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「アニェス・ド・ブルゴーニュ (アキテーヌ公妃)」の版間の差分

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* Michel Dillange, ''Les comtes de Poitou, ducs d'Aquitaine : 778-1204'', Mougon, Geste éd., coll. « Histoire », 1995, p. 303, ill., couv. ill. en coul. ; 24 cm
* Michel Dillange, ''Les comtes de Poitou, ducs d'Aquitaine : 778-1204'', Mougon, Geste éd., coll. « Histoire », 1995, p. 303, ill., couv. ill. en coul. ; 24 cm
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2020年1月25日 (土) 17:59時点における版

アニェス・ド・ブルゴーニュ
Agnes de Bourgogne

称号 ポワティエ伯夫人・アキテーヌ公妃
アンジュー伯夫人
出生 990/5年
死去 1068年11月10日
サント
埋葬  
ポワティエ、聖ニコラス修道院
配偶者 アキテーヌ公ギヨーム5世
  アンジュー伯ジョフロワ2世
子女 ギヨーム7世
ギヨーム8世
アニェス
家名 アンスカリ家
父親 ブルゴーニュ伯オット=ギヨーム
母親 エルマントルド・ド・ルシー
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アニェス・ド・ブルゴーニュまたはアニェス・ド・マコン[1](Agnes de Bourgogne, 990/5年 - 1068年)は、ウンルオッホ家に流れを持つイタリア王アダルベルト2世の王子ブルゴーニュ公兼マコン伯オット=ギヨームと妻エルマントルド・ド・ルシー(ルシー伯レナールの娘)の間に生まれた三女である。

概要

1016年頃[2]アキテーヌ公ギヨーム5世と結婚した3番目の妻。以下3人の子どもがいた。

  1. ピエール(ギヨーム7世)(1023年 - 1058年) - アキテーヌ公
  2. ギー・ジョフロワ(ギヨーム8世)(1023年 - 1086年) - ピエールとは双子の兄弟
  3. アニェス・ダキテーヌ(アラ)(1025 - 1077年) - 1043年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世と結婚

1030年1月31日、夫のギヨーム5世が前妻2人の間に生まれた継子2人と最後の妻アニェスと彼女が生んだ幼い3児を残して崩御した。

亡夫には既に初婚の妻との間に長男ギヨーム6世、2番目の妻との間に次男ウードがおり、この時アニェスの子達にはアキテーヌ公領の相続権がなかったため、彼女が自分の立場を守り、子供たちの将来を確保するための唯一の方法は、他の貴族との再婚であった。

そのため、当時有力であったアンジュー伯フルク3世ネラ(黒伯)の子、ジョフロワ2世マルテル(鎚伯)以外に相手を考えられず、1032年1月1日に結婚した[3]

息子のピエールとギーはジョフロワ2世がポワティエ伯領を狙っていることに気付いており、1033年からアニェスの下に集結する何人かの領主の協力でジョフロワ2世の軍隊がポワティエに侵入した。

亡夫ギヨーム5世の長男、アキテーヌのギヨーム6世はアキテーヌ公位を継承したが、1033年9月にジョフロワ2世とのモントクーの戦い(モントクール)で捕虜になった。

その後にギヨーム6世は1036年末に高額な身代金の支払いを代償に解放され、子を残すことなく1038年に死去した。ポワティエ伯領はギヨーム6世死後、今度はギヨーム5世が2番目の妻に産ませた次男のガスコーニュ公ウード・ド・ポワティエが統治者となる。

ジョフロワ2世とアニェスの軍隊との最初の戦いで敗北したウード率いる軍隊はその後、帰路で方向を反転しモーゼ城の衛兵に立ち向かい、その包囲中にウードは戦死した。

ウードの死後、ポワティエ伯領はアニェスの長子ピエールが統治者となる。ピエールは父の名を取りギヨーム7世となるが、まだ統治者にするには若過ぎたため、1039年 - 1044年まで再婚した夫の手は借りず、実質的にはアニェスが1人で息子の代わりに領地を治めていたようである。

彼女がギヨーム7世に領主としての実権を譲る際、アニェスの2人目の息子ギー・ジョフロワはガスコーニュ公の相続人である娘と結婚し、兄の在位中にガスコーニュ公となる。その後、アニェスは夫のアンジューへの統治に加わり、確実に何らかの影響を与えた。

ブルゴーニュ伯領

1045年のクリスマス、アニェスは夫と共に、1043年より 神聖ローマ帝国ハインリヒ3世皇帝と結婚した娘アグネスのいる宮廷に滞在していた。

アニェスとジョフロワ2世はストーリの教会会議に参加し、それ以降、教皇クレメンス2世の戴冠とハインリヒ3世と妃アグネスを皇帝と皇后として戴冠させるため、娘夫婦のイタリア遠征に同行した。アニェスが娘に奉献した最初の場であった。サントのノートルダム寺院を設立した時、モンテガラノへの巡礼の後にアニェス夫婦は1047年からポワチエに帰った。

1047年から1049年の間に、アニェスはポワティエに聖ニコラス修道院を設立した。

1049から1052の間にアニェスは夫ジョフロワと離婚している。その理由はさまざま推察されるが、確かな理由は子ができなかったことであるとされる。

また1049年、ランス教会議会でアニェスとジョフロワの結婚を近親結婚であると非難し、この婚姻が無効であると判断した。

それに加え、ジョフロワは神聖ローマと同盟を結び戦争で家臣を奪われることを懸念し少しの自由も認めないフランス王に反逆して戦うことになった(ジョフロワはフランス王に頼らないために神聖ローマ皇帝に忠誠を誓うことを計画していたようである)。

そしてアニェスの影響による神聖ローマの支援を懸念したフランス王が従属する家臣であるジョフロワに妻と離婚するように課したことは非常に可能性が高い。

確かに、アニェスは夫に影響を与えるほか、故郷ブルゴーニュ(アニェスの母が神聖ローマ帝国リウドルフィング家の子孫でハインリヒ3世とは遠縁に当たる)との強いつながりがあった。そのため、アニェスが皇帝とジョフロワの親交を推進していたのが理由とも考えられる。

とにかく、アニェスは息子ギヨーム7世と共にポワチエの伯邸に帰った際、多くのことに離婚が起因してアンジューとポワティエの間で急速に戦争が始まり、1053年にジョフロワ鉄鎚伯が勝利したと見られる。

アニェスの政治的権力が離婚後に衰退することはなかったが、アニェス自身の財を利益のために惜しみなく費やすこともできなかった。

1058年、息子ギヨーム7世はかつての義理の父、アンジュー伯ジョフロワ2世と戦った。おそらく、ジョフロワは最後に結婚した妻アデライード・ トゥトニスにアニェスが自分と結婚した際に持参した寡婦財産を与えたのが理由とされる。

1058年にギヨーム7世が病死したため、戦いはアンジュー伯の勝利に終わろうとしていた。

ギヨーム7世病没後、弟のギー・ジョフロワが亡き兄の名を取りギヨーム8世となりポワティエ伯を後継したが、ギヨーム少年はアンジュー伯と和解し、自分にとって唯一父親と呼べる人物であるジョフロワ2世に寄り添った。しかし、それはジョフロワ2世の存命中に限った話であり、彼の死後、アンジュー伯の相続人ジョフロワ3世ル・パルピュを躊躇なく攻撃し、遂に1062年からサントンジュの支配を取り戻した。

アニェスは統治から引退した後にもかかわらず存命中は非常に活発であり、寄付に参加するためにポワティエ中を旅行し、ポワティエ伯邸を訪問し遠慮なく息子と面会した。

アニェスは1068年11月10日[3] 死去し、ポワティエのサン=ニコラ修道院の墓に埋葬されている。

脚注

  1. ^ AgnèsdeMâconの系譜中世の土地
  2. ^ Georges Pon; Yves Chauvin (2001). La fondation de l'abbaye de Maillezais : récit du moine Pierre (Centre vendéen de recherches historiques ed.). p. 215. ISBN 2911253094. OCLC 406932722. https://www.worldcat.org/oclc/406932722 
  3. ^ a b Port 1965, p. 5

参考文献