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|名 =光武帝 劉秀
|名 =光武帝 劉秀

2020年8月11日 (火) 23:55時点における版

光武帝 劉秀
後漢
初代皇帝
光武帝肖像
王朝 後漢
在位期間 25年8月5日 - 57年3月29日
都城 雒陽(洛陽)
姓・諱 劉秀
文叔
諡号 光武皇帝
廟号 世祖
生年 建平元年12月6日
前5年1月15日
没年 建武中元2年2月5日
57年3月29日
南頓県令劉欽
樊嫻都
后妃 郭聖通
陰麗華
陵墓 原陵
年号 建武 : 25年 - 56年
建武中元 : 56年 - 57年
光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年[1])は、後漢王朝の初代皇帝

王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された[2]。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。

生涯

出生

劉秀は景帝の七男で長沙王となった劉発の末裔である。幼少の頃は非常に慎重かつ物静かな性格とされていた。のちに、憧れの陰麗華を娶ることとなる。

景帝
 
長沙定王劉発
 
舂陵節侯劉買
 
舂陵戴侯劉熊渠
 
舂陵孝侯劉仁
 
舂陵康侯劉敞
 
劉祉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉慶
 
劉順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉憲
 
劉嘉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蒼梧太守劉利
 
劉子張
 
更始帝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉騫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉□
 
劉顕
 
劉信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉賜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鬱林太守劉外
 
鉅鹿都尉劉回
 
南頓県令劉欽
 
劉縯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蕭県令劉良
 
 
劉仲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光武帝
 

赤眉軍・緑林軍

王莽が禅譲により新朝を開くと、代の政治を理想として現実を無視した政策を実施したため、民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴西羌高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。

14年天鳳元年)、山東琅邪郡呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、いったん集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、18年(天鳳5年)、同郷の樊崇が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。政府軍である太師軍(太師王匡 )と更始軍(更始将軍廉丹)は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」[3]と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。

22年地皇3年)冬、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。

挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。

まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉縯が淯陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。

23年更始元年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、政府軍に63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。政府軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。政府軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により大敗を喫した(昆陽の戦い)。

昆陽の勝利に前後して劉縯も宛城を落城させている。これにより劉縯・劉秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。劉玄即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝から官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉縯は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉縯の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。

昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始軍に合流し、更始軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽長安(当時は常安)を陥落させ、更始帝は洛陽、長安(当時は常安)へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近たちに昆陽での戦功と劉縯の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いるべし」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。

河北転戦

23年(更始元年)冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎成帝の落胤であると称し劉林李育らと挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は鄧禹王覇馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。

その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠萬脩、和成郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植耿純が陣営に加わる。任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。

劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(のちの郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。

こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢蓋延王梁(以上漁陽)、景丹寇恂耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。

劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。

即位

25年建武元年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。

この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後殺害される。その赤眉軍も長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。27年(建武3年)、光武帝(劉秀)の派遣した大司徒鄧禹・征西大将軍馮異は赤眉軍攻撃を行う。一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。

30年(建武6年)には山東を平定、33年(建武9年)には隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ(34年建武10年)、36年(建武12年)に公孫述を滅ぼし、ここに中国統一を達成した。

統一後

光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽をそのまま都城とした。漢王朝を火徳とする光武帝は洛のサンズイを嫌い、洛陽を雒陽と改めた[4]

また光武帝は中国統一と前後して奴卑の解放や租税の軽減、軍士の帰農といった政策により王朝の基礎となる人民の生活の安定を図る一方、統治機構を整備して支配を確立した(後述)。

56年建武中元と改元して封禅の儀式を実施し、その翌年に死去した。

政策

民政・財政

前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた[5]。この対策として光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。徴兵制を廃止して、通常は農業生産に従事させ有事に兵となす屯田兵を用い、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。

人民の身分に関する政策としては上記の奴卑解放令の他、35年(建武11年)には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)[6]」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言したことが挙げられる。また31年(建武7年)に売人法、37年(建武13年)に略人法を公布し人身売買を規制した。

租税については、それまで王朝の軍事財政の不足を理由に収穫の1/10としていたのを30年(建武6年)に前漢と同じく1/30とし、人民の不満の緩和を図った。この減税が可能となった背景として、屯田の施行により兵士の糧食を確保できるようになったことがある。

徴兵を帰農させた後、39年(建武15年)に耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。もっとも、この耕地・戸籍調査の際には首都のある河南郡や皇帝の郷里である南陽郡で不正申告がおこなわれた。両郡の豪族が権勢を有していたことを示す事件である。また調査に不満を抱いた地方豪族が農民を糾合して反乱をおこすこともあった。

王莽が貨幣制度を混乱させたため後漢初期には粗悪な貨幣が流通していたが、40年(建武16年)には前漢武帝以来の五銖銭の鋳造が始められ、貨幣制度が整備された。以上により統一王朝としての後漢王朝の実体がほぼ備わった。

統治機構

光武帝期における統治機構の整備としては次のようなものが挙げられる。

後漢は前漢の統治機構を踏襲して郡国制を採用したが、諸侯王・列侯の封邑は前漢に比してきわめて小さいものであった。諸侯王の封邑も1郡に過ぎず、功臣を封侯しても多くとも数県を与えるのみであった。王莽が廃した前漢の諸侯王で光武帝の即位時に地位を回復されたものも37年(建武13年)には列侯に格下げされ、その後に光武帝期に諸侯王とされたのはかれの同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみであった。

中央政府には大司徒大司空大司馬三公を政治の最高責任者として設けた。もっとも、政治の実務上は皇帝の秘書たる尚書が重用された。その他、官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。

また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり[7]、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした[8]

儒教の振興

光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。29年(建武5年)、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせたり14名の五経博士を設けた[9]他、時期を同じくして各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった[10]

また、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視され、36年(建武12年)には三公らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう規定された[11]。さらに56年(建武中元1年)には洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。

光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事[12]や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった[13]。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。

対外政策

対外関係においては次のような施策をおこなった。

東方では朝鮮半島楽浪郡で後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6年)に討ち、郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。王莽が侯に格下げした高句麗32年(建武8年)に後漢に朝貢し、前漢末以来の王号が復活された。また57年(建武中元2年)には倭の奴国(委奴国という説もある)の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。

西方では35年(建武11年)に侵攻してきた族を馬援に撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。

南方では40年(建武16年)に交阯(現ベトナム北部)で生じた徴姉妹の反乱に対し、馬援を派遣してこれを鎮圧している。馬援は武力行使の一方で城郭の修復や灌漑用水の整備による農業の振興などをおこない、また当地の慣習法を漢法に優先させるなどし、郡県制の整備にあたって現地の習俗を尊重した。

北方では匈奴が王莽の強硬な外交政策に反発して以来勢力を増していた。光武帝は30年(建武6年)に和親の使者を送ったが、匈奴の侵寇は続いた。ところが48年(建武24年)に匈奴が内部抗争により南北に分裂し、南匈奴が後漢に帰順した。この分裂により烏桓鮮卑は匈奴から離脱した。光武帝は49年(建武25年)に烏桓の酋長を侯王に封じ、鮮卑の朝貢も受けた。北匈奴は後漢と和親して南匈奴を弱体化させるべく51年(建武27年)に使者を遣わした。光武帝は和親を認めず、一方で北匈奴を討伐する策もしりぞけ、絹帛などを与えて懐柔するにとどめた。

評価

南朝元帝の『金楼子』は、諸葛亮の見解として「光武帝の部将は韓信周勃に引けを取らず、謀臣は張良陳平に劣らないが、光武帝が神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。いっぽう高祖は粗略であったために張良・陳平・韓信・周勃が(奇策や攻略といった)賞賛されやすい功を挙げることとなった」[14]と記す。

資治通鑑』の著者司馬光は、「武力による天下統一から日を置かずして儒学を振興した光武帝の志は明帝・章帝に受け継がれ、200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、の三代が滅んで以来、教化による美風は後漢において最も盛んであった」と論じている[15]

人物

体形や容姿については身長7尺3寸(168cm)、莽の納言将軍・厳尤は降兵を尋問したおり、劉秀について「これ、須(あごひげ)と眉の美しき者なるか」と述べ、朱祜は宴席で「公には日角の相有り(額の上部が隆起して、太陽の如き角に見える)」と述べたことが伝わる。

新朝の天鳳年間に長安で『尚書』を修め、ほぼ大義に通じたという。周囲からは謹直な人物と見られており、兄の劉縯が挙兵した際に「伯升に殺される」と恐れて協力を拒んだ者たちが、劉秀も挙兵することを知り「謹厚な劉秀も挙兵するのか」と驚き、かつ安んじたという。また即位ののち故郷に行幸した際、宴席で宗族の諸母は「文叔は若い頃、慎み深くて、人と打ちとけて付き合う事がなかった。ただ生真面目で柔和なだけだった。今やこのような皇帝である[16]」と言った。光武帝はそれを聞いて笑って「我は天下を治めるも、また柔の道にて行わんと思う[17]」と言ったという。

庶民に落された舂陵康侯・劉敞の田租のことで時の大司馬・厳尤に堂々と陳情したり、劉縯の賓客の起こした事件に巻き込まれたこともある。姉湖陽長公主(黄)が、劉秀は無位無官の頃に逃亡者や死罪の者を匿ったことがある、と言ったことが記録されている。また、姉(元)婿の鄧晨と地方の官吏をからかって手配されたり、別件で新野で捕えられたりもしている。

銅馬軍数十万を降伏させたとき、降兵らがなお安心していないことを知って鎧もつけず巡察したため、降兵らは「蕭王は真心を持って人を信じて疑わぬ、命をかけてお助けしようではないか(蕭王、赤心を推して人の腹中に置く いずくんぞ死に投ぜざるをえんや)[18]」と語り合ったという。

皇帝に即位後の建武年間の初期、刺客が首都に横行する時期においても、微行を好んで遠くまで外出し、狩などで遊んで夜中に帰ったため、家臣の幾人かにしばしば諫められた。あまりに繰り返されたため、怒った家臣に門を閉ざされて閉め出しをくったことが少なくとも2度ある。

戦場では、多くの戦いで最前線に立って自ら得物を奮い、皇帝に即位後の鄧奉戦、劉永戦などでも、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦った。天下統一後は危急でなければ戦のことを口にせず、皇太子(後の明帝)が戦について尋ねても、「むかし、衛の霊公が軍事のことを問うても、孔子は答えなかった。これはおまえがかかわるべきことではない」[19]と答えなかった。

挙兵以前に、兄劉縯と姉婿鄧晨と宛に行き、穣人の蔡少公と語りあった時、図讖を学んだ蔡少公が「劉秀まさに天子となるべし」と言った。ある人は「これは国帥公劉秀(光武帝とは別人=改名後の劉歆)のことか」と言ったところ、劉秀は戯れて「俺のことじゃないとどうしてわかる?(何を用って僕にあらざるを知らんや)[20]」と発言し、一同の爆笑を誘ったことがある。また中原平定後に、隴西の隗囂から外交の使者として来た馬援と面会した時、軽装で警護も付けずに現れた光武帝に馬援が「私が刺客であったらどうされます」と言うと、「そなたは刺す客(刺客)ではなく説く客(説客)だ」などと洒落で返すなどしている。

太学で尚書を学んだ学識人であり、詔などいくつかの文章が直筆である。第五倫は光武帝の詔を読むたびに「聖主である」と感嘆したという。

雲台二十八将

後漢書』列伝12に「中興の二十八将、前代には天界の二十八宿に対応したという考えもあるが、はっきりとは分からない」とある。元々は明帝が永平年間に、前代の名臣列将に感じて、洛陽にある南宮の雲台に二十八将の絵を描かせたのが由来である。故に雲台二十八将と呼ばれる(雲台には、その後4人が加えられて三十二将となる)。これは光武帝の即位時に、主君を盛り立てた建国の将臣中から二十八人を、親族外戚を除いて選んだものである。また、耿弇耿純劉植と親・兄弟・従兄弟で功臣を輩出しても代表一将で、一族が重ならないように選ばれている。

二十八将軍で、挙兵以前から面識があるのは鄧禹、朱祜の2人だけであり、他の26人は自らの地位や地盤を放棄して馳せ参じてきた。星座の二十八宿にも擬せられ、正史たる『後漢書』にも二十八宿説が記載されることとなった。なお、この二十八将を論じた『後漢書』の文章は『文選』巻50・史論下に「後漢書二十八将伝論」として収められている。

序列順に挙げると

鄧禹呉漢賈復耿弇寇恂岑彭馮異朱祜祭遵景丹蓋延銚期耿純臧宮馬武劉隆馬成王梁陳俊杜茂傅俊堅鐔王覇任光李忠萬脩邳彤劉植

の28人である。

また、雲台には二十八将と並び李通竇融王常卓茂の4人も加えられ、計32人が顕彰された。「雲台三十二将」と称することもある。

なお、功臣の一人である馬援は、その娘が明帝の皇后(明徳馬皇后)となったため外された。

宗室

后妃

男子

  • 東海恭王 劉彊(母は郭皇后)長子
  • 沛献王 劉輔(母は郭皇后)次子
  • 楚王 劉英(母は許美人)三子
  • 明帝 劉荘(母は陰皇后)四子
  • 済南安王 劉康(母は郭皇后)五子
  • 東平憲王 劉蒼(母は陰皇后)六子
  • 阜陵質王 劉延(母は郭皇后)七子
  • 広陵思王 劉荊(母は陰皇后)八子
  • 臨淮懐公 劉衡(母は陰皇后)九子
  • 中山簡王 劉焉(母は郭皇后)十子
  • 琅邪孝王 劉京(母は陰皇后)十一子

女子

登場作品

テレビドラマ
小説

脚注

  1. ^ 生年月日:建平元年十二月甲子(『後漢書』本紀1下の崩御以降の記述でユリウス暦にすれば、前5年1月15日)、没年月日:建武中元二年二月戊戌(ユリウス暦:57年3月29日)。建平元年は前6年であるので、建平元年生まれは前6年扱いになる。したがって、数え年で計算する享年は前6年から57年の63になる(西暦に基づく満年齢では61歳)。
  2. ^ 『後漢書』光武帝紀の李賢注は『逸周書』諡法解を引いて「能く前業を紹(つ)ぐは光と曰い、禍乱を克定するは武と曰う」とする。もっとも諡法解は光諡については述べていない。
  3. ^ 原文「寧逢赤眉、不逢太師、太師尚可、更始殺我」(『漢書』王莽伝第69下)
  4. ^ 漢書』巻28上・地理志上・河南郡条の注に引く魚豢『魏略』。
  5. ^ 『続漢書』志19・郡国志1の注に引く『帝王世紀』
  6. ^ 『孝経』聖治章第9の引用
  7. ^ 『続漢書』志26・百官志3・少府条
  8. ^ 同上・大司農条
  9. ^ 『後漢書』列伝69上・儒林列伝
  10. ^ 『後漢書』儒林列伝では、儒学者がそれぞれの在地で儒学を講じたことが各々の本伝で記されている。
  11. ^ 『続漢書』志24・百官志1・大尉条の注に引く『漢官目録』
  12. ^ 大司空・王梁、行大司馬・孫咸。ただし大司馬にはまもなく呉漢が就任した。『後漢書』列伝12・王梁伝、同・景丹伝。
  13. ^ 『後漢書』列伝18上・桓譚伝、列伝26・鄭興伝、列伝69上・尹敏
  14. ^ 『金楼子』巻4・立言下
  15. ^ 『資治通鑑』巻68・漢紀60・建安24年条
  16. ^ 原文「文叔少時謹信、與人不款曲、唯直柔耳、今廼能如此」 (『後漢書』本紀1下)
  17. ^ 原文「吾理天下、亦欲以柔道行之」 (『後漢書』本紀1下)
  18. ^ 原文「蕭王推赤心置人腹中、安得不投死乎」(『後漢書』本紀1上)
  19. ^ 原文「昔衛霊公問陣、孔子不対、此非爾所及」 (『後漢書』本紀1下)
  20. ^ 原文「何用知非僕邪」(『後漢書』鄧晨伝)

参考文献