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「アウトサイダー・アート」の版間の差分

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2020年1月25日 (土) 03:21時点における版

アドルフ・ヴェルフリ英語版Irren-Anstalt Band-Hain、1910年。

アウトサイダー・アート: outsider art)とは、西洋の芸術の伝統的な訓練を受けていない人が制作した作品であるが、アートとして扱われているものを指す[1]

フランスの画家・ジャン・デュビュッフェが1945年にアール・ブリュット(生の芸術)と呼んだ[2]、強迫的幻視者や精神障碍者の作品は[3]、1967年にパリ装飾美術館フランス語版にて初めて展示され公的に認知された[4]。1972年にイギリスのロジャー・カーディナル英語版アウトサイダー・アートとして、社会の外側に取り残された者の作品で、美術教育を受けていない独学自習であるとして[3]、概念を広げ精神障碍者以外に主流の外側で制作する人々を含めた[5]。プリミティブ・アートや、民族芸術[5]、心霊術者の作品も含まれるようになった[6]

1990年にはオーストリアの精神病院内にあるグギング芸術家の家の芸術家が国家芸術賞を受賞したし[4]モーリス・タックマン英語版が企画し1992年よりアメリカ、日本など4か国を巡回した「パラレル・ヴィジョン」展を通じて[2]、アウトサイダー・アートの認識は広まってきた。2010年代には、日本のアウトサイダー・アートとして障碍者の芸術が海外で展示され好評を得て、日本でもその認識は高まっている[7]

概念や背景とその展開

統合失調症であったアドルフ・ヴェルフリ英語版の1905年の作品。読み書きはできず芸術の経験もなかったが、1899年には自発的に絵を描きはじめ、1904年には十分な芸術スタイルを確立したが、初期の作品は発症に伴う幻視の開始の段階にみられるとされる、幾何学模様、らせん、トンネル、網目模様、同心円といったパターンとの関連が強くみられる[8]

19世紀を通じて発生したアカデミーの制度は正しい絵画技法を要求しその範疇にない芸術表現を二流の地位へと追いやったが、実際にはその時代もゴッホやゴーギャンのような革新者に満ちあふれており、19世紀末にはアカデミーに入ることは既に目標ではなくなっていた[5]。1880年代後半にアドルフ・ヴェルフリ英語版のような収容された統合失調症患者が絵画を通じて自己表現を行ったときにアウトサイダーの歴史は始まり、伝統的な芸術の営みの外側においても芸術の才能は開花するものだと確信し、デュビュッフェはアール・ブリュット(生の芸術)と呼んだのである[5]

19世紀から1920年代までは、精神科医に患者の作品が認識されだした時期であり、その後1945年からデュビュッフェはそうした作品が芸術だと認知されるよう取り組み、1985年に死亡した[9]。デュビュッフェのコレクションは1967年に、パリ装飾美術館フランス語版にて初めて展示された[10]。これをもってアウトサイダー・アートが公的に認知されたとされる[4]。デュビュッフェの死後、一般にも認知されるようになり精神医学は関係なくなり、インサイドに取り込まれようとしている[9]。19世紀末からの古典期は患者の作品が集められたが、(1950年代に)治療法が変わり抗精神病薬が登場し入院期間が短期化されると、精神病院からの作品の供給は途絶えてこそいないが、かなり変化した[11]。(日本では社会的入院の問題が残っており事情が異なる)

デュビュッフェが1945年に[2]、アール・ブリュットと呼んだのは、強迫的幻視者や精神障害者の作品である[3]。デュビュッフェが1923年に入手していたのは、ハイデルベルク大学付属精神病院の医師プリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』であり、(1945年には)この著書にあるような患者や作品を探してフランスやスイスの精神病院を訪ねた[3]。そうして、アドルフ・ヴェルフリの遺作や、アロイーズ・コルバスルイ・ステーに出会った[3]。デュビュッフェは、精神の深淵の衝動が生のままむき出しに表出され、美しい造形に対する反文化的な造形だと考えていた[3]

19世紀末の有名な心霊術師であったスイスのエレーヌ・スミス英語版の『超火星の風景』(1900年)は、火星の住人にとりつかれたとし、幻視として詳細に火星を見ており、その絵を描くようになり、また火星の文字を書き、その言葉を話したという際に書かれた[12]

アウトサイダー・アートの言葉を最初に使ったのは、イギリスの美術評論家のロジャー・カーディナルであり、1972年の著書『アウトサイダー・アート』[13]の中である[3]。これによれば、強迫的な幻視者や精神障害者などの社会の外側に取り残された者の作品で、美術教育を受けていない独学自習であるということである[3]。つまり、カーディナルは概念を広げ精神障害以外に主流の外側で制作する人々を含めたのである[5]。カーディナルの基準とは、訓練されずに、歴史的分類に規定されるような作品を作りたいという衝動である[5]。そうして、プリミティブ・アートや、民族芸術、ホームレスの作品などが含められるようになった[5]。1989年にイギリスでアウトサイダー・アートの専門誌である Raw Vision が創刊されたが、同誌はアール・ブリュット、コンテンポラリー・フォーク・アート(大衆芸術)、幻視芸術のような同類の分野も取り扱っている[14]。アウトサイダー・アートという言葉はアール・ブリュットよりも広く、大衆芸術、幻視芸術のような他の用語を取り込んでいっており[15]、その範囲は極めて拡大していっておりあらゆる新しいジャンルを含めていっている[16]

1992年の「パラレル・ヴィジョン」展では、コンパルシヴ(強迫観念にとらわれた)、アントート(教育によらない)、ヴィジョナリー(幻視的)といった特徴のある作家が集められた[9]。これはデビュッフェが、アール・ブリュットと定義した概念と似ている[9]。企画者のモーリス・タックマン英語版は、当初、部族のシャーマン的美術やアボリジニの樹皮絵画、アクリル絵画、もちろん精神病院に隔離され完全に阻害された人々の美術を含めようとしていたが、収拾がつかなくなったのか、強迫的幻視者と精神病者の造形に縮小された[3]。そこには心霊術者エレーヌ・スミスやマッジ・ギルの作品も含まれた[6]

欧州では、主として独学の強迫的幻視者や精神障害者による造形を指し、アメリカではより広くフォーク・アート、民族芸術などアウトサイダーのグループや個人までが含まれる[3]。日本ではアウトサイダー・アートは障害者アートと捉えられている[1]

ゴッホの扱いはやっかいであり、1950年代のベストセラーであるコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』では幻視者という理由でアウトサイダーだとされているし、デュビュッフェはゴッホを既成の芸術だと捉え、タックマンによれば精神を病み独学自習であったがプロの芸術家であるためアウトサイダーではないと断っている[3]

障害者アートとの関係

シュヴァルの理想宮」。幻視の風景(Visionary environment)と呼ばれる造形されたアウトサイダー・アートの例[17]

日本ではアウトサイダーアートというと知的障害者精神障害者あるいは精神病患者が精神病院内におけるアートセラピー芸術療法クリエイティヴ・セラピーの一種)などで描いた絵画と思われることが多い。しかしヨーロッパでは障害者アートがアウトサイダー・アートの市場に占める割合は全体の半分程度と見られている。[1]。芸術作品で生計を立てたり、既存の団体に発表することなく、独学で孤独に作品を作り続けた人達、刑務所などで初めて絵画に取り組んだ人達などの作品も含む[18]

一方、日本の障害者福祉の世界ではアウトサイダー・アートという語は本来の意味(伝統的な美術業界の外部)が誤解され、障害者の社会的包摂に反するものとして根強い反発がある。[19]。こうした経緯もあり、日本では障害者アートにエイブル・アートと名付けている団体もある[20]。「エイブル・アート」は商標登録もされている[1]

各国での紹介

1954年には瀧口修三が『美術手帖』10月号でデュビュッフェを紹介し「ラール・ブリュ」として言葉を紹介した[2]

デュビュッフェによるコレクションは、現在スイスローザンヌ市に寄贈されアール・ブリュット・コレクションとして所蔵されている[21]。また、他にも重要なコレクションは欧州、アメリカ、ロシアで公共財となっている[21]。アウトサイダー・アートのための画廊も増加している[21]

イギリスでは1981年にロンドン・ヘイワード・ギャラリーでの大規模なアウトサイダー・アート展が開催され、それに続いてアウトサイダー・アーカイヴ(コレクションの収集)が開設された[22]。デュビュッフェのカンパニー・ド・アール・ブリュのメンバーであったヴィクター・マスグレイブ英語版がそのコレクションを築いており[22]、1979年よりロジャー・カーディナルとで企画したこの展覧会は、イギリスのアウトサイダー・アートの紹介として成功を収めた[23]。マスグレイブは1984年に死去し、モニカ・キンリー英語版らが収集の意思を引き継いだ[22]。このマスグレイブ・キンリー・アウトサイダー・アート・コレクションは、800以上の作品のコレクションを持ち、アイルランド現代美術館に10年間貸し出された後、マンチェスター大学ウィット・ワース・アート・ギャラリー英語版に贈呈された[23]

1981年に設立された[2]オーストリアウイーン郊外にあるマリア・グギング国立精神病院の中にグギング芸術家の家があり[24]、入院患者のうち絵画の才能のある人たちが居住して創作活動を行っており、アウトサイダー・アートの拠点となっている。1990年にはここの芸術家や詩人が国家芸術賞を受賞した[4]。2000年には、その生活風景が五十嵐久美子による映画『遠足 - Der Ausflug』となり、2006年には建物の一部が美術館に改修された[2]

出口なおの「おふでさき[25]

1992年にロサンゼルスのカウンティ美術館にて、「パラレル・ヴィジョン」展が開催され、翌年日本に巡回した[7]。これは4か国を巡回した[2]。日本においては、1993年に世田谷美術館における「パラレル・ヴィジョン」展によって本格的に紹介されている。同時期に同美術館は、日本における障害者や幻視者の作品を紹介し、小笹逸男、草間彌生(くさまやよい)、古賀春江、坂上チユキ、福村惣太夫、山下清、吉川敏明、渡辺金蔵の作品が展示された[26]。この時の日本のアウトサイダー・アートの紹介は小規模な展示ではあるが、これまでの日本の美術界がまとまった形でほとんど行ってこなかったため、重要な第一歩だと解説されている[26]大本という新興宗教は、読み書きのできなかった出口なおの神がかかりによってはじまり、なおが昼夜問わず霊媒によって自分でもよくわからないままに神の言葉の自動書記を続けたとされるが、この「おふでさき」は造形的にも高く評価でき、また、なおの末娘の婿である出口王仁三郎(おにざぶろう)の耀盌(ようわん)と呼ばれる楽茶碗は、特に学んだわけでもない王仁三郎による、赤、黄、ピンクなど華麗な発色を持つ芸術的な感性として、塩田純一が言及している[26]。1995年には日本でエイブル・アートが提唱され、各地の福祉施設での活動が連携して大々的に展覧会が開催されるようになる[7]

アメリカでは、パラレル・ヴィジョン展を期に翌年からアウトサイダー・アート・フェアが開始された[7]。1996年にニューヨークで開催された、第4回アウトサイダー・アート・フェアでは、10ドルの入場料の中人々が訪れ、作品には主流の芸術に劣らぬ数万ドルの値が付いた[5]。2016年にもなお「アウトサイダー・アート・フェア・ニューヨーク2016」が開催されている[7]。また、レヴェッカ・ホフバーガーは、ワシントン北部のボルチモアに国立美術館としての認可を受けたアメリカン・ヴィジョナリーアート・ミュージアム英語版を創設しており、乱用されているアウトサイダーという言葉の代わりにヴィジョナリーという言葉を用いた[27]

2008年には日本各地でアール・ブリュット展が行われ、スイスローザンヌ市で日本人12人によるのアール・ブリュット展が行われた[2]。2010年に「アール・ブリュット・ジャポネ」がパリで開催され、また日本各地を巡回したが「障害者の作品」であると広く知られるようになった[7]。2020年の東京パラリンピックによって、障害者のアート活動が日本の国をあげて取り組まれるようになった[7]

作品

出典

  1. ^ a b c d 美術手帖 2017, pp. 20–21.
  2. ^ a b c d e f g h 美術手帖 2017, pp. 34–37.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 川口幸也「カヴァリング・アウトサイド-アウトサイダー・アートの政治学」『Collage』第2号、1999年4月、2-7頁。 
  4. ^ a b c d パラレル・ヴィジョン 1993, §王様とテニス(マーク・ギズボーン).
  5. ^ a b c d e f g h ヴェラ・L.ゾルバーグ、ジョニ・マーヤ・チャーボ「アウトサイダー・アートの社会学」『Collage』第2号、1999年4月、20-23頁。 
  6. ^ a b パラレル・ヴィジョン 1993, pp. 250–253.
  7. ^ a b c d e f g 美術手帖 2017, pp. 26–27.
  8. ^ パラレル・ヴィジョン 1993, pp. 270–271.
  9. ^ a b c d 世田谷美術館編『アウトサイダー・アートを考える : パラレル・ヴィジョン・シンポジウム』世田谷美術館、1994年。 
  10. ^ パラレル・ヴィジョン 1993, §序文(モーリス・タックマン).
  11. ^ デイヴィド・マクラガン 2009, p. 113.
  12. ^ パラレル・ヴィジョン 1993, pp. 250–251.
  13. ^ Roger Cardinal, Outsider Art, Praeger, 1972.
  14. ^ Raw Vvision 25 years of publishing outsider art”. Raw Vision Magazine. 2017年7月31日閲覧。
  15. ^ デイヴィド・マクラガン 2009, p. 47.
  16. ^ デイヴィド・マクラガン 2009, p. 107.
  17. ^ Kyoichi Tsuzuki編『ArT RANDOM 75巻 Outsider Art II Visionary environment』京都書院、1991年。ISBN 4-7636-8577-5 
  18. ^ 服部正『アウトサイダー・アート』光文社新書、2003年。p.237
  19. ^ 美術手帖 2017, p. 23.
  20. ^ 項目「エイブル・アート」『まあるい地球のボランティア・キーワード145:ボランティア学習事典』春風社、2003年。p.37
  21. ^ a b c デイヴィド・マクラガン 2009, p. 93.
  22. ^ a b c モニカ・キンリー、Kyoichi Tsuzuki編「序文」『ArT RANDOM 50巻 Outsider Art from the Outsider Archive, London』京都書院、1989年。ISBN 4-7636-8538-4 
  23. ^ a b Musgrave Kinley Outsider Art Collection”. Contemporary Art Society. 2017年8月11日閲覧。
  24. ^ 長谷川祐子「病める天才たちのユートピア:グギング<芸術家の家>」『芸術新潮』1993年12月号、新潮社。
  25. ^ 出口には以下でも言及される: 椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2015年。ISBN 978-4-3449-8375-5 
  26. ^ a b c 『日本のアウトサイダー・アート』世田谷美術館、1993年。 
  27. ^ 田中弘子「誰もが楽しめる創造力の美術館 アウトサイダーアートの拠点」『AREA』1997年4月、47-49頁。 

参考文献

  • デイヴィド・マクラガン 著、松田和也 訳『アウトサイダー・アート―芸術のはじまる場所』青土社、2011年。ISBN 978-4-7917-6593-5  Outsider Art: From the Margins to the Marketplace, 2009.
  • モーリス・タックマン、キャロル・S.エリエル『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』淡交社、1993年10月。ISBN 978-4-473-01301-9  Parallel Visions : Modern Artists and Outsider Art, 1992.
  • 『美術手帖』第69巻第1049号、2017年2月、ASIN B076BS2CMB 
  • 服部正『アウトサイダー・アート:現代美術が忘れた「芸術」』光文社〈光文社新書〉、2003年9月。ISBN 978-4-334-03214-2 

関連項目

外部リンク