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[[寛永]]3年([[1626年]])、[[徳川家光]]の上洛に随行し、[[従五位|従五位下]][[甲斐国|甲斐守]]に叙任された。寛永4年([[1627年]])、飛び地となっていた[[伊予国]]の領地を、摂津[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]、[[川辺郡]]内に移転される。寛永13年([[1636年]])、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。
[[寛永]]3年([[1626年]])、[[徳川家光]]の上洛に随行し、[[従五位|従五位下]][[甲斐国|甲斐守]]に叙任された。寛永4年([[1627年]])、飛び地となっていた[[伊予国]]の領地を、摂津[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]、[[川辺郡]]内に移転される。寛永13年([[1636年]])、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。


寛永18年([[1641年]])より、[[京都]][[御室]]の[[仁和寺]]の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、[[花園 (京都市)|花園]]の[[妙心寺]]近辺に仮寓した縁で、妙心寺の[[愚堂]]禅師に参禅するようになった。[[明暦]]2年([[1656年]])、摂津の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]で中国より渡来した禅師[[隠元隆|隠元]]と知遇を得た。[[万治]]2年([[1659年]])2月、摩耶山麓に[[佛日寺]]を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の[[慧林性機]]を招致した。
寛永18年([[1641年]])より、[[京都]][[御室]]の[[仁和寺]]の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、[[花園 (京都市)|花園]]の[[妙心寺]]近辺に仮寓した縁で、妙心寺の[[愚堂]]禅師に参禅するようになった。[[明暦]]2年([[1656年]])、摂津の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]で中国より渡来した禅師[[隠元隆|隠元]]と知遇を得た。[[万治]]2年([[1659年]])2月、摩耶山麓に[[佛日寺]]を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の[[慧林性機]]を招致した。


[[寛文]]3年([[1663年]])、摂津川辺郡の[[多田神社|多田院]]再興の奉行も務めた。寛文7年([[1667年]])には、[[萬福寺]]の[[本堂|大雄宝殿]]が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。
[[寛文]]3年([[1663年]])、摂津川辺郡の[[多田神社|多田院]]再興の奉行も務めた。寛文7年([[1667年]])には、[[萬福寺]]の[[本堂|大雄宝殿]]が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。

2020年8月2日 (日) 22:05時点における版

 
青木重兼
方広寺所蔵
時代 江戸時代前期
生誕 慶長11年12月29日1607年1月27日
死没 天和2年9月14日1682年10月14日
改名 重兼、端山性正(法名)
別名 源五(通称)、重壽
戒名 竹岩院殿端山性正大和尚
墓所 兵庫県三田市末吉の方広寺
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
摂津麻田藩
氏族 青木氏
父母 青木可直関右京亮
青木一重
兄弟 重兼谷衛之室、直澄[1]直影[2]
朝倉庄三郎
酒井忠利養女
マン、可一 重正
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青木 重兼(あおき しげかね)は、江戸時代前期の大名重壽(しげなか)とも言う。摂津国麻田藩2代藩主。官位従五位下甲斐守

略歴

慶長11年(1606年)、旗本青木可直[3]の長男として播磨国姫路にて誕生。慶長15年(1610年)、徳川家康に初めて拝謁する。

麻田藩初代藩主・青木一重には嗣子がなく、正重を養嗣子として迎えていたが、大坂の陣および豊臣氏の滅亡を機に病気を理由に廃嫡して[4]元和5年(1619年)の一重の隠居に伴い、その養嗣子となって麻田藩1万石を継いだ。

寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行し、従五位下甲斐守に叙任された。寛永4年(1627年)、飛び地となっていた伊予国の領地を、摂津豊島郡川辺郡内に移転される。寛永13年(1636年)、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。

寛永18年(1641年)より、京都御室仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、花園妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。明暦2年(1656年)、摂津の普門寺で中国より渡来した禅師隠元と知遇を得た。万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に佛日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致した。

寛文3年(1663年)、摂津川辺郡の多田院再興の奉行も務めた。寛文7年(1667年)には、萬福寺大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。

隠元の招きにより明暦元年(1655年)に木庵性瑫が中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。この木庵を開山として、寛文10年(1670年)に江戸に瑞聖寺を創建した。 寛文12年(1672年)12月9日、隠居(致仕)した。重兼には女児しか子がなかったため、婿養子として重成(重正)[5]を迎えて家督を譲った。

以上のような縁もあり、重兼は仏門に傾倒しており、延宝7年(1679年)に萬福寺第2代住持となっていた木庵の下で出家した。僧名は端山性正という。その後、川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた。後には自らがその2世住持となった。

天和2年(1682年)、麻田において死去した。享年77。

系譜

脚注

  1. ^ 可直の後を継ぐ。旗本2,000石。
  2. ^ 兄直澄の養子となる。
  3. ^ 青木重直の子で、初代麻田藩主青木一重の四弟。家康に仕えており、のち一重から分与を受けて旗本2千石。
  4. ^ 一重と正重は共に豊臣方として大坂冬の陣に参戦。夏の陣は正重が参戦し、青木家は形式上、最後まで豊臣方の臣として戦っている。戦後、青木家は徳川家に敵した件を赦免されている。
  5. ^ a b 駿河大納言徳川忠長の家臣。

参考文献