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2020年6月4日 (木) 00:28時点における版
崇光天皇 | |
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即位礼 | 1350年2月3日(貞和5年12月26日) |
元号 |
貞和 観応 |
時代 | 室町時代・南北朝時代 |
先代 | 光明天皇 |
次代 | 後光厳天皇 |
誕生 | 1334年5月25日(建武元年4月22日) |
崩御 | 1398年1月31日(応永5年1月13日)) |
陵所 | 大光明寺陵 |
追号 |
崇光院 (崇光天皇) |
諱 |
益仁 興仁 |
父親 | 光厳天皇 |
母親 | 藤原秀子 |
子女 |
伏見宮栄仁親王 興信法親王 瑞室 弘助法親王 |
皇居 | 京都御所 |
親署 |
崇光天皇(すこうてんのう[1]、1334年5月25日〈建武元年4月22日〉- 1398年1月31日〈応永5年1月13日〉)は、日本の北朝第3代天皇(在位:1348年11月18日〈貞和4年10月27日〉-1351年11月26日〈観応3年11月7日〉)。諱は益仁(ますひと)、後に興仁(おきひと)。
現在の皇室と旧皇族11宮家(1947年〈昭和22年〉に皇籍離脱)の共通の先祖たる天皇である(なお最後の共通の祖先は孫にあたる伏見宮貞成親王)。
系譜
光厳天皇の第一皇子。母は、陽禄門院(内大臣正親町三条公秀の娘秀子)。
- 典侍:庭田(源)資子(按察典侍) - 庭田重資女
- 女御:安福殿女御
- 宮人:三条局
- 第一皇女:瑞宝女王
- 第三皇子:弘助法親王
系図
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
光厳天皇の第一皇子として誕生したが、北朝が成立した際、父である光厳上皇は興仁(崇光)ではなく花園法皇の皇子である直仁親王の立太子を望んだ。だが、光厳上皇に実子があるにも関わらず、従弟の直仁の擁立に異論を挟む廷臣が多く、光厳もやむなく興仁を立てることとし、暦応元年(1338年)に立太子される[2]。
貞和4年(1348年)10月27日に叔父の光明天皇から譲位され即位。父である光厳上皇が院政を執った。皇太子には直仁親王が立てられた。実は直仁は光厳上皇が花園法皇の妃との間に産ませた子供であり、直仁の母が赤橋登子(足利尊氏の正室)の遠縁にあたることから、光厳上皇は幕府との関係によって直仁の子孫が皇位を継ぐのが望ましく、崇光天皇を「一代主」として位置づけようとしたのである[3]。
その後、足利家の内紛から観応の擾乱が起こると、観応2年(正平6年、1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、北朝は消滅。11月7日にいたって正式に廃位された。
正平7年(1352年)2月、南朝は京都から足利義詮の軍勢を排除して占領下においた。このとき、光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁ら北朝の主だった皇族は南朝の本拠である賀名生へ拉致された。正平一統は破綻し、北朝は天皇の候補者となる皇子・次期天皇の任命権者である上皇(治天)のいずれも南朝方に連れ去られてしまったため、再興に多大な困難が生じた。たまたま南朝による拉致をまぬがれた光厳の第3皇子弥仁が擁立され、祖母広義門院が光厳に代わって任命する形式をとって即位した。これが後光厳天皇である。
賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、正平9年(1354年)3月には河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると南朝の後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、正平10年(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。
金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、正平12年(1357年)2月に光厳院、直仁親王とともに帰京する。不測の事態で皇位を追われた崇光院と、やはり偶然に皇位についた後光厳との関係は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの子息緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求して争った(直仁親王は既に出家)が、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。さらに永徳2年(1382年)4月に後円融が皇子幹仁(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光は栄仁の即位を要求したが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し、後円融を強く支持したため、栄仁の即位は実現しなかった。
応永5年(1398年)1月13日、失意のうちに崩御。宝算65。
なお、没後30年目の正長元年(1428年)、貞成親王の子で、崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、二人の息子に先立たれて後継者を失った後小松院の猶子として即位し、崇光の皇統が復活した。その後も後花園の正式な父親は後小松なのか貞成なのかをめぐって議論が起きるなど、不安定要素は残ったが、貞成が天皇の実父として太上天皇の尊号を獲得するにいたって、ついに崇光の皇統が正統な皇統として定着することになった。ちなみに貞成が死後に上皇として贈られた諱はその名も後崇光院であった。
諡号・追号・異名
遺詔により「崇光院」の院号が定められた。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町秦長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。光明天皇陵・治仁王墓と同兆域である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
参考文献
- 家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月、pp.104-125。