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[[2002年]]オフFAを取得すると、[[1999年]]限りで資金難により解散となった古巣サンバンウルの選手が中心となって創設されたSKワイバーンズへと移籍した。[[2004年]]には34本塁打で自身2度目の本塁打王に輝いた。1994年から[[2008年]]まで15年連続で100試合以上に出場し続け、35歳を超えても不動の正捕手として、2007,08年のSKの韓国シリーズ2連覇に貢献した。
[[2002年]]オフFAを取得すると、[[1999年]]限りで資金難により解散となった古巣サンバンウルの選手が中心となって創設されたSKワイバーンズへと移籍した。[[2004年]]には34本塁打で自身2度目の本塁打王に輝いた。1994年から[[2008年]]まで15年連続で100試合以上に出場し続け、35歳を超えても不動の正捕手として、2007,08年のSKの韓国シリーズ2連覇に貢献した。


国内での実績に比べ、国際大会への出場は少なく、[[2000年シドニーオリンピック]]では[[洪性フン|洪性炘]](ホン・ソンフン)との併用もあり出番は少なかった。久しぶりに[[野球韓国代表|韓国代表]]に選ばれた2009年[[ワールド・ベースボール・クラシック]]では、若手の[[姜ミン鎬|姜珉鎬]]を差し置いて老練なリードで投手陣を支え、決勝進出に貢献した。だが[[2009年]]シーズンは、[[アキレス腱]]断絶で前半戦しか出場できず、チームも韓国シリーズ3連覇を逃した。[[2010年]]は正捕手の座に復帰し、SKを2年ぶりの公式戦優勝に導いた。[[2011年]]は、古傷のアキレス腱が再発し、長期離脱するほど不本意なシーズンになった。だが同僚だった[[金圓衡]](2011年引退)と並んで、現役選手として実働21年と韓国プロ野球史上最長記録を更新した。2012年も1軍試合出場数がたった8試合と前年より減少したが、実働22年の韓国プロ野球史上最長記録を更新し続けた。2013年も1軍の試合数に出場し実働23年と最長記録を更新したが、この年も8試合の出場にとどまり、シーズン終了後に現役引退を表明。翌2014年は、SKの2軍監督に就任し指導者へ転身した。
国内での実績に比べ、国際大会への出場は少なく、[[2000年シドニーオリンピック]]では[[洪性フン|洪性炘]](ホン・ソンフン)との併用もあり出番は少なかった。久しぶりに[[野球韓国代表|韓国代表]]に選ばれた2009年[[ワールド・ベースボール・クラシック]]では、若手の[[姜珉鎬]]を差し置いて老練なリードで投手陣を支え、決勝進出に貢献した。だが[[2009年]]シーズンは、[[アキレス腱]]断絶で前半戦しか出場できず、チームも韓国シリーズ3連覇を逃した。[[2010年]]は正捕手の座に復帰し、SKを2年ぶりの公式戦優勝に導いた。[[2011年]]は、古傷のアキレス腱が再発し、長期離脱するほど不本意なシーズンになった。だが同僚だった[[金圓衡]](2011年引退)と並んで、現役選手として実働21年と韓国プロ野球史上最長記録を更新した。2012年も1軍試合出場数がたった8試合と前年より減少したが、実働22年の韓国プロ野球史上最長記録を更新し続けた。2013年も1軍の試合数に出場し実働23年と最長記録を更新したが、この年も8試合の出場にとどまり、シーズン終了後に現役引退を表明。翌2014年は、SKの2軍監督に就任し指導者へ転身した。


2014年3月10日、現代ユニコーンズ、SKワイバーンズで現役時代につけていた背番号26が球団初の[[永久欠番]]に指定された。同年4月5日、[[文鶴野球場]]で引退と永久欠番を表彰するセレモニーが実施された。2014年10月、SKの育成総括、2015年10月、SKの一軍バッテリーコーチに転任。コーチとしての背番号は、永久欠番とは違う番号を着用している。
2014年3月10日、現代ユニコーンズ、SKワイバーンズで現役時代につけていた背番号26が球団初の[[永久欠番]]に指定された。同年4月5日、[[文鶴野球場]]で引退と永久欠番を表彰するセレモニーが実施された。2014年10月、SKの育成総括、2015年10月、SKの一軍バッテリーコーチに転任。コーチとしての背番号は、永久欠番とは違う番号を着用している。

2020年8月15日 (土) 04:27時点における版

朴 勍完(パク・キョンワン)
Park Kyung-Oan
SKワイバーンズ 監督代行 #80
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
出身地 全羅北道全州市
生年月日 (1972-07-11) 1972年7月11日(52歳)
身長
体重
178 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1990年 ドラフト外でサンバンウル・レイダースに入団
初出場 1991年
最終出場 2013年6月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 大韓民国の旗 大韓民国
五輪 2000年
WBC 2009年
オリンピック
男子 野球
2000 野球
パク・キョンワン
各種表記
ハングル 박경완
漢字 朴勍完
発音: パッキョンワン
英語表記: Park Kyung-Oan
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朴 勍完(パク・キョンワン、朝鮮語: 박경완1972年7月11日 - )は、韓国全羅北道全州市出身の元プロ野球選手、野球指導者。

経歴

1991年、テスト生としてドラフト外でサンバンウル・レイダースに入団。当初は1次ドラフトでの指名を受けて入団した、高校の同期で親友である金圓衡(キム・ウォンヒョン)のお陰で球団に拾われたと見られた。しかし、本人の重ねた努力の結果、1軍での出場を果たし、徐々に出場回数を増やした。

1994年102試合に出場し、サンバンウル・レイダースの正捕手に定着すると、強肩強打の捕手として名をはせ、盗塁阻止率リーグトップの.433を残した。だが親会社の経営不振により、1998年現代ユニコーンズへ金銭トレードされた。トレード額は当時史上最高であった9億ウォンだった。現代では2000年に韓国プロ野球史上初の4打席連続本塁打を含む40本塁打で本塁打王、レギュラーシーズンMVPを受賞し、チームの韓国シリーズ優勝に貢献した。

2002年オフFAを取得すると、1999年限りで資金難により解散となった古巣サンバンウルの選手が中心となって創設されたSKワイバーンズへと移籍した。2004年には34本塁打で自身2度目の本塁打王に輝いた。1994年から2008年まで15年連続で100試合以上に出場し続け、35歳を超えても不動の正捕手として、2007,08年のSKの韓国シリーズ2連覇に貢献した。

国内での実績に比べ、国際大会への出場は少なく、2000年シドニーオリンピックでは洪性炘(ホン・ソンフン)との併用もあり出番は少なかった。久しぶりに韓国代表に選ばれた2009年ワールド・ベースボール・クラシックでは、若手の姜珉鎬を差し置いて老練なリードで投手陣を支え、決勝進出に貢献した。だが2009年シーズンは、アキレス腱断絶で前半戦しか出場できず、チームも韓国シリーズ3連覇を逃した。2010年は正捕手の座に復帰し、SKを2年ぶりの公式戦優勝に導いた。2011年は、古傷のアキレス腱が再発し、長期離脱するほど不本意なシーズンになった。だが同僚だった金圓衡(2011年引退)と並んで、現役選手として実働21年と韓国プロ野球史上最長記録を更新した。2012年も1軍試合出場数がたった8試合と前年より減少したが、実働22年の韓国プロ野球史上最長記録を更新し続けた。2013年も1軍の試合数に出場し実働23年と最長記録を更新したが、この年も8試合の出場にとどまり、シーズン終了後に現役引退を表明。翌2014年は、SKの2軍監督に就任し指導者へ転身した。

2014年3月10日、現代ユニコーンズ、SKワイバーンズで現役時代につけていた背番号26が球団初の永久欠番に指定された。同年4月5日、文鶴野球場で引退と永久欠番を表彰するセレモニーが実施された。2014年10月、SKの育成総括、2015年10月、SKの一軍バッテリーコーチに転任。コーチとしての背番号は、永久欠番とは違う番号を着用している。

2020年6月25日、廉京燁監督が試合中に倒れその後も安静が必要で指揮が執れないため、暫定的にSKの監督代行となった。

プレースタイル

2010年、捕手として韓国プロ野球史上初の300本塁打を達成するなど長打力があり、選球眼も優秀。打率は低いが出塁率はレギュラー定着後、毎年3割以上記録している。

しかし、打撃は相手投手の配球を呼んで狙い撃ちするスタイルで、読みを外されると空振りするケースも多く個人通算最多三振の記録を持っている。

また2010年には個人通算最多死球(165個)の記録を更新したが、2017年に崔廷がさらに更新した。

強肩でホームを体を張って守るプレーが際立ち、リードも巧み。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1991 サンバンウル 10 8 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 6 0 .000 .250 .000 .250
1992 31 52 49 5 11 1 0 3 21 6 0 0 0 0 3 0 0 13 2 .224 .269 .429 .698
1993 26 57 48 1 10 2 0 0 12 2 0 0 4 0 3 0 2 14 0 .208 .283 .250 .533
1994 102 274 240 31 57 8 2 14 111 31 0 2 4 0 25 0 5 75 3 .238 .322 .463 .785
1995 121 429 361 48 82 13 2 19 156 46 5 2 4 0 56 4 8 100 5 .227 .344 .432 .776
1996 126 480 367 58 80 19 2 15 148 74 2 5 24 10 60 3 19 113 6 .218 .349 .403 .752
1997 82 314 239 46 67 15 1 16 132 48 2 3 5 4 58 1 8 59 7 .280 .430 .552 .983
1998 現代 123 458 404 54 101 25 1 19 185 66 3 3 7 2 39 0 6 103 10 .250 .324 .458 .782
1999 124 467 367 67 81 16 1 23 168 67 2 2 18 2 72 2 8 95 9 .221 .359 .458 .816
2000 130 517 408 83 115 16 0 40 251 95 7 4 6 4 87 7 12 112 7 .282 .419 .615 1.034
2001 130 528 421 66 108 13 1 24 195 81 21 8 6 3 91 2 7 121 9 .257 .395 .463 .858
2002 119 398 330 42 67 10 1 19 136 42 6 4 12 3 47 4 6 108 6 .203 .311 .412 .723
2003 SK 122 428 336 49 84 16 2 15 149 60 6 6 21 3 59 2 9 93 8 .250 .374 .443 .817
2004 132 526 410 94 121 19 1 34 244 79 2 5 6 2 94 3 14 126 9 .295 .440 .595 1.036
2005 114 425 347 43 85 17 0 11 135 44 1 4 8 6 57 7 7 100 6 .245 .357 .389 .746
2006 111 380 324 38 82 13 0 13 134 51 2 2 6 4 37 5 9 91 5 .253 .342 .414 .756
2007 119 437 352 60 87 21 1 15 155 60 6 3 11 9 55 4 10 68 9 .247 .357 .440 .797
2008 101 370 304 44 83 17 0 7 121 36 6 4 7 5 48 0 6 64 8 .273 .377 .398 .775
2009 65 246 198 32 53 10 0 12 99 38 3 1 11 2 33 2 2 39 5 .268 .375 .500 .875
2010 129 472 381 51 100 20 0 14 162 67 1 1 15 3 46 2 27 88 11 .262 .379 .425 .804
2011 10 16 15 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 6 2 .133 .188 .133 .321
2012 8 23 20 0 2 0 0 0 2 0 0 0 2 0 1 0 0 6 2 .100 .143 .100 .243
2013 8 21 19 1 2 0 0 1 5 1 0 0 1 0 0 0 1 5 1 .105 .150 .263 .413
KBO:23年 2043 7326 5946 913 1480 271 15 314 2723 995 75 59 178 62 974 48 166 1605 130 .249 .367 .458 .825
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高

タイトル

その他

背番号

  • 80(1991年 - 1992年、2016年 - )
  • 28(1993年 - 1997年)
  • 26(1998年 - 2013年)
  • 72(2014年)

関連項目

外部リンク