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*『[[南史]]』巻12 列伝第2
*『[[南史]]』巻12 列伝第2


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2019年10月29日 (火) 00:21時点における版

柳皇后
南朝陳の皇后
在位 569年 - 582年

全名 柳敬言
出生 533年
死去 615年
洛陽
埋葬 洛陽、邙山
配偶者 宣帝
子女 陳叔宝
父親 柳偃
母親 長城公主
柳盼
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柳敬言(りゅう けいげん、533年 - 615年)は、南朝陳の宣帝陳頊皇后南朝梁の武帝蕭衍の外孫。本貫河東郡解県

経歴

柳偃(柳惲の子)と長城公主(蕭衍の娘)のあいだの娘として生まれた。9歳で家事を切り盛りし、あたかも成人のようであったといわれる。成長すると身長は7尺2寸、手は膝まで垂れた。侯景の乱が起こると、敬言は弟の柳盼とともに江陵元帝を頼り、元帝は姪にあたる敬言を厚遇した。陳頊が江陵にやってくると、元帝は敬言をとつがせた。553年承聖2年)、敬言は江陵で陳叔宝を出産した。554年(承聖3年)、江陵が西魏軍によって陥落すると、陳頊は関中に連行され、敬言は陳叔宝とともに穣城にとどまった。561年(陳の天嘉2年)、敬言は陳叔宝とともに陳に入り、安成王妃となった。

569年太建元年)、宣帝(陳頊)が即位すると、皇后に立てられた。宣帝は銭貴妃を寵愛したため、敬言に対してはそれに次ぐ扱いであった。582年(太建14年)、宣帝が死去すると、始興王陳叔陵が反乱を起こして陳叔宝を殺害しようとしたが、敬言は乳母の呉氏(楽安君)とともに陳叔宝を救った。後主(陳叔宝)が即位すると、敬言は皇太后となり、弘範宮に起居した。当時、陳は淮南を失陥して軍が長江に迫る国難にあったが、後主は重い瘡病のために聴政できず、敬言が後主に代わって国事を決裁した。後主の瘡病が癒えると、敬言は政権を後主に返還した。

589年禎明3年)、陳が滅亡すると、敬言は長安に入った。615年(隋の大業11年)、東都洛陽で死去した。享年は83。洛陽の邙山に葬られた。

伝記資料