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[[1952年]]に地元のクラブチーム・[[SSDウニオーネ・トリエスティーナ2012|トリエスティーナ]]でキャリアをスタート。[[1954年]]に[[ACミラン]]へ移籍し、チームの中心選手、またキャプテンとして活躍。[[1963年]]には[[UEFAチャンピオンズリーグ|ヨーロピアン・カップ]]で優勝を果たして[[イベリア半島]]から最初にビッグイヤーを持ち出した際のキャプテンとなった。(それまで[[レアル・マドリード]]の5連覇と[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]の2連覇と、[[スペイン]]と[[ポルトガル]]のクラブで独占していた)


[[1967年]]、[[トリノFC|トリノ]]に在籍したのを最後に現役を引退。以降は指導者としての道を歩み、若手の育成に力を注いだ後、[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマAC]]や[[ACミラン]]の監督を務め、[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]監督として[[1998 FIFAワールドカップ|1998 FIFAワールドカップフランス大会]]、[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ代表]]監督として[[2002 FIFAワールドカップ|2002 FIFAワールドカップ日本・大韓民国大会]]でチームの指揮を執った。
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[[2016年]][[4月3日]]、[[ミラノ]]に於いて死去したことが伝えられた<ref>{{Cite news|title= E' morto Cesare Maldini Bandiera del Milan ed ex ct della Nazionale, aveva 84 anni|newspaper=Rai Sport|url=http://www.raisport.rai.it/dl/raiSport/Articoli/Calcio-e-morto-Cesare-Maldini-97dfa573-9303-4bff-8136-06a04bca743c.html|accessdate=2016-4-3}}</ref>。{{没年齢|1932|2|5|2016|4|3}}。
[[2016年]][[4月3日]]、[[ミラノ]]に於いて死去したことが伝えられた<ref>{{Cite news|title= E' morto Cesare Maldini Bandiera del Milan ed ex ct della Nazionale, aveva 84 anni|newspaper=Rai Sport|url=http://www.raisport.rai.it/dl/raiSport/Articoli/Calcio-e-morto-Cesare-Maldini-97dfa573-9303-4bff-8136-06a04bca743c.html|accessdate=2016-4-3}}</ref>。{{没年齢|1932|2|5|2016|4|3}}。
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2020年2月4日 (火) 11:48時点における版

チェーザレ・マルディーニ
名前
ラテン文字 Cesare Maldini
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 1932年2月5日
出身地 トリエステ
没年月日 (2016-04-03) 2016年4月3日(84歳没)
身長 182cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF (CB、RSB)
ユース
1950-1952 イタリアの旗 USトリエスティーナ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1952-1954 イタリアの旗 USトリエスティーナ 32 (0)
1954-1966 イタリアの旗 ACミラン 347 (3)
1966-1967 イタリアの旗 ACトリノ 33 (0)
代表歴
1960-1963 イタリアの旗 イタリア 14 (0)
監督歴
1972-1974 イタリアの旗 ACミラン
1974-1976 イタリアの旗 フォッジャ
1976-1977 イタリアの旗 テルナーナ
1978-1980 イタリアの旗 パルマAC
1986-1996 イタリアの旗 U-21イタリア代表
1996-1998 イタリアの旗 イタリア代表
2001 イタリアの旗 ACミラン
2001-2002 パラグアイの旗 パラグアイ代表
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

チェーザレ・マルディーニCesare Maldini1932年2月5日 - 2016年4月3日)は、イタリアトリエステ出身の元同国代表サッカー選手監督。元イタリア代表のパオロ・マルディーニは息子である。

経歴

1952年に地元のクラブチーム・トリエスティーナでキャリアをスタート。1954年ACミランへ移籍し、チームの中心選手、またキャプテンとして活躍。1963年にはヨーロピアン・カップで優勝を果たしてイベリア半島から最初にビッグイヤーを持ち出した際のキャプテンとなった。(それまでレアル・マドリードの5連覇とベンフィカの2連覇と、スペインポルトガルのクラブで独占していた)

1967年トリノに在籍したのを最後に現役を引退。以降は指導者としての道を歩み、若手の育成に力を注いだ後、パルマACACミランの監督を務め、イタリア代表監督として1998 FIFAワールドカップフランス大会パラグアイ代表監督として2002 FIFAワールドカップ日本・大韓民国大会でチームの指揮を執った。

2016年4月3日ミラノに於いて死去したことが伝えられた[1]。84歳没。

選手経歴

指導者経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1952-53 トリエスティーナ セリエA 1 0
1953-54 31 0
1954-55 ACミラン 27 1
1955-56 22 0
1956-57 21 1
1957-58 32 0
1958-59 34 0
1959-60 29 0
1960-61 30 0
1961-62 34 1
1962-63 31 0
1963-64 22 0
1964-65 34 0
1965-66 31 0
1966-67 トリノ 33 0
通算 イタリア セリエA 412 3
総通算 412 3

脚注