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[[File:Monetaria moneta 01.JPG|thumb|250px|タカラガイの一種であるキイロダカラの貝貨]] |
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'''貝貨'''(ばいか)とは[[貝殻]]を用いた[[貨幣]]である。アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカで使われており、特に[[タカラガイ]]は豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、[[キイロダカラ]](''Monetaria moneta'')と[[ハナビラダカラ]](''Monetaria annulus'')が広範な地域で用いられた。 |
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'''貝貨'''(ばいか)とは[[貝殻]]を用いた[[貨幣]]である。 |
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[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[オセアニア]]、[[アメリカ]]で使われており、特に[[タカラガイ]]は豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、[[キイロダカラ]](''Monetaria moneta'')と[[ハナビラダカラ]](''Monetaria annulus'')が広範な地域で用いられた{{Sfn|上田|2016|pp=171/4511}}。 |
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== 中国 == |
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[[ファイル:Chinese shell money 16th 8th century BCE.jpg|thumb|200px|古代中国の貝貨]] |
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古代中国の[[殷]]では、東南アジアからの交易でタカラガイを入手し、国内で[[贈り物|贈与]]の交易や埋葬品に用いたとされ、その単位として「朋」が定められた。貝は亀甲とともに貴重とされ、のちには[[石]]、[[骨]]、[[銅]]などで貝貨を模した倣製品としての貨幣も作られた。[[楚 (春秋)|楚]]はタカラガイを模した銅貨を作り、新の[[王莽]]は貝貨制度を復活させた<ref>山田『貨幣の中国古代史』p12</ref>。 |
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== 概要 == |
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[[File:Muschelgeld Neuirland Papua Neuguinea um 1900 02.JPG|thumb|250px|パプアニューギニアの貝貨]] |
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14世紀のマラバールやベンガル地方では、タカラガイは米を買うための少額貨幣として用いられていた。[[モルディブ諸島]]でとれたタカラガイが用いられた<ref>イブン・バットゥータ『大旅行記 6』 p207</ref>。 |
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[[File:National Museum of Ethnology, Osaka - Shell money - Yap Island in Federated States of Micronesia - Collected in 1977.jpg|thumb|250px|ヤップ島の貝貨・ガウ{{Sfn|須藤|2007|pp=}}]] |
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貝は古来から呪物、装飾品、ゲームの駒などに用いられており、貨幣として使われる条件には希少性が関わっていた。最も希少な場合は宗教的な呪物や特別な装飾品として使われ、数量が増えると[[貨幣]]となり、さらに増えると日常の装飾品となった{{efn|タカラガイは[[インドシナ半島]]では貝貨であり、雲南の山地では晴れ着の装飾品、[[チベット高原]]では儀礼用の品、[[モンゴル高原]]ではシャーマンの儀礼の呪物などに使われた{{Sfn|上田|2016|pp=2436-2443/4511}}。}}{{Sfn|上田|2016|pp=2441-2448/4511}}。 |
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タカラガイを珍重した初期の文化は、紀元前5500年頃の[[メソポタミア]]の[[アッシリア]]、紀元前6000年から5000年の中央ユーラシアの[[ヅェトゥン文化]]、東アジアの紀元前2000年頃の[[馬家窯文化]]、紀元前の[[パプアニューギニア]]の[[カフィアヴァナ]]などの遺跡から確認でき、これらは威信財や呪物としてタカラガイを用いたと推測される{{efn|タカラガイの形状が女性器に似ていることから、豊穣を願う儀礼などに用いられた{{Sfn|上田|2016|pp=496-550/4511}}。}}{{Sfn|後藤|1996|pp=204}}{{Sfn|上田|2016|pp=496-562/4511}}。 |
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貝類が貨幣として優れている点は、 |
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:(1) 個数を数えやすい |
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:(2) 小額単位に向いており日常の取引に使える |
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:(3) 模造されにくい |
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:(4) 腐食や変質しにくく素材として安定している |
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:(5) 取引される財に対して中立である |
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などがあげられる{{Sfn|ポランニー|2004|pp=220-221}}{{Sfn|黒田|2014|pp=5-6}}。 |
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8世紀から13世紀は南アジア・東南アジア・東アジアで貝貨が使われていた{{Sfn|上田|2016|pp=1057-1093/4511}}。 |
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貝貨が最も活発に流通したのは、13世紀から14世紀の[[元]]の時代にあたる。当時の貨幣には東ユーラシアの[[銅銭]]、西ユーラシアの[[金貨]]や[[銀貨]]、南ユーラシアの貝貨などがあり、これらは個数を数える[[計数貨幣]]であった。これに対して[[モンゴル帝国]]や[[元]]では重量を測って使う[[秤量貨幣]]の[[銀錠#元宝|銀]]を集め、ユーラシアの征服を進めるとともに貿易に銀を使った。元によって交易路が結びつけられ、銀が循環して各地の交易が活発になると、貝貨も[[雲南]]から[[アフリカ]]にかけて流通した。元による銀の循環が14世紀に滞るようになると、各地の交易も減少していった{{Sfn|上田|2016|pp=1610-1624/4511}}{{Sfn|黒田|2014|pp=61-65}}。 |
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ヨーロッパによる[[アメリカ合衆国の植民地時代|アメリカ植民地]]では金属貨幣が不足しており、先住民の貝貨が法律で[[通貨]]として認められて流通した{{Sfn|浅羽|1991|pp=105-106}}。 |
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19世紀以降は、国際[[金本位制]]や、一国一通貨の原則の普及が進み、各地の貝貨は国家が発行する[[硬貨]]や[[紙幣]]に置き換えられていった{{Sfn|黒田|2014|pp=180-189}}。使われなくなった貝貨は装飾や工芸品に変わっていったが、現在でも貨幣として流通している地域がある{{Sfn|深田|2006|pp=2-4}}。 |
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===産地=== |
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漢籍の資料によれば、キイロダカラの産地はインド洋の[[モルディブ諸島]]、[[ラッカディヴ諸島]]、フィリピンの[[スールー諸島]]とされる。これらは産地で集められたのちに各地に運ばれた{{Sfn|安木|2012|pp=124}}。 |
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日本語では{{仮リンク|ハチジョウダカラ|en|Mauritia mauritiana}}という殻長7センチの貝を[[子安貝]]と呼ぶが、タカラガイの総称として使われる場合がある{{Sfn|安木|2012|pp=124}}。 |
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北アメリカの貝貨は東海岸の[[ロングアイランド]]周辺、オセアニアでは[[ソロモン諸島]]が中心となった{{Sfn|浅羽|1991|pp=121-122}}{{Sfn|後藤|1991|p=116}}。 |
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===形状=== |
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原料となる貝に穴を開けて紐を通し、ビーズ状にして使用された。均一な大きさの貝を流通させるために、採取のときに大きさが選ばれていた。例えば自然界のハナビラダカラは殻長が8.9ミリメートルから37.4ミリメートルまであるが、東ユーラシアで流通したハナビラダカラは25ミリメートル前後にそろえられている{{Sfn|上田|2016|pp=2428-2434/4511}}。 |
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== 東アジア == |
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[[ファイル:Shellfish Currencies. China Numismatic Museum.jpg|thumb|250px|古代中国の貝貨、中国貨幣博物館]] |
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紀元前15世紀の[[商]](殷)や、紀元前11世紀の[[周]]では、東南アジアからの交易でタカラガイを入手し、[[贈り物|贈与]]や埋葬品に用いた。タカラガイを糸でつないだものを{{仮リンク|朋|zh|朋 (货币单位)}}と呼び、王朝では儀礼における贈与や下賜などの[[互酬]]のためにタカラガイを使ったとされる{{efn|商のタカラガイには[[南西諸島]]から運ばれたものが含まれているという説があるが、現在では否定されている{{Sfn|柳田|1978|pp=43-45}}{{Sfn|上田|2016|pp=66/4511}}{{Sfn|木下|2020|p=13}}。}}。副葬品としてもタカラガイが使われており、呪術的な意味があった{{efn|被葬者の手の中や、口中などにタカラガイが置かれた{{Sfn|上田|2016|pp=678-697/4511}}。}}。朋は物品の価値を示すためにも使われた{{Sfn|佐藤|2016|p=63}}。商や周のタカラガイを貝貨とみなす説は[[前漢]]の頃にできたといわれており、タカラガイの解釈については議論がある。前漢時代にすでに存在していた金属貨幣からさかのぼって、過去に重宝されていたタカラガイが貨幣だったと類推した可能性がある{{Sfn|上田|2016|pp=795-801/4511}}。貝は亀甲とともに貴重とされ、のちには石、骨、銅などでタカラガイを模倣した貨幣も作られた。[[楚 (春秋)|楚]]はタカラガイを模した{{仮リンク|銅貝|zh|铜贝}}を作り、[[新]]の[[王莽]]は復古政策の一つとして貝貨を流通させた。王莽の政策が破綻したのちは、貝貨が雲南以外で使われることはなかった{{Sfn|山田|2000|p=12}}。貨、財、販、買、貸、貴、賎、費、贈、賑といった漢字に貝が含まれるのは、当時貝貨が使われていたためとされる{{Sfn|上田|2016|pp=66/4511}}。 |
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[[ファイル:Shinkosen.jpg|thumb|250px|琉球の進貢船。1383年に明は大型の進貢船を琉球に提供し、朝貢回数などで琉球に特例を与えた{{Sfn|上里|2018|loc=第2章、第3章}}。]] |
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; 雲南 |
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東南アジアに近い[[雲南]]では、北方よりも大量のタカラガイが出土している。『[[新唐書]]』の南詔伝によれば、雲南の[[南詔]]では貝が交易の貨幣として使われ、16枚の貝が覓(べき)という単位で呼ばれていたという記録がある。南詔ののちの[[大理国]]の時代もタカラガイの貝貨は流通していた{{Sfn|上田|2016|pp=1057-1093/4511}}。13世紀には元が雲南を征服しており、当時[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の商人だった[[マルコ・ポーロ]]は、タカラガイの貝貨が雲南で使われていたと『[[東方見聞録]]』で語っている。貝貨は80個=銀1サジュ(3.6グラム)にあたり、80個単位で紐でまとめていたと考えられる{{efn|ポーロの記録には疑問点があるため、ポーロ自身は中国に行っておらず、伝聞をもとにしているという説がある{{Sfn|上田|2016|pp=1140-1160/4511}}。}}{{Sfn|上田|2016|pp=1106-1192/4511}}。元の歴史について書かれた『[[元史]]』にも、13世紀の雲南で貝貨が流通していた記録があり、キイロダカラが中心だった。貝貨は金の代わりとして納税に使えたが、通常のレートで金1サジュ=貝貨640個だったのに対して納税のレートは金1サジュ=貝貨1600個であり、貝貨しか持たない者にとっては不利だった{{Sfn|安木|2012|pp=124-125}}。タカラガイは密輸でも雲南に持ち込まれており、元の法令集『[[元典章]]』には、雲南へのタカラガイの密輸の禁止条例があり、有力者が賄賂と引き換えに密輸を支援していたと記録がある{{Sfn|上田|2016|pp=1465-1472/4511}}。 |
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雲南では[[明]]の時代もタカラガイが使われた。[[琉球王国]]は明への朝貢でタカラガイ(海巴)550万個を送っており、雲南の貝貨は赤道付近以外からも産出していた可能性がある{{Sfn|安木|2012|pp=124}}。朝貢に使った[[進貢船]]が停泊していた那覇港の[[御物城]](おものぐすく)や[[渡地村]](わたんぢむら)では、14世紀から16世紀の大量のタカラガイが発見されており、最も多いのは明の[[洪武帝]]から[[永楽帝]]の時期にあたる{{Sfn|上田|2016|pp=1977-1998/4511}}。朝貢で集まったタカラガイは南京に貯蔵されて雲南の皇族や官僚に送られた{{Sfn|上田|2016|pp=1871/4511}}。 |
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1610年頃からタカラガイの銀に対するレートの下落幅が大きくなり、1524年には銀1両=タカラガイ7200個だったが、1647年は銀1両=56000個となった。[[清]]の支配下となった1680年代にはタカラガイは流通しなくなり、代わって銅銭が使われるようになった。原因としては、タカラガイの供給が途絶したためとされている{{efn|[[オランダ東インド会社]]の進出でタカラガイが西方に送られるようになった点、薩摩藩の[[琉球侵攻]]によって琉球の朝貢が滞った点などがあげられる{{Sfn|上田|2016|pp=2048-2118/4511}}。}}{{Sfn|上田|2016|pp=2048-2061/4511}}。 |
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== 東南アジア・南アジア == |
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[[ファイル:Travel Route of Ibn Battuta from Beijing to home and later journey (Ko).svg|300px|thumb|イブン・バットゥータの旅程]] |
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; インドシナ |
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13世紀タイの[[ランナータイ朝]]をはじめとする諸王朝で、タカラガイの貝貨が使われていた記録がある{{Sfn|上田|2016|pp=1396-1403/4511}}。13世紀の雲南で流通したタカラガイは、チャオプラヤー川の流域の[[ロッブリー|ロカック]]({{仮リンク|羅斛|zh|羅斛}})から運ばれていた可能性がある。14世紀の商人[[汪大淵]]の『{{仮リンク|東夷誌略|zh|岛夷志略}}』には羅斛の物産としてタカラガイの記録があり、ポーロの『東方見聞録』とも一致する。タカラガイはタイ沿岸で集められたのちに交易路で[[ムアン]]、[[スコータイ朝]]、ランナータイをへて雲南に運ばれたと考えられる{{Sfn|上田|2016|pp=1472-1491/4511}}。 |
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14世紀の[[タンジェ]]出身の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は、『[[リフラ]]』でタカラガイの貝貨について記している。モルディブ諸島に生息するタカラガイが貝貨となり、島民はベンガルのコメと交換していた。貝貨の単位は、タカラガイ100個がステヤーフ、700個がファール、1200個がクッター、10万個がブストゥーと呼ばれ、4ブストゥー=金貨1枚だった。モルディブのタカラガイはベンガルに運ばれたのち、西はイエメンからアフリカのスーダンなどに運ばれ、東はタイ南部から雲南へと運ばれた{{Sfn|イブン・バットゥータ|2001|p=207}}{{Sfn|上田|2016|pp=1530-1549/4511}}。 |
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;インド |
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18世紀から19世紀の[[ベンガル地方]]では比較的高額の[[ルピー|ルピー銀貨]]が納税に使われ、市場では小額の銅貨とタカラガイの貝貨が使われた。レートは1ルピー=銅貨64パイ=貝貨5120個であり、[[ムガル帝国]]の末期まで一般的に流通し、一部の地域では19世紀前半まで納税に貝貨を使用できた{{efn|1814年のカタックの通貨の内訳は、金貨を1とすると銀貨24、銅貨4、貝貨11となっていた{{Sfn|黒田|2014|p=78}}。}}。タカラガイはヨーロッパ船によってモルディブ諸島から[[オリッサ]]やベンガルなどの海岸へ運ばれており、商人はモルディブで1ルピー9000個のレートで仕入れて2500から3000個のレートで売った。貝貨はかさばるため、[[イギリス東インド会社]]の収税官は納税された貝貨を他の地域に送金できなかったという記録もある。貝貨と銀貨の相場は周期的に変化しており、貝貨は農産物の対価として払われるので収穫期に相場が上昇し、納税に必要な銀貨は納税期に相場が上昇した{{Sfn|黒田|2014|pp=77-80}}。 |
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== アフリカ == |
== アフリカ == |
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[[画像:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|400px|thumb|13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路]] |
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タカラガイは14世紀頃からインド洋からアフリカへ運ばれた。貝貨に用いたタカラガイには2種類あり、キイロダカラは上級とされ、ハナビラダカラは2級品とされた。14世紀に[[イブン・バットゥータ]]がニジェール川流域で貝貨を見ており<ref>イブン・バットゥータ『大旅行記』</ref>、15世紀には[[ベニン王国]]や[[コンゴ王国]]、アルドラでも用いられ、やがて[[ダホメ王国]]に導入された。 |
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; インド洋・サハラ交易 |
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9世紀から10世紀には、インド洋に面する東アフリカからタカラガイやビーズが交易で運ばれ、コンゴ川流域の内陸にある{{仮リンク|ルバ王国|en|Kingdom of Luba}}の[[カタンガ州|シャバ]]や{{仮リンク|ルンダ王国|en|Kingdom of Lunda}}の[[ザンビア]]にも届いた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=975-994/8297}}。アフリカで交易に使われた最初のタカラガイは南東の[[モザンビーク]]産という説もある。モザンビークでは現在もハナビラダカラが採取され、インド向けに輸出されている{{Sfn|上田|2016|pp=4089-4095/4511}}。13世紀後半から14世紀頃にインド洋からアフリカへ運ばれたタカラガイには2種類あり、キイロダカラが上級で、ハナビラダカラが2級品とされた{{Sfn|ポランニー|2004|pp=218-219}}。西アフリカにタカラガイを持ち込んだのは、サハラ砂漠を横断する[[サハラ交易]]を行うアラブ人や[[トゥアレグ人]]とされており、14世紀には旅行者のイブン・バットゥータが[[ニジェール川]]流域の貝貨について記している{{Sfn|島田|2019|pp=11}}{{Sfn|イブン・バットゥータ|2001|p=207}}。 |
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; 大西洋貿易 |
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17世紀から18世紀にかけてのダホメ王国では、金1オンスと貝貨3万2千個の交換比率が安定して維持された<ref>ポランニー『経済と文明』p215</ref>。ダホメでは、市場の食料品の取引など、国内の支払い手段として貝貨が普及した。市場では砂金も使えたが、少額である貝貨のほうが適していた。また、貝貨は二重勘定が用いられ、卸売が小売に売る際には、10×8が100と数えられた。このため、小売商人は20%の代価を確保できるよう定められていた<ref>ポランニー『経済と文明』 p110</ref>。ダホメには、タカラガイが市場の貨幣となるきっかけが伝説としても伝えられていた。 |
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15世紀には[[ベニン王国]]・[[コンゴ王国]]・{{仮リンク|アルドラ王国|en|Kingdom of Ardra}}でも用いられ、大西洋貿易が始まるとポルトガルによって沿岸部でもタカラガイの貝貨が流入した。[[奴隷貿易]]にともなって大西洋からの流入が増えて内陸ルートは減少し。タカラガイの急増によって価値が下落した。ニジェール川を探検した[[マンゴ・パーク]]の記録によれば、1795年の{{仮リンク|バンバラ帝国|en|Bamana Empire|label=バンバラ}}では1シリング=250個だったが、19世紀中期には1シリング9.5ペンス=2000個(10束)となった{{efn|1823年にナイジェリアを探検した[[ヒュー・クラッパートン]]は、朝の牛乳1ガロンに貝貨50個、昼食のローストチキン3羽と主食に50個、使用人たちへの謝礼として総額10万個、奴隷には各2000個を与えたと書いている{{Sfn|島田|2019|p=12}}。}}{{Sfn|島田|2019|pp=11-12}}{{Sfn|坂井|2017|pp=175-176}}。 |
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[[File:A print from 1845 shows cowry shells being used as money by an Arab trader.jpg|thumb|250px|1845年のアラブ商人が使っていた貝貨]] |
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17世紀から18世紀にかけて欧米との奴隷貿易で栄えた[[ダホメ王国]]では、タカラガイを通貨として制度化していた。市場での食料品購入など国内の支払い手段として貝貨が使われた。市場では砂金も使えたが、少額である貝貨のほうが適していた{{Sfn|ポランニー|2004|pp=113-117}}。金に対するレートは金1オンス=貝貨32000個が安定して維持された{{Sfn|ポランニー|2004|p=122}}。アフリカには貝貨に二重勘定を用いる地域があり、売り手のマージンとなった。ダホメで卸売が小売に売る際には、10×8が100と数えられた。このため小売商人は20%の代価を確保できるように定められていた。西スーダンやバンバラでも貝貨について同様の記数法が見られた{{Sfn|ポランニー|2004|pp=115-116}}。貝貨は金融でも使われており、[[ヨルバ人]]のアジョと呼ばれる貯蓄制度や、エススと呼ばれる庶民金融でタカラガイが通用した。エススではメンバーが定期的に出資し、集まった額を一人ずつ受け取ってゆく決まりだった{{efn|こうした庶民金融は、日本では[[頼母子講]]や無尽、フランス語でトンチン、英語で{{仮リンク|ロスカ(RSCAs)|en|Rotating savings and credit association}}と呼ばれる{{Sfn|坂井|2017|pp=174}}。}}{{Sfn|坂井|2017|pp=174-176}}。 |
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ダホメには、タカラガイが貨幣になった由来についての伝説がある。伝説によれば、はじめは貨幣も市場もなく、人々は互いの持ち物を交換していた。そこにダホメ最初の王であるテ・アグバンリが外来者として現れて、市場を作った。そして土着の王であるアグワ=ゲデは、大地から食料の落花生と貨幣のタカラガイを引っ張り出して人々に与えた。人々はアグワ=ゲデを讃え、市場でタカラガイの貨幣を使って食料を買うようになったという{{Sfn|ポランニー|2004|pp=229-230}}。伝説を解釈すると、タカラガイは外界から持ち込まれたので現地の人々は生態などを知らない点、物々交換に替わって貨幣が使われる点、貨幣は権力を表す点などが判明する{{Sfn|上田|2016|pp=4079-4089/4511}}。 |
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; 植民地時代 |
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19世紀末から20世紀にかけて、欧米諸国がアフリカ大陸を植民地とするために進出した。当時もナイジェリアはタカラガイの貝貨が流通しており、イギリスは1920年までに貝貨を非合法として自国で発行する銅貨に切り替えようとした。しかし貝貨は非公式に使われ続け、イギリスは新貨幣を普及させるために給料、納税、市場での取引において新貨幣を義務化し、次第に新貨幣が普及していった{{Sfn|坂井|2017|pp=180-181}}。 |
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== アメリカ == |
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[[ファイル:Wampum ej perry.jpg|thumb|250px|right|ホンビノスガイとバイ貝で作られたウォンパム]] |
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海岸沿いの[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]]は、{{仮リンク|ウォンパム|en|Wampum}}という貝の工芸品を貨幣として使っていた。[[ニュー・イングランド]]の[[ホンビノスガイ]]や[[ミゾコブシボラ]]から作られる数珠玉であり、白、黒または暗紫色のものがある。黒や暗紫色のウォンパムは、一般に白よりも価値が高かった。紐で結ばれて使われ、ウォンパムピーグとも呼ばれた。ウォンパムは装飾品や装身具、貢物であり、先住民にとって貴重品だったが、作ることは誰にもできた。先住民の首長は、これを兵士に報酬として渡していた。ウォンパムを始めたのは[[ロードアイランド植民地]]の近くの[[ナラガンセット族]]であり、ウォンパムを大量に作ったのはロングアイランドの{{仮リンク|メトアック族|en|Metoac}}だった。海岸の部族は、川沿いの[[モホーク族]]や、さらに内陸の有力な部族への貢物や、五大湖周辺で高価だったビーバーの毛皮を手に入れるためにウォンパムを使った{{Sfn|浅羽|1991|pp=121-122}}。 |
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ヨーロッパからの入植者で初めてウォンパムを入手したのは1627年、[[オランダ西インド会社]]が経営する[[ニューネーデルラント]]のド・ラジェールである。ド・ラジェールはメトアック族との取引でウォンパムを入手し、[[プリマス植民地]]に持ち込んだ。当時の植民地では食料を自給できなかったため、先住民との交易ではウォンパムをビーバー毛皮・トウモロコシ・鹿肉と交換し、武器・アルコール・ウィスキー・衣類をウォンパムと交換した。食料が自給できるようになると、ビーバーの[[毛皮交易]]でウォンパムが多用された{{efn|ビーバーの毛皮は、当時のヨーロッパで帽子に使われる人気商品だった。[[ヨハネス・フェルメール]]の絵画『{{仮リンク|士官と笑う娘|en|Officer and Laughing Girl}}』には、ビーバー毛皮の帽子をかぶる人物が描かれている{{Sfn|ブルック|2014|loc=第2章}}。}}。土地の購入にもウォンパムが使われ、1657年に植民地人は100ポンド分のウォンパムピーグで{{仮リンク|コナニィカット島|en|Conanicut Island}}を手に入れている{{Sfn|浅羽|1991|pp=122-123}}。 |
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当時のアメリカ植民地では金属が産出されず、金属貨幣の発行は本国から禁止されていたため、ウォンパムは植民地同士の交易でも使われるようになった{{efn|アメリカ植民地の金属貨幣不足は慢性的であり、17世紀から18世紀にかけては代用貨幣としてトウモロコシ、毛皮、小麦、米、タバコなども使われた。有名な[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]が起きるのは19世紀である{{Sfn|浅羽|1991|p=105}}。}}。1637年の法律でウォンパムピーグは6個で1ペンスと定められ、1640年には白のウォンパムピーグが4個で1ペンス、ブルーは2個で1ペンスと定められた。法律でレートが定められたことにより、ウォンパムは小額の法定通貨として認められていった。植民地人と先住民の交易は平和理に続いたが、毛皮価格の下落、ビーバーの生息数減少による毛皮入手難などの状況が重なって交易にウォンパムが使われなくなっていった。加えて、メトアック族たちに独占されていたウォンパムの生産に植民地人が参入し、質の低いウォンパムを生産した{{efn|骨や石による模造品を作ったり、白いウォンパムを染色して高価に見せようとした{{Sfn|浅羽|1991|p=126}}。}}。こうして1661年には法定通貨としてのウォンパムは廃止され、[[フィリップ王戦争]](1675年)で先住民と植民地人の対立は激化した{{Sfn|浅羽|1991|pp=123-127}}。 |
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== オセアニア == |
== オセアニア == |
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[[File:SOLS0344 (10722050956).jpg|thumb|250px|パプアニューギニアの貝貨・タブ。]] |
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[[パプアニューギニア]]の通貨である[[キナ (通貨)|キナ]]は、貝貨に用いていたキナ貝を由来とする。貝貨は現在でも使われており、キナはタブという貝貨と交換可能となっている。 |
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; パプアニューギニア |
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[[東ニューブリテン州]]の{{仮リンク|トーライ人|en|Tolai people}}は、{{仮リンク|ムシロガイ|en|Nassarius}}からビーズ状の工芸品を作り、このビーズはタブという貨幣として現在でも流通している。トーライの人々はタブを婚資や賠償の支払いや、威信財、交換などに伝統的に使ってきた{{efn|トーライ人は、パプアニューギニアで最も伝統文化を保っている民族集団のひとつともいわれる。また、19世紀後半からの[[ドイツ領ニューギニア]]の植民地支配により、パプアニューギニアで最も早くから西欧の市場経済や貨幣制度に接してきた集団でもある{{Sfn|深田|2006|p=2}}。}}。素材があれば誰でもタブを作れるが、ムシロガイは近隣には生息していないため、遠方から獲得したりコストをかけて輸送する類のものであり、現在はソロモン諸島から運ばれている。タブの単位はいくつかあり、最もよく使うのはポコノと呼ばれ、大人が両手を広げたときの左右の手の幅(約180センチ)にあたる。ポコノより大きい単位としてアリップがあり、1アリップ=10ポコノとなる。ポコノより小さい単位には1/2ポコノにあたるパパール、1/4ポコノにあたるトゥラマリクンがある。貝殻の数を基準にする単位としてはパラタプがあり、1パラタプは貝殻1個にあたる。最大の単位としては、100ポコノから1000ポコノを車輪状にしたロロイがある{{Sfn|深田|2006|pp=2-4}}。 |
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タブは日常の交換の他に、頼みごとのお礼、納税、裁判の賠償などに使われる。貯蔵されたタブは、婚資や葬儀などでロロイとして使われ、ロロイは切り分けられて参加者に分配される{{efn|儀礼におけるタブの消費は[[ポトラッチ]]的な示威行動の面や、社会秩序の再生産という面も持っている{{Sfn|深田|2006|pp=6-7}}。}}。日常的な交換でタブの使用は減っているため、大量のタブが出る儀礼はタブを得る機会であり、現金収入の少ない人々が分配されたタブで買い物をする機会でもある{{Sfn|深田|2006|pp=4-8}}。パプアニューギニアの通貨である[[キナ (通貨)|キナ]]の名称は、貝貨に用いていたキナ貝を由来とする。州政府はタブを補完通貨として制度化を進めており、2002年時点で1ポコノ=4-5キナとなり、タブとキナの交換サービスもある{{efn|キナのインフレーションのためにタブの価値が上がりつつある{{Sfn|深田|2006|pp=}}。}}{{Sfn|深田|2006|pp=9-12}}。高地族では、[[シロチョウガイ]]が最高の貨幣として扱われる{{Sfn|武田|2004|pp=43-44}} |
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[[File:LaulasiShellmoney1.jpg|thumb|250px|ランガランガ・ラグーンの貝貨製作]] |
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; ソロモン諸島・ヤップ島 |
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ソロモン諸島では、[[マライタ島]]の{{仮リンク|ランガランガ・ラグーン|en|Langa Langa Lagoon}}が貝貨の製作地域として知られている。素材にする貝は4種類あり、暗赤色のケエ(アマボウシガイ)、赤色のロム(キクザルガイ)、白色のカカヅ([[ハイガイ]])、黒色のクリラ([[クロタイラギ]])である。これらから作るビーズ状の貝貨は3種類あり、ケエから作るサフィ、カカヅから作るイサエ・ガリア、4種類を合わせたアクアラ・アフである{{efn|アクアラ・アフはタフリアエとも呼ばれ、長さや形態によってさらに6種類に分かれる{{Sfn|後藤|1991|p=116}}。}}。これらの貝貨はマーケットで売られてマライタ島や[[ブーゲンヴィル島]]、[[ガダルカナル島]]で流通しており、現金収入の手段として女性が中心になって製作している。貝貨には紛争の賠償、カヌーや豚など重要な品との交換の他に、婚資として夫側が支払うという重要な役割もある{{Sfn|後藤|1991|pp=110, 116}}。レートは、アクアラ・アフ1本=イサエ・ガリア5本から10本=200から400[[ソロモン諸島ドル]](約1万円から4万円)にあたる{{efn|婚資では、アクアラ・アフ10本から20本とイサエ・ガリア20から40本が支払われる{{Sfn|後藤|1996|pp=230}}。}}{{Sfn|後藤|1996|pp=225}}。 |
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その他にも、ケエのビーズをつないだサフィやバニ・アウ、白い巻貝から作るファアア、ケエ・カカヅ・クリラで作るガダルカナル島の貝貨タリナなどがランガランガで製作されている{{Sfn|後藤|1996|pp=227-228}}。マライタ島の南部ではファタファガという貝貨があり、アクアラ・アフ1本=ファタファガ2本にあたる{{Sfn|武田|2004|pp=43-44}}。ソロモン西部の[[ニュー・ジョージア諸島]]には、ポアタという腕輪状の貝貨がある。ポアタは{{仮リンク|オオシャコガイ|en|Giant clam}}から作られ、世襲の専門家であるマタゾナが製作する{{Sfn|後藤|1996|pp=219-222}}。 |
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巨大な[[石貨 (ヤップ島)|石貨]]でも知られる[[ヤップ島]]には、{{仮リンク|ウミギクガイ|en|Spondylus}}から作るガウという貝貨があり、村同士の紛争解決や重罪の賠償金として支払われた。現在は通貨ではないが、銀行ではガウを担保にしたローンが可能となっている{{Sfn|須藤|2007|pp=}}。 |
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== 工芸・交易との関係 == |
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貝貨が日常的に使われる地域では、貨幣と工芸品との区別ははっきりしている。しかし貝貨の使用頻度が減ったり、貝貨の存在しない文化圏の人間にとっては、貨幣と工芸品の区別が困難となる。土産物の装身具として受け取った貝が多額の現金とみなされ、税関で持ち込みを禁止される場合もある{{Sfn|後藤|1996|pp=216-217}}。 |
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貝貨のない地域が貝貨の原料を輸出したり、装飾や呪術的な目的で貝の交易をすることは世界各地で行われてきた。パプアニューギニアでは{{仮リンク|マッシム地方|en|Milne Bay Province}}で貝のネックレスと腕輪を使う[[クラ (交易)|クラ]]が最も有名であり、南東の[[モツ族]]による{{仮リンク|ヒリ (交易)|en|Hiri trade cycle|label=ヒリ}}や、高地のメルパ族が[[アコヤガイ]]を使って行う{{仮リンク|モカ (交換)|en|Moka exchange|label=モカ}}がある。南西諸島では[[弥生時代]]の九州と[[イモガイ]]や[[ゴホウラ]]交易があり、7世紀以降は日本の朝廷や唐と[[ヤコウガイ]]交易が行われた。アメリカ大陸では、北西海岸の{{仮リンク|トロワ族|en|Tolowa}}の交易や、中米の[[コパン]]や南米の[[モチェ文化|モチェ]]におけるウミギクガイの交易などがある{{Sfn|後藤|1996|pp=200-211}}{{Sfn|高梨|2005|pp=140-152}}{{Sfn|中村|2007|loc=第7章}}{{Sfn|関|2010|loc=第3章}}{{Sfn|安里|2013|pp=392-395}}。 |
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== 出典・脚注 == |
== 出典・脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|2}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="†"|}} |
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{{Notelist|2|}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3|}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite journal|和書|author=[[安里進]]|year=2013 |url=https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2096&item_no=1&page_id=13&block_id=41 |title=7~12世紀の琉球列島をめぐる3つの問題 |
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* [[イブン・バットゥータ]] 『大旅行記』全8巻 家島彦一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1996 - 2002年。 |
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|format=PDF|work=|journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |publisher=国立歴史民俗博物館 |month=nov |volume=179 |issue= |pages=391-423 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|安里|2013}}}} |
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* [[黒田明伸]] 『貨幣システムの世界史』(増補新版) 岩波書店、2014年。 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[浅羽良昌]]|year=1991 |url=https://opera.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11498&item_no=1&page_id=13&block_id=21 |title=アメリカ植民地貨幣史論|format=PDF|work=|journal=大阪府立大学経済研究叢書 |publisher=大阪府立大学経済学部 |month=jul |volume=75 |issue= |pages=1-177 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|浅羽|1991}}}} |
|||
* [[深田淳太郎]]「[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15636/1/kunitachi0000100010.pdf パプアニューギニア、トーライ社会における貝貨タブをめぐる現在の状況]」くにたち人類学研究、2006年。 |
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* {{Citation| 和書 |
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*[[カール・ポランニー]] 『経済と文明-ダホメの経済人類学的分析』 栗本慎一郎・端信行訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年。 |
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| author = イブン・バットゥータ |
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* [[山田勝芳]] 『貨幣の中国古代史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年。 |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[木下尚子]]|year=2020 |url=https://kumadai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=31611&item_no=1&page_id=13&block_id=21 |title=「燕(つばくらめ)の子安貝」考 : 古代のタカラガイ使用について|format=PDF|work=|journal=人文科学論叢 |publisher=熊本大学大学院人文社会科学研究部 |month=mar |volume=1 |issue= |pages=1-18 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|木下|2020}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[後藤明]]|year=1991 |url=http://hdl.handle.net/2241/14235 |title=ソロモン諸島・マライタ島ランガランガ・ラグーンにおける貝貨製作|format=PDF|work=|journal=比較民俗研究 |publisher=筑波大学比較民俗研究会 |month=sep |volume=4 |issue= |pages=110-127 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|後藤|1991}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[坂井真紀子]]|year=2017|url=http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/89925|title=アフリカ農村における現金の貸し借りの歴史(2) - 植民地以前のローカル金融とその変化|format=PDF|work=|publisher=東京外国語大学論集 95|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|坂井|2017}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Cite web|author=[[須藤健一]]|year=2007|url=https://www.minpaku.ac.jp/museum/enews/073otakara|title=みんぱくのオタカラ ガウ|format=PDF|work=|publisher=国立民族学博物館|accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|須藤|2007}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[武田淳]]|year=2004 |url=http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/13547 |title=貝と人とのかかわり:利用にみる地域資源と文化 |format=PDF|work=|journal=佐賀大学農学部彙報 |publisher=佐賀大学農学部 |month=mar |volume=89 |issue= |pages= 31-53 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|武田|2004}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author-link = 中村誠一 (考古学者|中村誠一) |
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* {{Cite journal|和書|author=[[深田淳太郎]]|year=2006 |url=http://www.fujixerox.co.jp/company/social/next/foundation/pdf/F-070.pdf |title=パプアニューギニア、イーストニューブリテン州に おける貝貨タブの補完貨幣化プロジェクト|format=PDF|work=|journal=富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 小林フェローシップ 2003 年度研究助成論文 |publisher=富士ゼロックス小林節太郎記念基金 |month=mar |volume= |issue= |pages= 1-25 |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|深田|2006}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Cite journal|和書|author=[[安木新一郎]]|year=2011|url=https://oiu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=49&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21|title=13世紀後半モンゴル帝国領雲南における貨幣システム|format=PDF|work=|publisher=大阪国際大学|journal =国際研究論叢|issue =25|volume =|accessdate=2018-03-08|ref={{sfnref|安木|2011}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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* {{Citation| 和書 |
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== 関連文献 == |
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* {{Citation| 和書 |
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| author-link = |
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| title = 中国銅銭の世界 - 銭貨から経済史へ |
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| publisher = 思文閣出版 |
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| series = 佛教大学鷹陵文化叢書16 |
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}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[中国の貨幣制度史]] |
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* [[貝部]] |
* [[貝部]] |
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* [[貝子]] |
* [[貝子]] |
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* [[貨幣史]] |
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* [[中国の貨幣制度史]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commonscat|Shell money}} |
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*[http://www.fujixerox.co.jp/company/social/next/foundation/pdf/F-070.pdf パプアニューギニア、イーストニューブリテン州に おける貝貨タブの補完貨幣化プロジェクト] (深田淳太郎) |
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{{Economy-stub}} |
2020年8月28日 (金) 18:41時点における版
アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカで使われており、特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラ(Monetaria moneta)とハナビラダカラ(Monetaria annulus)が広範な地域で用いられた[1]。
概要
貝は古来から呪物、装飾品、ゲームの駒などに用いられており、貨幣として使われる条件には希少性が関わっていた。最も希少な場合は宗教的な呪物や特別な装飾品として使われ、数量が増えると貨幣となり、さらに増えると日常の装飾品となった[注釈 1][4]。
タカラガイを珍重した初期の文化は、紀元前5500年頃のメソポタミアのアッシリア、紀元前6000年から5000年の中央ユーラシアのヅェトゥン文化、東アジアの紀元前2000年頃の馬家窯文化、紀元前のパプアニューギニアのカフィアヴァナなどの遺跡から確認でき、これらは威信財や呪物としてタカラガイを用いたと推測される[注釈 2][6][7]。
貝類が貨幣として優れている点は、
- (1) 個数を数えやすい
- (2) 小額単位に向いており日常の取引に使える
- (3) 模造されにくい
- (4) 腐食や変質しにくく素材として安定している
- (5) 取引される財に対して中立である
8世紀から13世紀は南アジア・東南アジア・東アジアで貝貨が使われていた[10]。
貝貨が最も活発に流通したのは、13世紀から14世紀の元の時代にあたる。当時の貨幣には東ユーラシアの銅銭、西ユーラシアの金貨や銀貨、南ユーラシアの貝貨などがあり、これらは個数を数える計数貨幣であった。これに対してモンゴル帝国や元では重量を測って使う秤量貨幣の銀を集め、ユーラシアの征服を進めるとともに貿易に銀を使った。元によって交易路が結びつけられ、銀が循環して各地の交易が活発になると、貝貨も雲南からアフリカにかけて流通した。元による銀の循環が14世紀に滞るようになると、各地の交易も減少していった[11][12]。
ヨーロッパによるアメリカ植民地では金属貨幣が不足しており、先住民の貝貨が法律で通貨として認められて流通した[13]。
19世紀以降は、国際金本位制や、一国一通貨の原則の普及が進み、各地の貝貨は国家が発行する硬貨や紙幣に置き換えられていった[14]。使われなくなった貝貨は装飾や工芸品に変わっていったが、現在でも貨幣として流通している地域がある[15]。
産地
漢籍の資料によれば、キイロダカラの産地はインド洋のモルディブ諸島、ラッカディヴ諸島、フィリピンのスールー諸島とされる。これらは産地で集められたのちに各地に運ばれた[16]。
日本語ではハチジョウダカラという殻長7センチの貝を子安貝と呼ぶが、タカラガイの総称として使われる場合がある[16]。
北アメリカの貝貨は東海岸のロングアイランド周辺、オセアニアではソロモン諸島が中心となった[17][18]。
形状
原料となる貝に穴を開けて紐を通し、ビーズ状にして使用された。均一な大きさの貝を流通させるために、採取のときに大きさが選ばれていた。例えば自然界のハナビラダカラは殻長が8.9ミリメートルから37.4ミリメートルまであるが、東ユーラシアで流通したハナビラダカラは25ミリメートル前後にそろえられている[19]。
東アジア
紀元前15世紀の商(殷)や、紀元前11世紀の周では、東南アジアからの交易でタカラガイを入手し、贈与や埋葬品に用いた。タカラガイを糸でつないだものを朋と呼び、王朝では儀礼における贈与や下賜などの互酬のためにタカラガイを使ったとされる[注釈 3]。副葬品としてもタカラガイが使われており、呪術的な意味があった[注釈 4]。朋は物品の価値を示すためにも使われた[24]。商や周のタカラガイを貝貨とみなす説は前漢の頃にできたといわれており、タカラガイの解釈については議論がある。前漢時代にすでに存在していた金属貨幣からさかのぼって、過去に重宝されていたタカラガイが貨幣だったと類推した可能性がある[25]。貝は亀甲とともに貴重とされ、のちには石、骨、銅などでタカラガイを模倣した貨幣も作られた。楚はタカラガイを模した銅貝を作り、新の王莽は復古政策の一つとして貝貨を流通させた。王莽の政策が破綻したのちは、貝貨が雲南以外で使われることはなかった[26]。貨、財、販、買、貸、貴、賎、費、贈、賑といった漢字に貝が含まれるのは、当時貝貨が使われていたためとされる[21]。
- 雲南
東南アジアに近い雲南では、北方よりも大量のタカラガイが出土している。『新唐書』の南詔伝によれば、雲南の南詔では貝が交易の貨幣として使われ、16枚の貝が覓(べき)という単位で呼ばれていたという記録がある。南詔ののちの大理国の時代もタカラガイの貝貨は流通していた[10]。13世紀には元が雲南を征服しており、当時ヴェネツィアの商人だったマルコ・ポーロは、タカラガイの貝貨が雲南で使われていたと『東方見聞録』で語っている。貝貨は80個=銀1サジュ(3.6グラム)にあたり、80個単位で紐でまとめていたと考えられる[注釈 5][29]。元の歴史について書かれた『元史』にも、13世紀の雲南で貝貨が流通していた記録があり、キイロダカラが中心だった。貝貨は金の代わりとして納税に使えたが、通常のレートで金1サジュ=貝貨640個だったのに対して納税のレートは金1サジュ=貝貨1600個であり、貝貨しか持たない者にとっては不利だった[30]。タカラガイは密輸でも雲南に持ち込まれており、元の法令集『元典章』には、雲南へのタカラガイの密輸の禁止条例があり、有力者が賄賂と引き換えに密輸を支援していたと記録がある[31]。
雲南では明の時代もタカラガイが使われた。琉球王国は明への朝貢でタカラガイ(海巴)550万個を送っており、雲南の貝貨は赤道付近以外からも産出していた可能性がある[16]。朝貢に使った進貢船が停泊していた那覇港の御物城(おものぐすく)や渡地村(わたんぢむら)では、14世紀から16世紀の大量のタカラガイが発見されており、最も多いのは明の洪武帝から永楽帝の時期にあたる[32]。朝貢で集まったタカラガイは南京に貯蔵されて雲南の皇族や官僚に送られた[33]。
1610年頃からタカラガイの銀に対するレートの下落幅が大きくなり、1524年には銀1両=タカラガイ7200個だったが、1647年は銀1両=56000個となった。清の支配下となった1680年代にはタカラガイは流通しなくなり、代わって銅銭が使われるようになった。原因としては、タカラガイの供給が途絶したためとされている[注釈 6][35]。
東南アジア・南アジア
- インドシナ
13世紀タイのランナータイ朝をはじめとする諸王朝で、タカラガイの貝貨が使われていた記録がある[36]。13世紀の雲南で流通したタカラガイは、チャオプラヤー川の流域のロカック(羅斛)から運ばれていた可能性がある。14世紀の商人汪大淵の『東夷誌略』には羅斛の物産としてタカラガイの記録があり、ポーロの『東方見聞録』とも一致する。タカラガイはタイ沿岸で集められたのちに交易路でムアン、スコータイ朝、ランナータイをへて雲南に運ばれたと考えられる[37]。
14世紀のタンジェ出身の旅行家イブン・バットゥータは、『リフラ』でタカラガイの貝貨について記している。モルディブ諸島に生息するタカラガイが貝貨となり、島民はベンガルのコメと交換していた。貝貨の単位は、タカラガイ100個がステヤーフ、700個がファール、1200個がクッター、10万個がブストゥーと呼ばれ、4ブストゥー=金貨1枚だった。モルディブのタカラガイはベンガルに運ばれたのち、西はイエメンからアフリカのスーダンなどに運ばれ、東はタイ南部から雲南へと運ばれた[38][39]。
- インド
18世紀から19世紀のベンガル地方では比較的高額のルピー銀貨が納税に使われ、市場では小額の銅貨とタカラガイの貝貨が使われた。レートは1ルピー=銅貨64パイ=貝貨5120個であり、ムガル帝国の末期まで一般的に流通し、一部の地域では19世紀前半まで納税に貝貨を使用できた[注釈 7]。タカラガイはヨーロッパ船によってモルディブ諸島からオリッサやベンガルなどの海岸へ運ばれており、商人はモルディブで1ルピー9000個のレートで仕入れて2500から3000個のレートで売った。貝貨はかさばるため、イギリス東インド会社の収税官は納税された貝貨を他の地域に送金できなかったという記録もある。貝貨と銀貨の相場は周期的に変化しており、貝貨は農産物の対価として払われるので収穫期に相場が上昇し、納税に必要な銀貨は納税期に相場が上昇した[41]。
アフリカ
- インド洋・サハラ交易
9世紀から10世紀には、インド洋に面する東アフリカからタカラガイやビーズが交易で運ばれ、コンゴ川流域の内陸にあるルバ王国のシャバやルンダ王国のザンビアにも届いた[42]。アフリカで交易に使われた最初のタカラガイは南東のモザンビーク産という説もある。モザンビークでは現在もハナビラダカラが採取され、インド向けに輸出されている[43]。13世紀後半から14世紀頃にインド洋からアフリカへ運ばれたタカラガイには2種類あり、キイロダカラが上級で、ハナビラダカラが2級品とされた[44]。西アフリカにタカラガイを持ち込んだのは、サハラ砂漠を横断するサハラ交易を行うアラブ人やトゥアレグ人とされており、14世紀には旅行者のイブン・バットゥータがニジェール川流域の貝貨について記している[45][38]。
- 大西洋貿易
15世紀にはベニン王国・コンゴ王国・アルドラ王国でも用いられ、大西洋貿易が始まるとポルトガルによって沿岸部でもタカラガイの貝貨が流入した。奴隷貿易にともなって大西洋からの流入が増えて内陸ルートは減少し。タカラガイの急増によって価値が下落した。ニジェール川を探検したマンゴ・パークの記録によれば、1795年のバンバラでは1シリング=250個だったが、19世紀中期には1シリング9.5ペンス=2000個(10束)となった[注釈 8][47][48]。
17世紀から18世紀にかけて欧米との奴隷貿易で栄えたダホメ王国では、タカラガイを通貨として制度化していた。市場での食料品購入など国内の支払い手段として貝貨が使われた。市場では砂金も使えたが、少額である貝貨のほうが適していた[49]。金に対するレートは金1オンス=貝貨32000個が安定して維持された[50]。アフリカには貝貨に二重勘定を用いる地域があり、売り手のマージンとなった。ダホメで卸売が小売に売る際には、10×8が100と数えられた。このため小売商人は20%の代価を確保できるように定められていた。西スーダンやバンバラでも貝貨について同様の記数法が見られた[51]。貝貨は金融でも使われており、ヨルバ人のアジョと呼ばれる貯蓄制度や、エススと呼ばれる庶民金融でタカラガイが通用した。エススではメンバーが定期的に出資し、集まった額を一人ずつ受け取ってゆく決まりだった[注釈 9][53]。
ダホメには、タカラガイが貨幣になった由来についての伝説がある。伝説によれば、はじめは貨幣も市場もなく、人々は互いの持ち物を交換していた。そこにダホメ最初の王であるテ・アグバンリが外来者として現れて、市場を作った。そして土着の王であるアグワ=ゲデは、大地から食料の落花生と貨幣のタカラガイを引っ張り出して人々に与えた。人々はアグワ=ゲデを讃え、市場でタカラガイの貨幣を使って食料を買うようになったという[54]。伝説を解釈すると、タカラガイは外界から持ち込まれたので現地の人々は生態などを知らない点、物々交換に替わって貨幣が使われる点、貨幣は権力を表す点などが判明する[55]。
- 植民地時代
19世紀末から20世紀にかけて、欧米諸国がアフリカ大陸を植民地とするために進出した。当時もナイジェリアはタカラガイの貝貨が流通しており、イギリスは1920年までに貝貨を非合法として自国で発行する銅貨に切り替えようとした。しかし貝貨は非公式に使われ続け、イギリスは新貨幣を普及させるために給料、納税、市場での取引において新貨幣を義務化し、次第に新貨幣が普及していった[56]。
アメリカ
海岸沿いのアメリカ先住民は、ウォンパムという貝の工芸品を貨幣として使っていた。ニュー・イングランドのホンビノスガイやミゾコブシボラから作られる数珠玉であり、白、黒または暗紫色のものがある。黒や暗紫色のウォンパムは、一般に白よりも価値が高かった。紐で結ばれて使われ、ウォンパムピーグとも呼ばれた。ウォンパムは装飾品や装身具、貢物であり、先住民にとって貴重品だったが、作ることは誰にもできた。先住民の首長は、これを兵士に報酬として渡していた。ウォンパムを始めたのはロードアイランド植民地の近くのナラガンセット族であり、ウォンパムを大量に作ったのはロングアイランドのメトアック族だった。海岸の部族は、川沿いのモホーク族や、さらに内陸の有力な部族への貢物や、五大湖周辺で高価だったビーバーの毛皮を手に入れるためにウォンパムを使った[17]。
ヨーロッパからの入植者で初めてウォンパムを入手したのは1627年、オランダ西インド会社が経営するニューネーデルラントのド・ラジェールである。ド・ラジェールはメトアック族との取引でウォンパムを入手し、プリマス植民地に持ち込んだ。当時の植民地では食料を自給できなかったため、先住民との交易ではウォンパムをビーバー毛皮・トウモロコシ・鹿肉と交換し、武器・アルコール・ウィスキー・衣類をウォンパムと交換した。食料が自給できるようになると、ビーバーの毛皮交易でウォンパムが多用された[注釈 10]。土地の購入にもウォンパムが使われ、1657年に植民地人は100ポンド分のウォンパムピーグでコナニィカット島を手に入れている[58]。
当時のアメリカ植民地では金属が産出されず、金属貨幣の発行は本国から禁止されていたため、ウォンパムは植民地同士の交易でも使われるようになった[注釈 11]。1637年の法律でウォンパムピーグは6個で1ペンスと定められ、1640年には白のウォンパムピーグが4個で1ペンス、ブルーは2個で1ペンスと定められた。法律でレートが定められたことにより、ウォンパムは小額の法定通貨として認められていった。植民地人と先住民の交易は平和理に続いたが、毛皮価格の下落、ビーバーの生息数減少による毛皮入手難などの状況が重なって交易にウォンパムが使われなくなっていった。加えて、メトアック族たちに独占されていたウォンパムの生産に植民地人が参入し、質の低いウォンパムを生産した[注釈 12]。こうして1661年には法定通貨としてのウォンパムは廃止され、フィリップ王戦争(1675年)で先住民と植民地人の対立は激化した[61]。
オセアニア
- パプアニューギニア
東ニューブリテン州のトーライ人は、ムシロガイからビーズ状の工芸品を作り、このビーズはタブという貨幣として現在でも流通している。トーライの人々はタブを婚資や賠償の支払いや、威信財、交換などに伝統的に使ってきた[注釈 13]。素材があれば誰でもタブを作れるが、ムシロガイは近隣には生息していないため、遠方から獲得したりコストをかけて輸送する類のものであり、現在はソロモン諸島から運ばれている。タブの単位はいくつかあり、最もよく使うのはポコノと呼ばれ、大人が両手を広げたときの左右の手の幅(約180センチ)にあたる。ポコノより大きい単位としてアリップがあり、1アリップ=10ポコノとなる。ポコノより小さい単位には1/2ポコノにあたるパパール、1/4ポコノにあたるトゥラマリクンがある。貝殻の数を基準にする単位としてはパラタプがあり、1パラタプは貝殻1個にあたる。最大の単位としては、100ポコノから1000ポコノを車輪状にしたロロイがある[15]。
タブは日常の交換の他に、頼みごとのお礼、納税、裁判の賠償などに使われる。貯蔵されたタブは、婚資や葬儀などでロロイとして使われ、ロロイは切り分けられて参加者に分配される[注釈 14]。日常的な交換でタブの使用は減っているため、大量のタブが出る儀礼はタブを得る機会であり、現金収入の少ない人々が分配されたタブで買い物をする機会でもある[64]。パプアニューギニアの通貨であるキナの名称は、貝貨に用いていたキナ貝を由来とする。州政府はタブを補完通貨として制度化を進めており、2002年時点で1ポコノ=4-5キナとなり、タブとキナの交換サービスもある[注釈 15][66]。高地族では、シロチョウガイが最高の貨幣として扱われる[67]
- ソロモン諸島・ヤップ島
ソロモン諸島では、マライタ島のランガランガ・ラグーンが貝貨の製作地域として知られている。素材にする貝は4種類あり、暗赤色のケエ(アマボウシガイ)、赤色のロム(キクザルガイ)、白色のカカヅ(ハイガイ)、黒色のクリラ(クロタイラギ)である。これらから作るビーズ状の貝貨は3種類あり、ケエから作るサフィ、カカヅから作るイサエ・ガリア、4種類を合わせたアクアラ・アフである[注釈 16]。これらの貝貨はマーケットで売られてマライタ島やブーゲンヴィル島、ガダルカナル島で流通しており、現金収入の手段として女性が中心になって製作している。貝貨には紛争の賠償、カヌーや豚など重要な品との交換の他に、婚資として夫側が支払うという重要な役割もある[68]。レートは、アクアラ・アフ1本=イサエ・ガリア5本から10本=200から400ソロモン諸島ドル(約1万円から4万円)にあたる[注釈 17][70]。
その他にも、ケエのビーズをつないだサフィやバニ・アウ、白い巻貝から作るファアア、ケエ・カカヅ・クリラで作るガダルカナル島の貝貨タリナなどがランガランガで製作されている[71]。マライタ島の南部ではファタファガという貝貨があり、アクアラ・アフ1本=ファタファガ2本にあたる[67]。ソロモン西部のニュー・ジョージア諸島には、ポアタという腕輪状の貝貨がある。ポアタはオオシャコガイから作られ、世襲の専門家であるマタゾナが製作する[72]。
巨大な石貨でも知られるヤップ島には、ウミギクガイから作るガウという貝貨があり、村同士の紛争解決や重罪の賠償金として支払われた。現在は通貨ではないが、銀行ではガウを担保にしたローンが可能となっている[2]。
工芸・交易との関係
貝貨が日常的に使われる地域では、貨幣と工芸品との区別ははっきりしている。しかし貝貨の使用頻度が減ったり、貝貨の存在しない文化圏の人間にとっては、貨幣と工芸品の区別が困難となる。土産物の装身具として受け取った貝が多額の現金とみなされ、税関で持ち込みを禁止される場合もある[73]。
貝貨のない地域が貝貨の原料を輸出したり、装飾や呪術的な目的で貝の交易をすることは世界各地で行われてきた。パプアニューギニアではマッシム地方で貝のネックレスと腕輪を使うクラが最も有名であり、南東のモツ族によるヒリや、高地のメルパ族がアコヤガイを使って行うモカがある。南西諸島では弥生時代の九州とイモガイやゴホウラ交易があり、7世紀以降は日本の朝廷や唐とヤコウガイ交易が行われた。アメリカ大陸では、北西海岸のトロワ族の交易や、中米のコパンや南米のモチェにおけるウミギクガイの交易などがある[74][75][76][77][78]。
出典・脚注
注釈
- ^ タカラガイはインドシナ半島では貝貨であり、雲南の山地では晴れ着の装飾品、チベット高原では儀礼用の品、モンゴル高原ではシャーマンの儀礼の呪物などに使われた[3]。
- ^ タカラガイの形状が女性器に似ていることから、豊穣を願う儀礼などに用いられた[5]。
- ^ 商のタカラガイには南西諸島から運ばれたものが含まれているという説があるが、現在では否定されている[20][21][22]。
- ^ 被葬者の手の中や、口中などにタカラガイが置かれた[23]。
- ^ ポーロの記録には疑問点があるため、ポーロ自身は中国に行っておらず、伝聞をもとにしているという説がある[28]。
- ^ オランダ東インド会社の進出でタカラガイが西方に送られるようになった点、薩摩藩の琉球侵攻によって琉球の朝貢が滞った点などがあげられる[34]。
- ^ 1814年のカタックの通貨の内訳は、金貨を1とすると銀貨24、銅貨4、貝貨11となっていた[40]。
- ^ 1823年にナイジェリアを探検したヒュー・クラッパートンは、朝の牛乳1ガロンに貝貨50個、昼食のローストチキン3羽と主食に50個、使用人たちへの謝礼として総額10万個、奴隷には各2000個を与えたと書いている[46]。
- ^ こうした庶民金融は、日本では頼母子講や無尽、フランス語でトンチン、英語でロスカ(RSCAs)と呼ばれる[52]。
- ^ ビーバーの毛皮は、当時のヨーロッパで帽子に使われる人気商品だった。ヨハネス・フェルメールの絵画『士官と笑う娘』には、ビーバー毛皮の帽子をかぶる人物が描かれている[57]。
- ^ アメリカ植民地の金属貨幣不足は慢性的であり、17世紀から18世紀にかけては代用貨幣としてトウモロコシ、毛皮、小麦、米、タバコなども使われた。有名なカリフォルニア・ゴールドラッシュが起きるのは19世紀である[59]。
- ^ 骨や石による模造品を作ったり、白いウォンパムを染色して高価に見せようとした[60]。
- ^ トーライ人は、パプアニューギニアで最も伝統文化を保っている民族集団のひとつともいわれる。また、19世紀後半からのドイツ領ニューギニアの植民地支配により、パプアニューギニアで最も早くから西欧の市場経済や貨幣制度に接してきた集団でもある[62]。
- ^ 儀礼におけるタブの消費はポトラッチ的な示威行動の面や、社会秩序の再生産という面も持っている[63]。
- ^ キナのインフレーションのためにタブの価値が上がりつつある[65]。
- ^ アクアラ・アフはタフリアエとも呼ばれ、長さや形態によってさらに6種類に分かれる[18]。
- ^ 婚資では、アクアラ・アフ10本から20本とイサエ・ガリア20から40本が支払われる[69]。
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- 宮本正興; 松田素二 編『改訂新版 新書アフリカ史(Kindle版)』講談社〈講談社現代新書〉、2018年。
- 安木新一郎「13世紀後半モンゴル帝国領雲南における貨幣システム」(PDF)『国際研究論叢』第25号、大阪国際大学、2011年、2018年3月8日閲覧。
- 柳田國男『海上の道』岩波書店〈岩波文庫〉、1978年。
- 山田勝芳『貨幣の中国古代史』朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年。
関連文献
- 宮澤知之『中国銅銭の世界 - 銭貨から経済史へ』思文閣出版〈佛教大学鷹陵文化叢書16〉、2007年。