コンテンツにスキップ

「新居善太郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
tag
Cewbot (会話 | 投稿記録)
9行目: 9行目:
[[栃木県立佐野高等学校・附属中学校|佐野中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1921年]]6月、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]法律学科(英法)を卒業。[[1922年]]2月、[[内務省 (日本)|内務省]]に入り[[東京府]]属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、[[高等文官試験|高等試験行政科試験]]に合格。
[[栃木県立佐野高等学校・附属中学校|佐野中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1921年]]6月、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]法律学科(英法)を卒業。[[1922年]]2月、[[内務省 (日本)|内務省]]に入り[[東京府]]属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、[[高等文官試験|高等試験行政科試験]]に合格。


[[1923年]]3月、[[広島県]][[佐伯郡]]長に就任。[[1926年]]5月[[復興局 (内務省)|復興局]]建築部に[[事務官]]として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、[[土地区画整理事業]]の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼[[内閣総理大臣]][[秘書官]]([[斎藤実]]総理)、兼[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。[[1934年]]には内務[[書記官]]・土木局道路課長、[[1936年]]には同河川課長となり、さらに兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官([[河原田稼吉]]大臣)・[[大臣官房]]人事課長を務める。
[[1923年]]3月、[[広島県]][[佐伯郡]]長に就任。[[1926年]]5月[[復興局 (内務省)|復興局]]建築部に[[事務官]]として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、[[土地区画整理事業]]の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼[[内閣総理大臣]][[秘書官]]([[斎藤実]]総理)、兼[[文部大臣]]秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。[[1934年]]には内務[[書記官]]・土木局道路課長、[[1936年]]には同河川課長となり、さらに兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官([[河原田稼吉]]大臣)・[[大臣官房]]人事課長を務める。


[[1938年]]11月、[[厚生省]]社会局長兼臨時軍事援護部長に就任。[[1940年]]8月、[[鹿児島県庁|鹿児島県]]知事となる。[[1941年]]、内務省国土局発足に伴い、初代局長に就任。以後、[[1943年]]に同地方局長、[[1944年]]、[[京都府庁|京都府]]知事、[[1945年]]に[[大阪府庁|大阪府]]知事に就任。[[1946年]]1月、大阪府知事を退任し、同年9月から[[1951年]]8月まで[[公職追放]]となった。
[[1938年]]11月、[[厚生省]]社会局長兼臨時軍事援護部長に就任。[[1940年]]8月、[[鹿児島県庁|鹿児島県]]知事となる。[[1941年]]、内務省国土局発足に伴い、初代局長に就任。以後、[[1943年]]に同地方局長、[[1944年]]、[[京都府庁|京都府]]知事、[[1945年]]に[[大阪府庁|大阪府]]知事に就任。[[1946年]]1月、大阪府知事を退任し、同年9月から[[1951年]]8月まで[[公職追放]]となった。

2020年12月30日 (水) 09:16時点における版

新居善太郎

新居 善太郎(あらい ぜんたろう、1896年1月16日 - 1984年1月12日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。公園緑地施策にも多く関わった。

来歴・人物

栃木県足利市出身。染料商・新居倉造の四男として生まれる。

佐野中学第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1922年2月、内務省に入り東京府属となり、内務部庶務課に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格。

1923年3月、広島県佐伯郡長に就任。1926年5月復興局建築部に事務官として在勤。さらに同局建築部庶務課長を務め、市街地建築物法の法文案を起草、土地区画整理事業の実施に寄与する。以後、内務事務官・土木局勤務、兼内閣総理大臣秘書官斎藤実総理)、兼文部大臣秘書官(斎藤総理、大臣兼務)を歴任。1934年には内務書記官・土木局道路課長、1936年には同河川課長となり、さらに兼内務大臣秘書官(河原田稼吉大臣)・大臣官房人事課長を務める。

1938年11月、厚生省社会局長兼臨時軍事援護部長に就任。1940年8月、鹿児島県知事となる。1941年、内務省国土局発足に伴い、初代局長に就任。以後、1943年に同地方局長、1944年京都府知事、1945年大阪府知事に就任。1946年1月、大阪府知事を退任し、同年9月から1951年8月まで公職追放となった。

その後、日本公園緑地協会会長として全国の公園緑地の拡大を、公園緑地管理財団初代理事長として公園緑化を、道路緑化保全協会会長として道路の緑化を、それぞれ指導した。

また、日本万国博覧会政府出展「日本庭園」、国営武蔵丘陵森林公園沖縄国際海洋博覧会の記念公園などの基本計画構想策定委員長、国営昭和記念公園建設の基本問題懇談会座長などもつとめた。

また、次代を担う青少年の育成に関心を寄せ、社会福祉法人の恩賜財団母子愛育会の会長を最後まで務め、その他、全国防災協会会長、地方財政審議会会長などを歴任。

1982年、郷里である足利市の名誉市民に選ばれている。1984年1月12日死去。享年87。

家族・親族

著作等

  • 講述『市街地建築物法講義』復興局、1929年。
  • 内政史研究会『内政史研究資料』第228集~第245集、新居善太郎氏談話速記録 第1~18回、1974年 - 1983年。

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

外部リンク