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== 脚注 ==
== 脚注 ==


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== エル・テニエンテ銅山の鉱夫輸送用電車 ==
== エル・テニエンテ銅山の鉱夫輸送用電車 ==

2020年3月9日 (月) 04:10時点における版

サルミエント線用車両の製造・番号表
番号 製造 主な電気機器の製造 製造年 特徴
M.U.
2000 - 2039
川崎重工 東芝 1956年 トイレ設置車両
M.U.
2500 - 2514
近畿車輛 荷物室設置車両
M.U.
2070 - 2072
2075
2076
2079
2080
川崎重工 1959年 トイレ設置車両
M.U.
2073
2074
2077
2078
近畿車輛
M.U.
2100 - 2150
1961年
M.U.
2200 - 2213
東急車輌
M.U.
2600 - 2624
日本車輌 荷物室設置車両
M.U.
2151 - 2199
近畿車輛 1962年 トイレ設置車両
M.U.
2214 - 2219
東急車輌
M.U.
2625 - 2629
荷物室設置車両
M.U.
2300 - 2323
近畿車輛
M.U.
2324 - 2326
東急車輌
M.U.
2700 - 2702
荷物室設置車両
M.U.
2816
川崎重工 1966年
車両としては1956年
全室荷物車両
1956年製のM.U.2016を改造
M.U.
2350 - 2357
軍事製造サン・マルティン将軍工場
(Fabricaciones Militares General San Martin)
東芝
SIAM(Siam Di Tella)(主電動機・制動装置のみ)
1971年 - 1973年
M.U.
2358 - 2365
1976年
M.U.
2220
2221
東芝
SIAM?
不明
M.U.
2901 - 2914
EMFER(元軍事製造サン・マルティン将軍工場) 付随車
計画上はABB
2010年 - 2012年 "PUMA V.4"用二階建て車両
M.U.
2915 - 2918?
2012年 -
改造および製造中止により未完成
S.D.
2628
東急車輌 付随車 2015年
車両としては1962年
救援車
1962年製のM.U.2628を改造

出典は[1]および[2][3]より。これらの中にはのちにミトレ線用の車両と番号を交換した車両が1、2両存在する。


ミトレ線用車両の製造・番号表
番号 製造 主な電気機器の製造 製造年 特徴
M.U.
1000 - 1028
近畿車輛 東芝 1962年
M.U.
1029 - 1053
日本車輌
M.U.
1054 - 1079
東急車輌
M.U.
1500 - 1524
日本車輌 荷物室設置車両
M.U.
1750 - 1796
近畿車輛 トイレ設置車両
M.U.
1797 - 1814
東急車輌 トイレ準備工事車両
M.U.
1525 - 1527
近畿車輛 不明
車両としては1961年
1962年近畿車輛製の
M.U.1785
M.U.1794
M.U.1796
を事故復旧時に改番

出典はparte2.pagina11[2][3]より。 のちに車番が交換・変更された車両を以下に示す。

車番が交換・変更された車両
改番後の番号 改番前の番号 特徴 備考
M.U.
2005
M.U.2015 三代目
M.U.
2005
M.U.1046 二階建て付随車
(試作車)
元ミトレ線用
二代目
M.U.
2007
M.U.1018 元ミトレ線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
2021
M.U.2360
または
M.U.2362
二代目
M.U.
2024
M.U.2150 二代目
M.U.
2032
M.U.2033 二代目
M.U.
2033
M.U.2032? 二代目
M.U.2032の火災による番号交換?
M.U.
2150
不明 二代目
M.U.
2163
不明 二代目
M.U.
2201
M.U.2027? 二代目
M.U.
2211
不明 二代目
M.U.
2214
M.U.2211 二代目
M.U.
2316
M.U.2608 二代目
M.U.
2318
M.U.2355 二代目
M.U.
2355
不明 二代目
M.U.
2360
不明 二代目
M.U.
2361
M.U.2163 二代目
M.U.
2362
不明 二代目
M.U.
2364
M.U.1071 元ミトレ線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
2603
M.U.1507 元ミトレ線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
2606
不明 二代目
M.U.
1004
M.U.1788 二代目
M.U.
1018
M.U.2007 元サルミエント線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
1031
M.U.1036 二代目
M.U.
1036
M.U.1031 二代目
M.U.
1056
不明 二代目
M.U.
1057
M.U.1059 二代目
M.U.
1059
M.U.1057 二代目
M.U.
1068
不明 二代目
M.U.
1071
M.U.2364 元サルミエント線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
1507
M.U.2603 元サルミエント線用 二代目
ミトレ線用・サルミエント線用の番号交換
M.U.
1766
M.U.1770 二代目
M.U.
1770
M.U.1766 二代目
M.U.
1788
不明 二代目


以下に全車両の製造・番号を示す[4][5][6]

車両の製造・番号表(上段 - M車、下段 - M'車)
番号 製造 主な機器の製造 制動機器一式の製造 製造年 特徴
M.U.3800 - 3809 近畿車輛 東芝
三菱
NABCO 1973年
M.U.3810 - 3819 日本車輌
M.U.3820 - 3828 東急車輌
M.U.3829 - 3836 川崎重工
M.U.3837 - 3845 日立製作所
M.U.3846 - 3863 Fiat-Materfer
軍事製造サン・マルティン将軍工場
東芝
三菱
SIAM(Siam Di Tella)
SIAM 1976年 - 1978年
番号 製造 主な機器の製造 制動装置一式の製造 製造年 特徴
M.U.3864 - 3867 近畿車輛 東芝
三菱
NABCO 1973年
M.U.3868 - 3871 日本車輌
M.U.3872 - 3880 東急車輌
M.U.3881 - 3888 川崎重工
M.U.3889 - 3897 日立製作所
M.U.3898 - 3915 Fiat-Materfer
軍事製造サン・マルティン工場
東芝
三菱
SIAM(Siam Di Tella)
SIAM 1976年 - 1978年
M.F.U.3000 - 3005 近畿車輛 東芝
三菱
NABCO 1973年 荷物室付き車両
M.F.U.3006 - 3011


アルゼンチンの鉄道事故 この項目では、南アメリカ・アルゼンチンの鉄道上で発生した、重大な鉄道事故のついてを記述する。

ベナビデス列車追突事故

ベナビデス列車追突事故
事故の衝撃で変形した普通列車の客車
事故の衝撃で変形した普通列車の客車
発生日 1970年2月1日
発生時刻 20時45分(現地時間)
アルゼンチン共和国
場所 ブエノスアイレス州ベナビデス
路線 ミトレ線(正式にはミトレ将軍鉄道の一部)
運行者 初代アルゼンチン国鉄
事故種類 追突事故
原因 先行列車の防護失敗
統計
列車数 2列車(先行 - 普通列車、続行 - 急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号)
乗客数 先行列車 - 1090人、続行列車 - 260人
死者 236人(すべて先行列車)
負傷者 500人以上
その他の損害 客車数両が全壊
テンプレートを表示

ベナビデス列車追突事故は、1970年2月1日に発生した、アルゼンチンおよび南アメリカ史上最も大きな被害を出した鉄道事故である[7]。英語では"Benavidez rail disaster" - ベナビデス鉄道参事とも呼ばれる。

概要

この事故は、ブエノスアイレスの北29キロ(18マイル)にある[アルゼンチンの鉄道|ミトレ将軍鉄道]](ミトレ線)のインヘニエロ・マシュヴィッスヘネラル・パチェコ周辺に所在するベナビデス駅付近で発生した。ディーゼル機関車重連に牽引された、21両編成のミトレ将軍鉄道・第14列車 - 急行エストレージャ・デル・ノルテ(Estrella del Norte、北星)号には当時260人の乗客を乗せており、始発のサン・ミゲル・デ・トゥクマンから終点であるブエノスアイレス中心業務地区に位置するレティーロ・ミトレまでの約1,000 マイルの旅の終わりに近づいたところでベナビデス駅を通過した[8][9][10]

事故で大破した客車をクレーンで移動する作業

その前方を走行していた客車10両編成の普通列車は、パラナ川のほとりにあるおしゃれな街サラテで週末を過ごした後、同じく首都中心のレティーロ・ミトレへ1090人の乗客を運んでいたが、牽引するディーゼル機関車が「燃料噴射装置のトラブル」を起こし、ベナビデス駅付近で点検のために停止した。機関士と乗務員はこのトラブルを解決しようと40分間停車したが、普通列車の乗組員は列車防護を提供することが出来ず、20時15分に急行エストレージャ・デル・ノルテ(Estrella del Norte、北星)号は時速65 マイルで普通列車に追突した[11]。急行を牽引していた重連のディーゼル機関車は普通列車の最後尾の客車を「完全に破壊」し、最後尾から3両目の客車をほぼ完全に押し潰し、潰れた車体を80ヤード下の線路に押し下げた。普通列車の乗客の一部は何とか飛び降りることができたが、死者と重傷者はすべて普通列車の乗客であった。

飛行機のパイロットは管制塔から無線を送り、緊急サービスに通知し、そこ出動した空軍のヘリコプターは救命医療用品を運ぶことに使用された。軍の兵士などによる救出活動が展開され、事故現場から5 マイル北のパチェコ駅に救急病院が設置され、負傷者の治療に当たったほか、パチェコとベナビデスに一時的な遺体安置所が設置された。

イギリスタイムズ紙の取材を受けた生存者は、「私たちはいたるところで変死体を見た」と言い、「あちこちに血が流れていて、兵士たちはちょうど切断された手足で袋を満たしていた」と証言した[11]

この事故により、236人が死亡し500人以上が負傷した[12][9]

この事故のあと、人気週刊誌"Así"は事故の凄惨な写真を含む32ページの記事を掲載した。それにより、当時アルゼンチンを統治していた軍事独裁政権によって無期限に発行を禁止された[13]

参考文献

  • Railway Wrecks - エドガー・A・ヘイン、1993年 - ISBN 0-8453-4844-2, pp. 144-145

出典

  1. ^ Alejandro D. Moscaro 2015, p. 11.
  2. ^ a b Lista de Coches - pagina1 - forotransportes.com
  3. ^ a b Lista de Coches - pagina2 - forotransportes.com
  4. ^ Los eléctricos Japoneses del Urquiza - portal de trenes.com.ar
  5. ^ REVISTA LA FRATERNIDAD 第1173号 1974年1月発行 - 第31頁
  6. ^ Características técnicas del Material Rodante Metrovías 2017 - 第61 - 65頁 - Metrovias
  7. ^ "El tercer accidente ferroviario más grave en la historia del país" - La Nación紙、2012年2月23日
  8. ^ "Historia de un trágico accidente ferroviario" - フェルナンド・ペレス著・"Actualidad Tigre-San Fernando" - 2012年1月17日
  9. ^ a b "Accidentes Ferroviarios (Parte XI) - Benavídez, 1970" Archived 2012-02-25 at the Wayback Machine. - TodoTren.com.ar
  10. ^ "La Bajada 71" - autornero.com
  11. ^ a b ザ・タイムズ紙、1970年2月3日火曜日 - 第7ページ、Issue 57784; col A
  12. ^ "Uno de los peores accidentes ferroviarios del país" - Clarín.com、2008年3月10日
  13. ^ Railway Wrecks by Edgar A. Haine, page 144-145, publ 1993, ISBN 0-8453-4844-2

急行エストレージャ・デル・ノルテ号の悲劇

https://es.wikipedia.org/wiki/Accidente_ferroviario_de_Sa_Pereira_de_1978

急行エストレージャ・デル・ノルテ号の悲劇
脱線し、重なるように崩壊した客車
脱線し、重なるように崩壊した客車
発生日 1978年2月25日
発生時刻 午前7時22分(現地時間)
アルゼンチン共和国
場所 サンタフェ州サ・ペレイラ
路線 ミトレ将軍鉄道
ロサリオ - サン・ミゲル・デ・トュクマン区間(通称)
運行者 初代アルゼンチン国鉄
事故種類 踏切事故脱線事故
原因 自動車(トラック)の警報機表示無視
統計
列車数 1列車(第14列車 - 急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号)
乗客数 2130人
死者 55人
負傷者 56人
その他の損害 客車2両全壊とトラックの積み荷25000 kg 他
テンプレートを表示

急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号の悲劇は、ミトレ将軍鉄道・ロサリオ - サン・ミゲル・デ・トゥクマン間に存在するサンタフェ州の小さな町、サ・ペレイラで発生した、列車がトラックに衝突した踏切事故である。これは、アルゼンチン史上2番目に大きな鉄道事故であり、トラックに衝突した列車の名前に因み、"Tragedia de Estrella del Norte" - 急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号の悲劇と呼ばれ、事故が発生した場所より、"Tragedia de Sa Pereira" - サ・ペレイラの悲劇という名前でも呼ばれる。

概要

1978年2月25日(土曜日)午前7時22分、当時35歳のアルナルド・ルーベン・ビアンキーニが運転する、合計25,000 kgの食用脂肪とコンビーフ缶を積んだ1976年式・フォードF型トラックは、アルゼンチン国道16号線(RN16)とミトレ将軍鉄道が交差する場所の、警報機が点滅し、鈴が鳴っている踏切へ侵入した。そこへ、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを出発し、手前のラファエラ駅に停車したあと、首都中心部にあるレティーロ・ミトレ駅に向かい、2130人の乗客を乗せた第14列車 - 急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号が接近した。機関士アントニオ・ゴアが率いる急行は衝突を避けることができず、牽引していた機関車(EMD GT22型ディーゼル機関車)はトラックに衝突した反動で「ジャンプ」し転覆。編成中央の客車2両(Fiat-Materfer製)が衝撃により数百メートル引きずられ、両車は重なるように崩壊した[1]

事故後すぐに、現場であるペレイラの人々と列車の一部の乗客が総出で積極的な援助を行った。乗客の救助作業では、近隣の都市や小さな町から到着した警察と消防士が活躍した[2][3]

この事故で、55人が死亡し56人が負傷した[3]

出典


マリアーノ・サーベドラ踏切事故

マリアーノ・サーベドラ踏切事故
発生日 1998年1月31日
発生時刻 午前6時15分(現地時間)
アルゼンチン共和国
場所 サンタフェ州マリアーノ・サーベドラ
路線 ミトレ将軍鉄道、ロサリオ - サン・ミゲル・デ・トュクマン区間
運行者 トュクマン・フェロカリレス会社(TUFESA)
事故種類 踏切事故・脱線事故
原因 自動車(トラック)の踏切確認不備
統計
列車数 1列車(都市間列車レティーロ・ミトレ発サン・ミゲル・デ・トュクマン行き)
死者 1人(トラックの運転手)
負傷者 少なくとも20人
その他の損害 機関車・客車・トラックともに大きな損害
テンプレートを表示

マリアーノ・サーベドラ踏切事故とは、ミトレ将軍鉄道・ロサリオ - サン・ミゲル・デ・トゥクマン間に存在するサンタフェ州の小さな町、マリアーノ・サーベドラで発生した、列車がトラックに衝突した踏切事故である。

概要

1993年に、当時のカルロス・メネム大統領による国有企業の民・州営化事業により、国のほぼすべての鉄道を保有・管理していた初代アルゼンチン国鉄上下分離方式(国からの譲歩式)で分解されることになり、ミトレ将軍鉄道・ロサリオ - サン・ミゲル・デ・トュクマン間は線路の保有と貨物列車の運行がヌエボ・セントラル・アルヘンティーノ、急行エストレージャ・デル・ノルテ(北星)号に代表される、都市間の旅客列車の運行はツクマン州によって引き継がれた。トュクマン州はこれらの都市間列車の名前を"EL TUCUMANO" - エル・トュクマーノに統一したが、線路使用料などの問題から、1996年に運行を終了。翌1997年よりこの列車の運行を民間企業トュクマン・フェロカリレス(TUFESA)(以下TUFESA)が引き継ぎ、同時に機関車・客車の塗装を白地を基調とした目新しいものへ変更した。TUFESAは塗装以外にも、車内での携帯電話や車内専用スタッフの充実、ラウンジカー車両の連結など、競争相手の長距離バス(マイクロ)に対しての鉄道の魅力を高める工夫を凝らした。

TUFESAが運行を始めた翌1998年の1月31日の午前6時10分過ぎ、当時58歳のオスカル・セプティモ・トラッサが運転し、助手席に同業のギラルディを乗せ、レンガを積んだトラックはマリアーノ・サーベドラのはずれにあるミトレ将軍鉄道との交差部に設けられた、警報機のない踏切に接近し、入った。

同じころ、前日夜に首都中心部のレティーロ・ミトレ駅を出発し、目的地であるサン・ミゲル・デ・トュクマンのトュクマン・ミトレ駅へ向かっていた、TUFESAの都市間列車(EMD GT22型ディーゼル機関車 - 番号9037牽引)がマリアーノ・サーベドラに差し掛かった。列車は町はずれの警報機のない踏切を通過しようとしたとき、踏切内にいたトラックと衝突した。

衝突の衝撃でトラックは粉々になり、トラックの運転手は死亡。同時に列車は大きく脱線し、多くの客車のクラッシャブルゾーンが衝撃を吸収し変形した。列車の乗客に死者は出なかったものの、少なくとも20人が負傷したという。

列車の負傷者は事故現場に最も近い都市、州都サンタフェにある大きな病院へ搬送され、治療を受けた。

この事故により、TUFESAは車両の修理を行わなければならなかったが、修理を断念し、対象の車両は現場の線路脇にそのまま残置された。機関車の被害も大きく、当時機関車を2機しか保有していなかったTUFESAにとっては、使用できる機関車が1機となることは会社の存続にかかわる重大な問題であり、他社から別の機関車を借りることとなった。さらに、この事故で多額の「保険金」が発生し、それらの支払いが困難ということから、当時の経営者の男性が自殺[1][2][3]。この後も、事故で使用不可能になった分の車両を追加で整備し運用に入れたが、1999年にTUFESAは国からの譲歩を取り消され、新たな企業NOA FERROCARRILES(NOA - Nor Oeste Argentino、北東アルゼンチン)が運行・車両一式を引き継いだ。

出典

サルヴァドール近郊鉄道

サルヴァドール近郊鉄道とは、南アメリカブラジル北東部バイーア州の州都サルヴァドールで運行されている近郊鉄道である。

サルヴァドール近郊鉄道
基本情報
ブラジル
所在地 バイーア州サルヴァドール
種類 鉄道
開業 1860年6月28日(鉄道路線)
詳細情報
総延長距離 13,5 km(近郊鉄道運行区間)
路線数 1
駅数 10
保有車両数 36両(3両×12編成)
軌間 1000 mm軌間
電化方式 架空電車線電化方式
直流3000 V
最高速度 70 km/h
テンプレートを表示

Emepa Alerce

Emepa Alerce(えめぱ・あれるせ)は、アルゼンチンで設計・開発・製造された革新的な気動車である。

概要

グルーポ・エメパイタリア系アルゼンチン人が創立した多角的企業である。1960年代より鉄道車両の修理事業で成功を重ね、現在は修理事業はもとより、ペルーの首都リマ初の近代的な都市鉄道であるメトロ・デ・リマ1号線の運営から和牛の飼育まで幅広い事業を展開。2013年のある日、その創業の地・アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの南に位置するチャスコムスの車両修理工場をみ鉄道車両が出場した。その車体は水色を基調としており、2両の流線形の先頭車両の間に非常に長さの短く、窓はおろかドアが一つも設置されておらず、それがあるべき場所には巨大な通風口が設置されている車両が連結されている。この車両こそがEmepa Alerceであり、

脚注

エル・テニエンテ銅山の鉱夫輸送用電車

エル・テニエンテ銅山の鉱山電車
基本情報
製造所 電動車
アルナ工機(艤装)
三菱電機尼崎工場(電装品)
付随車
ソコメタル(艤装)
製造年 1970年 - 1976年(付随車は1974年
製造数 13両(合計)
運用開始 1970年
主要諸元
軌間 1,435 mm
電気方式 架空電車線方式・直流650 V
台車 住友金属製・プレス鋼板使用コイルばね台車FS-377
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