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| footnotes = <!--脚注・小話--> |
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'''アレイスター・クロウリー<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]{{出典無効|date=2019-10-17}}</ref>'''(''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[イギリス]]の[[神秘学|オカルティスト]]、[[近代魔術|儀式魔術師]]、著述家、[[登山家]]。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。 |
'''アレイスター・クロウリー<ref>[http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30374-2.html 世界の悪魔ミステリー]{{出典無効|date=2019-10-17}}</ref>'''(''Aleister Crowley'' [http://ja.forvo.com/word/aleister_crowley 発音]、[[1875年]][[10月12日]] - [[1947年]][[12月1日]])は、[[イギリス]]の[[神秘学|オカルティスト]]、[[近代魔術|儀式魔術師]]、著述家、[[登山家]]。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の[[大衆紙]]から激しいバッシングを浴びた。[[スピリチュアリティ|スピリチュアル哲学]]の[[セレマ|セレマ思想]]を提唱し『[[法の書]]』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 1875~1904年(少年~青年期) === |
=== 1875~1904年(少年~青年期) === |
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クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。 |
クロウリーは、英国[[ウォリックシャー]]州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。キリスト教[[福音主義]]の一派[[プリマス・ブレザレン]]の敬虔な信徒であった両親の方針により、教派運営の寄宿学校で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に深く尊敬する父親と死別した事も彼を大きく打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。 |
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父が残した莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入した |
父が残した莫大な遺産を相続し、1895年に[[ケンブリッジ大学]]に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「[[黄金の夜明け団]]」に参入したクロウリーは、先輩団員{{仮リンク|チャールズ・ヘンリー・アラン・ベネット|en|Charles Henry Allan Bennett|label=アラン・ベネット}}の指導下で数々の秘儀知識を習得した。また彼の影響で同団の首領である[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マサース]]に師事するようになった<ref name="Drury">Drury, Nevill (2011). ''Stealing Fire from Heaven: The Rise of Modern Western Magic''. Oxford University Press. p.83.</ref>。1900年春に発生した団内の内紛で師匠マサースと共に黄金の夜明け団を追放されると、[[ネス湖]]の畔に購入した邸宅で半ば隠棲して[[術士アブラメリンの聖なる魔術の書|アブラメリン魔術]]の実践に着手したという。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、また登山史に残る[[K2]]登頂にも挑戦している。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトの[[カイロ]]で魔術儀式を行い、その中で[[アイワス]]と名乗る霊的存在からの幻聴を『[[法の書]]』として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求する[[セレマ|セレマ思想]]提唱の起点になった。 |
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=== 1904~1923年(壮年期) === |
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[[ファイル:Crowley Family.png|サムネイル|282x282px|妻ローズと息女ローラ|代替文=]] |
[[ファイル:Crowley Family.png|サムネイル|282x282px|妻ローズと息女ローラ|代替文=]] |
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1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、[[セレマ|セレマ思想]]の価値を巡る論争からマサースと対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。この間にマサースによる魔術攻撃を受けて不幸に見舞われたと手記に残しているが、同年夏の長女リリスの誕生によって彼は喜びに包まれている。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、ヒマラヤ山脈で[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦し、またビルマの[[黄金の三角地帯]]では[[阿片]]の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこで[[チフス熱]]に感染したのが原因だった。愛娘を失ったクロウリーの悲嘆の矛先はローズに向けられてしまい、二人の仲も急速に冷え込んだ。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。 |
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1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称してセレマの伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと |
1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「[[銀の星]]」を結成した。自身を魔術師[[エリファス・レヴィ]]の生まれ変わりと称してセレマ思想の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年に[[アルコール依存症]]に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。直後の[[アルジェリア]]滞在で成された悪魔[[コロンゾン]]の召喚儀式は近代魔術史に残る事象とされている。1912年になるとドイツのオカルト団体「[[東方聖堂騎士団]]」の指導者{{仮リンク|テーオドール・ロイス|en|Theodor Reuss}}に見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(''the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者''と書き立てられた。その理由の一つとなった事象に、パリ作業と呼ばれる[[ホモセクシュアル]]をモチーフにした[[メルクリウス]]召喚儀式がある。1914年、東方聖堂騎士団の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされている。ようやく帰国したクロウリーは1920年に念願の{{仮リンク|セレマ修道院|en|Abbey of Thelema}}を[[シチリア島]]に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を開始した。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。 |
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=== 1923~1947年(中高年~老年期) === |
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イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。1923年に東方聖堂騎士団の指導者ロイス |
イタリアを追われた後のクロウリーは、[[チュニジア]]に向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。1923年に死去した[[東方聖堂騎士団]]の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂騎士団の同志に招かれての活動を続けた。彼の高名ないし悪名が鳴り響く中で、1928年に後の魔術研究家[[イスラエル・リガルディー]]を秘書として迎え入れている。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して東方聖堂騎士団の運営に力を注ぐようになった。セレマ思想の伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産は幾度も底を尽いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こしてそれも資金源にしている。1933年の[[ナチス政権]]成立による社会統制の強化で東方聖堂騎士団の活動も困難になると、クロウリーはドイツでの後事を{{仮リンク|カール・ゲルマー|en|Karl Germer |label=}}に託してイギリスに帰国した。 |
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1935年にクロウリーは自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、執筆活動の方は精力的に続けられており、1938年から[[トート・タロット]]の制作に取り組んでいる。すでに還暦を過ぎており無一文になり果てていたクロウリーは、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。1939年に第二次世界大戦が勃発し翌年から始まった[[ロンドン大空襲]]の難を避けて、クロウリーは[[デヴォン]]州トーキーに移住した。この大戦中に東方聖堂騎士団は壊滅状態になり、[[銀の星]]もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、[[トート・タロット]]が完成しその解説書『トートの書』が上梓された。同時期に後の儀式魔術家[[ケネス・グラント]]を秘書にしている。この頃のクロウリーは慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。終戦後、[[イーストサセックス]]州に転居したクロウリーは、その波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に同州沿海の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。時に1947年12月1日、享年72歳であった。 |
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=== 没後の世評 === |
=== 没後の世評 === |
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[[ファイル:Aleister Crowley abode of Chaos.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|混沌の邸宅]] |
[[ファイル:Aleister Crowley abode of Chaos.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|混沌の邸宅]] |
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生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として |
生前のクロウリーは麻薬常習や[[バイセクシャル]]といった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、[[カウンターカルチャー]]に大きな影響を与えた稀有の人物として、[[スピリチュアリティ|スピリチュアル]]から[[ヒッピー|ヒッピー文化]]、はたまた[[ニューエイジ|ニューエイジ運動]]に到るまでの近現代思想史に特にその名を刻まれることになった。また、彼の遺産「汝の意志することを行なえ」をモットーとする[[セレマ|セレマ思想]]は、その後の[[ウイッカ|ウィッカ]]、[[ネオペイガニズム]]、[[ケイオスマジック]]、そして[[サタニズム]]の根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。 |
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数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにもクロウリーの肖像が見られる。 |
数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、[[タロット]]愛好者の間では名作[[トート・タロット]]の考案者として知られている。[[ヘヴィメタル]]ファンには、[[オジー・オズボーン]]のアルバム『[[ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説|ブリザード・オブ・オズ]]』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、[[ジミー・ペイジ]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、映画監督の[[ケネス・アンガー]]らがいる。[[ビートルズ]]の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムジャケットにもクロウリーの肖像が見られる。 |
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*1895年 - [[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学する。 |
*1895年 - [[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学する。 |
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* 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った隠秘学結社「[[黄金の夜明け団]]」のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。 |
* 1898年 - [[ケンブリッジ大学]]卒業間際に出会った隠秘学結社「[[黄金の夜明け団]]」のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。 |
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* 1900年 - 黄金の夜明け団から追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、 |
* 1900年 - 黄金の夜明け団から追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、セイロン島を回り、インドを訪れて[[ヨーガ]]も学んだ。 |
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*1902年 - インドから |
*1902年 - インドからヒマラヤ山脈に向かい[[K2]]登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。 |
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* 1904年 - 妻ローズと結婚。ハネムーン中にローズの妊娠が発覚。訪れたエジプトの[[カイロ]]で[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作『[[法の書]]』の内容となった。5月には[[マグレガー・メイザース|マサース]]と仲違いする。長女リリスことNuit Ma Ahathoor Hecate Sappho Jezebel Lilith誕生。 |
* 1904年 - 妻ローズと結婚。ハネムーン中にローズの妊娠が発覚。訪れたエジプトの[[カイロ]]で[[アイワス]]という名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作『[[法の書]]』の内容となった。5月には[[マグレガー・メイザース|マサース]]と仲違いする。長女リリスことNuit Ma Ahathoor Hecate Sappho Jezebel Lilith誕生。 |
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*1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後に、 |
*1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈の[[カンチェンジュンガ]]登頂に挑戦した後に、ビルマ、中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む。 |
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*1907年 - 次女ローラことLola Zazaが誕生する。[[銀の星]](A∴A∴)を結成し、春秋分点(''The Equinox'')と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。 |
*1907年 - 次女ローラことLola Zazaが誕生する。[[銀の星]](A∴A∴)を結成し、春秋分点(''The Equinox'')と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。[[ネス湖]]の畔で[[術士アブラメリンの聖なる魔術の書|アブラメリン魔術]]を実践する。 |
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*1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し |
*1909年 - 妻ローズと離婚する。[[アルジェリア]]に滞在し悪魔[[コロンゾン]]の召喚儀式を行なう。 |
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*1912年 - [[東方聖堂騎士団]](O.T.O.)の指導者テーオドール・ロイスに見込まれて英国支部長となる。 |
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*1913年 - 年末からフランスのパリで[[メルクリウス]]召喚儀式を行う。 |
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*1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。 |
*1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。 |
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*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。 |
*1920年 - [[シチリア|シチリア島]]の[[チェファル]]に{{仮リンク|テレマ僧院|en|Abbey of Thelema}}を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。 |
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*1923年 - 東方聖堂騎士団 (O.T.O.) の指導者ロイスが死去。その後、クロウリーがO.T.O.の首領職に就任し、その運営と発展に力を注いだ。 |
*1923年 - 東方聖堂騎士団 (O.T.O.) の指導者ロイスが死去。その後、クロウリーがO.T.O.の首領職に就任し、その運営と発展に力を注いだ。 |
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*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。 |
*1924年 - 健康状態が悪化し、[[チュニジア]]で麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。 |
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*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル |
*1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年に[[イスラエル・リガルディー]]が秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。 |
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*1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。 |
*1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。 |
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*1933年 - カール・ゲルマーにドイツの東方聖堂騎士団を託してイギリスに帰国する。 |
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*1938年 - 女流画家[[フリーダ・ハリス]]に[[トート・タロット]]の制作を依頼する。 |
*1938年 - 女流画家[[フリーダ・ハリス]]に[[トート・タロット]]の制作を依頼する。これは44年に完成した。 |
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*1939年 - 第二次世界大戦勃発前にイギリスに帰還する。 |
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*1944年 - [[ケネス・グラント]]を秘書にする。クロウリーの著作遺産管理人になる作家ジョン・シモンズと出会う。なお、彼の息子は日本人女性と結婚したのでシモンズ本人も度々来日していたという。 |
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*1947年12月1日 - 英国[[イーストサセックス]]州[[ヘイスティングス]]の地で死去。享年72歳。 |
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== 魔法名 == |
== 魔法名 == |
2020年4月4日 (土) 04:00時点における版
アレイスター・クロウリー Aleister Crowley | |
---|---|
O.T.Oグランドマスター在任時(1919年) | |
誕生 |
Edward Alexander Crowley 1875年10月12日 英国ウォリックシャー州レミントン・スパー |
死没 |
1947年12月1日(72歳没) 英国イーストサセックス州ヘイスティングス |
職業 | オカルティスト、著述家、登山家 |
国籍 | イギリス |
最終学歴 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
代表作 |
トート・タロット 『法の書』 |
配偶者 | ローズ・イーディス・ケリー |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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アレイスター・クロウリー[1](Aleister Crowley 発音、1875年10月12日 - 1947年12月1日)は、イギリスのオカルティスト、儀式魔術師、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱し『法の書』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、日本でも1980年代から数々の邦訳版が刊行されている。
経歴
1875~1904年(少年~青年期)
クロウリーは、英国ウォリックシャー州でビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれた。キリスト教福音主義の一派プリマス・ブレザレンの敬虔な信徒であった両親の方針により、教派運営の寄宿学校で教育を受けたが、成長したクロウリーは信仰を拒絶するようになった。一説には寄宿舎での人間関係トラブル(所謂いじめ)が原因とされ、彼の反抗的な性格形成の原点になったとも言われる。また、11歳の時に深く尊敬する父親と死別した事も彼を大きく打ちのめして一時期非行にも走らせる事になった。
父が残した莫大な遺産を相続し、1895年にケンブリッジ大学に入ったクロウリーは登山と詩作に熱中した。1898年に魔術結社「黄金の夜明け団」に参入したクロウリーは、先輩団員アラン・ベネットの指導下で数々の秘儀知識を習得した。また彼の影響で同団の首領であるマグレガー・マサースに師事するようになった[2]。1900年春に発生した団内の内紛で師匠マサースと共に黄金の夜明け団を追放されると、ネス湖の畔に購入した邸宅で半ば隠棲してアブラメリン魔術の実践に着手したという。その間に世界一周旅行もして見聞を広め、また登山史に残るK2登頂にも挑戦している。1904年に結婚したクロウリーは新妻ローズとのハネムーン先となったエジプトのカイロで魔術儀式を行い、その中でアイワスと名乗る霊的存在からの幻聴を『法の書』として書き留め、これが彼の生涯をかけて追求するセレマ思想提唱の起点になった。
1904~1923年(壮年期)
1904年5月にハネムーンを終えたクロウリーは、セレマ思想の価値を巡る論争からマサースと対立して袂を分かつ事になり、自身の独立を模索するようになった。この間にマサースによる魔術攻撃を受けて不幸に見舞われたと手記に残しているが、同年夏の長女リリスの誕生によって彼は喜びに包まれている。1906年、自身の道を定める為に再び世界一周へと旅立った彼は、ヒマラヤ山脈でカンチェンジュンガ登頂に挑戦し、またビルマの黄金の三角地帯では阿片の研究も行なった。その帰国後にリリスが病死しクロウリーは悲しみに沈んだ。妻ローズはリリスを連れてインドで一時行動を共にしており、そこでチフス熱に感染したのが原因だった。愛娘を失ったクロウリーの悲嘆の矛先はローズに向けられてしまい、二人の仲も急速に冷え込んだ。同時にここからクロウリーの倒錯傾向が目立ち始めている。
1907年に次女ローラが誕生し、笑顔を取り戻したクロウリーは魔術結社「銀の星」を結成した。自身を魔術師エリファス・レヴィの生まれ変わりと称してセレマ思想の伝道に取り組み、魔術の著作と詩集を次々と発表した。1909年にアルコール依存症に陥った妻ローズと止む無く離婚したがその後も交流は続けられ、ローラの親権はローズ側に譲られた。直後のアルジェリア滞在で成された悪魔コロンゾンの召喚儀式は近代魔術史に残る事象とされている。1912年になるとドイツのオカルト団体「東方聖堂騎士団」の指導者テーオドール・ロイスに見込まれて同団のイギリス支部を開設し、後に団体全体の主導権を握った。以後のクロウリーはこの二つの団体を主宰した。それに伴い、彼の奔放な異端思想活動が世間の目を引いて物議を醸すようになり、主にスキャンダルネタを扱う複数の大衆紙から、世界で最も邪悪な男(the wickedest man in the world)と名指しされ、麻薬と淫行に耽る悪魔主義者と書き立てられた。その理由の一つとなった事象に、パリ作業と呼ばれるホモセクシュアルをモチーフにしたメルクリウス召喚儀式がある。1914年、東方聖堂騎士団の活動で渡米中に第一次世界大戦が始まり、約4年間のアメリカ滞在を余儀なくされている。ようやく帰国したクロウリーは1920年に念願のセレマ修道院をシチリア島に設立し、彼の信奉者達とともに魔術の奥義を極める求道生活を開始した。しかし、彼のスキャンダルを追うイギリスの大衆紙から堕落と退廃の見本のように書き立てられ、また敷地内で病死者も出たことから、1923年にイタリア政府はクロウリーに国外退去を命じた。
1923~1947年(中高年~老年期)
イタリアを追われた後のクロウリーは、チュニジアに向かい過度の麻薬依存からの回復を試みたが上手くいかなかった。1923年に死去した東方聖堂騎士団の指導者ロイスはクロウリーを後継者に指名し、翌年から団体を受け継いだ。母国イギリスでは一大バッシングキャンペーンが待ち構えていたので、1925年のクロウリーはほとぼりが冷めるまでフランスに滞在する事にし、フランス国内各地を転々としつつ主に東方聖堂騎士団の同志に招かれての活動を続けた。彼の高名ないし悪名が鳴り響く中で、1928年に後の魔術研究家イスラエル・リガルディーを秘書として迎え入れている。1929年になるとフランス治安当局からも退去を命じられたのでイギリスへ一時帰国し、翌1930年からドイツに活動の拠点を移して東方聖堂騎士団の運営に力を注ぐようになった。セレマ思想の伝道にも取り組み続けた。これらはほとんど収入にならなかったので活動費の捻出を続けるクロウリーの財産は幾度も底を尽いたが、その度に彼を信奉する新たなパトロンを見つけ、また繰り返されるバッシングと剽窃を理由にした賠償請求訴訟を起こしてそれも資金源にしている。1933年のナチス政権成立による社会統制の強化で東方聖堂騎士団の活動も困難になると、クロウリーはドイツでの後事をカール・ゲルマーに託してイギリスに帰国した。
1935年にクロウリーは自己破産を申請し、以前のような団体主催活動は不可能になったが、執筆活動の方は精力的に続けられており、1938年からトート・タロットの制作に取り組んでいる。すでに還暦を過ぎており無一文になり果てていたクロウリーは、ロンドンを中心にした各地の弟子たちに生活の面倒を見てもらうようになった。その中でも高級な葉巻とシャンパンを嗜むライフスタイルはできる限り維持し、彼の思想に魅せられた人々の訪問を受け入れて交流を重ねた。1939年に第二次世界大戦が勃発し翌年から始まったロンドン大空襲の難を避けて、クロウリーはデヴォン州トーキーに移住した。この大戦中に東方聖堂騎士団は壊滅状態になり、銀の星もクロウリーの身内サークル程度のものになっていた。1944年、トート・タロットが完成しその解説書『トートの書』が上梓された。同時期に後の儀式魔術家ケネス・グラントを秘書にしている。この頃のクロウリーは慢性気管支炎の悪化による喘息症状に苦しめられていた。終戦後、イーストサセックス州に転居したクロウリーは、その波乱と狂騒に満ちた人生とは対照的に同州沿海の静かな片田舎でひっそりと息を引き取った。時に1947年12月1日、享年72歳であった。
没後の世評
生前のクロウリーは麻薬常習やバイセクシャルといった部分をあげつらわれて世間から悪しざまに罵られたが、カウンターカルチャーに大きな影響を与えた稀有の人物として、スピリチュアルからヒッピー文化、はたまたニューエイジ運動に到るまでの近現代思想史に特にその名を刻まれることになった。また、彼の遺産「汝の意志することを行なえ」をモットーとするセレマ思想は、その後のウィッカ、ネオペイガニズム、ケイオスマジック、そしてサタニズムの根底に流れるアウトサイダー指向の妥当性を裏付ける哲学として一定の存在感を放ち続けている。
数々のオカルト分野で才能を発揮したクロウリーは、タロット愛好者の間では名作トート・タロットの考案者として知られている。ヘヴィメタルファンには、オジー・オズボーンのアルバム『ブリザード・オブ・オズ』に収録されている「Mr.クロウリー -死の番人-」のモチーフとして認知されている。彼の支持者としては、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、映画監督のケネス・アンガーらがいる。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにもクロウリーの肖像が見られる。
年譜
- 1875年10月12日 - 英国ウォリックシャー州レミントンスパーの地で、ビール醸造業を営む裕福な家庭に生まれる。エドワード・アレグザンダー(Edward Alexander)と名付けられ、アレイスターは後の改名である。両親はキリスト教の一派プリマス・ブレザレンの信徒であった。
- 1883年 - ブラザレン派の寄宿学校に入るが、1年余りで退学した。以降の彼は厳格なキリスト教教育に反発するようになる。
- 1887年 - 父エドワード死去。父を深く尊敬していたクロウリーはひどく打ちのめされ、非行にも手を染め始めたという。父が残した莫大な遺産は彼の後々までの活動資金になった。
- 189x年 - 二つのパブリックスクールに入退学した後に、イーストボーン・カレッジで化学を専攻した。
- 1895年 - ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学する。
- 1898年 - ケンブリッジ大学卒業間際に出会った隠秘学結社「黄金の夜明け団」のメンバーに触発され、自身も参入してその教義を学ぶ。
- 1900年 - 黄金の夜明け団から追放され、世界一周の船旅に出る。メキシコ、ハワイ、横浜、香港、セイロン島を回り、インドを訪れてヨーガも学んだ。
- 1902年 - インドからヒマラヤ山脈に向かいK2登頂に挑戦した後に、再び出航してパリに到着する。
- 1904年 - 妻ローズと結婚。ハネムーン中にローズの妊娠が発覚。訪れたエジプトのカイロでアイワスという名の霊的存在に接触しその声の幻聴を書き留める。これが代表作『法の書』の内容となった。5月にはマサースと仲違いする。長女リリスことNuit Ma Ahathoor Hecate Sappho Jezebel Lilith誕生。
- 1906年 - 再び世界一周に出て、ヒマラヤ山脈のカンチェンジュンガ登頂に挑戦した後に、ビルマ、中国、横浜、カナダからニューヨークへ向かう。イギリスに帰還後、長女リリスが病死し悲嘆に沈む。
- 1907年 - 次女ローラことLola Zazaが誕生する。銀の星(A∴A∴)を結成し、春秋分点(The Equinox)と題した機関誌で多数の詩と魔術論文を発表する。ネス湖の畔でアブラメリン魔術を実践する。
- 1909年 - 妻ローズと離婚する。アルジェリアに滞在し悪魔コロンゾンの召喚儀式を行なう。
- 1912年 - 東方聖堂騎士団(O.T.O.)の指導者テーオドール・ロイスに見込まれて英国支部長となる。
- 1913年 - 年末からフランスのパリでメルクリウス召喚儀式を行う。
- 1914年 - O.T.O.の活動でアメリカ訪問中に第一次世界大戦が始まり、終戦まで滞在を余儀なくされる。
- 1920年 - シチリア島のチェファルにテレマ僧院を開設する。ここで様々な魔術の実践研究を行い薬物なども利用された。イタリア治安当局に問題視され1923年に国外退去を命じられた。
- 1923年 - 東方聖堂騎士団 (O.T.O.) の指導者ロイスが死去。その後、クロウリーがO.T.O.の首領職に就任し、その運営と発展に力を注いだ。
- 1924年 - 健康状態が悪化し、チュニジアで麻薬依存からの回復を試みるが失敗する。
- 1925年 - フランスに向かい各地で活動する。28年にイスラエル・リガルディーが秘書になる。29年に治安当局から国外退去を命じられる。
- 1930年 - 活動の拠点をドイツに移す。
- 1933年 - カール・ゲルマーにドイツの東方聖堂騎士団を託してイギリスに帰国する。
- 1938年 - 女流画家フリーダ・ハリスにトート・タロットの制作を依頼する。これは44年に完成した。
- 1944年 - ケネス・グラントを秘書にする。クロウリーの著作遺産管理人になる作家ジョン・シモンズと出会う。なお、彼の息子は日本人女性と結婚したのでシモンズ本人も度々来日していたという。
- 1947年12月1日 - 英国イーストサセックス州ヘイスティングスの地で死去。享年72歳。
魔法名
魔術結社内で用いられる個人名。ラテン語の銘(モットー)を用いることが多い。
- Perdurabo (ペルデュラボー) (0°=0□, G∴D∴) - ラテン語で「われ耐え忍ばん」。
- ΟΥ ΜΗ (オミクロン・ユプシロン ミュー・エータ) (7°=4□, A∴A∴)
- Vi Veri Vniversum Vivus Vici (8°=3□, A∴A∴) - ラテン語で「われ、真実の力によりて生きながらに万象に打ち克てり」。
- To Mega Therion (ト・メガ・セリオン)〔Τὸ Μεγα Θηρίον (ト・メガ・テーリオン)〕(9°=2□, A∴A∴) - ギリシア語で「大いなる獣」。
- Baphomet (バフォメット)(X°, O.T.O.)
著書
日本語訳されたもののみ記載。
- 『法の書』 Sor. Raven訳(O.T.O. Japan公式日本語訳、詳細は法の書の項を参照)
- 『法の書』 島弘之訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02438-1
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(上)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02590-6
- 『世界魔法大全 英国篇2 魔術 - 理論と実践(下)』 島弘之他訳、国書刊行会、1983年、ISBN 978-4-336-02594-4
- (新装版)『魔術 - 理論と実践』 島弘之他訳、国書刊行会、1997年、ISBN 978-4-336-04043-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集1 神秘主義と魔術』 島弘之訳、国書刊行会、1986年、ISBN 978-4-336-02615-6
- 『アレイスター・クロウリー著作集2 トートの書』 榊原宗秀訳、1991年、ISBN 978-4-336-03095-5
- (新装版)『トートの書』 榊原宗秀訳、2004年、ISBN 978-4-336-04647-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集3 麻薬常用者の日記』 植松靖夫訳、国書刊行会、1987年、ISBN 978-4-336-02616-3
- 改訳新装版、同上 全3巻、2017年
- 『アレイスター・クロウリー著作集4 霊視と幻聴』 飯野友幸訳、国書刊行会、1988年、ISBN 978-4-336-02617-0
- 『アレイスター・クロウリー著作集5 777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、1992年、ISBN 978-4-336-03096-2
- (新装版)『777の書』 江口之隆訳、国書刊行会、2013年、ISBN 978-4-336-05781-5
- 『アレイスター・クロウリー著作集別巻2 アレイスター・クロウリーの魔術日記』 スティーヴン・スキナー編、江口之隆訳、国書刊行会、1998年、ISBN 978-4-336-03097-9
- 『ムーンチャイルド』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1990年、ISBN 978-4-488-55201-5
- 『黒魔術の娘』 江口之隆訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1991年、ISBN 978-4-488-55202-2
登場作品
小説
- トマス・ウィーラー『神秘結社アルカーヌム』
- ランダル・コリンズ『シャーロック・ホームズ対オカルト怪人』
- サマセット・モーム『魔術師』(The Magician) - 魔術師オリヴァー・ハドゥーはクロウリーがモデル。
- コリン・ウィルソン『ジェラード・ソーム氏の性の日記』- 自称魔術師カラドック・カニンガムはクロウリーがモデル。
- 鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』 - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アレイスター本人が現代まで生き延びたという設定であり、作品の根幹を担うキーキャラクターである。アニメ版の担当声優は関俊彦。
漫画
- 氷室奈美『タロットウォーズ』 - 死後のクロウリーが幽体(アストラル体)で登場。
- 星野桂『D.Gray-man』 - 吸血鬼のようなエクソシストがアレイスター・クロウリー三世という名で登場。作者はキャラクター設定において、「ユースケ・サンタマリアがモデルだ」と公言している。
- CLAMP『カードキャプターさくら』 - 精霊を封印するクロウカードの制作者クロウ・リードの名前のモデル。
- 外薗昌也『犬神』 - 作中に登場する「23細胞」命名の由来となる「生命の樹宇宙論」の提唱者。
アダルトアニメ
- 『新・バイブルブラック』 - アレイスターの孫娘、ジョディ・クロウリーが登場。
ゲーム
- 『真・女神転生II』 - 魔界ネツァクのボスとして登場。
テレビドラマ
- 『木曜の怪談』 - 怪奇倶楽部の小学生編でクラスターに解説された。
音楽
- 「Mr. Crowley」 - オジー・オズボーンの楽曲。アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説』に収録。
脚注
- ^ 世界の悪魔ミステリー[出典無効]
- ^ Drury, Nevill (2011). Stealing Fire from Heaven: The Rise of Modern Western Magic. Oxford University Press. p.83.
関連項目
外部リンク
- Aleister Crowleyの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Aleister Crowleyに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- アレイスター・クロウリーの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- The Skeptic's Dictionary 日本語版 アレイスター・クロウリーの項