明治9年)から1879年(明治12年)まで共慣義塾や三菱商業学校、土佐の立志学舎でも教鞭をとる[1]。
1893年(明治26年)自由党の候補者として打って出る[4]。1904年(明治37年)に阿部泰蔵らと共に千代田生命保険を創立。
慶應義塾では理事委員、教頭、評議員、副社頭(1901年10月~1907年5月)となり[1]、千代田生命保険社長、豊国銀行監査役、時事新報会長、交詢社会長のほか、日本無線電信設立委員、国際観光委員会、臨時ローマ字調査会委員等となる。
1932年(昭和7年)3月15日、貴族院議員に勅選された[7]。
墓所は青山霊園(1イ9-18)。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 付録、1969年、9頁
- ^ 『慶應義塾出身名流列伝』 263頁
- ^ 『慶應義塾出身名流列伝』 261頁
- ^ 『慶應義塾出身名流列伝』 262頁
- ^ 日本経済新誌社『日本経済新誌』1911年11月号、47頁。
- ^ 渋沢社史データベース「門野幾之進」。
- ^ 『官報』第1561号、昭和7年3月16日。
参考文献
[編集]- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、261-262頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 慶應義塾『慶應義塾百年史』付録、1969年。
外部リンク
[編集]- 門野幾之進 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]
- 門野重九郞 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]
- 門野幾之進|近代日本人の肖像
- 門野幾之進記念館と生誕碑 三重県観光連盟公式サイト 観光三重
- [ステンドグラス] “ボーイ教師”と呼ばれた俊才、門野幾之進
- ウィキメディア・コモンズには、門野幾之進に関するカテゴリがあります。